デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
15節 造船・船渠業
1款 株式会社東京石川島造船所
■綱文

第11巻 p.599-606(DK110092k) ページ画像

明治19年(1886年)

是ヨリ先明治十五年頃、平野造船所経営者平野富二ノ為メニ栄一第一国立銀行ヨリ資金ノ融通ヲ計レリ。後更ニ華族宇和島ノ伊達家・鍋島家ニ説キテ出資ヲ促シ、共ニ其経営ヲ援ク。然レドモ更ニ資金ヲ必要トセルヲ以テ前二者ニ梅浦精一等ヲ加ヘテ是年同所ノ為メニ匿名組合ヲ組織ス。


■資料

東京石川島造船所五十年史〔昭和五年一二月〕 【序 子爵 渋沢栄一】(DK110092k-0001)
第11巻 p.599 ページ画像

東京石川島造船所五十年史〔昭和五年一二月〕
    序
 東京石川島造船所五十年史の編纂成り、余に序を徴せらる。回顧すれば余が直接本社の経営に参与せしは明治二十二年、其株式会社として創立せられたる時よりなれども、其関係は既に明治十三四年頃、平野富二君の懇請に因り、本社の前身たる石川島平野造船所に対して、余の主宰せる第一銀行より資金の融通を為したるに始まれり。
 余は海を距ること遠き武州の平野に生れたれば、当時未だ海運業の要務たることを暁らず、随つて造船業に就ても更に関心する所なかりしが、平野君の屡余を訪問して、詳に英蘭諸国の海外発展の実状を語り、造船業の振作は、我日本の如き四面環海の国に於て最も急務なる所以を力説せらるゝに及び、遂に其熱誠に動かされ、進んで之を援助するに至れるなり。然りと雖も、海運業の未だ発達せざる当時の我が造船業は、固より有利の事業といふべからず。第一銀行は主として国家の進運に貢献すべき事業を援助するを方針とすれども、本来営利の会社なれば、欠損をも顧みずして平野君を援助する能はざるや論なき所なり。されば銀行よりの融通も、十分に平野君の希望を満たしむること能はざりき。因りて明治十八年、余は銀行とは別途に、予て親交ありし華族鍋島家及び宇和島伊達家に説きて出資を促し、之に余の出資を合して平野造船所の事業資金に充てしめたり。是れ即ち余が個人として斯業に関係せし最初なり。然るに同所の事業は、右の資金を以てするも尚未だ潤沢ならず、為めに更に数名の出資者を加へて匿名組合を組織したるが、○下略
  昭和五年十一月
                  子爵 渋沢栄一


本木昌造 平野富二 詳伝 第一四〇―一四一頁〔昭和八年四月〕(DK110092k-0002)
第11巻 p.599-600 ページ画像

本木昌造 平野富二 詳伝 第一四〇―一四一頁〔昭和八年四月〕
贈従五位 平野富二先生伝記
    海軍省附属石川島ドツク拝借願
 - 第11巻 p.600 -ページ画像 
      奉願候口上書
一、東京築地二丁目二十番地平野富二奉申上候、当府下石河島修船所之儀は往々兵機局え御纏め相成候趣伝承仕候、就而者右御場所に附属有之ダラーイドツク之儀は差当り御不用に相成可申儀と奉存候に付、自然御貸渡相成候はゝ何卒私え奉願度、私儀先年来既に西洋形船舶修覆或は新規打建等、夙に長崎港小菅浦に在之処之ペーテントスレツプは朝廷に御買上相成候以来、乍不省私壱人に《(イて)》不担当いたし三ケ年間四十有余艘之修覆仕候、其他立神浦造船場え長五百尺幅百拾尺のダラーイドツク之堀立之儀建言仕候処、伺済之上速に許可を得着手仕候処御都合に依而工部省え引継相成、現今工部省にて御建築相成候場所則是也、右実際上に於而試検仕候手続《(イ験)》も有之、殊に駅逓寮所轄の横浜製鉄所を五ケ年間拝借いたし昨今漸方法相立候場合に立至り申候間、右製鉄所に而は何れも船舶之修覆ならでは一局維持成がたく、然る時はドツク《(イ右ドツク)》は此製鉄所において闕へからざる必用之場所に付御払下をも相願度志願に候得共、只今右製鉄所創業之際一時金調も出来兼候間、当分之処其筋之御役員壱名御検査相願修船之噸数に寄相当之益金上納を以御貸渡被下度、左候はゞ不遠金調仕御払下相願度奉存候、御許可被下候はゞ両場所互に体裁を全備し始て其宜敷を得可申間、速に其筋え御申立被下度、不顧恐縮以書面奉願上候也
  明治九年子六月十四日
                第一大区拾小区
                  築地二丁目二十番地
                    平野富二
                 戸長 岡崎豊作
    東京府権知事 楠本正隆殿


東京石川島造船所五十年史 第一〇―一五頁〔昭和五年一二月〕(DK110092k-0003)
第11巻 p.600-602 ページ画像

東京石川島造船所五十年史 第一〇―一五頁〔昭和五年十二月〕
    二、平野造船所時代
        自明治九年 至同二十一年
 明治九年(一八七六年)石川島に於ける政府の造船工場が全く閉鎖され、その機械及び建物の殆ど全部が、築地兵器局に移転さるゝに及び、予て造船業に熱心なりし長崎の人平野富二氏は、兵庫出身の稲木嘉助氏と協力して、こゝに自ら船舶造修工場設立の計画を樹て、同年十月海軍省にその允許を乞ひ、石川島工場跡敷地の借用を許され、新たに工場を建築してこれを石川島平野造船所と称し、その月より営業を開始したり。これ我国に於ける民間経営の西洋型船舶製造所の嚆矢となす。
 平野氏は壮年長崎に在つて造船技術と汽船操縦の事を習得し、後幕末の変に際して江戸長崎間の海上を往来し夙に航海業振興の必要を痛感したりしが、その後明治二年(一八六九年)政府に建議して長崎立神浦に一大乾船渠を開鑿し、早くも造船の事に携はり、次いで政府の長崎製鉄所兼小菅造船所長を拝命したるが、明治四年(一八七一年)に至り官を退き、爾来東京に来つて恩師本木昌造翁経営の、活字製造
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の業に従事する事となれり。しかもその間年来の宿志なる造船業を忘るゝ能はず、偶々石川島工場の廃止さるゝを見て、この地の必ずしも船舶造修に適せざるにあらざるを思ひ、遂に意を決して海軍省に工場跡借用の儀を出願したるなり。
 されば氏は開業と同時に造船所の事業に全力を傾注し、往年の経験をもつて、自ら率先所員職工を督励して、大いに業務の発展を図りたる為、開業の翌十年には外車汽船五隻、双螺汽船一隻及び帆船五隻を建造し、翌十一年には汽帆船合して十隻、その総噸数一千一百七十一噸を建造し、爾来年々汽船帆船の新造さるゝもの数隻を超え、業績大いに上らんとするものあり。されば時の先覚福沢諭吉氏の如き、明治十一年(一八七八年)一月七日、双螺汽船通快丸進水の日には、自ら来つてその式に列し、一場の祝辞を述べて、造船業の振作最も緊切なるの秋、平野氏が敢然独力を以てこの難業に当り、日本の材木と銅鉄とを用ひて、よく優秀なる西洋型汽船を製造し得たる功績を讃え、且つその業の益々隆盛して、海国の進運に貢献する大ならん事を希望せり。
 然れ共汽船操縦の事たる、その当時に在りては決して今日の如く一般的ならず、加ふるに交通運輸の事未だ爾く繁激ならざりし為、平野氏は自己経営の造船所に於て製造したる汽船を以て平野汽船組(東京湾汽船会社の前身にて明治十八年末創立)を創立して、航海業を経営し、又は自ら汽船を操縦して航路を開拓するなど、その苦心一方ならざるものあり。また是より先、造船技術発達の為、所内に職工養成所を設けて、良工の育成に努めたる事あり、以て当時の造船業の経営容易ならざりしを知るべく、氏の如何に努力したりしかをも察すべし。
 かくて漸次我国航海業の盛となるに及び、平野造船所に於ても、明治十五年(一八八二年)以後には、新造船の殆ど全部は汽船となりたるが、汽船は帆船に比してその利益豊かなるを得ず、加ふるに斯業の性質比較的多額の資金を要する為、経営の困難次第に甚しきを加へたれば、平野氏は当時既に財界に重きをなせし渋沢栄一氏に屡々乞ふて資金の調達を仰ぎたり。
 これより先、明治十二年(一八七九年)政府は幕府が横須賀海軍造船所と並立せしむる為、慶応元年横浜石川口に設立せし横浜製鉄所をも廃止したれば、平野氏は海軍省に出願してこれが借用を許され、横浜石川口製鉄所と改称し、英国人技師アーチボールド・キング氏を傭聘し、こゝに舶用機関及び諸機械の製造を開始したり。その後明治十七年(一八八四年)末東京と横浜とに工場を分立せしむる事甚だ不便なるにより、再度海軍省に出願して横浜工場に於ける家屋機械の一切を挙げてこれを石川島に移す事となり、こゝに石川島工場はその内容を夥しく充実するを得たり。
 しかも経営の困難は年と共に募り、翌十八年(一八八五年)一等砲艦鳥海建造の命に接せし頃にありては、我国の工業界一般に振はず、殊に平野造船所の如き個人の経営に属するものにありては、その維持最も艱難を極めしを以て、十九年(一八八六年)に至り、従前資金調達の援助を蒙りつゝありし渋沢栄一氏外二三氏の出資により、こゝに
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一の匿名組合を造り、更めてこれより資金の供給を受くる事となりたり。
 この間平野造船所は、当時未だ幼稚なりし我工業界に多種多様の機械類を供給して、産業の発達に貢献したる事決して少なしとせず。一方その本業とする造船工事に於ても漸く発展の緒に就かんとする航海運輸業に幾多の船舶を供給し、これ又斯業の発達に貢献したる処甚だ大なり。而して上記一等砲艦鳥海は、当時同社が民間造船所中最も完備せる設備を有したる処より、その製造を命ぜられたるものなるが、これ実に我国民間造船所に於て、起工せる最初の而して最大の軍艦なるのみならず、その姉妹艦摩耶(小野浜にて建造)愛宕(横須賀にて建造)と共に、我国に於て建造せられたる最初の鉄骨鉄皮の軍艦なり依つて同所にてはその起工後全力を挙げて完成に努め、二十年(一八八七年)八月二十日に至り恙なく進水の式を挙行したるが、当日は畏くも皇太子殿下(後の大正天皇)の行啓を仰ぎ、民間工場空前の光栄に浴したり。○下略


東京石川島造船所五十年史 附録・第二一一―二一六頁〔昭和五年一二月〕 【懐旧談片 一二、渋沢子爵と本社】(DK110092k-0004)
第11巻 p.602-604 ページ画像

東京石川島造船所五十年史 附録・第二一一―二一六頁〔昭和五年一二月〕
  懐旧談片
    一二、渋沢子爵と本社
 私(渋沢子爵)が石川島造船所に関係し始めた抑もの動機は、毛頭これを利殖の一事業としやうといふやうな考えからではなく、造船業が海国日本の進運の上より見て一日も等閑に附し難く、今にしてこれが振作を図らずんば将来悔ゆる事あるも及ばずと考えたからである。
 私にかくの如き考を抱かせ、云はゞ私の眼をして造船業の重要性に対して開かしめたのは、石川島造船所の前身、平野造船所を明治九年から独力で経営してゐた平野富二君であるが、私が平野君と初めて相識つたのは、誰かの紹介で何でも明治も十一二年頃の事であつたと記憶してゐる。
 当時は我国の海運業一向振はず、機械工業亦漸くその緒についたばかりであつたのであるから、平野造船所の経営甚だ難儀であつたらしく、幸ひ私が第一銀行をやつてゐたので、私の所へ来さへすれば直ぐにも金融がつくと思つたものか、屡々私を訪ねて借金を申込んだものである。が平野君はたゞ金を借せと云ふのではなく、その都度造船業の必要を力説して止まず、その熱心誠に感ずべきものがあつた。
 一体平野といふ人は私より六つばかり若く、なかなか一途の性格の男であつた。で、私はよく『君は馬車馬の様に、前ばかりしか見ないで困る』と叱言を云つたものであるが、一途であつただけに当時世人の重きを置かなかつた造船業に着目し、敢然これを独力でやるだけの勇気も出たのであらう。ともかくもさしたる資力なくして、至難にして必要なる事業に先鞭をつけたのは、殊勝な大志と申してよろしからう。
 さて私は平野君に叱言を云ひ乍らも、君の説の尤も至極である事を次第に諒解し、やがて私自身日本が海国である事、従つて造船業を最も振興させねばならない事を充分承知するやうになつたので、平野君
 - 第11巻 p.603 -ページ画像 
から金融を頼まれる度に無下にことはる事をしなかつた。然し乍ら何をいつても平野造船所には、確実な資力がある訳でなく、第一銀行にしても、その性質が商業銀行なのであるから、造船所のやうな仕事に左様に簡単に金の借せるものでない。さりながら当時の日本は、凡ての近代的産業が漸くその緒につかうとしてゐた時なので、意義ある事業ならば商業銀行であるからと云つて、冷淡に棄てゝ置けるものでなく、また棄てゝ置いては成らない時でもあつたので、私は海国日本に於る造船業の緊要を思つては、幾度か『金を借すべきか、否か』について自問自答これを久しうして、思ひ悩んだものであつた。これはかなりの心労で、今もその頃の思案をまざまざと思ひ出せる程である。
 そして結局、平野君の依頼の無理からぬ事を了解し、造船業といふ私には全然素人の仕事ではあつたが、第一銀行から何でも七八万円貸出した事があつたやうに記憶してゐる。
 その後平野造船所の資金難は益々加はる一方で、引続き金融を乞はれるので、その都度『何等確固たる基礎もないのに、やり損なつたらどうする考か』と逆ねじを食はしてはゐたが、さうは申したものゝ私の内心には『懸念ばかりしてゐては世の中の事業が発展せぬ』と云ふ考えがあつたので、遂に明治十七八年頃になつて、かねて第一銀行にも関係のあつた宇和島の伊達家家令の西園寺公成氏と鍋島家家令の深川亮蔵氏と私との三人で、大枚十万円を持寄つて、これを平野君に借す事になつた。その出資の割合は、伊達・鍋島両家から三万円づゝ、私が四万円であつたと記憶してゐる。
 その時の条件は、何でも出資に対して年八分の利子を払つて貰ひ、なほ利益があつた場合にはその内の半分を再配当として受けると云ふ約定で、一風変つた方法であつた。この出資とも融通ともつかぬ妙な援助が、私の造船業に直接関係し始めた最初である。
 平野造船所は、十万円と云ふ当時ではなかなかの大金が纏つて入つたので、船渠を改善したり、工場を増設したりして、大いに内容を整へ、かくて民間造船所では最初の軍艦である鳥海の建造を引受けたのであつたが、これがまた莫大な資金を要求したので、更に私達三人の十万円に、梅浦精一君と平野君等で持出した金を加へて二十万円足らずの匿名組合を起した。梅浦君はかねて平野君と怩懇《(昵)》の間で、多少の融通をしてゐたのであつたが、この際吾々同様、融通でなしに出資しやうと云ふ事になつたので、これが株式会社東京石川島造船所の前身になつたのである。
        ×      ×      ×
 当時の造船業は、損得づくでは手の出せぬ事業で、先に融通した十万円に対しても八分の利子を貰つたのはたゞ一期だけであつた。それ程の困難なる業ではあつたが、ともかくも続けて行つた平野君には、多分に感心な処があつたのである。(渋沢子爵談)
   ○栄一ノ「懐旧談」ノホカ、栄一ガ平野富二ノ為メニ第一銀行ヨリ融通セル金額ニ関スル資料ヲ見ズ。第一銀行相談役佐々木勇之助氏ニ質シタレドモ記憶明カナラズ。年月ニ関シテハ「東京石川島造船所五十年史」ニ於ケル栄一ノ序文ハ明治十三四年頃トナシ、同書「平野造船所時代」ナル節ニ於テハ十五年頃トナス、符合セザレドモ他ニ資料ヲ得ズ。
 - 第11巻 p.604 -ページ画像 
   ○栄一等、当造船所ノ為メニ匿名組合ヲ組織シタル年月並ビニ組合員ノ人名ヲ審カニセズ。「東京石川島造船所五十年史」ノ栄一ノ序文ヲ見ルニ明治十八年トナセドモ、同書「平野造船所時代」ノ節ニ於テハ十九年ト記シ、又同書栄一「懐旧談片」ニハ伊達・鍋島二家ニ出資ヲ促シタルハ十七八年ト見ユ。匿名組合ヲ組織シ資金ノ提供ノ必要ヲ生ジタルハ軍艦鳥海建造ノ為メナルヲ以テ、右組合ヲ組織セル年ハ明治十九年ト見ルガ最モ妥当ナラン。
   ○石川島ノ地ニ造船工場ノ初メテ設ケラレタルハ嘉永六年ナリ。是年九月幕府ハ寛永以来ノ大船建造禁止令ヲ解キ、十一月水戸藩ニ軍艦建造ノコトヲ命ズルヤ、水戸ノ斉昭ハ家臣ヲシテ造船ノ諸事ヲ分掌セシメ、十二月五日石川島ノ地ヲ撰ミ造船所建設ヲ決セリ。翌安政元年正月二日起工シ同三年五月ニハ我国人ノ手ニ成ル最初ノ洋式軍艦旭日丸ノ竣工ヲ見ル。爾後君沢型洋帆船四隻、千代田型蒸汽軍艦(文久二年起工慶応二年竣功)等ノ西洋型船舶ノ建造ニ貢献少カラザリシモ、維新後新政府ノ管理ニ移サレシ後ハ暫ク同所顧ラレズ。明治四年七月ニ至リ造船局製造所此処ニ設ケラレ尋イデ之ヲ主船寮(主船頭肥田浜五郎)トナシ、再ビ艦船ノ小修理及ビ諸器械ノ製造ヲ開始シタルモ、翌五年二月海軍省開設ニ伴ヒ其管理ニ移リ、其省議横須賀造船所ノ拡張ヲ計画スルニ及ビ石川島工場ハ其存在ノ必要ヲ失ヒ遂ニ明治九年築地兵器局ニ合併セラレ、石川島ノ諸器械建築物ハ殆ンド同局ニ移サレテ閉鎖セラルヽニ至リタルモノナリ。(東京石川島造船所五十年史〔第一―九頁〕ニ拠ル)
   ○平野富二ノ略歴ニ付テハ〔参考〕ヲ見ルベシ。



〔参考〕東京石川島造船所五十年史 第七七―七九頁〔昭和五年一二月〕(DK110092k-0005)
第11巻 p.604-605 ページ画像

東京石川島造船所五十年史 第七七―七九頁〔昭和五年一二月〕
  本社功労者略伝
    故平野富二氏
 氏は弘化三年を以て長崎市引地町に生れ、三歳にして父を失ひ流離艱難の間に苦学し、年漸く十六にして長崎製鉄所機関手候補に挙げられ、次いで汽船機関手に進みて屡々長崎江戸の間を往復したるが、其間我国航海業の振はざる甚しきを痛感して、私に造船海運の事を以て生涯の事業たらしめん事を期せり。依つて明治二年長崎立神浦に一大乾船渠を開鑿し、先以て造船の業を起し、次いで航海の業を振作せん事を計画し、之を民部省に建議したる処、時の民部大丞井上馨氏(後の侯爵)その議を容れ、氏に命ずるに立神新船渠の開鑿を主宰し、兼ねて長崎製鉄所兼小菅造船所長たらん事を以てせり。然るに明治三年に至り政府は新に工部省を設置し、製鉄所及船渠を挙げてその管下に置きたれば、予て造船造機の業を純然たる官業とするに反対なりし氏は船渠開鑿の工将に成らんとせるに拘らず、断然官を退きてまた再び出でゝ仕へんとせざりき。
 偶々氏が師事せし本木昌造翁の創始したる活字鋳造業の甚だ苦境に陥れるあり、翁は氏に来つて経営の衝に当らん事を懇請したれば、氏は活字が文明の進運に欠くべからざるを思ひ、且つは恩師の負託に背かざらん為、翁に代つて長崎活版所を主宰し、四年十一月之を東京築地に移せり。今の株式会社東京築地活版製造所はその継業者なるが、東京移転の当初に在つては、活字の効用未だ爾く一般に理解せられず経営従つて甚だ困難を極めしも、よくこれに耐へて、遂に本邦活字鋳
 - 第11巻 p.605 -ページ画像 
造の鼻祖本木翁の業をして完成せしめ得たり。
 而もこの間造船業創始の素志を失はず、明治九年海軍省が石川島工場を廃止するを聞くや、直ちに請ふてその跡を拝借し、こゝに独力にて民間最初の西洋型船舶造修所を創設したるは、別項詳述の如し。
 斯くて漸くその素志を達せし氏は、業務に全力を傾倒し遂に軍艦鳥海の建造をも引受けて、我国造船業のなほ幼稚なりし時、よく鉄骨鉄皮の軍艦建造に成功したりしは、氏を助くるに渋沢子爵等の財的後援ありしとはいへ、また氏の気慨の凡ならざりしを証するものと云ふべし。
 その間氏は明治十四年新潟税関所属の汽船二隻を借受けて、新潟佐渡間の海運に著手し、又十八年今の東京湾汽船株式会社の前身なる平野汽船組を創立して、東京横須賀間の定期航海に従事するなど、海運業界にも先駆者の苦心を積み、同年更にその前年の設立になる平野土木組の規模を拡張して官私鉄道工事に従事し、陸上交通発達の上にも貢献したる処甚だ大なり。
 かく海運に土木に造船業の余暇を以て東奔西走せる間に、二十二年平野造船所は渋沢子爵・梅浦精一氏等の協力によつて株式会社となり本社創立の事成りて漸次発展の緒につかんとするに当り、氏は選ばれて最初の常務委員に挙げられ、刻苦勉励よく本社今日の基礎を築くに努力せしも、偶ま明治二十五年東京市の水道鉄管を外国品に仰ぐべきか否かについて世論沸騰せしに際し、平素国産奨励論者なりし氏は、これを座視する忍びず、病躯を提げて屡々演壇に立ち、国産鉄管の使用を高調して止まず、同年十二月二日夜日本橋田口亭にて演説中、遂に卒中症を発して長逝せり。


〔参考〕願伺届録 会社規則明治十九年乾(DK110092k-0006)
第11巻 p.605-606 ページ画像

願伺届録 会社規則明治十九年乾 (東京府庁所蔵)
    東京平野滊船組合設立願
              東京京橋区霊岸島新船松町将監川岸
                  東京平野滊船組合
右者是迄平野富二名義ニテ第一第二滊船田浦丸ヲ以テ東京横須賀間乗客貨物運送営業罷在候処、今般組織ヲ更メ東京平野滊船組合之名称ヲ以テ、来ル五月一日ヨリ開業仕度奉存候、蒙御免許候上ハ役員撰定印鑑等更ニ御届可申上候間何卒右御許可被成下度、此段別冊組合定款相添江奉願上候也
                東京平野汽船組合
                株主総代
  明治十九年四月十五日     京橋区築地弐丁目拾六番地
                 平民
                    平野富二
                同
                 同区木挽町九丁目拾壱番地
                    梅浦精一(印)
    東京府知事 高崎五六殿
  前書出願ニ付奥印候也
               東京府京橋区長 林厚徳
 - 第11巻 p.606 -ページ画像 
   ○東京平野汽船組合定款略ス。
    資本金ハ金参万参千円ニシテ百円ヲ以テ一株トシ総計参百参拾株ト定ム。本店ヲ京橋区新船松町河岸ニ設置シ、其支店ヲ神奈川県下横須賀港ニ設置ス、当組会ノ責任ハ有限トナス。
   ○明治二十二年十月平野汽船組合他二社ハ合併シテ東京湾汽船株式会社ヲ創立セリ。本資料第八巻所収ノ同会社ノ項(第三四六頁)参照。


〔参考〕回議録 明治一九年(DK110092k-0007)
第11巻 p.606 ページ画像

回議録 明治一九年       (東京府庁所蔵)
    平野富二身元調書
一平素品行正シキモノ
一業体ハ諸器械並船舶製造業
一雇人ハ職工共雇男女四百人
一所有不動産価額凡壱万五千円也
一身代見積高凡弐拾万円位也
一住居ノ家屋本人所有ニシテ他ニ抵当差入無之
一負債ノ為メ身代限之処分ヲ受ケタル事無之
右之通候也
   ○右ハ明治十九年四月三十日付ヲ以テ京橋区長林厚徳ヨリ東京府農商務課ニ報告セルモノナリ。蓋シ上掲ノ同年四月十五日平野富二及ヒ梅浦精一両人株主総代トシテ従来平野富二名義ニテ経営セル東京横須賀間ノ乗客貨物運送ヲ爾後組織ヲ改メ、東京平野滊船組合ノ名称ヲ以テシタキ旨組合設立願書ヲ東京府知事高崎五六ニ上ルニ拠テ、其身元調査ヲ命ゼラレタル報告書ナリ。(上掲東京石川島造船所五十年史(第七九頁)ニ云フ、明治十八年末創立ノ平野汽船組ト云フハ、コノ改称以前ノモノヲ指スカ)