デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
15節 造船・船渠業
1款 株式会社東京石川島造船所
■綱文

第11巻 p.640-643(DK110097k) ページ画像

明治34年8月28日(1901年)

当造船所浦賀分工場始メテ遠洋航海用汽船交通丸ヲ建造シ、是日進水式ヲ行フ。栄一之ニ臨ミ演説ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三四年(DK110097k-0001)
第11巻 p.641 ページ画像

渋沢栄一日記 明治三四年
八月廿八日 曇
午前例ノ如ク海水ニ浴シ、十時発ノ滊車ニテ浦賀ニ抵ル、蓋シ石川島造船所分工場ニ於テ交通丸ノ進水式アルニヨル、十二時浦賀着、食後場内ヲ一覧シ三時滞リナク進水ヲ為シ、畢テ立食場ニ来賓ヲ誘引シテ一場ノ式辞演説ヲ為ス
此日進水式ノ概況ハ、場内各所ニ種々ノテント又ハ小屋掛ニテ観覧ノ場所モシクハ餅ヲ撒スル台ヲ設ケ、本船ニハ満艦飾ヲ為シ、其接近スル所ニ式場ヲ置ク、時刻ニ至リテ余等夫妻及梅浦・平沢・進・福地ノ諸氏及船主大屋七平氏等共《(大家七平)》ニ壇上ニ登リ、先ツ餅ヲ撒シテ後本船ヲ維持スル小綱ヲ截ツ、綱切レテ船徐々トシテ船台ヲ進行シ、静ニ海面ニ浮フ、観者堵ノ如キモノ皆拍手掲采《(喝)》ス、其声暫ラク止マサリシ、式畢テ来賓ヲ立食場ニ誘引シ、稠衆環視ノ間ニ於テ余ハ本会社ヲ代表シテ一場ノ演説ヲ為ス、其趣旨ハ先ツ来賓臨場ノコトヲ謝シ、本会社此遠洋航海ノ造船ニ従事スルハ未タ以テ練熟ト云フヲ得サルヲ以テ当局者ハ共ニ苦辛焦慮セシモ、斯ク安寧ニ愉快ニ進水ヲ為セシハ本会社ハ其船主ト共ニ歓喜スル所ニシテ、臨場諸君モ同情ヲ寄セラルヽナラン、而シテ余ハ此交通丸ノ将来ノ幸運ヲ以テトスルヲ得ルニ足ルモノト思惟ス、抑モ国家ノ富張隆盛ハ民間諸事業ノ発達ニ帰スヘキハ今日喋々ヲ要セスシテ諸君ノ瞭知スル所ナリ、然リ而シテ其事業中特ニ我邦ニ在テハ海事ノ拡張ヲ勉ムヘキハ、自国ノ形勢ニ於テ必要ナリトス、然ラハ則将来真成ノ富実ヲ謀ルハ専ラ海事ト《(ニ)》在リト言フモ敢テ過言ニアラサルヘシ、是レ本会社ノ拮据経営此事業ニ尽瘁スル所以ナリ、臨場諸君此意ヲ諒セラルレハ幸甚云々、畢テ浅田逓信総務長官・井上鎮守府長官及船主大屋氏等ノ祝詞又ハ答詞アリ、一同歓ヲ尽シテ宴ヲ終ル午後六時横須賀ノ滊車ニテ九時大磯ニ帰宿ス


竜門雑誌 第一六〇号・第三六―三七頁〔明治三四年九月二五日〕 ○交通丸の進水式(DK110097k-0002)
第11巻 p.641-642 ページ画像

竜門雑誌 第一六〇号・第三六―三七頁〔明治三四年九月二五日〕
   ○交通丸の進水式
予て大家七平氏の注文に依り、石川島造船所浦賀分工場に於て製造中なりし鋼製滊船交通丸は、此程其工事大に進行し、去月二十八日同工場に於て進水式を挙行するに至れり、当日の来賓は芳川逓信大臣代理浅田総務長官、横須賀鎮守府司令長官井上良馨男、周布神奈川県知事有村・植村等の各海軍少将其他逓信・海軍両省の高等官諸氏等無慮二百余名にして、午後三時同会社長たる青淵先生及各重役等式場に臨み新滊船に向ひ命名の式を行ひ、諸般の準備なりて後綱を切るや船体は徐々と進行を始め、僅々十分余にて波上に浮ひ、喝采の声水陸に沸くが如くなりき、夫より来賓一同を別室の立食堂に導き、続て先生には起つて大要左の如き演説を為されたり
 本日交通丸の進水式を行ふに際し遠路の所斯く迄多数の来臨を辱ふしたるは本社の最も光栄とする所なり、本社創立以来東京石川島に於て沿海用の滊船は製造したることありしが、遠洋航海に適するの船舶を製造するに至りしは、実に此交通丸を以て嚆矢とす、本社に
 - 第11巻 p.642 -ページ画像 
は技能鍛練せる技術家のあるは吾人共に信する所なれとも、奈何せん経験乏しき大滊船を製造することなれは、交通丸の注文を受けし当時は、実に喜憂交々至るの感ありしも、爾後担当者其宜しきを得たるがため遂に今日の効果を収むるに至りしは、啻に本社の光栄とする所なるのみならず国家のため亦賀せさるを得す、然れとも今後世運の進歩に伴ひ航海造船の事業は一層の発達を期せさるへからさるは喋々を待たさる所なれは、今日の成効を以て勿論満足すべきにあらす、尚進んて数千噸若くは一万噸以上の大船も容易に製造し得るの機運に達せしめさるへからすして、本社の責任も亦一層重きを加へたるを知る、諸君宜しく本社微意のある所を諒察せられ、我海運業の発達に今後益々尽力あらんことを切望に堪へす、云々
続て浅田総務長官起つて逓信当局者として大要左の演説を為せり
 政府は先年航海奨励・造船奨励の二法を設け大に本邦の海運業を保護発達せしむるの方針を立て着々之れが実行を計れり、然るに今や石川島造船所は玆に造船奨励法に合格するの滊船を製造し遂に本日を以て其進水式を挙行するに至る、是実に政府が当初希望したる造船事業の益々発達し、之が保護奨励を計れるの趣意を愈々実行するに至りたるものにて国家のため欣喜に堪へさる所なり、而て更に船体を見るに其構造最も堅牢にして、大家氏が北海の寒凍激浪を凌いて遠洋航海を試むるの最も適当せるを証して余あり、希くは本船をして将来益々国家の富源を開拓するの用に供せられ、尚進んては斯かる滊船の今後益々製造せられんことを偏に希望して已ます、云々
右終つて横須賀鎮守府司令長官井上男爵の祝詞及交通丸船主大家七平氏の答辞あり、夫より立食の饗応に移り、宴酣なるの時天皇陛下の万歳石川島造船所及交通丸の万歳を三唱し、之にて全く式を終り、京浜よりの来賓夫々帰途に就きしは午後五時三十分頃なりしと云ふ



〔参考〕東京石川島造船所五十年史 第二八―二九頁 〔昭和五年一二月〕(DK110097k-0003)
第11巻 p.642-643 ページ画像

東京石川島造船所五十年史 第二八―二九頁 〔昭和五年十二月〕
    四、日清戦争時代
        自明治二十七年 至同三十六年
○上略
 これより先、戦時に於る商船の任務の重大なるを痛感したる政府は今後愈よ海運と造船の業とを振興するの緊急なるに鑑み、時の逓信大臣白根専一氏は、第九議会に航海奨励法及び造船奨励法を提出してその協賛を得、二十九年三月を以てこれを公布し、同年十月一日より実施の運びとなれり。
 右の内造船奨励法の内容を摘記せば、帝国臣民又は帝国臣民のみを以て組織せる商事会社にして、逓信大臣所定の資格を有する造船工場及び技術者を有し、造船規程に従ひて七百噸以上の鉄船又は鋼船を建造するものには、その噸数に対し、又之に附属する機関を製造するものには、その馬力に対し、一定の奨励金を給与(施行期間は明治二十九年十月一日より十五ケ年間)すと云ふにあり。依つて本社また浦賀工場をして造船奨励法合格船製造所たらしむべく、三十三年(一九〇
 - 第11巻 p.643 -ページ画像 
〇年)七月定款を変更して、工学士福地文一郎氏を浦賀支店支配人に任じ、所定の内容を整備せしかば、明治三十三年同分工場に於て、大家七平氏註文の鋼製千七百噸汽船交通丸の建造に当つては、これを右奨励法合格の船舶たらしむべく最善を尽し、三十四年竣成するや、当局の検定を受けてこれに合格するを得たり。同船は実に従前本社にて建造せる汽船中最大のものたるのみならず、又同時に東京湾に進水せる曾て見さる大船なり。


〔参考〕東京石川島造船所五十年史 附録・第二四四―二四五頁〔昭和五年一二月〕(DK110097k-0004)
第11巻 p.643 ページ画像

東京石川島造船所五十年史 附録・第二四四―二四五頁〔昭和五年一二月〕
  懐旧談片
    二九、損はしても好評
 浦賀で出来た交通丸は、東京湾で進水した最初の最大の大船だが、この船では多大の損失を蒙つた。何でも噸当り二百七十円位、請負価格四十二三万円だつたと思ふが、開業匆々の工場で、設備は不完全だし、職工は寄せ集めで経験のない不熟練なものが多かつたので、この損失は止むを得なかつたやうである。
 然し船体といひ、機械と云ひ、出来上りの成績は実際立派なもので後ちこの船が長崎の三菱造船所に入渠した時、『浦賀ではよくこれだけ良いものが造れた。』と感心してゐたと云ふ事を人伝てに聞いて、損はしても快心の笑を洩したものであつた。(栗田金太郎・小川鉄五郎両氏談)
   ○造船奨励法ハ明治二十九年三月発布。法律第十六号。


〔参考〕東京石川島造船所 三十五年(五十八期)間概記 自明治二十二年一月至大正十二年十一月末日(DK110097k-0005)
第11巻 p.643 ページ画像

東京石川島造船所
三十五年(五十八期)間概記 自明治二十二年一月至大正十二年十一月末日
   (営業報告書摘録)〔未定稿〕
○上略
  ○明治三十四年上半期
一月二十五日台湾協会ニ於テ第十二回定時総会ヲ開キ、三十三年中ノ営業報告並諸計算ノ承認及損失金ノ処分ヲ議決シ、次テ監査役三名ノ満期改選ヲ行フ(前任者重任)
五月二十七日本社ニ於テ臨時総会ヲ開キ、定款中(目的及決算期)改正ノ件ヲ議決ス、此改正ニ依リ決算期ハ年二回(六月及十二月)定時総会ハ七月及一月ノ両度之ヲ開クコトヽナル
  ○同年下半期
七月三十日台湾協会ニ於テ第十三回定時総会ヲ開キ、前期ノ営業報告並諸計算ノ承認及利益金処分ヲ議決ス
八月七日台湾協会ニ於テ臨時総会ヲ開キ、浦賀船渠株式会社ト本会社ト合併ノ件ヲ議決ス
十月二十二日麹町区有楽町東京商業会議所ニ於テ臨時総会ヲ開キ、浦賀船渠株式会社ト合併ノ件ハ不成立ニ帰シタルコトヲ報告ス
浦賀分工場ニ於テ総噸数千六百余噸ノ鋼製汽船交通丸ヲ進水ス、本会社ニ於テ従来建造セル最大船ナリ