デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
17節 汽車・自動車製造業
2款 汽車製造株式会社[汽車製造合資会社]
■綱文

第12巻 p.127-131(DK120018k) ページ画像

明治29年9月7日(1896年)

是ヨリ先元鉄道庁長官井上勝、機関車其他鉄道用品等ノ製造ノ民間新設ヲ企劃シ、栄一並ニ岩崎弥之助・伯爵井上馨等ニ援助ヲ乞フ。栄一業務担当社員及ビ創立委員ノ一員トナリ、会社創立ニ尽力シ、毛利・前田等ノ旧大藩諸侯及ビ住友・大倉・藤田・今村等ノ実業家ノ出資ヲ得テ是日汽車製造合資会社設立サル。


■資料

青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第二九八―三〇二頁 〔明治三三年六月〕(DK120018k-0001)
第12巻 p.127 ページ画像

青淵先生六十年史 (再版)  第二巻・第二九八―三〇二頁〔明治三三年六月〕
 ○第四十七章 汽車製造業
    第二節 汽車製造会社
明治二十九年九月青淵先生等発起人トナリ汽車製造合資会社ヲ大阪ニ設立ス、先生ハ業務担当社員ニ推選セラレ熱心社務ニ従事ス、明治三十二年七月盛ニ開業式ヲ挙ケタリ○下略


中外商業新報 第四二二五号〔明治二九年三月二五日〕 汽車製造の計画(DK120018k-0002)
第12巻 p.127 ページ画像

中外商業新報  第四二二五号〔明治二九年三月二五日〕
    滊車製造の計画
 渋沢栄一・岩崎弥之助・井上勝・藤田伝三郎等の諸氏は今回資本金五拾万円を以つて、滊車製造合資会社を組織し、大阪に工場を計置して、客車貨車及び滊関車等の製造を為すの計画を立て、来る二十七日帝国ホテルに於て協議会を開く由


中外商業新報 第四二二七号〔明治二九年三月二七日〕 再び汽車製造合資会社設立の計画に就て(DK120018k-0003)
第12巻 p.127 ページ画像

中外商業新報 第四二二七号〔明治二九年三月二七日〕
    再び滊車製造合資会社設立の計画に就て
 渋沢栄一氏外数氏の発起にて滊車製造合資会社設立の計画あることは、既に去る二十五日の紙上に報ぜしが、同社資本使用の概算は左の如しと云ふ
一、資本金 五拾万円也
    金三十二万円 建物及大小器械
    金五万円 地所
  内 金三万円 倉庫
    金五万円 諸費及工事監督費
    金五万円 運転資金
而して同社は大阪・東京の両地に工場を設け一ケ年滊関車十二台、客車五十輛、貨車二百輛を製造する見込にて、将来摸様によりては猶三十五万円の資本を増加する見込なりといふ


中外商業新報 第四二二八号〔明治二九年三月二八日〕 汽車製造合資会社の協議会(DK120018k-0004)
第12巻 p.127-128 ページ画像

中外商業新報  第四二二八号〔明治二九年三月二八日〕
 - 第12巻 p.128 -ページ画像 
    滊車製造合資会社の協議会
 毛利元徳侯・井上勝子・岩崎弥之助・渋沢栄一・益田孝等諸氏は昨日午後一時より帝国ホテルに会合して、去る二十五日の紙上に記する如く滊車製造合資会社の設立に関する協議会を開き創業万般の事を審議したるが、同会社の工場建築は少くとも二年を要し、外国に注文する諸機械等は大概の期間に到着すべきを以て実際事業に着手するは勿論二ケ年の後に有るべしと雖も、時宜に拠りてはその内一部分の開業を為すべしとの議もある由なり


中外商業新報 第四二二九号〔明治二九年三月二九日〕 汽車合資会社創設の議決す(DK120018k-0005)
第12巻 p.128 ページ画像

中外商業新報 第四二二九号〔明治二九年三月二九日〕
    滊車合資会社創設の議決す
 同会社設置の議は前号の紙上にも記載せし如く、一昨二十七日の協議会に於て弥よ設立する事に確定したるが、右に付社員の出資分担額を聞くに、毛利・前田の両侯及岩崎弥之助氏は各々五万円宛、渋沢栄一・原六郎・安田善次郎・大倉喜八郎・今村清之助・高田慎蔵・井上勝・渡辺治右衛門・真中忠直の十氏は各々三万円宛、都合東京にて四十五万円を出費し、之に大阪の藤田伝三郎・住友吉右衛門・松本重太郎の諸氏も此合資会社に加入する由なれば東京・大阪合せて五十四万円乃至六十万円の資本額に達すべく、工場は大阪に設立し、其業務担当主任者は井上勝子なる由、因に記す前号の紙上に益田孝氏も此の組合社員の一人なるかの如く記載せしは全く誤聞なれば、現に前報を正す


中外商業新報 第四三一九号〔明治二九年七月一四日〕 汽車汽関車製造会社(DK120018k-0006)
第12巻 p.128 ページ画像

中外商業新報 第四三一九号〔明治二九年七月一四日〕
    汽車汽関車製造会社
 曾て報じたる如く、井上子爵の主唱にて渋沢・岩崎・藤田・真中・原・渡辺・安田等諸氏の賛成したる滊車滊関車等の製造会社は此度其工場を大阪に設置することに決定し、其専務取締役といふへき主任者は井上勝子にて渋沢栄一・真中忠直等の諸氏は取締役に、原六郎氏は監査役に定まりしと云ふ


中外商業新報 第四三二〇号〔明治二九年七月一五日〕 汽車製造会社の続報(DK120018k-0007)
第12巻 p.128 ページ画像

中外商業新報 第四三二〇号〔明治二九年七月一五日〕
    汽車製造会社の続報
 井上子爵の発起主唱に係る滊車製造会社は、其名の如く滊缶車・客車・貨車等の製造を為す目的にして其工場は大阪西成郡に設置することに決し、会社は合資組織にして其出資者は黒田長成・前田利嗣・毛利五郎・岩崎久弥・住友吉右衛門の五氏は各々五万円、渋沢栄一・安田善次郎・今村清之助・川崎八右衛門・大倉喜八郎・広田理三郎・原六郎・藤田伝三郎・田中市兵衛・松本重太郎・井上勝・真中忠直・田島信夫の十三氏は各三万円宛都合金六十四万円を醵出し、業務担当社員は渋沢栄一・井上勝・真中忠直・毛利五郎・松本重太郎の五氏として、井上勝氏は専任担当社員、又監査役は原六郎・田中市兵衛の両氏なりと云ふ

 - 第12巻 p.129 -ページ画像 

(汽車製造合資会社)事業報告 第一回明治三〇年一月(DK120018k-0008)
第12巻 p.129 ページ画像

(汽車製造合資会社)事業報告  第一回明治三〇年一月
                 (汽車製造株式会社所蔵)
本社々員契約書第二十八項ニ依リ、第壱回定式総会ヲ開クニ際シ、本会社ハ設立日猶ホ浅ク、事績準備ニ止マリ営業上報告ヲナスノ要ナシト雖、本契約書ノ制裁ニ拠リ事業報告書・会計決算書及財産目録書ヲ作リ、諸君ノ認可ヲ乞ハントス、而シテ其報告ニ先立、聊カ本社設立マテノ経過ヲ概説シ以テ本職専任業務担当社員ノ責ニ対ヘントス
抑本会社設立ノ目下我国ニ必要欠ク可カラサルハ論ヲ待タス、勝玆ニ見ルアリ、明治廿六年以来材料ヲ内外ニ調査シ、以テ弥事業ノ精確ナルヲ信シ、当初其主意書ヲ製シ同志ノ協賛ヲ促カセシモ、勝ノ素望タル成ヘク株式組織ヲ避ケ、合資或ハ合名ヲモツテ本会社ヲ組織セント欲セシタメ多少ノ遷延ヲ来セシニ、時恰モ征清ノ事起リ長年月ヲ経タリシモ、戦勝ノ結果倍本会社設立ノ必要ヲ感シ鋭意其計画ニ従事セシニ、偶岩崎弥之助・渋沢栄一ノ両君、続テ井上馨君等ノ援助アリテ、昨廿九年春以来数回帝国ホテルニ会シ、終ニ一方ニハ旧大藩諸侯又一方ニハ当会屈指ノ実業経済家諸君ノ賛成ヲ得テ、玆ニ素望ノ一会社ヲ組織シ、昨年七月予メ業務担当社員五名即チ毛利五郎・渋沢栄一・真中忠直・松本重太郎ノ諸君並勝及監査役二名即チ原六郎・田中市兵衛両君ノ選定ヲ了シ、九月七日本会社ヲ設立セリ、而ルニ渋沢・真中両君ノ如キハ常ニ其多忙ノ身ナルニモ拘ハラス、其設立ノ際ニ当リ奮テ創立委員ノ労ヲ執リ、直接間接ノ効助ヲ与ヘラレ、又藤田伝三郎君ハ予定地所購求ノ事ニ関シ尽力不少シハ勝ノ最モ感謝スル所ナリ○下略
  明治三十年一月廿八日       専任業務担当社員
                      井上勝
  第一回事業報告(自明治廿九年九月七日創立至同年十二月三十一日)
    会社設立
明治二十九年九月七日公証人兼松寛役場ニ於テ矢部竹太郎立会ヲ以テ本会社々員契約ヲ訂盟シ、本会社ヲ設立ス
同十一日本会社設立登記ヲ大阪区裁判所ヘ請求シ、同十四日登記請求ノ受領書ヲ受ク
    事務所設置
専任業務担当社員及事務員ハ本会社設立前ヨリ既ニ大阪ニ出張シ、便宜各旅宿ニ於テ執務ス、九月廿五日始メテ大阪梅田内国通運株式会社支店楼上ノ一部ヲ借リ、本会社仮事務所ニ充ツ、同月廿八日西成郡川北村大字春日出ニ於テ明地ヲ借入レ、他日職工居住ニ充ツル長家三棟建坪総計百拾弐坪五合仮設ノ縄張ヲナス、十一月十四日落成セシヲ以テ、一棟ヲ仮事務所ニ充テ、他ノ二棟ヲ同月廿五日ヨリ職員ノ仮住ヲ許ス、而シテ十二月三日前記梅田ノ仮事務所ヲ玆ニ移転セリ


汽車製造株式会社報告書(DK120018k-0009)
第12巻 p.129-130 ページ画像

汽車製造株式会社報告書          (雨夜譚会所蔵)
                  汽車製造株式会社
一、創立年月日 明治二十九年九月
 - 第12巻 p.130 -ページ画像 
一、目的    機関車並ニ車輛、鉄道橋梁、建造物、諸機械類一般、鉄道用品ノ製造、建設、修理、販売、貸付並ニ之等ニ関聯スル一切ノ業務ヲ為スヲ営業ノ目的トス
一、創立関係人 故子爵井上勝氏ノ発起ニ成リ子爵渋沢栄一、故男爵岩崎弥之助ノ両氏並ニ故侯爵井上馨氏之レヲ援ケ、特ニ子爵渋沢栄一・真中忠直両氏ハ創立委員ノ労ヲ執リ、会社敷地ノ選定購入ニハ故男爵藤田伝三郎氏尽力セラレ、故松本重太郎氏亦創立事業ニ対シ諸般ノ便宜ヲ与ヘラレタリ、創立当時ニ於ケル出資社員左ノ如シ
    出資社員
        侯爵 黒田長成   侯爵 前田利嗣
        男爵 毛利五郎   男爵 岩崎久弥
        男爵 住友吉左衛門 子爵 渋沢栄一
           安田善次郎     今村清之助
           川崎八右衛門 男爵 大倉喜八郎
           広田理太郎     原六郎
        男爵 藤田伝三郎     田中市兵衛
           松本重太郎  子爵 井上勝
           真中忠直      田島信夫
○下略
  ○子爵井上勝ハ本邦鉄道創設者ニシテ、明治二十六年三月鉄道庁長官ヲ退キテヨリ二三私設鉄道会社ニ関係シ、又機関車製造会社ノ創立ヲ企ツニ当リ伯爵井上馨ハ同郷ノ旧友ニシテ之ヲ援ク。栄一亦創立ニ参与セルハ井上伯ヨリノ依頼ニ拠ル(平岡熙談話)。当時既ニ汽車々輛ノ製造ニハ平岡工場ノ東京ニ在ルアリ、栄一之ニ関係シテ経験アリ。
  ○当会社ハ明治三十二年社名ヲ大阪汽車製造合資会社ト改メシカ同三十四年七月再ビ汽車製造合資会社ト改ム。明治四十五年六月株式会社ニ改組ス。


子爵井上勝君小伝 (村井正利編) 第四八―五一頁〔大正四年一月〕(DK120018k-0010)
第12巻 p.130-131 ページ画像

子爵井上勝君小伝 (村井正利編) 第四八―五一頁〔大正四年一月〕
○上略私設鉄道は論なく、官設鉄道と雖も、車輛の設備甚た不完全にして、之を欧米各国に比較すれは相及はさること太た遠し、是を以て線路已に成ると雖も、運輸の力足らすして十分の利用を達するを得す、然る所以を尋ぬれは原因種々あるへしと雖も、一は内地に未た車輛工廠の設立なきに由る、官鉄・日鉄等は稍々其備有りと雖も、尚未た自家の用に応するに足らす、其他は一二の小廠補修の用を為すに過きす故に車輛の設備は概して之を外国に仰くの外無かりしに因り、其価格の低廉ならさるは論無く、準備時日も亦多く曠費せさるを得す、是そ運輸を渋滞せしむるの一大原因となり甚た憂ふへきの事となす、公大に此に見るあり、以為らく、今や全国幹線の建設は次第に緒に就き技術も亦其人に乏しからす、最早我輩の顧慮を要するに及はさるへし、唯車輛及鉄具の製造に至りては目下の急務なりと雖も、之を闕如に付して顧みるものなきは洵に国家の為に慨すへし、予や将さに身を以て此の補闕の任に当らんとすと、遂に各国の規模を参考して工廠設立の案を具へ先つ之を岩崎弥之助氏に謀る、氏其計を善とし大に援助を与
 - 第12巻 p.131 -ページ画像 
へんことを許す、是に於て十数の同志者を糾合して其業を刱む、即ち汽車製造合資会社是なり、因て公は自ら進て其社長となり、全国接応の便を図りて地を大阪港口に卜し、玆に敷地埋立の土工より館廠器械の建設に至るまて自ら臨て之を董督し、適々内臓に病を獲たるも敢て屈せす、拮据黽勉して建設の功を竣り、営業を開始したるは三十二年七月なりしか、初めは創業に伴ふ各種の困難と戦ひ、続て世間の不景気と戦ひ、頗る苦境に立ちしと雖も、能く忍ひ能く耐へて漸く順潮に乗するを得、三十四年には規模を拡張して東京に支社を置くに至り、其製品も始めは雑車と小器具に止りしか、数年の後には特種の機巧を要するアブト式機関車、及ひ長大の物に在ては二百尺鉄橋等を製造するを得て、儼然車輛工場の巨擘として大に世用を成すに至れり、初め公の造車計画を発表するや、世間亦た其業を刱むるものありて、俄頃の間に製造所の各地に設立するもの幾個所、一時互に競争して顧客を惹けり、故に車輛の価頓に低落し、公の製造所も頗る其累を被りしと雖も、之か為に内地車輛の製造は著しく其数を増し、随て各鉄道の輸送力も大に増加したれは、公か当初の目的は間接の効果に依て早已に其の幾分を達せしものと謂ふへし○下略