デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
18節 人造肥料業
1款 東京人造肥料株式会社
■綱文

第12巻 p.150-168(DK120024k) ページ画像

明治20年4月18日(1887年)

是ヨリ先二月二十八日、栄一東京人造肥料会社創立委員トナリ、是日渋沢喜作・馬越恭平ト連署シテ会社ノ設立ヲ東京府知事高崎五六ニ出願ス。是月二十八日許可セラル。十二月十二日委員長トナル。


■資料

青淵先生伝初稿 第五五―六八頁〔大正八―一二年〕(DK120024k-0001)
第12巻 p.150-151 ページ画像

青淵先生伝初稿  第五五―六八頁〔大正八―一二年〕
    第十六章 肥料製造業
農業は先生の旧業なり、されば年少の頃より肥料につきても其経験あり、当時一般の農家にては、普通の下肥の外に鯡鰯粕などをも用ゐしかば、先生も亦晩香翁の命を奉じ、関宿あたりまで仕入に赴けることも屡々にて、其質の良否を分ち、施肥の季節を定むること等、夙に熟知せる所なりき。続雨夜譚静岡藩にて商法会所を経営せる際にも、肥料には意を用ゐ、御用商人に命じて房州の干鰯・〆粕を買入れしめ、之を農民に貸付けしこともありたれば、渋沢家文書銀行業者として身を立てし後も、其改良に注意せることなきにあらず。明治十九年先生事を以て関西に旅行し、神戸に於て農商務省技師高峯譲吉と相遇ふ、談偶々肥料の事に及ぶや、高峯は人造肥料の必要につきて、其専攻せる理化学上より詳細なる説明を加へ、欧米諸国の実例を挙げ、我国の肥料の改良すべきを力説せり。高峯は嘗て英国に留学して、過燐酸肥料の製造を実習し、又明治十七年北米のニユー・オルレアンスに万国大博覧会開設の際、本邦の事務官として出張し、出品中の巨大なる燐礦を見之を日本に使用するの利益あるべきを信じ、私費を以て其数噸を購ひ帰り、農商務省の当事者と謀り、全国の有志者に頒ちて、実地の試用を依頼したるに成績良好なり。此に於て過燐酸製造の事業を起さんことを思へる折からなりしかば、熱心に先生の賛同を求めたるなり。先生の意頗る動き、帰京の後、益田孝・大倉喜八郎・浅野総一郎等と謀議し、高峯をも招きて、遂に会社創立の事を決したり。
○中略
同社の事業は趣意書に見えたるが如く、過燐酸及び其配合肥料を製造するにありて、実に我国に於ける人造肥料製造の嚆矢なり。されど当初は一般の農業家其功用を解せず、先生等の指導勧誘も其効なく、常に損失のみ多かりき。是れ固より農家の保守的態度に本づくこと勿論なれども、当事者の経験浅かりしことも亦一原因なりき。初め先生は阿波・肥後・及び其郷里なる血洗島に送りて試用せしめたるに、孰れも効験なしとて評判宜しからず、よりて之を調査せるに、窒素肥料を
 - 第12巻 p.151 -ページ画像 
用ゐるべき場所に燐酸肥料を使用せしなど、地質と農作物との関係を等閑視したるによれり。又越中に送付したる時は、肥料の選択は誤らざりしも、粉末肥料を流れ宜き水田に施したれば、肥料皆流失して其用を為さゞることもありき。続雨夜譚されど失敗はやがて成功の基礎となり、二十五年の上半季には六千余円の利益あり、始めて開運の曙光を認め得たり。
  ○同社成立ノ年月日ハ考課状ニ記載セラレザルモ、委員選挙ノ日タル明治二十年十二月十二日ヲ以テ創立総会ノ日即チ会社成立ノ日ト推定ス。
  ○明治十九年ニ於ケル栄一ノ関西旅行ハ十二月八日東京ヲ発シ、東海道ヲ巡遊シテ京都・大阪及ビ神戸ニ至リシモノナリ。帰京ノ月日ハ明カナラズ。


青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第二六三―二六七頁 〔明治三三年六月〕(DK120024k-0002)
第12巻 p.151-152 ページ画像

青淵先生六十年史(再版)  第二巻・第二六三―二六七頁〔明治三三年六月〕
    第四十四章 人造肥料業
人造肥料ハ我邦今日ノ農家ニ於テ欠クヘカラサル必要品トナレリ、然ルニ其初メ此ノ事業ヲ起スニ付テハ種々ノ困難アリ、農家モ亦其使用ニ反対セリ、其幾多ノ困難ヲモ顧ミスシテ終ニ今日ノ成功ヲ致シタルモノハ実ニ青淵先生ノ力ナリ、而シテ其困難ノ甚シキ名状スヘカラサルモノアリ、人造肥料ノ製造ヲ資本家ニ勧メタル技師高峯譲吉ハ中途自身ノ株ヲ先生ニ譲リテ会社ヲ去リ、株券ハ大ニ下落シ株主ハ頗ル此ノ業ヲ厭ヒタルニ加ヘテ工場火災ニ罹リタル如キ、以テ其一端ヲ知ルヘキナリ、蓋シ先生ノ困難ニ処スルヤ事業愈々困難ニシテ精神愈々盛ナリ、百方考慮ヲ加ヘ技師以下ノ役員ヲシテ有ン限リノ知識ヲ尽サシメ亦自ラモ工夫ヲ凝シ、終ニ困難ニ打勝ツニ至ル、是レ先生関係ノ何レノ事業ニ於テモ然ル所ナリ、其先生ガ技師等ヲ奨励シ説諭シ種々ノ考案ヲ致サルヽノ状況ヲ仔細ニ記述セハ実ニ有益ノ立志篇数百冊ヲ得ヘシ、惜カナ此レ等ノ材料未タ集マラサルナリ
抑モ人造肥料ノ発明ハ最近四五十年来ノ事ニシテ爾来年々盛ンナルニ至レリ、就中過燐酸石灰ノ製造ノ如キハ、千八百四十年独逸ノ碩儒リービヒノ発明ニ係リ、其初メハ硫酸ヲ獣骨ニ注加シ溶解性トシテ之ヲ用ヒタリ、翌年英国ノ農家フレミングナルモノ又同国産ノ「コプライト」ヲ以テ過燐酸石灰ヲ製シ、之ヲ田圃ニ施シテ偉大ノ効ヲ奏セシカハ、諸人伝ヘ知リテ続々試製シ、遂ニロースト云ヘル者熾ンニ之ヲ製造シ販売スルニ至レリ、爾来年ヲ積テ需要ヲ増シ、近年頗ル盛況ヲ見ルト云フ、我国ニ於テハ明治二十年青淵先生・蜂須賀茂韶・柏村信・益田孝・渋沢喜作等発起人トナリ、資本金弐拾五万円ヲ醵集シ人造肥料製造ノ業ヲ創始セリ、是レ本邦斯業ノ起源ニシテ実ニ我国過燐酸石灰製造ノ嚆矢ナリトス、今同社創立ニ関スル趣意書ヲ見ルニ曰ク
 我邦農業ノ改良ヲ要スヘキモノ開墾・牧畜・農具・肥料等枚挙ニ遑アラス、中ニ就テ最モ緊要措ク能ハサルモノハ肥料ノ改良是ナリ、開墾牧畜等固ヨリ忽諸ニ附スヘカラスト雖モ、我邦自ラ一種ノ慣習遽ニ動スヘカラサルモノアリ、且ツ姑ラク之ヲ従来ノ法ニ委スルモ未タ以テ晩トナサス、肥料ニ至リテハ然ラス、其改良一日進メハ、一日ノ益アリ、一日怠レハ一日ノ損アリ、之ヲ人身ニ譬ヘハ肥料ハ猶ホ食物ノ如シ、家屋衣服ノ粗ナルハ猶ホ忍フヘシト雖モ、苟モ食
 - 第12巻 p.152 -ページ画像 
物ニシテ滋養足ラサレハ其生育充分ナル能ハサルヘシ、肥料改良ノ急ナル以テ知ルヘシ
 凡ソ植物体ヲ組織スル所ノ主成分ハ燐酸・窒素及「ポツタース」等ナリ、植物生育ノ遅速長短アルハ風雨寒暖ニ依ルコト勿論ナリト雖モ、其主成分ヲ得ルノ多少ニ関スルコト亦甚大ナリトス、故ニ肥料ハ其主成分ヲ含ムコト最モ多キモノヲ撰フヲ以テ専要トス、我邦従前施用ノ肥料即チ人糞・鰯・搾粕・油滓ノ如キ元来燐酸ニ乏シキヲ以テ、植物ノ之ヲ獲ル僅少ニ過キス、故ニ充分ノ肥料ヲ与フルモ其実効ヲ奏スル七分ニ至ラス、是レ余輩カ肥料ノ改良ヲ熱望スル所以ナリ、欧米各国ニ於テハ夙ニ此ニ観ル所アリテ、専ラ植物主成分ニ適応スヘキ肥料ヲ製造シ以テ其生育ヲシテ充分ナラシム、所謂人造肥料是ナリ
 人造肥料ナルモノハ燐酸石灰ヲ粉末ニシテ之ニ硫酸ヲ加ヘ可溶性トナシ、更ニ「アンモニア」及「ポツタース」塩類等ノ物質ヲ和シテ之ヲ製ス、故ニ悉ク植物主成分ヲ含有スルヲ以テ凡ソ肥料中此ノ右ニ出ツルモノナキハ論ヲ俟タス
 米国南カロライナ州ニハ夥シク燐酸石灰ヲ産出シ、肥料製造所凡ソ数十箇所アリテ、該地ヨリ年々欧洲諸国ヘ輸送スル燐酸石灰及肥料ノ額極メテ盛大ナリ、然ルニ同州ニハ硫酸ノ原質タル硫黄ニ乏シキヲ以テ、之ヲ伊太利ニ覓ムト云フ、我邦北海道ハ硫黄及「アンモニア」含有物即チ鯟締粕両品ニ富ム、依テ惟フニ、我此ノ両品ヲ以テ之ヲ南カロライナ州ニ輸送シ、而シテ彼ノ特産タル燐酸石灰ヲ積テ帰ラハ、彼我共ニ便益ヲ得ルハ勿論殊ニ貿易上一新路ヲ開クモノニシテ、蓋シ一挙両得ノ策ナルヘシ、凡ソ肥料改良ノ要点ハ其価格ヲ廉ニシ其結果ヲ同フスルカ、若クハ価格同フシテ其結果ノ優レルニ在リ、然ルニ若シ前法ニシテ能ク其目的ヲ達シ齎ス所ノ燐酸石灰ヲ以テ好肥料ヲ製造スルニ至ラハ、其価格低廉ニシテ且ツ効顕ノ優レルコト鏡ニ照シテ視ル如シ
 南カロライナ州ノ燐酸石灰ハ本年農商務省ニ於テ之ヲ肥料ニ製造シ阿波ノ藍作ニ試用セシカ、其好結果ヲ報スル続々断ヘスト云フ、是レ其効験ノ一斑ナリト雖モ、由テ以テ他日全豹ヲ観ルニ至ルヤ期シテ俟ツヘキナリ、果シテ然ラハ此ノ肥料タル、特リ阿波ノ藍作ニ於テ之ヲ施用スルモ決シテ少額ニアラス、況ンヤ全国ノ田畝悉ク之ヲ用ヰルノ日ニ於テオヤ、其需用ノ巨大ナルヘキハ推シテ知ルヘシ
 是ヲ以テ今一ノ肥料製造会社ヲ創起シ、諸君ト倶ニ世ノ鴻益ヲ図ラントス、依テ其会社定款草案及起業営業ニ関スル諸費ト利益ノ割合トヲ左ニ予算掲起シテ一覧ニ供ス云々


東京人造肥料会社考課状 第一回明治二二年二月(DK120024k-0003)
第12巻 p.152-154 ページ画像

東京人造肥料会社考課状  第一回明治二二年二月
    ○株主会議之事
一明治廿年二月廿八日第一国立銀行楼上ニ於テ臨時会議ヲ開キ、左ノ如ク決議セリ
 株金ハ弐拾五万円ト定メ、内四割即金拾万円ヲ払込、事業拡張ノ日再ヒ残額ヲ募集スヘシ
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 創立委員ハ渋沢栄一・渋沢喜作・馬越恭平ノ三氏高点ニ依リ之ニ任シ、又技術師ハ高峯譲吉氏ヲシテ之ニ任セシム
一同十二月十二日更ニ委員ノ再撰ヲナシ、渋沢栄一・渋沢喜作及ヒ益田孝ノ三氏高点ヲ得テ之ニ任シ、再ヒ委員ノ互撰ヲ以テ渋沢栄一氏委員長ヲ、渋沢喜作氏検査係ヲ承諾セリ
一明治廿一年七月廿三日当会社ニ於テ臨時総会ヲ開キ、株金払込ノ額ハ前ニ四割即金拾万円ト議定セシカ、尚需資アルカ為メ五割五歩ニ増加シ、金拾参万七千五百円払込ムヘキ事ニ決議セリ
    ○株金募集之事
一株金募集ハ委員会ノ決議ニ拠テ、明治廿年三月八日第一回金五千円ヲ、同年十二月廿八日第二回金弐万円ヲ、同廿一年三月六日第三回金弐万五千円ヲ、同五月五日第四回金弐万五千円ヲ、同七月廿日第五回金弐万五千円ヲ、同十二月七日第六回金参万七千五百円、合計金拾参万七千五百円ヲ募集セリ
    ○地所建物機械之事
一明治廿年五月廿四日南葛飾郡大島村拾四番地並に拾五番地宅地田畑合計弐千百廿弐坪、並家屋四拾壱坪七拾五勺、納屋三拾坪ヲ買入、其家屋ヲ修繕シテ事務所ニ充テ、其納屋モ亦修繕ヲ加へタリ
一同九月十三日ヨリ地所区分ヲ定メテ各地盛リニ着手シ、廿一年一月中一切土工ヲ了シ、又其前後ニ於テ各部ノ建築ニ着手シ、其監督ハ之ヲ辰野金吾氏ニ委托シ、製造場・試験室・倉庫・納屋等順次竣工シ、爾後又燐石置場ヲモ増設セリ、其各部坪数ハ左ノ如シ
  一製造場三百七拾五坪 製式木造
  一第二製造場五拾坪 同上
  一試験室三十五坪 同上
  一倉庫百十九坪 製式煉瓦化石造
  一納屋三十坪 製式木造
一諸器械ハ廿一年二月末ニ米国ヨリ注文ノ品漸次到着シ、其据付ハ山田要吉・阪田貞一ノ両氏ヘ委托シテ十一月中悉皆整頓セリ
一同十二月一日本社構内屑置場ヨリ失火シ、笘葺小屋三棟鉛板葺納屋三坪焼失セリ
    ○願伺届之事
一明治二十年四月十八日東京府ヘ会社設立ヲ出願シ、同廿八日許可ヲ得タリ
一八月三日東京府ヘ南葛飾郡大島村拾四番地ニ於テ、本社ノ事務所工場等開設スヘキ旨ヲ上申セリ
一同廿一年四月十七日警視庁ヘ本社製造場新設並ニ蒸汽器械据附ノ件ヲ稟候シ、同月廿一日允准セラレタリ
一同六月八日特許局ヘ商標ノ認可ヲ稟請シ、後十月廿六日ニ至リ登録セラレタリ
一同七月十日農商務省ヘ当社製造ノ肥料分析セラレン事ヲ稟請シ、同月廿一日試験済ヲ以テ下附サレタリ
一同十二月十四日警視庁ヘ製造場増築ノ件ヲ稟請シ、同廿一日允准セラレタリ
 - 第12巻 p.154 -ページ画像 
一同十二月廿九日警視庁ヘ器械据附ヲ了シ、並ニ烟突設工ノ件ヲ上申セリ
    ○約定之事
一明治廿一年五月廿四日千住製絨所ヘ毛屑買入ノ事ヲ請求シ許諾セラレタリ
一同七月三十日東京家蓄市場会社ト獣血引受約定ヲ為シタリ
    ○製造之事
一明治廿一年三月一日ヨリ外国半製ノ原料ヲ以テ肥料ヲ製造セリ、而テ当初ハ僅々ノ職工ヲ使用シ、多少注文ニ応シ傍ラ窒素原料ヲモ製造シタリシカ、同十一月二日器械ノ運転ヲ始ムルニ到リ、燐石ヲ粉末トシ屑物ヲ蒸解シ、或ハ窒素原料ヲ細末ト為ス等ノ諸科ニ従事セリ、其原料使用ノ割合ハ量目ヲ以テスレハ外国原料十ニシテ内国原料一ナリ、又値段ヲ以テスレハ、外国原料三十ニシテ内国原料一ナリ、故ニ勉テ内国原料ヲ利用シ逐次其ノ割合ヲ増加センコトヲ企図セリ


取締役会重役会【大日本人造肥料】(DK120024k-0004)
第12巻 p.154-155 ページ画像

取締役会重役会     (大日本人造肥料株式会社所蔵)
    人造肥料会社設立願
今般東京府 区 町 番地ニ於テ人造肥料会社設立仕度、依テ別冊定款相添上願仕候間此段御許容被成下度、此段奉願候 以上
         東京府深川区福住町九番地
  明治廿年三月
         人造肥料会社創立委員 渋沢栄一
         同   同区万年町一丁目五番地
            同       渋沢喜作
         同 北豊島郡金杉村三百八十九番地
            同       馬越恭平
    東京府知事 高崎五六殿

    東京人造肥料会社定款
東京人造肥料会社ヲ組織スルニ付、其株主ノ衆議ヲ以テ決定スル所ノ定款ハ左ノ如シ
    第壱章 総則
第壱条 当会社ノ名称ハ東京人造肥料会社ト称シ、本社ヲ東京府下ニ置クヘシ
  但追テ便宜ノ地ニ製造分社又ハ売捌所ヲ設クルコトアルヘシ
第二条 当会社ノ営業年限ハ明治廿年 日ヨリ起リ満三十年トス、但株主総会ノ決□ニ依テ営業年限ノ延期ヲ請願スルヲ得へシ
第三条 当会社ハ有限責任トシ、負債弁償ノ為メニ株主ノ負担スヘキ義務ハ株金ニ止ルモノトス
第四条 本会社ノ営業ハ人造即チ調合肥料ヲ製出スルヲ目的トナシ、又硫酸製造部及ヒ副生物製造部ヲ置クコトアルヘシ
第五条 当会社ハ前条ニ掲クル事項ヲ以テ本務ト為スカ故ニ、工業上必要ナル材料並ニ必要ノ薬品ヲ買入レ、製品ヲ売却スルノ外ハ他ノ売買事務ニ干預セサルハ勿論、定業外ノ事件ニ関係スヘカラス
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第六条 当会社ノ業務ハ都テ委員ヘ委任シ、此定款ニ依リ処弁セシムヘシ
第七条 材料買入レ製品ノ売却ハ自ラ商事ニ属スルト雖トモ、工事ノ上ヨリ生スル売買事務タルニ付、常ニ此ニ注意シテ普通商業ヲ営ムノ念慮ヲ以テ之ニ従事スヘカラス
    第二章 資本金ノ事
第八条 当会社ノ資本金ハ弐拾五万円ト定メ、壱株百円ト為シ、総計弐千五百株ヲ内国人民ヨリ募集スヘシ
  但営業ノ都合ニヨリ、株主ノ衆議ヲ以テ此株高ヲ増減スルヲ得ヘシ
第九条 前条株金ノ四割即拾万円ハ大約二十四ケ月内ニ募集スヘキモノトシ、其引受高ヲ委員ノ指定スル期限ニ於テ入金スヘシ、而シテ其時日ハ必ス三十日前ニ通知スヘシ
  但シ株金ノ残額六割即拾五万円ハ逐テ㕝業ノ拡張ニ従ヒ、株主ノ衆議ヲ以テ集金ノ時日ヲ定ムルモノトス
○下略


願伺届録 農商課会社 明治二〇年ノ二(DK120024k-0005)
第12巻 p.155 ページ画像

願伺届録 農商課会社 明治二〇年ノ二   (東京府庁所蔵)
    会社位置之儀ニ付御届
東京人造肥料会社位置之儀逐テ相定メ御届可申上筈之処、今般東京府下南葛飾郡大島村甲拾四番地並拾五番地即創立委員渋沢喜作持地ニ於テ設置仕候間、此段御届申上候也
  明治二十年十二月十三日
             東京府深川区福住町四番地
               東京人造肥料会社創立委員
                    渋沢栄一
             東京府深川区万年町一丁目五番地
               同    渋沢喜作(印)
             東京北豊島郡金杉村三百八拾九番地
               同    馬越恭平(印)
    東京府知事 男爵高崎五六殿
 前書届出ニ付奥印候也
         東京府深川区長   子爵 堀田正養
         東京府猿江村外拾ケ村戸長 内藤三右衛門
         南葛飾郡長        藤井一虎


中外物価新報 第一七三一号〔明治二一年一月一〇日〕 東京人造肥料会社(DK120024k-0006)
第12巻 p.155 ページ画像

中外物価新報  第一七三一号〔明治二一年一月一〇日〕
○東京人造肥料会社 府下南葛飾郡大島村字深川釜屋堀に本社を設置したる同会社にて今度役員を撰挙せしに、委員長にハ渋沢栄一氏、委員にハ渋沢喜作・益田孝の両氏が撰ばれたる由なり


中外物価新報 第一八九六号 〔明治二一年七月二五日〕 東京人造肥料会社臨時総会(DK120024k-0007)
第12巻 p.155-156 ページ画像

中外物価新報  第一八九六号 〔明治二一年七月二五日〕
    東京人造肥料会社臨時総会
□《(同カ)》会社にてハ資本金二十五万円の内既に払込みたる金十万円を以て営業に着手されし所、尚将来事業拡張の為めに器械の買入れ、工場の建
 - 第12巻 p.156 -ページ画像 
築等に要する金員も少からず、且つ肥料の原料たる燐酸石灰の如きも産出地米国チヤーレンストンにして、其運搬甚だ便ならざるが故に船賃の都合に依て一纏めに多量の高を買入るゝ等の為めに、一昨二十三日株主臨時総会を開き尚三万七千五百円を払込ましめ、都合十三万七千五百円にて営業する事に議決したり、但し右払込金ハ本年本月より同九月までに委員の指定する期限に於て一回若くハ二回に入金する筈なり


中外物価新報 第一九四五号〔明治二一年九月二〇日〕 東京人造肥料会社計画の運び(DK120024k-0008)
第12巻 p.156 ページ画像

中外物価新報  第一九四五号〔明治二一年九月二〇日〕
    東京人造肥料会社計画の運び
府下深川釜屋堀に設立したる東京人造肥料会社の工事ハ着々其歩を進め、已に其器械据付も十中八九分方ハ相済み且製品貯蔵の倉庫も目下頻に建築工事中なるが、初其工場の装置を見るに、器械室ハ三階造にして七十馬力の蒸滊機関を据付け、而して肥料元質の一なる燐酸石灰を打砕て精細なる粉末となす、彼のルコツプ氏新発明の粉挽器械を始め、牛馬其他の獣骨或ハ鯡等を粉末になし更に各種の原質物を化合して精良なる肥料を製成する処の調合器械ハ勿論、尚牛馬等の獣骨に附帯せる脂肪を取るの器械あり、又各種の原料を分析して其良否を鑑定する所の分析室等ありて、諸般の器具一として備らざるなく実に完備せる一大製造所なるが、尤も諸般の準備相整ひ愈々其製造に着手するハ来月十日頃なるべく、又一日の製造高は十五噸乃至廿噸位なるべしとの事なり、一体欧米諸国に於てハ人造肥料の使用甚だ多く、随て其製造法も種々ありて英国には英国風、独逸にハ独逸風、米国にハ米国風ありと云ふ如く、其製造法にハ孰も多少の長短優劣あるを免れざれど、東京人造肥料会社にてハ特に此辺に注意し、昨年益田孝氏と共に其技術長たる高峯譲吉氏を欧米へ派遣し、英独米等に於ける数多の人造肥料の製造器械及其製造方法等をも親しく実地に就て其得失を調査し、広く各国の長所を探りて其製法を施し且つ我が日本の地質を考へ桑ハ桑、茶ハ茶、米ハ米と云ふ如く一々各種の農産物に就きて各々適合の肥料を製造することなれば、其製造器械及其製造法ハ今日世界に於ける人造肥料会社、恐らくハ此の会社の右に出るものなしと云ふも敢て過言にあらざるべし


竜門雑誌 第五号・第二〇頁〔明治二一年九月二五日〕 ○東京人造肥料会社(DK120024k-0009)
第12巻 p.156-157 ページ画像

竜門雑誌  第五号・第二〇頁〔明治二一年九月二五日〕
○東京人造肥料会社 同社は世上の熟知せらるゝ如く両渋沢、益田諸氏の発起に係り、資本金弐拾五万円を以つて南葛飾郡大島村に工場を新築し昨今器械の据付中なり、而して之を運転するに至れは、一昼夜の製造高は十五噸乃至廿噸の多きに至ると云ふ、而して埼玉県人松本小吉氏の調査によれは、南埼玉一郡にて悉く之を需用する時は、同工場にて製造するのみにては到底欠乏を告くるに至るへしと、同社の肥料は是迄各地へ分ちて之を試験せしめしに何れも好結果を奏せしといふ、埼玉県榛沢郡近方の重に桑又は藍の生産地に施したるは余り好結果を得さりしとの報あり、然れとも施用法の未熟なると栽培の宜しきを失ひたるによるならん、其他は皆充分の結果を得、諸方より注文多
 - 第12巻 p.157 -ページ画像 
く、殊に福島地方の如きは桑の肥料に用ゆる者多しと聞く、(因に記す、支配人和田格太郎氏は元越中の豪農にして夙に農事の改良に熱心にして、是迄種々の経験によりて目下西洋諸国に行はるゝ人造肥料の我土地に必要なるを計り、遂に渋沢・益田両氏の賛成を得て今日の事業を起せしと云ふ)


大日本人造肥料株式会社創業三十年記念誌 序文第一―六頁 【祝辞 … 大正六年二月 工学博士薬学博士 高峰譲吉】(DK120024k-0010)
第12巻 p.157 ページ画像

大日本人造肥料株式会社創業三十年記念誌  序文第一―六頁
    祝辞
 大日本人造肥料株式会社創立三十年記念祝賀の開催に際し、偶然帰朝せる予が一言の祝辞を述ぶることを得しは頗る光栄とする所にして又転た懐旧の情に耐へざる所なり
 回顧すれば予が工部大学を卒業して英国に留学中(明治十一年―一八七八年)、ニウ・キヤツスル・オン・タインの或る化学製造所に於て実習的に見学したるは実に過燐酸肥料の製造なりき、後北米のニウ、オルレアンスに万国博覧会開設の当時(明治十七年―一八八四年)予は本邦の事務官に選任せられ、同地に滞留して其事務に鞅掌せり、同博覧会にサウス、キヤロライナ洲の出品に係る大なる「ピラミツト」形に積上げたる燐礦あるを見たり、以為らく、嚮に英国に於て見学的に従事せる製造所の原料は是なる哉、之を本邦に用ゆるも亦必ず有益なるものあらんと、即ち私資を投じて其数噸を購ひ、携へ帰りて時の農商務当局者に謀り、之を全国の有志者及び各府県の農事熱心家に分与し、実地に試用を依頼したるに、其成績果して良好なりしが故に、農商務大輔吉田清成氏先づ意動き、之れが製造事業を内国に起すの国家的重要事なるを認め推奨せられたり、依て予は本起業に関し、第一に実業界の先覚者渋沢栄一氏に謀りたるに、同氏は之を益田・大倉・浅野氏等を始め其他有力なる諸氏と旧第一銀行楼上に会して協議せられしに、議忽ち一決し会社を創立することゝなり、其製造上の計画及其実施を予に委ねられたり、斯くして成立したるは即ち本会社にして時は明治十九年、実に今を距る三十年前なり、会社は既に成立し、事業の国家的有望なるは何人も認むる所なれども、尚ほ其事業の遂行は頗る困難なるものありき、之れを略述すれば即ち初年は全部損失に帰し、次年は僅に欠損なきを得、第三期は初年度の損失を補顛し得、爾後幸にして順次売行を増加し、漸く収支相償ふの見込を立つるに至れり、予は本品の普及を図る為め時に或は草鞋を穿ちて山間僻陬を遊説せしことありき○下略
  大正六年二月
                  工学博士薬学博士 高峰譲吉


大日本人造肥料株式会社五十年史 第一―四五頁〔昭和一一年一一月〕(DK120024k-0011)
第12巻 p.157-164 ページ画像

大日本人造肥料株式会社五十年史   第一―四五頁〔昭和一一年一一月〕
  第一編 当社の沿革
    第一章 創立
 明治十二年、工部大学を卒業した高峰譲吉氏が、英国へ留学中ニユウ・キヤツスル・オン・タインの或る化学製造所に於て実習的に見学したのは、実に過燐酸肥料の製造であつた。
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 顧れば、これが農業国日本へ黎明の鐘を響かせ、その肥料界に大なる革命を齎したそもそもの動機であり、更に又我大日本人造肥料株式会社の誕生の遠因であつたのである。
 これより先明治四年、岩倉大使一行の欧米視察を端緒として、視察団、留学生の欧洲に渡航する者著しく増加し、泰西の科学文明は凄しい勢を以て西より東へと奔流して来たのであつた。当時我邦は明治十八年を以て不景気の底を突き、十九年政府は、政府発行の紙幣を正貨と交換することを発表したゝめ、俄かに通貨に対する信用が高まり、通貨価格の安定と共に、一般財界は漸く回復の歩調を辿るに至つた。これが為め事業界も急に活況を呈し、工場会社の勃興となり、諸株式の相場は奔騰の有様であつた。鉄道・造船・機械製造・紡績・採鉱・採炭等は急激に発展し、帝都東京に初めて電灯の灯つたのもこの頃のことである。引続き製紙・製油・セメント・煉瓦・皮革・硝子・ビール及び人造肥料等の化学工業が興つた。
 抑も人造肥料即ち化学肥料の研究は、早くより欧洲に於て行はれ、既に一七七四年即ち安永三年に、セント・レーゲル氏は牧草地に動物の骨を施用して実地研究を為したところ、牧草は大いに繁茂し、更に其の後作も良好な収穫を得てその有効性を実証した。続いて一七九五年には、ロルド・ワンドナルド氏が骨の成分が燐酸石灰であることを証明し、その翌年キルワン氏は小麦が燐酸を多分に含んでゐることから、骨粉が小麦の肥料として優秀なる理由を明かにしたのであつた。又一八四〇年、独逸の学者フオン・リービツヒ氏は、骨に硫酸を加へ溶解性を増し、植物の吸収を容易ならしむることを発表した。即ち骨又は燐礦石を原料として[硫]酸を働かし、初めて過燐酸肥料の試験製造に成功したのである。而して間も無く英国に於てフレミング氏が骨粉より過燐酸石灰を製造したが、更に一八四三年に至り、ロース及ギルバート両氏に依つて、テームズ河畔に大規模の過燐酸石灰工場が建設された。これが化学肥料の工業的に製造された濫觴である。
 玆に於て欧洲には、骨灰・糞化石及海鳥糞を原料とする過燐酸肥料製造工場が増設されるやうになり、一八六二年に於ては僅に十余万噸であつたものが、五十年足らずの間に、実に八十万噸の製造を見るに至つたのである。
 英国に留学中の高峰氏は、欧洲に於ける化学肥料発達の状況を視て胸中深く考ふる所があつたのであらう。その後明治十七年、同氏は北米ニユウ・オルレアンスに開催された、万国博覧会の日本事務官として出張、同博覧会で南カロライナ洲の出品に係る燐礦石の陳列されてゐるのを目撃され、嚮に同氏が英国に於て見学的に実習せる製造所の原料は之である、之を我邦に用ゆるならば必ず有益なるものがあらうと、私財を投じて過燐酸石灰六噸と燐礦石四噸とを購ひ帰朝されたのであつた。さてこの我邦最初の化学肥料は、時の農商務当局者に謀つて、之を全国の有志者及各府県へ分与されたが、その結果は果して良好であつた。是に於て農商務大輔吉田清成氏の意先づ動き、この製造事業を国内に起すの国家的重要事たるを認めて推奨された次第であつた。
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 元来我邦に於ては、早くも元禄年間より菜種粕、干鰯[等]の肥料が用ひられ、農業に於ける肥料の重要性は、我邦農業の集約性より必然的に認められて来たが、実際肥料として用ひらるゝものは総て自然物であり、人口の増加に比例しての農産物の増収を期待することは出来ない状態であつた。当時渋沢栄一・益田孝両氏はこの状勢を憂慮され、我邦将来の発展と人口の増加に伴ふ食糧問題の解決は、この耕地面積の狭小なる国土に於ては、合理的施肥に依る農産物の増収を図るのが最大重要事であると達観されたので、高峰氏との間に於てこの肥料製造事業を起すことに就き協議を重ねられることとなつた。その結果更に渋沢喜作・侯爵蜂須賀茂韶・大倉喜八郎・浅野総一郎・三井武之助・安田善次郎・馬越恭平等の諸氏に謀つて、東京人造肥料会社創立が計画さるゝに至つたのである。
 明治二十年二月廿八日、東京人造肥料会社は、第一国立銀行楼上に於てその創立に関する株主の臨時会議(当時の名称)が開かれた。創立趣意書は左の通りである。
○中略
 この会議に於て株金は金弐拾五万円と定め、その内四割即ち金拾万円を払込み、事業拡張の日再び残額を募集すると決議された。而して創立委員に渋沢栄一・渋沢喜作・馬越恭平の三氏が推薦され、高峰譲吉氏が技術師に任命されたのである。
 更に同年十二月十二日委員再選の結果、渋沢栄一・渋沢喜作・益田孝の三氏就任し、委員の互選を以て渋沢栄一氏が委員長に、渋沢喜作氏が検査係に就任された。
 翌明治二十一年七月二十三日臨時総会を開き、株金払込の額を五割五歩に増加し、即ち金拾参万七千五百円を払込むべきことに変更決議が行はれた。
 創立当時の定款は左の通りである。
○中略
 これより先、明治二十年四月十八日、東京府に対し会社設立の願出を為し、同月二十七日附を以て許可を受けた。場所は深川方面に於て水利の便ある地を選ぶの要あり、その年十二月東京府南葛飾郡大島村甲拾四番地並に拾五番地を選定した。而して翌年四月十七日警視庁に人造肥料製造場建築を願出で、四月二十一日附にて許可されたのである。
 前記大島村の宅地田畑合計二千百二十二坪並に家屋四十一坪七合五勺と納屋三十坪は明治二十年五月二十四日に買入れ、その家屋を修繕して事務所に充て、納屋も亦修繕して使用した。九月十三日より地所区分を定め地盛に着手し、建築工事はこれを辰野金吾氏に委託した。
工場各部の坪数は左の通りである。
 一、製造場  (木造)   三百七十五坪
 一、第二製造場(同)    五十坪
 一、試験室  (同)    三十五坪
 一、倉庫   (煉瓦石造) 百十九坪
 一、納屋   (木造)   三十坪
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 会社の創立が終るや、明治二十年三月益田・高峰両氏は海外に於ける肥料製造諸機械の購入・据付及一般設備等、調査視察のため洋行され、原料の引合から機械購入等の用件を済ませ、同年十一月同道帰朝された。而して米国に注文した諸機械は、二十一年二月末より漸次到着し、その据付を山田要吉・阪田貞一両氏に委託して十一月中に全部完了し、こゝに名実共に東京人造肥料会社は創設されたのである。
 肥料の製造は、二十一年三月一日より始め、米国輸入の過燐酸・智利硝石及加里塩等を少数の職工にて調合し、試験的に多少発売してゐたが、万端の準備整ふや、十一月二日機械の運転を開始し、初めて燐礦石を粉末とし、蒸解した屑物と調和して人造肥料を製造したが、その原料の殆ど大部分が外国品であることは、止むを得ざる事情であつた。尚硫酸は三井物産会社を通し印刷局より払下を受けて居たが、二十二年一月よりは直接会社へ払下を出願して許可となつたのである。
 会社の商標は、明治二十一年十月二十六日農商務省特許局長高橋是清氏の名を以て登録せられた。これが現在の社標日星印である。
    第二章 創業時代
○上略
 抑々明治の初期に於ける西洋文明は、特に物質文明的傾向を以て東洋を訪れ、当時の我邦各方面はその吸収に日も足らざる状態であつたが、農業方面に於てはその影響を受くること甚だ少く、旧態依然たるものがあり、その態度は飽くまで保守的で、陋習を墨守し新規のものは事の如何を究めず総て之を排斥すると云ふ状態であつた。ために同業某社の如きは、その創業当時骨粉の製造に対して工場を異端者の巣窟として極端に白眼視され、骨粉より生ずる一種の悪臭を嫌悪され、骨粉製造を外道の業とし、果ては暴害さへも加へられ、止むなく夜間辛うじて操業し、製品は無代提供の上、辞を尽して試用を乞ふたといふことである。漸くその効果の認めらるゝに及んでも、尚且つ当時の人々はこの骨粉肥料施用により稔つた米は、不浄の品として神前に供へざる程であつた。当社の人造肥料はその外見従来の肥料と甚だしく異り、恐らく当時の肥料観念を以てしては想像も及ばないものであつて、化学肥料に対する智識の皆無なその頃の一般農家は勿論、肥料取扱業者すらこの新肥料を理解する能はず、ために当社は販売に努めるといふより、寧ろこの新肥料の何たるかを世間一般に知らしめるのが先決問題であり、これが宣伝に汲々たる有様であつた。当時の大日本農会報、農業雑誌又は中外物価新報等の広告には、殆んど毎号人造肥料の説明を以て充たされ、又その販売所等の名称も、人造肥料発売本舗とか、人造肥料鼻祖本舗とか、或は日本製造元祖等の語多く、恰も売薬店の観があつたのである。それかあらぬか当社創立後一年余にして、次の如き端書が舞ひ込むといふ笑話もあつた。
  拝啓 陳者貴社には人造肥料御製造の由に候が右は一週間分及五週間分何程の代価に候や又服用後肥大の模様御一報被下度候
   明治二十一年八月十五日
 これは横須賀鎮守府附一等水兵某氏より来たものである。
 斯くの如き状勢の中にあつて、当社は委員指揮のもとに高峰博士、
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和田支配人等一意専心、東奔西走、南話北説に努め、農学校卒業生数名を雇入れて各地に派遣し、新肥料の効用及施用方法を講話説明せしむる等、百方農事の改良と肥料の販路拡張を図つたが、如何せん、一般農家は旧慣に捉はれ容易に之を信ぜず、殊に在来の肥料商迄も、自家従来の営業の妨げとなるなどの杞憂の下に、中傷を試みるものもあり、事業の進捗は素より肥料諸原料の買入にまでも支障を来したのであつた。
 偶々明治二十三年五月東京に於て大日本農会の大会が開催され、各府県より会員の上京したるを好機とし、同月二十日会員諸氏を当社に招待したが、その際渋沢委員長は左の要旨を述べられた。
 今回諸君は農会の大会に出京され、本日此処に御来会を頂いた事は本社の光栄満足とする処である。
 抑々本社は、我邦農事の改良発達を図るには先づ肥料の改良が最も急なるべきことを信じ、欧米各国に於て盛に行はれつゝある新式肥料の製造と、我邦在来肥料の状態を参酌し、玆に人造肥料の普及を図る目的で、試験的事業として創立したものである。而して爾来原料の撰択、製法の改良等常に百方注意を怠らず、種々辛酸を嘗め、既に二年余の日月を経過したけれども、農業知識の未だ一般に開けない為めか意の如く進まず、遂には此の事業が畢竟如何なる結果を来すべきものなるか疑はしくなる程にて、甚だ遺憾として居る所である。
 今回諸君が幸に上京来会せられた為め、本社は其の目的及方針を述べ大に諸君の助力を仰ぎ、倶に農事の改良発達を図らんと欲する次第である。諸君幸に本社の目的を賛助せられ、各地方農家に此の新肥料の施用を勧誘し、以て普及を図られんことを切望する次第である。若し諸君の助力を以てしても尚社業進展を見ない時は、寔に残念ながら吾々はこの事業の放棄を余儀なくされるであらう。願くば諸君我国家の為め大いに助力あらんことを。云々
 斯くて販路は容易に啓けず、事業は困難を極むる秋に当り、同年十一月には高峰博士が突然一身上の都合によつて渡米されねばならぬことになつた。この前後の事情を、高峰博士は当社創立三十周年記念の時に寄せられた祝辞の中に、次の如く述べられてゐる。
  (前略)予は本品の普及を図る為め、時に或は草鞋を穿ちて山間僻陬を遊説せしことありき、然るに当時予は事を以て欧米に渡航することゝなりたり。
  其次第は是より先予が北米合衆国より特許を得たる高峰式醸造法の実施を米人によりて行ふこととなり、予の渡米を要求し来りたるを以て、先づ之を渋沢・益田両氏に図りたるに両氏曰く、本会社事業漸く其緒に就かんとする時に於て、主務者の外遊は事業発展上甚だ心細きことなれども、一面には未だ曾て類例なき日本人の発明を米国に行はんとする折角の吉報を無にするは更に一層の遺憾なり、乍去之を露骨に発表せんには、株主に不安の念を抱かしむるの虞あるを如何にせん。と、予の渡米に就て躊躇せられしが、時重ねて予の私事に属する飛報ありたり。其れは予が妻の母の重病を伝ふるものなりき。於是乎渋沢氏曰く、後事は予一切の責を負ふて処理すべ
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ければ、貴君は渡米して、親しく母の病を看護し、且前記の発明の応用に成功すべし。と、予の渡米を許諾せられたり。而して此渡米が、予をして遂に今日迄永く、北米に滞留せしむるの首途となりたり。(後略)
 高峰博士は当社を去られたが、幹部を始め従業員は新使命の遂行に日夜努力を重ね、又農商務省に於てもその熱意に動かされて、各地の農家に試用を奨められ、且つ一般農家に対し化学肥料に対する正しき認識を与ふる為め、明治二十一年八月の官報に於ては、人造肥料の分析表を掲け肥料の解説をされてゐる。
○中略
 初め当社肥料の販路は、主として徳島の藍、岡山の蘭、長野及関東の桑、駿河の茶等特殊作物生産地方を目標として主力をそゝいだのであるが、却つて関東・奥羽地方の需要が増加して来た。之は東北のやうな痩地に於ては、特に人造肥料の如き有効な肥料を必要としたのとこの有効なる肥料により山林原野の開墾事業をも発達せしめ、新にこれが需要を増進せしむるに至つた為めである。然し第一年の売捌成績は芳しからず、筆頭の愛知県が一〇、四五〇貫であり、二、三年後筆頭に躍進した茨城県は、第一年に於ては一、〇三〇貫の売行であつた。この茨城県は時の安田県知事、殊に同県農事講習所長農学士織田又太郎氏が大に化学肥料を理解し、その有益必要を認め、専ら勧誘奨励に努められた結果、著しく需要を喚起し、爾来同県下の消費額は増加の一途を辿つたのである。
 さて筆頭愛知に続いて富山・埼玉・福島・長野の各四五千貫、合計四万八千貫が、見本時代を脱し、漸く商品時代へ進んだ第一年の姿であつた。購入者総数は百十五名と云ふ寥々たるものであつて、この年及第二年目に於ける営業成績は損失たるを免れなかつたのである。第一回考課状における計算は次の通りである。
  第一回考課状に於ける貸借対照表(自明治二十年二月至二十一年十二月廿三ケ月間)
      貸即資産之部
  一金拾壱万七千九百五拾円也        未納株金
  一金五万七千四百四拾五円六拾五銭六厘   地所家作器械
  一金八千九百〇壱円拾六銭七厘       第一国立銀行
  一金四拾参円八拾六銭四厘         貨幣
  一金三円〇六銭也             製造品
  一金三千四百七拾弐円九拾六銭也      製造場
  一金五万八千〇弐拾円六拾銭七厘      原料
  一金壱千〇七拾七円二拾三銭九厘      製造用品
  一金弐百廿八円六拾銭四厘         製造用具
  一金五百六拾六円八拾四銭也        小売先
  一金壱千七百拾壱円四拾四銭八厘      売捌所
  一金拾参円拾四銭壱厘           立替金
  一金四千五百九拾五円六拾銭壱厘      創業費
  一金四千〇三拾九円拾壱銭六厘       営業損
  一金壱千弐百廿四円七拾弐銭二厘      焼失損
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    合計金弐拾五万九千弐百九拾四円〇二銭五厘
      借即負債之部
  一金弐拾五万円也             株金
  一金八千九百八拾壱円拾弐銭五厘      原料取引先
  一金三百拾弐円九拾銭也          預金
    合計金弐拾五万九千弐百九拾四円〇弐銭五厘
     損益勘定
      益方
  一金八千七百三拾四円九拾壱銭四厘     製造肥料
  一金百三拾八円五拾壱銭五厘        雑益
  一金三千四百七拾弐円九拾六銭       仕掛物
    合計金壱万弐千三百四拾六円三拾八銭九厘
      損方
  一金壱万四千七百廿壱円六拾六銭      製造場
  一金七百〇壱円廿五銭八厘         職工賃
  一金九百六拾弐円五拾八銭七厘       割引手数料
    合計金壱万六千三百八拾五円五拾銭五厘
   差引残金四千〇三拾九円拾壱銭六厘    営業損
 開業後四ケ年を経過した明治二十四年に至つても、一般農村の理解と需要は依然として遅々たるもので、下半期販売部予定数量三万叺に及ばざること実に八千叺と云ふ状態であつた。
 当社は営業不振の善後策に就いて種々調査の結果、その主なる原因は製品に対する需要者の理解不足に在ることは勿論であるが、他面我邦在来の肥料は、概ね買次人の手に依り需要者へ貸附売をなす慣行であつたので、その方法に依らざれば自然敬遠されることが判つた。依つて当社は、止むなくその旧慣に追従して貸売を始め、巡廻員制度を設けて、福島県以下十五県へ派遣し、肥料の普及宣伝と貸売とを兼ね行はしめたのである。
 当時、農業に於ける肥料の位置は極めて軽視され、施肥による農作物の増収はありながら、その理由に就いては未だ極めて漠然たる知識を有するに過ぎず、人造肥料発売の当時、こんな石か砂のやうなものを、金を出して買ふなどとは馬鹿げてゐる、と一笑に附された程であつた。然るに学者の研究、当局者の努力は、化学肥料の価値を理論的に明らかならしめ、従来の盲目的施肥を覚醒せしむるに至つたのである。
 明治二十二年の「農業雑誌」に於ける次の一文はその一例である。
○中略
 さて、当社幹部以下各員一致の懸命なる努力と、取扱者一同の熱心は、漸次農家の認むるところとなり、即ち、当社創立以来三年目に至つて、初めて、七百六拾八円五拾壱銭四厘の営業益を計上するに至つた。
 これによつて力を得た当社は、益々製造の研究と販路の拡張に努めた結果、各地の需要も漸次増加し、毎期些少ながらも若干の利益増加を計上するやうになつた。即ち
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                      円
  明治二十三年下期         七六八、五一四
  同 二十四年上期       四、二三三、九九一
  同     下期       一、二九五、七〇一
  同 二十五年上期       六、〇七九、九三二
  同     下期       三、九七三、八八六
であつて、明治二十五年上期に於て、当社は創立以来初めての利益配当を為したのである。即ち金弐千七百五拾円を計上し、年四分に相当する株主配当を行ふに至り、事業の基礎やゝ整はんとするの観があつた。



〔参考〕竜門雑誌 第六号・第二一―二二頁〔明治二一年一〇月二五日〕 ○人造肥料の効験(DK120024k-0012)
第12巻 p.164 ページ画像

竜門雑誌  第六号・第二一―二二頁〔明治二一年一〇月二五日〕
○人造肥料の効験 深川釜屋堀東京人造肥料会社ニテ製造ノ肥料ハ其効験著シキコトハ普ク人ノ知ル処ナルカ、有名ナル盆栽家本所横網町香樹園孫八氏ガ実験セシ結果ナリトテ社員ニ語リタル一話ハ、盆栽家ニ利益アリト信スレハ此ニ掲載ス
石榴・薔薇・柿・梨子其他木性ノモノニハ効験最モ速カナリ、其施シ方ハ小ナル匕ニテ成リ丈ケ根ヨリ離シテ鉢ノ縁ニ沿フテ三四ケ所山形ニ配置シ、而シテ平常ノ通リニ水ヲ注クヘシ、斯クスレハ壱週間ヲ出サル中葉ニ光沢ヲ増加シ其効著シ、又草性ノモノハ鉢ノ縁ニ沿フテ少計堀リ、木性ノモノヘ施スヨリ稍少量ヲ前ノ如ク配置シ、根際ニ散乱セシメサル為メ土ヲ覆ヒ、平常ノ如ク水ヲ注ク時ハ之レ又其効験大ナリ、但シ蘭ノ如キハ未タ試験セサレハ其結果ヲ知ラス云々
又同社ノ高峰譲吉氏ハ西京ヨリ四国地方ヲ廻リ帰路東海道ノ各地ヲ巡回シ、農事実業家ニ就キ人造肥料ノ功能及ヒ施用法等ヲ説明シ、且ツ実地ノ試用ヲ請ハン為メ昨廿四日発足セリト云


〔参考〕(芝崎確次郎)執事日記 明治二二年(DK120024k-0013)
第12巻 p.164 ページ画像

(芝崎確次郎)執事日記  明治二二年
八月二十日
一君公ニハ午前八時、釜屋堀人造肥料会社委員会ニ付同社ヘ被為入


〔参考〕高峰博士(塩原又策編) 第二八―五〇頁〔大正一五年八月〕(DK120024k-0014)
第12巻 p.164-167 ページ画像

高峰博士(塩原又策編)  第二八―五〇頁〔大正一五年八月〕
    博覧会善用
 明治十七年に北米合衆国ルイジアナ州ニウオルレアンス市に万国工業及綿百年期博覧会が開催せられ、日本も之に参加したので、各方面から夫々に事務官を選定して、彼地に事務局を設けた。文部省側からは服部一三氏並に科学教育者としての玉利喜造氏なども行かれた。其他出品者総代からも要求があつたので、博覧会の目的に副ふたる工業的の技術者の側からも適当の人を派遣することの必要があつた。そこで高峰博士が其事務官に任命せられた。博士は他の事務官と共に、出品者総代と協同して、本邦の面目を保つことに努めた。其経費は僅に六万円ほどに過ぎなかつたが、各強国の間に介在して遜色なき折衝を為し得て、参加国として効果を立派に上げた。此博覧会が本邦の参加したる博覧会の中に於て、本邦の成功を博したるものゝ一として算へ
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られるのは、若い事務官なる博士の努力が与つて力ありしとも称されて居る。博士自身としては各国より参集せる専門科学者と臂を把りて交り、談笑の間にも学殖上に得る所尠なからず、加之、各国の進歩せる出品を親しく実見審査し、知見を拡むること決して一二に止まらなかつた。彼の肥料としての燐酸鉱に注目したるも、実に此時の出品中の一に在つたからである。
    人造肥料
ニウオルレアンスの万国博覧会に於て南キヤロライナ州より出品の燐酸鉱があつた。素より質実なる出品物の、何の装飾もなくして人の注意を惹かざりしが、若き日本事務官の高峰博士は、之を見逃がさゞりしのみならず、深き興趣を有ちて仔細に凝視した。そは嘗て英国に留学中、之を用ゐて燐酸肥料を製造したる経験あるに因由するのであつて、博士は之を見たるのみで満足することが出来ぬ、機会を得てキヤロライナ州に出張し、チヤーレストン市附近の産地に就て其採掘及製造の状況を詳細に視察し、尚ほ其若干量を購買し、帰朝の際之を携へて来た。人造肥料が、縦しや少量にもせよ、本邦に輸入せられたのは之が嚆矢である。此人造肥料は、或は冷笑を以て、又或は凝惧を以て迎へられながら、博士の熱心なる主張に依りて、農商務省勧農課の手を以て各地の篤農家に頒ち、之が使用成績を報告せんことを依頼しやられた。堂々たる中央官庁の人々すら、冷笑し凝惧して迎へたる程のものとて、配与を受けたる篤農家の直に之を実験したる者は少なかつた。博士は力めて地方に出張し、之が使用を勧誘し、其方法を指導する等、百方力を尽して成績を知らんことを欲した。其後遅延ながら報告が集まつて来た、殆ど言ひ合せたるが如くに、何れもが皆成績佳良である。博士は嘗て文献によりて知りたる所と、其報告とが符節を合したるが如きに、恰も予期したることの現実となりたることのやうに喜び、他の人々は如何にも不思議の奇術をでも見るかの如くに驚嘆した。
    肥料会社創立
 当時の農商務次官吉田清成氏は、此良成績の報告を苟もせず、宜しく日本に於て之を製造し、頒布するの途を設け、我が農事の進歩に資すべしと首唱せられた。けれども時代は官業の勃興を許さない、即ち民業として製造会社の設定を慫慂した。其結果として渋沢・益田・大倉・浅野等の有力諸氏の奮起せらるゝありて、東京人造肥料会社の創立を見るに至つた。此会社の根源は高峰博士に発して居る、其製造法の研究も考案も博士を待たなければならぬ、要するに博士を中心とするに依りて初めて成立するものであつた。されば政府は其旨を含みて博士の願を容れ、明治二十年三月在官の儘自費洋行を認可し、博士は直に出発し、仏・独・英・米諸国を巡回して斯業の視察を為し、米国に於て会社の依嘱により必要の諸機械を購入して、其年の冬帰朝し、翌二十一年の三月に非職と為りて専ら会社の経営にも技術にも任ずることゝなつた。此会社こそ日本斯業の鼻祖で、今現に深川釜屋堀に存する大日本人造肥料株式会社所属の大工場がそれである。博士は往年(明治四十一年)帰朝せられたる時、斯んな感想を漏されたことがあ
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る「明治二十一年創立の当時は僅に十二万五千円(資本金廿五万円の半額払込)の資本で創始したものが、今や全国では約一千三百万円の資金が此事業に投ぜられて居るとのことである(編者云爾後益発達し今は其数倍になつた)顧みれば二十年間の歳月が斯くも一百倍にまで事業を発展せしめた、今以て農業国の域を脱せざる日本は、此後尚ほ一層此事業の拡張を要するであらう、是は畢竟高所に立ちて達観し、先鞭を附けて斯事業を創始せられたる先輩が、目的を変へずして之が発達の誘掖に努められたるに由ることゝ深く感佩に耐えぬ」と。博士が此会社に力を致されたのは創立以来三年であつた、其従事の初めに於て、重役諸氏に向て述べけらく「斯かる事業は、世間未知の物を頒布するのであつて、それ既に困難多きが上に、諸業中最も因襲に泥み保守に流れ易い農業の習慣を革めるにあらざれば売拡められぬのであるから、其経営は至難中の至難と言はなければならぬ、勿論製造の技術上にも幾多の研鑚講究を要するものはあるが、それは不肖ながら私に一任せられたい、其経営に就ても充分には尽すが、併し右様の次第であるから、最初の一年は先づ損失、第二年に損益なく、第三年から多少にても利益あるに至らば、それを以て優良の成績を挙げたるものとせられたい」と、此道理ある告白に、一同諒解して博士に一任することにしたのであつた。博士はそれ以来技術上経営上非常の努力を吝まず、而も機会だにあれば地方にも出張して或は学術的に或は通俗的に宣伝に尽された。果して博士の言の如くであつた、第三年目には、勿論前年までの損失を塡補して、余裕ありとは言はれないが、兎に角利益を見るやうになつた、されば今後怠らで努むれば充分の見込の立つやうになつたのであつたが、玆に劇かに渡米する事情が突発して博士は此会社を退かれることになつた。
○中略
    永き渡米の首途
○上略 時は明治二十三年のことである、肥料会社の経営に前途の曙光を見、私設製薬所の研究に著々成績を挙げつゝあつた高峰博士は、或る時長文の電報を落手した、それはキヤロライン夫人の親族から急々渡米を促して来たのであつて、要は博士が曩に特許を得られた醸造法を北米に著名なる大酒造会社に於て採用することになつたが為めである今日以上に軽蔑して顧みられなかつた東洋有色人種の発明せる方法が北米の大会社に於て旧套を破りて採用せらるゝといふこと、それ既に一大快事であるが上に、特に需められて大陸に於て手腕を揮ふといふことは、先づ一歩彼等を征服し得たるかの概ありて、四方の志に昂がれる博士の心臓は、一きは高く波打つた。されど退いて思へば、人造肥料製造事業に対する責任も亦決して軽いものではない、開業僅に三年にして早くも之と別るゝは余りに軽挙なるが如くにも見ゆるので、博士は兎やせん角やせんと思ひ悩みて、之を渋沢・益田両先輩に打開けて謀つた。両氏は異口同音に渡米を賛成し、肥料会社は博士の尽力に依りて、予告の如くに進行し、最早前途の見込もつきたること故、今後も博士の方針を継承して経営すれば、恐らく失敗を招くの虞はあるまい、然るに一方本邦人の発明を外国に於て発展せしむることは真
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に千載一遇の快事である、又他人を以て代ふることの出来ないことである。万障を排して渡米するこそ宜けれとのことであつた。併し中心人物の去就は株主に動揺を来たすことがないとも言はれぬからといふことで、表面は夫人の親御の病気の為めと号し、後事は総て重役諸氏に託して、行李匆々横浜を解纜した。○下略


〔参考〕高峰博士(塩原又策編) 第一九三―一九七頁〔大正十五年八月〕 【追悼演説 子爵 渋沢栄一】(DK120024k-0015)
第12巻 p.167-168 ページ画像

高峰博士(塩原又策編)  第一九三―一九七頁〔大正十五年八月〕
    追悼演説
  大正十一年十一月十日帝国ホテルに於て帰朝滞京中の博士の遺族を請じて開催せる追悼会に於ける、演説筆記を左に掲く。
             発起人総代 子爵 渋沢栄一
○上略
 想ひ起しますと、明治十九年、神戸に於て私は初めて博士と親しくしたやうに記憶を致します。それは博士が酒に火を入れる為に清酒を悪くする、色を損する、之を防ぐ方法を講ずると云ふことで、灘方面の酒屋と色々話をなさる為に、御出張であつたのであります。私は又銀行の用向で神戸に出て居りまして、偶然一夕、色々方面違ひの談話を致しました。玆に初めて人造肥料の必要を唱へられました。元来私は百姓で、肥料の事に多少趣味を有つて居りました、が所謂野蛮的の肥料であつて、文明的の方法でなかつた為に、同君の人造肥料説を大に駁撃して、畳水練、雑誌の上の学問ではいけない、私は斯く斯くであると申して此提議に反対した。所が之に向つて丁寧なる説明を与へられた。私はよう覚えて居ります。極く近い例は葛根湯の効き方と、「らんびき」をして粋を採つた薬の効き方とは、どう変るかと云ふことを解釈すると、人造肥料の効果が直ぐ分る、素人でも分る方法だと云ふことでございました。抑植物は肥料に関係が最も多い、肥料に依つて発達すると云ふことは申す迄もない、即ち窒素・燐酸・ポツタースの三成分に依ると云ふことは、何人も理解するのであらうと思ふ。其方法は従来も日本に多少あるやうであるけれども、今申す葛根湯式であるから、どうも是は嵩が多くて効き方が悪い、是非之を直さなければいかない、幸にお前は工業に多少の経験があるから、大に力を尽して見たら宜からうと云ふ勧告を受けまして、段々の説明に深く感じまして、東京に帰りまして益田孝君に御相談をして、即ち明治二十年に人造肥料会社設立のことを提議したのでございます。其年に益田君は欧羅巴旅行をされて、博士と共に欧羅巴・亜米利加を廻つて帰られて、軈て会社を設立致しましたが、さて組立つて見ますと、側で考へるやうには事実運びませぬ。又実際の上に於てやり損つて博士に大に叱られたり、世間に笑はれたことが度々ある。例へば窒素肥料を送るべき所へ他の肥料をやつて失策したこともあります。又越中の高岡辺の水の多い田に、窒素肥料をやつた所が、粉であるから皆流れて仕舞つた。不慣な所からさう云ふやうな種々な欠点もございました、併し博士の丹精と吾々共も力を尽して経営致しました為に、追々に其歩を進めるやうになりましたが、其中に博士は従来の薀蓄を亜米利加に於て発展する為に、是非行かなければならぬと云ふ必要を生じたのでご
 - 第12巻 p.168 -ページ画像 
ざいます。私は其時に大に博士に不平を言ひました。此新しい事業を企てゝ、左様に大きな資本ではないけれども、併し日本に一つの新事業を起したのは、君の勧めに依つて私が会社を造つて此処に至つたのである、此成功を見る前に去ると云ふことは甚だ信誼を欠いた訳ではないかと申して、或は抑留せむと欲したことが屡であります。併ながら博士は此事業も数年の間には必ず相当な発達を遂げる、見込は立つて居る、故に其事はそれとして自分の目的の亜米利加に於て事業の経営を試みたい、今や其機運に向つたから是非行かなければならぬと云ふことで、此方を去るも気の毒、行かねばならぬ必要もある、所謂とつおいつの御考でありました。又益田君も私を説得されて一方から言へは困るけれども、一方から言へば博士の目的を失はせるやうになつても困るから、後の経営は他の者でやつたら宜からうと云ふことで、亜米利加の方へ渡航されたのが多分明治二十二三年の頃であつたかと思ひます。○下略