デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
18節 人造肥料業
1款 東京人造肥料株式会社
■綱文

第12巻 p.244-247(DK120028k) ページ画像

明治42年6月6日(1909年)

是年栄一、古稀ニ渉ルヲ以テ第一銀行他少数ノ関係ヲ除キ、諸事業ヨリノ引退ヲ決意シ、是日当会社取締役会長ヲ辞ス。同年七月二十九日開カレタル株主総会ニ臨ミ、栄一辞任ノ挨拶ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四二年(DK120028k-0001)
第12巻 p.244 ページ画像

渋沢栄一日記  明治四二年
六月六日 雨冷
○上略 午前十時兜町事務所ニ抵リ、諸関係会社ノ業務担当者ヲ会シテ、都テ其職務辞退ノコトヲ懇話ス、来会中種々《(者脱カ)》ノ論説アリシモ、切ニ之ヲ慰諭シ、一同ト共ニ午飧シ、後更ニ談話ヲ継続セシモ、一同ハ尚各会社将来ノコトヲ懸念シテ止マサリキ○下略


竜門雑誌 第二五三号・第四七―四九頁〔明治四二年六月〕 青淵先生の各種関係事業引退(DK120028k-0002)
第12巻 p.244 ページ画像

竜門雑誌  第二五三号・第四七―四九頁〔明治四二年六月〕
    青淵先生の各種関係事業引退
我青淵先生○中略本月六日、従来関係の深かりし左の諸会社の諸氏を兜町の事務所に招き、其旨を発表して、懇ろに趣意の在る所を説明せられ、尋で同日附を以て左記の如き辞任書及書状を発送せられたり
○中略
         東京人造肥料株式会社
             専務取締役 犬丸鉄太郎君
             取締役 田中元三郎君
○下略
    辞任書
拙者儀頽齢に及び事務節約致度と存候間、貴社「何々役」辞任仕候、此段申上候也
  明治四十二年六月六日          渋沢栄一
    書状
拝啓、時下向暑の候益々御清泰奉賀候、陳は小生儀追々老年に及び候に付ては関係事務を減省致度と存し、今回愈々第一銀行及東京貯蓄銀行を除くの外、一切の職任を辞退致候事に取極候に付、別紙辞任書差出候間、事情御了察の上可然御取計被下度候、尤も右様役名は相辞し候へ共、向後とて従来の御交誼上必要に臨み御相談に与り候事は敢て辞する処に無之候間、其辺御承知置被下度候、此段申添候 敬具
  明治四十二年六月六日          渋沢栄一
辞任せられたる各種事業の名称及職任左の如し
○中略
  東京人造肥料株式会社同上 ○取締役会長
○下略


(大日本人造肥料株式会社)重役報酬賞与慰労及進退(DK120028k-0003)
第12巻 p.244-245 ページ画像

(大日本人造肥料株式会社)重役報酬賞与慰労及進退
    辞任書
 - 第12巻 p.245 -ページ画像 
拙者儀頽齢ニ及ヒ事務節約致度ト存候間、貴社取締役辞任仕候、此段申上候也
  明治四十二年七月十五日
                      渋沢栄一
  東京人造肥料株式会社
    専務取締役 犬丸鉄太郎殿
  ○辞任書ノ日付ハ、明治四十二年六月六日ヲ七月十五日ト訂正シタルモノナリ。


渋沢栄一 日記 明治四二年(DK120028k-0004)
第12巻 p.245 ページ画像

渋沢栄一日記  明治四二年
六月九日 雨 暑
○上略 午前十二時三井銀行内ニ設立セル三友倶楽部ニ抵リ益田・朝吹・飯田三氏ト共ニ鶴原定告氏ト会話シ、人造肥料会社ニ推挙ノコトニ関シ種々ノ談話ヲ為ス、午後三時第一銀行ニ抵リ犬丸鉄太郎氏ト人造肥料会社ノコトヲ談ス○下略
六月十日 曇 暑
○上略 正午第一銀行ニ抵リテ○中略事務所ニ抵リ人造肥料会社重役会ヲ開キ種々ノ要務ヲ談ス○下略
六月十二日 曇 暑
○上略 午後五時兜町事務所ニ於テ人造肥料会社重役会ヲ開キ○下略
六月十五日 晴 風強シ 冷
○上略
朝吹英二氏へ電話ヲ通シ鶴原氏面会ノコトヲ打合ハス、白金渋沢氏へ電話ニテ肥料会社ノコトヲ通知ス
○中略 午後二時朝吹・鶴原二氏来リ人造肥料会社ノコトニ付種々ノ談話ヲ為ス○下略
六月十七日 雨 冷
○上略 午後四時兜町事務所ニ抵リ人造肥料会社重役会ヲ開キ、将来ノ重役組織ニ関スル重要ノ議事ヲ為ス○下略
六月二十五日 雨 冷
○上略 午前十時兜町事務所ニ抵リ人造肥料会社重役会ヲ開キ、犬丸氏身上ニ関スル事ヲ談ス○下略
七月六日 曇 冷
○上略 十時兜町事務所ニ抵リ東京人造肥料会社ノ重役会ニ出席ス○下略
七月十四日 晴 大暑
○上略 東京人造肥料会社ニ抵リ重役会ニ出席シ要件ヲ議決ス○下略
七月十九日 晴 大暑
○上略 午後一時○中略兜町事務所ニ抵リ人造肥料会社重役会ヲ開ク○下略
七月二十九日 晴 大暑
十時○午前釜屋堀東京人造肥料会社ニ抵リ株主総会ニ出席シ、先般取締役ヲ辞任セシニ付一場ノ告別演説ヲ為ス○下略
七月三十日 晴 大暑
○上略 午後兜町事務所ニ抵リ人造肥料会社重役会ヲ開キ、鶴原・村井等ノ新任者モ来会シテ要件ヲ議決ス○下略

 - 第12巻 p.246 -ページ画像 

八十島親徳氏所蔵文書 明治四二年八月(DK120028k-0005)
第12巻 p.246 ページ画像

八十島親徳氏所蔵文書  明治四二年八月(八十島親義氏所蔵)
○上略
杉山・藤江二氏之来状ハ人造肥料会社合同問題関係ニ付、田中元三郎氏又ハ植村氏へ一覧ニ入候様可致事
○下略
  ○右書状封筒ニ別筆ニテ「渋沢男爵渡米出立の際八十島宛之覚書」トアリ。


大日本人造肥料株式会社五十年史 第七一―七四頁〔昭和一一年一一月〕(DK120028k-0006)
第12巻 p.246-247 ページ画像

大日本人造肥料株式会社五十年史  第七一―七四頁〔昭和一一年一一月〕
  ○第一編 当社の沿革
    第四章 日露戦役時代
○上略
 然るに明治四十二年七月二十九日株主総会に於て、渋沢会長は、齢既に古稀に達したるの故を以て辞任を申出でられた。渋沢子は実に当社創業以来の委員長として、将又取締役会長として在任せらるゝこと二十有三年、その間当社のために力を致された功績は、到底筆舌の尽す能はざる処であつたのである。我邦に於て渋沢子の手によつて創立された事業は銀行・製紙・鉄道・保険・取引所・紡績・炭礦・セメント・電灯・瓦斯・麦酒其他各方面に亘つてゐるが、当社の如きは最も心血をそゝがれ苦心された事業であつた。株主その他も大に辞任を惜しんで、留任を懇望したのであるが、辞意堅く、事情止むを得ずとして遂に之を承認した。同時に犬丸専務取締役も辞任し、鶴原定吉氏が取締役会長兼専務取締役に就任されたのである。
 総会当日渋沢子は社員一同を本社楼上に集め、左の如き訣別の辞を述べられ、遂に当社を退かれたのであつた。
  今日の総会にて、私は取締役辞任のことの同意を得まして、後任重役選挙も私の指名により決定しました。
  永年諸君の尽力を乞ひ今日の盛大を致したる会社を去るに臨み、玆に訣別の辞を述べます。
  明治十九年初めて起りし比会社も、爾来二十有余年間火災其他幾多の困難と戦ひ来り、其間勤務せられし御互ひ諸君の協力一致が今日の隆盛に致したる所以でありまして、物の成長は其組立が肝要にて、即ち会社の発展は其内部直接の事務員、尚進めて云へば多数労働者の尽力勤勉如何即ち事務と業務の神聖を完全に発揮すると然らざるに拠るのであります。故に凡て事業は事よりも人、金よりも人により盛衰を生ずるので、実務に当つて働く人と之を監督する人とが意思相投合して始めて成就するのであります。勤勉熱心なる諸君の援助により、先づ大なる過失なくして今日迄至りしを深く諸君に謝します。今私の身体は此会社を去ると雖も、此の事業は私と関係を断つ事なきのみならず、益々密接にならんとするのであります。各会社は無謀の競争を続けて居ります。販路の拡張に努めて居ります。乍然其方法宜しきを得て居ないことは明かであります。従来一反歩に一叺施用せし所に二叺用ひさせ、一俵の収穫を二俵の増収ある様に農民を導かなくてはなりません。此会社の事業は益々有望な
 - 第12巻 p.247 -ページ画像 
ると同時に之に働く人々も大いに努力しなくてはならぬのであります。今回新重役来らば我々より以上の良方法を提供して拡張の方法を講ずるでありませうが、其精神に至つては同じでありますれば、諸君は従前の通り熱心に勤務せられる事を切望して止まない次第であります。玆に訣別するに当り聊か辞とします。
 尚渋沢子よりは辞任に際して、当社職工救済基金を寄附された。
○下略


実業之世界 第六巻・第七号〔明治四二年七月一日〕 余が今回辞任したる六十会社の運命観(男爵渋沢栄一)(DK120028k-0007)
第12巻 p.247 ページ画像

実業之世界  第六巻・第七号〔明治四二年七月一日〕
  余が今回辞任したる六十会社の運命観(男爵 渋沢栄一)
○上略
    ◎東京人造肥料株式会社
           (明治二十六年十月設立払込資本千五十五万円配当年一割三分渋沢男は取締役会長)
日本の農業の進歩に添はせると云ふ意味で、此の会社は設立されたものである。始めは何分にも、不熟練であつたのと、供給状態の観察を誤つたのとで、随分悲況に陥つた事もあつたが、日露戦争前後から俄然として盛況を呈して来た。加之専務犬丸鉄太郎、取締役益田太郎、渋沢喜作などは、何れも恰当の人物であるから、其前途には何等の心配もない。只玆に注意を要するのは、各肥料会社大合同の問題で、是は是非成し遂げたいと考へて居る。各会社が各地に割拠競争して或は関東の肥料を関西に運ぶと云ふやうでは、運賃ばかりでも大した損害である。之を済ふには是非大合同を組織せねばならぬ。この大合同だけは、憚り乍ら私が力を入れなければ成立たぬと考へる。で、縦令重役は辞しても、此の方の尽力はする積りで居る。果して出来るかどうかは不明であるが、若し希望の如く行つたとすれば、勿論今の東京人造の重役を移して社長にする訳には行かぬから、誰か名望と手腕と両つながら具有する人を引出して是に当つて貰はねばならぬ。尤も私がやれば憚りながらやり得るが……
  ○日露戦役後人造肥料ノ需要急増シ、新会社ノ設立セラルルモノ多カリシガ東京人造肥料株式会社ハ明治四十一年八月、北海道人造肥料株式会社及ビ帝国肥料株式会社ヲ買収シ、四十二年十二月摂津製油株式会社肥料部、四十三年七月大阪硫曹株式会社ヲ合併シ、十月社名ヲ大日本人造肥料株式会社ト改メタリ。
  ○本款明治二十年四月十八日ノ条(第一五〇頁)参照。