公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
第12巻 p.682-694(DK120089k) ページ画像
明治38年11月21日(1905年)
是日ヨリ三日間ニ亘リ、芝公園内紅葉館ニ於テ当会社創立二十年記念祝賀会ヲ開催ス。栄一出席シ
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テ来賓ニ謝詞ヲ述ブ。
渋沢栄一 日記 明治三八年(DK120089k-0001)
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渋沢栄一 日記 明治三八年
十一月二十一日 晴 風寒
○上略 午後三時半紅葉館ニ抵リ、瓦斯会社二十年紀念ノ為ニ開キタル宴会ニ列シ、食事ノ際一場ノ謝詞ヲ述フ、大隈伯来賓総代トシテ答辞アリ、酒席ニ於テ種々ノ余興アリ、賓主共ニ歓ヲ尽シ、夜十時散会十一時王子別荘ニ帰宿ス
十一月二十二日 晴 風ナシ
○上略 午後二時兼子ト同ジク紅葉館ニ抵リ瓦斯会社ノ園遊会ニ出席シ一場ノ演説ヲ為ス、畢テ余興数番ヲ観、庭園ヲ散歩シ○下略
十一月二十三日 晴 風ナシ
○上略 午後一時ヨリ紅葉館ニ於テ開催スル瓦斯会社園遊会ニ赴ク、三時頃館ノ余興場ニ於テ謝辞ヲ述ヘ畢テ庭中ヲ散歩シ、午後五時半王子別荘ニ帰宿ス
東京経済雑誌 第五二巻第一三一三号・第一〇四九―一〇五〇頁〔明治三八年一一月二五日〕 ○東京瓦斯会社創立二十年紀念の祝宴(DK120089k-0002)
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東京経済雑誌 第五二巻第一三一三号・第一〇四九―一〇五〇頁〔明治三八年一一月二五日〕
○東京瓦斯会社創立二十年紀念の祝宴
東京瓦斯株式会社にては、創立以後二十年の歳月を閲みし、社運益々隆盛に赴きしかば、去る二十一日以降三日間に亘り、紅葉館に於て紀念の祝宴を張れり、初日は夕刻より朝野の貴顕紳士を招待し、渋沢取締役会長の挨拶、来賓大隈伯の答辞あり、各種の余興を演じたり、当日の来賓は、大隈伯・清浦農相・大鳥男・阪谷大蔵次官・松本海軍少将・三井八郎次郎・安田善次郎・大倉喜八郎其他朝野の紳士にして、盛会を極め、十時過散会せり、中日は午後一時より園遊会を開き、重なる得意先一千五百名を招待したるに、朝来天気快晴なりし為め、定刻より招待の諸客続々来会し、柳芳の紅裙団の斡旋及び各種の余興ありて、非常の盛会を呈し、終日も午後一時より園遊会を開き、朝野の貴顕紳士凡一千名を招待し、各種の余興及び奏楽あり、四時半に食堂を開き、立食の饗応あり、頗る盛会なり、該社にて編輯せる事業沿革の概要に曰く
回顧すれば瓦斯事業が明治十八年府庁の覊絆を離れて私設会社の手に帰してより玆に二十年、社会は物質の進歩を致し世人は文明の利器を用ふるに汲々とし、本会社の事業は頻年長足の進歩を為し其底止するところを知らず、点火料に就て之を観るも、瓦斯局創設時代に当り一千立方呎三円七十五銭の割合を以て供給し、十四年に至り三円に直下し、会社と為るに及び之が普及を謀る為め更に順次直下を講じ、明治二十二年九月二円に減じ、三十一年十一月に至り石炭の価格暴騰せし為め二円四十銭に直上げしたりと雖も、爾来石炭の価益々騰貴し、殊に昨年日露開戦以来は未曾有の高度に達したるに拘はらず、依然一定の点火料を維持して殆ど石炭代価と反比例の観を呈したるものは、主として需用の著しく増加せし為め其平衡を得しに起因すと雖も、抑も亦民業経営の結果たらずんばあらず、蓋し本会社は既往に於て炭価の騰貴に際し一定の点火料を維持したるを
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以て満足せず、今後鋭意其需用の普及を図り将来に於ては炭価益々騰貴するに拘はらず、点火料は漸を以て之を低減せんことを期す、今試に明治三十八年上半期間に於ける本会社事業の現況を示せば、瓦斯産出高三億五百二十二万三百立方呎、一日の平均高百六十七万七千六百十七立方呎を算し、コークの産出高、二千七百七十七万二千八百五十三斤、タールの産出高八千二百八十八石一斗九升九合、鉄管の延長三百六十五哩余に及び、線路の広袤市内十五区、新宿・品川・千住・板橋・駒場・滝の川・向島等の各郡村に互り街灯千八百基、灯火口数十一万個、燃料口数一万五千個、機関六百九十七基(馬力三千八百七十)引用需用者の数三万戸に垂んとす、之を創立の当時に比すれば実に非常の進歩なりと謂はざるべからず、是瓦斯は其需用の範囲極めて広く、近時白熱瓦斯灯の他の灯に比して最も経済なること漸く世人に認識せられたる為め灯火用として大に需用を増したるに止まらず、他の燃料に比して使用軽便なるが為め機関動力用及炊事用として需用せらるゝもの比来俄かに其多きを加へたるに因らずんばあらず、看来れば本会社事業の前途測かるべからざるものあらんとす
竜門雑誌 第二一一号・第一―三頁〔明治三八年一二月二五日〕 ○我国に於ける瓦斯事業の発達(DK120089k-0003)
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竜門雑誌 第二一一号・第一―三頁〔明治三八年一二月二五日〕
○我国に於ける瓦斯事業の発達
本編は青淵先生が東京瓦斯会社創立二十年紀念祝賀会席上に於て述べられたる演説の速記なり
臨場を辱ふ致しましたる閣下、諸君に対して一言の謝辞を申上げたうございます
今夕は東京瓦斯会社が丁度創立後本年で二十年に相成りまするので、紀念の為め心祝の小宴を設けましたる処御多忙の所斯く御尊来を辱ふしましたるは会社の光栄此上もございませぬ、役員一同を代表致しまして謝辞を申上げます、瓦斯会社創立後今日までに二十年を経過致しましたが、東京に瓦斯の起りました時日から勘定致しますると殆と三十五年目に相成ります、明治四年に由利公正君が試験的に器械を買入れられたのが抑も此瓦斯事業の起る濫觴を成して居りまする、併し初の十四五年は東京府の管轄でありまして即ち地方政府に依て経営されて居りました、然るに十八年に至つて東京府下の商工業家が数十人相集りまして其払下を受け玆に初めて民業に移りました次第でございまする、此二十年の歳月は日本の諸事物の非常に進歩しました時期でございまするから単り瓦斯のみが斯く生長致したと自ら誇る訳には参りませぬが、併し瓦斯の事業も亦世の進運と共に二十年の歳月を経て稍や人間で申しまするならば壮年時代と相成つたと言得るであらうと思ひます、仮に一二の数字比例を挙て申上試みたいと存じまするが、最初十八年に会社を組織致しま《(し脱カ)》た当時の瓦斯の引用家は何戸あつたかと申しますると三百四十戸ございまして、今日は幾らあるかと申すと二万八千戸であります、故に之を比例致しますると殆と八十三倍に当ります、又瓦斯管の延長が其初めは約十二哩であつたのが今日では三百六十五哩でございまするから是も三十倍許の増加を致して居ります、
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又一日平均の供給高が七万千立方尺であつたのが百六十七万立方尺に進んで参りました、故に半期間の産出高も千二百三十万立方尺であつたのが三億五百万立方尺と相成りましてございます、又資本金も会社創立の時には弐拾七万円でありましたが現在では八百四十万円になりました、是も三十一倍に相成つて居ります
瓦斯会社は此の如き進歩を致して参りましたが、他の物は如何であるか仮に二三の物質的進歩を調べて見ますると、銀行会社の資本なども明治十八年と今日とを比較致して見ますると殆と十倍近くにも相成て居ります、又鉄道なども十七倍に進んで居る、或は汽船も十一倍、貿易の輸出入総計も十一倍と云ふやうに相成つて居ります、此の如く世の進運に伴つて二十年の星霜に瓦斯会社が成長致したと云ふものは偏に此世の中が助けて呉れましたことで、此事業の進歩に付きましては中央政府地方政府又社会が此事業に同情を寄せられまして、種々なる点から御補助御誘導下すつて此の如く進歩致したものと我々共は実に感謝して居りまするが、斯る紀念に際しますると別して其感謝の意を強ふ致しまする故に玆に甚だ粗末なる小宴を開ひて謝意を表明致す訳でございまする
偖て左様に世の進運は盛んである、又瓦斯事業も既に資本に致しても三十倍にも進歩したからモー是で事業の進歩は満足であらうかと申しますると甚だ我々は不満足千万と云はなければならぬのであります、御祝の席に於て歎声を発するは又例の繰こと泣ことと或は御譏りもありませうが翻つて他の国々の有様を見ますると、実にまだ瓦斯の事業が甚だ情けないと思ひます、細かに各国の例は調べませぬが、玆に唯倫敦と比較して見ますると、東京の製造高が一ケ年に四億六千万立方尺であつて倫敦は四百二十億立方尺でありますから殆と九十一倍に当ります、又引用家は東京は二万八千戸を以て前には大に誇つて申上げましたが倫敦の引用家は幾らかと申すと七十五万戸ございます、東京に比較すると二十六倍であります、引用戸数二十六倍にして九十一倍の瓦斯を供給して居ると云ふことは如何に瓦斯事業が倫敦に於ては一戸当りが多き割合になると云ふことが御想像になられるであらうと思ふ、即ち一方の需要家が殆と四倍程多いからして斯様に戸数の割合に供給高が余計になる有様であります、又瓦斯管の延長を調べて見ますると東京は三百六十五哩にございますが、倫敦は四千八百哩で是も十三倍に当ります、十三倍の瓦斯管で九十一倍の瓦斯を供給すると云ふのも瓦斯管に通す瓦斯の量が大変余計であります、是は鉄道なれば行走哩か多いと云ふのと同じ道理になります、熱用の口数も東京は一万四千口でありますが倫敦は四十万口で是も二十八倍に相成つて居ります、各国の有様を十分調査する遑はございませぬで僅かに英国と日本とを比較して見ましても、前申す如く二十年の星霜を経て二十歳になつたから大変大きくなつた力も強く智恵も進んだと多少自惚れて見ましたが、英国の有様と比較して見ますと、実に慨歎の声を発せざるを得ぬ次第でございまする、併ながら此東京の瓦斯の需要は是に止まるか、二十年以前と比較しまして此の如く進みたるを以て未来を考へますると、此東京市街に瓦斯を引用する家がどれ位になるであらうかと
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申したならば今日の十数倍になり得らるゝと云ふことは申上るに憚りませぬ、果して然らば進む丈の力は充分持つて居るがまだ瓦斯の供給が行渡らぬ、蓋し其行渡らぬのは局に当る我々共の勉強の足らぬと智識の及はぬと云ふこともございませうが、既に中央政府地方政府若くは社会の誘導に依りて今日までに進歩したと云ふことならば、之を倫敦に比べて左様に懸隔して居るのは局に当らぬ諸君も多少責任を負ふて下すつてもよからうと思ひます、斯く申上げると喜びの中に苦情、御礼の中に御怨を申すやうでありますが、決して怨言を以て折角の目出度い宴席に御耳を汚す積りではございませぬ、蓋し不足と云ふ考は何時もあるのが人間の常で、却つてそれが国の進歩にならうと考へまする以上は、私が玆に此紀念の席に於ける不足の意味を持ちたる一場の謝辞は或は大に将来の進歩に助けを与へまいものでもなからうと考へます、玆に閣下諸君の尊臨を辱ふ致しました感謝の意を表すると共に小宴を開きまして開会の言葉を述べます。(拍手起る)
竜門雑誌 第二一一号・第三三頁〔明治三八年一二月二五日〕 ○東京瓦斯会社創立二十年紀念祝賀会(DK120089k-0004)
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竜門雑誌 第二一一号・第三三頁〔明治三八年一二月二五日〕
○東京瓦斯会社創立二十年紀念祝賀会 東京瓦斯株式会社は今を距る二十年前即ち明治十八年に青淵先生を始め藤本精一・浅野総一郎・須藤時一郎・大倉喜八郎等の諸氏か東京府庁と相談の上従来同府庁に於て経営したる瓦斯局の事業を引継き、資本金僅に二十七万円を以て創て之を設立したる者にして、爾来社業益々隆盛となり今日に於ては資本金八百四十万円の大会社となりたるが、本年は恰も創立満二十年に相当するを以て同会社は其記念を祝賀する為め去十一月二十一日芝公園紅葉館に於て宴会を開き元老、各大臣次官其他朝野の名士数十名を招待し、猶二十二日及二十三日の両日は引続き同所に於て園遊会を開き府市名誉職、新聞記者、瓦斯引用家、取引先株主其他会社に縁故ある朝野の紳士凡二千名を招待したるに、其設備は何れも丁重を極めしが就中瓦斯営業者の催しとて露店飲食物の熱器は尽く瓦斯を応用し、特に夜に入りて園内八方に蜘の巣の如く横架せる瓦斯器に点火し、猶各所には飾火の外数千燭光の大瓦斯万灯を点し、園内の闇黒を破りて万斛の光明を発散し、忽ち芝公園内に一大不夜城を現出せしめたるか如きは嘗て是迄世間に催されたる園遊会には全く比類なき所にして、大に来賓の賞讃を博したりと云ふ、而して二十一日宴会の席上に於ては主人総代として青淵先生本誌社説欄に掲けたるが如き挨拶兼帯の演説を為されたるが、之に次て大隈伯は来賓総代とし左の答辞を述べられたり
大隈伯爵の答辞
本夕は瓦斯会社の二十年の祝宴に御案内を受けまして種々鄭重なる御饗応に与りまして厚く感謝の意を表します、唯今渋沢君より精しく会社の景況及ひ此二十年間に発達した有様並に倫敦との比較最も興味ある事を伺ひ甚だ喜びに堪へない次第であります、先づ第一に此二十年の期間に、渋沢君其他の瓦斯会社諸君の力を尽されて、今日の成功をせられたことを祝するのであります、併ながら唯今渋沢男爵のお話で大分最後に御苦情があつた、是は私は余ほど意見が違
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ふ、実に御亭主に向つて客が不足を申上げるのは甚だ失礼のようでありますが、少しく意見が違ふ、余義なく正直に明らさまに私の意見を述べる方が却て此祝宴に対して御祝詞を申上げる訳であらうと思ひますから無遠慮に私の意見の違ふ所を申上けます、倫敦に比較して殆と百分の一或は瓦斯管が十三分の一引用家の数も亦数十分の一と云ふ如き事を以て、頻りに慨歎されたが、是は大なる間違である、私は既往二十年の御祝詞を申すと同時に将来の瓦斯会社の営業の範囲の広大なることを御祝申したいと思ふ、倫敦より少ないからよいのである、若し倫敦に達したならば、瓦斯会社の運命知るべし(笑声起る)是より先には進まないのである、凡そ人間社会に光と熱ほど大切の物はない、極く簡単なる意味を以て見れば文明と云ふ意味は世の中が明くなつたと云ふ意味である、吾輩の子供の時には世の中は暗かつたのである、其時分は昼間も暗かつたのである、或不思議なる人は明治初年の一月元日に白昼堤灯を燃して歩いた人がある、どうも政治が悪いやうである、世の中が闇である……総て世の中が明るくなるがよい、第一瓦斯は光明を放つものである、瓦斯は光明を与ふるのみならず非常に熱を与へる、私は丁度五年前に私の家を焼いて仕舞つた、爰に安田君が居られるが、早くから火災保険をやつて私も実は保険の仲間で初め奨励した一人であります、どうも灯台元暗しで自分は保険を付けないで置いた、甚だ面目次第もない、実は甚だ恥ぢて余り世間には言へなかつたが今日白状する、安田君に会ふと実に面目ない(笑声起る)ソコデ火事は何から起きたかと云ふと「ストーブ」の石炭からである、で今度は火事を予防したいと云ふ考から「ストーブ」を瓦斯にした、同時に台所も瓦斯にした、火災は物騒である、尤も今度は保険を付けてあるから焼けても構はぬ(笑声起る)併し保険会社に損を掛けぬやうに又世間を騒がせてはならぬと云ふ考から瓦斯の熱を用ゆることにした、ところが是は非常に経済で凡そ四と六との割合である、百円費す所を六十円で済むのである、而して火災の憂がない、甚だ便利である、光と熱とを有する、それから此頃は此瓦斯会社に力を尽されて今日専務取締役をしてお居でゝあります高松君、是は私の友人である、是は名高い応用化学の大先生である、此人が学校で講義をして居られて今度は応用化学を実地に更に応用すると云ふことである、凡そ学者の最も興味ある物は石炭である、石炭から熱と光とを発する、さうして其跡に残つた物から驚くべき必要なる品物を得るやうになつた、殆と色素のみに於ても数千種を取ることが出来る、今日輸入する所の此瓦斯の副生物と云ふ物は数百万円に上ほる有様である、今の渋沢男爵の統計を以て云へば何十倍となるかも知れぬ、ところが日本の瓦斯の事業が甚幼稚であるから副産物を取る事業も亦規模が小さくして十分に行かぬのである、曾て此瓦斯の事業を為すに光のみにして熱に力を尽さなかつたと同しく、此副産物から非常なる富を得ると云ふことに是まで十分瓦斯会社が注意を払はなかつたのであらうと思ふ、然るに高松君の如き名高い学者が居られたならば必ず此副産物の利益と云ふものは、瓦斯会社の利益を増すのみならず、経済
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社会に大いなる利益を貢献することが是から起るであらうと思ふ、然らば瓦斯会社の前途は最も有利なる希望を十分に持つて居ると思ふ、依て私は瓦斯会社の今日の繁栄を祝すると同時に将来を御祝しするは私は最も理由あることゝ思ふ、御主人たる渋沢君は御小言とか愚痴とか云ふお話であつたが、私はさうであるまいと思ふ、余り会社の利益を御吹聴なさるのを憚つて、愚痴を云ふて紛はされたことゝ思ふ、其実は将来会社の利益あることを御吹聴になつたのであると思ふ、然らば御亭主と客との希望は決して衝突しないのであるソコデ是までの事業に対して祝すると同時に将来の成功を祝し所謂瓦斯会社の万歳を唱へます(拍手起る)
因に記す会社現任役員は左の諸氏なりと云ふ
○下略
竜門雑誌 第二一一号・第九―一七頁〔明治三八年一二月二五日〕 ○東京瓦斯株式会社事業沿革概要(DK120089k-0005)
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竜門雑誌 第二一一号・第九―一七頁〔明治三八年一二月二五日〕
○東京瓦斯株式会社事業沿革概要
今を距る三十五年前明治四年二月時の東京府権知事由利公正氏(由利子爵)は瓦斯灯を市内に建設するの一歩として先づ之を浅草新吉原廓内に試用せんとし、市の共有金を支出し高島嘉右衛門氏をして新に器械を倫敦より購入せしめ、同五年七月器械は到達せしも業嶄新に属し急遽に着手すること能はず、幾ならずして由利氏去り、大久保一翁氏(大久保子爵)之に代り、舶載の器械空しく、深川清住町仙台倉屋敷(今の浅野セメント工場)に堆積せらるゝこと三年に及べり(市の共有金とは市民非常救助に充つる目的を以て老中松平定信が制定したる寛政町法に基き蓄積したる所謂七歩積金にして、因襲怠らず明治の初年東京府庁の管轄に帰し、町会所之を経理し、金額六十一万八千両其他貯蔵米穀所有地所家屋の代価数十万両に上りたり、此共有金は明治五年三月町会所廃せらるゝに及び、一旦東京府庁の手に移りたるが同年五月東京営繕会議所起るに及び更に其管理に帰し、専ら市中の道路橋梁を営繕するの原資に供せられたり、其後同年九月に至り営繕会議所は其組織を改正して東京会議所と更称し、市の共有金を以て養育院其他の用途にも支出することとなりたり)
当時高島嘉右衛門氏は横浜瓦斯会社を興し、之が社長と為り大に其便益に鑑み、東京府庁が購入したる器械を以て新橋日本橋間に瓦新街灯建設《(斯)》を出願し、東京会議所も此器械を利用して市内枢要の地へ瓦斯街灯五百基の建設を決議し、会議所は遂に知事の認可を得、明治六年六月仏国技師ペレゲレン氏を雇入れ工を董さしむ、此時に当り松本金兵衛氏(新吉原金瓶大黒主人)は礦油灯を新製して其効用遥かに瓦斯灯に優れるを論じ、西村勝郎氏(西村勝三氏の弟)は現華灯(礦油灯にして形状蓮花に類す)の効用は毫も礦油灯に劣らずして経費は却て廉なりと説き、各之が短長を争ひて其建設を会議所に申請したるを以て会議所は実検の為め此二灯と瓦斯灯と三者鼎立せしめ、各種五百基宛を建設することに決し、瓦斯焚炉を、木挽町八丁目元工部省敷地に設け、十二月二十六日芝浜崎町三番地地所三千四百二十三坪を瓦斯工場敷地として借り受け、焚炉を此地に移し、高島嘉右衛門氏建築の設計
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を受負ひ明治七年一月京橋以南瓦斯街灯の建設に着手し、其十二月十五日試点火を行ひ、越へて三日、即ち十二月十八日より始めて点火せり、其数八十五基、是実に東京に於ける瓦斯事業の起原なりとす、是より先き八月礦油街灯四十八基を馬喰町通に建設し、九月一日より点火し、八年十二月に至り現華灯五百基を西村勝郎氏より購入したり、当時東京会議所は大に市政の刷新に熱中し、近頃大蔵三等出仕を辞して第一国立銀行の総監と為りたる渋沢栄一氏(渋沢男爵)の善く民情に通暁するを以て会議所総轄を嘱託するの決議を為し、知事の認可を得たり、実に明治七年十月一日なり、渋沢氏の入るや鋭意之が整理に当り、会議規則を制定し、議目を修路修築・瓦斯街灯建築・商法講習所・養育院・墓地取締・会議所所属金銭出納・付属地販売等に分ち、行務を庶務・会計・修築・街地・救育の五課とし、渋沢氏会頭を以て行務頭取を兼ねたり、街灯の制は前述の如く瓦斯灯・礦油灯・現華灯の三種に分ち、順次設置し、明治八年に至り瓦斯灯三百五十基、礦油灯四百十八基に及びたり、明治九年一月会議所は其行務科の事業を挙げて悉皆之を府庁に引渡し、次に其管理の資金は市民共有金たるを以て府庁をして之を管理せしめ、会議所は其収支の決議にのみ与るべしと議決し、即ち五月二十五日を以て行務と原資金とを東京府庁に引渡したり、此時より瓦斯事務は新に府庁内に一局を置き之を管理せしむることとなり、渋沢氏府庁よりの嘱託を以て其事務長と為り、西村勝三氏之に副たり、是れ実に本会社の前身なりとす、同時に礦油現華の両灯は将来の得失に於て充分の成算なき者と認められ之を廃止し、瓦斯局其残務を継承し、礦油灯は十二月二十二日全く点火を止め現華灯は器械を準備せしのみに止まり建設を了せずして廃せられたり、瓦斯事業創設より明治九年五月に至る四十六ケ月間に礦油現華両種に支出したる四万四千六百八十八円余を除き、瓦斯にのみ支出したる金額は総額十七万千五百五十六円六十五銭八厘にして点火料として徴収したるは六千三百十円九十七銭差引十六万五千二百四十五円六十八銭八厘は実に共有金よりの支出に係る、街灯点火料は当初会議所各区戸長と協議し、毎月費額の折半を沿道地主に賦課せしが、苦情多くして創業より八年六月までの収入僅かに一千百八十九円余に過ぎず、到底維持の途立たざるを慮り賦課の良法を得るまで府税を以て支弁すべきことに決したり、幾もなく府会起り瓦斯街灯費として之を地方経済に移したり、当時市民生計の程度低きと瓦斯灯火の効用世人に熟知せられざるとにより需用の範囲極めて狭少にして街灯三百五十基を除き家内に引用したる容量は明治八年三月に於て二万五千二百廿七立方呎、同九年は一ケ月五万八千八百八十五立方呎、同十年は一ケ月十一万八千八百九十六立方呎を算するに過ぎずして同年十二月に於ける需用者の数僅かに十九戸に止まり、消費高の最も多きは工部大学校・駅逓局・日報社等の一ケ月各三万立方呎内外にして火口の総数も六百三十七個を出でざりし、明治十年三月瓦斯製造器械(一ケ月二百五十万立方呎の製造力を有する)増築案を決し、四万三千円を支出し技師ペレゲレン氏を英国に派遣し器械を購入せしめ、翌年工事成りペレゲレン氏を解雇し綾部平輔氏をして代りて技術の事を行はしむ、明治十二年には需用者の数八十八戸、火口
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の数千百九十二個に増加し、明治十四年には街灯四十四基を増加し需用者の数二百廿二戸に上りたり、是より先き府会議員中共有金は素と備荒儲蓄の積立金に成り、瓦斯事業経営に許多の金額を流用するは其本旨に反するの説を為し、売却の議屡々会議に上りたり、此年七月二十六日区部会に於て十四年度瓦斯局収支予算を議するに当り、端なく本局売却の説再燃して公告の上購買希望者を募り価格条件等は府庁に申出づべきの決議を為したり、蓋し瓦斯局の事業は其実営利を目的とするものにして府庁直轄の下に之を経営せしむるは其当を得たるものにあらず、寧ろ之を私設事業として経営せしむるに如かずと云ふに在り、此時に当り電気灯事業大に欧米に喧伝せられて衆口皆其利便を説くの際之を高価に売却するは固より不可能の事にして、而かも区部会は却て其維持の困難を思ひ縦令低価なりとも其売却を断行せんと欲するの意ありしなり、而して民間有力者中亦此機会を利用して廉価に之を譲り受けんとし、私に渋沢氏に其売却を勧むる者ありしも氏固く執て聴かず、曰く曩に会議所が共有金を支出して瓦斯事業を経営したるは将来の有望を確信したるが為めなり、今や事業尚ほ創始に属し百事未だ其緒に就かざるの際に当り強て之を売却する時は既に注入したる資金を充分回収するを得ずして為めに市民の損失を醸すの恐あり、若かず今後数年を持続し殖益相当の域に進むを待て徐に之を売却するの計を為さんにはと、依て区部会に説く所あり、区部会亦之を是なりとして為めに売却の実行を延期するに決す、爾来渋沢瓦斯局長(明治十二年七月瓦斯局の職制を定め事務長を廃して局長を置く)は鋭意益々事務の整備を図り、瓦斯事業年々発達を加へ時機漸く玆に熟したるを以て遂に明治十八年三月に至り瓦斯局公の売案を具して之を知事芳川顕正氏(芳川子爵)に陳情したり、其要に曰く往年本局を売却するに関しては既に区部会の決議となりしも当時之を決行せば注入資本の半額をも得る能はざるの状況なりしを以て之が実施を見るに及ばざりしと雖も、今や本局の殖益は既に相当の域に進み、現下之を処分するも決して従来共有金より支出したる資金の回収を得るに難からず、殊に目下本局の状態は法制に束縛せられ徒に繁文縟礼に流れ業務の拡張を謀らんとするも遽に之を処置すること能はずして却て機宜を誤るの虞あるを以て、今日之を公売して民業に移すは本事業を伸張せしむる適法の措置なりと、抑も瓦斯事業創設以来明治十八年に至るまで共有金より支出したる金額は六十二万五千円に上りたりと雖も、毎季純益金を以て弁済し未済の額は二十一万八千九百余円に過ぎざりしを以て芳川知事は之を諒とし、府会の議に付し、二十六万九千円にて売却することを決議し、九月二十一日渡辺知事(洪基)は瓦斯局払受人総代渋沢栄一・藤本精一両氏に対して命令条目を交付し、尋で両氏は府庁官吏と会見して瓦斯局授受の手続を了したり、是実に明治十八年十月一日なり
爰に於て瓦斯局払受人は株金二十七万円を以て、東京瓦斯会社を創立し、本社を芝浜崎町に置き、渋沢・藤本両氏及び浅野総一郎・須藤時一郎・大倉喜八郎氏等委員に当選し、互選を以て渋沢氏委員長、藤本氏検査掛と為り笹瀬元明氏をして支配人の事を行はしむ、会社成立の
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当時に於ける需要者の数三百四十三戸、灯数六千六百七十八個、街灯四百基、瓦斯管延長十一哩六十二鎖、一日の瓦斯需要高平均七万千五十五立方呎にして、今日より之を観れば霄壌啻ならずと雖も当時に在ては実に機関の全力を殫せしなり、明治十八年十二月検査掛藤本精一氏病死し綾部平輔氏技術長と為る、明治十九年一月十五日株主総会に於て渡部温氏補欠委員に当選し、須藤時一郎氏検査掛と為る、同月二十四日株主総会に於て資本金八万円を増加して三十五万円と為す、明治二十年二月技術長綾部平輔氏罷め工学士所谷英敏氏之に代り、明治二十一年二月技術長所谷英敏氏病死し工学士中川五郎吉氏技術の事を行ふ、明治二十二年二月委員大倉喜八郎氏辞任し株主総会に於て西園寺公成氏当選其欠を補ひ中川五郎吉氏技術長と為る、七月四日芝浜崎町工場に機械を増設す、明治二十五年七月二十四日株主総会に於て神田以北の地方へ瓦斯製造所を増設することに決し、十一月十八日北豊島郡南千住町大字地方橋場へ工場設置を出願し、十二月十日許可を得翌二十六年十一月工事落成したり、明治二十七年一月二十一日改正定款の実施に依り、株主総会に於て役員の選挙を行ひ、渋沢栄一・渡部温・須藤時一郎の三氏取締役に、西園寺公成・浅野総一郎の両氏監査役に当選し、互選を以て渋沢氏取締役会長と為る、七月二十二日株主総会に於て資本金十七万五千円を増加す、十一月営業規則を定め製造方・街灯方・書記係・計算方・出納方・物品係・雑務係の分課を設け事務を分掌せしむ、明治二十九年七月七日深川猿江町へ工場設置を出願す、同月十二日更に株主総会に於て資本金五十二万五千円を増し、十一月二十二日株主総会に於て定款を改正し本社を神田錦町三丁目に置き、第一製造所(工学士内藤游氏現任所長たり)を芝浜崎町に、第二製造所(工学士水田政吉氏現任所長たり)を南千住町に、第三製造所(工学士上田太吉氏現任所長たり)を深川猿江町に置くことに決す明治三十年二月十六日曩に出願したる深川猿江町の工場設置を許可せらる、七月十四日株主総会に於て定款を改正し取締役二名監査役一名増員を決議し、其九月十五日の株主総会に於て笹瀬元明・大橋新太郎両氏取締役に、渡辺福三郎氏監査役に当選し、取締役須藤時一郎氏互選を以て専務取締役と為り、笹瀬氏取締役を以て支配人を兼ね、渋沢取締役の取締役会長たる故の如し、此月十八日本社を神田区錦町三丁目廿三番地に移す、明治三十一年一月十七日株主総会に於て資本金三十五万円を増して百四十万円と為す、七月十六日株主総会に於て取締役渡部温氏辞任の補欠選挙を行ひ、浅野総一郎氏当選し渡部朔氏・浅野総一郎氏の後を襲て監査役となる、九月取締役須藤時一郎・笹瀬元明両氏辞任に依り二十八日の株主総会に於て之が補欠選挙を行ひ、袴田喜四郎・監査役渡辺福三郎両氏当選し浅野彦兵衛氏・渡辺氏の後を襲て監査役と為り、取締役の互選を以て大橋新太郎氏専務取締役に就く、幾もなく支配人笹瀬元明・技術長中川五郎吉両氏其職を罷め、福島甲子三氏支配人に選任し、工学士平松末吉・同内藤游両氏技師となる、十月営業規則を改め総務課・工務課・商務課・会計課・経理課の五課、及第一・第二・第三の各製造所を置き事務を分掌せしむ、十一月深川猿江町の工場成る、明治三十二年三月五日株主総会に於て更に
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資本金七十万円を増加す、七月従来工務課に附属したる製作の業務を分離し、新に神田区錦町三丁目二十二番地に製作所を置き工場を特設して専ら瓦斯器等の製作に従事せしむ、此歳十二月第一製造所瓦斯製造工場の増築落成す、明治三十三年七月十六日株主総会に於て製造所増設鉄管延長の為め資本を倍加し四百二十万円と為し、定款を改正し営業の目的を瓦斯製造供給・副生物精製販売・瓦斯器械製作販売及び前項の目的を達する附帯の業務の四項としたり、十月第二製造所へ容量十二万立方呎の瓦斯貯蓄器を増設し、明治三十四年六月深川本村町へ副生物精製所を設置しコールタール蒸溜及硫酸アンモニヤ製造の事業を開始す、此事たる本邦に在りては創始の事業に属し、其結果猶ベンゾール・ナフサ・ナフサリン・クレオソート・ピツチ・軽油・クレシン等の各種を製出するに至る、五月一日技師平松末吉氏技師長となる、明治三十五年四月第二製造所へ五十万立方呎の瓦斯貯蓄器を増設し、十月第二製造所内に於て水性瓦斯の製造を開始す、此歳十二月一日取締役大橋新太郎氏専務取締役を辞し、取締役渡辺福三郎氏之に代る、明治三十六年七月十六日の株主総会に於て取締役一名増員を決議し、工学博士高松豊吉氏当選し互選を以て常務取締役と為る、明治三十七年一月十九日株主総会に於て資本金を倍加して八百四十万円と為し、業務拡張を遂行することを議決し、監査役改選に西園寺公成・渡部朔両氏重任し、渡辺治右衛門氏新任し、渡辺氏は幾もなく辞任したり、三月九日第三製造所へ容量六十万立方呎の瓦斯貯蓄器増設を出願し四月五日許可を得て現に工事に着手しつゝあり、七月十九日株主総会に於て監査役渡辺氏の補欠選挙を行ひ小林藤右衛門氏当選す、十一月七日監査役西園寺公成氏死去す、明治三十八年一月十九日株主総会に於て監査役を改選し、渡部朔・小林藤右衛門両氏重任し伊藤幹一氏新任す、六月十二日第三製造所へ一昼夜六十万立方呎製造の石炭瓦斯竈二区附属機械及び建物の増設を出願す、同月二十六日職制を改正して本会社の業務を総務・営業・工務の三部に分ち、総務部に庶務課・調査課の二課を置き、営業部に購買課・販売課・集金課・会計課・倉庫課・装置課の六課を置き、工務部に工事課・第一製造所・第二製造所・第三製造所・副生物精製所・器具製作所の一課五所を置き以て大に業務を拡張す、是実に本社創立以来現時に至る事業沿革の概要なり回顧すれば瓦斯事業が明治十八年府庁の覊絆を離れて私設会社の手に帰してより玆に二十年、社会は物質の進歩を致し、世人は文明の利器を用ふるに汲々とし、本会社の事業は頻年長足の進歩を為し其底止するところを知らず、点火料に就て之を観るも瓦斯局創設時代に当り一千立方呎三円七十五銭の割合を以て供給し、十四年に至り三円に直下し、会社と為るに及び之が普及を謀る為め更に順次直下を講じ、明治二十二年九月二円に減じ、三十一年十一月に至り石炭の価格暴騰せし為め二円四十銭に直上げしたりと雖も、爾来石炭の価益々騰貴し殊に昨年日露開戦以来は未曾有の高度に達したるに拘はらず依然一定の点火料を維持して殆ど石炭代価と反比例の観を呈したる者は、主として需用の著しく増加せし為め其平衡を得しに起因すと雖も抑も亦民業経営の結果たらずんばあらず、蓋し本会社は既往に於て炭価の騰貴に際
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し一定の点火料を維持したるを以て満足せず、今後鋭意其需用の普及を図り将来に於ては炭価益々騰貴するに拘はらず点火料は漸を以て之を低減せんことを期す、今試に明治三十八年上半期間に於ける本会社事業の現況を示せば瓦斯産出高三億五百二十二万三百立方呎、一日の平均高百六十七万七千六百十七立方呎を算し、コークの産出高三千七百七十七万二千八百五十三斤、タールの産出高八千二百八十八石一斗九升九合、鉄管の延長三百六十五哩余に及び、線路の広袤市内十五区新宿・品川・千住・板橋・駒場・滝の川・向島等の各郡村に亘り、街灯千八百基、灯火口数十一万個、燃料口数一万五千個、機関六百九十七基(馬力三千八百七十)引用需用者の数三万戸に垂んとす、之を創立の当時に比すれば実に非常の進歩なりと謂はざるべからず、是瓦斯は其需用の範囲極めて広く近時白熱瓦斯灯の他の灯火に比して最も経済なること漸く世人に認識せられたる為め灯火用として大に其需用を増したるに止まらず、他の燃料に比して使用軽便なるが為め機関動力用及炊事用として需用せらるゝもの比来俄かに其多きを加へたるに因らずんはあらず、看来れば本会社事業の前途測るべからざるものあらんとす、爰に二十年間に於ける事業の統計を摘要し巻尾に附して以て参照と為す
自明治十八年十月至同三十八年六月 東京瓦斯株式会社事業成蹟一覧表
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〔参考〕渋沢栄一 書翰 萩原源太郎宛(明治三八年)九月一九日(DK120089k-0006)
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渋沢栄一 書翰 萩原源太郎宛(明治三八年)九月一九日
(萩原英一氏所蔵)
拝啓然者過日御廻被下候瓦斯事業沿革之概要再応熟読之上、少々修正相加へ返上仕候、朱字御附紙之廉々ハ其中太田氏ニ篤と調査為致候様仕度と存候
谷七太郎と石灰買入之契約ハ協定相成、既ニ約定書締結相済候哉、且実地派出之人も最早出立候哉、乍序模様相伺候、電話ニても御回示可被下候 匆々不一
九月十九日 渋沢栄一
萩原源太郎様
拝答