公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
第13巻 p.43-65(DK130009k) ページ画像
明治41年6月5日(1908年)
是ヨリ先三十九年二月、園田孝吉・伯爵副島道正等、英国ホワイト商会外二三ノ資本家ヨリ成ルシンジケートト共ニ日英両国人共同ニテ日本ニ於テ水力電気事業ヲ起サントシ、調査ノ結果大井川ヲ有望ト認メ其水利権ヲ得。進ンデ右日英共同会社ノ水利権ノ譲渡ヲ受ケ、更ニ発起人ヲ加ヘテ日英水力電気株式会社ヲ創立セントシ、是日三井集会所ニ於テ京浜実業家ヲ招キ会社設立協議会ヲ開ク。栄一、松方・井上両侯ノ勧誘ニヨリ此席ニ列シ、創立発起人トナル。其後栄一明治四十二年六月ニ至ル迄創立委員トシテ其準備ニ参与シ、尽力スル所多カリシモ、資金ノ調達、工事ノ引受方法等ニ問題起リテ成立ニ到ラズ、解散セリ。
渋沢栄一 日記 明治四一年(DK130009k-0001)
第13巻 p.43-44 ページ画像
渋沢栄一 日記 明治四一年
五月二十二日 晴 暖
○上略 食○午食 後松方侯爵ヲ訪フ、英国人共同ノ水力電気ノ事業ニ付種々ノ談話アリ○下略
五月二十六日 晴 暖
○上略 ○早朝 朝吹英二氏ノ来訪ニ接ス、日英合同ニテ設立スヘキ大井川水力電気会社ノコトニ関シ種々ノ談話アリ○下略
五月二十九日 雨 軽寒
○上略 午後二時三井集会所ニ抵リ、日英水力電気会社ノコトニ関シ種々ノ談話アリ○下略
六月一日 曇 暖
○上略 午後一時水力電気事務所ニ抵リ、書類ヲ一覧シ、工事ニ関スル要件ヲ外国人ト協議ス○下略
六月三日 晴 暖
○上略 十時日英水力電気会社事務所ニ抵リ、定款草案ヲ議定シ、契約案ヲ協議ス、園田・朝吹・副島・樺山・岸等ノ諸氏来会ス○下略
六月五日 晴 暖
○上略 二時三井集会所ニ抵リ、日英水力電気会社ノコトニ開シ株式勧募ノコトヲ談ス○下略
六月八日 雷雨 暑
○上略 午後一時第一銀行ニ抵リ、後事務所ニテ園田・朝吹・副島三氏ニ会見シ、水力電気会社ノコトヲ談ス○下略
六月十二日 曇 暑
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○上略 十時兜町事務所ニ抵リ、書類ヲ調査ス、英国人シルツ氏・副島伯ト共ニ来訪シ、日英水力電気事業ニ関シ種々ノ談話アリ○下略
六月十三日 雨 冷
○上略 三時事務所ニ抵リ、副島伯爵来リ水力電気会社ノコトヲ談ス○下略
六月十四日 曇 暑
○上略 九時麻布井上侯爵ヲ訪ヒ、日英水力電気会社ノコトヲ談ス、副島伯同席ス○下略
六月十七日 曇夕雨 暑
〇上略 午飧畢テ商業会議所ニ抵リ、園田孝吉氏ト共ニ水力電気会社ノコトニ関シ、全国商業会議所ノ人々ニ株式引受ノコトヲ勧募ス○下略
六月十九日 晴 暑
○上略 一時過日英水力電気会社事務所ニ抵リ、園田・朝吹・副島諸氏ト事務ヲ談ス○下略
六月二十四日 晴 暑
○上略 正午第一銀行ニ於テ午飧シ後水力電気会社事務所ニ抵ル、園田・副島・田中諸氏ト談話ス○下略
七月八日 曇 冷
○上略 正午銀行倶楽部ニ抵リ、日英水力電気会社ノコトニ関シ、園田・朝吹二氏ト共ニ各取引銀行者ニ依頼シ、且相共ニ午飧ス○下略
七月九日 晴 冷
○上略 華族会館ニ抵徳川公爵《(リ脱)》ヲ訪ヒ、水力電気会社ノコトヲ談話ス○下略
七月十八日 曇 冷
○上略 午後五時滝村小太郎氏来リ、日英水力電気会社ノコトヲ談ス
七月二十七日 晴 大暑
○上略 午飧後日英水力電気会社ニ抵リ、発起人会ニ列席ス○下略
九月二十二日 曇 涼
○上略 午後三時日英水力電気会社ニ抵リ、爾後ノ景況ニ関シテ園田氏ヨリ詳細ノ報告アリ、依テ近々英国技師ノ来着シテ更ニ起業予算ノ修正ヲ為シテ提出セラルヽヲ待テ其真想ヲ知悉シ、設立ノ見込確乎タルヲ得ハ其際ニ決意スヘキモノトスヘキ意見ヲ述ヘテ退散ス○下略
十一月二日 晴 冷
○上略
午前本郷弓町ニ古市公威氏ヲ訪ヘ、日英水力事業ニ関シテ種々ノ談話ヲ為ス
十二月一日 晴 寒
○上略 午前十時日英水力電気会社発起人会ニ出席シ、要件ヲ議決ス○下略
十二月九日 晴 寒
○上略 十二時半銀行倶楽部ニ抵リテ午飧ス○中略園田・副島氏等ト日英水力会社ノコトヲ談ス○下略
青淵先生公私履歴台帳(DK130009k-0002)
第13巻 p.44-45 ページ画像
青淵先生公私履歴台帳 (渋沢子爵家所蔵)
民間略歴(明治二十五年以後)
○上略
一日英水力電気株式会社創立委員 四十一年六月就任 四十二年六月六日辞任
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○中略
以上明治四十二年六月七日迄ノ分調
竜門雑誌 第二四一号・第三九頁〔明治四一年六月二五日〕 ○日英水力電気株式会社準備会(DK130009k-0003)
第13巻 p.45 ページ画像
竜門雑誌 第二四一号・第三九頁〔明治四一年六月二五日〕
○日英水力電気株式会社準備会 青淵先生が井上・松方両侯の勧誘に依り五月二十九日発起人に加入を承諾せられたる日英水力電気会社は去る五日三井集会所に京浜実業家を招き同社設立に関し賛助を求めたり、来会者は主客合せて三十余名にして、計画の要旨及事業の目論見を説明したるに何れも賛成の意を表し、互に意見の交換を為して、五時散会せり、当日参会の重なる諸氏左の如し
青淵先生・園田孝吉・朝吹英二・原六郎・団琢磨・松方巌・村井吉兵衛・佐竹作太郎・小川䤡吉・田中銀之助・岩永省一・益田太郎・今村繁三
尚同社の創立準備は順次進行したれば、先づ本月中に発起人其他の引受株を確定する筈にて、多分一般より募集することなくして満株に至るべしと云ふ
東京経済雑誌 第五七巻第一四四三号・第三四頁〔明治四一年六月一三日〕 日英水力電気会社の創立準備(DK130009k-0004)
第13巻 p.45 ページ画像
東京経済雑誌 第五七巻第一四四三号・第三四頁〔明治四一年六月一三日〕
○日英水力電気会社の創立準備
日英両国資本家の発起に依り経営されんとする日英水力電気会社の創立準備は順次進行を告げ来りしが、去る廿九日三井集会所に於て創立に関する協議会を開き、島津・毛利二公、井上・松方二侯、副島伯、三菱・三井各代表者、英国人ハウル氏、其他富豪・実業家等数氏参会し、井上侯の挨拶に次で、創立委員長園田孝吉氏より、英国資本家の代表者たる英国技師スカイラー氏が、発電地たる大井川流域を実地踏査の上、前途有望なりとの証明を得たる旨を報告して一同の賛同を求め、結局左の計画を確定し
一、日英水力電気会社発起人が先頃大井川流域に於て許可を得たる区域は三ケ所にして、上流田代川にて約十万馬力、中流梅地に於て約六万馬力、下流牛の首に於て約一万馬力、総計十七万馬力にして此利権を百万円の価格あるものと見積り、英国商慣習に依り、所謂親会社なるものを設立し、資本金百万円として日英国人折半に権利を所有する事、此会社は別に払込金を要せず、是迄発起費用として支出したる金額に止まるものとす
一、資本金一千三百万円を以て一会社を起し、先づ中流伊川に天然の地形を利用し大貯水池を設け、梅地に発電所を置く設計にて、該資本金は日英資本家折半とし、各六百五十万円を負担し、別に五百万円は英国に於て社債を募集する筈にて、有力なる倫敦シンジケートの承諾を得居れりと
尚ほ本月六日前回以外《(五カ)》の京浜実業家を三井集会所に招待して一同の賛同を求めたるが、本月中に発起人其他の引受株を確定する筈にて、多分一般より募集せずして満株となるべき模様にして、遅くも来月中には会社の成立を見るに至るべしといふ
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竜門雑誌 第二四三号・第三八頁〔明治四一年八月二五日〕 ○日英水力電気会社の創立(DK130009k-0005)
第13巻 p.46 ページ画像
竜門雑誌 第二四三号・第三八頁〔明治四一年八月二五日〕
○日英水力電気会社の創立 日英水力電気会社は日英両国民の共同に因り日本に於ける水力事業其他土地の開拓殖林鉱山等を経営し、以て日本工業の発展に資せんとし、其一着として発起せられしものにして明治三十九年英国より水力事業に老練なる技師の派遣を請ひ日本技師と共に東京を中心とせる諸川の踏査に従事し、数回実測の結果大井川の最も有望なるを認め其水利権を得、是に本事業を会社組織とすることゝなりしが、英国資本家は同国の慣例により社債・優先株・後取株の三種に分ち募集せんとの希望なりしも、日本の法律に依れば種々差支あるより、客年十月英国資本家ハイン氏来朝の際、氏と交渉を遂げ終に日英共同・日英水力電気両会社を組織し、共同会社は水利権を日英水力に譲渡し、同時に一面には特に日英水力の株主に其持株に対し按分比例を以て共同会社発起人中の日本人側の株式を全部分配する事とし、以て出資及収益の公平を保たしめ且つ英国資本家の希望を充たす事とし、又大井川水力権利に関して英国資本家と共に支出したる三計画の予測費全部を会社の負担に帰せしめざるのみならず、其獲得したる権利を会社に提供するに付て会社より受くへき対価は、発起人に於て之を取得せず其儘会社に交付し、一般株主が支払ふべき株金の代位弁済金に充つべきを以て、会社の株主は第一回払込金一株に付二十五円を納付せば五十円金額払込となるものとし、会社の資本総額を百万円とし、其一半は英国に於て其一半は日本に於て募集し、英国側発起人ハウルス氏は九千六百株を引受け、日本人側発起人は園田孝吉・樺山愛輔・副島道正伯にして、岩崎男・三井男・島津公・毛利公・鍋島侯・松尾臣善・高橋是清・近藤廉平・大倉喜八郎・益田孝・今村繁三・早川千吉郎・朝吹英二・添田寿一氏等は賛成人として加入し、青淵先生も亦賛成人として同社の株式を引受けられたり
中外商業新報 第八〇〇五号〔明治四一年七月一一日〕 日英水力株式募集(DK130009k-0006)
第13巻 p.46-48 ページ画像
中外商業新報 第八〇〇五号〔明治四一年七月一一日〕
日英水力株式募集
日英両国有力資本家の共同に係る日英共同株式会社及日英水力電気株式会社設立に就ては、其詳細を既に報導せしが、尚会社より発表せる目論見書其他を左に掲げんに
△日英共同会社目論見左の如し
一、当会社は、水利権・土地・山林・鉱業権・其他各種の財産を取得・開発・運用・販売・貸借及処分し、且つ各種の機械器具・其他の物件を製造・取得・販売・貸借及処分し、且つ各種の工場を施設し、其他右の業務又は一部分を執行する為め必要便宜又は利益なる一切の事項及業務を執行するを以て目的とす
二、当会社は株式組織とし、資本総額を百万円とし、之を二万株に分ち、一株の金額を五十円とす
三、当会社は日英共同事業にして、全資本の一半は之を英国に於て他の一半は之を日本に於て募集するものとす
四、当会社は其獲得したる静岡県下大井川筋に於ける水利使用権を
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日英水力電気株式会社に譲渡したるを以て、其報償として該会社か其資本に対し年八分の利益配当をなし、尚剰余ある時に其十分の四を該会社より受取るものとす
△日英共同収支予算左の如し
○甲の場合(日英水力第一期工場竣工後)
円
収入 七八、八〇〇
支出 三五、七二〇
差引利益 四三、〇八〇
右分配法左の如し
法定積立金 二、一五四
役員賞与及交際費 二、一五四
配当金(年三分八厘強) 三八、七七二
○乙の場合(日英水力第二期工事竣工後)
収入 五六九、〇〇〇
支出 一一二、七二〇
差引利益 四五六、二八〇
右分配法左の如し
法定積立金 二二、八一四
重役賞与及交際費 二三、〇〇〇
利益配当(年三割八分) 三八〇、〇〇〇
繰越金 三〇、四六六
△日英水力目論見左の如し
一、当会社は日英共同株式会社か静岡県下大井川筋に於て獲得せし水利使用権を特別契約の下に譲受け、該水力を以て電気を発生せしめ、之を東京府下に遠送し、電力供給其他之に関聯する事業を営むを以て目的とす
一、当会社は株式組織にして資本総額を一千二百五十万円とし、之を二十五万株に分ち、一株の金額を五十円とす
一、当会社は日英共同の事業にして、全資本の一半は之を英国に於て、他の一半は日本に於て募集するものとす
一、当会社は第一期工事を竣りたる後直に外債五百万円を募集し、之を以て拡張工事費に充つるものとす
一、当会社の設計は既往二年に亘り内外技術者か精細なる踏査研究の結果之を作成せしものにして、極めて完全なるものなり
一、当会社の工費及収支予算は確実を主とし充分の余裕を見込み立案せるものなるを以て、他日実際の計数は工事費及収支予算の各項目共予算に超過せさるを信す
一、第一期工事竣工の後は漸次三万馬力迄を販売し得へく、其収支計算は即別項甲号に示す通にして、而して第二期工事落成の後六万馬力全部を売尽すものとして計算すれは、乙号の収支計算に示すが如し
△日英水力収支予算左の如し
○甲の場合(第一期工事竣工後)
円
総収入 一、六八〇、〇〇〇
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総支出 四二〇、〇〇〇
差引利益金 一、二六〇、〇〇〇
右分配左の如し
法定積立金 六三、〇〇〇
役員賞与及交際費 六三、〇〇〇
○乙の場合(第二期工事竣工後)
円
総収入 三、五五五、〇〇〇
総支出 一、〇〇五、〇〇〇
差引利益金 二、五五〇、〇〇〇
右分配法左の如し
法定積立金 一二七、五〇〇
役員賞与及交際費 一二七、五〇〇
第一配当金(年八分) 一、〇〇〇、〇〇〇
第二配当金(年五朱八厘強) 七二六、〇〇〇
日英共同会社へ支払ふ分 五六九、〇〇〇
第一配当金 一、〇〇〇、〇〇〇
第二配当金 五五、二〇〇
日英共同会社へ支払ふ分 七八、八〇〇
△株式募集の事 日英共同・日英水力両会社共右の如き計画にして、頗る有利なる事業なれば株式募集も既に京浜に於て多数に登りしも、尚本月中に申込を為すものは之を受付くる由にて、其要項左の如し
△日英共同会社の分
証拠金(一株に付) 二円五十銭
第一回払込金(一株に付) 二十五円
申込銀行 十五銀行・第一銀行・三井銀行・三菱銀行・安田銀行・第百銀行・正金銀行支店
△日英水力会社の分
証拠金(一株に付)二円五十銭
第一回払込金(一株に付)十二円五十銭
申込銀行 日英共同と同一とす
中外商業新報 第八〇八〇号〔明治四一年一〇月四日〕 日英水電と英人(上)(岸清一氏談)(DK130009k-0007)
第13巻 p.48-49 ページ画像
中外商業新報 第八〇八〇号〔明治四一年一〇月四日〕
日英水電と英人(上)(岸清一氏談)
日英水力電気会社の用務を帯び倫敦に渡航し此程帰朝せる同社法律顧問岸清一氏の談話如左
余は六月末倫敦に着せしが、会社の用務を弁じ直に帰朝の予定なりしに、恰も暑中にて資本家其他知名の士は避暑旅行に出掛けしより、已むなく遂に九月迄滞在し、幸ひ有力なる銀行家資本家の深き同情に依好都合に進行し今回帰朝せり
△英国技師の賞讃 日英水電会社の外人技師は英人の選定に係るも悉く米人にして英人一人もなし、元々英国はスコツトランドに僅に七百尺の落差及五百尺の落差なる水力電気あり、アルミニユームの製造に使用せる外イングランドは地勢平坦なる故水電事業なく、之に反し米国は水電事業頗る発達し従つて立派なる技術者多きより日英水電の技
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師も米人其任に当りしもの也(今春来朝実地踏査せるスカイラーの如き米国第一流の技師なり)然るに英人をして出資せしむる上には英人技師の証明即ち裏書あらば会社計画を信認せしむるに非常の便宜あらんとの忠告もありしより銀行家資本家に選任を依頼し、遂にアレキサンダー・ビンニー、ジー・ヱフ・デーコン二大技師(有名なる倫敦市の技師長たりし人也)に事業の鑑定判断を請ひしに両技師の報告は何れも設計完全にして、工費予算も余程優に見積りあり従つて収支計算に至つても予想より好成績を呈すべしとのことにて、非常に安全有利の事業なるを確認せり、元と英国技師の風は稍々一こくの所あつて自国の事は褒むるも他国の事は賞讃せざるに此事業に対しては右の如き証言を与へたるより、一層倫敦に於ける声価を高めたり
△資本家の意気込 英国側資本家の本事業に対する気込盛なりしは余が彼の地に赴かざる時より承知せるも、今回親しく面談其意向を探りしに一層意気込の盛にして成立を熱心に希望し居れり、而して株式引受は折半の予定なるも、随分時宜に依ば夫以上を引受けんとの希望もあり、彼等の意見は此事業に投資するや否やが問題にして、苟も有利なるを認め投資すと決心したる上は金額の増大することは実に易々たるものなりと云ふに在り
中外商業新報 第八〇八二号〔明治四一年一〇月七日〕 日英水電と英人(下)(岸清一氏談)(DK130009k-0008)
第13巻 p.49-50 ページ画像
中外商業新報 第八〇八二号〔明治四一年一〇月七日)
日英水電と英人(下)(岸清一氏談)
日英水力電気会社の用務を帯び倫敦に渡航し此程帰朝せる同社法律顧問岸清一氏の談話如左
△法律の誤解 日本商法に依れば会社の説立《(設)》は株式引受済となり四分の一の払込を為したる後登記を受け玆に始めて会社なる法人成立す、然るに英国にては先づ発起人が十分の一位の株式を引受け〈法律上は幾何の引受にても差支なし)直に重役を選任し登録税其他の附随諸税を納付し登記を受け玆に法人を成立せしめ然る後プロスペクタスを発表し公衆より株式募集を為すなり、日英水電会社は日本に於て設立する会社なれば無論日本の国法に従ひ日本流の株式募集を為さずんば法律上有効ならず、此事は英人側も承知せることゝ思ひしに、彼等は矢張英国流の募集法に依るものと信じ、既に右の準備を為し居たるが如し、従つて英人側は株式は全部引受済とはなり居らざりし也、されど右は法律の異なるより誤解し居たる行違にして先方も日本より法律家の来たるを希望し居たり、余の訪問にて右等の誤解も全く判明し総て好都合に進行した次第なり
△水電は人気株 倫敦市場の金利は御承知の如く低落し財界回復の兆あれど株式は比較的上進せず、然るに独り水力電気、特にメキシコ水力電気株の如き昂騰一方にて非常の好景気也、是れ其事業成績頗る良好にて水力電気は事業完成したる暁は別に資金を要せず営業費の如き至つて少なく需要者さへあれば非常の利益ある事業なるがため也、兎も角倫敦にて電気物は人気株となりつゝあるは日英水電のため非常に好都合なりし
△英人側と株式 日英水電株内地の募集は殆ど満株にて余す所少なき
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も英人側は、尚之をも引受けんとする意向あり、且英人の見込にては「一割の配当を為すとせば実に非常の好利廻として希望者蝟集すべく将来日本人側所有株の倫敦に買取らるゝ時機必ず到来せん、決して株式募集に懸念するに及ばず」との意を漏せり、或は然らんか、されど内地に於ても二年後には予定の配当も為すに相違なく従つて相当の高価を維持さる可ければ何も倫敦に売放つの要なき也、何れにしても最早募集も困難なく終了すべければ多分来月中には一切の締切完了を見るに至るならん(完)
渋沢栄一 日記 明治四二年(DK130009k-0009)
第13巻 p.50 ページ画像
渋沢栄一 日記 明治四二年
二月二十一日 曇 寒
○上略 午前十時兜町事務所ニ抵リ樺山愛輔氏ノ来訪ニ接シテ日英水力電気会社ノコトニ関シ在英国中ノ経過談ヲ聞ク○下略
三月五日 曇 寒
○上略 午後○中略 副島道正氏来リ日英水力会社ノコトヲ談ス○下略
三月六日 曇 軽寒
○上略 午飧後桂総理大臣ヲ貴族院ニ訪ヒ、日英水力電気会社ノコトヲ談ス○下略
五月十一日 曇 暖
○上略 十時半日英水力電気会社事務所ニ抵リ委員会ヲ開キ要件ヲ協議ス大倉喜八郎氏来話ス、十一時井上侯爵ヲ訪ヒ○中略 水力電気ノ件其他ノ要務ヲ談話ス○下略
六月二十四日 曇 冷
○上略 日英水力電気会社事務所ニ抵リ園田孝吉氏ト会シテ英国ニ於テ談話セシ顛末ヲ聞ク○下略
七月七日 雨 冷
○上略 午前九時三田桂侯爵邸ニ抵リ、日英水力電気会社ノコトニ関シテ園田氏ヨリ報告アリ、松方・井上其他諸氏来会ス○下略
副島伯爵家所蔵文書 【竜動 四十二年五月十九日 園田孝吉(DK130009k-0010)
第13巻 p.50-55 ページ画像
副島伯爵家所蔵文書
竜動
四十二年五月十九日
園田孝吉
渋沢男爵殿
拝啓小生義去ル六日夕着英、直ニ関係先ト面会之打合セヲ為シ十日午前パース銀行ノシヤンド氏並ウオーレー氏及同日午後神戸「シンヂゲート」委員ヘ面会致シ、右面晤ノ大要ハ別紙ヲ以日誌的ニ御報告申上候間御一読被下度候、別紙ニモ記載致シ置候通当地之銀行ニ於テ発行銀行タル事ハ到底承諾難出来由ニ有之、又興業銀行単独発行銀行トナル事不同意ノ旨ハ御承知之通ニ付到底此四銀行之援助ハ出来サル事ト相成、之ト同時ニ「シンヂゲート」ニ於テモ他之方法ニテ募集致度希望有之哉ニ被察候ニ付、果シテ其運ニ至リ候儀ナレハ至極好都合ト存シ可成干渉セサル方針ヲ採リ候処扨愈々実際談ト相成テハ種々新条件ヲ附シ、終リニ先キニ確定セシ会社組織方法(二会社並立ノ事)其他事業設計等ヲモ変更セサルヲ得サル事ト相成タル哉ニ被察候、如此根底之変更
- 第13巻 p.51 -ページ画像
ヲ来スハ日本側之同意出来ザル所ナルヲ以、公衆募集ヲ断念シ個人限リニテ募集出来間敷哉ト種々懇談致候ヘ共此儀モ容易ニ難被行被察候更ニ「シンヂゲート」之内幕ヲ承ハルニ、昨年夏頃ヨリ部内ニ両派アリテ常ニ議論之一致ヲ欠キ、愈々園田着英可相成ニ付テハ斯ル不始末ニテハ面目ナシトノ事ニテ双方談判之末終ニセール氏一派退会スル事ト相成タル由(小生着英一週間前ナリト云フ)小生ハ敢テ「シンヂゲート」ヲ弁護スルニハアラザルモ、外ニハ先キニ彼我法律及習慣上ノ誤解アリ、内ニハ右ノ如キ事情アリテ今日ニ至リ大ニ当惑致シ居候様被察聊気之毒ノ感有之候、カヽル有様ナレバ折角ノ御電報ニハ候ヘ共到底日本側ノ希望ニ副フガ如キ交渉ハ纏リ兼候事ト御了承可被下候、何レ一両日中ニハ更ニ提案可相成筈ニ付、其上ニテ発電可仕候ヘ共其内今日迄之事情大略御報申上候 拝具
追テ松方・井上両侯ヘハ別啓不仕候間宜敷御伝通被下度、又外之委員諸氏ヘモ可然御伝声願上候、此報告ハ可成外聞ニ達セザル様希望仕リ候
(別紙)
五月十日午前十一時如約パース銀行ニ於Whalley及Shand両氏ヘ面会、先ツ是迄資金募集ニ関シ尽サレタル厚意ヲ謝シ、且ツ去ル二月中ノ電信ニ百万磅募集云々トアルハ、両氏承知ノ上ナリシヤト問ヒシニ、左様ノ事更ニ承知セストノ返答ニ接シ一驚ヲ喫セリ
此返答ニ依テ彼ノ電報ハ全ク「シンヂゲート」独断ヲ以テ発送シタル事及「シンヂゲート」ハ単独ニ資金募集ノ企図アル事ヲ察知セリ
次ニ興業銀行ハ単独発行銀行タルヲ得ザレ共当地之銀行ト提携シテ発行銀行トナルハ聊モ差支ナシ、就テハ三銀行ノ意見如何ト問ヒシニ当地ニ於テ斯ル新事業ノ為メニ発行銀行トナルハ未ダ前例ナキ所ナルヲ以テ此儀乍遺憾同意出来難シトノ返答アリ
此返答ニ依テ四月十四日桂邸ニ於ケル決議之一項ハ無効トナリ、且樺山氏ノ数ケ月ニ渉ル交渉モ水泡ニ帰シタリ
同日午後二時半「シンヂゲート」事務所ニ於テ会談出席者左之如シ
J.E.Williamson, G.Flett, J.B.Whili, N.Malcomson, M.S.Myers, E.Lynch, J.M.Howells
資金募集ニ付「シンヂゲート」ニ於テ困難ヲ感セラレ今日ニ遷延シタル結果、東京ニ於テモ募集予期之如クナル能ハザルハ御同様遺憾トスル所ナリ、依テ親シク諸君ノ意見ヲ確メンカ為メ態々竜動ヘ出張シタル次第ナリ
細目ハ後談ニ譲リ左之二件ニ付意見ヲ聞ク事トセリ
資金募集之件、技術之件
今朝パース銀行ニ於テ聞ク所ニ依レハ百万磅募集云々ニ付二月中発送セラレタル電報ハ、当地之銀行ノ承知セザリシ所ナリトノ事、就テハ「シンヂゲート」ニ於テ単独募集之見込有之事ト察ス、果シテ然ラハ余ノ大ニ歓迎スル所ナリ、願クハ其方法及条件等ヲ承知致シ度云々
爰ニ於テ先方ヨリ種々挨拶アリ
Skerling《(pカ)》 and Co,
(仲買ニシテパース銀行抔ト取引アル由、可ナリ信用アル組合ナリトシヤンド氏云フ)
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ト多少打合セタル事アリ面会サレテハ如何トノ事ナリシモ「シンヂゲート」ニ於テ既ニ単独資金募集之希望アル以上ハ可成之ニ干渉セザル方得策ナリト愚考セシヲ以テ面会之事ハ謝絶セリ
次ニ技術問題ニ移リ当地ニ於テ資金募集困難ノ事情アリ、又本邦ニ於テハ土木工事ニ関シ我有力ナル技師間ニ反対論起リ、此等ノ事早クモ我資本家等ノ知ル所トナリ此事業之前途ニ関シ大ニ疑惑ヲ生シ先キニ約束セシ株主中解約ヲ申込ム向モ不尠、而シテ三百尺ヨリ四十尺ニ変更アリタリトノ事ナルモ余ノ東京出発前迄ニハ何等詳細之報告ニ接セス如何ナル設計ヲ採用セラルヽヤ難計、孰レノ途当方ヨリ相当之技師ヲ派遣シテ我技師及資本家ヲ満足セシムルニ非レハ安心シテ会社組織ニ着手スルコト能ハス、是レ三月十四日決議ノ一大要点ナリ願クハ諸君之意見ヲ聞カン云々
爰ニ於テ「シンヂゲート」連ノ中ニ竜動市場目下資金募集上好時機ナリ此機逸ス可ラス抔トノ説モ出シガ、仮令資金ハ満足ニ募集出来ルモ技術上双方充分折合付ニアラザレバ会社ノ成立覚束ナシ、故ニ先以テ資金募集方法及条件等ヲ定メ予約ヲ為シ置キ、技術上充分ノ解決ヲ告ケタル上ニ実際募集スルヨリ外途ナカルベシ云々申述置タリ、尚誤解ノ恐レモアレハ右両問題ニ関シ書面ニテ意見承知致シ度云々
是ニテ当日ハ退出セリ、以上ハ二時間余ニ渉ル談話ノ大要ナリ
五月十二日「シンヂゲート」ヨリ面会致シ度トノ事ナリシヲ以テ、同日午後三時同事務所ニ於テ左ノ諸氏ニ面会ス
G.Flett, J.B.Whili, E.Lynch, J.M.Horwlls.
過日会談之後Skerling and Co,ト打合ノ上同社ヨリ別紙之提案アリタリトテ多少ノ説明ヲ為シタル上余ニ示サレタリ、実ニ此案ノ突飛ニシテ無責任ナルニハ一驚ヲ喫セサルヲ得ス、然レトモ余ハ之ニ対シ彼是議論ヲ為スハ無益ニシテ不得策ナリト察シタルヲ以テ中心既ニ決スル所アリシモ尚熟読致シ置クベシ、唯一見致シタル処ニテハ余ノ受ケタル使命外ニ渉ル事柄ナルカ如シ云々ト述ベテ退席セリ
五月十三日渋沢男爵ヨリ左ノ電信ニ接セリ
「成ルベク速ニ報告アレ」
依テ即日左ノ返電ヲ発シタリ
「銀行ハ発行者タル事ヲ拒ミタリ、神戸「シンヂゲート」ヨリ新案提出アリタルモ承諾出来難シ、不日確報スベシ」
同日一時パース銀行ニ於Whalley & Shand両氏並ニ巽氏ト午餐ヲ共ニス、席上右ノ新案ヲ示シタルニ両氏トモ一読シテ更ニ一考ノ価値モナキ愚案ナリト云ヘリ
同日夕刻Lynch氏来訪、昨日提案ニ付余ノ意見ヲ質サル、余ハ将ニ一書ヲ裁シテ「シンヂゲート」ニ送リ行李ヲ整ヘ帰途ニ就カント決シタル処ナリト答フ、リンチ氏大ニ憂色アリ其故ヲ問フ、彼ノ新案ノ無責任ナルニハ実ニ一驚ヲ喫シ大ニ失望シタリ、斯ル突飛ノ提案ニ対シ、愚存ヲ述ルハ無益ニシテ徒ニ議論ヲ惹起スノ恐アリ、余ハ「シンヂゲート」友誼ヲ温メ従来ノ主意ニ依テ円満ナル事業ノ遂行ヲ謀ランカ為ニ態々渡英シタルノミ、事業設計及資金募集ニ付テハ「シ
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ンヂゲート」ニ於テ疾クニ定案アル事ト確信シ居タルニ此事ナシトハ実ニ案外ナリ、之等ノ事ハ唯友人トシテ貴君迄ノ内話ナリ宜シク了承アリ度云々
リンチ氏、能ク了解セリ、貴説ニ従ヒ成ルベク従来ノ案ヲ基礎トシ相談スベキヲ以テ暫時猶予アリ度云々
五月十四日Whili 及 Lynch両氏来訪種々内談アリタルモ更ニ要領ヲ得ス、四十尺案トスレハ規模小々過キ資金募集上困難ナリ、田代川等ヲ合セタル大設計トセンカ未タ充分ノ実測ナシ云々
爰ニ於テ余ハ斯ル事情ナレハ一先ツ中止スルノ外ナカルベシト答ヘシニ中止ハ断然出来難シ云々、何ノ事ヤラ一向其意ノアル所ヲ知ラス、而シテ是非Skerling & Co,ノ連中ニ面会致シ呉レトノ事ナリシモ「シンヂゲート」ニ於テ困難トセラルヽ金融ニ関シ飛入ノ日本人ナル拙者カ斡旋シタリトテ寸効ナキハ見易キ処ナリ、依テ当初ノ主意ニ基キ英国側ノ資金募集ハ貴方限リニテ尽力サレ度云々ト申述タリ
五月十六日リンチ氏宅ニ於テ午餐之序ヲ以テ尚此事業ニ関スル日本側当初ヨリノ希望及主意ノアル処ヲ縷述シ終リテ
「シンヂゲート」今日ノ有様ニテハ余ノ滞在中到底満足ナル相談纏ルベシトハ信シ難シ、併シ仮令事不結果ニ終ルトモ余ハ「シンヂゲート」ニ対シ友誼ヲ破ルガ如キ行動ヲ採ルノ意毫モ之レナシ、此儀ハ充分了解セラレ度、唯昨年七月中日本ニ於テ大ニ人気引立居タル際ニ英国側ノ募集出来シナラバ今日ハ何ノ故障モナク事業ノ進捗ヲ見シナラン返ス々々モ遺憾ナリ云々
リンチ氏実ニ貴意ノ如シ余モ深ク遺憾トスル所ナリ、此儀ハ「シンヂゲート」不行届ノ結果ニシテ敢テ他ヲ責ルコトヲ得ス、何レ明日明後日ニ渉リ役員会ヲ開キ又仲買トモ相談ヲ為ス筈ナレハ或ハ貴諭ニ近キ提案出来ストモ限ラス、三四日中ニハ更ニ面語スルニ至ルベシ云々
五月十七日リンチ氏来訪、東京ヨリ「シンヂゲート」宛来電アリ「東京電灯会社竜動ニテ募債談アリ、此事若シ成効セハ我カ水力会社ノ成立困難ナルベシ云々」トアリ
此事我カ会社ニ影響スベシトハ信シ難シ云々リンチ氏ノ話アリ、余ノ推察ニテハ若シ電灯会社第二工事落成セハ電力供給上我カ会社ト競争スルノ恐アルニ依リ此電報アリシナラン歟ト申述タリ
五月十八日東京ヨリ来電アリ「十三日発貴方電報ハ大ニ失望ス、出発前双方ノ為メ満足ナル協議ヲ遂クル様尽力アレ、此上ノ延引ハ不幸ナル結果ニ終ルベシト「シンヂゲート」ヘ通知スベシ」トアリ
然ルニリンチ氏ヨリ多分明日頃更ニ「シンヂゲート」ヨリ相談スルノ運ニ至ルベシトノ通知アリタルヲ以テ其上ニテ返電スルコトトセリ東京電灯会社々債ハ興業銀行ト「パミヤゴルドン」トニ依リテ交渉中ナルガ如シト、リンチ氏ヨリ通知アリ
右十七日発東京電報ニハ水力会社ノ成立困難ナルベシトアリ、又十八日ノ電報ニハ満足ナル協議ヲ遂クベシトアリ、此両電報ノ主意ノアル処少シク了解シ難シ
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(朱書)ENCLOSURE in Mr.Sonoda's Letter to Baron Shibusawa, 19th, May, 1909.
JAPANESE POWER SCHEME.
It is proposed to form a Japanese Company, the securities of which are to be held by a Canadian Company, to be called say "The Tokio Transmission Company" or "water and Power Company", to be incorporated with a capital of :-
Common Stock...$ 25,000,000 in Shares of $ 100 or 200 Yen each.
$ 25,000,000 Five per cent. First Mortgage Gold 50 years Bonds in denominations of $ 100. $ 500, $ 1,000 or $ 10,000, also in Yens, Sterling, francs guilders or marks. $ 15,000,000 of which to be issued forth with.
The Kobe Syndicate and its affiliated Japanese Syndicate, in consideration of the amount expended by them in Surveys, obtaining concessions for water-power, rights-of-way, etc. to receive :-
say $ in 5% Bonds of the Tokio Transmission Co. to be pooled for say two years; and the whole of the Common Stock.
For the purpose of financing the construction of the dam and reservoir, transmission lines, etc. of the first installation and subsequent installations, the Kobe Syndicate to transfer to a Syndicate to be called the Eastern Syndicate (and to consist of Messrs. Sperling & Co. and their nominess) $..........Common shares of the Tokio Transmission Co. in consideration of the contract from the Eastern Syndicate, undertaking to subscribe for $........Bonds of the Tokio Transmission Co., payment to be made over a period, or upon earlier dates.
Messrs. Sperling & Co. to be appointed sole selling Agents to the Eastern Syndicate, and to undertake sale ot the $......of Tokio Transmission Co. Bonds on terms to be arranged, after Messrs. Sperling & Co. have duly satisfied themselves as to the validity of the concessions, verification of estimates, feasibility legal and political, for the employment of foreign capital in Japan, and in fact, that all the terms of the concessions with the Japanese
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Government and Municipalities, are as favourable to the Tokio Transmission Co. as in the case of previous Power Schemes for which they have acted, e.g. Mexico Tramways, Mexican Light & Power, Puebla Tramway, Light & Power, San Paulo Tramway, Light & Power Co. and Rio de Janeiro Tramway, Light and power Co.
That the Japanese group, which it is understood have offered to subscribe some £ 400,000 or £ 500,000 to be on the same footing and terms as the Eastern Syndicate.
The Eastern Syndicate to have free and unrestricted scope in the organisation of the construction.
N.B. By the above scheme practically all the cash raised will be put in the property.
副島伯爵家所蔵文書 【四十二年五月廿九日 竜動ニ於テ 園田孝吉】(DK130009k-0011)
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副島伯爵家所蔵文書
四十二年五月廿九日 竜動ニ於テ
園田孝吉
渋沢男爵殿
去ル十九日付ヲ以テ御報告申上置候後廿一日夕刻別紙之通更ニ一案提出相成候ニ付一読致候処前案ト大同小異ニ付、翌廿二日「シンジケート」事務所ニ於会談之上即日左之電報差出候
「一案提出相成タルモ諸事新規ニシテ小生帰朝ノ上ナラテハ決定出来難シ、六月二日出立スベシ、サイベリヤ経由」
然ルニ越ヘテ廿四日左之御電報ニ接シ候
「廿二日ノ電信ニ返信ス、至要ノ点ヲ至急電報アレ」
依テ即日左ノ通返電致候
「資本金ヲ三百万磅トスルコト、共同会社(親会社)ヲ廃シ英国ニ於親会社ヲ組織シ、且新ニシンヂゲートヲ起シ、右三百万磅ヲ保証セシムルコト」
此提案ニ付テハ到底電報又ハ書面ニテ説明可出来モノニ無之候ヘ共、我水力事業ヲ遂行致ニハ大体ニ於テ此方法ニ拠ルノ外有之間敷歟、併シ此事業ニ関シテハ日本側当初ヨリノ希望モ有之事ニテ容易ニ実行難出来事ト愚考仕候、右ニ付テハ聊愚見モ有之候ヘ共一朝一夕之尽スベキモノニ無之何レ六月下旬着京之上親シク拝述可仕候、要スルニ最初ヨリノ我主義ヲ一変スルカ又ハ事業ヲ抛棄スル歟二者其一ヲ選ム外無之様被察候
神戸シンヂケートヨリハ金融及技術ニ関シ代表者ヲ差出候事ニ相成候由、此儀ニ付多少相談ハ有之候ヘ共固ヨリ小生ニ於テ可否之返答出来ベキ事柄ニモ無之、全ク先方限リ之責任ニテ派出相成候筈ニ有之候間右御承知置被下度候
右提案ニ依レハ水力会社ハ固ヨリ日英協同トシテ我法律之下ニ組織可相成モノニ候ヘ共、資本金ノ大部分ハ英国ヨリ仰ク事ト相成可申、併水利権ノ如キハ元来我政府ヨリ得タルモノニ付政府ハ会社之役員選定及其他ニ付制裁ヲ設ケ彼之専横ヲ抑制スル事ハ充分被行可申ト存候
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本日神戸シンヂケートヨリノ通知ニ依レバスパーリング商会ノ組合員Sir Edward Stracey氏技師同道ニテ愈々来月十日過当地出立シベリヤ経由本邦ヘ出張之事ニ相成候由、右ニ付不取敢左ノ通リ発電致シ置候
「シンヂケートハ彼ノ責任ニテ急ニ委員ヲ派遣スベシ、小生ハ六月二日出立シベリヤ経由」
右委員派遣之件ニ付昨日モ神戸シンヂケート連ヨリ多少ニテモ成否之見込為聞呉度云々来談有之候ヘ共、前文ニモ申述置候通リ此儀ハ重大ナル責任ノ係ル所ナルヲ以、甚乍遺憾何トモ愚存難申述候ニ付任意決定被致度希望候旨返答致シ置候、而シテ若シ強テ御出張被成ニ於テハ可成技術上及金融方法等精細ニ御取調相成、日本側モ質義ニ充分返答出来候様致度、尚スパーリング商会之身元及其経歴等モ悉シク相分リ候事最モ必要ニ可有之云々モ申添ヘ置候、同会社身元之儀ニ付テハ小生ニ於テモ種々探索致候処カナダ及メキシコ等ニ於テ此種ノ事業ニ関係シ金融及事業上成効シタル事実ナルカ如ク相見ヘ申候
是等之事モ尚帰朝ノ上拝述可仕候
去ル廿五日副島伯ヨリ来電
「シンヂケート之提案ニ対スル小生ノ私見内密通知セヨ」
ト有之候ニ付左ノ通リ返電差出置申候
「提案ハ唯一ノ実行方法ナリト考フ、但貴方ニ於当初ノ主意ヲ翻スノ必要アリ」
然ルニ越ヘテ廿六日同伯ヨリ更ニ電報アリ
「昨日御電信之趣ヲ他ニ洩シ可然ヤ」
ト依テ即日
「然リ」
トノ一語ヲ発電致置申候、右ハ元ヨリ私報ニハ候ヘ共最早秘密ニ可付必要無之ト存候ニ付、乍序爰ニ附記仕候
書余来月廿三日頃着京之上親シク陳述可仕候 拝具
(朱書) ENCLOSURE Confidential. A TRANSLATION FROM THE MINUTES OF A MEETING OF THE MOST INFLUENTIAL MEN HELD AT THE HOUSE OF MARQUIS KATSURA ON 14TH. MARCH
The following were present at the meeting in Marquis Katsura's residence to consider the Anglo-Japanese Hydro-Electric Company's business.
Marquis Inouye, Chairman.
Marquis Katsura, Premier & Minister of Finance.
Marquis Matsukata.
Count Komura, Minister of Foreign Affairs.
Mr. Wakatsuki, Vice-Minister of Finance.
Baron Takahashi, Vice-Governor of the Bank of Japan and President of the Yokohama Specie
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Bank.
Mr. K. Sonoda.
Mr. Rempei Kondo.
Mr. T. Masuda.
Mr. E. Asabuki.
Mr. A. Kabayama.
Count M. Soyeshima.
Marquis Inouye declared the meeting open and explained the reasons for it being called which may be summarised as follows :.―
He was happy to say that owing to the friendly relations existing between Japan and England, and to the Political Alliance, and the daily drawing closer of the bonds uniting the two countries which, on the economic side, was leading to the formation or consideration of joint commercial under-takings whose fruitful reasults would, he believed, add to the Permanence and value of the Political Alliance, the joint Anglo-Japanese Hydro-Electric undertaking assumed a considerable national importance, intensified owing to the fact that owing to the present commercial depression in Japan, a difficulty had arisen at an advanced stage of the negotiations, viz :- the Japanese side found it difficult to raise their half of the capital. At this juncture, the British @ (see below) side should make a great effort to provide all of their half, especially as the money market is now easing. The British Ambassador had desired to see him two or three times regarding the progress of the undertaking, showing the interest he took in the success of the undertaking; and therefore, he (Marquis Inouye) invited the support of those present on behalf of the undertaking.
Count Komura and Mr. Wakatsuki then explained what part they had taken in their individual capacities toward assisting the enterprise while they were resident in London which, in brief, was that they approved the industrial co-operation in the case of a thoroughly sound scheme backed, as was the case with this undertaking, by most of the first names in the country as promoters and supporters on the Japanese side ; and therefore, they did their best to further the enterprise as far as they could in their personal capacities.
Marquis Matsukata said that the Industrial Bank should join - as desired by the British side - with the other
@ side had come forward with an offer to find four-fifths of the capital, if necessary, but he was of the opinion that the Japanese
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issuing Banks, and he would like to know why it held back from joining?
Baraon Takahashi explained that the objection of the Industrial Bank rested on this ground; viz:- if it was nominated the Issuing House, with the Hongkong & Shanghai Banking Corporation, Parr's Bank, and Yokohama Specie Bank merely acting as agents ; in the event of any catastrophe, such as the bursting of the dam, or other similar disaster, it alone would be held morally responsible to the British Shareholders and its credit and reputation injuriously affected both abroad and in Japan.
Marquis Matsukata then said that if the statement made by Baron Takahashi correctly represented the wishes of the other three Banks, he had been misled and was under a misapprehension as to the facts. But without pursuing that point, he would like to ask if any objection would be felt by the authorities to the Industrial Bank coming in on equal terms and conditions in all respects with the other three Banks?
Marquis Katsura, Mr. Wakatsuki and Baron Takahashi said that so far as they were concerned there would be no objection to such a course.
These points touching issues raised by the British side being cleared up, it was resolved as follows ; -
(1) That we disaprove of the Industrial Bank being the Sole Issuing House but approve of its becoming a House of Co-issue with the other three Banks.
(2) That owing to points touching the engineering side of the work not yet being fully settled to the satisfaction of the Japanese side, we must appoint an Engineering Commission to investigate and report on these points and to allow time for this it is resolved to suspend formation until Mr. Sonoda's arrival in Mid-May next in London.
(3) That the Share Capital shall be provided half in England and half in Japan ; and only if all efforts prove unavailing to secure subscriptions for the whole of either side's half shall we consider some suitable methods for raising the balance of capital.
(4) That subscribers of one thousand shares or more shall be invited to subscribe \ 2.50 per share to cover promotion expenses, and those who do shall be treated as promoters.
(5) That as Mr. Sonoda, Chairman of the Organising Committee, is leaving for England in his capacity as
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Chairman of Committee, during his absence Baron Shibusawa shall be the acting Chairman.
(6) That the company is to be a Japanese Company under the provisions of Japanese law.
(7) That the Japanese side will strongly object to any interest being paid out of capital during the period of construction of the necessary works, that is to say, prior to dividends being earned.
(8) The contracts for construction shall be decieded by tender from among such contractors as the company may invite to tender.
(9) That all the money subscribed by the British side shall be remitted to Japan by the Yokohama Specie Bank and shall be kept on deposit with that Bank until required.
(10) That a cable shall be sent to London saying that the Industrial Bank has refused to become the Issuing House, but is ready to become co-issuers with, and on the same conditions as, Parr's Bank, the Honkong & Shanghai Banking Corporation and the Yokohama Specie Bank ; that all particulars will explained and negotiations conducted by Mr. Sonoda on his arrival in London about the middle of May ; and, that during his absence Baron Shibusawa will act as Chairman.
Mr. Sonoda then rose and said that while the meeting was held with Marquis Inouye presiding it was nevertheless especially meet to thank Marquis Katsura for allowing them to meet at his house, for his hospitality, and for giving so many hours of his valuable time to attending this meeting, the more particularly as parliament was sitting and Marquis Katsura extremely occupied. He further begged Marquis Katsura to give his approval and support to the entreprise in futhre both in his private and official capacity.
Marquis Katsura replied that hitherto he had only had a vague concept of the aims and negotiations connected with the Anglo-Japanese Hydro-Electric Scheme, but that during the course of the long meeting he had become fully acquainted with these matters and the present position in which the propsed undertaking stood. That he was much interested in it and its future progress and that while he always would have done his best to assist the company after its formation he was now able to say that he would do all in his power to assist the undertaking from this time on whether by his assistance at meetings held, as in this case,
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at his house, or else-where, and desired the metting to accept this expression of his sympathy.
The meeting closed at 3:30 P.M.
東京経済雑誌 第六〇巻第一五〇三号・第一〇―一一頁〔明治四二年八月一四日〕 日英水力電気事業に就て(十五銀行頭取園田孝吉君談)(DK130009k-0012)
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東京経済雑誌 第六〇巻第一五〇三号・第一〇―一一頁〔明治四二年八月一四日〕
日英水力電気事業に就て (十五銀行頭取 園田孝吉君談)
吾人は日英水力電気会社の如き有益なる事業は、我が産業界の為め、切に其創立を望まざるを得ざるなり、従来英国に於て、我が外債を発行するに当りて、之が周旋を為したる者は其銀行なり、然るに英国資本家が外国に於ける事業に放資を為すに当りてや、之が周旋を為すは銀行に非ずして別に一種の周旋あり、故に吾人は之に由りて其資本を輸入せざるべからざるなり、随ひて日英水力電気会社の如きも其適当なる周旋屋を見出すことを得べくんば、会社の設立を見ること敢て難しと云ふべからず
此水力電気事業は固より巨万の資本を要するのみならず、之が経営を為すには卓絶せる学識経験を要することは云ふ迄もなし、故に我が邦に於ては巨額の資本を得ること頗る困難なると同様に適当なる経験ある者を得ること亦困難なりと思惟せらるゝなり、我が邦に於て学識才能或は外国人を凌駕する者之なしと断言すること能はざるべしと雖も其経験に於ては彼国人に一歩を譲らざるを得ざるべしと信ずるなり、故に日英水力電気事業の如き、我が邦に於て未経験にして而も未曾有の大事業を経営せんとするに当りては、資本を輸入するの必要あると同様に経験ある技術者の輸入をも必要なりと認めざるを得ず、人或は斯くの如く資本及び技術者を輸入して之を経営するが如くんば、徒に此事業を外人の為めに独占せられ、我が邦人が他に小資本を以て水力電気を経営せんとするも、到底之と競争の余地なく、其弊測るべからざるものありと為せども、吾人は単に斯くの如き杞憂を理由として有益なる事業計画を断念するは甚だ不可なりと信ずるなり
結局吾人が此事業に対して取るべき道は、速に外資を輸入して之を創むるか、将又、外資の輸入を見合せて、内地に於て資本を得るの時期到来を俟つかの二あるのみ、思ふに我が邦は地勢狭長なれば、大河巨沼尠しと雖も、山岳起伏し、渓流多く、且つ雨量も大なるが故に、水力電気事業を起すには却て便利の国情なりと云はざるを得ず、而して欧米にては何れも水力電気事業盛ならざるはなし、是れ蓋し水力電気は低廉なる動力光力を供給し得ればなり、此時に当り我が邦が奮然此事業を起す無からんには、我が産業界の十分なる発展は決して望み得べきに非ずと思惟せらるゝなり、又日英水力電気会社の如き模範的大事業を起して、以て企業界を誘導するの必要なくんばあらず、何となれば企業熱起らざれば、国家の隆盛は得て期すべからざればなり、国民が只安全をのみ図るに汲々として、公債に放資して生活費を得んとし、株式に放資する者之なきが如きは、国家の為め憂ふべきことなりと云はざるべからず、固より新に事業を企つるは、容易の業に非ずして、往々経験なき為め、或は違算ありし為め失敗することあれども、正確なる基礎の下に成立せる事業は有利たるは言ふ迄もなし、是れ新
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事業が、最も其興味を有する所なり、今日和蘭・仏蘭西等が企業熟衰頽し、国力振はざるを以て見るも、企業心の熾盛なると否とは、国運の盛衰に至大の関繋あり、吾人は此点より日英水力電気事業の如きは一日も早く之が創立を望んで止まざるなり
園田孝吉伝 (荻野仲三郎著) 第二六三―二六五頁〔大正一五年四月〕(DK130009k-0013)
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園田孝吉伝 (荻野仲三郎著)第二六三―二六五頁〔大正一五年四月〕
日英水力電気株式会社創立の用件を帯びて渡英す 尋で四十二年三月、氏は日英水力電気株式会社創立の用件を帯びて五度目の渡英の途に上つた。日英水力電気株式会社は、明治三十九年二月、日英両同盟国に於ける経済的連鎖を固くし、兼ねて戦後益々有望な水電事業に貢献するために創立されたもので、発起者は英国ホワイト商会外二三の資本家より成るシンジケートと園田孝吉・副島道正等数氏の共同計画に係り、米国の水力専門の大家ハウルス氏を主任として、大井川の水利を使用する目的で四十一年初頭に株式会社設立の計画を立て初めたのであつた。総資本額は一千万円、そのうち六百万円を株主から醵出し四百万円は社債によつて支弁する筈で、日本側の引受額十二万五千株の中八万五千株を一般市場に公募した。ところが折柄財界の不況と世人の水力電気に対する理解がまだ貧弱であつたためとで満株にならなかつた上に、設計に疑を挿むものが現はれて一時は解散不成立とさへ噂されたのである。
こゝに於いて創立委員長であつた園田氏は、急遽渡英して英国資本家の意向を探るのが今回渡航の目的であつた。同年七月帰朝するや、その結果を報告すると共に資金の調達者たるスペリアリング商会の代表者ストラソセー氏を急電で招き再三調査を重ねたがその完成前に英人は本国から召還されてしまつた。その上動力供給を契約した東京鉄道会社は会社の設立が遷延したために解約して来るし、一時後援の保証を与へた大蔵省も手を引いたので、日英水力電気株式会社は遂に破綻の憂目を見たのである。園田氏はこの失敗の原因として外人の相手にその人を得なかつたことゝ、国情言語風俗等総てに於いて両者間の意志の疏通を欠いたことを挙げてゐるが、この事業こそ園田氏が財界二十五年の生涯中たゞ一つの失敗であつたといふことができる。
古市公威 第一八〇―一八六頁 〔昭和一二年七月〕(DK130009k-0014)
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古市公威 第一八〇―一八六頁 〔昭和一二年七月〕
大井川水力発電計画
水力電気事業の開発に外国資本を誘導する目的を以て、明治三十九年春、伯爵副島道正氏外数氏の発起に依り、日英水力電気株式会社創立せられたり。
会社は米国人水利技師「シー・エム・ハウルス」氏及び佐々木恒太郎氏に東京を中心とせる百五十哩の圏内に存する利根川・鬼怒川・大井川・天竜川筋の水力発電地点を比較調査せしめたる結果、大井川上流より山梨県南巨摩郡保村に導水し、六哩隧道にて三千尺の落差を使用し得る最も有利なる地点(後年早川電力株式会社にて開発せしもの)を発見し得たるも、土地の不便、流域変更の問題、竣功期限の関係等に依り、此地点は後日に譲り、次に同川筋井川村に於て、俗に接岨と
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称する両岸絶壁急流にして大井川沿川に於ける最も有利なる地点を第一に着手することに決せり。而して此地点に於ける米国技師「ジェームス・デイ・スカイラー」氏及び前記「ハウルス」氏の設計は、此接岨に高三百尺の土堰堤を築き、四万馬力を発生し、之れを東京に送電せむとするものなり。
此計画に関し明治四十一年五月、「スカイラー」氏が日英水力電気会社に提出せる報告書の要点左の如し。
日本の河川は多く激流にして、其の勾配急峻なるを以て、斯くの如き河川に水力事業を起すには貯水池を築造せざるべからず。即ち井川に於ける貯水池の堰堤は高さ三百二十尺を最高とし、堤の勾配を一割五分とす。而して洪水の襲来に備ふるため、三箇の平行通水隧道を掘鑿す、此の通水隧道は、堰堤工事完成の後、其の飲み口の処を塡塞し、其の後方より直立に堅坑を穿ち、地表に達せしめ、洪水時に於て普通の避溢水路の用をなさしむ。避溢水路は別に通水隧道の上部山腹に長さ百三十尺の水渠を掘穿し、その終点より径三十尺の隧道一箇を穿ち、三十五プロセント勾配を以て下流に向ひて傾斜せしむ。又井川堰堤より発電所に至る導水隧道は径十二尺の円形たるを最も経済的とす。導水隧道の末端にして発電所に達する水圧管の頭部に径十二尺の緩衝竪坑を掘穿し、堰堤頂部と同高ならしむ。発電所に送る水圧管に二法あり、一は通常用ひらるゝ鋼管を山腹に設け、混凝土受台に取付くるものにして、径五十四吋の水管六本を要し、各七千五百キロワツトの容量を有する発電機を運転す。他の一法は「ハウルス」氏の設計に係り、鉄張り混凝土巻の傾斜隧道を山腹に沿ふて、岩盤が水圧に堪ふる丈の深さに、掘鑿するものにして、安全なる方法として推薦すべし云々。
然るに此計画の根本なる高三百尺の米国式土堰堤に就ては、下流沿川地方に反対あり、又斯界に論議あり、英国側資本家も同国権威者の意見を求めたるに、婉曲なる辞を以て此堰堤工法に賛意を表せず。玆に於て日本側も最高権威者たる古市先生の意見を求め来る。先生実地に踏査し、調査の補助を工学博士中山秀三郎氏に委嘱し、明治四十一年八月両博士連名にて左の意見書を提出せられたり。
大井川水力電気の計画に関する意見
接岨の喉頭に堰堤を築き其の上流に一大貯水池を作り、而して大井川舟運の終点たる梅地に発電所を設くるの考案は最当を得たるものにして、之を賛成するに躊躇せず、然れども各部の計画に就ては異議なきを得ず、殊に堰堤の高を直立三百尺としたるは断じて同意すること能はず
抑土堰堤なるものは其実体の組織複雑なるを以て其堅牢耐久の程度は学理的に之を予知すること能はず、僅に実例に徴して之を推測するに過ぎず、故に之を計画するに方ては前例に鑑み慎重の考慮を費し安全を旨とし必要を限度として冒険を避けざるべからず、本計画に於ては如何なる理由ありて末だ曾て人の試みざる三百尺の高を採用したるや之を解する能はず、単に利益の計算のみを以てすれば愈高ければ愈佳なりと雖之が為に危険の度を加ふることも亦益々大
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なること言を俟たず、百尺にも足らざる堰堤にして而も其破壊に由て下流の被りたる惨害の歴史を回想すれば、実に悚然たらざるを得ず、故に特別の理由なき限りは計画の縮少を望まざるを得ず
試に堰堤の高を定むる根拠となるべきものを求むるに既に東京鉄道に二万馬力を供給すべき契約の整ひたるを以て之を基礎とし、而して貯水池の作用に由て得る所の増加馬力を以て他の需用に応ずるものとして計画を立つるは一応の道理あるものと思考す、依て計算するに基線上二千百六十尺乃至七十尺を以て貯水面とし、堰堤の頂点を二千二百尺の辺に置けば右の要求に応ずることを得べし、即堰堤の高約二百十尺なるべし、二百尺以上の土堰堤は目下築造中のものありと聞く、然れども実際の情況を知悉せず、況や未だ使用に供せざるものなるを以て固より先例となすに足らず、故に右の計画も尚ほ試験的たるの嫌なきにあらずと雖、之を原計画に比すれば安全の点に於て同日の論にあらず、且多少の理由もあれば之を承認して可なり
他に堰堤の構造及附属工事の設計に就て議すべきものあり、左に之を掲ぐ
一、堤の勾配を一割五分としたるは仮令特種の保護工事を施すとしても堤体の安定に対して急に過ぐ、況や原案の如き砕石を以て之を覆ひたるに過ぎざるをや、宜しく上部より下部に向ひ漸次に緩勾配となすべし
二、当初の設計には堤身に大なる「コンクリート」壁を設けたるも改正案には之を廃して粘土刃金を用ゐたり、是大に賛成する所なり、然るに鉄板を以て漏洩を防ぐの具となしたるは依然之を存せり、是反対せざるを得ず、土堰堤の利は多少の弾性を有する点に在り、然るに鉄板の如き土砂と全く性質を異にする所の材料を提身に挿入するは地震に際して罅裂を生ぜしむるの媒介たるべし
三、河底と提身とを密着せしむるは「コンクリート」壁に依らざるべからず、是止むを得ざるなり、堤脚に於ける水圧は原案七気圧以上修正案に依るも尚五気圧なれば微細の間隙も水の漏洩を招くべし、故に「コンクリート」壁は出来得る限り其積を小にし其数を増し以て水圧の逓減を図るべし
四、貯水面を低下するの設備なきは大なる欠点なり、堤身の修繕を要することなきを保せざるに此の場合依然として貯水面を最高位に置くは危険ならずや、又我邦に於て屡見る所の山崩の為めに上流を堰止めたる場合には務めて貯水面を低下して之に備へざるべからず、又普通出水の場合に於ても適度に貯水面を低下して最大流量流下の時期を待たば貯水池を以て洪水緩和の機関となすことを得べし、故に通常の発電に妨なき限度に於て貯水池の最低水位を定め、其点に門扉を具へたる放水隧道を穿ち若干時間に貯水面を最高水位より最低水位に下ぐるの設備をなすべし
五、大井川の上流は渇水期と雖溷濁を絶たずと云ふ、故に泥沙の貯水池に沈澱するの量は軽少なりと云ふを得ず、之を除去するの設備をなし或る程度まで貯水池の寿命を長からしむるも亦無用なり
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とせず、即給水隧道の下に口を開き適度の高に門扉を具へたる隧道を有すれば一は本項の目的を達し一は前項の補助たるを得べし
六、原案に拠れば給水隧道の受くる水圧は約六気圧なるを以て原案の如き設計にては稍危険なりと認む、故に此の点より見るも亦貯水池に於ける泥沙沈澱の点より考ふるも給水隧道の位置は第四項に述べたる最低水位以下に在て出来得る限り高きを要す、且原案の隧道は一条なれども之を二条に分つを可とす
七、放水隧道の内面は之を覆はざる設計なれども是亦同意を表する能はず、此の隧道は非常の速力を以て非常の流量を排出せざるべからず、且堰堤の生命に重大の関係を有するものなり決して忽緒に附すべからず、故に設計に於ては其の内面を充分に保護するものとすべし、而して実際に於て其の必要を見ざる点あらば之を省略するも可なり
斯く設計上に於ても先生の異見あり、又其の後資金の調達、工事の引受方法、機械の供給等に関し、内外資本主側に種々の問題起りて実行の運びに至らず、日英共同出資の会社は終に解散の運命を見たり。想ふに会社の工事設計に対する先生の意見は、内外資本家の注意を喚起せしめたることも、亦其の一因と考察せらる。
右に関し男爵若槻礼次郎氏曰く、明治四十一年、日英水力電気会社の名を以て起工せんとする大井川の水力電気工事は、当時日本に於ける民間企業の外資輸入大計画にして、之れが資本を英国倫敦に於て募集することとなりしが、従来倫敦には日本の募債事業を引受くべき一流資本家の団体あるに拘はらず、会社側代表者は之れを団体に諮らず他の方面に交渉し、其の感情を害したるは起債を不成功に終らしめたる一因なり。余は当時駐英財務官として倫敦に在りしが、投資団は余に向つて前後の事情を説き不満を訴へ来れるを以て、余は帰朝の後其の実情を関係者に伝へて、資金募集の失敗を告げ、又該事業に熱心尽力中なる松方・井上両老侯にも、募集方法の筋違ひなるを以て不成功に終る恐れあるべきを報告し、且英国側に於ける技術上の疑問も亦起債上の一難題たるを以て先決問題として大井川の工事が果して適当なりや否や、本邦技術の大家をして再検討せしめ、其の危惧を解消せしむるの要あるを進言せり。而して会社側は本計画に対し古市博士の意見に問へるに、博士も亦果して異意あり、元来博士は事を曖昧に附するを好まず、善なるものは必ず善なりとして之れを断言せらるゝの人なり、衆議遂に其の不可なるを思ひ、大井川水力電気問題の中止を見るに至れり。凡そ土木工事に関して博士の重きをなせること斯くの如きは、其の計画の総ての点に於て、苟も万遺漏なきを期し、未だ曾て誤算なかりしを以て、官民上下の信頼最も厚かりしに因るなりと。
中外商業新報 第八四一六号 〔明治四二年一〇月二日〕 水電実査の報告(DK130009k-0015)
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中外商業新報 第八四一六号 〔明治四二年一〇月二日〕
水電実査の報告
内田山邸の会合
日英水力電気実地調査の為め来朝中のスペアリング商会代表ストラツシー男及技師ミツチヱル・カ子ツトの三氏は既に日英水力の水源地を
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実地踏査し、更に他の各水力電気水源地をも十分実査したるを以て一日午後二時より内田山の井上侯邸に右三氏を招き、主人老侯の外桂首相・副島伯・園田孝吉・朝吹英二等諸氏も臨席し、其実地踏査の結果報告を詳細に聴取したり、尚午後三時よりは右外賓の夫人連をも同邸に招き、珍奇なる新旧各種の美術品を観覧に供し、秋色滴る名園を賞し茶菓の饗応を受け、歓話に時を移し夕刻散会せりと
東京電灯株式会社開業五十年史 第一六九頁〔昭和一一年八月〕(DK130009k-0016)
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東京電灯株式会社開業五十年史 第一六九頁〔昭和一一年八月〕
○第四期 統制時代 二 電力競争
イ 東京電力会社との競争及び合併
東京電力会社の成立 明治四十一年七月に設立された日英水力電気会社は東京市及び隣接五ケ町村(当時の東京市及び荏原郡品川町・目黒村・豊多摩郡内藤新宿町・淀橋町・中野町)に対し五十馬力以上の電力供給権を有し、大井川筋に約六万馬力の水利権を獲得したが、開業に至らずして大正十年六月早川電力会社に買収された。元来早川電力会社は欧洲大戦の好況に乗じて創立されたもので、其の電力消化地として大正九年三月日英水電会社を合併して静岡県下の供給区域を手中に収め、今又日英水力電気会社を併合して東京方面の電力供給権を獲得するに至つた、然るに大戦後財界の不況に捲き込まれて金融逼迫せるを見、東邦電力会社は其の関係者に依つて設立した早川興業会社を同社に合併して早川電力会社を自家薬籠中のものとした。
○下略