デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
23節 土木・築港
3款 日本土木会社
■綱文

第13巻 p.81-83(DK130015k) ページ画像

明治26年12月6日(1893年)

是ヨリ先前年十月、当会社解散ニ決シ、是日解散届ヲ東京府知事三浦安ニ提出ス。


■資料

青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第三一九―三二〇頁 〔明治三三年六月〕(DK130015k-0001)
第13巻 p.81 ページ画像

青淵先生六十年史(再版)  第二巻・第三一九―三二〇頁〔明治三三年六月〕
 ○第五十二章 各種商工業
    第一節 日本土木会社
○上略然ルニ後二十二年ニ至リ藤田ノ一派ハ故アリテ土木会社ヲ脱セシヲ以テ明治二十六年十一月之ヲ解散シ、其業ハ大倉土木組ニ引継キタリ
○下略
  ○藤田組脱退ニ就イテハ後掲参考資料ヲ参照。


執事日記 明治二十五年六月―十月(DK130015k-0002)
第13巻 p.81 ページ画像

執事日記 明治二十五年六月―十月    (渋沢子爵家所蔵)
六月十五日
一君公ニハ正十二時日本土木会社総会へ被為入、夫より他へ御廻り相成候コト
  ○右総会ノ決議ヲ以テカ、二十五年六月十六日大倉社長ヨリ創立約条書及ビ定款改正願ヲ府知事富田鉄之助ニ出願シ同月十八日認可サル。其内容ハ創立約条書第四条当会社ノ資本金ハ二百万円トス、トアルヲ七十五万円トスニ改ムコト、二万株ヲ一万五千株ニ、一株金百円ヲ五十円ト改ムルコト。


渋沢栄一 書翰 斎藤峰三郎宛(明治二五年カ)一〇月二二日(DK130015k-0003)
第13巻 p.81-82 ページ画像

渋沢栄一 書翰  斎藤峰三郎宛(明治二五年カ)一〇月二二日
                   (斎藤峰三郎氏所蔵)
○上略
土木会社整理員之来状御廻し申候、右者両三日来風邪ニて欠席仕候間兎ニ角他之諸君ニ於て方法相立其上御示被下度と一応之回答被成遣度存候
右要件申進候 匆々
 - 第13巻 p.82 -ページ画像 
  十月廿二日
                     渋沢栄一
    斎藤峰三郎様
  ○二十五年十月臨時総会ニ於テ会社解散ノコト決ス(後掲資料参照)。右書翰日附モ同年カ。


添申録 工部会社組合明治廿六年(DK130015k-0004)
第13巻 p.82 ページ画像

添申録  工部会社組合明治廿六年     (東京府文庫所蔵)
別紙届書農商務大臣ヘ御進達被下度此段奉願候也
  明治二十六年十二月六日
              京橋区鎗屋町一番地
                 有限責任日本土木会社 会社之印
                 社長 大倉喜八郎(印)
    東京府知事 三浦安殿
弊社義昨年十月臨時総会ノ決議ニ基キ爾来業務整理中ニ候処今般其局引結候ニ付、去ル三十日臨時総会ニ於テ当社ヲ閉鎖シ、株主中ヨリ寺田政成・横山孫一郎ノ両名ヲ清算人ニ撰定シ、財団悉皆大倉喜八郎ニ於テ譲受ケ、従テ自今他向ニ対シ権利義務共同人ニ於テ引受ケル事ニ決議致候ニ付、右ハ商法第二百三十四条ノ手続キヲ経ヘキ義ト心得清算人ノ住所氏名裁判所ヘ登記出願之処其手続ニ及ヒ難キ趣ニ付、此段連署ヲ以テ御届申上候也
  明治廿六年十二月六日
              京橋区鎗屋町一番地
                旧有限責任日本土木会社
                 社長  大倉喜八郎
                 清算人 寺田政成
                 〃   横山孫一郎



〔参考〕中外商業新報 第二三五七号〔明治二三年二月一日〕 日本土木会社(DK130015k-0005)
第13巻 p.82 ページ画像

中外商業新報  第二三五七号〔明治二三年二月一日〕
    日本土木会社
同社は其初め藤田大倉両組の業務を合併し、資本金二百万円と定め組織したる会社にして設立以来毎期一割二分の利益配当を為し来り、殊に昨年度の如きは規定の積立金の外別に配当平均準備積立金若干を設け尚年一割二分の配当を為したる如き盛況なるが、藤田氏は旧臘大倉渋沢其他二三の華族諸氏の望によりて其所持に係る同会社株券の過半を右の諸氏へ譲り渡したりといふ、而して同社設立の当時世間に其株券を望むもの多く続々譲受けの申込なりしも一切之を謝絶し、只両組社員に限り若干を譲与したるのみなりしに、藤田氏は今回前記の如く其所持株を他へ譲渡したるに就ては曩に譲与せし社員へ対し、此際同株を売払はんと望むものは買戻すべき旨を通知したるも未だ売戻しを申出る者なきよし、因に記す藤田氏か曩に其所持の内外用達会社の株券を悉く大倉氏へ譲渡したる時も同様、同会社設立の初め社員へ譲渡したる株券を所望に任せ之を買戻して大倉氏へ引渡したる例に倣ひ、今回も亦其買戻しの照会を為したるものなりといふ

 - 第13巻 p.83 -ページ画像 

〔参考〕大倉鶴彦翁 第一三六―一三八頁〔大正一三年九月〕(DK130015k-0006)
第13巻 p.83 ページ画像

大倉鶴彦翁  第一三六―一三八頁〔大正一三年九月〕
 ○第二編 第一章 事業経営時代
    五 大倉土木株式会社
 大倉土木株式会社は、大正六年十二月株式会社大倉組を大倉商事株式会社と改称すると共に、同社の土木部を分離して、新に資本金二百万円を以て株式会社大倉土木組を創立したのであるが、其後大正九年十二月、其の名称を日本土木株式会社と改称し、更に、大正十三年六月、大倉土木株式会社と改称したのである。
 翁の土木事業は、其の創立年久しく、海外貿易に亜いで斯界の為めに多大の貢献を効したのであるが、日本土木株式会社の創立は、実に明治二十年三月の交であつて、翁及び渋沢栄一、藤田伝三郎と合同出資に係る資本金二百万円の有限責任の会社であつた。而して渋沢は創立委員長として、又た東京方面の事業は翁に於て、大阪方面の事業は藤田に於て之を主管し、水利・土木・建築請負業を営んだのである勿論当時に於ける唯一大規模の土木会社であつて、新智識ある内外の技師を傭聘して、動もすれば従来斯業者の陥り易き土木請負業者の積弊を一掃せんことを期し、土木建築事業の発達に貢献したる功績は、見遁すことを得ないのである。
 然るに其後会計法の発布と共に、其の施設を之に適応すべく変更するの必要を生じたるを以て、明治二十六年之を解散することゝなつたのであるが、翁は土木会社の残工事施工と精算事務一切を継承して、大倉土木組を設立し、一面には益々其の事業を拡張して、我が土木建築界の為めに努力した。
 尋で明治四十四年十二月、株式会社大倉組が設立され、翁の事業が玆に統一される事に至つたので、大倉土木組も之に合併することゝなり、株式会社大倉組土木部となつたのであるが、更に又た前述したるが如く大正六年、大正九年両度の変遷を経て今日に迨んだのである。
○下略


〔参考〕渋沢栄一 書翰 八十島親徳宛(明治三一年)四月下旬(DK130015k-0007)
第13巻 p.83 ページ画像

渋沢栄一 書翰  八十島親徳宛(明治三一年)四月下旬
                 (八十島親義氏所蔵)
○上略
一大倉氏ヨリ埋地出願ニ付委任状ノ請求アラハ承諾シテ相渡スヘシ
○中略
 (加筆)
 「右ハ卅一年四月下旬韓国へ御出立前之命令覚なり」