デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
23節 土木・築港
4款 印旛沼開鑿事業
■綱文

第13巻 p.84-121(DK130016k) ページ画像

明治21年11月2日(1888年)

是日予テ印旛沼開鑿事業ニ専心セル織田完之、栄一ヲ訪ネ、同事業ノ創意ヨリ今日ニ至ル経過ヲ詳述ス。栄一大ニ之ヲ賛成シ、織田等ノ組織セル大明会姓名録ニ署名調印シテ之ニ加盟ス。


■資料

青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第八七三頁 〔明治三三年六月〕(DK130016k-0001)
第13巻 p.84 ページ画像

青淵先生六十年史(再版)  第二巻・第八七三頁〔明治三三年六月〕
 ○第五十九章 雑事
    第九節 印幡沼排水計画
印幡沼ノ水ヲ切落シ水田ヲ造ルノ論ハ旧幕府ノ時ヨリ久シキ歴史付ノ問題ナリ、明治二十二年奈良原繁・金原明善・鈴木安武・織田完之等更ニ此ノ議ヲ唱ヘ時ノ土木局長西村捨三亦此ノ議ヲ賛シ内務工師レエケ其他ノ技師ニ命シテ測量ニ着手ス、青淵先生友人ノ依頼ニヨリ資ヲ出シ之ヲ補助セリ


印旛沼経緯記内編 (織田完之著) 第一二一―一三一頁〔明治二六年七月〕(DK130016k-0002)
第13巻 p.84-86 ページ画像

印旛沼経緯記内編(織田完之著)  第一二一―一三一頁〔明治二六年七月〕
同○明治二一年六月十日大明会姓名録ヲ作ル
大明会姓名録
    緒言
大明ノ義ハ易ノ乾卦ニ取レルナリ、曰ク、大ナル哉乾元万物資テ始マリ乃チ天ヲ統フ雲行キ雨施シテ品物形ヲ流ク大ニ終始ヲ明ニシ六位時ニ成ルト、即チ是レ此会ニ名クル所以ナリ、下総国印幡沼ハ面積広大泥水ノ滙澮スル所タリ、其ノ水ヲ導テ内洋ニ注クニ於テハ無用ノ場ハ変シテ有益ノ区トナリ、蘆荻ノ叢ハ化シテ稲梁ノ田トナリ、鴻業ヲ後世ニ遺シ洪益ヲ国家ニ挙クヘク洵ニ一大盛事ト謂フベシ、元来此工事ハ今昔世疑ノ集マル所ニシテ卓見達識ノ人ニアラサルヨリハ衆疑ヲ排シテ成功ヲ洞視スルコト能ハス、然レトモ之ヲ経歴ニ徴シ之レヲ実測ニ照スニ開鑿ノ業ハ敢テ難事ニアラサルヲ信ス、先ツ其証ヲ挙レハ天保工事ノ後大和田橋ヲ堰留メ検見川迄漕運ヲ開キ二十余艘ノ小船ハ日日薪材穀菜ヲ載送シ天戸村迄ハ五大力船ノ往来セシ等数年ナリトス、当時船夫タリシ老人今尚存シテ花島村等ニ住シ常ニ人ニ対シテ詳説スル所ナリ、是ニ因テ同志者相謀リ義損金ヲ以テ大和田橋以南旧川筋ノ浚渫ヲ試ミント欲シ、千葉県庁ニ稟請セシニ本年四月廿一日ヲ以テ允可ヲ蒙リタリ、年来奈良原繁ハ大ニ此事ニ熱心シ種々計画ノコトアリ玆ニ至リ伊藤伯爵・三島子爵モ加盟ヲ辱フシ其ノ他義金ニ同意ヲ表スル諸君若干アリ、故ニ先ツ旧川筋ノ浚渫ヲ以テ第一着手トシ、此試験ニ因リ、其ノ実功ヲ奏シ世ノ疑点ヲシテ融解貫通スル所アラシメ、而シテ後ニ一大組織法ヲ立テ運河墾田ノ目的ヲ達センコトヲ予期ス、即是レ大ニ終始ヲ明ラカニシ、六位時ニ成リ雲行キ雨施スノ実ヲ他日ニ
 - 第13巻 p.85 -ページ画像 
収メント欲スルモノナリ、爰ニ姓名録ヲ作リ聊カ事由ヲ書シテ巻首ニ掲クト云爾
  明治二十一年六月            織田完之
                      金原明善
                      鈴木安武
                      色川三郎兵衛
                      池田栄亮
                      高島嘉右衛門
                      奈良原繁
                      伊藤博文
                      三島通庸
                      小野義真
                      林賢徳
                      岩崎弥之助
                      渋沢栄一
同廿三日金原明善ハ伊藤博文君ヲ芝ノ御殿山ニ訪ヒ義金弐百五拾円ヲ受取ル、此時色川氏モ同行セリ
○中略
七月○明治二一年一日若林高孝氏ハ織田完之ヲ訪ヒ印旛沼開鑿ノ為メニ排水喞筒ノ事ヲ語ル、若林ハ明治十三年頃下総船橋ニ寓居ス、当時織田ノ嘱ヲ受ケ内洋ト印旛沼旧鑿水路ヲ調査シ検見川ヲ見ルノ記ヲ作ル、今ヤ時至リ此挙業ニ際ス喜フヘキナリ、其ノ語ル所ノ喞筒「セントリピウカルポンプ」ト称ス、六馬力ノ蒸気ヲ以テ、一時間八百石ノ水ヲ排ス、故ニ二十四時間ニハ一万九千二百石ノ水ヲ排ス、其ノ製造費金一千円、速力高五丈ノ処ニ水ヲ揚クルニ足ル、其ノ製造ハ神戸川崎造船所ニテ内藤政共之ヲ作ル、政共ハ旧挙母藩主嘗テ工学ヲ海外ニ研究スト云々
○中略
同○明治二一年一〇月二十一日曩ニ奈良原繁氏義金醵集ノ事ニ斡旋スルヤ岩崎弥之助氏モ加入ノ意ヲ表ス、是ニ至テ本会連署帳ニ岩崎氏ノ名ヲ記入セリ、是レ小野義真氏采芳亭ニテ岩崎氏ノ加入ヲ明言スルニヨルナリ同二十二日是ヨリ先キ色川三郎兵衛茨城親睦会ニ於テ高島嘉右衛門ニ面会シ、印旛沼開鑿事件ヲ談話ス、高島大ニ賛称再会ヲ約ス、是日色川、織田完之ト高島ヲ木挽町四丁目ニ訪ヒ、印旛沼創業ノ順序ヲ熟話ス、高島曰ハク、是実ニ無上ノ世益予ハ発起者ノ位地ニ立テ尽力センコトヲ望ムト、即チ大明会姓名録ニ記名セリ
三島通庸君没ス、会員一同之ヲ惜ム、色川氏総代員トシテ会葬ス
○中略
十一月○明治二一年二日織田完之ハ渋沢栄一氏ヲ訪ヒ印旛沼開鑿事業ノ創意ヨリ今日ニ至ル順序ヲ詳述ス、渋沢氏大ニ之ヲ賛成シ、自ラ署名調印シテ加盟ヲ表シ曰ク、君夫レ之ヲ務メヨ、成レバ国家ノ大業ナリ成ラサルモ亦恥辱ニハアラサルナリト
○下略
 - 第13巻 p.86 -ページ画像 
  ○明治二十一年十一月栄一ガ印旛沼開拓ニ関係ヲ有スル以前ノ同事業ノ経緯ニツキテハ、織田完之著「印旛沼経緯記内編」明治十七年ヨリ同年ニ至ル条ニ詳シケレバ、左ニ掲グ。


印旛沼経緯記内編 (織田完之著) 凡例・第一―六頁〔明治二六年七月〕(DK130016k-0003)
第13巻 p.86-87 ページ画像

印旛沼経緯記内編(織田完之著)  凡例・第一―六頁〔明治二六年七月〕
    凡例
一下総国印旛沼ノ経営ニ於ケルヤ織田完之、金原明善ト謀リ、奈良原伊藤・渋沢・高島・小野・林・色川・池田諸氏之ヲ賛助シ、鈴木安武斡旋ノ労ヲ取リ、磯長得三測量ヲ督ス、乃チ実測図ノ成ルニ及テ金原明善ハ之ヲ品川内務大臣ニ稟ス、大臣大ニ感賞シテ其ノ設計ヲ古市土木局長ニ面命ス、局長之ヲ土木技師清水工学博士ニ嘱ス、博士巡検考覈遂ニ之ヲ工科大学生野田六次ノ卒業論文ニ充テ、大学ヨリ六次ヲ派遣シ実地ヲ踏査セシム、六次研究累月其ノ設計始テ立チ英国文ヲ以テ之ヲ記スル九十五頁、題シテ印旛運河計画書ト曰フ、開鑿費総額八十万円ト定ム、既ニシテ六次ハ土木学ノ全科ヲ卒業シ土木局ノ吏員トナリ、清水博士ハ其ノ設計書写ヲ織田ニ交付ス、是ニ於テカ大明会嘗テ印旛沼ノ設計ヲ内務省ニ稟請シタル要件ハ全ク一段落ヲ告ケタリ、是レ此ノ編ヲ著ハシ特ニ顛末ヲ報告スル所以ナリ
一此ノ内編十二巻ハ二十四年間印旛内洋ヲ経営シ着々根基ヲ固メ、世ノ浮沈ニモ拘ハラス屈セス撓マス精神一貫以テ今日ニ至レル実録ナリ、外編八巻ハ江戸開府以来内洋印旛其ノ外近郡ノ治水墾田ニ係ル旧記ヲ博采シ、以テ其ノ起業ノ沿革逸事ヲ列叙セリ
一印旛沼ノ経営ハ沼中ヲ疏鑿シ、併セテ内洋ヲ開墾スルニ在リ、故ニ此ノ事業ハ東海無双ノ国益ニシテ東京無疆ノ皇基ヲ鞏固ニスルノ隆挙ナリ、夫レ印旛沼ヲ内洋ニ疏通スレハ沼中ノ沃田凡三千八百町ヲ得ヘク、内洋ノ新田忽チ数千町ヲ起スヘク、漕運ノ捷路ヲ開キ物貨ノ転販ヲ盛ンニシ、利根川ノ洪水ヲ排シ、年々二十余万石ノ水患ヲ除キ、隄防費金年々数十万円ヲ省キ、軍備ノ要アリ、衛生ノ益アリ洵ニ是レ一挙万全ノ雄図ナルハ固ヨリ弁ヲ待タス、古往今来幾千万人ノ熱望スル所ニシテ天明天保ノ工事ハ已ニ七八分ノ開鑿ヲ成功シ現ニ其ノ旧溝ノ水ハ柏井ヨリ南北ニ分流ス、今之ガ疏通ノ法ヲ略言スレハ土取船ヲ以テ沼海ノ両方ヨリ浚渫織ルガ如クナラハ自然ニ成業ス、苟モ経国ニ志アル者実地ヲ一過スレハ決シテ其ノ難工事ニ非サルヲ知ル、抑此ノ疏鑿ノ業タル幕府ノ時代国是トナシテ幾度カ土功ヲ起シ、其ノ成蹟ノ顕著ナル既ニ前記ノ如シ、明治ノ昭代ニ於テ之ヲ疏通スルノ盛挙ナカル可カラス、今ノ世ニ有為ノ人物資力ヲ有スル者無キニ非ス、但是等ノ事ニ其ノ心力ヲ用ヒサルカ故ニ全ク必成ノ盛業ナルヲ確知セサルノミ、是レ此ノ経緯記ノ内外編ヲ一世ニ示ス所以ナリ
一此ノ編ハ内洋ノ経営ヨリ以テ印旛手賀両沼ヲ経営セントスル事蹟ヲ始メ、大明会ヲ創設シテ会員諸氏共ニ印旛沼ノ開鑿ヲ計画セル順序ヲ次第シ、測量計査ヨリ万般ノ事件ヲ包羅集輯スルモノナリ
一此ノ編ハ内洋及ヒ印旛沼手賀沼ノ経営ニ関スル実録ニシテ、単ニ印
 - 第13巻 p.87 -ページ画像 
旛沼経緯記ト題スルモノハ印旛手賀ノ両沼タル内洋ノ事業ニ聯関シテ最モ印旛沼ノ経緯之ガ大主眼タルヲ以テナリ
一此編ノ材料ハ完之ガ実賤《(践)》シ来レル日録印旛沼開鑿創業記ナルモノ三十余冊ヲ基礎トシ、旁ラ積年各地方ヨリ蒐集スル旧記文書等ヲ参考トス、但此ノ旧記文書ハ別ニ編次シテ外編ト為セリ、古来阪東ノ八州水利土功ノ迹ヲ観ント欲スル者ハ外編ニ就テ之ヲ探レハ蓋其ノ大要ヲ鑑ミルニ足ラン乎
一此ノ編専ラ実際ヲ示スヲ主トスルガ故ニ往復贈答ノ書類ハ原文ヲ挿載シ、旅況観察ノ次第モ之ヲ詳録シ、其ノ対話会談ノ如キモ亦実際ニ拠リテ之ヲ記シ敢テ言語ヲ改飾セス
一編中年ニ係ケテ記スルモノアリ、月日ニ係ケテ計スルモノアリ、体裁一様ナラス、是レ事業ノ経歴中自カラ急徐繁簡アリテ然ルナリ
一各方ノ人名ヲ記スル、其ノ住所地名ノ詳ナルモノハ初メニ之ヲ書スルモ再三ニ及テハ、単ニ氏名ノミヲ掲ケテ之ヲ略スルモノアリ
一編中主要ノ事項ヲ摘出シ以テ目録ヲ製シ之ニ丁数符合ヲ記シテ索閲ニ便ス
一此ノ編内洋ノ経営ニ於ケル下総国南葛飾郡堀江ヨリ上総国周准郡富津地先ニ至ルノ目的中、先ツ堀江地先ヨリ検見川地先迄ヲ初歩トシ長五里二十町余ノ干潟ニ五千百六十町歩ヲ開鑿スルノ計画ヲ立ル等完之隠然之ヲ幹理シ、尋テ検見川ヨリ平戸ノ間ヲ浚渫スルノ策ヲ講シ、先ツ義捐金ヲ以テ大和田以南凡九千坪ノ土ヲ除カンコトヲ稟請シ、千葉県ノ聴許ヲ得タリ、此ノ疏鑿ヲ成功セハ利根川ノ洪水ヲ利用シテ全功ヲ収メンコトヲ謀レルナリ、又印旛沼地方全体ノ測量ヲ為シ大絵図ヲ製シ、諸式備ハリ、設計八十万円ノ目的ヲ定メ乃チ之ニ対スル利益年々一割以上ニ上ルヘキ籌算ヲ述フ
一水利土功ノ事業ハ概子土地人民ノ故障ヲ唱ヘ必ス多少ノ妨碍ヲナスモノナリ、而シテ此ノ印旛沼ハ然ラス、人民ハ皆昏墊淹傷ヲ免レンコトヲ欲シ、且役ヲ起シ恤ヲ寓センコトヲ切望シ、簟食壷漿シテ迎フルノ気勢アリ、嘗テ該地方人民ハ大明会ノ起業ヲ促シ、続々助手セント請フ者五万余人ニ上ル、今其ノ願書等ヲ附載シテ事実ヲ条挙セリ
一印旛沼ノ経営ニ於ケル人皆之ヲ耳ニスル久シ、只実際設計ノ結果如何ヲ顧ルノミ、今此ノ内外編ヲ読メハ思ヒ半ニ過ルモノアラン、爰ニ始テ一会社ヲ設ケ基礎ヲ確立シ、此ノ盛業ヲ一挙スレハ万般ノ事業随テ起リ、永遠偉大ノ功業即チ成ル、其ノ愉快限リ無キヲ知ルヘキナリ、世間百万円ヲ投チテ栖宅ヲ営ム者アリ、蓋其ノ栄華ハ一己ノ楽ミニ止マルモノニシテ、或ハ後世子孫ノ累ヲ遺ス事ナキヲ保セス、是レ此ノ印旛事業ノ如キハ至大ノ国益ニシテ且営利ノ目的ヲモ達シ得ルノ楽ミ又何物カ之ニ加フルアランヤ、今ヤ治水ノ急務ナル利根川ノ汎濫ヲ以テ最モ甚シトナス、察セスンハアル可カラサルナリ
  明治二十六年六月


印旛沼経緯記内編 (織田完之著) 第一―七九頁〔明治二六年七月〕(DK130016k-0004)
第13巻 p.87-109 ページ画像

印旛沼経緯記内編(織田完之著)  第一―七九頁〔明治二六年七月〕
 - 第13巻 p.88 -ページ画像 
明治二年秋織田完之弾正台ヲ去テ若松県ニ赴クノ途次利根川ヲ渡リ、武野常総ノ地勢ニ感アリ、謂ヘラク、此川タルヤ関東第一ノ大川ニシテ坂東太郎ノ名世ニ高ク、古来年々洪水汎濫シテ印旛沼・霞浦等ニ瀰漫シ居民ノ昏墊淹傷ヲ受クル六百余村ニ渉リ、無慮二十万石ノ損害ヲ被ル殆ト虚年ナシト聞ク、東鑑ニ建長五年八月晦日下河辺庄ノ隄ヲ築キ固ムルノ沙汰アリシ事、蓋此辺ノ隄ヲ謂フナリ、徳川氏ノ幕府ヲ江戸ニ建ルニ及テ権現堂ノ隄ヲ増築シ、関宿ノ河口ヲ修固シ、江戸川ヲ浚ヘ、絹川ヲ決シ、尋テ印旛沼ヲ内洋ニ疏通スルノ盛挙アリ、是地理ノ大勢ニ於テ尤其宜キヲ得タル者トナス矣」
三年夏、完之若松県ヲ辞シテ東京ニ帰ルヤ復利根川ヲ渡リ、故佐藤信淵翁ノ遺著ニ治水ハ経国ノ根本タリトアルヲ想起シ、此川ノ利害ヲ講究センコトヲ企図セリ
四年冬完之職ヲ大蔵省ニ奉シ、民部省ノ簿書中ヨリ葛飾県ノ上申印旛沼手賀沼等ノ文書ヲ検出ス、爾後常ニ内洋印旛沼等ニ関スル旧記類ヲ広ク之ヲ民間ニ索ム
七年春、完之内務省勧業寮ニ転任シ、内藤新宿農務試験場ニ在リ、時ニ武総常野ノ郊原ヲ処理スルノ方案ニ於テ農務課ノ意見ヲ草スヘキノ議起レリ、完之独謂フ、原野ノ開墾ハ難ク沮洳ノ開墾ハ易シ、先ツ手ヲ沮洳ノ地ニ下スヲ得策トナス、是レ本邦ハ稲田ノ利ヲ主トスルヲ以テ水利ヲ治メサレハ開墾ノ業自ラ鹵莽ニ帰ス、察セスンハアル可カラスト、是ニ於テ信淵翁ノ物価余論簽書中内洋経緯ヲ以テ関東第一ノ事業トシ、日本全国ノ開墾中此ノ右ニ出ルノ切要ハアラスト云ヘル実ニ千古ノ卓論ナルニ感発シ、之ヲ継述スルノ志ヲ固フシ、潜ニ内洋及ヒ印旛沼手賀沼ヲ経緯スルノ画策ヲ抱ケリ、乃チ先ツ内洋経緯記ノ遺稿ヲ校訂シ時機ノ至ルヲ待ツ、十三年八月是ヨリ先キ奈良原繁氏猪苗代湖疏水ノ工事ヲ担当シテ岩代国安積郡開成山ニ在リ、完之内洋経緯記一巻ヲ写シテ之ニ贈ル、是ニ至テ奈良原氏上京シテ完之ニ謂テ曰ク、偉ナル哉佐藤翁此ノ絶世特異ノ大見識、此ノ書ヲ看ルコト猪苗代挙業ノ前ニアラシメハ、故大久保内務卿ヲ慫惥シテ彼ヲ後ニシ是ヲ先ンスル事ナリシヲ実ニ惜ムヘキ哉、然レトモ今ヤ猪苗代事業已ニ緒ニ就ク之ヲ了シテ後内洋印旛等ノ事業ニ従ハントス、請フ此ノ書ヲ印行セヨ其ノ費用ハ之ヲ弁セント、完之欣諾直ニ校刻ニ従事ス
○中略
十七年一月是ヨリ先キ大成教管長平山省斎氏並ニ藤井希璞氏等勧農義金ナルモノヲ飯田町五丁目廿六番地ニ設ケ、世人ノ開鑿ヲ誘導ス、然レトモ其ノ組織全カラサルヲ以テ業務挙ラス、当時義会ノ幹事ニ中地延年ナル者アリ、嘗テ佐藤信淵翁ノ家学ヲ慕フトテ屡織田完之ノ家ニ来ル、一日完之該会ノ事ヲ聞キ其ノ組織全カラサルヲ惜ミ、為メニ内洋経緯ノ画策ヲ示シ、且彼ノ大成教ノ信徒ヲシテ之ニ従事セシムルノ便宜ヲ平山ニ説カシム、平山氏之ヲ聞テ大ニ悦ヒ直ニ左ノ書ヲ完之ニ致ス
 新禧恭賀客歳中地君ヘ懇々御垂示為国家非常之御尽力被成下、積年之素願相達候機会ニ遭遇誠以雀躍為道為邦奉感佩候、委曲中地君ヨリ御聞取奉希候、余ハ不日拝趨万々可奉謝候、此上供万般宜ク御垂
 - 第13巻 p.89 -ページ画像 
教奉懇祷候 不一
  一月念七              平山省斎拝
    織田先生台下

平山氏内洋経緯ノ事ヲ出願ス
 抑品川沖ノ内洋ハ相摸武蔵安房上総下総ノ五州ニ亘リ、堀江ヨリ富津ニ到ルノ間其ノ乾潟ヲ開作シテ数十万石ノ地ヲ得ヘク検見川ヲ疏通シテ奥羽ノ遭運ヲ便利ニシ以テ東京無疆ノ皇基ヲ鞏固スルハ最モ国家ノ大急務ナルコト五十年前已ニ先輩ノ内洋経緯記ニ詳説シタルカ如シ、而シテ其ノ之ヲ経緯スル順序ニ至テハ関東八州ノ水利水害ヲ達観シ、永遠ノ大計ヲ予定シ以テ之ニ従事スルニ非スムハ争テカ国家ノ長計ヲ得タリト言ハンヤ、爰ニ大成教所属ノ講社六百九十万余人其ノ内三分ノ一二百三十万余人及ヒ創立員華族旧領民信仰者通算五十万人ニ平均金弐円ヲ醵集シ百万円金ヲ得ル、之ヲ大蔵省ニ差出シ、起業公債証ニ代テ儲積シ、其ノ年利六万円宛ヲ以テ年額トナシ開作ノ支費ニ充テ成功ニ至ルヲ期ス、仰冀クハ農商務省ヨリ此内洋経緯ノ為ニ有識ノ官員ヲ派遣セラレ測量ノ大計ヲ規画シテ着手相成様御指揮被下度、此段奉願候也
              大成教管長
  明治十七年一月廿八日    大教正従六位 平山省斎
                      東京小石川区原町八番地
    千葉県令船越衛殿
是ヨリ会名ヲ三田会ト称ス、是資祭・資教・資善ノ三田ヲ作ルノ主旨ナリ、後三田ヲ参田ニ改ム、是ノ月平山氏左ノ書ヲ織田完之ニ寄ス
 過日御枉車奉多謝候、偖兼テ御噺ノ内約モ調印即チ相揃四万五千円ト相成申候
    記
一参田事業確定実施之上者書面之金員大蔵省ヘ積立候約定決議候事
  明治十七年一月
   一金壱万円            諏訪忠誠(印)
   一金七千円            板倉松叟(印)
   一金七千円            永井尚服(印)
   一金弐千円            磯部最信(印)
   一金壱万円            平山省斎
   一金壱万円            荒尾邦寛(印)
   一金壱千円            金原明善(印)
二月一日曩ニ平山氏ヨリ内洋経費醵集ニ付出願セントスルヤ織田完之ハ之ヲ斡旋シ、千葉県令上京シテ終ニ願書ヲ落手スル事トナレリ、是日農商務省千葉県ノ上申ニヨリ内洋及ヒ印旛沼巡撿ノ為メ官員ヲ派遣スルヲ聴ルス、尋テ農商務省ハ疏水掛員及ヒ織田完之ニ出張ヲ命ス
○中略
六月○明治一七年廿四日平山省斎氏等連署シ内洋ノ埋立ヲ千葉県ニ出願シ、内洋開作工事ヲ農商務省ニ稟請シテ指令ヲ得タリ
 - 第13巻 p.90 -ページ画像 
    内洋開作工事願
 曩ニ内洋開墾ヲ根柢トシ教導授産法及祭教慈善ノ田ヲ開キ神祗ヲ崇奉シ、名教ヲ宣布シ教養並立只管神徳皇恩ヲ無窮ニ報酬スルノ大道ヲ表章仕度、就テハ関左ノ水利水害ヲ通観シ皇京万世ノ基礎ヲ建ルニ非レハ成功ヲ遠大ニ期スヘカラス、故ニ実測ノ件奉願候処未タ御指令ハ無之候得共已ニ夫々御調査ノ順序追々御運ニモ相成候趣為国家奉欣荷候、右開作経費ノ義ハ兼々上申仕候通諸国本教附属ノ信徒寄附醵集ノ金額概算百余万ニ可上候ニ付之ヲ大蔵省ヘ差出シ、金札引換公債証書ニ換ヘ国債局ヘ預置、該利子モ同ク兌換シ同局ヘ預置益増殖シ大ニ資本ヲ立テ其ノ利子ヲ以テ開作工事ニ実施仕度、右方法順序ハ既ニ大蔵省ノ許可ヲ得、地所ノ義ハ千葉県下下総国葛飾郡堀江村ノ地先ヨリ同国望陀郡中ノ村地先迄海岸乾潟ノ内一万三千町歩拝借開墾ノ義千葉県令ヘ出願且成功ノ上収穫配分方等迄同県庁ヘ委願仕候、右願済ノ上ハ工事ノ義ハ一切於御省御料理被成下度、依之千葉県令ヘ出願書類写相添此段奉悃願候也
  明治十七年六月
           教導職試補   藤井九二吉(印)
                    本所区番場町六番地
           従六位     藤井希璞(印)
                 麹町区霞ケ関一丁目二番地
           権中教正正七位 磯部最信(印)
                 麹町区土手三番町廿一番地
           中教正従五位  永井尚服(印)
                  青山植物試験場御搆内
           権中教正従五位 板倉松叟(印)
                 下谷区池之端七軒町廿番地
           中教正従四位  諏訪忠誠(印)
                  北豊島郡金杉村百一番地
           大教正従六位  平山省斎(印)
                  北豊島郡小石川村八番地
    農商務卿 西郷従道殿
 指令
 書面工事料理之義ハ聞届置候条資金整備ノ上猶可申出事
  但疏水掛ニ於テ監督為致候積着手ノ順序等巨細ノ義ハ該掛ヘ協議スヘシ
   明治十七年六月十六日  農商務卿 松方正義
    内洋経緯開墾地埋立願
 曩ニ一品宮勧農ノ科ヲ被設度御旨意ニ基キ大成教ニ於テ開墾ノ資業ヲ立テ教導授産ノ方法組織ノ際頼ヒニ県令閣下内洋経緯記寄贈旨意書図面共拝観一同感激シ、本教積年ノ素願タル諸国旧伝ノ諸神社維持ノ為メ資祭田ヲ設ケ、教会職修学ノ為メ資教田ヲ備ヘ、慈善施徳ノ為メ資善田ヲ開キ、専ラ国家ノ洪益ヲ起シ教養並立仕度、藤井希璞協議ノ上御県下下総国葛飾郡堀江村地続ヨリ上総国望陀郡木更津地先迄凡一万三千町歩ノ地所埋立、漸次地形水路ノ便ニ従テ開作相遂度、右費用ノ義ハ大成教所属及聯合ノ教会講社六百九十余万人内三分ノ一二百三十余万人身元素豪特別信心有志ノ者通算五十万余人前文三田振興教化授産ノ為メ寄附或ハ醵金概算百余万金ニ可上候ニ付、之ヲ大蔵省国債局ヘ差出公債証書ニ換テ儲蓄シ、原額ハ永遠同
 - 第13巻 p.91 -ページ画像 
局ヘ預置其ノ年利ヲ以テ開作ノ支費ニ充テ功業ノ必就ヲ期シ度、別紙ノ通大蔵省願済第一着工事ノ如キハ人民ノ信否ニ関シ候ニ付原額ノ幾分ヲ補充シ、第二着ニ至テハ信徒ノ希望ニ応シ募集ノ額ヲ増加シ該利子ヲ以テ成業ヲ期スル見込、右工事ハ一切農商務省ヘ委願工事料理被聞届疏水掛ニ於テ監督スヘキノ御指令相済、尚今般疏水課内務省ニ属シ候ニ付テハ即同課ヘ引継相成候趣確実ノ見込相立候ニ付、前文地所埋立ノ義御允許被成下度、別紙ノ通ニ沿海村々夫々協議ノ上別紙書面差出、澪筋存浚ハ無論ノ義ニテ聊支障無之候、依之成功後ニ係ル規則及反別一万三千町歩ニ係ル実測図右関係ノ書類相添連署ヲ以テ此段悃奉願候也《(奉悃)》
              大成教創立会員総代
  明治十七年六月          藤井九二吉(印)
                   本所区番場町五十番地
           従六位     藤井希璞(印)
                 麹町区霞ケ関一丁目二番地
           権中教正正七位 磯部最信(印)
                 麹町区土手三番町廿一番地
           中教正従五位  永井尚服(印)
                   青山植物試験場御搆内
           権中教正従四位 板倉松叟(印)
                下谷区池ノ端七軒町卅五番地
           中教正従四位  諏訪忠誠(印)
                  北豊島郡金杉村百一番地
          同管長
           大教正従六位  平山省斎(印)
                  北豊島郡小石川村八番地
    千葉県令 船越衛殿
大教正平山省斎外六名内洋経緯開作願ニ係ル水面埋立之義ハ澪筋存在有之候上ハ聊カ故障之筋無之候、依テ沿海村々連署候也
                千葉郡登戸村
                  総代
  明治十七年六月廿四日        木村金七(印)
                    鈴木幸助(印)
                千葉郡黒砂村
                  総代
                    遠藤万右衛門(印)
                    遠藤半左衛門(印)
                千葉郡稲毛村
                  総代
                    花光周輔(印)
                    海宝営輔(印)
                右戸長
                    海宝佐五右衛門(印)
                千葉郡撿見川村
                  総代
                    中村伊平次(印)
                    藤代竜造(印)
                右戸長
                    藤代市左衛門(印)
 - 第13巻 p.92 -ページ画像 
                千葉郡馬加村
                  総代
                    長沢吉平次(印)
                    宮葉武右衛門(印)
                    大須賀源内(印)
                右村戸長
                    林田孫兵衛(印)
                千葉郡鷲沼村
                  総代
                    村山吉兵衛(印)
                    鈴木忠兵衛(印)
                右村戸長
                    伊東佐右衛門(印)
                千葉郡久々田村
                  総代
                    三橋吉郎兵衛(印)
                    吉野義輔(印)
                    三橋承卿(印)
                千葉郡谷津村
                  総代
                    小倉英太郎(印)
                    金子儀左衛門(印)
                右両村戸長
                    伊藤弥一(印)
                東葛飾郡船橋五日市
                  総代
                    鳥光茂右衛門(印)
                    川奈部佐五右衛門(印)
                右市戸長
                    金子宇右衛門(印)
一段別壱万参千町歩   墾田総反別
    内訳
  四千九百参拾九町八反八畝拾九歩
       新田畑反別甲号第一着堀江ヨリ撿見川迄ノ分
    外 弐百弐拾町壱反壱畝拾壱歩
      此内
     拾三町三反三畝拾歩   汐溜敷
     六町六反六畝廿歩    右ニ沿フベキ道路敷
     百拾四町壱反六畝廿四歩 大小水路敷
     八拾五町九反四畝拾七歩 同断道路敷
  八千六拾町壱反壱畝拾壱歩
       新田畑反別乙号第二着撿見川ヨリ木更津迄ノ分
    外 三百五拾四町七反七畝四歩
      此内
 - 第13巻 p.93 -ページ画像 
     廿壱町七反弐畝廿四歩  汐溜敷
     拾町八反五畝拾八歩   右ニ沿フベキ道路敷
     百八拾弐町九畝廿壱歩  大小水路敷
     百四拾町九畝壱歩    同断道路敷
    甲号第一着工事
一金六拾万円            堤防総長壱万間
                   但壱間ニ付金六拾円
一金七万四千〇九拾八円弐拾九銭五厘 新田反別四千九百三拾九町八反八畝拾九歩地平均入費
                   但壱反歩ニ付金壱円五拾銭
一金七万〇参百四拾九円弐拾壱銭六厘 幹支線水路拾七万五千八百七拾三坪四勺入費
                   但壱坪ニ付金四拾銭
 計金七拾四万四千四百四拾七円五拾壱銭壱厘 但新田反別壱反歩ニ付金拾五円〇四銭九厘

    新田収穫予算
一成功新田反別四千九百四拾町歩
 此地券価格金弐百五拾九万参千五百円
  此小作米参万九千五百弐拾石   但壱反歩ニ付地価金五拾弐円五拾銭 小作米八斗
    此米代金拾九万七千六百円  但壱石ニ付金五円
      此内
    金六万四千八百参拾七円五拾銭   地租
    金弐万千六百拾弐円五拾銭     諸費(地租三分一ノ見積)
    計金八万六千四百五拾円
差引残金拾壱万千百五拾円       作徳純益
       但新田壱反歩ニ付金弐円弐拾四銭五厘(金利一割四分九厘余米利四斗四升九合)

農第五五七二号
書面願之趣ハ第一着トスル東葛飾郡猫実村地先ヨリ撿見川村地先ニ至ル(猫実村地先ヨリ船橋九日市ニ至ル藤井希璞埋立許可之分並毛利元国ニ於テ拝借ノ分合計二千廿六町歩余ヲ除ク)海面凡反別五千百六拾町歩埋立開墾ノ義聞届、左ノ命令書下附候条該趣旨ヲ遵守シ至急請書可差出事
  但該埋立着手之節及毎一ケ年ノ工程其時々可届出事
  明治十七年九月十五日 千葉県令 船越衛

    海面埋立開墾ヲ許可スル命令書
第一条 下総国東葛飾郡猫実村地先ヨリ撿見川村地先ニ至ル海面凡段別五千百六拾町歩ノ埋立開墾ヲ許可スルニ付テハ、其堤防道路堰樋ノ諸工事ハ渾テ土木局ノ計画ニ従ヒ、其指揮監督ヲ受クルモノトス
第二条 免許人ハ竣功ノ確実ヲ表スル為メ証拠金トシテ工事着手ノ以前、其予算金額(此金額ニ相当スル公債証書)ノ二十分一ヲ大蔵省国債局ニ預置クベシ
  但本文証拠金ハ工事竣功撿査済ノ後之ヲ還付スベシ
第三条 該事業ハ許可ヲ得タル後一ケ年内ニ起工シ、其ノ起工シタル月ヨリ五ケ年内ニ竣功スヘシ
第四条 工業上実地ノ利害ニ因リ設計及工法ノ変更ヲ命スルコトアル
 - 第13巻 p.94 -ページ画像 
可シ、之カ為メ予算金額十分一迄ノ増費ヲ要スルモ免許人ハ其工事ノ変更ヲ拒ムヲ得ス
第五条 免許人免許ヲ得タル後一ケ年ヲ経テ起工セス、又ハ起工後五ケ年ニ竣功セサルトキハ其免許ノ効ハ消滅スルモノトス
  但天災又ハ不得止事故ニ依リ工事遷延シタルコトヲ証明シ、官庁ニ於テ之ヲ見認シタルトキハ更ニ相当ノ延期ヲ与フヘシ
第六条 第五条ニヨリ免許消滅ノ場合ニ於テハ現状ノ儘上地セシメ該証拠金ハ没収ス
  但既ニ支払タル工費ハ免許人ノ損失トス
第七条 免許人ハ官庁ノ許可ヲ得ルニ非レハ免許ノ権利ヲ他ニ議与スルヲ得ス
第八条 工事竣工ノ後道路堰隄溝渠溜地等ハ官有地トシ其修繕ハ免許人ノ負担タルヘシ、其他開墾地ハ無代価ニテ免許人ニ下付スヘシ
  但年季中順次築成シタル地所ハ仮リニ其ノ所用ヲ許スヘシ
第九条 免許人ハ工事ニ関スル諸帳簿ヲ整頓シ置キ、官庁ノ需メニ応シ査閲ニ供スヘシ
第十条 一般ノ法律規則ノ為メ該事業ニ不利アルモ免許人ハ官府ニ対シ其補償ヲ請求スルヲ得ス
是ヨリ先キ平山氏内洋開墾ノ指令ヲ領収センカ為メ千葉ニ到ラントス因テ左ノ書ヲ織田完之ニ贈ル
 拝啓兼々御厚配相蒙候内洋経緯願御指令昨十二日相済千葉県庁ヘ廻候趣、県庁ヨリ今夕歟明朝迄ニハ達モ可有之、然ル上ハ仕立馬車ニテ出県可仕ト存候、就テハ兼々御約之如ク御繰合御出県之御都合是非々々奉希候、先々積日御丹精ニテ此ニ至リ難有歓天喜地不知所言
                           不一
  九月十三日               平山省斎
    織田完之殿
  追而川村金原菅沼ヘモ通達仕置候也

九月十五日完之平山ト同ク千葉町寒川長崎屋ニ在リ、是日大風雨海嘯アリ、平山ニ代リ完之ハ海水ヲ渡リ出県シテ内洋開墾ノ指令ヲ領収ス翌日請書ヲ進達ス(指令文ハ前ノ願書ニ附記スルヲ以テ此ニ略ス)
是月是ヨリ先キ平山氏三田会ノ事務所ヲ神田淡路町一丁目一番地ニ構ヘ九人ノ役員ヲ置テ資本醵集等ノ事ヲ処理セシム、然ルニ其ノ左右スル所往々本会ノ主旨ニ惇ルモノアリ、平山氏窃ニ之ヲ憂フ、是ニ至テ完之ハ金原明善氏ト謀リ平山氏ヲ輔ケテ之ヲ改革シ、更ニ明善氏ヲ勧メテ監理ト為シ、菅沼董雄氏ヲ幹事ト為シ、事務所ハ平山氏ノ宅ヲ以テ之ニ充ツ、曩ニ事務所ヲ淡路町ニ設クルヤ役員ノ給料毎月百四十九円ト称ス、是ニ至テ改革平山氏以下各員無給トシ、三田ヲ改メ参田トナス、尋テ平山氏改革ノ労ニ酬ヒン為メ明善氏ニ一品宮ヨリ賜リタル中啓扇錦嚢ニ入リタルモノヲ贈リ、董雄氏ニハ金百円ヲ贈リ、完之ニハ酬労ノ意ヲ詩ニ賦シテ贈ル、左ノ如シ
  参田会創業発起日恭贈織田君兼酬昔日之厚意
    探矣信淵夫子言、偉哉東海緯経論、
 - 第13巻 p.95 -ページ画像 
    後賢言織田君善継先賢志、 頼起国教酬国恩、
○中略

七月○明治一八年二十五日是ヨリ先キ平山省斎氏説教ノ為メ甲州ニ行キ又濃州ニ到リ兼テ参田会ノ募集ニ奔走スルモ信徒ノ気勢意ノ如クナラス、是ニ於テ完之ハ金原氏ト議リ大成教教正諸員ヲ平山氏ノ宅ニ招集シ募金ノ方法ヲ謀ル、然レトモ皆決セス、因テ更ニ金原氏等ト相謀リ先ツ勢子杭打立ノ事ニ斡旋ス、是日平山氏ヨリ墾田界標等ノ処理一切ノ事務ヲ完之ニ委任ス
印紙 委任状
  内洋墾田界標勢子杭等諸般処理ノ件
   右及御委任候也
  明治十八年七月廿五日        平山省斎
    織田完之殿
○中略
同○明治一八年九月二十九日勢子杭打立工事全竣ス、其ノ里程五里二十町余、二間毎ニ末口三寸長一丈ノ杭ヲ駢列ス是ニ於テ開墾ノ基礎定マル
○中略
明治十九年一月是ヨリ先キ織田完之、金原明善氏ト屡印旛地方ヲ歴観シ、疏鑿ノ方案ヲ考覈ス
    印旛運河ノ主意
 夫レ水土ヲ平クルハ経国ノ大綱、遭運ヲ便ニスルハ開国ノ急務ナリ況ヤ眼前東京湾ニ連接シ天然ノ地勢ニ拠リ順流ノ大運河ヲ疏通スルノ盛事ニ於テヲヤ、其ノ工事ノナルニ及デハ滊船風舶舳艪相銜ミ銚子東京ノ間現ニ十四里ノ捷路ヲトリ、烟波恙ナク来往シ、其ノ遭運ノ便利ナルノミナラズ、第一年々利根川洪水ノ汎濫ヲ除キ、内海之カ為メニ大ニ埋マリ数千丁ノ新田之カ為メニ逐次ニ拓ケ、其ノ国益ノ洪大無量ナル洵ニ照代ノ美挙ト称スヘクシテ尤海外ニ矜式スルニ足ルモノハ印旛運河即是ナリ、此ノ大運河ヲ疏通スル天然ノ地勢ヲ略述スレハ、先ツ撿見川ノ上流ナル花島村観音台下ノ浮泥ヲ流下セシメ、進テ横戸村ノ弁天池ヲ串通シ、大和田ヲ経テ平戸橋ヨリ湖水ニ連リ、湖中ノ瀬戸・吉高ノ間ヲ中断シテ安食村ノ西ヨリ枝利根川ニ接スヘシ、或ハ布鎌新田ノ西南枝利根川ノ入口ニ平水堤ヲ作ル尤宜シカラン、又花見川橋ヨリ西南ハ去年八月中地先キ凡一里沖ノ干潮界ニ末口三寸、長一丈ノ杭ヲ駢列シタル五里余ノ構内ニ乾潟ヲ浚ヘ、先ツ一条ノ河道ヲ新開シ東葛飾郡湊村ノ地ヲ貫キ江戸川ニ出テ新川口ニ連リ東京ニ入ルヘキナリ、往時天明天保ノ両工事湖海ノ中間既ニ七八分成功シテ、只一簀ノ功ヲ留メテ我挙ヲ竣ツモノニ似タリ、今其ノ疏通方略ノ簡単ナルモノヲ按スルニ南ハ花見川橋北ハ平戸橋トノ両方ヨリ土取船ヲ以テ日々往来織ルカ如ク其ノ浚疏シタル泥沙ヲ湖中ト海浜ニ捨テ、怠ラサルトキハ湖海忽チ水路ヲ通シ運河ノ開鑿其ノ緒ニ就クヲ得ヘシ、必シモ難事ニ非サルナリ、完之夙ニ心ヲ内洋印旛ノ両工事ニ用ヒ、熟々地勢ヲ踏勘シ故老ニ問訊シ或ハ旧記ヲ参索シ、其ノ水土ヲ平クル順序ト運河ヲ通シ墾田ヲナスノ便
 - 第13巻 p.96 -ページ画像 
要トヲ観察セリ、爾来自ラ信シテ勇進奮発時機ヲ待テ事ヲ果サントシ潜ニ拮据経営スル所アリ、金原明善大ニ此ノ挙ヲ賛助シ幾度モ完之ト実地ヲ歴観シ、先ツ世人ノ難場ト称スル花島観音台下ノ地層ヲ実査センコトヲ慮リ、金原明善自ラ若干ノ資金ヲ投シテ之ニ着手ス是ニ於テ運河大体ノ調査必用日ニ多キヲ加フ

    備考雑件
一常陸国行方郡北浦・鉾田・玉造・高浜・土浦等ヨリ利根川ヲ溯回シ関宿ヲ経テ東京ニ来ル物貨ハ米ヲ主トシ薪材之ニ次ク、其ノ米俵ヲ積載スル賃銭ハ、右五箇所共ニ大同小異ナリ、百俵ニ付運賃凡金六円、東京ニ来リハシケ船賃金三拾八銭五厘トス、牛堀ヨリ送レハ金五拾銭廉価ナリ、但十二月頃ハ高価ニ上リ八円五拾銭ニ至ルコトアリ、関宿廻リノ日数ハ大抵十五日ヲ要ス
一木下《ヲロシ》ヨリ二里余大堀ニテ「ハシケ」ニ積ミ替ヘ四里溯リテ又積ミ替ルト云フ、大船ハ五百俵ヲ積ミ小船ハ百二十俵ヨリ百五十俵ヲ積ミ「ハシケ」船ハ三十四五俵ヲ積ム
一利根川毎夜川瀬ノ変遷スルニハ舟子頗ル困難セリ、且渇水ノ時ハ尤甚シ、銚子大潮ノ時ハ神崎迄四寸ノ潮頭来ルト云フ
一行方郡長小林大次郎云ク、安食ノ印旛口ニテ利根川ノ高水一丈ナル時銚子港ニテ僅々三寸ノ増水ナリ、是印旛沼ヘ汎濫シ次テ霞浦北浦等ニ充満シテ後ニ銚子港ニ吐出ス、印旛沼ノ水害実ニ夥キヲ知ルベシト
一大場惣助云ク、利根川ハ上州利根郡ヨリ武州栗橋迄ヲ上利根川ト称シ、栗橋ヨリ下総木下迄ヲ中利根川ト称シ、木下ヨリ銚子迄ヲ下利根川ト称スト
    利根川鬼怒川通船表         若林商孝報
  明治十七年自一月二十一日至十二月三十一日利根川鬼怒川上下日々通船数

      利根川船数   鬼怒川船数      合計     筏数
          艘
 一月     九五四     六六九      一六二三    一四
 二月    二五九九    一八五二      四四五一    七〇
 三月    二七七二    一九八四      四七五六   二四一
 四月    三二六四    二〇二六      五二九〇   一七七
 五月    三九五六    二五五二      六五〇八   二六一
 六月    三八五八    一九〇八      五七六六   一四三
 七月    三四二一    一六七五      五〇九六   八二三
 八月    三三二七    一六四八      四九七五    九六
 九月    二六五二    一六〇二      四二五四   一〇三
 十月    三七二九    一九八六      五七一六   一五一
 十一月   三〇三八    一九一四      四九五二   四六五
 十二月   三九六七    二二六七      六二三四   四七八
 総計   三七五三七   二二〇八四     五九六二一  三〇二二
 平均一日 百八艘四八八 六十三艘八二六 百七十二艘三一一 十組〇〇七

  但大船百石積以上五百石積以下数六分五厘小船弐拾石積以上百石積未満数三分五厘筏長拾弐間幅壱間半
 - 第13巻 p.97 -ページ画像 
此ノ表ハ茨城県北相馬郡役所ニ於テ調査スル所一箇年間五万九千六百弐拾壱艘也

    撿見川平戸間古川筋浚疏概算     大橋精次稿
 撿見川村ヨリ花島村界迄
 一古河筋澪浚延長三千三百間      平均幅六尺深三尺
   此土坪壱万六千五百坪
 花島村界ヨリ野馬越迄
 一高台開鑿延長四百八拾間       平均幅二間深六尺
    此土坪九百六拾坪
 同所ヨリ横戸弁天下及大和田橋迄
 一土堀開鑿延長弐千百六拾間      平均上口拾弐間敷弐間深四間
    此土坪六万四百八拾坪
 大和田橋ヨリ平戸橋沼口迄
 一水路開鑿古河浚 延長三千七百四拾間 平均幅六尺深六尺
    此土坪三千七百四拾坪
 合土坪八万千六百八拾坪
  人夫拾六万三千三百六拾人
   此賃金三万弐千六百七拾弐円 但壱坪弐人掛リ壱人金弐拾銭
  是ハ土台坪二人掛リト定メ撿見川村海岸ヨリ横戸村中央迄里程弐里余、同所ヨリ平戸村迄里程弐里余ナルヲ以テ、日々南北ヘ運送セシムル船一艘ニ壱人乗込一回ノ掘上ケ土坪弐合五勺ト見傚シ、之ヲ一日両度運送シテ海浜干潟及ヒ沼中ニ捨ル土坪ハ五合ニシテ壱坪ノ土ハ一人二日ヲ要スル予算ナリ
 一運送船新調八拾艘 長六間船幅五六尺
   此代金三千弐百円 但一艘金四拾円
  是ハ横戸村ヲ中央トシ南北両方ヘ四艘ツヽヲ配置シ之ヲ一組ト定メ、当事業ヲ十組トシ、一組ノ二艘ハ始中土ヲ堀取リ、一艘ハ海浜及ヒ海中ニ土ヲ捨テ、一艘ハ中間ヲ往復ス、斯ノ如クニシテ順次運送セシメ毎日四拾坪ヲ開鑿シテ寸隙ナカラシメハ、七箇年ヲ以テ遂ニ成功スルノ計画ナリ
 一鋤簾六千七百弐拾挺
   此代金千三百四拾四円
  是ハ一艘一箇月ニ一挺破損スルト見傚シ、南北八艘ニ八挺ナルヲ以テ十組ハ則八拾挺、七箇年分ヲ算出ス
 一監守 弐人
   此給金八百四拾円
  是ハ南北両方ヘ一人ツヽ監守ヲ置キ、一人一箇月ノ給料金五円ト定メ、七箇年分ノ合計ナリ
 一竹柵延長弐千間
   此金六百五拾円
  是ハ海岸沼中或ハ難場等出来ノ時用フル予備ニシテ、一間送リ杭木壱本柵ハ三尺丸竹ヲ以テ組立ルモノトス
    此訳
 - 第13巻 p.98 -ページ画像 
  杭木弐千本      長九尺 末口三寸
   此代金三百円     但壱本ニ付金拾五銭
  竹壱万五千本     長弐間廻リ五寸以上一尺以下
   此代金百五拾円    但壱本ニ付金壱銭
  人夫千人       壱人ニテ柵組立杭打共五間送リ
   此ノ賃金弐百円
 合計金三万八千七百六円
  右ハ土壱坪ヲ二人掛リト定メ、撿見川村海岸ヨリ横戸村中央迄里程凡二里余、同所ヨリ平戸村迄二里余ナルヲ以テ、日々南北ヨリ土取船ヲ以テ土ヲ取リ流レテ海岸ト沼中ヘ戻リ土ヲ捨ルコトヲ怠ラサレハ、開鑿第一着手ノ実効ヲ遂ルノ計算ナリ、但此ノ僅少ナル金円ニテハ大船ヲ通行セシメ或ハ沼地ヲ開墾スルコトハ未タ能ハスト雖トモ、斯ノ如ク遠大悠久ノ見込ヲ定メ、漸次開鑿ノ業ヲ行ヒ、先ツ印旛沼ヨリ撿見川海浜ヘ小船ノ運輸線ヲ開キ、次テ第二着手第三着手ト歩ヲ進メハ、洪水ノ力ヲ転用シ、遂ニ大成シテ国家無上ノ公益ヲ起スニ至ルヘシ

    下総国下埴生郡安食村ヨリ印旛沼ヲ貫キ千葉郡撿見川村ヲ経テ内洋干潟ヲ疏鑿シテ東葛飾郡湊村ノ地ヲ開通シ新川ニ達スル工費予算書
                      大橋精次稿

 一金四拾五万七千六百〇八円     工業額
    此訳
  金六万五千五百円
   是ハ安食村ヨリ平戸村ノ間印旛沼中水路堤塘築設額
  金五千七拾円
   是ハ安食長門川口護岸工事並ニ水制粗朶両岸芝植付等諸費
  金七万円
   是ハ吉高瀬戸ノ峡間凡千弐百間水路開鑿土功費
  金弐千弐百四拾円
   是ハ右同所土止メ柵並ニ芝植付等護岸工費
  金拾万四千円
   是ハ平戸村ヨリ撿見川村迄里程四里余ノ間浚鑿費
  金拾万千四拾八円
   是ハ撿見川海面干潟ニ内河ヲ浚疏スル凡四里余工業費
  金一万弐千円
   是ハ右川筋両側竹柵設置費
  金八千五百円
   是ハ湊村古河幅広ケ及新河開鑿費
  金弐千弐百六拾円         締切一式
   是ハ安食村地先ヨリ七拾四ケ所〆切壱ケ所平均四拾円積リ
  金千弐百円            水汲用踏車賃
   是ハ百拾五挺昼夜三拾人百日間一昼夜賃四拾銭積リ
  金八百四拾円           橋六ケ所
   是ハ壱ケ所長サ平均弐拾間幅三間弐ケ所架設坪七円積リ
 - 第13巻 p.99 -ページ画像 
  全千弐百円            橋六ケ所
   是ハ長サ弐拾間幅弐間六ケ所架設坪五円積リ
  金弐千弐百五拾円         堤防費
   是ハ突出堤長延千三百間見積リ
  金四千円             堀鑿費
   此土積壱万坪 但平均弐間堀下ケ坪三人掛リ
  金弐千五百円           同所石垣費
   是ハ石垣五百坪 但坪五円房州石ノ見込
  小以金四拾弐万四千九百八円
    外ニ
  金三万五千円
   是ハ川筋中民有地買上ケ予算額
  金弐万円
   是ハ工事着手前測定及工事中小屋掛ケ並ニ人夫雇入等一切之諸費見積リ予算額
  金弐万円
   是ハ工事中万一不測ノ災害ニ罹リ工事上障碍ナキヲ難保ニ付予メ該金額ヲ備ヘ置ク
  以上

    印旛沼開鑿予算書
印旛沼ノ水ヲ内洋ニ浚疏シ運河ノ便開墾ノ業並起リ東海無双ノ大鴻益ヲ挙ケントス、爰ニ其ノ大要ヲ述ンニ、印旛沼ノ西南ナル平戸橋ノ水位標ヨリ撿見川ノ海浜ニ到ル里程凡ソ四里十二町余アリ、沼底海面ノ勾配ハ凡ソ八尺ニシテ、一間ニ付七毛五ノ低下トナリ、撿見川海ニ注クナリ、平水ハ沼中ノ水ニテ運河自在ナリ、若シ利根川ノ水増シ加ハルトキハ南流ノ勢ヒ快奔シ、泥塗ヲ内洋ニ蕩出シテ頗ル開墾ノ天助アリトス
撿見川ノ海浜字ハ印旛ノ落口ト称スル澪筋ヲ鑿開シ、適宜ニ船舶繋泊所ヲ作リ、内河ノ準備ヲナシ、又勢子杭ヲ打増シ、其ノ欄内砂土ノ集積スル処鹹蕢《クゴ》ト蘆葦《ヨシ》ヲ植込ミ、墾田行舟ノ両基礎ヲ並立セントスルナリ
印旛沼ノ中心ナル平賀岬ノ西ニテ吉高萩原ノ間十二町余ヲ瀬戸村ニ向テ開鑿シ、其ノ土ヲハ沼中南北ニ捨テ堤塘ノ用ニ充ツヘシ、沼中ノ水ハ一旦南ニ決放スレバ水路自然ニ澪形ヲナス、是ニ粗朶水柵等ヲ施シ水行ヲ助クルトキハ川形全成シテ墾田ノ地形自ラ成ルベシ、只低凹ノ処池ヲ存スルモノハ魚鰕ノ生殖スル処トナラン、其ノ澪筋ノ両側ハ適宜ニ土堤ヲ築クヘシ、崖上ノ山土ヲ運入スル自由自在ナリトス
行舟ノ便宜ヲ考フルニ、利根川ヲ木下シ迄遡ル最大ノ船ハ外法幅員十九尺五寸、船足四尺五寸ナリ、故ニ川底幅三十六尺最低水ニテ水源六尺ト見做シ、開鑿ノ運河ハ両岸ノ法一割ナルモ最大ノ船二艘併行シテ尚九尺ヲ余ス、又大船底ヨリ下ニ一尺五寸ノ水アレハ十分ナルベシ、撿見川ノ繋泊所ヨリ内河ヲ掘リ新川口ニ接スルノ計画ナリ

 - 第13巻 p.100 -ページ画像 
      ○撿見川村ヨリ平戸村ニ到ル四里十二町余
一金五拾七万四千九百拾壱円八拾七銭六厘 開鑿費額
    内訳
  金五万弐千六百九円五銭六厘     但壱坪四人掛壱人賃金弐拾銭
   此土積六万五千七百六拾壱坪三合弐勺
    是ハ撿見川水位標ヨリ第廿九号迄堀下ケ川床六間積
  金拾四万八千八百九拾六円五拾弐銭  但壱坪拾人掛壱人賃金弐拾銭
   此土積七万四千四百四拾八坪弐合六勺
    是ハ廿九号ヨリ四拾号迄堀下ケ川床六間積
  金拾参万五千弐百八拾七円四拾七銭弐厘 但壱坪八人掛賃金同断
   此土積八万四千五百五拾四坪六合七勺
    是ハ四拾号ヨリ五拾五号迄堀下ケ川床六間
  金拾壱万四千参百参拾五円七拾七銭六厘 但壱坪八人掛賃金同上
   此土積七万千四百九拾九坪八合六勺
    是ハ五拾五号ヨリ七拾壱号迄堀下ケ川床六間
  金参万六千九拾七円弐拾銭八厘    但壱坪四人掛賃金同断
   此土積四万五千百弐拾壱坪五合壱勺
    是ハ七拾壱号ヨリ百壱号迄堀下ケ川床六間
  金参千円              締切一式
    是ハ安食村地先外七拾四ケ所締切壱ケ所平均四拾円
  金千六百円             水汲用滝骨車踏車等ノ費
    是ハ一日弐拾挺昼夜四拾人ツヽ百日間一日四拾銭
  金八百四拾円            橋弐ケ所
    是ハ壱ケ所平均弐拾間巾三間弐ケ所架設ス但シ壱坪七円ツヽ
  金千弐百円             橋六ケ所
    是ハ壱ケ所長弐拾間巾弐間六ケ所架設ス 但シ壱坪五円ツヽ
  金六千円              掘鑿費
   此土積壱万坪 但平均深弐間半堀下壱坪三人掛壱人賃金弐拾銭
    是ハ撿見川繋泊所四千坪
  金三千弐百五拾円          同所石垣費
    是ハ石垣六百五拾坪壱坪金五円 但シ房州石ヲ用ユ
  金四千円              堤防費
    是ハ築堤長延千六百間壱間ニ付弐円五拾銭
  金六千七百五拾円          印旛沼澪筋保護費
    是ハ沼中左右長延弐百七拾間澪筋保護 但壱坪五人掛賃金弐拾銭
  金千七百五拾円
    是ハ安食口ヨリ印旛沼ニ向テ長五百間幅平均七間深平均三尺
  合金五拾壱万五千六百拾六円三銭二厘
  金五万九千弐百九拾五円八拾四銭四厘 予備金壱割壱分五厘
      ○瀬戸開鑿凡十二町
一金拾九万弐千七百拾弐円三拾壱銭三厘  開鑿費額
    内訳
  金壱万八千五拾九円五拾弐銭 但壱坪四人掛壱人賃金弐拾銭
   此土積弐万弐千五百七拾四坪四合
 - 第13巻 p.101 -ページ画像 
    是ハ第壱号安食口ヨリ第六号迄
  金拾万六千百拾四円四拾五銭弐厘   但壱坪六人掛同断
   此土積八万八千四百弐拾八坪七合壱勺
    是ハ第六号ヨリ第拾七号迄
  金五万弐百拾九円四銭        但壱坪四人掛同断
   此土積六万弐百七拾七坪三合八勺
    是ハ第拾七号ヨリ第廿七号迄
  金八百円              橋四ケ所
    是ハ長平均弐拾間巾弐間 但壱坪金五円
  合金拾七万五千百九拾三円壱銭弐厘
  金壱万七千五百拾九円三拾銭壱厘   予備金壱割
二口
総計金七拾六万七千六百弐拾四円拾八銭九厘
    此外
 一金壱万千弐百九拾壱円四拾銭 潰地買上代平均壱段ニ付三拾円
   此段別五拾七町六反三畝弐拾四歩
    是ハ平戸村ヨリ撿見川迄長凡九千四百九間半川上口幅平均拾弐間潰地ノ積
合計金七拾七万八千九百拾五円五拾八銭九厘
 一金九万三千四百六拾九円八拾七銭壱厘
  内 金七万七千八百九拾壱円五拾五銭九厘 年壱割利子但落成迄二ケ年予定折半壱ケ年分
    金壱万五千五百七拾八円三拾壱銭弐厘 諸雑費
  都合金八拾七万弐千三百八拾五円四拾六銭

      ○償還予算
一印旛沼長壱万五千百二十間幅千二百間    但シ長七里巾平均二十町
  此面積千八百拾四万四千坪
    内四百五拾三万六千坪 川敷隄防用悪水路道敷其外除蠲地四分ノ一引
   残千三百六拾万八千坪
    此段別四千五百三拾六町歩
     此素地払下代価金六拾八万四百円 平均一段金拾五円
 前記開鑿費差引
   残金拾九万千八百八拾五円四拾六銭  不足
    是ハ棹税収入金ヲ以テ二ケ年間償却ノ積
   金三拾万七千百七拾六円七拾三銭六厘 右残金二十年間年八朱利子
  合金四拾五万九千百六拾弐円拾九銭六厘
    此処
   一金四拾九万円     船税収入    但一ケ年弐万四千五百円二十ケ年分
    内金壱万円      二十ケ年諸費
    内 金七千六百八拾円 雇人四名給料  但一人月給金八円
      金弐千三百弐拾円 見張二ケ所諸費 但一ケ所月四円八拾三銭三厘
   残金四拾八万円
     此利子三万六千八百八拾円    十九ケ年分折半年八朱利
    合金五拾壱万六千四百八拾円
 - 第13巻 p.102 -ページ画像 
  元方差引金壱万七千三百拾七円八拾銭四厘 贏余

明治十七年度通船調
一利根鬼奴両川通船五万九千六百弐拾壱艘
  内壱万九千六百弐拾壱艘     鬼奴川通船関宿廻ト見傚
  残テ四万艘

  積石    舟数    棹税見積    収入額
  五百石積 千艘    壱艘壱円九拾銭 千九百円
  四百石積 三千艘   同 壱円五拾銭 四千五百円
  三百石積 五千艘   同 壱円弐拾銭 六千円
  二百石積 五千艘   同 八拾銭   四千円
  百石積  壱万五千艘 同 四拾銭   六千円
  五十石積 壱万艘   同 弐拾銭   弐千円
  二十石積 千艘    同 拾銭    百円

  壱ケ年船税
   通計弐万四千五百円 平均壱艘 金六拾壱銭弐厘五毛
前記ノ計算ヲ以テ此ノ事業ヲ竣功スルニ於テハ其ノ利益ノ広且大ナル左ノ如シ
第一 運輸ノ利便
 此運河ヲ開クトキハ従来関宿ヲ迂回シテ東京ニ達スル困難ヲ除キ、貨物早達シ、随テ時価ニ影響シ、且ツ舟子ノ雇費ヲ減省スルコト頗ル大ナリ
 安食ヨリ関宿ヲ経テ東京ニ達スル通常七日間ト見傚シ又安食ヨリ印旛運河ヲ経テ東京ニ達スルヲ三日間トナシ此ノ差違四日間ナリ五百石積以下二百石積以上
 一ケ年通船四万艘平均一人七分乗トナシ此ノ舟子六万八千人四日間ノ合計弐拾七万弐千人、一日壱人雇賃弐拾銭積リ此賃金五万四千四百円、内弐万四千五百円棹税支出差引金弐万九千九百円壱ケ年得益

   積石 一艘乗組舟子 舟数     舟子平均    賃金高
  五百石  五人    千艘     五千人    千円
  四百石  四人    三千艘    一万二千人  弐千四百円
  三百石  三人    五千艘    一万五千人  三千円
  二百石  二人    五千艘    一万人    弐千円
  百石   一人    一万五千艘  一万五千人  三千円
  五十石  一人    一万艘    一万人    弐千円
  二十石  一人    千艘     一千人    弐百円
  合計         四万艘    六万八千人  壱万三千六百円
  平均         一艘     一人七分   三拾四銭

  日数四日分金五万四千四百円
   内金弐万四千五百円     船税引
 残金弐万九千九百円            益
第二 開墾地ノ益
 開墾耕地段別四千五百三拾町歩
  此地価金百六拾三万弐千九百六拾円  但平均壱段歩三拾六円
 - 第13巻 p.103 -ページ画像 
   此収穫米七万八千三百八拾弐石八升 国益 但平均壱段歩壱石七斗弐升八合
    内米三万五千百九拾壱石四升  種籾肥料耕耘費並小作人得益引 但折半見込
  残米三万九千百九拾壱石四升    地主得益
   此代価金拾九万五千九百五拾五円弐拾銭  但壱石金五円
    地租金四万八百弐拾四円    国税
    内金弐万四千四百九拾四円四拾銭    地方税公儲町村費
  合金六万五千三百拾八円四拾銭 但国税 地価金弐分五厘地方税地価金壱分五厘見込
 差引残金拾三万零六百三拾六円八拾銭     年々得益
   但地価金ニ対シ壱ケ年八朱ニ相当ス

 等位 一段歩地価 段別        価高          一段歩収穫    収穫高
 一等 五拾円   九百七町二段   四拾五万三千六百円    二石四斗   二万千七百七十二石八斗
 二等 四拾円   同        三拾六万二千八百八拾円  一石九斗二升 一万七千四百十八石二斗四升
 三等 三拾五円  同        三拾壱万七千五百三拾円  一石六斗八升 一万五千二百四十石九斗六升
 四等 三拾円   同        廿七万弐千百六拾円    一石四斗四升 一万三千六十三石六斗八升
 五等 弐拾五円  同        廿拾万六千八百円     一石二斗   一万〇八百八十六石四斗
 合計 百八拾円  四千五百三十六町 百六拾三万二千九百六拾円 八石六斗四升 七万八千三百八十二石八升
 平均 三拾六円                        一石七斗二升八合

第三 水害除去ノ益
 印旛沼長七里余          二百八十八町間数一万七千二百八十間
  水害耕地弐拾五万九千弐百坪
    但止水ニ依テ周囲拾五間水害地ト見傚シ
   此段別八拾六町四段歩
    此収穫米千三百八拾二石四斗 但壱段歩米壱石六斗
  利根川沿岸三拾里      但片岸拾五里両岸 里程 一千八十町間数六万四千百間
   此水害耕地六拾四万八千坪 但流水ニ由テ沿岸十町水害地ト見傚シ
   此段別弐百拾六町歩
    此収穫米三千四百五拾六石 但一段歩米一石六升
 印旛利根 合米四千八百三拾八石四斗
    此代価金弐万四千百九拾弐円 但米一石金五円
 是ハ沿岸ノ熟田三五年間六度普通満水ノ為メニ罹ル損害ヲ除クノ概算ナリ、稀ニ洪水暴漲ノ害ヲ除去スルニ至テハ尤モ莫大ノ国益ナルヘシ、利根印旛ハ沿岸水害ヲ蒙ムル村落凡ソ六百三拾余村アリトハ古来土人ノ説ナリ
第四 衛生上ニ関スル益
 印旛沼上百十村ノ内沿岸四拾ケ村ノ人民間歇熱ノ患者多数ナリ、此ヲ開鑿シテ耕地トセハ其ノ患害ヲ除キ各自就業ノ益アリ
  患者八百人      沿岸四拾ケ村 一村患者二拾人積リ
  此ノ延人員弐万四千人 但壱人三十日 罹疾ノ積
  此怠業賃金弐千四百円 一日壱人   金拾銭
  此薬価金千弐百円   同      金五銭
 合計金三千六百円
第五 内洋墾田ノ益
 印旛沼ノ渟水ヲ内洋ニ決放シ、水路堀鑿ノ土壌ヲ運ヒ内洋ニ捨テ、
 - 第13巻 p.104 -ページ画像 
又流水ノ為メ蕩出ノ土砂自然海中ヲ埋メ、新田ヲ開キ国益ヲ起スコト其夥キ固ヨリ期スル所ナリ
右ノ通

二月○明治一九年十二日曩ニ金原明善氏ノ印旛地方ヲ歴観スルヤ、古来難場ト称スル花島村観音台下ノ泥層ヲ精査シ、兼テ世人ノ疑団ヲ氷解センカ為メ、試ニ該処ニ池ヲ掘リ之ニ鯉魚ヲ飼養センコトヲ慮リ、其ノ資金若干ヲ出ス、織田完之之ガ規画ヲ定メ、大橋精次ニ工事ヲ嘱シ、船橋駅ノ石井新吾氏ヲシテ借地等ノ事ヲ周旋セシム、是ノ日石井ヨリ借地使用方等ヲ回答ス、其ノ書ニ曰ハク
 御申越相成候花島村観音下ニ於テ養鯉池云々了承仕候、幸ヒ昨十一日休暇ニ付知己ナル大久保新田市角紋蔵ナルモノ誘引、花島村観音門前ニテ大野長兵衛ト申ス者以前村役勤務且地籍等承知殊ニ実直ト承リ、同人ヘ相尋委曲問合候処、当村ハ田地乏キ村方ニテ売買等ハ無之、借地ナラハ田四畝歩米壱俵ノ割ヲ以テ入附候間、之ニ二三割ノ増米ヲ加ヘ借地使用可然ト相答候、該工事ノ積算概略左ニ
 一田壱畝歩
  内
   拾八歩 周囲泥上ケ場
   拾弐歩 池但深サ七八尺位迄ハ置土ナリ其下地中ハ往年堀割ノ節堀上ケタル深泥ノ由是ハ青色ナル糊ノ如キ泥ナリ
    深サ八尺位
  此人足弐拾四人
   但壱坪ニ付弐人    壱人賃銭三拾銭ノ積リ
  外ニ
   水汲人夫四人     但賃銭同断
  周囲ノ端口諸色柵木等ノ代価ハ概略掘上賃銭ニ倍ス
 右之通、最モ長兵衛ニ於テ後日篤ト取調呉候筈ニ依嘱致置候間、不取敢此段申上候 噸首
                  船橋九日市
  二月十二日               石井新吾
    織田完之様

 同十五日織田完之ヨリ養鯉池仮設ノ要件ヲ在下総八日市場ノ大橋精次ニ通牒ス
 下総撿見川筋花島村観音崖下泥深ノ難場ヲ撰ミ、試験堀ノ為メ先ツ養鯉池取設ノ儀、先般船橋九日市石井新吾ハ申送、即別紙第一号ノ通回答有之、依之第二号ノ通弐畝歩ノ借入掘立度見込、其中三坪カ四坪ハ一丈余掘下ケ有名ノ浮泥ヲ充分抄出シ、工事ノ難易ヲ撿考致度儀専要ナリ
 別冊第三号ノ養鯉法ハ実地ノ経験ナリ、然シテ板囲等盛大ノ仕掛ニハ及ハス、元来試験掘ノ主意ナレハ養鯉ハ第二義也、右ニ就テハ金原氏今十五日午後五時面会金五拾円支出ノ事ニ決定致候間、貴兄担当被成工事整頓ノ事為邦家要望致候、弥以御承諾トナラハ何日頃何地宛送金取計可申歟御申越ノ事
 - 第13巻 p.105 -ページ画像 
 船橋石井御引合第一号書中順序ヲ以テ彼ノ古堀ノ細流ニ近キ尤モ泥深キ難場ヲ撰定シ、弐畝歩借入名前人ハ金原氏宛約定ノ事
 右ノ条々至急御回答可被下候、金原氏モ本月末ハ遠州ニ帰ルト申事故、其前ニ送金諸事計画致置度存候、此段申入候也
  十九年二月十五日夜九時発        織田完之
  八日市場
    大橋精次殿

同十七日大橋ハ織田ノ通牒ニ由リ養鯉池築造目論見概算書ヲ送致シ、且明日八日市場ヲ発程シ来ル二十日船橋駅石井新吾ニ面会、時宜ニヨリ一応実地ヲ検査セントスル心算ヲ予報ス
同二十日織田完之、大橋精次送ル所ノ養鯉池築造目論見概算書ヲ金原明善氏ニ転示ス、是日金原氏鑿池浅深ノ意見ヲ付シテ之ヲ返送ス、其ノ書ニ曰ハク
 拝見大橋氏ノ来状逐一拝承仕候処、六尺堀ニハ不及事ニ被存候、其次第ハ養鯉之場所ハ随分壱尺五寸ヨリ弐尺位ト被存候、是ハ養鯉法ニ依テ御考可被下候、又試験堀之処ハ可相成丈深キ方面白奉存候、此方ハ或ハ壱丈弐尺位可然哉ニ被存候、右辺宜敷御注意可被成下候何レ大橋氏ヨリ後便可有之、其摸様ニ寄リ猶御相談可伺候也
  二月二十日               金原明善
    織田完之殿

同二十八日大橋ハ昨日八日市場ヲ発程船橋ニ来リ石井新吾ニ面会、即日花島ニ到着借地等ノ協議略整フヲ以テ、将ニ工事ニ着手セントスル旨ヲ織田完之ニ通知シ、併セテ大野長兵衛記出スル所ノ費用見積書ヲ転送ス
是月是ヨリ先キ上総国望陀郡木更津村綱島郷左衛門同郡末吉村鳥飼作治郎等養蠣ヲ企図シ、木更津字竜田町北片町地先海面八拾町歩ヲ借用センコトヲ千葉県庁ニ出願ス、県庁令シテ先ツ参田会ト協議セシム、是ニ至テ左ノ願書ヲ参田会ニ出ス、平山省斎氏之ヲ織田完之ニ転送シテ意見ヲ問フ
    内洋ノ一部養蠣之儀ニ付願
上総国望陀郡木更津字竜田町北片町地先海面反別凡八拾丁歩養蠣ノ為ニ拝借之義、客年三月中別紙之通県庁ヘ出願候処、参田会内洋経画ノ支障相成リ候テハ不都合ニ付、先以該会ノ承諾ヲ得候上更ニ出願可致旨御達有之候、右内洋大経画ノ美挙尤御賛成仕候儀ニ付、私共両人先以御会ヘ加盟候間、御差支ノ義モ無之候得ハ該地五ケ年間使用ノ義特別ノ訳ヲ以テ御承認被下度、左ニ条約書相立此段奉願候也
  明治十九年二月    上総国望陀郡木更津村四百弐番地
                      島郷左衛門《(綱島郷左衛門カ)》(印)
             同国同郡末吉村三拾三番地
                      鳥飼作治郎
    参田会
      御中
 - 第13巻 p.106 -ページ画像 
    条約書
(印)
印紙
                      綱島郷左衛門
                      鳥飼作治郎
一右両人資本主ニテ養蠣事業一切負担致シ耐忍不撓必成効ヲ期スル事
一両人名前ノ外他人ヘ干渉内約加入等一切致間敷事
一今年ヨリ向五ケ年間海面拝借ノ件御許容彼下候上《(被)》ハ純益ノ内何々御会ヘ七月十二月両度ニ納金候儀勿論両人ニテ負担致候儀相違無之事
一養蠣者等臨時雇入起業致候得共、万一差支ヲ生候節ハ御会ヨリ養蠣ノ方法示授ヲ受ケ且官衙願立ノ筋ハ一切御会ノ御指揮ヲ受可申事
右之条々於相背ハ速ニ返地ノ上年限中ト雖何等故障申間敷事
  明治十九年二月           綱島郷左衛門(印)
                    鳥飼作治郎(印)
    参田会
      御中

尋テ参田会ハ之ヲ審案シ該企業ノ正確ナランコトヲ欲シ、先ツ其ノ準備金ヲ銀行ニ預ケンコトヲ要ス、而シテ願人ハ之ヲ難シト為ス、是ニ於テカ議終ニ協ハズシテ止ム
三月一日花島村在留大橋精次ヨリ本日地所確定シタルヲ以テ明日ヨリ工事ニ着手セントスル旨ヲ織田完之ニ報シ、且実際ニ就テ更ニ調査スル所ノ目論見書ヲ送致シ、尚費金拾円ヲ船橋海老屋宛廻送アランコトヲ請求シ来ル、其ノ目論見書左ノ如シ
下総国千葉郡花島村観音下
一養鯉池  竪九間  横九間
  此平坪  八拾壱坪
      内
   三拾六坪  周囲壱間幅堤引
   弐坪    中央浮島引
  残坪  四拾三坪
   此土坪   拾四坪三合三勺
   人夫    拾四人三分
    賃金四円弐拾九銭
一周囲延長三拾六間    竹柵
   右入用
  池内杭木百四拾四本  長九尺末口弐寸
   代金拾円八銭     但壱本ニ付金七銭替
  川附杭木三十六本   長六尺
   代金壱円八拾銭    但壱本ニ付金五銭
   是ハ壱間四本送リ内外柵取附土除ニ用フ
  柵竹六百七拾五本   三四寸廻リ
   代金四円五拾銭    但壱間ニ付金拾銭ノ割
   是ハ周囲三十六間ニ川除九間都合四拾五間ノ場所ヘ高三尺柵組立壱間拾五本遣ノ積リ
 - 第13巻 p.107 -ページ画像 
  杭打人夫弐拾人    但壱人ニ付九本打
   賃金六円       但壱人ニ付金三拾銭
 小以金弐拾弐円参拾八銭
一外囲延長三拾六間    高五尺
   右人用
  杭木五拾四本     長九尺 末口三寸
   代金三円七拾八銭   但壱本ニ付金七銭
  竹千八拾本      二三寸廻リ
   代金七円拾弐銭八厘  但壱本ニ付金六厘六毛
  人夫七人壱分     但壱人ニ付五間掛リ
   賃金弐円弐拾五銭   但壱人ニ付金三拾銭
 小以金拾三円拾五銭八厘
一金弐円         水門弐ケ所外囲開門壱ケ所調整費
 四口合金四拾壱円八拾弐銭八厘
  外ニ
   金七円 借地料三箇年分
 合金四拾八円八拾弐銭八厘

同二日花島ニ於テ作池ノ工ヲ起ス、是日大橋精次其ノ景況ヲ織田完之ニ報告シ、該地人民ノ気込頗ル好ク本池成工ノ上ハ漸次養魚池ヲ増設スル者アルヘキ勢ヒナリト云フ

同七日是ヨリ先キ織田完之ヨリ書ヲ大橋精次ニ送ル三度、是ノ日回答アリ、左ノ如シ
 拝啓二日以来尊翰三通正ニ落手拝見仕候、工事ハ聊差支候儀無之、然レトモ日々北風寒冷人夫捗取ラス心配仕居候、本日ハ好天気ニ付可ナリ相運可申、爾後大概ノ天気ヲ得ハ十日頃成工スヘキ胸算ニ有之候
 横戸弁天池ハ天保度ノ掘跡ナルヲ以テ官有地ニテ其左右ハ民有ノ由該地ニハ二三尺ノ鯉・鰻・鯰等余程生育致居候由ナリ、稀ニ捕獲ヲ試ルモノアリト云ヘリ
 当工事中往々試験スルニ泥ノ深キコト凡四五丈、清水ノ涌ク殊ニ甚敷工事ノ困難知ルヘシ
 人心ハ益宜敷、次テ養魚スル者アルヘシ、這回ノ地主尤モ主唱者タリ、柏井村某モ亦新設スル趣ナリ
 撿見川沖牡蠣養殖篊竹試験《ヒマ》ノ儀御申越拝承、兼テ相考居候ニハ泥深ク淡水ニ乏キカ故至適ノ地ニハ有之間敷、然レトモ必ス生育スルモノトハ被存候、尚注意可仕候
 本日ハ御光来ノ程窃ニ御待申上候処、御差支ノ趣残念ニ奉存候、此後ノ日曜ヲ期シ当地ニ御面会仕度候
 金子入未タ着セス併不日着可仕候
 石井ニ面会、平山省斎翁招待ノ儀ハ不日総代ニ謀リ書面可差出旨相約置候
 書外後便可申上、小生本日ハ一泊明日花島ニ向出発可仕候 頓首
 - 第13巻 p.108 -ページ画像 
                船橋海老屋ニテ
  三月七日夜               大橋精次
    織田先生

同十日養鯉池略成ル、大橋精次其ノ現況ヲ報スル左ノ如シ
 昨日迄ニ池ノ内部及ヒ土手モ半出来、水門ヲ据ヱ水ヲ張リ候処、随分見事ニ出来仕候、次テ周囲ニ竹垣ヲ拵候筈ノ処何分浮泥ヲ掘上ケ候ニ付ウミテ歩行スル能ハス、歩行セントセハ股迄這入一歩モ運フコト不相成候間、無余儀跡人夫ヲ定約シテ大野長兵衛ヘ依托ノ上一ト先中止仕候、併十日間モ相立候ハヽ水切レ再ヒ着手セハ三日間ニ成工可致筈ニ相約置申候
 右之次第ニ付小生ハ一両日遊歩ノ上十四日迄ニ船橋ヘ出テ平山管長ノ御光来相待申候、此段御了知被下度候、且試験堀共一丈余掘込候ニ付案外困難ヲ来シ費用今少シ不足ニ御座候、委曲拝顔之上可申述候得共、不取敢此段奉得貴意候
  三月十日                大橋精次
    織田先生

四月五日花島養鯉池既ニ成リ、該地ヨリ実費決算書等ヲ寄送ス、即チ左ノ如シ
    養鯉池実費決算書
 一金六拾八円八拾八銭五厘
     内訳
 金六円五拾銭    三ケ年 借地料
 金五円           竹五拾束
 金拾四円八銭        杭木竹買入
 金拾五円四拾五銭      土方人夫賃
 金壱円           松六分板四間
 金弐拾銭          右運賃
 金三拾壱銭         金網二枚釘共
 金弐拾壱銭         ヒヂツボ鍵等買入
 金弐円拾五銭        木門二個開キ戸大工方
 金六円           周囲土手仕上ケ竹垣仕上人夫賃
 金拾七円九拾八銭五厘    往復車賃止宿料等雑費
合金六拾八円八拾八銭五厘
 右之通
以書面申上候、然ハ過日鯉池普請金御差廻シ相成、則船橋郵便局ニテ三月廿七日金六円正ニ受取候、且御申置之普請同月廿九日ヨリ取掛リ、四月二日迄ニ出来候間此段御報申上候、尚払出シ左ニ記ス
 一金弐円五拾四銭五厘    竹弐拾八束
 一金六拾銭         棕櫚縄四拾束
 一金四銭          縄四束
 一金四円拾弐銭五厘     土方渡辺久右衛門ヘ渡内貸
    〆
 - 第13巻 p.109 -ページ画像 
 前書之通取調書差上候間、此段御差引相成度候
  追テ申上候、鯉入用之義可申越旨御書面ニ付、双方ヘ取詰メ談合候処、極直安ニテ百尾廿五銭位之品都合弐百尾御持参奉願候、尤直安之品無之候得ハ御持参無之トモ差支無之候間、此段御見計ヒ被成下度奉願上候、余ハ得拝顔万々申上度候也
                    花島村
  四月四日認
                      大野長兵衛
  東京
    大橋精次殿

同五日大橋精次義父土屋信八日市場ニアリテ病気ノ由電信ニ接シ一旦帰宅セントス、是日右ヲ織田完之ニ通報シ鯉苗買入等ノ事ヲ依頼ス、但鯉苗買入方ハ砂村千田新田堀江磯吉ニ引合同人ノ案内ヲ以テ服部五郎兵衛方ニ到ヘシト云フ、織田完之往テ魚苗購入送搬ノ手続ヲナシ花島ニ至リテ将来ヲ予想シ一首ノ和歌ヲ詠ス、将来ニ必期スル所アル也
  花島ヤ名ニオフ河ニ散リクルヲユキカフ船ノ中ヨリゾ見ン

同九日参田会拝借地ノ内下総国撿見川村地先ヨリ以東一切処理ノ権ヲ織田完之ニ委任ス、其ノ確証左ノ如シ
    確証
本会拝借地ノ内下総国千葉郡撿見川村地先字印旛沼落口ヨリ以東稲毛村堺迄一切処理ノ件
右及御委任候也
  明治十九年四月九日 幹事      菅沼董雄印
            監理      金原明善印
            参田会大本願人 平山省斎印
    織田完之殿
○中略
十一月○明治一九年二日是ヨリ先キ平山省斎氏海面埋立ノ延期ヲ千葉県ニ追願ス、是ニ至テ聴許ヲ得タリ、其ノ願書及ヒ指令ハ左ノ如シ
    海面埋立延期追願
海面拝借兼テ御聴許相成居候下総国東葛飾郡堀江村地先ヨリ千葉郡検見川村東地先ニ至ル築隄埋立ノ義、昨年壱ケ年延期願御聞届相成候処今年モ悪疫流行等諸国一般ノ影響意ノ如ク相運兼候間、現物実況御洞察ノ上更ニ二ケ年延期之義御聞届被下度、此段奉願候也
                 参田会本願人
  明治十九年九月廿二日          平山省斎
                  東京府北豊島郡小石川村八番地
    千業県知事 船越衛殿

        農第五八号
 書面願之趣明治二十一年十月迄延期聞届候事
          明治十九年十一月二日 千葉県知事 船越衛


印旛沼経緯記内編 (織田完之著) 第八二―八四頁〔明治二六年七月〕(DK130016k-0005)
第13巻 p.109-111 ページ画像

印旛沼経緯記内編(織田完之著)  第八二―八四頁〔明治二六年七月〕
 - 第13巻 p.110 -ページ画像 
六月○明治二〇年 大橋精次印旛沼ノ形勢ヲ論ス
 印旛沼ノ水ハ利根川ニ入テ流ル、凡ソ一里十二町余之ヲ長門川ト称ス、平常深サ三四尺ナリ、而シテ沼中平賀岬ヲ繞リテ平戸橋ニ至ル里程凡ソ七里、噴水穴ノ外ハ水量一二尺ヨリ三尺迄ナリ、吉高ト瀬戸ノ中間ヲ開通スル時ハ三里余ヲ近クシ通船頗ル便利ナルヘシ、且又其ノ土坪ノ如キハ尤モ有用ノモノニシテ、沼中築堤ノ用ニ供シ或ハ便宜捨土ト為スモ意外ノ墾田ヲ開クヘク、一坪モ無用ニ属セサルヲ信スルナリ
 印旛沼古堀線路中花島村ノ泥土ヲ甚タ難場トシテ懸念スルモノアリ畢竟無稽ノ虚説ヲ聞キテ実際ヲ知ラサルノ誤リナリ
 夫印旛沼平戸橋ヨリ大和田橋ノ間一里余ハ現ニ水流ノ盛ナルヲ以テ毫モ工事ニ難スル点ナク、大和田橋ヨリ横戸村地内柏井村ニ連ナル処此ノ線路ノ最高点タリ、然レトモ此ノ最高モ天明天保両度ニ於テ已ニ七八分ヲ堀下ケタルモノニテ、此ノ地ハ土質頗ル竪硬ニシテ今後幾丈ヲ鑿開スルモ土壌ノ崩壊スル憂ナキハ土人之ヲ保証スルノミナラス之ヲ過ル人一目シテ疑ヲ容レサルナリ、夫ヨリ以南勾配漸ク傾斜シテ花島観音山下ニ至ル、是レ土人其ノ土質ヲ(ケトウ)ト唱ヘ之ヲ掘鑿スルニ随ヒ左右ノ泥土流レ墜チ噴水ノ害防クヘカラサルヲ掛念シ、即チ難場ノ極処ト云フ、該土質ハ洋名(ピート)ニテ之ヲ流シ堀ニスルハ容易ナリ、其ノ理由如何トナレハ該処ノ恐ルヘク尤モ苦慮スベキハ往時天明度ニアリテ頗ル困難セリ、其ノ後天保度ハ已ニ吐水法ヲ設ケ或ハ沈メ枠ヲ用ヒテ之ヲ鑿リ下ケ大ニ工事モ巧者ニナリテ捗取リ今二箇月余ニシテ成功ニ至ラントセシモノナリ
 抑花島観音山下今日ノ現況ニ於ケル東西ノ丘陵相距ルコト凡ソ八九十間丘下水田ノアル所尚五十間モ七十間モアルヘシ、而シテ天明天保ノ両度ニ於テ高燥ヲ掘下ル已ニ七八丈現ニ天保度堀割以後ハ検見川ヨリ大和田橋迄通船ノ便ヲ開キタリシハ里人ノ知ル所ニシテ当時ノ舟人モ今尚存ス、爾来今日ニ至ルモ東西両丘依然トシテ泥土ノ墜落シタル処モナク工事ノ難スルニ足ラサルヤ知ルヘシ、爰ニ運河ヲ疏通スルモ現ニ水田ノ東西五十間ノ内仮リニ幅二十間ノ運河ヲ要スルハ左右尚二十五間ノ余地ヲ存シ、若シ五十間ノ水田漸ク運河ノ為メニ皆潰地トナルモ海面湖中ニ莫大ノ良田ヲ開クヲ以テ居民ノ生業ヲ旺盛ニスル果シテ幾許ソヤ、殊ニ花島村ノ如キハ已ニ七八分成工ノ跡ナルヲ以テ今ヨリ運河ノ水準ヲ得ルモ僅々一丈四五尺ニ過キサルヲ以テ左右丘陵ノ潰崩流墜スル懸念ハ毫モナキコトヲ確認セリ
 花島村以南検見川村ニ至ル已ニ古河筋ノ存在スルヲ以テ浚疏ヲ為スニ過キス、其容易ナル弁ヲ竢タサルナリ
 検見川ヨリ内洋干潟ヲ貫キ湊村ノ間ヲ経テ新川口ニ達スルノ間単ニ運河ノ工事ノミト為サハ或ハ波除堤防等其ノ工費多カルヘシト雖トモ、海面ニ波除勢子杭ヲ駢列シ漸次堤塘ヲ築設スルノ画策アレハ運河開鑿ニ余ス所ノ捨土ヲ用ヒテ堤塘ノ用ニ供シ或ハ開墾埋立ノ土ニ用フル等、一挙両全ノ便益ナルヘシ

七月二十八日参田会大本願人平山省斎氏印旛沼開鑿ノ挙業ヲ称賛シ、
 - 第13巻 p.111 -ページ画像 
該会借用スル所ノ官地返納ハ勿論、湊・押切両村間開通ノ為メ其ノ近傍二百町歩適宜開墾スルヲ承認ス、其証書左ノ如シ
    承認書
印旛湖開鑿成功ニ至レハ国家無上ノ鴻益ト被存、内洋勢子杭欄内ニ内河開通相成川幅凡三拾余間官地返納ハ勿論、湊押切両村之間開通之便宜ニ任セ、其最寄内河南ニ於テ二百町歩適宜開墾相成候儀御都合ニ任候、此段承認致シ候也
  明治二十年七月廿八日
       参田会大本願人大成教管長 平山省斎(印)
    織田完之殿


印旛沼経緯記内編 (織田完之著) 第八七―九一頁〔明治二六年七月〕(DK130016k-0006)
第13巻 p.111-113 ページ画像

印旛沼経緯記内編(織田完之著)  第八七―九一頁〔明治二六年七月〕
十月○明治二〇年三十日是ヨリ先キ印旛沼開鑿創業員東京蠣殻町ノ福井楼ニ会センコトヲ約ス、是日織田完之ハ鈴木安武氏ヲ伴ヒ之ニ赴ク、鳴門義民氏先テ在リ、既ニシテ町田徳之助・金原明善・色川三郎兵衛ノ諸氏来会シ、爰ニ始メテ印旛沼開鑿試験ノ議ヲ決シ、織田完之其出願書ヲ草定ス、又起業雑費ハ創業者ヨリ之ヲ醸集シ其ノ金額ヲ弐百円ト仮定ス、而シテ之ヲ池田栄亮氏若クハ金原氏ニ託シ、旅費ハ一里金拾五銭急行ハ之ニ五割ヲ増シ、交際其ノ他ノ費用ハ実費ヲ以テ支払フ事トス、乃チ議事ノ要項ヲ懐紙ニ筆記シ各之ニ捺印ス、完之ハ之ヲ以テ日記ノ始トシ、印旛沼開鑿創業記ト題シ、今後印旛沼事業ニ関スル諸件ハ日々之ニ続記センコトヲ期ス、右議定ノ上鈴木氏ハ千葉県庁ヘ出願ノ事ヲ受持チ、織田ハ之ニ係ル記録図書整理ノ事ヲ担当スル事トシ、小酌シテ相互ニ懇親ノ意ヲ表シ午後十時退散ス、但此ノ日池田栄亮氏ノ会セサルハ加名ノ事未タ千葉県知事ノ承諾ヲ得サルニ因テナリ

是夜織田ハ出願書ヲ修正増補シ、之ニ副フルニ印旛沼旧鑿川幅現存調等ヲ以テス、尋テ各員之ニ検印ス、其ノ草案ハ左ノ如シ
    印旛沼開鑿試験ノ儀ニ付願
 御県下印旛沼ヲ検見川ニ開鑿スルノ鴻益タル事古今人ノ嘖々唱道シテ止マサル所以ハ今更申上候迄モ無之、第一利根川沿岸数百箇村ノ水害ヲ除キテ大ニ豊穣ヲ得セシムルノミナラス、沼中ニ於テ凡ソ四千町歩ノ新田ヲ得テ数万石ノ穀ヲ得ヘシ、抑此工事タル窮民ヲ賑贍シ世益ヲ挙ルノ最大要件ナルガ故ニ、安永年中幕府ヨリ普請ヲ催シ天明天保ノ両工事ハ頗ル観ルベキモノアリ、其工事ノ進歩殆ト七八分成就シ、惜イ哉苟安ノ世姑息ノ事情アリテ中止ス、全ク開鑿ノ難キガ為ニハ非ルナリ、維新ノ二年葛飾県知事水筑小相殿開鑿ヲ上稟シ果サズシテ物故ス、私共曾テ此開鑿ニ熱心シ地理ノ大体ヲ熟察シ実地ニ就テ親験考慮スルコト爰ニ年アリ、必ス開鑿ノ難事ニ非ズシテ決シテ他ニ弊害ナキ良工事ト信認仕候、但シ実効ナキコトハ世ノ信用ヲ得ルコト能ハス、就テ按スルニ先以テ試験ノ為メニ横戸村弁天池並柏井村旧鑿ノ古河筋ヲ浚ヘ、天戸村迄私費ヲ以テ堀下、弁天池ノ池底ヲ乾涸シ、進テ大和田橋ヲ堰留メ小流ヲ合シ水勢ヲ増加シ検見川迄小船往来ノ便ヲ開キ、試験果シテ意ノ如ク実効ヲ奏スル上
 - 第13巻 p.112 -ページ画像 
ニハ大ニ同志ヲ募リ進テ湖海ノ疏通ヲナシ、遂ニ利根川沿岸ノ水害ヲ除キ、其開鑿ノ実益ハ固ヨリ得失相償フ見込充分有之候間、其節ハ更ニ組織ヲ立テ可申上候、何卒目下私費試験ノ願意ヲ御聴許被下度、別紙書類相添此段奉願候也
              東京本郷区湯島切通坂町十五番地
                   平民
  明治二十年十一月五日         織田完之(印)
              同浅草区黒船町十一番地
                   平民
                     町田徳之助(印)
              同日本橋区田所町十番地寄留
                   静岡県平民
                     金原明善(印)
              茨城県新治郡土浦町
                   平民
                     色川三郎兵衛(印)
              同信太郡鈴木村
                   士族
               願人総代  鈴木安武(印)
     千葉県知事 船越衛殿
  前書之通願出候ニ付調印候也
              茨城県信太郡鈴木村
                戸長 藤生一郎

十一月一日織田完之・鈴木安武ト願書調印ノ事ニ奔走ス、即チ色川三郎兵衛ヲ日本橋区堀江町ノ旅宿桑原ニ訪ヒ同人ノ捺印ヲ受ケ、田所町ニ到リ金原明善ノ印ヲ受ケ、終ニ浅草黒船町ノ町田徳之助ヲ訪フ、町田捺印シテ曰ク、試験費ヲ出スハ甘ンスレトモ虚名ノ新聞ニ上ルヲ恐ル、言行ノ相伴ハザルハ実ニ慚ツヘキ所ナルヲ以テ実行ノ挙ル迄ハ新聞ニ漏洩スルヲ戒ムル事ニ注意ヲ要スト、鈴木曰ク、然リ故ヲ以テ拙者ノ名ヲ筆留ニ書シ郷里鈴木村戸長ノ奥印ヲ得テ進達セントスルナリ織田曰ク、曩ニ色川三郎兵衛ノ鈴木ヲ先ツ願人総代ト頭書スル然ルヘシト云ヒシモ亦含蓄スル所アリテ然ルナリト、談了リ各家ニ帰ル
同二日鈴木安武印旛沼開鑿試験願書ヲ常陸国信太郡鈴木村戸長ニ郵送シ奥印ヲ要ス
同四日是ヨリ先キ池田栄亮・色川三郎兵衛ニ面会シ、創業費ノ一分ヲ出スヲ諾シ且醵金ヲ預ルコトヲ諾ス、是ニ於テ創業員総テ七名毎金弐拾八円五拾七銭壱厘ヲ出スコトヽシ、目下支払ノ金ハ織田ヨリ調印シテ池田氏ヨリ受取リ支給スルコトヲ決ス
同十三日鈴木安武願書ヲ携帯シテ千葉ニ出張ス、翌日出県土木課長不在ナルヲ以テ井上貞二郎氏ニ面会シ願書ヲ進達ス
同十五日鈴木帰京
同十六日是ヨリ先キ千葉県知事船越衛氏上京シ八官町ニ在リ、是日金原・鈴木両名之ヲ訪ヒ、印旛沼開鑿事件ノ概要ヲ述フ
同十七日織田完之・鈴木安武ト奈良原繁氏ヲ上野鉄道会社ニ訪ヒ、印旛沼開鑿試験ノ事ヲ談ス、奈良原氏多年此事ニ熱心シ常ニ賛助スル所アリ、殊ニ今回試験ノ挙頗ル賛称スル所ナレバナリ
同二十一日金原明善・織田完之作ル所ノ椿海干潟八万石ノ図説ヲ千葉県知事ニ送ル、其ノ大要ハ御県下既ニ斯ル顕著ナル実蹟アリ印旛モ亦
 - 第13巻 p.113 -ページ画像 
此ノ故蹟ノ如ク後人ノ称賛スルニ至ランコトヲ希望スト云フニアリ
十二月四日是ヨリ先キ鈴木安武曩ニ進達セル願書ノ事ヲ以テ千葉県ニ到リ船越知事ニ面会ス、而シテ開鑿試験ノ事ハ県限リ承諾ノ事ニ決シ尚願面ハ開墾主義ニ改正シ、且古川筋ノ人民ト協議ヲ遂ケ然ル後更ニ進達スヘキヲ約ス、是日帰京シ之ヲ織田完之ニ来報ス


印旛沼経緯記内編 (織田完之著) 第九四―一二〇頁〔明治二六年七月〕(DK130016k-0007)
第13巻 p.113-121 ページ画像

印旛沼経緯記内編(織田完之著)  第九四―一二〇頁〔明治二六年七月〕
検見川村高井国三郎・馬加村林田孫兵衛・武石村小川源兵衛・長作村小川五郎兵衛・中台文内・天戸村松丸重右衛門・花島村鈴木宗吉・大野貞平・柏井村小川桝治郎・同与助・横戸村村吏二名・犢橋村長岡徳治郎・畑村稲生八郎左衛門等千葉郡長作村某ノ隠宅ニ会シ印旛開墾試験掘ニ関スル意見ヲ討議ス、尋テ大野貞平其顛末ヲ筆記シ之ヲ織田完之ニ寄ス、貞平ハ長兵衛ノ男ナリ
同○明治二〇年一二月二十九日事業着手順序ヲ仮定ス
 一大和田萱田町ニ仮事務所ヲ置キ主務員之ニ出張シテ工事上一切ノ事務ヲ整理スルコト
 一事務所ニ書記二名ヲ置キ一名ハ事務ヲ取扱ヒ一名ハ会計出納ヲ取扱フコト
 一事務所ニ小使二名ヲ置キ諸事通信等ヲ処弁セシムル事
 一工事ハ担当者ヲ定メ諸事主務員ト協議シテ実業ヲ計画実施スル事
 一実業ノ大体ヲ丁場分ケト称シ、最寄村々ヨリ出夫スルト土方請負トヲ論セス担当者ノ見込ニ任セ公平ナル処置ヲナサシムルヲ要ス
  然ラサルトキハ費額ノ取締ト工事ノ成工ヲ期スルコト能ハサルノ恐レアレハナリ
 一土方賄方及ヒ竹木杭木等入用ノモノハ最寄着実ナルモノヲ撰テ請負ハシムル事
    費額調
 一金五千五百円           土工費
 一金八拾円             人夫小屋二ケ所
   但拾間ニ四間ツヽ総坪八拾坪
 一金六拾円             土橋六ケ所
   但一ケ所金拾円ノ積リ
 一金八拾円             板橋二ケ所
   但花島横戸両村間ニ架設ス
 一金三拾円             測量費
 小以金五千七百五拾円
 一金拾八円             事務所借家賃
   但一ケ月金三円ツヽ六ケ月分
 一金九拾六円            書記二名給料
   但一ケ月一名八円ツヽ六ケ月分
 一金四拾弐円            小使給料
   但一名一ケ月金三円五拾銭ツヽ
 一金六拾円             事務所雑費
   但一ケ月金拾円ツヽ六ケ月分
 - 第13巻 p.114 -ページ画像 
 一金五拾円             事務所備付測器其他雑品買上費
 小以金弐百六拾六円
合計金六千拾六円
  外ニ
 金 予備
 金 出張役員費用及旅費
 金 民地買上費
  以上
同○明治二〇年一二月三十日是ヨリ先キ古川筋関係ノ村民天戸村ニ集会シ、開鑿試験ノ為メ地所買上等ニ係ル事件ヲ協議スル再三而シテ未タ一定セス、是日船橋ノ石井新吾ハ其概況ヲ織田完之ニ報ス、石井ハ夙ニ織田ノ意ヲ承ケ専ラ力ヲ内洋経緯ニ致シ印旛開鑿事業ニ於テモ之ニ連帯シテ斡旋ス、頃者屡々僕藤太郎ヲ大野長兵衛方ニ遣ハシ協議ノ景況ヲ聞カシム、是ニ於テカ此ノ報アリ又嘗テ織田ノ創意ヲ以テ海浜ニ葦ヲ植ウル事ヲ計ル、是ニ至テ五六十町歩已ニ植ヱタリト云フ
是月参田会大本願人平山省斎氏織田完之ト審案シ、下総国東葛飾郡船橋駅五日市川奈部喜兵衛ノ願意ヲ承諾ス

    海面使用願
 船橋五日市地先字高瀬西方東葛飾郡船橋九日市境界字海老川ヨリ東方千葉郡谷津村境界字谷津境迄
 一海面反別八拾町歩  但南方弐百間 東西四百間
 右ハ葦植附事業ノ為メ使用致度候間御許可之上ハ左ノ法方実行可致候
 一砂留勢子杭     但松長九尺  五百本
 右之通現在杭御建設相成候場所ハ御指図ヲ被リ私費ヲ以テ更ニ相添可仕候、尤地所御入用ノ節ハ該場ヘ何等ノ事業起ルモ故障等毫モ無之候間、願書ノ使用地御許容被下度別紙絵図面相添此段願上候也
             千葉県東葛飾郡船橋五日市
  明治二十年十一月廿三日  惣代  川奈部喜兵衛(印)
               保証人 金子宇右衛門(印)
   参田会
    平山省斎殿
 尚以勢子杭打増之義ハ来ル二十一年五月中無相違打立可申候、万一相怠リ候節ハ約定御取消相成候共聊苦情申間敷候、猶亦将来葦地繁殖ノ上ハ其利益ニ基キ勢子杭打増可申見込ニ御座候也
 朱書
 承認候事
  但勢子杭ハ船橋澪ヨリ東方ヘ五百本ヲ三尺間置ニ適宜打立然ルヘキ事
  明治二十年十二月 参田会大本願人 平山省斎

明治廿一年一月五日織田完之ハ古川筋各村ノ協議ヲ調整センカ為メ鈴木安武ト大和田ニ会合シ、翌日共ニ花島村大野長兵衛ヲ訪フ、途中柏
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井村ノ小川金左衛門ニ逢フ、依テ沿川ノ示談ヲ問フ、曰ク八村ノ総代四名ヲ撰挙ス、即チ花島村大野貞平・長作村中台文内・畑村稲生八郎左衛門・検見川村高井国三郎是ナリト、去テ大野ノ家ニ到リ貞平ニ面会シ明七日検見川上総屋ニ来会センコトヲ約ス、去テ長作村中台文内ヲ訪フ、不在、老人武左衛門ニ面会ス、此ノ老人印旛沼ノ開鑿ヲ是認シ種々天保ノ旧事ヲ快談ス、維新後水筑小相ノ時阿曾左一郎等ノ奔走セシコトヲ詳説セリ、既ニシテ文内帰リ談話時ヲ移シ、午後去テ畑村稲生八郎左衛門ヲ訪フ、不在、去テ検見川上総屋ニ投シ、高井国三郎ヲ訪フ、不在、因テ予メ携帯スル所ノ荏原郡大井村平林九兵衛ノ書翰ヲ留去ル、平林ハ年来高井ヲ知ル者、織田ノ為メニ添書シテ便宜ヲ謀レルナリ、其夜高井来リテ織田ヲ上総屋ニ訪フ、藤代市左衛門氏座ニアリ、平戸村植草兵左衛門モ来泊ス、乃チ懇談夜半ニ至ル、植草ハ年来印旛沼ノ開鑿ヲ熱望スル者ナリ、此ニ開鑿ノ挙アルヲ聞クヤ雀躍措ク能ハス自費ヲ捐テ東京ニ往復シ、大橋精次ノ紹介ヲ以テ織田ニ就テ応分ノ力ヲ尽サンコトヲ請ヒ或ハ各村ニ奔走シテ隠然民情ノ一致ヲ謀ル、嘗テ開鑿試験ノ成功ヲ祈ルガ為メニ喫茶ヲ断チ神ニ誓フ数十年一日ノ如シト云フ
同七日畑村稲生八郎左衛門・検見川村藤代市左衛門・高井国三郎・長作村中台文内・花島村大野貞平等前約ニヨリ上総屋ニ来リ、織田完之等ニ面会シ開鑿ノ利害ヲ論ス、而シテ稲生中台ノ二氏未タ今回ノ設計ヲ詳ニセズ、曰ク沿川ノ田畑ヲ所有スル者天保工事ニハ大ニ掘下ケラレ干田トナリ困難ヲ極メタリ、爾後漸ク土ヲ埋メ近年ニ至テ良田トナレルヲ今回之ヲ掘鑿セラルレハ恐ラクハ復タ干損ヲ被ラント、織田之ニ告ケテ曰ク、今回ノ試験ハ専ラ柏井ノ高台ヲ鑿リ花島以北ノ水ヲ南流セシムルヲ主要トス、故ニ天戸以南ハ僅ニ川筋ヲ浚フノミ、而シテ若シ干損セハ掘抜井戸ヲ作ルヘク、水損スレハ隄防柵ヲ作ルヘシト、是ニ於テカ各意冰釈相共ニ便宜ヲ謀ラントスル傾向アリ、既ニシテ鈴木安武ハ明後九日ヲ以テ八村ノ人々畑村稲生方ニ来会アランコトヲ約シ、織田ハ之ヲ鈴木ニ托シ午後四時帰途ニ上リ、其ノ状況ヲ金原明善ニ報ス
○中略
同○明治二一年一月廿六日曩ニ鈴木安武ノ妻ヲ喪ヒ一且帰郷スルヤ、撿見川ノ協議未タ完結セサルヲ以テ去ル十八日大橋精次ト共ニ該地ニ赴キ、藤代市左衛門・高井国三郎・稲生八郎左衛門ノ諸氏ヲ訪ヒ其協定方ヲ頼談ス、而シテ結局沿村川幅十二間ノ予約ヲ以テ其ノ内五間ノ代金ヲ請求スルモノ多ク議協ハスシテ鈴木等帰京ス、是ニ至テ織田完之断シテ曰ク、沿川村々云フ所十間幅ノ予約ト五間幅ノ内金トハ嘗テ当方ノ見ル所ト大差ナシ、当方ハ官有地ヲ除キテ見込ミ彼ハ官有地ヲ合セテ云フ、寧ロ彼カ云フ所ヲ用テ示談ニ運フニ如カズト、是ニ於テ鈴木ハ帰郷シ色川三郎兵衛氏ヲ訪ヒ更ニ検見川ニ到テ協定スル所アラントス
○中略
三月○明治二一年二日去月廿六日織田完之等更ニ民間示談ノ方針ヲ断決スルヤ鈴木安武ハ屡々検見川ニ往復シテ専ラ力ヲ協定ニ竭ス、是ニ於テカ各村漸次承諾ノ意ヲ表シ、特ニ調印ヲ為サントスルモノ数村ニ及フ、
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是日鈴木ヨリ現況ヲ織田ニ報ス
○中略
同○明治二一年三月十九日古川筋各村ノ示談大略調フヲ以テ、更ニ起業ノ予算ヲ協定センカ為メ来ル廿一日ヲ期シ創業員ヲ神田開花楼ニ会セントス是日織田完之、池田栄亮氏ヲ訪ヒ其ノ事宜ヲ談ス、尋テ奈良原繁・桜井勉・磯長得三・金原明善等ノ諸氏ニ招状ヲ発ス
同二十日織田完之上稟書ヲ作リ鈴木安武ニ交付スル左ノ如シ
    上稟
 客歳十一月五日附ヲ以テ相願候印旛沼開鑿試験ノ儀ハ全ク大和橋以南ノ古川筋ヲ浚疏シテ柏井村ノ高台ヲ堀下高津落ト六方落ノ二流ヲ合シ水勢ヲ増加シテ検見川迄通船ノ便ヲ開キ候得ハ已ニ公衆ノ利益不少ト存候、古川筋ノ現況ニ於テ甚狭小ノ場所モ有之候ニ付川縁ノ村々ヘ夫々示談ヲ遂ケ自然民地買上ノ節ハ何レモ異儀無之旨別紙写《(議)》ノ通申居候間、至急義金ヲ以テ着手仕度奉存候、尤モ右試験成功ノ上ハ印旛沼開鑿ノ見込取調出願ノ心算ニ候、就テハ大和田橋以南古川筋浚疏試験ノ儀速ニ御聴許相成度、此段上稟候也
                      総代人
  明治二十一年三月               姓名
    千葉県知事 船越衛殿
曩ニ惣代人ヨリ検見川筋各村ニ出シタル契約書及ヒ各村ヨリ領収シタル承諾書ハ左ノ如シ
    契約書
 一今般印旛沼古川筋開鑿試験之儀ハ主トシテ千葉県柏井村高台ヲ浚疏シ、大和田橋ヨリ以南ノ水流ヲ試ムルニアリ
 一試掘出来ノ上ハ更ニ第二ノ着手川幅拾間以上ヲ要スヘキニ付、其節川傍ノ田地譲受ノ示談ヲ全ウスルコト、且接続地干田ノ如何ニテ上申スルコトアル時ハ共ニ応援致候事
 一試掘万一見込通出来致サヽル場合ニ於テハ今般買受ル田地元地主ヘ無代価ヲ以テ譲渡可申候事
 一試掘ノ為メ古川筋接続ノ田地万一干田トナリ、又ハ土崩損害ノ件アル時ハ其多寡ニ応シ相当ノ弁償ヲナス事
 右ノ件々契約致候上ハ其場合ニ於テ無相違履行可致候事
                  印旛沼試験総代人
  明治二十一年三月
                      姓名印
      武石村  馬加村  撿見川村
  千葉郡 畑村   長作村  犢橋村
      花島村  柏井村  横戸村
       各村総代人御中

今般印旛沼開鑿試験ノ儀其筋ヘ御出願被成候ニ付、当村地先川敷田地官有地ヲ除クノ外民有地ノ分土地相当代価ヲ以テ御買入相成度御談示ノ趣承諾致候、右ハ聊異儀無之候、依之地主惣代ヲ以テ捺印仕候也
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  明治二十一年三月            各村惣代人
    印旛沼試験総代姓名宛

同廿一日午後、織田完之・金原明善・池田栄亮・桜井勉・色川三郎兵衛・鈴木安武等開花楼ニ会ス、磯長得三ハ小田原ニ行キ会セス、奈良原繁ハ前約アリトテ左ノ書ヲ寄ス
 先刻ハ御来社奉拝謝候、其節致御約束置候通余之儀ト違ヒ印旛湖開拓之御会ト承知仕候上ハ相願候テモ汚御末席度所存ニ御座候処、今日ハ差懸リ断兼候都合有之差繰候処急ニ引取候訳ニモ参兼候間、今晩之処ハ御断申上候外無之、何レ不日拝上可奉謝此段御断申上度如斯御座候 頓首
  三月廿一日                奈良原繁
    織田完之様

此日午後三時ヨリ開花楼ニ会ス、織田携帯スル所ノ印旛沼開鑿試験予算調及ヒ撿見川ヨリ大和田橋ニ至ル土除キ人夫ノ調ヘヲ各員ニ示ス、既ニシテ金原氏一千金ヲ出タストノ発言アリ、是ニ於テカ問題ヲ立テ決ヲ取ル、池田・色川捺印ス
 印旛沼開鑿試験費
一金八千円ト仮定シ協議取纏候事
  明治二十一年三月廿一日
    印旛沼開鑿試験予算調
 一金七千九百九拾五円       試験費
    内訳
  金四千五百拾五円
   但土坪取除キ人夫二万二千五百八十五人一人弐拾銭
  金弐千円
   但民有地大凡四町歩買上一段金五拾円ノ見込
  金百円
   但土橋架換七ケ所
  金百円
   但小屋掛二ケ所
  金百五拾円
   但川浚土取器械購入
  金六百円
   但丸太松杉及竹縄ノ類
  金百八拾円
   但仮事務所取締二人給料六ケ月分
  金弐百五拾円
   但旅費並ニ用度
      検見川ヨリ大和田橋迄土除キ人夫調
 千葉郡検見川馬加 地内       五百九十人
 同  武石村            千二百人
 同  天戸畑 両村         千三百七十人
 同  犢橋村            九百人
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 同  花島柏井 両村        五千五百人
 同  横戸             五千百人
 印旛郡村上村            千四百四十四人
  合計二万二千五百八十五人
尋テ磯長氏ハ毛利重輔氏ト謀リ予算ヲ修正ス、是レ大事ヲトリテ然ルナリ
    検見川大和田間開鑿予算書
印旛沼ヲ検見川ニ疏通スレバ沼中ノ新田幾千町ヲ得ベク、利根川ノ水害ヲ除キ年々二十余万石ノ収益アリト称ス、其ノ他居民ノ瘧疾ヲ救フ年々数千人、農業ニ便益ヲ与フル尤モ夥ク、且ツ運河ノ開クルニ及テハ沿岸ノ船隻ヲ増加シ、東海無双ノ国益ヲ起シ、非常ノ準備ニ供スヘク、又内洋ノ新田ヲ開キ新ニ一国ヲ起スヘシ、抑印旛沼ヨリ検見川迄四里十二丁余、旧鑿ノ全形ハ歴然トシテ存在シ現ニ天保工事ノ後村上村名主某大和田橋ヲ堰留メ船溜ヲ設ケ、検見川迄ハ二十四人ノ船主アリテ数年間営業シ、天戸村迄ハ内海ヨリ五大力船ヲ通過セリ、爰ニ開鑿ノ允可ヲ得シハ即チ大和田橋以南古河筋ノ埋リタル土坪ヲ除キ六方落シノ水ト高津落シノ水ト二流ヲ合シ検見川迄小船往来ノ便ヲ開ク、即チ成業ノ順序思ヒ半ハニ過ルモノアラン、昔時旧幕府ノ世ニ両度ノ工事ニ数百万両ノ埋リタルヲ蘇復スルニ足ルベキハ内外人ノ測量上ニ明確ナリトス、第一着ノ降手ヲ其予算凡壱万五千円ト改正ス

    印旛沼古川筋浚渫費予算
 従大和田字六方落至長作村長作橋 長三千六百八拾間 六十一町二十間
 一堀鑿土坪九千百九拾五坪七合  但川敷幅九尺 法二間
   此工費金六千八百九拾六円七拾七銭五厘 但壱坪ニ付七拾五銭
 一泥土留麁朶工長延二千間
   此工費金千円         但壱間ニ付五拾銭
 一架橋七ケ所
   此工費金百七拾五円      但壱ケ所廿五円
 一潰地反別八町八反三畝歩    但川幅及ヒ土捨場用地
    内訳
  壱町歩            官有地借用ノ見込
  七町八段三畝歩        買入
   此代金五千八百七拾弐円五拾銭 但壱段歩ニ付金七拾五円
      外ニ
 一金五百円           測量設計工事監督費一式
 一金五百八拾五円七拾二銭五厘  創業ヨリ落成迄役員給旅費雑費
  合金壱万五千円也
同三十一日織田完之、鈴木安武ト共ニ大和田ニ到リ事務所仮設ノ為メ旧本陣大沢某ノ家ヲ借ランコトヲ謀ル
是月是ヨリ先キ下総千葉郡谷津村惣代伊藤茂左衛門等ヨリ勢子杭六百本ヲ増建スヘキヲ以テ葦植ノ為メ海面段別百弐拾町歩ヲ使用セシ《(ン)》コトヲ参田会ニ請フ、平山省斎之ヲ承認シ勢子杭ハ久々田ノ澪西ヨリ在来ノ杭間弐尺置ニ打立シム
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四月十四日千葉県土木課長宮田保太郎氏ヨリ実地見分ノ事ヲ織田完之ニ通牒ス、左ノ如シ
 拝啓陳ハ鈴木安武ヨリ兼テ出願有之候印旛沼開鑿試験澪浚之儀、来ル十六十七両日ノ内実地見分トシテ本県主任技手一名各戸長役場迄出張候、右様御通知相成度此段申進候也
  明治廿一年四月十四日    土木課長 宮田保太郎(印)
    織田完之殿
 追テ鈴木安武御差出ノ日限御一報有之度候也

千葉県養蠣試験所ヲ船橋海面ニ設置セントス、是ノ日織田完之、平山省斎ニ代リ区域立会ノ為メ該地ニ赴キ兼テ五日市及ヒ谷津・久々田海面ニ葦ヲ植ウル事ヲ謀ル
同廿一日曩ニ宮田土木課長ヨリ実地見分ノ通牒アルヤ鈴木安武ハ之ニ参シ見分ヲ了テ植田技手ト共ニ千葉ニ到リ、船越知事及ヒ岩佐二部長一阪一部長・佐藤千葉郡長等ノ間ニ奔走シテ開鑿試験ノ許可ヲ促ス、是ニ至テ許サレ、此ノ夜指令ヲ携ヘ東京ニ帰ル、其ノ指令左ノ如シ

    印旛沼開鑿試験之儀ニ付願
 御県下云々本文二十年十月三十日ノ条ニ出スヲ以テ此ニ略ス
  明治二十年十一月五日
             東京府本郷区湯島切通坂町十五番地
                  平民
                    織田完之(印)
               同浅草区黒船町十一番地
                  平民
                    町田徳之助(印)
               同日本橋区田所町十番地寄留
                  静岡県平民
                    金原明善(印)
               磐城国新治郡土浦町
                  平民
                    色川三郎兵衛(印)
               同信太郡鈴木村
                  士族
               願人総代 鈴木安武(印)
    千葉県知事 船越衛殿
 前書之通願出候ニ付調印候也
             茨城県信太郡鈴木村
               戸長 藤生一郎
    朱書
割印
  土第二九八号
  書面印旛沼旧川筋 従千葉郡横戸村地内字弁天沼至同郡検見川村地先 浚渫之儀聞届ク
   但横戸村地内弁天沼以北ノ川浚ヘ及大和田橋堰留ノ儀ハ川浚ヘ工事竣工ノ上更ニ出願候儀ト心得ベシ
  明治二十一年四月廿一日 千葉県知事 船越衛
○中略
同○明治二一年四月三十日鈴木安武大和田ニ赴ク

客年十月ヨリ本日ニ至ル創業費ノ収支ヲ計算ス左ノ如シ
    記
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 一金百七拾六円弐拾三銭 創業費 織田・金原・町田・池田・色川・鈴木六名ヨリ義損金
 一金拾円               奈良原ヨリ祝酒料
  入合金百八拾六円弐拾三銭
    払出内訳
   金七拾六円九拾壱銭 明治二十年十月ヨリ同二十一年四月迄 織田完之
   金百五拾壱円五銭  同                 鈴木安武
  二口金払出弐百弐拾七円九拾六銭
 差引金四拾壱円七拾三銭 創業費不足
  此不足金ハ開鑿試験予算費臨時雑費ヨリ補充セリ
○中略
同○明治二一年五月三日池田栄亮氏同盟者ヲ募集センコトヲ謀ル、是日其ノ人名等ヲ織田完之ニ通牒ス
○中略
同○明治二一年五月十一日印旛沼開鑿ノ同盟ヲ表シ、大明会ト称ス、始メ会名ヲ南流会ト仮称ス、既ニシテ易ノ乾卦ニ感アリ、大哉乾元万物資始乃統天雲行雨施万物流形大明終始六位時成ト、是ニ至テ大明会ト定ム
同十二日織田完之ハ始テ高島嘉右衛門氏ヲ神奈川ノ大綱山ニ訪ヒ我事業ノ易占ヲ求ム、筮シテ山水蒙ノ二爻ヲ得タリ、曰ク童蒙我ニ求ム我童蒙ニ求ムルニ匪ス山下ニ水アル業ナリト、即チ印旛沼開鑿試験書類ヲ示ス、嘉右衛門氏之ヲ賛称シテ云ハク是ナル哉是ナル哉、実ニ男子ノ為スヘキ業ナリ予大ニ賛成ス云々、高島氏ハ呑象ト号ス、嘗テ易学ニ悟リ古今独歩ノ卓見アリ、固ヨリ土功ニ精クシテ鉄道ヲ創始シ瓦斯灯ヲ作リ、横浜ノ地ヲ開キ学校ヲ起ス等其ノ進化ヲ賛クルノ功顕著ナリ、完之去テ小田原ニ到リ磯長得三氏ト盃ヲ挙ケテ印旛工事ヲ談ス
同十四日織田完之東里為替店ヨリ金円支出ノ順序ヲ立テ、測量及ヒ開業ノ準備ヲ為ス
同十四日織田完之、色川三郎兵衛・池田栄亮相携テ奈良原繁ヲ鉄道会社ニ訪ヒ試験費支出ノ事宜ヲ協議ス
○中略
同廿六日○明治二一年五月二六日○中略是ヨリ先キ奈良原氏醵金ノ事ニ斡旋シ是ニ至テ伊藤博文・三島通庸ノ二氏既ニ入会出金ヲ諾スト云フ
○中略
同○明治二一年六月四日印旛沼開鑿ノ事務所ヲ大和田駅旧本陣跡ニ仮設ス、因テ其ノ規則章程ヲ定ム
    仮事務所設置ノ件
今般本会仮事務所設置候ニ付テハ、大和田駅旧本陣跡大沢雄親宅借受事務取扱候ニ付テハ規則章程左之通仮定ス
    仮事務所規則
一大明会ハ下総国千葉郡大和田駅旧本陣ヲ仮事務所トス
一事務所詰試験総代員壱人当分書記壱人見廻方二人トス
一回議仕出ハ官府ノ体裁ニ準レ《(シ)》出納ヲ明ニスルコト
一工事上重大ノ件ハ創業員二名以上ノ検印ヲ受ケテ後履行スル事
一臨時金五円以下ノ払金ハ総代員決行シテ後創業員ヘ報告スル事
 - 第13巻 p.121 -ページ画像 
一旅費ハ甲乙二等トシ甲車賃一里拾弐銭乙一里八銭ト定ム
  但検見川大和田間ハ常務ノ場所ナレバ別ニ旅費ヲ給セズ、但夜行雨日等ノ時ハ車賃ヲ給スベシ
一創業員工場ヘ出張中日費金壱円ト定ム
一創業員臨時ノ雑費ハ実費仕払ノ事
一工事ハ分チテ五区トス
  第一区検見川村ヨリ天戸村迄
  第二区天戸橋ヨリ花島村境迄
  第三区花島村ヨリ字印旛沼迄
  第四区字印旛沼ヨリ柏井村迄
  第五区柏井村境ヨリ横戸村弁天池迄
一花島村ヨリ横戸弁天池迄ハ事務所ニ於テ設計工事共直轄シテ之ヲ管督スル事
一第一区第二区ハ請負人ヲシテ従事セシムルモ事務所ニ於テ事ヲ管理スル事
  但請負人ハ身元保証金若干ヲ出スニ堪ユル者ニアラザレバ使用セザル事

同九日曩ニ奈良原繁ノ醵金ノ事ニ斡旋スルヤ、伊藤博文君ハ書面ヲ以テ印旛沼開鑿ノ儀貴意ニ服従仕ル云々賛成ノ意ヲ表シ、川崎八右衛門小野義真・林賢徳ノ諸氏モ亦同意ヲ表スト、是日奈良原其ノ状ヲ織田完之ニ報ス