デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
23節 土木・築港
4款 印旛沼開鑿事業
■綱文

第13巻 p.121-154(DK130017k) ページ画像

明治21年12月7日(1888年)

是日栄一、小野義真・高島嘉右衛門・金原明善・織田完之等ト浜町ノ常盤屋ニ会シ、印旛沼開鑿事業ヲ議ス。後、栄一ハ今一層水利ノ全体ヲ慥メルタメ、内務省ノ蘭工師デレーキノ正確ナル調査ヲ得テ後計画ヲ進ムベシト説キ、一同ソノ言ニ従フ。尋イデ十二月二十五日栄一、内務次官芳川顕正ニ面会シ、印旛沼開鑿ノタメデレーキノ派遣ヲ請ヒ翌二十二年三月二十五日デレーキハ内務省ヨリ千葉県下ニ出張ヲ命ゼラレ、該地方ヲ巡見、同月三十日帰京ノ上、報告書ヲ提出ス。六月九日ニ至リ訳文「印旛運河計画報告」成ル。


■資料

印旛沼経緯記内編 (織田完之著) 第一三二―二一〇頁〔明治二六年七月〕(DK130017k-0001)
第13巻 p.121-153 ページ画像

印旛沼経緯記内編(織田完之著)  第一三二―二一〇頁〔明治二六年七月〕
同○明治二一年十二月二日高島嘉右衛門氏ハ織田完之ヲ訪ヒ、来七日ヲ以テ渋沢氏ト一会センコトヲ約シ去ル
同七日午後三時渋沢栄一・小野義真・毛利重輔・林賢徳・高島嘉右衛門・金原明善・色川三郎兵衛・鈴木安武・織田完之浜町ノ常盤屋ニ会シ印旛開鑿事業将来ノ事宜ヲ議ス、高島先ツ印旛開鑿ヲ筮シテ沢天夬ノ三爻ヲ得タル説、即チ利根川ヲ安食ヨリ南流セシメ内洋ニ於テ中総
 - 第13巻 p.122 -ページ画像 
国ヲ作出スヘキヲ演述ス、次ニ醵金ノ事ヲ議シ、遂ニ義損者二十名ヲ募ル事ニ決シ、渋沢氏ハ小野氏ヲ社長ト仮定シ自身之ヲ補助セント云フ、衆皆同意ヲ表シ、一盃ヲ傾ケタリ、此ノ夜池田栄亮氏ノ会セサルハ県会中ナルニ因ル
同九日夜本郷区元町二丁目住中村清並ハ織田完之ノ宅ニ訪来、開鑿地川幅丈量ノ事ヲ自費尽力セント請フ、此ノ人年六十余、嘗テ千葉県令柴原和ニ採用セラル、今ヤ閑暇ノ身、印旛ノ事業成功ヲ希望シテ日夜忘ルヽコトナシト云フ
同十三日是ヨリ先キ織田完之速ニ印旛開鑿試験ノ第一着手ノ工事、即チ大和田以南ノ浚渫ニ従事センカ為メ一書ヲ渋沢氏ニ送リ、土地購入等ノ運ヒニ至ランコトヲ望ム、是ノ日渋沢氏ヨリ適当ノ技師ヲシテ水利ノ全体ヲ判断セシムルヲ第一ノ要務ト為スヘキヲ答フ、因テ織田ヨリ一書ヲ送リ之ニ答フ、其ノ略ニ曰ハク
 貴書拝見水利全体ヲ判断スル為メニ適当ノ技師派遺ノ事公平至当ノ儀ト奉存候間、可然御取計奉願上候、其節ハ為案内随行モ可仕存候云々
同十五日織田完之蘭工師フアンドールンノ意見書、印旛沼開鑿創業第一図、旧幕府天保工事分担図、花島、運河策ノ計画図、利根川江戸川連亘論策一括等ヲ纏収シ之ヲ渋沢氏ニ送ル
是年織田完之印旛沼浚渫説ヲ草ス
    印旛沼浚渫要説
印旛沼ノ平水凡二尺ナルヲ平戸ヨリ撿見川間七尺余ノ傾斜アル内洋ヘ決放スルノ容易ナルハ旧鑿ノ跡ヲ通過スル人自ラ之ヲ知ル、果シテ之ヲ決スル時ハ沼中ニ於テ肥沃ノ新田ヲ得ル無慮三千八百余町歩、年々利根川沿岸ノ水害ヲ除ク二十余万石、加之農民ノ瘧疾ヲ救フ毎年幾千人其農業ニ裨益スル極テ夥シク内洋ニ於テ新田ノ開クルヤ検見川堀江間ニテモ五千百六十町余、安全ナル運河ヲ東京ニ疏通スルニ及テハ実ニ東海無比ノ国益ヲ開キ非常ノ準備ニ供スヘキヲ知ル、抑印旛沼ヨリ検見川迄旧鑿ノ全形ハ歴然トシテ存在シ、天明以来九十尺ヲ鑿下シ現ニ天保工事ノ後大和田ノ東ナル村上ノ小橋ヲ堰留メ検見川迄日々小船ノ往来セシコト数年間、天戸村迄ハ五大力船ノ検見川ヨリ上下シ運漕ノ便アリシコト八十ノ老人渡辺久右衛門ハ自身船人タリシヲ明言セリ爰ニ開鑿試験ノコトヲ出願セシハ即チ大和田ノ東村上橋以南検見川迄古河筋ノ埋マレル土凡九千坪ヲ取除キ、六方野ヨリ来レル水ト高津原ヨリ来レル水ト二流ヲ合シテ村上橋ヲ堰留メ撿見川迄小船往来ノ便ヲ開クトキハ、村上橋ノ北ナル城橋迄ハ年々洪水ノ上ルヲ以テ少シク之ヲ浚ヘ導クニ及ンテハ挙業意ノ如クニ達スルハ勿論ナリ、然ル上ハ昔年幕府ノ時代数百万金ノ埋没シタルヲ蘇復スルニ足ルコトハ内外人ノ測量上ニモ確拠アリトナス、今ノ世ニ当テ経国済民ノ尤モ手近キモノヲ論スレバ、心アル人ハ先ツ印旛沼ヲ一巡シテ其工業着手ヲ促スヤ知ルヘキナリ

明治二十二年一月一日織田完之農商務省ニ参賀シ去テ渋沢栄一氏ヲ日本橋区兜町ニ訪フ、渋沢氏曰ク、去十二月廿五日内務次官芳川顕正氏
 - 第13巻 p.123 -ページ画像 
ニ面会シ印旛沼開鑿ノ為メ蘭工師デレーケヲ派遺シ全体ノ水利ヲ審測センコトヲ請フ、時ニ伊藤枢密院議長同席ニアリ亦此ノ挙ヲ必要トナス、万好機会ナリ、宜ク千葉県ニ再願シテ蘭工師ヲ派遺シ充分ノ測量ヲ遂クル急務ナリ云々、完之即チ再願ノ順序ヲ謀ル
同四日植草兵左衛門・中村清並ノ両名連署シ印旛沼天保後六尺余埋リタル証書ヲ織田完之ノ宅ニ持参ス
    印旛沼水底大ニ埋リ候儀ニ付申上候
 天保十四年七月中印旛沼掘割着手ノ頃沼底平水深サ八尺余モ有之候処、今時ニ至テ平水平均弐尺余ニ有之、差引凡六尺余モ水浅ニ相成右ハ天保度掘割ヨリ四拾七ケ年ニモ相成年々出水ノ節野州其他処々ヨリ土砂押入且水草腐リ追々沼一面ニ水浅ニ相成申候、植草兵左衛門義ハ数代沼縁ニ住居致シ年々水ノ深浅ハ時々試候義ニ付六尺余ノ水浅相成候義ハ相違無之、中村清並義モ兵左衛門同様掘割熱心既ニ十ケ年余モ開鑿ヲ心配罷在、大水ノ節又ハ常水ノ頃モ度々出張兵左衛門共ニ沼ノ深浅ヲ試候処、天保度ト今時ノ比較右之通相違無之此段申上候也
            千葉県下下総国千葉郡平戸村
  明治廿二年一月           植草兵左衛門(印)六十歳
            東京府下本郷区元町弐丁目六十六番地
                    中村清並(印)六十六歳
    織田完之殿

同十三日下総東葛飾郡西海神村総代井上六右衛門外一名ヨリ勢子杭五十本ヲ寄附増建スヘキヲ以テ、塵芥置場埋立ノ為メ海面三段三畝十歩ヲ使用センコトヲ参田会ニ請ヒ、又同人外七名ヨリ勢子杭三百本ヲ寄附増建スヘキヲ以テ葦植ノ為メ海面五十町歩ヲ使用センコトヲ請フ、平山省斎之ヲ承認ス
同十六日曩ニ印旛沼開鑿ノ為メ測量ノ再願ヲ謀ルヤ、内務省雇蘭工師ヨハ子ス、デレーケ氏ニ託センコトヲ要ス、是日織田完之予メ事業ノ要項ヲデレーケ氏ニ懇談センカ為メ、荒井郁之助氏ノ添書ニテ沢太郎左衛門氏ニ紹介ヲ依頼ス、沢氏ハ旧幕府ノ人往年和蘭ニ留学シ能ク蘭語ニ通ス、而シテデレーケ氏ト懇親ナルヲ以テ之ヲ依頼スルナリ
同十九日織田完之伊豆ノ熱海ニ到リ、高島嘉右衛門氏ヲ樋口忠助ノ家ニ訪ヒ渋沢氏本月一日ノ談話ニ基キ終ニ蘭工師ノ測量ヲ要スルニ至ル事実ヲ語リ、且再願書ヲ示ス、高島氏曰ク大ニ好シト、即チ華押ヲ願書ニ書シ又義金五百円ヲ金原明善氏ニ渡スコトヲ承諾ス、是ヨリ先キ高島氏夏島ニ行キ伊藤博文氏ニ印旛沼ノ事件ヲ説明ス、伊東巳代治氏モ座ニアリ大ニ之ヲ賛成セリ、其ノ説明左ノ如シト云フ
 吾人ガ棲息スル所ノ地ヲ国ト云ヒ又州ト云フ、州トハ洲ト云フコトニシテ、洲ハ大雨ノ降ル度ゴトニ山骨ヲタヽキ出シ其ノ泥水ノ沈澱シテ成レル所ナリ、故ニ実地ニ就テ点検スルモ単ニ絵図上デ按スルモ大川ノ注入スル所ハ必ス大ナル洲ノアルモノナリ、既ニ庄内ノ最上川ニ於ケル仙台ノ阿武隈川北上川ニ於ケル越後ノ信濃川ニ於ケル美濃伊勢尾張ノ木曾川ニ於ケル皆斯ノ如シ、故ニ関東ノ沃野ト称スル常総武野ノ広野モ利根戸田ノ両川ヨリ流レ出デタル泥土ガ安房ト
 - 第13巻 p.124 -ページ画像 
云フ島ニ連絡シタルコト明カナリ、故ニ上洲砂下洲砂《カスサシモスサ》ト云フ、左スレハ吾人ノ棲息シテ居ル地ヲ造生シタル母ト云フモノハ利根戸田両川トナリト云フモ不可ナカルヘシ」然ルニ戸田川ハ小ニシテ今ダニ何程カ其ノ用ヲ弁スルト雖トモ、大ナル利根川タルヤ今ニシテ下総国ノ銚子ヘ注クヲ以テ折角ニ丹精シテ持チ運ヒタル泥水ハ大洋ノ潮ニ荷ヒ去ラレテ大不利捨《ムダニ》テヽシマフ、之ヲ目ノ明イタ人間ガ見タラバ国ノ不経済、国ノ不節倹、国ノ不倹約ト云フテアラウ、況ヤ傍ニ東京湾ト云フヨキ棄所ノアルニ於テヲヤ、豈看過スルニ忍ヒンヤ、之ヲ東京湾ニ導キタナラバ上総下総ノ間ニ怱チ中総洲ヲ造出スルハ敢テ難事ニ非サルヘシ、此ノ事タルヤ古今ノ同感人ニ乏シカラス、即チ天明度ニハ田沼主殿頭、天保度ニハ水野越前守等同ク此ノ事業ヲ成サント欲シテ利根川ヨリ東京湾ノ間ナル印旛沼ヲ以テ検見川筋ニ掘割ラントシタリ、然ルニ掘割ラントスル地中ニ硅藻土《ケトウ》ト云フ一種ノ土ノ出ル所アリ、此ノ硅藻土ハ壜ニ入レ之ニ水ヲ加ヘ攪拌スルトキハ半バ浮ンデ半バハ沈ム、其ノ土粘力ガ無イ故ニ其ノ土ヲ掘割ノ左右ヘ荷ヒ上ゲ蓄積スルトキハ其ノ重力ニ圧セラレ、為メニ掘割タル地底ヨリ泥土突出スルヲ以テ困難セリ
 今ヤ文明ノ利器世ニ行ハルヽノ時ナレハ之ヲ利用シテ開鑿スレバ格別難イ事デハアリマセン、抑掘割ノ総計凡ソ四里半ノ中、印旛沼ヨリ大和田マデ一里半ハ凡ソ平面ニシテ二丈ノ高低アルノミナレハ、川ヲ鑿テ沼ノ水ヲ導キ、夫ヨリ山間ニ掛ルノ場所ニ至テ高サ三丈ノ堤ヲ築キ、其ノ上ニ二十馬力ノ水揚喞筒二十台ヲ設立シ、此ノ喞筒ヲ以テ一昼夜ニ立方五万坪ノ水ヲ堤ノ中ニ取入ルヽトキハ山中ニ一ノ湖水ヲ蓄ヘタルモノヽ如シ、其ノ水力ヲ利用シ流水至ル処人力ヲ加ヘテ左右ノ山ヲ流シ取ルトキニハ花島観音山等ノ下ナル彼ノ「ケトウ土」ヲ流出セシムルコト一日毎ニ水五万坪ハ以テ土二万坪ヲ押シ流スヘシ、数万人ノ労力僅々一昼夜ノ水力ニ代フヘシ、随テ蓄ヘ随テ流出セシメ凡ソ一年ヲ経ハ、左右ノ山ハ流出シテ利根ノ川敷ト変スルナリ、誰モ知ル如ク横須賀ノ「ドツク」ノ喞筒ハ小馬力ヲ以テ暫時ニ「ドツク」ノ水ヲ浚ヘ乾スニ非スヤ、喞筒ノ功力豈亦大ナラスヤ、況ヤ二十挺ノ喞筒ヲ以テ一昼夜蓄ヘタル水勢ニテ泥土ヲ吼出セシムルニ於テヲヤ、水力ノ働キ亦快活ナラスヤ、サテ此ニ於テ山変シテ平地トナリ川敷広濶ナルノトキ、山間ノ堤ヲ除去シ大和田ヨリ印旛沼ノ川敷ヲモ広ムヘシ、斯クテ一方ニ於テハ利根川ヲ横塞シ、其ノ水勢ヲシテ東京湾ニ向ハシムヘシ、而シテ印旛沼岬角ニ突出スル処吉高ト瀬戸トノ中間ヲ掘割リ、其ノ土ヲ以テ堤ヲ築造スレハ沼敷ノ干潟新田幾千町歩ニ上ラン
 在来ノ利根ノ川下ハ予メ「ケレツプ」ヲ設ケ其ノ川幅ヲ一定シテ可ナリ、抑利根川ノ大洋ニ出ツル銚子ノ地勢タルヤ最モ平面広地ニシテ南ハ犬吠ケ岬ノ暗礁ニ沿ヒ北ハ常陸原ノ沙漠ヲ帯ヒ海ニ流出スルヲ以テ風ノ方向ニヨリ沙漠ノ為メニ其ノ流出ヲ障ヘラル、平水ノトキハ海ニ入ルト雖トモ利根川洪水ノトキ川口狭ク溢レテ霞浦・北浦ヘ激入ス、霞浦ハ本邦第二等ニ位スル大湖ナルモ猶為メニ水量暴漲ス、而シテ利根平水ノ後ニ非レハ此ノ溢水退クコト能ハサルヲ常ト
 - 第13巻 p.125 -ページ画像 
ス、故ニ沼湖ニ沿フ所ノ田圃ハ久シク水底ニ埋メラルヽヲ以テ腐敗シ其ノ害ヲ蒙ルコト実ニ廿有余万石ニ至ル、今ヤ前述ノ事業竣功ノ日ニ至レハ唯ニ此ノ災害ヲ免ルヽノミナラス新ニ数万町歩ノ田地ヲ得ルヤ明カナリ、且又安食村ヨリ銚子ニ至ルマテ十八里ノ間ニ現今利根ノ堤防間ニアル幅一里ノ川領ハ凡ソ一万八千町、是ニ於テカ印旛沼・霞浦・北浦・利根川領等桑麻ノ地トナリ安心立命ノ地ヲ得ルノ人民幾十万ノミナラズ、政府ノ歳入モ勿論、新タニ中総州ヲ造生シ、以テ後世東京湾ヲ沃土ト変換シ皇居ノ万歳大計ニ庶幾カラシ、之ヲ計ルノ道印旛沼開鑿ノ一挙ニ基クヲ以テ此ノ事業ノ成否如何ヲ神易ニ問ヒシニ沢天夬ノ三爻ヲ得タリ、夬決也剛決柔也健而説決而和揚于王庭柔乗五剛也孚号有厲其危乃光也告自邑不利即戎所尚乃窮也。利有攸往剛長乃終也」抑沢ハ水ヲ受ルノ地ニシテ最モ低キニ在ルヘキヲ高キニ在リテ徒ラニ有用ノ地ニ汎濫セリ、故ニ決シ去ラスンハアル可カラス、是レ夬ノ卦名ノ由テ起ル所ナリ、之ヲ夬決也ト云フ、健而説トハ水ハ高キヲ去テ低キニ就クノ性ヲ有スレハ原ヨリ成ルヘキノ理ナレハ容易ニ成就シテ悦フヲ云フナリ、決而和トハ成功ノ後水勢穏カニシテ通船自在ナルヲ云フナリ、揚于王庭トハ廟議ニ於テ最モ其ノ賛成ヲ得ルヲ云フナリ、柔乗五剛トハ印旛沼ノ底ハ海水ノ満潮ヲ抜クコト五尺高キヲ証スルナリ、孚号有厲其危乃光也トハ天下名高キ印旛沼モ今ヤ決セラレントスル時運来レルヲ以テ号泣スル所ナリ、告自邑トハ村民原ヨリ希望スルヲ云フナリ、不利即戎所尚乃窮也トハ印旛沼モ時運トアキラメ自ラ去ルノ決心セヨト云フナリ、利有攸往剛長而乃終也トハタヽキ割ラントスルトキ来リタリト云フコトニシテ、此ノ事業成ルノ容易ナルヲ云フナリ、又象ノ辞ニ沢上於天夬、君子以施禄及下居徳則忌トハ我国人口ノ繁殖スルヲ顧ミスシテ有用ノ土地ヲ占有スルヲ得テ早ク下ニ退キ去リテ其ノ地ヲ人類ニ引キ渡スヘキヲ云フナリ、若シ其ノ地ニ恋々トシテ流レ去ルヲ嫌フトキハ人類ニ忌ミ嫌ハルヽヲ云フナリ、三爻ノ辞ニ曰ハク君子夬々独行遇雨若濡有慍无咎トハ此ノ事業ヲ始ムルノ日ニ当リ、或ハ事業ニ熟練セサルモノ血気ニハヤリ人力ノミヲ以テ遂ントスルトキニハ成功ニ苦ムヲ云フ、君子決夬トハ水力ヲ利用シテ容易ニ事ヲ遂クルヲ云フナリ、独行遇雨若濡有慍トハ此ノ事業一人ニテ行フトキハ利慾ニ走ルモノト見做サレ他ノ妬ミヲ受ケテ儒衣ヲキル如キ讒言ヲ蒙リ立腹スルコト有ルヲ云フナリ无咎トハ然レトモ自ラ奮テ国益ヲ謀ルモノナレハ遂ニ咎ナキト云フナリ、三爻変シテ兌為沢ノ卦トナル、卦面ノ中央ニ沢ヲ造リテ水ヲ貯ヘ水力ヲ仮リテ人力ヲ加ヘ事成就スルノ形ヲ現ハシタリ」今金持トカ紳士トカ称ヘラレ意気揚々トシテ居ル輩モ多シ、此等モ無暗ニ金ヲ貯ヘタ処ガ死テ持チ行カレル者テモナク田地ヲ多ク所持シタトテ椀ノ中ヘ米俵ヲ入レテ掻キ込ム訳ニモ行クマイ、其ノ位ノコトハ皆知テ居ルデアロウカラ紳士トカ豪家トカ云フ名ヲ受居ル人々ハ国家ノ為メニ斯ノ如キ事業ニ醵金ヲナシ宜ク公益ヲ計ルヘキナリ、夫ヲセズシテ唯旦那紳士ト呼ハレ平気テ居ルノハ鉄面皮モ亦甚シク
 - 第13巻 p.126 -ページ画像 
実ニ世間ノ名称ニ対シ申シ訳ノ無キコトデアルカラ、何レ華族豪商紳士ト呼ハレル者ノ中ヨリ同志ノ者ト謀テ印旛沼ヲ実際神易ノ通リニ掘割ル時ハ三年ニ成功スヘキノ占ナリ
高島氏又完之ニ告テ曰ク、今ヤ開鑿ノ時運ニ際ス、宜ク之ヲ主張シテ大浪ヲ打セ進テ事業ヲ整頓セラルヘシ、金原明善氏ハ遠志アル雄偉ノ人物ナリ、我深ク彼人ノ行為ニ感ス、近日上京シテ印旛ノ事ヲ面語スベシト、此ノ夜同宿懇談専ラ内洋印旛ノ経営一途ニアリ
同二十日午前十時完之樋口忠助ノ家ヲ出テ車ヲ命シ午後四時五十分国府津ノ滊車ニ乗シテ帰京ス、此ノ日小田原迄ハ道路霜解昨日ヨリ稍乾ク、山路ノ車行ハ北去ノ方南来ヨリ易キヲ覚フ、寒梅処々ニ玉ヲ綴リ橘樹遠近ニ漸包シ深緑中ニ往々金ヲ栖マシムルヲ見ル、橘ハ熱海ヨリ石橋迄大抵到ル処ニアリ、東洋ヲ眺望シ印旛ト内洋ノ連絡ヲ想像シ欣慰万々九時家ニ帰ル
同二十一日完之ハ金原明善氏ヲ訪ヒ、高島嘉右衛門氏ヲ熱海ニ訪ヒタル実況ヲ語ル
花島村大野長兵衛ヨリ同村渡辺久右衛門記出スル所天保度堀割ノ景況ヲ織田ニ寄贈ス、左ノ如シ
    印旛沼天保度堀割摸様書上
                下総国千葉郡花島村
                      渡辺久右衛門
 右申上候、天保十三年十月末ヨリ試堀相初メ同十一月中旬迄ニ出来相成候、御普請中御出役御代官篠田藤四郎御宿ハ柏井村川口理右衛門方也、且試堀場所花島村観音下並ニ横戸村字高台両所試堀致候、其節御見分掛御町奉行鳥居甲斐守御奉行梶野土佐守御見分ニテ出来候也、翌十四年七月廿二日ヨリ堀割本普請相始メ同九月廿四日御中止也、尤モ御大名五頭ニテ丁場分ニテ取掛リ、海面ヨリ長作村地内字猪鼻橋迄凡壱里余之処出来相成、日々五大力船通船致候、夫ヨリ壱里余之処願済ノ上大和田橋ヲ埋留致シ六方落高津落両水ヲ海面ヘ流落シ、小船日々通行致候其後御鹿狩ニ付小金牧野馬六方野ヘ追越ニ付高台ヘ凡四拾間余ノ土橋相掛ケ追越致候也、其後追々橋破損致シ候故通船不相成、終ニ通船相止ミ、尤舟通ヒ凡十二三年其際川縁村々ヘ長六七間位幅六尺以下之舟廿三艘出来、芋俵十二三貫目位米俵十四俵位ツヽ積運ヒ候也、其後村々ニテ埋出シ相成ルニ付只今ノ川形ニ相変候也
 右ハ堀割摸様私覚候丈書上候処聊相違無之候也
                    右
  明治廿二年一月廿一日         渡辺久右衛門(印)
                       本年八十三歳
    織田完之様

同二十二日曩ニ参田会下総海面埋立起業ノ延期ヲ出願スルヤ爾後一般ノ不景気ニ伴ヒ資本意ノ如クナラズ遷延遂ニ期限ヲ過ク、頃者千葉県農商課ヨリ期限経過ノ事ヲ本願人平山省斎ニ督責ス、是日平山、織田完之宅ニ来リ其ノ処理方ヲ頼談ス
同二十四日印旛沼開鑿再願書類已ニ整頓スルヲ以テ之ヲ進達セントス
 - 第13巻 p.127 -ページ画像 
因テ鈴木安武ヲ以テ渋沢栄一氏ニ面会シ同氏ヨリ千葉県知事宛ノ添書ヲ領収ス
是ヨリ先キ沢太郎左衛門氏デレーキ氏ニ面会シ印旛沼事件ノ大略ヲ話ス、デレーキ氏頗ル此ノ挙ヲ嘉シ尽力スヘキヲ答ヘ、且是迄ノ測量順序起願ノ歳月等ヲ問フ、是日沢氏之ヲ織田完之ニ報告シ、明日ヲ以テデレーキ氏ノ宅ニ同伴シ事実ヲ詳悉センコトヲ約ス
同二十五日曩ニ一月一日渋沢氏ト協議セシデレーキ氏出張要請ノ件再願書ヲ進達センカ為メ鈴木安武此日千葉県ニ赴ク
    印旛沼開鑿試験之儀ニ付再願書
印旛沼開鑿試験之儀客年四月中御聞届相成候後尚審議ヲ尽シ候処、内務省御雇土木工師デレーキ氏ノ審測ヲ請ヒ、印旛沼ノ水量全体ヨリ検見川海ノ設計及手賀沼ヲ平戸橋ニ連絡スルノ便宜等ヲモ審明シ、永遠ノ大計ヲ予定シ然ル後従事仕度奉存候、何卒内務省ヘ御申立被下デレーキ氏出張相成別紙ノ条件ヲ以テ実地審測被成下候様仕度、参考書等相添此段奉再願候也
             東京本郷区湯島切通坂町十五番地
                  平民
  明治二十二年一月           織田完之(印)
             東京日本橋区田所町十番地寄留
                   静岡県平民
                     金原明善(印)
             東京日本橋区浜町三丁目一番地寄留
                   千葉県平民
                     池田栄亮(印)
             神奈川県神奈川駅
                  士族
                     高島嘉右衛門(印)
             茨城県新治郡土浦町
                  平民
                     色川三郎兵衛(印)
             茨城県信太郡鈴木村
                  士族
                願人総代 鈴木安武(印)
    千葉県知事 石田英吉殿
前書之通願出候ニ付調印仕候也
             茨城県信太郡鈴木村
               戸長 藤生一郎(印)

    工師デレーキ氏ニ審測ヲ要スル件々
第一条 千葉県検見川ト印旛郡平戸村マテノ間ヲ開鑿シ、印旛沼ヲ決放シテ干潟トナシ水田ヲ得ルノ目的ヲ達スルニハ川幅何程ヲ要スル其設計及費額
第二条 利根川筋安食川口ヨリ印旛沼ヲ経テ吉高村ト瀬戸村ノ間ヲ開鑿シ検見川マテ運河ト為スノ目的ヲ達スルニハ、川底何程川幅何程其設計及費額
第三条 利根川ノ洪水ヲ利用シテ、印旛沼ヨリ検見川海ヘ土砂ヲ押流シ、塩田ト為スノ目的ヲ達スル其設計及費額
第四条 手賀沼ヲ亀成ヨリ船尾マテ開鑿シ沼中水田ヲ開クノ目的ヲ達スル川幅何程、其設計及費額
  右デレーキ氏ニ審測ヲ要スル件々ノ外尚下総国印旛沼概略図、印
 - 第13巻 p.128 -ページ画像 
旛千賀両沼町歩及収納多寡概略表《(手)》、柏井村高台側面図、検見川海面将来ノ想像図ヲ再願書ニ副フ今此ニ略ス

此ノ日午後三時ヨリ織田完之ハ沢太郎左衛門ニ伴ナハレ始メテデレーケ氏ノ宅ニ到リ、印旛沼開鑿企業ノ事実ヲ面話ス、其ノ大要左ノ如シ
 今日ハ沢先生ノ紹介ヲ以テ幸ニ御面話ヲ忝ス誠ニ大慶ノ至ナリ、此ノ上ハ幾久敷親密ノ交際ヲ希ヒ且治水土功ニ付公私ノ為メ万々教示ヲ請フ
 小生ハ下総印旛沼開鑿ノ熱心者ニテ其ノ始メハ検見川海面ノ事ニ力ヲ用ヒ干潟ノ沖ニ沙留ノ杭ヲ打ツコト五里余ノ間ニ試ミタリ、其ノ結果ハ一昨年来船橋五日市ト云フ海岸ヨリ海潮ノ退ク処ヘ人民葦二十町歩許ヲ栽殖シテ蕃殖ヲ計リシニ其ノ生立宜シ
 杭打ノ形況ハ著ク沙ノ溜リタル処モ往々相見エ、殊ニ去年来杭木ヲ打増シタル分ハ将来葦生ノ宜キヲトスベシ、但二十一町歩許ナリ
 扨印旛沼開鑿ノ為メニ花島ニ池ヲ堀試ミ世人ノ疑ヲ解キタリ、且測量モ再三ニ及ヒ印旛ヨリ海ヘ四里十二町余、高低凡七尺余、一間ニ付七毛五ノ傾斜アリト云フニ至リ、此ノ業ノ必成ヲ信スルナリ
 聞ク蘇西《スエス》ノ運河モ開鑿ノ初メ横議者ノ邪魔モ簇出シ難儀セシ由、何レ此ノ度モ難論邪魔ノ出ルハ固ヨリ覚悟ナリ、衆議ヲ排シ群疑ヲ決シ断然挙業ノ見込ニ付何卒国家ノ為メ人民ノ為メ御出張ノ上適当ノ方案ヲ開示セラレハ大幸ナリ、先以テ関東無比ノ大事業ニシテ小蘇西運河ノ日本ニ現出スルモノナリ
 尚此ノ目論見ニ関シ僅々沿革ノ図書類モ持参シタルヲ以テ御尋アラハ答フヘシ
次ニ図ヲ出シテ実測ヲ要スル件々ヲ議ス、デレーケ氏了諾シテ曰ク、若シ土木局ヨリ命アラハ赴キ調フベシ、但想フニ利根川ノ流レ印旛ノ口ヨリ下巨船ノ溯ル便アルヲ若シ印旛沼ヲ南ニ決放スレハ水勢近海ニ奔リ、本川涸渇ノ憂アラン乎ト、織田曰ハク然ラス、安食ヨリ以下ハ巨流漫々江河ノ如シ、平戸検見川間ノ川幅ハシキ六間位ニ過キスト見込ムヲ以テ、利根川本流ノ平水ヲ分ツコト尤モ僅々ナルベシ、開墾ノ目的ヲ達スル上ハ運河ハ適宜ナルヘシ、敢テ大河ヲ要スルニアラズトデレーケ氏曰ハク、沼ヲ枯スコト容易ナリ、開田モ亦夥シカルヘシ、実地ヲ踏マズ只水理ノ正則ヲ以テ推量説ヲ述フ、此挙ニ付土木局内異説アルモナルベク公平ノ論ニ帰シ処理宜シキヲ得ルヤウ注意セン、是迄測量セシ図如何ト、織田乃チ東京測量会社製大図ヲ出シ示ス、曰ク果シテ君ノ説ノ如クナラハ事成ルヘシトテ欣諾ス
○中略
是月○明治二二年一月織田完之内洋印旛事業創意以来ノ成蹟要目ヲ調査スル左ノ如シ
 明治十二年
 一猪苗代疏水掛奈良原同意
 十三年
 一内洋経緯記刻成ル、船越千葉県令賛成百部ヲ管内ニ頒ツ、奈良原モ百余部ヲ大臣以下有志者ニ頒ツ
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 十七年
 一海原図創業図花島運河図ナル
 一検見川ヨリ印旛沼口平戸迄高低測量図成ル
 一印旛沼中巡回
 一印旛沼開鑿沿革誌印刷ナル
 一印旛沼ヨリ銚子港マテ巡回
 一内洋埋立願済
 十八年
 一勢子杭五里二十町余成ル
 十九年
 一花島ニ池ヲ試掘ス
 二十一年四月
 一印旛沼開鑿試験願済
 一大和田以南試験測量大図成ル
 一関係地方ノ図成ル
 東京測量会社ニ於テ取調タル図ヲ以テ更ニ鉄道局二等技師毛利重輔氏ニ謀リ、同氏奈良原氏ノ依頼ニ応シ実地ヘ出張審査ヲナシ、弥試験ノ場所大和田以南ノ容易ナルヲ信シ、予算金ハ義捐シテ取掛ルコトナリシガ、十二月ニ至リ、渋沢栄一氏ノ説ニ、今一層慥メル為メデレーキ氏ノ審測ヲ得テ後大計画ヲ定メ会社法ヲ以テ従事然ルヘシト、一同其ノ言ニ従フ
二月○明治二二年一日大明参田ノ両会員相謀リ、内洋ノ事業ヲ印旛沼ノ事業ニ合体ス、其結約左ノ如シ
(印)印紙 内洋印旛合体結約ノ件
 内洋ノ経緯ハ故佐藤信淵翁ノ遺志ニ基キ、織田完之夙ニ大成教管長平山省斎ヲ勧メ、平山ハ其信徒六百九十万人ヨリ寄附金ヲ為サシメ参田開墾ノ目的ヲ達セントシ、金原明善ハ数百円金ヲ義捐シテ織田完之相共ニ平山ヲ補佐シ、勢子杭ノ打立ヨリ葦植ノ籌画等モアリテ時機ノ至ルヲ待ツコト久シ、而シテ参田ノ事業ハ資金意ノ如ク相運兼、平山ヨリ別紙ノ通、是迄ノ費金縦令烏有ニ帰スルモ県庁ニ対シ申訳相立、開墾ノ素願相違スレバ天下後世ノ小嚆矢トナレバ聊遺憾無之、印旛沼ニ合体取計相成充分計画有之度トノ事ニ付、今度改メテ印旛事業ニ合体シ、相互ニ奮テ此事業ニ従事シ大ニ国益ヲ起シ可申候、既ニ大明会金原高島其外各員ヘモ吹聴ノ末ナルヲ以テ、両名ヲ連署シ内洋印旛両事業合体ノ結約ヲナスモノナリ
                 参田会創立員
                 大明会発起人
  明治二十二年二月一日         織田完之(印)
                 印旛沼開鑿願総代人
                 大明会員
                     鈴木安武(印)

同三日織田完之麹町町区永田町三丁目高崎正風氏、平川町六丁目笠原
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半九郎氏、市ケ谷加賀町井上亨氏、牛込区山伏町樋田魯一氏等ヲ訪ヒ印旛ノ事ヲ話ス
同四日織田完之ハ金原明善氏ヲ東里為替店ニ訪フ、是ヨリ先キ高島嘉右衛門氏金原氏ヲ訪ヒ相共ニ力ヲ印旛ノ事ニ竭サンコトヲ談ス、是日金原氏ハ高島氏奮発ノ状ヲ語ル、去テ高島氏ヲ木挽町ニ訪ヒ印旛ノ地勢起業ノ順序等ヲ談ス、又高島氏ハ該沼ノ排水「ポンプ」ヲ以テスルノ便利ナルヲ説ク
同四日織田完之印旛手賀ノ地勢ヲ巡検セントス、是日植草兵左衛門ヲ慰労シ平戸ニ帰リ待タシム
同六日織田完之ハ鈴木安武ト同伴下総ニ赴ク、是日両国ヨリ馬車ニ乗リ市川ヲ経テ船橋ニ休ム、石井新吾来談ス、一食シテ車ヲ馳セ大和田新田ヨリ左ニ入リ、吉橋・桑納・島田ヲ経テ平戸ニ到ル、植草兵左衛門迎ヘ待ツ、既ニシテ船尾村ノ横尾隼之助入来、此人印旛沼開鑿ノ熱心者ナリ、共ニ平戸橋ニ到リ、左ニ入リ眺望スレハ湖水大ニ涸レ、歩行七町余土人ハ沼土ヲ劚リ小山ヲ作ル数百、是一般肥料ニ充ツルナリ湖水ハ深サ二尺ニ充タサルヘシ、小船ノ通行モ船底泥ニ粘シテ動キ難キニ困メリ、横尾氏曰ハク、弘化丙午ノ大水一升ヲ超ユ、平戸橋ニテ凡ソ一丈四尺七百俵積ノ船当村ノ榜示杭迄来ル、大和田橋ヲ過キ横戸弁天迄往テ見ルニ、水先已ニ此ニ達ス、此ノ時大和田橋渡船場トナレリ、其ノ後慶応三年頃引続キ洪水アリ、第三ノ洪水尤甚ク九合水ト称ス、此ノ時モ大和田橋上ニ水ヲ被フリ其ノ水先高津落ニ達ス、其ノ後三年毎ニ大抵七八合ノ水来ルト、又印旛沼ノ周囲ハ千葉印旛埴生ノ三郡ニ亘リ沿村百十アリ、平戸辺ハ熟地ナルヲ以テ三年ニ一度収入スルヲ目途トシテ石盛ヲ付ス、地価一等地凡ソ六拾円、平戸村ハ高百二十五石、簱下松平新九郎上知ノ分庚午仮免状米二石六斗九合トアリ、二十八石八斗七合八勺八才定免ナリト云フ、此ノ夜織田ノ一行植草徳松ノ家ニ泊ル
同七日大雪織田ノ一行為メニ発スル能ハス、乃チ兵左衛門ニ嘱シ明朝必ス亀成新田ニ□テ出発スル旨ヲ船尾村横尾隼之助ニ報ス、手賀沼ヲ観ルカ為メナリ、完之五言律ヲ賦ス
    宿平戸村二首
 行人印波国、夕投平戸村、川枯連遠渚、草茁似春原、自昔人思墾、及今吾立言、時機其或到、竜擬躍天門、
 呑象通神易、筮来遭沢天、宜穿印幡沼、放引利根川、内海新生国、東京直達船、決心従此事、不恥産霊前、

同八日晴織田等午前八時植草ノ家ヲ発シ、沼ニ沿ヒ神崎ヲ経テ船尾村ニ到ル、横尾隼之助村店ニ待ツ、兵左衛門送来四人積雪ヲ踏ミ戸神村水田ノ間ヲ経テ多々羅田ヨリ和泉新田ノ馬鬣形ヲナス処ヲ一見ス、高サ七丈ト称ス、長サ凡ソ四十間山脚凡ソ百二十間ニ渉ル、北ニ下リ水田ト山峡ヲ過キ、鹿黒村《カクロ》ヨリ小倉ヲ経テ亀成村ニ入リ、橋ヲ渡リ右ニ入リ、堤上ヲ行テ手賀沼ヲ見ル、則チ杳渺タル湖水大ニ枯レテ処々泥洲アリ、帰リ来リ中屋ニ午食ス、山上ヲ経テ神崎ニ帰ル時ニ二字点ナリ、里程凡ソ二里」神崎ヨリ横尾氏ニ謝シ兵左衛門共ニ船ニ乗ル、沼
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中三里夜ニ入リ瀬戸ニ着ス、月光幽暗渡頭弁シ難シ、辛ウシテ岸ニ至リ先ツ兵左衛門上リテ旅亭ヲ尋子、已ニシテ迎ニ来ル、泥阪ヲ攀チ六七町ニシテ五ツ本屋ニ泊ル、憊甚
同九日織田ノ一行瀬戸・吉高ノ開鑿スヘキ線路ヲ見ル、五ツ本屋主人案内ヲ為ス、故武田新五兵衛ノ門前ナル竹林ノ上ニ阪アリ、之ヲ登テ麦隴アリ、又竹林ヲ下ル、山峡皆水田ナリ、松虫村ノ地ヲ経テ吉高ニ至ル、兵左衛門已ニ先テ在リ、船ニ乗リ安食ニ向フ、水浅ク船底泥ニ粘リ進ムニ困ム、湖中此ノ処尤広シ、広沼ト称ス、魚〓処々ニ多ク設ケタリ、午後一時安食ニ達シ竹村屋ニ泊ル、是ヨリ先キ石井新吾ヨリ織田等巡回ノ事ヲ安食ノ烟草屋梶ケ谷与七ニ通報シ便宜ヲ謀ラシム、是日同人ヲ竹村屋ニ招キ一酌シテ相共ニ南ニ出テ天神森ヲ東ニ望ミ、西ニ出テ堤上ヨリ吉高ノ方ト湖中ノ蘆洲ヲ弥望シ、安食ノ渡船場架橋ノ処ヲ見テ千葉県土木課小沢某ニ逢フ、流ニ沿テ布鎌新田ノ東二流合スル処ニ到リ、渡船ニ乗シ前岸ニ渡リ、水流ノ浅深ヲ点検ス、本流即チ本利根川ハ深クシテ水色濃碧ナリ、印旛沼ノ流レ下ル口ニ来レハ水稍浅シ、舟人言フ川底皆岩ノミト、抑安食ノ長門川落口ハ皆川底岩礁ナルコト先年竹ヲ突立テ試ミタル事アリキ、今舟人ノ言ト符ス、此ノ日兵左衛門ヲ慰労シテ家ニ帰ラシム
昨夜泊セシ瀬戸ノ宿ハ先年磯長得三氏宮田作太郎氏ト同宿シテ武田新五兵衛ト開鑿ノ線路ヲ点検スト云フ、此ノ夜安食村竹村彦右衛門方ニ泊レリ、安食ノ渡ヨリ竹村ニ至ル長堤アリ、之ヲ田沼ノ不用堤又ハ馬鹿土手ト称ス、是レ当時築成シテ徒爾ニ属セシガ故ナリト云フ」安食村字大洲ト五貫洲ノ間ヲ貫ク時ハ大ニ沼中ノ舟路ヲ短縮スト、之ヲ掘開ク凡ソ十八町ノ間ナリト云フ」小林ト平岡ノ間ハ湖川相通シテ便利ナリ、澪筋アリテ多ク水田アリ、凡ソ二里許ナリト云フ
同十日織田等安食町梶谷三郎兵衛ノ宅ニ小沢某ヲ訪テ、将来ノ事ヲ話ス、且近傍地図ヲ問フ、曰ハク、印旛沼精図ハ先年山田内務卿ノ銚子港ニ行ク時付属ノ船ヲ流シ載積スル用品ヲ水ニ落ス、其ノ時全ク流失スルコト中村衡平ノ深ク惜ム所ナリ、今ハ千葉管内図アルノミ、此ノ図大小二図アリ、千葉立真舎ニ発兌スト云フ」安食町ヲ出テ支利根川ノ隄ヲ下ニ行ク、北辺田河岸ヲ過ク、此ノ前水深シ已ニシテ浅シ、渡船ニ乗朶麁朶工事ヲ見ル、倍々安食口ノ疏通本川ニ影響ナキヲ知ル、十里・長竿・松山諸村ヲ過キ江戸崎町ニ到ル、泥濘滑々辛苦漸ク達ス桐半ニ休憩、已ニシテ河内郡長小林大次郎氏ヲ訪フ、談大ニ熟ス、麦酒ヲ酌ム、三四盃大ニ酔フ、小林氏曰ハク、安食口ノ辺洪水一丈余ノ高キモ、銚子口ハ僅二寸ノ高キヲ感ス、故ニ丈余ノ水ハ皆印旛ト霞浦ニ侵入スルヲ知ルヘシト」又曰ハク、江戸崎ヨリ南ニ小野川アリ、其ノ南馬鬣状ノ処ヲ開鑿シ、堀川ヨリ新利根川ニ接シ、上ハ押付村ニ達シ、本利根ニ出タセバ大ニ霞浦ノ便利ヲ為ス、今測量師ヲシテ丈量ニ従事セシム、已ニムルデルノ出張ヲ経テ計画最中ナリト」又云ク、印旛ノ開クルニ及テハ霞浦・北浦ノ便ハ測ル可カラサルモノアリ、実ニ洪大無量ノ国益ナリ云々
午後四時辞去、原野ヲ経テ大形若栗ヲ過キ鈴木村ニ到ル、已ニ点灯安武氏ノ弟安任子迎ヘ饗ス、一酔快甚シ、安眠シテ平明起テ看レハ雪空
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ニ漲ル
同十二日朝六時織田冰凍ヲ踏破シテ鈴木村ヲ発シ、荒川沖ニ小憩、車ヲ命シ取手駅ニ来ル、里数六里ナリ、徒歩シテ戸頭村ニ午食シ、野木崎ヨリ渡船ニ乗リ三堀開鑿ヲ観ル、已ニ七八分ヲ成就ス、工業頗ル大ナリ、人足賃ハ一坪四拾銭位、一日出稼拾弐銭、手弁当ナリト云フ、泥濘ヲ穿チ薄暮天谷ニ来リ、九時滊船ニ搭シ、東京ニ下リ家ニ帰ル、三時半ナリ
同十三日植草兵左衛門入京、織田完之ノ家ニ来訪、印旛沼ノ事ヲ語ル曰ク、庚午ノ水先大和田ヨリ五町許リ字五本松迄達スト、又曰ハク、手賀沼ノ周囲ハ三十九村アリ、印旛・相馬ノ二郡ニ亘ルト、又曰ハク平戸村ノ寺僧ハ嘗テ水害ノ年々甚キヲ憂ヒ、八大竜王ニ祈願スル此ニ八年、故ニ開鑿ノ成功ヲ切望シ、開業式ハ当村ニ於テ挙行セラレンコトヲ希望スト
同十五日織田完之内務省気象課ニ到リ、荒井郁之助氏ニ面シ、曩ニ沢太郎左衛門氏ヘ紹介ヲ要シ、添書大ニ便宜ヲ得タルヲ謝ス、去テ内務省ニ到リ青山直道氏ニ一筮ヲ要ス、遭中孚之大有、是ハ土木局不日指令アルニ相違ナシ、我孚已ニ通シ佳報アルナリト、土木局ニ到リ山内復氏ニ面語、デレーキ氏ノ事ヲ促ス
同十七日明日芝紅葉館ニ於テ松陰神社告祭式ノ挙アリ、是日織田完之其ノ祭文ヲ作ル、中ニ印旛沼開鑿ノ事ヲ述フ
同十八日織田完之紅葉館ニ於テ伊藤博文君ニ面会シ、印旛沼全体測量ノ為メデレーキ氏出張ヲ要スル事ヲ千葉県庁ヲ経テ上申セシモ未タ指令ノ下ラサル事ヲ語リ、松方君ヘ一声アランコトヲ望ム、曰ク諾
同廿四日織田完之印旛開鑿再願未タ指令ヲ得サルカ為メ渋沢氏ヲ訪フ不在、去テ松方君ヲ訪ハント欲シ、赤羽根橋ヲ渡リ途ニ逢フ、因テ彼ノ一条宜ク願フト述ヘ、別レテ前田正名氏ヲ麻布荓町ニ訪フ、不在、赤阪門ヲ入リ笠原半九郎氏ヲ訪フ、亦不在、井上頼圀氏ヲ訪ヒ、印旛ト内洋ノ談ニ時ヲ移シテ帰ル、井上氏最モ印旛沼賛成者ナレハ也
金原明善氏織田ノ宅ニ来訪ス、不在ヲ以テ左ノ書ヲ留メ去ル
    舌代
 高島氏過日印旛沼義金弐百円被差遣小生慥ニ預リ置候間、乍憚従尊君一筆謝辞御差向可被下候 以上

同廿五日伊藤伯枢密院ヨリ使者ヲ以テ手書ヲ織田完之ニ贈ル、左ノ如シ
 過日辱貴書早速可及貴答之処、何分多忙ニテ内務ヘ聞合ノ為メ及遷延恐縮之至ニ候、デレーキ出張ノ儀ハ内務ニ於テハ更ニ異議無之、多分来月下旬頃ニハ実地為致点検候運ニ可至、即今ハ同人従事之緊務有之難差出トノ回答ニ有之候、此段御承知可被下候、奈良原氏金原氏ノ書翰完璧ニ及候間御落手可被下候 草々頓首
  二月念五                   博文
    織田先生
尋テ此ノ書翰ヲ転写シ渋沢氏金原氏等ニ示ス

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同廿六日是ヨリ先キ織田完之デレーキ氏出張ノ事ヲ以テ書ヲ渋沢栄一氏ニ送ル再三、是日回答アリ、左ノ如シ
 過日来再三之尊書拝読仕候、デレーキ出張ノ事ハ其後芳川次官ヘハ再三御話致シ充分承知ノ由被申聞、又過日伊藤議長ニ面会イタシ候節モ篤ト御依頼仕候処、議長モ至極同意ノ由ニテ芳川ヘ丁寧ニ可申談ト御引受有之候、尚小生両三日中土木局ニ用事有之候間、其序局長又ハ中村ヘ引合可申ト存候
 右再三之尊書拝答旁如此御座候 不宣
  二月念六               渋沢栄一
    織田先生坐下

同廿七日金原明善氏来月一日ヲ以テ帰国セントス、是日書ヲ織田完之ニ寄セ、今後費金ノ出納池田栄亮氏ノ認印アルヲ要ス云々
三月四日高島嘉右衛門氏織田完之宅ニ来訪、印旛沼開鑿ニ「ポンプ」ヲ仕掛ケ、拾万円ヲ投シ天下ニ率先スル時ハ響応スルモノアラン云々ヲ語ル、鈴木安武モ来会、高畠千畝氏モ坐ニアリ、測量図等ヲ展覧数刻、高島氏曰ハク能ク是迄運ヒタル哉ト、近日大和田ニ到リ共ニ実地ヲ点検センコトヲ約シ去ル、既ニシテ井上頼圀氏近藤瓶誠氏モ来会、皆此ノ挙ヲ賛言ス
同五日織田完之前田正名氏ノ饗食ニ招カレ、芝久保町売茶亭ニ至リ印旛ノ事ヲ詳説ス、前田氏亦点頭ス
同八日織田完之、沢太郎左衛門氏ヲ湯島四丁目ニ訪ヒ又高島嘉右衛門氏ヲ神奈川大綱山ニ訪フ、共ニデレーキ氏ノ出張ヲ要スルガ為メナリ同九日石田千葉県知事ノ去ル七日ニ発スル書来達ス、左ノ如シ
 伊藤・奈良原・渋沢氏等ノ書翰写添来書ノ趣致承知候、右ニ付拙者此ノ程出京ノ節内務省ニテ聞合候処、不日工師派出相成候趣ニ有之候、不取敢貴答マテ申入候 匆々拝復
  三月七日                石田知事
    鈴木安武殿

同十一日是ヨリ先キ沢太郎左衛門氏デレーキ氏ヲ訪ヒ同氏ノ印旛出張ヲ促ス、デレーキ氏曰ハクムルデル氏已ニ出張ヲ命セラル、又奈何トモスヘキナシトノ来信アリ、十一日入来ヲ要スト、即チ本日デレーキ氏ノ宅ニ到ル、同氏曰ハク土木局長来テ云ハク、印旛行ムルデルニ嘱スルヲ止メタリ、貴君之ニ赴クヘシト云々、沢氏去テムルデルヲ訪ヘハ、曰ハク小生ハ印旛測量ヲ喜ハズ、幸ニデレーキ氏ニ移命アリト、此ノ夕沢氏、織田完之ノ宅ニ入来之ヲ報ス、因テ織田ヨリ直ニ之ヲ同志者ニ報シ、デレーキ氏派出ノ追願ヲ停ム、初メ織田ノデレーキ氏ニ代フルニ別人ヲ以テスルノ説ヲ聞クヤ、青山直道氏ニ一筮ヲ要シ、左ノ卦ヲ得タリ
    需之革
 占曰需ハ進マサル也、需ハ須ナリ険前ニ在リ容易ニ進ムヘカラサルナリ、変卦革トナル、革ハ改ムルナリ革ハ故ヲ去リ新ヲ取ル一手段新タニ事ヲ謀ルヘキノ象ナリ、是ニ至テ需ノ勇進スル終ニ革ヲ得タ
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リ、是レ沢氏ノ厚意荒井氏ノ紹介此ノ事業ノ幸福ヲ得タリ

同十二日前田正名氏ヨリ来書アリ
 拝啓陳ハ兼テ御託之件ハ早々伊藤松方両伯ヘ懇々御話申上置候処、其義ニテ可然トノ事ニ御座候間、内務省ヘ向テ夫々御申出相成候様被成度、小生俄之用事ニテ帰省致候ニ付、不取敢右書中申上置候
                          草々頓首
  三月十二日               前田正名
    織田老台

同十六日織田完之デレーキ氏出張等ノ事ヲ芳川次官ニ面謝シ、土木局山内復氏ニ面語、麹町区富士見町二丁目廿二番地宮原直尭氏内務属ニシテデレーキ氏ノ通弁ナルヲ聞キ之ニ面嘱ス、又沢太郎左衛門氏ヲ訪ヒデレーキ氏出張ノ期ヲ定ムル事ヲ頼談ス
同十七日織田、西村茂樹金原明善両氏ニ快報ヲ送ル、又池田栄亮氏車ヲ馳セ面会シ、昨日内務次官ニ面謝及ヒデレーキ氏ノ通弁人ニ逢ヒタル事等ヲ語ル
同十八日是ヨリ先キ鈴木安武氏ハ宮原直尭、沢太郎左衛門両氏ニ面話シ、共ニデレーキ氏ニ面会センコトヲ約ス、是日相共ニデレーキ氏ノ宅ニ到リ、印旛沼出張ノ要ヲ懇談シ、来ル廿五日大和田ニ向ヒ出発ノ事ヲ予定ス
同廿一日鈴木安武内務省ニ到リ、宮原直尭ノ紹介ヲ以テ中村義也ニ面会ス、此ノ人今度デレーキ氏随行実測ニ従事セントスル者ナリ、尋テ織田完之モ同人ヲ下六番町十八番地ニ訪フ
同二十二日測標ヲ日本橋通四丁目中村浅吉ニ注文ス
大槻吉直氏嘗テ印旛事業ノ進歩ヲ賛成セリ、是日左ノ書ヲ寄ス
 貴墨拝読、来ル廿五日デレーキ氏大和田ヘ出張之筈ニ付御奔走御多用之趣奉相察候、先ツ斯迄ニ御運ニ相成御熱心実ニ奉感銘候、同氏実検上如何可有之哉御吉報今ヨリ屈指相待之情ニ有之候、将又嘗テ御懇切ニ御勧告被下候海神村地先ニテ、本年二三拾町歩許葦植付候積ヲ以過日其予算調、且ハ請負人撰定方石井氏ニ委托致シ置申候、乍然同氏ヘ御面会モ候ヘハ尚御一声奉願候、勢子杭其他之手続ハ其内篤ト老台ヘ御協議之上実行可致積ニ御座候、薪一件段々御手数不堪恐縮正ニ請取、至極之良材ニ有之奉拝謝候、近日御出発嘸御繁忙ト奉存候、折角御愛護御奔走奉訴候、右謝辞旁如此御座候 敬具
  三月廿二日                  吉直
    織田老台坐下

同廿三日千葉県土木課ヨリデレーキ氏出張等ノ通知アリ、左ノ如シ
 兼テ先般出願致候印旛沼開鑿ニ関シ、内務省工師デレーキ氏出張之義、来ル廿五日東京発大和田ヘ向ケ出張之旨土木局次長ヨリ通知有之候ニ付、同所ヘ出向スヘシ、此旨及通達候也
  明治廿二年三月廿二日        千葉県第二部土木課
    鈴木安武殿
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  追テ本県ヨリモ主任一名可差出旨土木局次長ヨリ通知有之候間、出張之筈ニ有之候、此段申添候也
 今般内務省工師デレーキ氏印旛沼開鑿ノ件ニ関シ出張ニ付テハ本県ヨリモ主任者一名出張可致候、然ルニ本県旅費欠乏差支候ニ付、右ニ係ル出張旅費ハ願人ニ於テ支弁相成候様致度候、此段及通達候也
  廿二年三月廿二日               千葉県第二部土木課
 兼テ出願有之印旛沼開鑿之件、工師見分之上実測ヲ要スルトキハ其費用等ハ悉皆願人ニ於テ負担ノ義ト承知可被成候、此段及通達候也
  廿二年三月廿三日          千葉県第二部土木課

同廿四日出張用具洋酒缶詰等已ニ整頓、是日植草兵左衛門ヲシテ荷物ヲ車ニ整載シテ大和田ニ発セシム、但西洋人臥床ハ田中芳男氏ヨリ借ル所ナリ
午十二時織田完之、鈴木安武ト発程ノ祝酒ヲ挙ク、竹田・溝口・小野寺ノ三氏共ニ酌ム、但竹田以下三氏ハ常ニ織田ニ往復シ、隠然印旛ノ挙業ヲ賛助スル者、書類ノ浄書等往々此ノ手ニ成ル、本多晋氏モ来会快然満悦ノ色アリ、鈴木・立田ノ両人ハ午食シテ発程ス、已ニシテ高島嘉右衛門氏入来、曰ハク嘗テ予カ主唱スル所ノ「ポンプ」ヲ仕掛ケ十万円ヲ擲ツノ説ヲ蘭工師ニ告ケヨト、又曰ハク予斯文黌ノ開会式ニ印旛ノ事ヲ演説ス、中村敬宇氏ハ禹ノ治水ヲ説ク、聴衆大ニ感スト織田午後四時ヨリ佐藤信淵翁ノ墓所浅草高原町松応寺ニ詣シ、翁ノ霊ニ告テ曰ハク、先生ノ素志今吾之ヲ継述ス、印旛ノ事業果シテ成ルヲ得ルノ時至レル乎、先生ノ霊照鑑スル所アラント、去テ黒川真頼氏ヲ訪ヒ、印旛行五日許ニシテ帰京ノ事ヲ語ル
同廿五日織田完之午前十時家ヲ出テ通四丁目中村浅吉ヲ訪ヒ、量水標ノ注文ヲ促シ、両国□リ馬車ニ乗リ船橋海老屋ニ到リ、石井新吾ヲ招キ一酌、海面植葦ノ事ヲ相談ス、曰ハク、五日市ヨリ西海部ハ深潮ナリ、尚実地調査ヲ嘱スト、午後五時坂上ヨリ人車ヲ雇ヒ晩景大和田ニ帰ル、鈴木・立田先テアリ、大沢雄親ノ家ニ泊ル、デレーキ氏及内務属宮原直尭・中村義也先テ来着、中村屋ニ泊リ、県官荒井英也氏モ来宿ス、此ノ夜各員デレーキ氏ニ面話、明日九時ヲ以テ検見川ニ赴カンコトヲ約ス
同廿六日午前九時デレーキ氏外五名、人車六輛大和田橋ニ到リ、デレーキ氏ハフハンドーロンノ調査ニ係ル図書類ヲ出シテ参考シ、南ニ去リ、横戸・柏井ヲ経テ花島観音堂ニ憩ヒ中食ス、又磯長得三氏ノ調査シタル図ヲ参照シテ曰ハク、花島泥炭ノ工事難カラズ宜ク永遠ノ大計画ニ注目スヘシト、已ニシテ天戸、長作等ヲ経テ検見川ニ来リ、野店ニ憩ヒ茶ヲ喫ス、完之此ヨリ帰京ス、是中村義也ノ水準器、箱尺ヲ携ヘ来ラサルカ故ナリ、寒風ヲ衝キ、夜ニ入リ東京ニ来リ日本橋通四丁目中村浅吉ニ頼談シ水準器ヲ借ル
同廿七日完之竹橋内内務省気象課ニ行キ荒井郁之助氏ニ面謝、昨日ノ概況ヲ告ケ、且箱尺ヲ借ルコトヲ頼ミ了諾ヲ得タリ
鈴木安武大和田ヨリ書ヲ寄ス、左ノ如シ
 拝啓昨日ハ夜ニ入御帰宅ト奉存候、工師ハ午後六時二十分大和田ニ
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帰宿、本日ハ午前八時出発、亀成新田ニ泊ル積リ、明日ハ安食泊リ明後二十九日ハ多分中川泊リニ可相成、今般高低実測ヲ願候テハ如何ニ候哉、貴君御出張ノ上御相談申度候間、可成明日安食ヘ御出張願度候、其節ハ費用モ御持参可被下候、不取敢右申上候也
                 大和田大沢方
  三月廿七日午前七時
                      鈴木安武
    織田完之殿

同廿八日織田完之ハデレーキ氏ノ宅内務省ノ官舎ニ至リ、妻君ヨリ贈品ヲ受取リ、測量器ト共ニ之ヲ車夫ニ命シテ先発セシム
午前十一時完之家ヲ発シ両国福井ヨリ馬草ニ乗ントス、待ツコト二時間、市川ニ至リ人車ヲ雇ヒ鎌谷通ヲ行ク、泥濘悪路困苦甚シ、晩景亀成中屋ヲ経テ夜安食村ニ到リ、デレーキ氏以下皆面会ス、梶谷与助モ来リ周旋ス
同廿九日朝完之各員ニ先テ発シ、北辺田河岸堤通ヲ奔ルコト五里、神崎ノ山田屋ニ休憩ス、既ニシテデレーキ氏以下来着ス、皆山田屋ヘ午食シ、直ニ佐原近傍ヲ巡覧シ、四里余ヲ経テ来宿ス、完之デレーキ氏ニ嘗テ沢氏ヨリ聞ク所ノ「バツヘルモーレン」土取船ヲ検見川ニ用フヘキヤヲ問フ、曰ハク、其ノ構造ニヨリ適否アリ但目下ハ早シト、又高島氏所説ノ「ポンプ」十挺ヲ仕掛ルコトヲ詳細ニ語リタルニ、曰ハク、勾倍ノ少ナキ為メニ其ノ功ヲ見ズ、且巨大ナルモノヲ仕掛ンニハ多費ニシテ得失償ハサルヘシト
同三十日デレーキ氏中村義也氏ニ測量標ノ事及ヒ更ニ大明会ヨリモ測量者ヲ出シ共ニ充分ノ浅深測量、即チ印旛手賀両沼ヲ詳悉スヘキヲ嘱ス、又織田ニ謂テ曰ハク、大体ノ点検ハ充分了ルヲ以テ今日帰京重テ検見川海ヲ一覧スヘシト、因テ午前九時車九輛ヲ命シ五輛ハデレーキ氏随行成田ヲ経テ佐倉ニ午食、大和田船橋等ニ小憩シテ帰京ス、時ニ午後七時頃ナリ、織田デレーキ氏ニ随テ其ノ宅ニ至リ握手シテ別ル、此ノ日県官荒井英也氏ハ成田ヨリ別レ去ル
織田家ニ帰レハ芝崎確次郎来リ居ル、乃チ渋沢氏ヘノ伝言ヲ託ス、一食直ニ車ヲ馳セ南鍋町磯長得三氏ヲ訪ヒ、是迄ノ実況及ヒ磯長氏ノ測量フハンドーロンノ調査ト四寸ノ差アリト云フ事、デレーキ氏大和田以南更ニ測量ヲ待タズト云ヒシ事ヲ語リ、更ニ両沼ノ浅深測量ヲ嘱シ帰ル、此ノ日奔走二十四里余
此ノ行ノ吉兆タルハデレーキ氏大和田ヨリ車ヲ牽セテ橋下橋上ヨリ審按熟察、横戸ニ至リ崖土ヲ突キ試ミ、弁天池ノ水溜リ即チ天保度酒井左衛門尉堀割ノ旧蹟ヲ考ヘ、弁天祠畔ニハ躊躇シテ一時間ヲ過キ、柏井ヨリ田畔ヲ経テ字印旛沼辺ノ崖土ヲ突キ試ミ、花島ニ休憩シ崖下ノ試験池即チ金原氏ノ掘リタルモノヲ一見シ、磯長氏ノ調製セル図ヲ参観シ、尤モフハンドーロンノ調査セシ所ノモノヲ精査シ、云ハク工事ハ難カラサルベシト、天戸ニ至リ云ハク、往古谷地ナラン、西岸ノ形状波濤ノ衝突セシ痕ヲ存スト、而シテ検見川ニ来リ益感情アルモノヽ如シ、其ノ平戸ニ至テ印旛沼ヲ眺望シ、奈良原氏ノ奮発アリト聞クヤ云ハク、吾モ加ハルベキカト、此ノ言固ヨリ戯レナルベシト雖トモ亦
 - 第13巻 p.137 -ページ画像 
以テ賛成ノ意ヲ観ルヘシ、又船尾ヨリ鹿黒等《カグロ》ヲ経テ亀成ニ至リ、船ニ乗リ手賀沼ニ出テ眺望シ、六間ノ方ニ赴キ利根川ト印旛ノ形勢ヲ考ヘ手賀ハ六間通リヨリ印旛ニ通スルヲ好シトス其ノ工事容易ナリトモ云ヒ、又安食ヨリ乗船印旛沼中ニ出テ吉高ノ方ヲ望ミ此ノ工事モ容易ナリト思フ故ニ往テ見ルヲ要セスト、終ニ安食ノ北布鎌新田ノ水流利根川ノ流下スル形勢ヲ探究センカ為メニ佐原迄下ラント欲シ、神崎迄利根川通リヲ観察シ、又川ヲ渡リ丘ニ登リ充分考案シテ、先ツ大体ノ見分是ニテ足レリト称シテ帰京セリ、人皆謂フ、此ノ事業ニ関シ斯ル測量家ヲ斯ル適当ノ案内セシ事古今始メテノ事ナリト
四月一日測標ヲ四処ニ設置セントス、其ノ願書左ノ如シ
    測標設置ノ儀ニ付願
 印旛手賀両沼測量ノ為メ工師デレーキ氏出張相成設計ノ都合ニ拠リ左ノ個所ニ測標打立可申トノ指図ニ有之、自費ヲ以テ建設致度候間御許容被下度、此段奉願候也
                   総代
  明治二十二年四月一日
                      鈴木安武
    千葉県知事 石田英吉殿
 一印旛郡行徳新田官有拾七番地先官有地
 一同  安食卜杭新田官有三百九拾壱番地先官有地
 一同  発作村字セキワク官有地
 一千葉郡平戸村字扇堀官有地
立田貫一郎大和田ニ滞在測標設置ニ従事ス、是日布佐町伊勢屋ヨリ概況ヲ織田完之ニ報ス
 昨三十一日行徳新田・安食卜杭新田ヲ済シ勝屋滞在、今一日同所出足布佐町ヘ十時着、発作村堰枠橋際ヘ量水標打立、二時三十分布佐町伊勢屋ニ引上、明二日大和田ヘ引上、総代ニハ佐倉ヘ基点石注文旁罷越、明後三日帰京ノ積リ云々
同四日織田完之一書ヲ桜井勉氏ニ送ル、尋テ答書ヲ得ル左ノ如シ
 印旛工事快甚妙甚一層御尽力有之度候、荒井ヘハ伝語可致候、病間疎慵御高恕可被下候也
  四月四日                    勉
    織田君

織田、宮原直尭氏・中村義也氏ト共ニデレーキ氏ニ面話ス、デレーキ氏曰ハク、局長ノ命令書ハ願人ノ意ト合スルヤ否ヤト、宮原氏第一条ヲ示ス、印旛沼全形開墾云々トアリ、織田願書ノ扣ヲ取出シ、宮原氏ニ嘱シテ通弁セシム、デレーキ氏乃チ之ヲ局長ヨリ示メサレタルモノニ記入セリ、蓋シデレーキ氏ノ局長ヨリ示サレタルモノハ、即チ曩ニムルデル氏ニ示メサレタル所ノモノナルベシト云フ
同五日織田完之検見川ノ水位記六十二冊明治六年手賀沼浅深測量調等ヲ中村義也・宮原直尭両氏ニ示ス、是上総屋ノ所蔵ナリ
同六日織田完之、今井貞吉・守田宝丹両氏ニ下谷仲町十番地ニ面会シ今井氏ニ印旛ノ事ヲ詳述ス、語次野中兼山治水ノ事蹟ニ及フ、今井氏
 - 第13巻 p.138 -ページ画像 
曰ハク、嘗テ聞ク兼山ノ土州ニ於テ水ヲ治ムルヤ其ノ測量ハ夜間ヲ以テス、提灯ヲ竿頭ニ縛シ一町毎ニ立テ一直線ニ之ヲ見渡シ、其ノ低キハ高カラシメ、其ノ高キハ低カラシメ平衡ニ至テ止ム、翌朝其ノ竿灯下ノ長短ニヨリ高低測量ノ図ヲ作ル頗ル明了ナリト、是一策ナリ、又芋芿ヲ人民ヨリ徴納シ之ヲ石上ニ焼キテ石ヲ砕キ隧道ヲ作ルト云フ、其ノ土坪ヲ除クヤ、米何石ニ比例シテ給与法ヲ設ケタリト云フ
同七日石井新吾氏ヨリ来書アリ、左ノ如シ
 弥御健康大慶ニ奉存候、陳者近日船橋ヲ過キ検見川ヘ御出張若シ船橋泊トナル時旅宿御問合セノ旨承知仕候、九日市佐渡屋磯崎勘兵衛ト申旅籠屋如何ニ御座候哉、同店ヘハ内々為申含置候間御都合次第御旅宿奉願候
 一大槻様海面葦クゴ等試植之義ハ、船橋町海神地先ヨリ九日市地先ヘ掛ケ凡五十町歩許ト見込、不日植込ノ都合ニ御座候
 一当駅ハ町村制実施ニ付海神九日市五日市ヲ合テ船橋町ト改称相成候間、此段申上候 頓首拝復
  四月七日                石井新吾
    織田完之殿

尋テ船橋旅宿ハ蔦屋滝口長兵衛ノ家尤モ宜キヲ再報ス、佐渡屋ハ成田講ノ宿泊多キヲ以テナリ

同八日織田完之小野友五郎氏ニ面会シ、手賀沼浅深測量ノ事ヲ聞ク、云ハク、先年僧侶佐竹恵順ナル智恩院役僧《(知)》ニ頼マレ測量費四百円ヲ以テ従事セシモ処理宜キヲ得ズ、今尚県庁ニ借貸ノ論了ラズ其ノ図アレトモ公然見ル能ハズト云、又云ハク、手賀沼中心ハ五尺ナリ、自余沿岸ハ水中モ多ク地券ヲ受ケタリ、当時奸策ヲ廻ラセシ者ノ所為ナリト又云ハク手賀ノ事ヲ詳知セシト欲セハ宜ク武藤郡長ニ聞ベシト
同九日金原明善氏、去ル四日遠州豊田郡浦川ヨリ発スル所ノ書来ル、左ノ如シ
 下総神崎ヨリノ御報書昨夜相達繰返シ拝見仕候処、先以不相替御精神ニテ今日迄之処ヘ御漕付ニ相成難有、此上ハ役者モ追々本気ニ乗込可申候、自分諸持用多忙故頓ト御無音仕候、乍憚鈴木氏始メ其他ノ諸君ヘモ万宜敷奉願上候、最早一応御繰上歟又ハ御出先ハ不相分無拠東京ヘ向ケ鳥渡御返事申上候、当地植木モ都合能取運候間是又御安心可被下候、扠申上候迄モ無之候得共、デレーキ氏充分ノ見込相立呉候様仕度、仮令入費ハ多分相掛候共、誠以大切ノ場合ニ付宜ク御賢考可被下候、渋沢君抔ハ十分骨折候様為致度候、尊君等計リニ斯迄御辛労相掛恐入候也 拝復
  四月四日                金原明善
    織田完之様

昨夜沢太郎左衛門氏デレーキ氏ニ面話ス、是日織田ノ宅ニ来訪其ノ事ヲ語ル、曰ハク、デレーキ氏ハ来五月ノ利根川安食口ノ高水如何ヲ知ランコトヲ要ス、之ヲ知ルヲ得ハ判然意見ヲ陳フベシト云フ、又曰ク
 - 第13巻 p.139 -ページ画像 
是迄各地ノ招聘ニ応シタルガ此ノ度ノ如ク懇待ノ事ハ未タ曾テアラサリキ、印旛工事ハ必ス成ルヘシト云々
同十一日高島嘉右衛門氏織田ノ宅ニ来訪シ、近日印旛地方ヲ一巡センコトヲ約ス
土木局ハ手賀沼実測図ヲ千葉県ヨリ借用スヘキ旨ヲ大明会ニ達ス、左ノ如シ
 兼テ工師デレーキ氏ヘ御申出相成候手賀沼実測図ノ義ハ、一応御会ヨリ県庁ヘ御請求相成候方可然旨次長ヨリ申聞之次第モ有之候ニ付右様御了知相成度、然ルニ右ハ工師ニ於テ至急ヲ要スル趣ニ付迅速取寄方御取計相成度、且右ト同時ニ県庁ニ於テ観測之雨量表モ入用ニ付、御借入ノ上至急御回付有之度、此段申進候也
  追テ図面並ニ雨量表モ他ニ貸出シヲ好マサル場合ニ於テハ謄写ノ上御持参相成候テモ差支無之候、此段申添候也
  廿二年四月十一日       土木局治水課(印)
    大明会
      織田完之殿

同十二日織田完之ハ小宮山昌寿氏ニ陸軍参謀本部ニ於テ調製セル印旛手賀両沼ノ図ノ事ヲ聞ク、此ノ図ハ明治十七年頃ノ測量ニ係リ、東京霊岸島海面水位表満干ノ中等ヲ例トシ「メートル」ニテ示スモノニシテ基点表ハ確ナリト、是日立田貫一郎ニ命シ之ヲ兵林館ニ購ハシム
同十四日東京測量会社員守下精測量ノ為メ立田貫一郎ト安食ニ赴ク、是日鈴木安武ハ手賀沼ノ図並ニ雨水表ヲ借ランカ為メ千葉県ニ赴ク
同十六日守下精安食梶谷方ヨリ書ヲ織田完之ニ致シ、至急中村義也氏ノ出張ヲ請フ、実施ニ臨ミ協議ヲ要スル事アルヲ以テナリ、又鈴木安武千葉梅松屋ヨリ左ノ書ヲ致ス
 昨日千葉ヘ着、直ニ宮田土木課長ヘ図面ノ儀相願候処、該図面ハ本願人ヨリ測量費納メ不足今以上納不致候ニ付他ニ貸渡候事不相成候趣申聞候、尤知事ハ成田ヘ参ラレ不在本日帰県ト申事ニ付午後迄待居候処、出庁被致候間暫時借用ノ儀申入候得共、課長ノ申聞ト同様ニ御座候、不日何トカ処分致候上ニ候ヘハ貸渡差支無之ト被申候、右ノ次第ニ付致方無之、仍テ小野友五郎氏ヘ事情御聞取相成度、願人ハ何ト申仁ニ有之候哉、宮田ニモ存不申、取調ノ上処分可致ト申事ニ候、不取敢右申上候、篤ト御勘考被下度候也
  四月十五日               鈴木安武
    織田完之殿
  只今ヨリハ当所引上ケ検見川ヘ一泊致ス積ニ候

尋テ織田ハ小野友五郎氏ヲ新銀町ニ訪ヒ、手賀沼関係ノ僧ハ西京知恩院ノ役僧ニシテ佐竹恵順ナル事ヲ聞ク、但方今ハ西京ニ帰レリト云フ光永弘道氏書ヲ以テ挙業ヲ賀ス、其ノ略ニ曰ハク
 近来ハ参田及印旛ノ事務頗ル御繁忙之由河原田ヨリ伝承精神一到遂ニ今日ニ至ルノ御成功万賀之至奉存候、余ハ後信ニ可申上候 頓首
  四月十六日                  弘道
 - 第13巻 p.140 -ページ画像 
    完之様

是ヨリ先キ織田、船橋ノ石井新吾ニ標石等ノ事ヲ委嘱ス、是日運漕等ノ現況ヲ報ス、左ノ如シ
 平戸ヘ御建設可相成候標石ハ金子栄次郎義東京問屋ニ見立置候義ニテ、過ル十二日貴書配達ニ付直ニ着手方申示シ候ヨリ運漕ノ船右問屋ヘ差向候得共、風順悪敷碇泊致居リ候ヨリ延引、甚タ不行届ノ段奉謝候、然レ共今晩ハ是非帰船可相成候間、明日中ニハ無相違平戸ヘ回送可致都合ニ手配致置候、砂利ハ昨日植草氏ニ託シ送付致置候
 一安食ヨリ深浅測量御着手之旨拝承仕候
 一若林高孝君ヘハ御面会之節宜敷奉願候
 右取急御返酬迄申上候 早々拝復
  四月十六日               石井新吾
    織田完之様

同十七日近藤瓶城氏印旛事業ヲ賛成シ、応分ノ金ヲ投シテ加盟者タラント欲ス云々ヲ之ヲ織田完之ニ照会ス
其ノ略ニ曰ハク
 拝啓過日ハ失敬致候、其砌少々小口ヲ出シ置候彼ノ印旛ノ件羨然之至ニ堪ヘス国許ヘ談合致候事有之、然ルニ夜前電報来リスグコイツゴウスルト申来リ候、其訳ハ彼ノ御事業アラマシヲ申遣シ、老拙モ元来ハ雪中御同伴ヲナセシ同臭味難忘云々
午十二時織田家ヲ出テ車行安食村ニ至リ、守下精ニ梶谷与助方ニ面話ス、守下曰ハク、今日安食川口ヨリ沼口迄一里十二町測量ヲ畢ル、明日再訂シテ中村義也氏ノ入来ヲ待ツノ胸算ナリ、故ニ鈴木安武氏ハ今日帰京セリト
同十八日織田完之等午前九時ヨリ宿ヲ出テ安食橋東量水標主任増淵九助ノ裏ニアル基点ヨリ測量ヲ始ム、此ノ基点石ハ明治十八年五月内務省ニ於テ造ル所ニシテ、江戸川尻ノ水位標ニ拠ルト云フ、川ヲ渡リ卜杭新田川通リヲ測量シテ近藤治郎右衛門ノ宅ニ到リ茶ヲ喫ス、織田ハ測量ヲ見ルコト七時前ヨリ八時迄ニシテ北去シ、車ヲ命シ諸戸ノ浜迄四里来ル、幸ニ渡船直ニ達ス、臼井ニ午食シ、四里半千葉町ニ達ス、此ノ間四ツ街道ト称スル千葉ヨリ佐倉ニ連ナル路ノ左右桜樹多ク数十町ノ間東風香雪ヲ翻ヘシ小金井ノ堤ヲ過ル如シ、県庁ニ至レハ四時過宮田保太郎氏ニ面会、雨量表ヲ問フ、農務課已ニ退ク此ノ書ハ綴込ミテ表式ニハ出来テ居ラスト、又東京ノ観測課ノ製表明了ニシテ大同小異ナリト云フ、織田ハ小野友五郎氏ノ書翰ヲ出シ示ス此ノ書柬ハ手賀沼関係ノ僧佐竹某ノ事十六日ノ条参看スヘシ已ニシテ出去リ、登戸千葉銀行ニ来レハ日暮ニ近シ、池田栄亮氏ニ面会シ談話少時、直ニ車ヲ雇ヒ船橋海老屋ニ来宿ス、石井新吾氏ニ面会シ、海面葦植等ノ事ヲ聞ク
同十九日織田午前九時旅宿ヲ出テ意富比神境ヲ一覧シテ去リ、高谷村ニ車ヲ馳セ清沢半右衛門氏ニ面話シ、金拾五円ヲ託シ葦「クゴ」植付ノ事ヲ嘱ス、清沢氏大ニ悦ヒ振テ従事セント云フ、同氏書写スル所ノ
 - 第13巻 p.141 -ページ画像 
印旛沼天保工事ノ時五諸侯分担ノ絵図ヲ贈ル、此ノモノ船橋佐渡屋ヨリ借写スル所ナリト云フ、十一時去テ、行徳ヨリ滊船ニ搭シ十二時帰京ス、家ニ帰レハ金原明善氏ヨリノ来書アリ、左ノ如シ
 本月九日出之御細書謹読仕候、段々巨細御通シ被下誠以難有、是皆御精神ノ一途ニ出候ヨリ兎ニ角今日迄御漕付被遊候間、此上ハ蘭工師ニ見込相立田畑作興損益ノ算用ニ至リ右ニテ進退相決候時ハ先々対国家ノ務ハ全ク十分ト可申上歟、又東京湾蘭工師巡見ノ事並ニ彼先生鈴木氏ヘ応接之辺共委曲拝承仕候、是又其内品川子爵前田君等ヘ御逢モ被下候得ハ乍憚万宜ク奉願候、小生モ本月中ニハ帰京之心算、其上拝眉万々可奉伺候也、乍末筆大関係ノ諸君ヘ宜ク願上候也尚々本月十一日出ノ貴書拝見一々大慶罷在候尚此上宜ク願上候云云

同十九日鈴木安武氏、中村義也氏ト測量地ニ赴ク
同廿二日織田完之一書ヲ宮原直尭氏ニ送ル、大要、雨量表ハ千葉県ニ製表シタルモノナシ、千葉県人ノ説ニ東京地理観測課ノモノヲ正当トス、故ニ之ヲ代用スル如何、又安食量水標ハ増淵九助十八年経験ス、之ヲ参考スル如何ト云フニアリ
同二十四日デレーキ氏来ル、廿六日ヲ以テ東京検見川間ノ海浜ヲ巡見セントス、是日土木局ヨリ左ノ通知アリ
 兼テ工師デレーキヨリ御談申候東京検見川間海浜巡見ノ儀ハ、明後廿六日午前八時半頃当地出発、船橋検見川間巡視ノ上船橋一泊、翌廿七日江戸川船橋間海辺巡視ノ事ニ決定致候間、御両君之内御出会相成度、此段工師ノ申付ニヨリ及御通知候也
               治水課
  明治二十二年四月廿四日
                 内務属 宮原直尭(印)
    鈴木安武殿
    織田完之殿
  追テ本文出発之時限工師宅迄御来会相成候様致度候也

尋テ廿六日ノ発程ヲ停メ廿九日トス
同二十六日是ヨリ先キ金原明善氏遠州ヨリ帰京ス、是日織田之ヲ金杉村ニ訪ヒ、一別以来事業浮沈ノ景況等ヲ語ル、金原氏大ニ其成蹟ヲ悦フ、同氏又明日遠州ニ赴キ来月十五日頃帰京スト云フ
同二十八日河原田盛美氏織田ノ下総行ヲ聞キ、左ノ書ヲ寄ス
 昨日今朝両度之御示諭拝承仕候、蘭工師御同伴検見川出張ノ趣追々測量確定ノ事ト奉賀候、先年検見川沿海ニテ鯨骨ヲ掘出シ候事有之ヲ以テ見レハ彼辺モ深キ海ナリシ事ヲ推知セラレ候、又成田佐倉辺ノ地中ヨリ種々ノ介殻ヲ掘出ス事アリ、此間モ柳・田中両議官将門山ヨリ「ミルクヒ」、「アカヽヒ」、「ヲヽノカヒ」、「アサリ」、「ハマグリ」等目下無之大ナルモノ数十個ヲ掘出シ携帯アリ、此地ニ利根川ヲ通スルノ容易ナルヘキ参考迄ニ一寸申上候、此節公務及伝習所水産会等多忙ニ付心付迄申上候 早々頓首
  四月廿八日                河原田
    織田様

 - 第13巻 p.142 -ページ画像 
同二十九日デレーケ氏東京検見川間ノ巡視ニ赴ク、是日八時半織田完之腕車四輛ヲ率ヒデレーケ氏ノ宅ニ行ク、宮原直尭氏先テアリ、既ニシテ中村義也氏来ル、乃チ車ヲ馳セ市川ニ到レハ兵隊塡塞人馬山ノ如シ、渡船甚タ艱ム、容易渡ルヘカラス、終ニ南堤ヲ過キ材木河岸ヨリ東ニ渡リ、限上ヲ過キ一里余ニシテ河原村ニ出テ、田尻ヲ経テ船橋ニ到リ午食、更ニ検見川ヲ巡見シ鈴木安武ニ面会ス、其ノ検見川ヲ巡見スルヤ、デレーキ氏干潟ヲ一望シテ曰ハク、麁朶砂留ノ試験三百円モ費ストキハ将来必用ノ基礎トナルヘシト、鈴木ハ量水標ヲ立ルカ為メニ同所ニ泊リ、蘭工師ト共ニ四名船橋蔦屋ニ泊ル、石井新吾・石井平右衛門其他東京某等来見、盃ヲ挙テ夜十時ニ至ル、清沢半右衛門モ来訪植葦ノ事ヲ語ル
此ノ朝織田ハ守下精ノ安食村ヨリ発セル書ヲ得タリ
 拝啓当地方事業上ノ事ハ定メシ鈴木氏ヨリ御聞取リノ事ト存候、手賀沼ノ方ハ跡廻シニ致シ長門川々口ヨリ沼口迄一里十二町之平面測量ニ従事可致旨デレーケ氏ヨリノ注文ニテ、以来専ラ此事業ニ取リ掛居候得共、生憎雨天勝ニテ意ノ如ク捗取リ不申、今日迄之成蹟ヲ以テ推ス時ハ迚モ本月中ニハ切上ケ方無覚束、来月二三日頃迄ハ相掛リ可申、此儀御含可被下候 匆々頓首
  四月廿七日                   精拝
    織田老台坐下

同三十日午前九時デレーケ氏ノ一行船橋蔦屋ヲ発シ、海辺ヲ巡見ス、デレーケ氏海神村ノ地先ニ於テ泥土ヲ試拈シ曰ハク、是中等以上ノ土性ナリ、之ヲ開墾スル宜シ、沖ニ隄ヲ築カバ隄外ハ塩田トシテ隄内ハ水田ナルヘシト、一巡シテ二股ノ虎ガ餅ニ来ル、清沢半右衛門已ニ来リ待ツ、デレーケ氏ハ此処ヨリ車ヲ馳セ行徳駅四丁目信楽屋ニ至リ、案内者ヲ雇テ海辺ヲ一巡ス、其ノ干潟ノ広漠タルヲ観ルヤデレーケ氏モ感情多シト云フ
午食シテ湊、押切ノ中間掘割スヘキ処ヲ巡見ス、デレーケ氏大ニ感スル所アリテ曰ハク、此壮観ニ対シテ三堀ノコトハ凡テ打忘ルヽニ至レリト、湊村ノ基点測杭ヲ見テ記帳シ、今井ヨリ川ヲ渡リ新川口通リノ水量ヲ巡見シテ帰京ス
五月二日立田貫一郎安食村ヨリ川口ノ水位表測量事務ノ概況等ヲ報ス
 別紙長門川之口安食川口印旛沼落口ノ事量水標最高低平均取調可差出旨命ニ拠リ、草稿ノマヽ差出申候間、御一見ノ上御取捨被下度候、尚本年四月(廿九日)最高ノ水位左ニ申上候
  長門川口量水位   午前七時  六尺三寸
  行徳新田同上    午前六時  五尺六寸
  安食卜杭新田同上  午前八時  六尺七寸五分
   追々減水ノ模様、今一日六時ニ於テハ川口水位五尺八寸五分ト減シ申候

  明治十九年ヨリ同廿一年ニ至ル三ケ年間安喰川口最高低水位及平均表
 - 第13巻 p.143 -ページ画像 

  年月      最高水   最低水   高低平均
           尺     尺     尺
 十九年 一月   三、四〇  一、五〇  二、四五
     二月     八五    一〇    四八
     三月   一、一五    一〇    六二
     四月   三、五五    二〇  一、八八
     五月   四、七〇  一、〇〇  二、八五
     六月   三、二五    一〇  一、六八
     七月   二、六〇    〇〇  一、三〇
     八月   一、〇〇    〇〇    五〇
     九月   七、四五   、〇五  三、七五
     十月   八、五五  二、八〇  五、六八
     十一月  六、〇〇  二、六〇  四、三〇
     十二月  三、五〇    八五  二、一八
 二十年 一月   二、一〇    四五  一、二八
     二月   二、五〇    二五  一、三八
     三月   二、九五    〇五  一、五〇
     四月   二、九〇  一、二〇  二、〇五
     五月   三、一〇  一、一〇  二、一〇
     六月  一一、五〇  三、一〇  七、三〇
     七月  一〇、三〇  二、三五  六、三三
     八月   六、七〇  一、六〇  四、一五
     九月   二、四〇  一、〇〇  一、七〇
     十月   八、九九  一、九五  五、四五
     十一月  二、九五    九五  一、九五
     十二月    九五    二〇    五八
 廿一年 一月     四五    〇〇    二三
     二月     四五    一五    三〇
     三月     四五    〇〇    二三
     四月   三、二五    三〇  一、七八
     五月   四、〇五    八〇  二、四三
     六月   四、〇五    六〇  二、三三
     七月  一二、五五    〇〇  六、二八
     八月  一三、〇五  一、五〇  七、二八
     九月   五、三五  二、四〇  三、八八
     十月   七、一五  二、四〇  四、七八
     十一月  五、一〇  二、六〇  三、八五
     十二月  三、一五  一、二〇  二、一八


廿二年四月十六日、行徳新田ノ水量、八時五十分ニ於テ二尺三寸弱、八時ニ於テ卜杭新田ノ水量三尺三寸弱ニシテ一定ノ水位ニ拠リ測定シタル長門川ノ川幅ハ、利根川ノ印旛沼落口五十三間余、夫ヨリ四町ヲ距リ二十七間、八町ヲ距リ二十三間、十二町ヲ距リ二十九間、十六町ヲ距リ二十七間半、二十町ヲ距リ三十間半、二十四町ヲ距リ三十二間半、二十八町ヲ距リ二十六間半、三十二町ヲ距リ二十七間半、一里ヲ
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距リ二十三間半、一里四町ヲ距リ二十七間、一里八町ヲ距リ十三間半一里十二町ヲ距リ十二間ニシテ、夫レヨリ凡四十間ヲ距リ印旛沼ニ至ル
又水位標ハ行徳新田ヲ基本トシテ、利根川ノ方ニ距ル二十二丁四十一間五合ノ処ニ三十二丁杭アリ、夫ヨリ安食卜杭即チ川口橋台ノ処ニ一標アリ、夫ヨリ八丁十二間ヲ距リ利根川ニ接ス、而シテ其ノ水量ハ左ノ如シ

           安食卜杭          行徳新田
  月日     時分      水量     時分     水量
 四月十五日 午前八時五十分 三尺四寸五分 午後二時三十分 二尺四寸
 同十六日  午前八時    三尺二寸五分 午後八時五十分 二尺三寸
 同十八日  午前九時三十分 二尺九寸五分 午後一時五十分 二尺一寸五分

○中略
同○明治二二年五月二十二日織田、高島氏ノ家ヲ出テ林屋ニ帰ル、午後四時迄奈良氏ヲ待モ来港ナシ、因テ四時四十分ノ滊車ニ乗リ東京ニ帰リ、鈴木安武ニ逢フ、曰ハク、デレーケ氏ニ面悉万好都合ナリ、工師ノ言ニ二年前此印旛沼ヲ観ルモノナラハ三堀ハ断然謝絶スヘキヲ惜ムベシト又云ハク、印旛沼ハ大利益ノ生スル事疑ヒナシ、試験ヲ要セス直ニ大挙然ルヘシト
此ノ夜高島嘉右衛門氏木挽町ヨリ使ヲ以テ左ノ書ヲ致ス
 拝啓明朝印旛沼ヘ御同道可仕之処無拠用向出来ニ付、明日ハ延引仕候、事済次第尚又日限可申上候、右御断迄早々以上
  五月廿二日               高島嘉右衛門
    織田完之様

同二十三日織田横浜ニ至ル、奈良原氏未タ帰ラス、因テ長者町二丁目松田基ヲ訪フ、松田ハ年来織田ノ家ニ来往シ頻ニ印旛内洋ノ成功ヲ祈望スルモノ、兼テ伊豆石ノ事ニ精キ人物ニテ石品ノ著述アリ
同二十四日午前八時頃砲声ノ轟然タルヲ聞ク、既ニ米船ノ入港ヲ迎フルノ腕車陸続タリ、織田モ馳セテ浜辺ニ到リ小蒸気船ニ搭シテ進ム、奈良原氏欣々トシテ出来ル、頗ル健全ナリ、先ツ山海恙ナキヲ賀シ従テ林屋ニ帰ル、満座皆奈良原氏ノ親戚知人無慮四十余名、坐ニ税関長有島武氏アリ、奈良原氏曰ハク、欧米巡回到ル処治水ノ事業ニ注目シ大ニ発明スル所アリ、実ニ水利ハ将来鉄道ヨリモ望ミアリ、抑物価ノ低廉ヲ競フニハ運河ヨリ善キハ無シ、故ニ大ニ力ヲ本邦運河上ニ尽サントスト、織田ハ印旛沼ノ事業歩ヲ進メタル事ヲ述フ、奈良原氏大ニ悦フ、有島氏亦織田ノ説ヲ傾聴シテ曰ハク、治水ノ事業ハ尤平生好ム所殊ニ印旛ノ事業ハ妙甚シト、一酌ノ後奈良原氏滊車ニ搭シテ帰京ス其ノ神奈川ニ休ムヤ高島氏之ニ乗込、奈良氏ニ面話セリ、織田新橋ヨリ別ル、家ニ帰レハ正午十二時、鈴木安武高島氏ト共ニ来リ、曰ハク今ヨリ下総ニ行ント、直ニ馬車ニ乗リ大和田駅ニ至ル、此処ヨリ更ニ腕車ヲ雇ヒ横戸弁天迄ヲ巡見シテ桝重ニ帰宿セリ
同廿五日朝高島氏以下腕車ヲ雇ヒ平戸ニ到ル、時ニ連日ノ雨印旛ノ水盛ンナリ、平戸橋西ハ渡船ヲ用フ、腕車ヲ馳セ植草兵左衛門ノ宅ニ憩
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ヒ、量水帳ヲ持帰ル」午食シテ又車ヲ馳セ、柏井字印旛沼ヨリ花島ニ到リ、大野長兵衛・渡辺久右衛門ノ二老ヲ招キ細ニ天保工事ノ状況ヲ聞ク、高島ハ老人等ヲ慰労シテ金子ヲ分与シテ曰ハク、織田氏鈴木氏等ノ尽力ヲ賛成センコトヲ望ム云々、二老大ニ悦フ、夫ヨリ検見川ニ出テ上総屋ニ小憩シ、馬車ニテ千葉県千葉町ニ到ル、知事石田氏ハ木更津行ヲ以テ不在、院内ノ一阪氏ヲ訪フ、高島氏ハ印旛開鑿ニ関シ常ニ主張スル所ノ演説アリ、織田ハ蘭工師ノ賛成説ヲ告ク、辞去シテ花見川橋ニ到リ、馬車ヲ下リ浜手ノ量水標ヲ巡見ス、夫ヨリ船橋ニ来リ高島・鈴木ノ両氏ハ帰京シ織田ハ同駅海老屋ニ留ル、内洋巡見ノ為ナリ、石井新吾氏海老屋ニ来訪一酌シ、曩ニ同氏ガ弁スル所ノ平戸ノ基石代ヲ交付ス」石井氏語テ曰ハク、予カ懇意ナル下総埴生郡久住村根本啓蔵ノ知人中村六平ナル者ハ印旛沼天保工事ノ図書ヲ蔵セリ、是其ノ先代中村六郎ハ水野越前守ノ家来ニシテ当時代官ヲ以テ印旛開鑿ニ従事シタリ、故ニ要用ノ書類多シト、因テ借覧方ヲ石井氏ニ託セリ
同二十六日織田帰途葦「クゴ」ノ植付ヲ見ンカ為メ午前十時船橋ヲ発シ、高谷村清沢半右衛門氏ノ宅ニ立寄リ直ニ案内ヲ得テ行クコト十町許、船ニ乗リ新栽ノ処ヲ見ルニ一番二番ハ生育ノ気勢最モ盛ンニ、三番四番ハ稍之ニ次ク、見了テ清沢氏方ニ帰リ来レハ同氏酒ヲ出ス、織田印旛ノ事ヲ語ル、清沢氏大ニ悦フ、已ニシテ去リ行徳ニ来リ滊船ニ搭シテ帰京ス、此日池田栄亮氏ヲ訪フテ面話シ、来ル二十八日采芳亭ニ会センコトヲ約ス
同二十七日去ル十七日測量図ヲデレーケ氏ニ示スヤ長門川ノ件尚自沼口至利根川平面測量図、同高低縦横断面図ヲ注文セリ、因テ守下精之ニ従事ス、是ニ至テ成リ、之ヲ内務省中村義也氏ニ交付ス
同三十一日織田完之ハ奈良原繁氏ヲ訪ヒ、印旛事業ノ現況及ヒ工師ノ意見書成ルヲ俟テ磯長得三氏等ト相謀リ研究ノ末起業ノ計画ニ取掛ルヘキ事等ヲ面話ス、奈良原氏曰ハク明朝通弁宮原直尭氏ト金原明善氏ノ入来ヲ要ス、又曰ハク近日閑ヲ得ハ先ツ高島渋沢二氏ニ逢ヒ、其ノ他某々ニ談話シテ事宜ヲ謀ルヘシト
○中略
同○明治二二年六月五日奈良原氏デレーケ氏ニ面話ス、デレーケ氏其ノ意見ノ符合スルヲ悦フト云フ
同九日工師デレーケ氏ノ印旛巡見ノ報告書訳成ル、印旛運河計画報告ト題セリト聞ク
同十日織田完之一書ヲ奈良原氏ニ送ル、左ノ如シ
 拝啓蘭工師御面話相成候由工師モ水運ノ今日ニ急要ナル意見符合致シ悦居候哉ニ伝聞仕候、工師報告書モ訳成リ内々一見モ仕候
 印旛手賀両沼拝借願書モ作置申候、連名ノ義誰々ト云事御勘考是祈早ク進達仕度存候也
  明治二十二年六月十日          織田完之
    奈良原繁殿
○中略
同○明治二二年六月十八日織田完之奈良原繁氏ヲ鉄道会社ニ訪ヒ、デレーケ氏ノ意見書ヲ示ス、同氏曰ハク熟覧ノ上某々ニ協議シテ挙否ヲ決スヘシ
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又近日高島氏ノ宅ヲ訪フヘシト
同二十二日高島嘉右衛門氏織田完之ヲ訪フ、曰ハク曩ニ奈良原氏ト面話セリト、織田曰ハク事業ノ大体ニ付テ述ヘンニ、奈良原氏ヲ社長ト為シ、百万円モ株ヲ募リ、内一万五千円ヲ以テ浚渫ニ着手シ、尋テ印旛手賀両沼ヲ借用シ、之ニ併スルニ内洋ヲ以テセハ算査ノ立タサルコトハ無カルヘシ、第一ニ許可ノ分ヲ浚渫シ又大和田以南ヲ浚渫シテ洪水ヲ竢ツ等頗ル妙ナラント、高島氏曰ハク善シ、奈良原氏ヲ促シ某々ト協議スヘシト
宮原直尭氏ヨリ量水標ノ事工師報告書等ノ事ヲ織田・鈴木両名ニ通知ス、左ノ如シ
 拝啓印旛手賀両沼ヘ御建設相成候量水標見張記帳之儀ハ何時迄継続スヘキカノ御問合セ有之候趣、中村義也氏ヨリ伝聞致候ニ付工師ヘ問合セ候処、当夏季中ハ右番ヲ廃セサル様致度ト申居候、此段御承知置被下度候、扨又工師報告書ハ千葉県ヲ経テ御手元ヘ可相回様立案已ニ昨日回議ニ付シ置候間、最早数日之内ニ該書ヲ御覧ニ相成事ト存奉賀候、詳細ハ又々拝眉ノ上可申述候 匆々不宣
  六月廿二日               宮原直尭
    織田完之殿
    鈴木安武殿

同二十四日是ヨリ先キ織田完之工師ノ報告書ヲ一見ス、既ニシテ不日下付ノ報アリ、是ニ至テ一書ヲ奈良原繁氏ニ贈ル、其ノ略ニ曰ハク
 拝啓デレーケ氏報告書モ一昨日土木局ヨリ官房ヘ進達致候由、近日千葉県庁経由交付可相成トノ内報有之、然ル上ハ最早伊藤博文殿始御内話被成下候テ可然歟、磯長帰リ次第該書ヲ以テ談合可仕相待居候、尊慮ノ如ク工師ノ意見ヲミテ磯長モ考案ヲ別ニ書スルコト等モ可然歟、何分三十余章ノ長文其主義ノアル所曖々昧々トシテ明了ナラズ口述ノ趣ト差アリ宜敷御照察奉願候 頓首
  六月廿四日               織田完之
   奈良原繁殿

又金原明善氏ヨリ来書アリ、其ノ略ニ曰ハク
 拝啓扠今朝奈良原先生ヘ為打合置只今鉄道会社ヘ罷出談話ノ末左之通相成申候
 一報告書二冊御都合相付候ハヽ此上三通許御写取伊藤・渋沢・小野等ノ諸君ヘ配置仕度事
 一右書夫々熟覧之上一会相催、其衆評ヲ尽シ将来之処相定メ申度事
 一右書写取御面倒ニ候ハヽ早速渋沢君ヘ御回シ被下然ル後伊藤公ヘ御回シ被下度事
 右之通手順相尽シ慥成事ニ仕、其上大挙スルモ又漸々取運候モ衆議ノ上可然トノコトナリ、高島氏之事モ副長云々相咄候処右モ含意何レ衆議之上云々也、先ハ今日之事如斯ニ御座候 以上
  六月廿四日               金原明善
    織田先生

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同二十七日織田完之金原明善氏ヲ訪フ、金原氏去ル廿四日奈良原繁氏ヲ訪ヒ面話セシ事ヲ語テ曰ハク、予奈良原氏ニ云フ印旛沼事業追々進歩檜舞台ニ押上ケタリ、此ノ上ハ上等役者打揃ヒ可然舞踏相成度、高島氏モ織田氏宅ニテ段々相語リ大ニ奮発ノ状アリ、願クハ奈良原氏百万円ヲ取纏メ画策立ツノ上漸々気勢ヲ進メント、奈良原氏之ヲ諾シテ曰ハク工師ノ説モ尚参考スル所アルヘシト、即書類ヲ受取リ去レリト是ヨリ先キ織田一書ヲ四条正四位ニ贈リ、天明度田沼玄蕃頭ノ事蹟等ヲ問フ、是日回答アリ
 貴翰拝誦候、早速貴酬可仕之処実ハ夫是承合セ延引ニ及候段御海恕可被下候、田沼望氏モ養子ニテ極書生ニ付右様之義ハ不相心得事トハ存候得共、為念申遣候処、果シテ不相分旨ヲ申越シ、水野家之義ハ遺族モ交際不致候間、旧上総菊間藩水野忠敬旧臣之内弊家出入之者有之、不図相咄候処該藩ニテモ当時専ラ関係之義ニ付何程歟御参考可相成書類モ可有之ト存候条、早速申聞取調候様申居候間依頼ニ及置候、猶分リ次第可申上候、先ハ拝答如此候也
  六月廿七日                  隆平
    織田完之君

同三十日下総印旛郡萩山村岩井勝太郎ナル者織田完之宅ニ来訪ス、曰ハク親類瀬戸村武田新吾兵衛ハ終身印旛沼ノコトヲ熱心セリ、其ノ遺志黙止シ難シ、今度印旛沼ノ開墾弥起業ニ至ラハ新五兵衛生前調ヘ置キタル書類ヲ活用セラレンコトヲ希望スト之ヲ出シ示ス、織田其ノ篤志ヲ嘉シ挙業ノ順序ヲ内示ス、且岩井ニ嘱スルニ印旛沼中ノ室戸ト瀬戸ノ距離沿沼各村ノ水害段別等ヲ調査スル事ヲ以テス
是月渋沢栄一氏ヨリ下総香取郡小御門村桜井清二郎氏ノ印旛沼疏通意見書ヲ織田完之ニ転送ス、桜井氏ハ夙ニ印旛疏通ノ必要ヲ感シ屡実地ヲ踏勘シテ水利ヲ考究シ、潜ニ其ノ挙業ヲ希図スル此ニ年アリ、頃者大明会開鑿ノ企テアルヲ聞キ欣喜措ク能ハス、明治三年中疏通ニ関シ大竹某ノ問ニ答フルモノ及ヒ平生該沼ニ関シ薀蓄スル所ノ意見ヲ筆記シ、之ヲ渋沢氏ニ贈リ以テ企業者ノ参考ニ充ツ、是ニ至テ之ヲ織田ニ転送ス、尋テ織田ヨリ桜井氏ニ回答スル左ノ如シ但桜井氏ノ意見書ハ外篇ニ収ム
 六月十三日付ヲ以テ印旛沼疏通ニ関スル件々渋沢氏宛御差送之書類昨日拙家ヘ相廻リ篤ト致披見候処、年来ノ御精神感入候、右ハ参考ノ要用有之書類ニ候間、拙家ニテ止置、同志者ヘモ相示可申、如貴示該事業ハ運河開墾無量之国益実ニ東京帝都之基礎ヲ鞏固ニスル永遠之良図、尤モ非常ノ準備ニモ相成候義与存候間、段々規画ノ末尚工事ノ成否大体之測量ヲ確認致度ト、本年三月中蘭工師デレーケ氏ノ出張ヲ要シ、湖海共ニ巡歴相済今ヤ報告書モ近々出来可致ト存候其報告書ヲ得テ後協議ノ上ニ組織致候積ニ御座候、貴書図中ニ実地墾田見積等別冊有之様相見申候、御所有ナラハ御示被下度存候、先ハ拙者ヨリ回答旁得貴意度如此候也
  明治二十二年七月一日         織田完之
    桜井清次郎殿

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二十二年七月六日大竹昌蔵氏織田完之ヲ訪ヒ先年伊兵衛氏ノ手録ニ係ル利根川普請一冊ヲ示ス、又杉田晋氏来リ白河楽翁公ノ全唐紙ニ親書シテ河村瑞軒ノ子孫ニ与フル所ノ十四字即チ先天下之憂而憂後天下之楽而楽ノ二行ノ右摺一葉ヲ贈ル、曰ク河村銃四郎ヨリ贈ル云々
同七日織田完之ハ高島嘉右衛門氏ヲ訪ヒ上州前橋木部決ナル者ノ印旛沼開鑿ノ意見書ヲ見ル、本書ハ外編ニ収ム
福沢重香氏ノ紹介ニヨリ小川町ノ歯科医小川興社氏ヲ訪ヒ、印旛沼開懇ノ意見ヲ聞ク、意見ノ大要ハ安食川下一里許中流ニ土手ヲ築キ、沼水ヲ乾涸スル時ハ開墾成ルト云フニアリ、又佐倉町ノ米屋ノ隠居印旛開墾ニ熱心ナリ、且吉田伝左衛門ハ沼縁ニ山林田地等ヲ多ク所有スル豪家ナリ云々
内藤耻叟氏ヨリ印旛沼古図及ヒ五諸侯工事分担調書等一冊ヲ織田ニ示ス書類ハ御勘定所御普請方調書外篇ニ収ム
其ノ添書ニ曰ク
 御約束之図書指上申候、新反別三千町余出来候土ハ御成業之上ハ何卒十町歩程モ御配分被下度兼テ御約束申上置候呵々
 右ハ御写之上御返却可被下候
  七月七日                碧海老人
    織田大人

是日下総香取郡小御門村桜井清次郎氏ヨリ左ノ書柬ヲ贈ル
 去二日発ノ芳翰今六日拝誦仕候、小生積年ノ志願書閣下ノ賢覧ヲ得候僥倖奉万謝候、沼中地取調其外所有ノモノ御入用之旨被仰越候得共、右ハ先年同志ノ者当時皆老人両三名昔年ノ古書面等夫々一覧致候モ何レモ考証有用ノモノ無御座、且小生当時ノ知己ハ皆物故被致現今ハ此儀ニ付語フヘキ者無之、然シ沼辺ノ村々ニハ出津ニ吉植庄之助、萩原ニ林萩村、北須賀ニ市右衛門、是等各家ハ先代ヨリ身元富有ノ人ニテ其外山田大佐倉辺ニ前ニ此事業ニ与リ候者幾許有之、是非御入用ニ候ハヽ御案内モ可申上、併シ古調書御覧被成候テモ現今ハ御為メニ成候事ハ有之間敷様ニ相考候、此明治ノ今世ニ着手候ニハ荒漠ノ地ヲ新タニ経画ノ方法宜シカルヘキ歟ト奉存候、右ハ改革以来大ニ民心ヲ動カシ縄張検地等ノ工夫ハ先年トハ趣ヲ異ニシ、即今ハ実地ニ付草創ノ御見込ノ方専要歟トモ愚考仕候、按スルニ此処十分民ノ耳目ヲ新タニ被成候様仕度、右ハ過言ニ可有之哉恐縮候得共小生見込丈ハ懇々ノ命ニ応セスンハアラズ御海容被下度候、相添候ハ先年同志ニ計リ候事ニテ御用ニ相成候モノニハ無之候得共枉テ貴覧ニ呈シ候、兼テ御承知可有之南相馬郡三堀開鑿小生友人モ相関リ居候、話頭ニ四十万円ノ経費ノ由被申聞実ニ驚愕仕候、右ニ付印旛湖疏通始末ノ費用僅七十万円ノ如キハ最モ手軽ノ事ニ御座候得共、旧新比較御賢慮被遊度候、先ハ尊答迄 早々不備
                小御門村字高倉
  明治二十二年七月七日
                      桜井清次郎
    織田完之様

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同八日曩ニ内洋埋立着手ノ期限経過ノ事ヲ以テ千葉県庁ヨリ平山省斎氏ニ督責アルヤ延期ノ追願既ニ数回ニ及ヒタルヲ以テ、此ノ際ハ延期ヲ得ルコト甚タ難シ、是ニ於テ織田完之ハ平山氏ニ代リ、内洋ノ印旛ニ連帯シ、已ニ挙業ノ目的アルヘキヲ官辺ニ懇願シ、特ニ来ル二十三年一月迄ノ延期ヲ聴サレ、平山氏ハ内洋経緯一切ノ処理ヲ織田ニ委託セリ、是ニ至テ織田、平山氏ヲ相州鎌倉郡腰越村ノ寓居ニ訪ヒ、同氏ヨリ大明会員ニ対シ協議シテ内洋処理有之可然ト云フ一書ヲ出サンコトヲ要ス、是レ内洋ヲ印旛ニ連帯シ併セテ平山氏内洋発起ノ功ニ酬ヒンコトヲ予決セント欲スルナリ、平山氏手ヲ拍チ之ヲ可トシ、且近日幾分ノ金ヲ大明会ニ義損センコトヲ約ス
同九日植草兵左衛門印旛沼ニ関スル旧記書類ヲ携ヘ織田ノ宅ニ来ル、中ニ安永年中総深新田名主島田名主等発起シ、大阪天王寺屋浅草長谷川新五郎等ノ金主トナル目論見ニ係ル印旛沼開鑿大積帳アリ、最珍書ト為ス本書ハ外編ニ収ム

    平戸村水腐引方調
四ツ谷御門外松平新九郎元知行所
一本高百弐拾五石         下総国千葉郡平戸村
  此取米八拾弐俵壱斗弐升三合弐夕九才 戸数弐拾壱戸
              但シ定免辻  但四斗入
右ハ印旛沼ノ高水ヲ蒙リ水害ニ困苦致候次第ハ今更申迄モ無之、其一斑ヲ挙レハ元治元丑年六月ノ水、同二寅年六月ノ水、明治元辰年五月大水、同二巳年六月、同三午年六月ノ高水其引方願出聞届相成其後免状写左ノ如シ
    米三拾弐俵三斗六升九合三夕三才    元治元丑年納辻
     外米四拾九俵壱斗五升三合九夕六才 水腐ニ付減
    米弐拾九俵              同二寅年納辻
     外米五拾三俵壱斗弐升三合弐夕九才 同断
葛飾県割印
    米三俵弐斗四升三合九夕        明治元辰年納辻
     外米七拾八俵弐斗八升弐夕     同断
葛飾県 (朱判)米三拾
        四俵三斗壱升五合       同二巳年納辻
     外米四拾七俵壱斗八合弐夕九才   同断
葛飾県割印
    米六俵二斗七升九合          同三午年納辻
     外米七十六俵壱斗弐升三合弐夕九才 同断
右之通水損五ケ年分取調候処無相違御座候也
                   右平戸村
                      植草兵左衛門

デレーケ氏ノ通弁宮原直尭氏印旛運河報告ノ大要ヲ示ス
 他日平戸検見川間ノ掘割已ニ成ルノ場合ニ至リ、彼ノ安食ニ於ケル印旛沼口ヲ今日ノ儘ニ開放シ置カバ高水ノ時大水ヲ沼内ニ引導シテ新田ニ害アリ、故ニ安食辺ニ閘門ヲ設ケ、其開閉ニ依リ通船ニ便シ
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其他常ニ其門ヲ閉鎖シ置カバ印旛手賀両沼ノ開墾並ニ利根江戸両川間ニ安穏便利ノ運河ヲ得ル等ノ大利益アリ
 然レトモ其利益アルコト起業会社ノ為ニハ何程ナリト云フコトハ尚此上実測ヲ遂ケタル後ナラデハ判然セズ
 右ハ蘭工師デレーケ氏報告書ノ主眼トス、但シ詳細ノ事ハ同報告ヲ視テ以テ知ラルヘシ
            麹町区富士見町二丁目二拾壱番地
  明治二十二年七月
                    宮原直尭(印)

同十二日是ヨリ先キ大明会ニ於テデレーケ氏ニ印旛沼開鑿大体ノ審測ヲ要シタル事項ニ関シ審測後ノ大要ヲ聞クコト左ノ如シ
    蘭工師デレーケ氏ヘ印旛沼審測ヲ要シタル四条ノ取調大要ヲキク
第一条 此事業ハ大利益ニシテ運河開鑿ニ必成ヲ期スヘシ、其工事タル平戸ト検見川間ノ川幅何程ヲ要スル等ノ設計ハ報告書ニアリ、尚製図ヲ以テ示サント已ニ製図モ出来セリト云フ
第二条 瀬戸吉高中断ノ事ハ一旦印旛沼ノ水ヲ開放シテ後、新田ノ利ヲ得テ漸次着手スルヲ可トス
第三条 利根川ヨリ検見川海ニ至ル勾倍ノ度多カラサルカ為メニ、盛ンニ土砂ヲ押流シテ塩田ヲ得ル等ノ目的ハ未タ予言スルヲ得ス
第四条 手賀沼ヲ亀成新田ヨリ平戸ニ連絡スルハ費額多シ、寧ロ発作村ヨリ小林新田ニ開通スルノ簡易ナルニシカサルモノカトモ思ヘリ又曰ハク印旛沼ヲ内洋ニ疏通シ利根川ト江戸川ヲ連亘シテ運河トナスノ経費ハ凡百万円ヲ要スヘシ云々
織田完之鈴木安武ト相談シ左ノ実益ヲ記ス
    印旛沼実益概況
 蘭工師デレーキ氏曰ク印旛沼ヲ内洋ニ疏通シ利根川ト江戸川ヲ連亘シテ運河トナスノ経費ハ凡ソ百万円ヲ要スヘキモノナリト、此資本金ニ対スル利益ノ概見ヲ案スルニ印旛手賀ノ両沼及内洋ニ得ル所ノ新田モ其ノ夥キヲ知ル、若シ経理宜キヲ得レバ必ス収益ハ意想外ノ多額ニ達スルモノアラン、先ツ印旛沼ノ干潟新田四千三百余町ヲ一段金弐拾円ニ売却スルモ凡金八拾六万四千円、手賀沼ノ新田弐千四百余町ヲ売却スレハ凡金四拾八万弐千九百余円、内洋埋立ノ新田弐千弐百町ヲ売却スレバ四拾四万円、塩田弐千百六拾町余ヲ仮ニ一段金八円ニ売却スル時ハ凡金拾七万弐千八百余円、又利根川ヨリ印旛沼ニ入ル通船等ノ収得ハ一ケ年凡金四万一千八百円、外ニ小蒸滊船ト筏モ頗ル多カルヘシ、総計弐百万千五百余円ナリ、是此計算ハ憑拠スベキモノヲ参酌シテ仮リニ之ヲ作レリ、尚実測ノ上ハ異同自ラ判別スベシ、縦令其ノ半数ヲ得ルモ永遠ノ国益ナリトス穴賢
  明治二十二年七月十二日
    総算高
一金二百万千五百二拾円     収入総額
  内訳
 金八拾六万四千円
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 是ハ印旛沼長七里幅平均二十町ノ反別六千四百八拾町歩ヲ凡三分シテ一分ノ二千百六拾町歩ヲ運河敷隄防用悪水路等トシ、余リ四千三百二拾町歩ヲ新田トナシ、一反歩平均金二拾円ニ売却スルノ見積リ
金四拾八万二千九百二拾円
 是ハ手賀沼上沼下沼合反別三千二百拾九町五反歩ヲ凡四分シテ一分ノ八百四町九反歩ヲ川敷堤防用悪水路等トシ、余リ二千四百拾四町六反歩ノ新田ヲ一反歩平均金二拾円ニ売却スルノ見積リ
金四拾四万円
 是ハ内洋五千百六拾町歩ヲ検見川ヨリ掘江ニ到ル延長凡八千間川幅三拾間ト見傚シ、八百町歩ヲ川敷堤防用悪水路トシ、余ヲ凡二分シテ二千二百町歩ノ新田ヲ一反歩平均金二拾円ニ売却スルノ見積リ
金拾七万二千八百円
 是ハ前同断余リ二分ノ一、二千百六拾町歩ヲ塩田トナシ、一反歩平均金八円ヲ以テ売却スルノ見積リ
金四万円
 是ハ利根川ヨリ印旛沼運河通船四万艘ト見傚シ、一艘平均金壱円ツヽ徴収スル一ケ年ノ見積リ
  但シ小蒸滊船筏等ノ若キモ此ニ内アリ
金千五百円
 是ハ印旛運河開鑿後沿岸村々新規増殖ノ船五千艘ト見傚シ、一艘平均金三拾銭ヲ徴収スル一ケ年ノ見積リ
金三百円
 是ハ手賀沼ヨリ印旛運河ヘ新規ノ通船千艘ト見傚シ、一艘平均金三拾銭ヲ徴収スル一ケ年ノ見積リ

同十六日鈴木安武デレーケ氏ノ印旛運河報告書ヲ受取カ為メ千葉県ニ到ル、是日左ノ書ヲ致ス
 拝啓宮田氏面会デレーケ氏取調書下付云々申述候処、右ハ昨日午後相達候得共何分多用ニ付半分許見テ部長ニ差出置候、併該書ハ下ケ不申積、其訳ハ内務省土木局ヨリ申越候ニハ願人ニ一応示候テモ差支無之云々有之、且安食口ヘ閘門設候歟不設歟ヲモ取糺シ可申出之達モ有之、其他ニモ種々達モ有之候間、両三日中篤ト取調ノ上書面ヲ以テ沙汰致候趣申聞候間、小生是迄土木局ヘ引合候次第ヲ申述是非々々該報告書御下付被成下度、其上ニテ願度件々モ有之候旨申述両三日ノ内御下付ニ相成候事ナレハ滞在致度ト申候処、部長ニ問合ノ上然ラハ可成明日ノ内取調可申候得共、何分多用ニ付明後日ニ可相成モ難計旨申聞候間、小生ハ滞在其内知事ヘモ面会可致積ニ御座候、宮田氏ハ三堀ノ事モ種々談話有之候得共是ハ御面語ニ譲候、右次第ニ付小生ハ両三日滞在ノ見込ニ御座候、不取敢右申上候也
  七月十六日正午             鈴木安武
    織田完之殿

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同十八日千葉県ヨリデレーケ氏ノ報告書ヲ鈴木安武ニ交付ス其ノ達旨報告書等左ノ如シ
                印旛沼開墾試験願人総代
                      鈴木安武
 県下印旛沼開墾云々ノ件ニ関シ土木局御雇工師デレーキ氏派遣実地見分ノ末今回別紙報告書土木局次長ヘ進呈候旨ヲ以テ本県ヘ回送相成候、右印旛沼ヨリ東京湾ニ通スルノ運河ヲ開鑿スルモ、利根川ト印旛沼トノ間ニ閘門ヲ設置シ川沼間ノ通水路ヲ絶ツニアラサレハ到底願人ノ望ハ達スルコト能ハサル乎、果シテ閘門ヲ設置スルトセハ蓋シ利根川下流ノ関係モ不尠義ニ付、尚其利害得失等篤ト参照可致別紙報告書差示シ候条熟覧ノ上詳細ノ調査ヲ要スル義ニ候ハヽ重テ申出ヘシ
  但工師報告書ハ謄写ノ上本書ハ返却スヘシ
  明治二十二年七月十八日          千葉県
    工師デレーケ印旛運河計画報告捧呈上申及ヒ該報告書訳一冊 附図一葉
右報告書ハ去ル五月二十三日ヲ以テ土木局次長中村孝禧氏ニ呈出スル所ニシテ、内務属宮原直尭氏ノ訳スル所ニ係ル、通編三十六章、紙数凡ソ六十余枚、往年印旛沼ニ着手セル事蹟ノ概況ヨリ縷述シテ現今計画ノ得失ニ及フ、頗ル繁密今略シテ此ニ之ヲ掲ケズ、蓋シ其ノ大要ハ印旛開鑿ノ計画ハ運河ニ於テ東京ヨリ下利根川ニ至ルニ彼ノ利根運河ニ比シ三里五町程ノ捷径ヲ得、旦流勢強大ナルカ為メ途中ニ滞留スルノ不便ナク船橋・検見川・大和田・平戸・佐倉等ヨリ東京迄直接水路ヲ得テ東京ト利根川地トノ水運ハ安食ヨリ上流ノ利根川及ヒ行徳ヨリ上流ノ江戸川ニ浅瀬ヲ生スルモ妨害ヲ感セサル等ノ利アルノミナラス印旛手賀両沼及ヒ内海ノ開墾ニ於テ夥多ナル田産ヲ収ムルニヨリ工費ヲ償テ余リアリ、但其ノ利益ノアル幾許ナルヤハ尚沼中ノ深浅測量ヲ要セサレハ之ヲ明言スルコト能ハス、而シテ其ノ功安食ニ於テ閘門ヲ設クルヲ要ス、若シ之ヲ設ケスシテ印旛放水路《オトシ》ヲ開放シタランニハ高水ノ時大水ヲ沼内ニ引導シテ新田ニ害アルノミナラス、低水ノ際本川ノ水流ヲ減スルノ不利アリ、之ニ加フル至難ノ掘鑿ト高大ナル築堤トヲ要スルヲ以テ経済上為シ得ヘキコトニ非ス、之ニ反シテ閘門ヲ設ケ其ノ開閉ニヨリ通船ニ便シ、其ノ他常ニ之ヲ閉鎖シ置カバ洪水ノ際安食近傍ノ利根川及ヒ其ノ下流ハ従前ヨリ水位高カラスシテ、其ノ減水ノ時ニ於テモ沼中ヨリ流出スル水量ナキヲ以テ之ヲ減殺スル従前ヨリ更ニ速カナラント云フニ在リ

同三十日下総岩井勝太郎織田完之宅ニ来訪シ、印旛沼縁瀬戸吉高辺田畑宅地山林調書ヲ贈ル、又武田新五兵衛明治十年沼縁無難収入段別表アリ、是ハ外編ニ収ム
    自瀬戸村字沼通至吉高村字境田田畑宅地山林調
 合計段別拾七町弐段六畝拾七歩
  地価六千七百拾五円三拾八銭弐厘
    内訳
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  田拾四町壱反九畝弐拾七歩
   地価五千八百八拾六円五銭八厘
  畑壱町弐反五畝弐拾七歩
   地価百弐拾円四拾一銭四厘
  山林壱町弐畝拾六歩
   地価拾弐円七拾五銭壱厘
  宅地弐反九畝壱歩
   地価五拾六円三銭五厘
  荒地弐反四畝弐拾八歩
   地価拾弐銭四厘
  土取場弐反四畝歩
 右ハ瀬戸村武田竹松寺本卯之助ト協議ノ上取調、明治廿二年七月三十日差出ス
                印旛郡萩山新田村
                    岩井勝太郎(印)

八月十四日織田完之伊藤伯ヲ小田原鴎盟館ニ訪ヒ、印旛ノ事速ニ緒ニ就カンコトヲ謀ル、伯曰ハク不日帰京某々ニ面語シテ慫慂スル所アラント、同宿ニ野村靖氏・楫取素彦氏アリ、種々印旛ノ事ヲ語リテ帰ル
同十五日鈴木安武ハ奈良原繁氏ヲ訪ヒ、蘭工師ノ報告書既ニ成ルヲ以テ更ニ磯長得三等ヲ会同シ起工ノ事宜ヲ議センコトヲ要ス、奈良原氏即チ書状ヲ磯長ニ静岡県下富士製紙会社ニ発シテ之ヲ招ク、鈴木ハ去テ渋沢栄一氏ヲ訪ヒ、工師ニ要シタル四条ノ説明ヲ為ス
同十六日渋沢栄一氏集会ノ事ヲ鈴木安武ニ照会ス、其書左ノ如シ
 拝啓然ハ昨日御来議有之候印旛沼一条ニ付奈良原氏其外一同集会之事ハ今朝同氏ト面会打合候処、来ル廿日ニ候得ハ差支無之由小生モ同日ハ繰合罷出可申候間、何卒時刻御指定之上夫々御通知相成候方ト存候、此段至急申上候 匆々不一
  八月十六日               渋沢栄一
    鈴木安武様
因テ鈴木ハ織田ノ宅ニ来リ相謀リ来ル二十日神田開花楼ニ集会ノ事ト決シ之ニ回答シ色川・池田・磯長・金原・高島等ノ諸氏ニ之ヲ通知ス


中外商業新報 第二一五三号〔明治二二年五月三一日〕 印幡沼堀割の大計画(DK130017k-0002)
第13巻 p.153-154 ページ画像

中外商業新報  第二一五三号〔明治二二年五月三一日〕
    印幡沼堀割の大計画
天明の古より幾度となく企てゝは敗れ、為に随分酸辛を嘗めたる人も少からざる彼の有名の大土工下総国印幡沼堀割の事も今や其機熟したりとも云ふべきか、聞く処に拠れば十余名の紳商豪家即ち東京にては奈良原繁・岩崎弥之助・渋沢栄一・西村虎四郎・柏村信・大倉喜八郎・小野義真(其他は聞き漏らせり)横浜の高島嘉右衛門、遠州の金原明善、該沼の近傍取手の鈴木某等の諸氏又某々の両伯爵にも内面には関係せられ、愈々起工の議を決し、高島鈴木の両氏には実地の撿分を終へて両三日前帰京したり、其目論見に拠れば主として霞ケ浦を利するにありて、先つ印幡沼より東京湾へ一条の溝渠を通し、利根の水
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勢其半を分流せしめ、該川の印幡沼より下流の川底を深くし、これと同時に河幅を狭くして舟楫を往来せしめ、而して一方の新溝渠は印幡沼を貫通して利根の河腹に至るなれば該沼をして一条の溝渠と変ぜしむるなり、如此にして霞ケ浦を干潟となし印幡沼利根川の埋地、之を合して良田凡そ十万余町歩を得るの見込なりと云ふ、元来印幡沼霞ケ浦等古より堀割の事を企てゝ皆成らさるは其水底の土質皆木葉蘆茅の朽腐したる如きものにて其量深く此上に築堤せんとするより工事困難にして一旦出水に逢ふときは忽ち崩壊するといふ、今回の工事は最もこれに注意してこれを根底より流失せしむる由、抑も此土工たる全く成就せは国家の利益莫大なるにも拘はらず、大事業にして工費又莫大なるが故に成功の見込あるをも尚捨てゝ顧みざるは遺憾なりとの辺より起りし企てなりとかにて、既に発起人十余名には各自三千五百円つつを出金せし由に聞く