デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
23節 土木・築港
4款 印旛沼開鑿事業
■綱文

第13巻 p.154-164(DK130018k) ページ画像

明治22年8月20日(1889年)

是日栄一、奈良原繁・高島嘉右衛門・小野義真・金原明善・織田完之・鈴木安武ト神田開花楼ニ会シ、印旛沼開鑿事業ヲ議シ、予算書ノ作成及ビ印旛沼・手賀沼拝借願ニ連署ノ件ヲ決シ、尋イデ二十七日右願書ニ栄一等ノ調印ヲ了リ、千葉県庁ニ提出ス。


■資料

印旛沼経緯記内編 (織田完之著) 第二一〇―二三〇頁〔明治二六年七月〕(DK130018k-0001)
第13巻 p.154-164 ページ画像

印旛沼経緯記内編(織田完之著)  第二一〇―二三〇頁〔明治二六年七月〕
同○明治二二年八月十九日織田完之奈良原繁氏ヲ鉄道会社ニ訪ヒ、予メ明日ノ議事問題ヲ一覧ニ供ス、奈良原氏曰ハク明日ノ会長ハ高島氏然ルヘシ予及ヒ渋沢ハ発起人ノ位置ニ立テ尽力スヘシト、織田、磯長得三氏ヲ発起人ニ加ヘンコトヲ談ス、奈良原氏之ヲ是認ス、議事問題左ノ如シ
明治二十二年八月二十日議事
第一条 印旛運河開鑿費凡金壱百万円ト仮定シ、営利事業ノ目的ヲ以テ之ヲ組織スヘキカ如何
第二条 印旛手賀両沼拝借ノ手続ヲナス連署誰々如何
第三条 蘭工師ノ意見ト磯長得三ノ見込ト略相合スルヲ以テ、印旛沼深浅測量及工事設計ハ磯長得三都合次第早速従事可然ヤ如何
第四条 古川筋浚渫ノ着手ハ検見川海ヨリ始ムベシ、先以テ浚渫費凡金壱万五千円繰替支出ノ方如何
第五条 本会ハ東京何処ニ仮事務所ヲ置キ、出張所ヲ先ツ検見川ニ置キ、次ニ大和田ニ置クコト如何
第六条 役員ヲ仮定スル事
 会長
  副会長
   幹事   理事   書記
        測量員
   発起人
 - 第13巻 p.155 -ページ画像 
第七条 金員出納ハ何方ニ嘱スヘキヤ如何

同二十日織田完之開花楼ノ集会ニ先タチ、高島嘉右衛門氏ヲ訪テ曰ハク、貴君ハ諸葛孔明アリト雖トモ其ノ籌策ヲ用ヒサレハ仕方ナシトノ説アリ、曾テ耳朶ニ触ル、今ヤ奈良原氏渋沢氏共ニ会長ノ位置ニ坐スル能ハサレハ、貴君劉玄徳ノ位置ニ立テ尽力アリタシ、孔明ハ別ニ人アルベシト一笑ス、午後二時半、織田・鈴木ト同車開花楼ニ到ル、已ニシテ高島・渋沢・奈良原・小野・金原ノ五氏来会シ、議事ヲ始ム、則チ渋沢氏ハ山県大臣ノ帰朝ヲ待テ大挙当否ノ精査ヲ遂ケントスルノ説アリ、衆議奈良原氏ニ乞テ先ツ大和田以南浚渫費及ヒ地所購入用深浅測量費経費旅費凡ソ金弐万円ノ支出方略ヲ要ス、是ニ於テ高島氏モ奮発拾万円ハ該業ニ投ツヘシ云々ノ説アリ、終ニ渋沢氏始メ皆奈良原氏ノ説ニヨリ金弐万円迄ヲ募集スル事ニ予定シテ予算書ヲ調製スルニ決ス、又、印旛手賀両沼拝借連署ノ事ヲ議定シ、奈良原・渋沢・小野・林・高島・金原・色川・織田・鈴木・磯長・池田ノ十一人トス、此ノ日池田・色川・磯長ノ三氏ハ支吾アルヲ以テ来会セズ
同二十一日磯長得三ハ静岡県下富士郡入山瀬村富士製紙会社ヨリ左ノ書ヲ織田・鈴木両名ニ致ス
 数度ノ尊書拝誦、必昨十九日ハ帰京ノ事ニ致居已ニ余日モ無之候間返事モ不差上候、然ルニ当工事ノ内水防ニ属スル残工事有之候処、二百十日前ニ扣ヘ居リ昨今ノ天気摸様ニ付不得止昨日ハ出京不相叶候得共、昨日ノ天気摸様ニテハ先ツ今朝一番滊車ニテ出発差支無之候間其用意致居候処、今暁ニ至リ愈荒レ摸様ニ相成候得ハ何分当地難逃、乍併是ヨリ天気摸様能キ方ニ相変候ハヽ二番滊車ニテ帰京可仕候得共、只今ノ空摸様ニテハ何分心配ノ至ニ有之甚残念此事ニ御座候
 デレーキ氏意見ニ対スル愚考ノ大要ハ第一策ハ到底行ハレサルヘシ安食口ニ水門ヲ設ケサレハ直ニ印旛沼全面ヲ良田ト成スハ入費多カラン、ナレトモ検見川ニ開放スレハ相応ノ開鑿ハ出来スヘシ、是迄(検見川ニ開放セサル前)ヨリモ早ク土砂ヲ持込ミ(水力ニテ)開墾ハ容易ナルヘシ○干水ノ節安食以下利根川ノ減水云々ノ問題ニハ大和田辺ヨリ平戸辺ノ間適宜ノ場所ニ涸水ノ時検見川ニ向テ多量ノ水ヲ落サヽルノ用ニ充ル水門ヲ設レハ可ナラン、小生ノ意見如斯、尚申上度事山々御座候得共一字書スルニモ天ヲニラメル位ノ秋故要点ノミ 草々
  八月廿日               磯長得三
    織田様
    鈴木様

尋テ左ノ来書アリ
 拝啓昨朝郵書ヲ以テ申上候得ハ昨日中ニ御落手被下候半、当地昨朝以来昨夜迄大雨ト相成防禦ニ甚タ困難仕候、折悪敷天災トハ云ナカラ昨日御会議ノ末席ニ連ナラサリシハ甚タ遺憾ノ至ニ御座候、会議ノ結局ハ如何ニ御座候哉一刻モ早ク伺度奉存候、小生モ今日ト相成
 - 第13巻 p.156 -ページ画像 
候得ハ急キ帰京スルノ要モ無之、兎ニ角御報ヲ待テ帰京スル事トシ只御報ヲノミ奉待候、右得貴意度早々以上
  八月廿一日                 磯長拝
    織田完之殿

同二十二日織田完之静岡県下富士郡入山瀬村ニ至リテ磯長得三ニ面会シ、同氏ヲ発起人ニ加ヘテ沼池拝借ノ願書ニ連署センコトヲ決シタル旨ヲ語ル、同氏大ニ悦フ、又去ル二十日ノ会議ノ景況ヲ細話シ、且今回ノ予算書ノ点撿ヲ要シ之ニ捺印セシム
同二十四日織田完之ハ磯長得三撿印ノ予算書ニ前議案ヲ付ス、又創業以来ノ経費調書及ヒ今回ノ予算書ヲ携テ奈良原・小野・渋沢ノ三氏ヲ訪フ、其ノ書類左ノ如シ
    浚渫測量諸費ノ件
本月廿日会議ノ節決定相成候印旛沼古川筋浚渫費並両沼海面ノ測量諸費金壱万六千九百円磯長得三撿印ノ仮定書別紙ノ通ニ有之、川筋地所購入及沼縁百十村ノ承諾ヲ得ル等ハ至急相運候様致度、右費目金員支出ノ義ハ入用ノ都度御取計有之度、此段稟議候也

    印旛沼古河筋浚渫費予算
 従大和田字六方落至長作村長作橋長三千六百八拾間
 一堀鑿土坪九千百九拾五坪七合    但川敷巾九尺 法二間
   此工費金六千八百九拾六円七拾七銭五厘 但壱坪ニ付七拾五銭
 一泥土留麁朶工長延二千間
   此工費金千円           但壱間ニ付五拾銭
 一架橋七ケ所
   此工費金百七拾五円        但壱ケ所廿五円
 一潰地反別八町八反三畝歩      但川巾及ヒ土捨場用地
      内訳
  壱町歩              官有地借用ノ見込
  七町八反三畝歩          買入
   此代金五千八百七拾二円五拾銭   但壱反歩ニ付金七拾五円
      外ニ
 一金五百円             測量設計工事監督費一式
 一金五百八拾五円七拾二銭五厘    創業ヨリ落成迄役員給及旅費雑費
  合金壱万五千円也

    印旛手賀両沼及海面測量諸費予算
 一両沼及海面測量監督諸費
   此金壱千二百円
 一杭木丸太買上費
   此金弐百円
 一両沼拝借願及各村示談整理費
   此金五百円
  合金壱千九百円

 - 第13巻 p.157 -ページ画像 
同二十七日是ヨリ先キ織田完之沼地拝借ノ願書ヲ起草シ各員ノ調印ヲ了ル、是ニ至テ鈴木安武ヲ携テ千葉県ニ出願ス
    沼地拝借之儀ニ付願
御県下下総国印旛沼ハ広大ノ淮澮ニ有之此水ヲ内洋ニ決導スル時ハ若干ノ新田湖海ノ両方ニ相開ケ、随テ利根川沿水数百村ノ水害ヲ除去シ所謂一善ヲ挙レハ万善之ニ随フノ義ニシテ、殖産興業諸般ノ利用ニ亘リ実ニ東海無双ノ国益ヲ起スコト言語ニ難尽、且廻漕ノ便開クルニ及テハ非常ノ準備ニ供スヘクシテ最モ東京帝都ノ基礎ヲ鞏固ニスルノ大関係ヲ有シ、横浜湾東京湾ノ修港ニ先タチ第一番ニ着手シテ地理ノ大勢ヲ定ムヘキ程ノ盛業ニ可有之ト存候、故ニ私共曾テ印旛沼旧川筋浚渫ノ御許可ヲ蒙リ、已ニ客年中試鑿ノ着手可致ニ際シ同盟中一説起リ既ニ試鑿ヲ要スルヲ待タサル程測量上ニ信スルノ上ハ無論印旛沼中及手賀沼等ヲ連絡スル大経大法ノ規模ヲ定メ、然ル後挙業可致ト更ニ蘭工師ノ出張ヲ願ヒ点検測量ノ意匠ヲ承度旨申出、是又御採納ヲ蒙リ工師ノ出張巡見ノ上其指揮ニ随ヒ、東京測量会社ヨリ一等ノ技手ヲ派遣シ実地取調候処愈以テ事業ノ必成ヲ確信仕候、先以右両沼官地ノ内開墾可相成部分向廿ケ年間開墾ノ為ニ拝借被仰付、成功ノ上ハ無代価御下付被成下候様致度、此段奉願候也
  明治二十二年八月
             東京市湯島切通坂町拾五番地
                  平民
                     織田完之(印)
             同南鍋町二丁目八番地
                  鹿児島県士族
                     磯長得三(印)
             同根岸金杉村四百五十番地
                   静岡県平民
                     金原明善(印)
             茨城県常陸国土浦町
                  平民
                     色川三郎兵衛(印)
             東京市浜町三丁目一番地
                   千葉県平民
                     池田栄亮(印)
             神奈川県神奈川台
                  士族
                     高島嘉右衛門
             東京市麻布東町廿八番地
                     林賢徳(印)
             同浅草橋場町千三百八拾番地
                   高知県士族
                     小野義真(印)
             同飯田町三丁目拾三番地
                  鹿児島県士族
                     奈良原繁(印)
             同兜町壱番地
                   東京府平民
                     渋沢栄一
             茨城県常陸国信太郡阿見村大字鈴木
                  士族
                願人総代 鈴木安武(印)
    千葉県知事 石田英吉殿
前書願出候ニ付奥印候也
 - 第13巻 p.158 -ページ画像 
                信太郡阿見村
  明治廿二年八月廿四日
                 村長 湯原九兵衛

同廿八日織田完之船橋ニ到リ石井新吾氏ニ面悉、夫ヨリ佐倉ニ到テ米屋ニ投ス
同二十九日織田、佐倉ノ郡衙ニ到リ郡長武藤某氏ニ面会シテ沼地拝借願等ノ事ヲ述フ、去テ萩山村ニ到リ岩井勝太郎氏ヲ訪ヒ、同氏ト同船平戸村ニ来リ植草兵左衛門等ニ逢フ
同三十日織田ハ兵左衛門ノ馬ニ乗リ、同人ニ送ラレ行徳ニ来リ滊船ニ乗リ帰京ス
是ヨリ先キ織田ハ青山直道ニ一書ヲ送ル、是日回答書来ル、其ノ略ニ曰ハク
 印旛沼事業モ沼地拝借ノ御出願相成候由、之ヲ筮スルニ夬之臨ヲ得タリ、占曰夬ハ水ヲ決スルノ象ナリ、夬ハ潰ナリ沼ヲ潰シテ田圃トナスノ象、又事業決行ノ象意アリ、臨ハ沢上ニ地アルノ象上卦兌水変シテ坤ノ平地トナル、新田開発ノ象ニシテ臨ハ臨ミ見ルナリ、一望村落ヲ現出スベキモノカ
 右之通相考申候不取敢尊答迄 草々頓首
             滋賀県下大津大工町吉田有成方
  八月廿九日
                      青山直道

同三十一日磯長得三ハ富士郡入山瀬村ヨリ書ヲ織田完之ニ送ル、是日到達ス、其ノ略ニ曰ハク
 当工事モ追々手放候テ差支無之部分ニ相成候ニ付、印旛工事モ凡来月中頃ニハ工事着手ノ運ニ致度、就テハ尚其前取調ヲ要スルコトモアリ又着手手順等モ御相談可致旁来月五六日頃帰京仕度ト存候、御都合如何御座候哉御差支無之候得ハ其運ニ願度、右御都合伺度候而已 早々以上
  八月廿八日               磯長得三
    織田様

因テ織田ヨリ回答スル左ノ如シ
 八月廿八日付之御書面拝読、扨鈴木モ千葉県ヘ出願之上昨日帰京候ニ付夫々御相談致度、可成御繰合一日モ早ク御帰京之程相待居候、右御答迄如此御座候 早々
  八月三十一日

九月四日織田完之下総萩山村岩井勝太郎、小御門村桜井清次郎ノ両氏ニ印旛水害ノ実況ヲ調査センコトヲ嘱ス、是九州中国ノ水害ハ世上ニ喋々スルモ印旛沼頻年ノ水害ハ却テ之ヲ説クモノナシ、年々ノ水害珍ラシカラヌ故ナリ、豈ニ悲惨ノ甚シキモノニ非スヤ
同五日桜井清次郎氏ヨリ左ノ書ヲ致ス
 尊翰奉拝誦候細々御諭示起感之至、陳ハ沼縁村々高帳及ヒ水害等ノ取調御所有之由、既ニ夫等ニテ大略御閊モ有之間敷候、小生先年吉
 - 第13巻 p.159 -ページ画像 
高及北須賀村ニ里正相勤候者ニテ交際ノ人有之、今ハ物故シ候得共当主ニ所蔵有之物ヲ近ク取調御送致可申ト心懸候ニ、是モ回顧候ニ水害場石高調様ノモノナリ、現今ノ惨状等ハ実況ニ立入致シ不申候ハテハ精敷見抜ケ不申ト被存候、小生意見書及ヒ高島先生易占批評等御慰ニ送致候
 右尊答ニ相加ヘ不顧欠敬如此御座候 恐惶頓首
  九月五日                桜井清二郎
    織田完之様
  尚々天明ノ測量ニハ湖面ト海面ト一丈八尺ノ高低ナリトノ記ニシテ天保ニテ一丈前後ノ様ニシルシタルヲ見タリ、実測ハ如何ノモノニ候哉、御序モ御座候ハヽ御示被下度右懇願候也

同八日是ヨリ先キノ調査ニ沼底海面七尺余ノ勾倍アルコト東京測量会社ノ測量ニ詳カナリトス、之ヲ桜井ニ答ヘントシテ未タ果サス
同九日中村清並氏潰地取調方順序ヲ手記シ織田ニ示ス
同十一日暴風雨
下総桜井清二郎ヨリ再ヒ印旛沼疏通意見書ヲ渋沢栄一氏ニ贈ル、尋テ之ヲ織田ニ転送ス

    印旛湖疏通意見
印旛湖ヲ疏通スルノ美挙ハ天明度三丈ヲ掘下ケタルモ果サス天保度ニ至リ更ニ大挙シテ其ノ目的壮快ナルモ亦中道ニシテ止ム、予謭劣事ニ堪ヘサルモ明治ノ三年ヨリ此ノ湖ノ疏通ニ苦慮シテ二三ノ志士ニ謀リシ事アリ、其ノ事或ハ世浴ノ浮言囂噪ヲ厭ヒ敢テ妄リニ喋々スルヲ欲セスト雖トモ、頃者疏通ノ挙アルヲ聞キ黙々ニ付スルニ忍ヒス、其ノ意ノアル所ヲ吐露シテ識者ノ参考ニ供セントス、若シ夫レ疏通ノ功ヲ奏シ四通五達ノ地ト為スニ及デハ六方野習志野八衢両国三里塚ノ六区各所常備兵営三万ノ鋭卒ヲ増シ養フコト容易ニシテ、細ニ之ヲ考案スルトキハ屯田ノ兵ニ比スヘキ衛士ハ宛モ輦下ニ雲集スルト一般富国強兵ノ基礎爰ニ卓立シ、佐倉営所モ亦大ニ勢威ヲ得ヘシ、万一国家ノ大変アルモ一方ノ警備アリ、是レ妄想臆測ニ出ルニアラス悉ク咸現状ノ有形ニ就キテ将来ヲ期スル所ナリ、当路ノ志士最モ意ヲ注クヘキノ大要領ニシテ、予カ官費ヲ仰カント鋭意勇進固陋ヲ忘レテ陳述スル所以ナリ、夫レ万頃ノ耕地目睫ノ間ニ拓ケ其ノ農耕就産ノ如キモ肥料充盈更ニ支吾ナシ、且霞浦銚子港上野ノ二国ハ東北ニ囲繞シ、南ハ東京湾ニ連絡シ其ノ便挙テ算ヘ難シ、当路ノ志士世運ト推移スルノ機会ヲ失ハスシテ天下ノ利益ヲ謀リ兼テ後栄ヲ計ルヘキナリ、眼中ノ人吾老ヒタリ噫
  明治二十二年九月十日         桜井清次郎
 附記湖中ニ落合フ水力南東ノ間ヨリ来ルモノ最モ大ナリ、堤防ノ用意肝要ナリ、玆ニ深遠ノ工夫ヲ用ヒ遥霖暴雨ノ害ヲ除キ、沼辺部落ノ民心ヲ安カラシメヨ、願クハ小風土記ヲ編シ、民情ヲ洞察シ、一目瞭然ノ図志アリタキモノナリ

 - 第13巻 p.160 -ページ画像 
同十二日岩井勝太郎氏ヨリ水害調書ヲ織田完之ニ贈ル、左ノ如シ
 拝啓陳ハ去月中出水之景況及水腐反別損毛高等取調方御相談ニ応ジ別紙之通リ凡ソ見積取調候ヘ共、本年ハ先以テ各村ノ幸福ニシテ大豆ハ勿論早稲等ハ青クモ刈取リ、故ニ損毛ハ先壱分ニ見込、最モ反別ハ旧年ニ比較シ水冠リ反別四分ニ有之候ヘ共、時節宜敷カ為メ損毛僅カナリ、就中利根川縁リノ損毛ナキト云フコトハ、堤ノ中ニ陸流スル水少クシテ土手内ニ水湛ヘナキ故更ニ損毛ハ無之候、先以テ前条ノ次第也、次ニ本月十日ノ大雨、翌十一日午後ヨリ辰巳風ニテ翌十二日ハ天気ナルモ南風ハ烈ク、同日午後ヨリ又々逆水ニ相成沼縁リ人々ハ実ニ困難ヲ極メ、此度ハ先以テ大水ナルヘシトテ稲苅致居候、先ハ急キ乱文而已書外ハ拝願ノ砌万々可申述候 頓首
  九月十三日               岩井勝太郎
    織田完之殿

    水害反別並損毛高取調書
総計反別千六百七拾三町七反八畝拾六歩
 此収穫壱万九千五百四拾壱石壱斗〇九合
  内
  反別六百六拾九町五反ニ畝壱歩 水冠リ
   此収穫千九百五拾四石壱斗壱升九合 損毛高
   此俵四千八百八拾五俵二斗三升壱合
  残反別千四町二反六畝拾五歩
    此収穫壱万七千五百八拾六石九斗九升八合壱勺
    此俵四万三千九百六拾七俵壱斗五升壱合
右ハ本年八月中降雨ノタメ出水、其水量利根川六合、印旛沼四合ノ洪水ニ相成、依テ水冠リ反別及収穫米損毛等取調候処本年ハ時節宜敷ヲ得、大豆ハ早クモ抜取、稲ハ何レモ早稲ヲ大抵青苅ス、故ニ損毛僅少ナリ、又利根川縁リハ内水ノ湛ヘナキ為メ損毛ナシ、依テ水害村々即百拾ケ村ヲ旧年ニ比例シ取調候処、前記之通リ御座候間参考ノ為メ此段上申及置候也
                印旛郡内郷村字萩山
  明治廿二年九月十二日
                      岩井勝太郎
    織田完之殿

又下総桜井氏ヨリ書ヲ致ス
 譲啓毎度御厚情肝銘徹骨ノ至ニ御坐候、弊老貴顕ニ敢テスルモ私情ノ為メニハ無之自然愛国ノ旨ニ有之、尚追々御諭示相成度候、相添候草稿御刪正之上返却御手数希上候
 江戸刀根両川連亘ノ説御示被下、再三閲読実ニ卓見タル感動仕候、御尋ノ儀香取郡ニハ松沢村ト申ハ無之、然レトモ農業要集ハ承リ候事有之様恍惚覚エ申候、尚聞合後便ニ可申上候 恐惶頓首
  九月十二日               桜井清二郎
    織田完之殿
  昨夜ハ大風近隣潰家モ有之由、弊家睫前ノ耕地一面ノ湛水且眼下
 - 第13巻 p.161 -ページ画像 
ノ刀水暴漲シ、堤防ノ人夫等モ出ツヘキ由ニ承及候、御地如何御案思申上候 草々
三河岡崎若林氏ヨリ書ヲ発ス
 謹啓秋冷相催候処高閣益御清福奉大賀候、弥印旛湖浚渫之事業御着手相成候哉、去月二十日大家ノ議決モ相済候趣、積年之御宿願遂ニ今日ノ悦喜ヲ見ルニ至ル、邦家ノ為メ貴家ノ為メ雀躍之至也、曩ニ迂生貴意ニ同ク観検見川記ヲ筆述セシハ、明治十三年八月十五日ナリ、爾来十年常ニ薪水ノ為メニ諸処ニ薄遊シ、専ラ該事ニ従フ能ハスト雖トモ、王畿千里船舶如織肥沃千万町為メニ皇基ノ鞏固ナルモノヲ夢ミルハ其何回ナルヲ知ラス、今ヤ幸ニ迂生カ家政漸ク緒ニ就キ、郷国ニ対スルノ務亦已ニ一分ヲ竭セルカ如シ、又幸ニ創始ニ際スルヲ得タリ、願クハ驥尾ニ付キ応分ノ心身ヲ竭シ、一ハ邦家ノ為メ一ハ重任アル貴下ノ万一ヲ補賛シ、初見以来十五年間一日ノ如キ厚義ニ答ヘシ《(ン)》コトヲ切望ノ至ニ堪ヘス、書余他日ニ譲ル 匆々頓首
  九月十二日              若林高孝拝
    織田完之殿貴下

内務省土木局中村義也氏ノ指示スル量水標条項
    記
一安食村量水標撿査人宅地内ノ基石ヨリ安食卜杭新田及行徳新田量水標零点ノ高低ヲ測ルコト
一利根川筋丁杭二十一里零丁杭近傍布佐村基石ヨリ発作村量水標零点ノ高低ヲ測ルコト
一江戸川口堀江村量水標近傍基石ヨリ検見川村海岸量水標零点ノ高低ヲ測ルコト
一印旛沼落口川筋毎四丁ノ横断面ヲ某日ノ一定水位ニ依リ測定スルコト
一手賀沼落口川前同断ノコト
一既成利根川図ニ依リ印旛沼落口川ノ平面図ヲ延長スルコト
一印旛沼落口川中央船大工方ニ打立アル釘ノ高低ヲ測ルコト
一凡テ高低測量ハ三回ヲ要ス
一高低基線ハ堀江村量水標零点トス、各基線ノ高サ左ノ如シ
堀江村量水標零点 拾九尺六寸二分 安食村 六拾二尺六寸七厘 布佐村 七尺四寸二分三厘 堀江村
一各新設ノ量水標基点ト該標零点トノ高低ヲ測ルコト
右ニ付量水番人ヲ設クル左ノ如シ
    記
                  量水標委嘱人名
                    発作村
                      遠藤源次郎
                    平戸村
                      植草徳松
 - 第13巻 p.162 -ページ画像 
                    安食卜杭
                      近藤次郎右衛門
                    行徳新田
                      長浜勘兵衛
                  殊別委嘱人
                    安食村
                      増淵九助

同十六日曩ニ磯長得三氏ノ帰京ノ事ヲ報スルヤ、爾後病ヲ以テ未タ帰途ニ上ラス、是日其ノ状ヲ織田完之ニ報シ、不日帰京セントス
是ヨリ先キ大和田枡屋重兵衛ヨリ来信、印旛沼漲溢シ大和田橋ノ北城橋ニ水乗ルノ報アリ、是日鈴木安武水先見分ノ為メ下総ニ赴ク、尋テ其ノ実況ヲ報ス、左ノ如シ
 利根川洪水ニ付安食川口ヨリ印旛沼ヘ逆流、及ヒ旧堀割筋ヘ逆流ノ模様並ニ各所ノ量水取調ノ為メ出張、該地ノ実況左ニ申上候
 一安食川口本月十四日午前十時ノ高水壱丈四尺四寸ニシテ、印旛沼ヘ運流甚敷、既ニ卜杭新田《ボツクイ》ヘ設置ノ量水杭モ逆水ノ為メ押流サレ、堤防内ハ勿論印旛沼接続ノ各村都テ山岸迄耕地一円ノ水面ニシテ、実ニ海ノ如クナリ、行徳新田ノ量水ハ去ル十六日午前六時ノ高水壱丈三尺八寸ナリ、翌十七日午前六時ニ至リ弐寸ノ減水ナリ、又平戸村ニ至リテハ高水壱丈三尺八寸ニシテ実ニ廿年以来ノ洪水ト可申、同所字扇橋ハ疾ニ逆水ノ為メ押流サレ、神崎橋乗水壱尺五寸ニシテ最寄ノ各村山岸迄一面ノ水ナリ、平戸以南城橋ニモ七寸乗水、村上橋迄逆水押来リ、此処ハ大和田橋迄大凡十町許リト云フ、又印旛郡発作村ノ量水ハ去ル十六日高水六尺ニ至リ猶追々減水ノ模様ナリ
 右ハ去ル十六日千葉郡大和田ヘ出張翌十七日安食ヘ巡視実地ノ景況取調ノ処如斯ニ候也
  明治廿二年九月十九日          鈴木安武

同二十日岩井勝太郎氏ヨリ左ノ書ヲ織田完之ニ致ス
 拝啓去十二日暴風雨ノ為メ印旛沼ハ意外ノ洪水、過日差送候外ニ損害反別及収穫米損毛高等取調、且又貴書ノ如ク平戸村植草氏ヘモ計リ、大和田以下ノ水先云々ノ事、蓮根種ノ事ニ付、又他ニ御相談ノ次第モ有之、本月下旬迄ニハ貴家ヘ参上仕度心得ニ御座候間、蓮根種ノ事ハ其節迄ニ御手配被下度、先ハ用事而已 草々頓首
  八月十九日               岩井勝太郎
    織田完之殿

同二十一日織田完之、服部長七氏ヲ京橋区銀座一丁目十九番地ニ訪ヒ内洋隄防ノ順序ヲ相談ス、服部氏ハ三河ノ人、夙ニ人造石ヲ製スルノ術ニ精ク成績顕著、故ニ面語ス、田中芳男氏ノ紹介アルヲ以テナリ
同二十二日高島嘉右衛門氏織田ノ宅ニ来訪ス、時ニ織田不在、乃チ家人ニ謂テ曰ハク、印旛ノ事最モ急務ナリ、主人帰ラハ予カ言ヲ告ケヨ成ルベク火ノ玉ノ如クニナリテ取急ガレタシ、勉力ノ功ハ前頭ニ顕然
 - 第13巻 p.163 -ページ画像 
タリト云々
同二十四日萩山ノ岩井勝太郎氏織田宅ニ来訪ス、曰ハク、沼縁各村ノ名望者ヲ賛成者ニ入レ、人名簿ヲ製シ、之ヲ以テ起業鍬入ノ日御手伝ト称シテ来会スル事等ノ準備ヲ為サント欲スト
同二十七日織田完之鈴木安武ト共ニ富士郡入山瀬村ニ到リ磯長得三氏ニ面晤シ、工師報告書ヲ千葉県庁ニ返納スル添書ノ事ヲ議定ス、尋テ鈴木安武該報告書ヲ携帯千葉県ニ到リ之ヲ返納ス、其ノ添書左ノ如シ
 過ル七月十八日付土収第一一二号ヲ以テ御指示相成候蘭工師デレーケ氏印旛沼意見報告書並図トモ拝見仕候、右ハ先般工師巡回ノ砌、其指揮ニ由リ東京測量会社ノ技手ヲ派出シ、安食口長門川ヨリ印旛沼口迄壱里十二町半浅深測量並高低測量致シ、精図出来ノ上工師手許ヘ差出置候都合ニ付、尚工師ノ指図ヲ得テ必要ノ取調致度義ニ有之候間、其筋ヘ可然御申立置被下度、報告書並図共写済返進旁添テ奉願置候也
  明治廿二年九月          願人総代
                      鈴木安武
    千葉県
      御中

十月一日是ヨリ先キ石田千葉県知事入京、駿河台ニアリ、是日鈴木安武ハ奈良原繁氏ノ添書ヲ以テ之ヲ訪ヒ、沼地拝借ノ主意ヲ述フ、知事之ヲ賛成スト云フ
同三日磯長得三、水田灌漑水量、及ヒ段別計算取調書ヲ織田完之ニ贈ル、左ノ如シ
 御依頼相成候水田灌漑水量及反別計算取調ヘ左ニ申上候也
                東京測量会社
  明治廿二年十月三日
                    磯長得三(印)
    織田完之殿

水田灌漑之水量ハ雨水ヲ仰カサルモ地質粘土ノ所ナレハ左ノ水量ニテ十分ナリ、但水田ノ水層厚サ一寸一分二厘ニシテ二昼夜毎ニ更新スル者トス

  水ノ巾及高  勾配        一秒時間流下ノ水量但尺立方 潅漑反別
 五寸角    二十分一即一間ニ付三分  一個六八二       二十四町歩
 同      三十分一即一間ニ付二分  一個三七四       十九町六反歩
 一尺角    二十分一         九個五二        百三十六町歩
 同      三十分一         七個七七六       百十一町歩

同六日印旛郡埜原村字酒直新田ノ近藤治郎右衛門、織田完之宅ニ来訪シ、印旛沼縁ノ人心一般開鑿ヲ希望スル等ノ状ヲ語ル
同八日織田完之、高島嘉右衛門氏ヲ小田原欧盟館ニ訪ヒ、資金纏収ノ順序ヲ奈良原繁氏ニ促サンコトヲ要ス、高島諾シテ曰ハク、予三日ヲ過キス直ニ之ヲ計ルヘシ、実ニ今日ノ時機失フ可カラスト、此ノ時伊藤伯モ其席ニ入来、印旛ノ事ヲ問フ、織田乃チ印旛ノ高水実験ノ図ヲ示シテ状況ヲ語ル、高島亦賛言セリ
同八日桜井清二郎氏ヨリ安政慶応年間ノ北浦西浦疏水ノ事蹟ヲ織田完之ニ報ス
 - 第13巻 p.164 -ページ画像 
 過日貴下皇典講究所ニテ治水ノ御演説有之候由、該所ノ雑誌ニテ拝覧実ニ無上ノ感慨ヲ惹起シ申候、又手将来疏通竣功ノ上ハ沼縁ニテ幾多ノ鴻益ヲ得ヘク貴下ノ遠察力ヲ此点ニ御注キ可然ト愚考仕候
 北浦西浦疏水ノ義、安政二年松平周防守ニ出願、松平大炊頭殿共々願出、慶応丑年着手疏通成功致候得共、海面満潮ノ節ハ湛水致シ、即今ハ形迹ノミ、首謀ハ会津藩中館広之助、弊老等モ相関リ候義ニ付、出願書類絵図面等今ニ存在致候、此図面ニテ考ヘ候ニハ江戸崎ヨリ布鎌ヘ堀割水路ヲ通シ候得ハ運河十四里程ヲ省キ候様承及候、如何御説モ可有之ト奉存候、御参考ニモ此段申上候 頓首
  二十六年十月八日《(二カ)》       桜井清二郎
    織田完之様

同十三日是ヨリ先キ内洋ノ事業ニ朶頣シ、〓瞞ヲ逞ウセントスル者アリ、地理局長及次長其詐計ヲ看破ス、是日織田完之内洋経緯ノ沿革ヲ起草シ之ヲ詳明ニス、識者潜ニ喜フ
同二十六日高島嘉右衛門氏石田千葉県知事ヲ訪ヒ、沼地拝借願ノ速ニ許可アランコトヲ促シ、去テ織田完之ヲ訪フ、時ニ不在ナルニ因リ、左ノ書ヲ留メテ去ル
 石田君云、印旛手賀拝借ハ近村ノ調印済ナラデハ六ケ敷ト被申候、夫ヨリ事成ルノ上ハ云々御含置被下度、又願カ或ハ届ケカ手軽ク致ス方可運ト存候、是ハ拙者ノ考也、委細ノ事ハ織田鈴木ノ両人ヨリ可申上旨、其外ニモ能々僕ノ顔丈ハ頼置候得バ以後ハ可運ト存候間御面上ニテ御相談有之度、古市氏ハ留守故演説丈
                         高島

同二十七日是ヨリ先キ織田完之ハ高島嘉右衛門氏ヲ木挽町五丁目ニ訪テ、仮リニ該家ノ一室ヲ以テ事務所ニ充テ、土曜日若クハ日曜毎ニ此ニ参集センコトヲ謀ル、即刻承諾ス、是日此ノ事ヲ奈良原・渋沢・池田・色川諸氏ニ通知ス