デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
23節 土木・築港
4款 印旛沼開鑿事業
■綱文

第13巻 p.192-206(DK130021k) ページ画像

明治24年1月2日(1891年)

是日織田、栄一ヲ訪ネ印旛沼開鑿ノ将来ヲ謀ル。

栄一、古市氏ノ再巡ヲ求メ事業ノ根基ヲ堅固ニシテ後ニ事ヲ興スベキヲ慫慂ス。後、奈良原及ビ栄一ヨリ古市ニ談合ノ結果、内務省ヨリ工学博士清水済ノ派遣ヲ得テ、設計ヲ為サシメントス。清水ハ命ヲ受ケ、之ヲ工科大学生野田六次ノ卒業論文ノ課題トシ、大学ヨリ同人ヲ実地ニ派遣シテ踏査セシム。明治二十五年九月野田六次ノ論文成リ、題シテ印旛運河計画書トイフ。織田ハ印旛沼開鑿ノ設計成レルヲ以テ、本事業ノ一段落ト見做シ同経緯記ヲ編纂ス。


■資料

印旛沼経緯記内編 (織田完之著) 第二八四―三〇六頁〔明治二六年七月〕(DK130021k-0001)
第13巻 p.192-204 ページ画像

印旛沼経緯記内編(織田完之著)  第二八四―三〇六頁〔明治二六年七月〕
明治二十四年一月二日織田完之、渋沢栄一氏ヲ兜町ニ訪ヒ印旛事業ノ将来ヲ談ス、渋沢氏曰ク、目下ノ要ハ奈良原氏ヲ促シ既成ノ図ヲ古市氏ニ示シ、尚印旛沼ノ再巡等ヲ為シ、着々根基ヲ固メテ信ヲ置クニ至テ事ヲ興ス然ルヘシト、完之曰了承
同十五日是ヨリ先キ菌蕈実業家田中長嶺氏ハ原野開墾ノ事アリテ印旛地方ヲ巡見ス、船橋ノ石井新吾氏之ヲ総深新田ノ豪農某ヘ紹介ス、是ニ至テ田中氏帰リ来リ織田ニ印旛沼開鑿線路等ノ所見ヲ語ル、快甚
同十六日織田木挽町ノ鉄道会社ニ到リ奈良原氏ニ面会シ、帰路渋沢氏ヲ訪ヒ事業ノ進行順序ヲ謀ル
同二十六日織田、平戸ノ量水表明治九年十五年十六年頃ノモノ、及ヒ検見川ノ量水表五冊ヲ磯長得三氏ニ送付ス
同三十一日池田栄亮氏一書ヲ織田ニ贈ル、其ノ略ニ曰ク
 拝啓先日ハ御使札被下置候処不在中欠敬仕候、爾来以外之御疎遠御海容奉祈候、陳ハ去月中御復職次テ御転居之趣縷々御垂示之趣奉祝賀候、近日之中拝参可仕候、小生モ本月中旬ヨリ千葉ヘ罷越居去ル廿五日帰京又明一日千葉行五六日間滞留帰京之積ニ御座候、印旛一件モ着々歩ヲ進メ候由、全ク御熱心故之義ト拝謝仕居候、近日拝顔万可相伺候、乍延引拝答 草々頓首
 - 第13巻 p.193 -ページ画像 
  一月三十一日夜                栄亮
    織田完之様

二月六日田中長嶺氏印旛開鑿線路ノ図画ヲ作リ之ヲ織田ニ贈ル、其ノ意匠甚タ宜シ
同十一日田中長嶺氏印旛沼開鑿ノ正面図及ヒ天保工事ノ風俗図ヲ携ヘ来テ織田ニ贈ル、観ル人嘆賞セサルナシ
三月六日是ヨリ先キ船橋ノ石井新吾氏天保工事ニ五諸侯建設スル所ノ標木簱印等ノ図様ヲ発見シ、之ヲ摸写シテ田中長嶺氏ニ贈ル、是日田中氏之ヲ携ヘ来テ織田ニ贈ル此ニ図ヲ省ク
同三十日金原明善氏遠州豊田郡山香村瀬尻御料林ヨリ書ヲ織田ニ贈ル
 去ル廿二日之貴書謹読先以御清適奉賀候、陳ハ留守宅ヘ度々御来訪被成下候段御礼奉申上候、御宅調之件為邦家可賀次第十分御尽力奉祈候、彼ノ実測跡尻何卒十分御配慮可被成下候様御依頼申上候、首尾不整彼ノ源三位公ノ矢尻ニ罹リ候異獣ノ如キモノニ不相成候様御注意可被成下候云々

四月織田完之印旛沼事業ノ書類ヲ整理ス、又印旛沼ノ水浅キコト一二尺若クハ三尺ノ淤泥ナルヲ以テ之ニ蓮子ヲ栽ント欲シ支那種ノ蓮実ヲ府下南葛飾郡大島村福田宇右衛門氏ニ得テ之ヲ下総印旛郡萩山新田ノ岩井勝太郎ト千葉郡平戸村ノ植草兵左衛門ニ分チ播種ヲ託ス、福田氏ハ夙ニ支那ノ白蓮ヲ裁培シテ大ニ繁殖シ、之ヲ埼玉県下等ニ移シ各地ニ蓮田ヲ増殖スル三千町歩ノ盛ンナルニ至リ府下ノ鮓店《スシ》ニ用ヒル最良ノ蓮根ハ多ク是ナリト云フ、其ノ栽培方及ヒ太陽暦季節概子左ノ如シ

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 季節           栽培法 四月上旬         耕   壱番オコシマンクワニテ起返ヘス 四月下旬         耕   弐番オコシ 栽付五日前        肥料  壱反別ヘ人糞七拾荷壱荷ハ四斗入或ハ〆粕三拾貫目ヲ細カニシテ施ス                  ○肥料少キ時ハ花多ク開キ根ノ肥ユルコトナシ根ノ 五月上旬         根栽  幅九尺〆間壱尺五寸ニ種根ヲ(四尺ヨリ長キハ切除ク)並ヘ芽先ヲ泥ニ埋メ南ヘ向ケルヲ宜トス根本ハ泥面ヘ顕ハシ置キ常水ヲ漲ラス五六寸 六月二十日        草取  田面ノ雑草ヲ取リ除ク 七月上旬         草取  又前ノ如クス 七月中旬         根回  此頃ハ新根頻リニ暢ヒテ隣田ヘ畔ヲ貫キ出ル故畔際ニ新葉ノ外ヘ向キタルハ其根ヲ内ヘ向ケ回ス 七月二十日        開花  白弁一重ノ種類ハ肉肥エ穴細ク節長クシテ宜シ 九月上旬         落弁  此頃花弁悉ク離レ落ツ水ヲ泄シ流スモヨシ 九月中旬ヨリ翌年四月マテ 根堀  根ヲ堀リ出シ売捌クヘシ 十二月ヨリ翌年三月マテ  満水  寒冷中ハ常ニ水ヲ漲ラスヘシ凡四五寸位トス若シ水ヲ泄シ乾カストキハ根腐レ疵クモノナリ              種量  壱反歩ノ種根ハ凡五本結三拾把トス拾把ヲ壱荷トス              人糞  ヲ潅ク時ハ翌日ニ沈澱ス十日モ過クレハ水色藍トナリ又十日モ過クレバ「ボウフラ」多ク生ス              着手  養ヒ人手間ハ三十日ヲ要ス 



 - 第13巻 p.194 -ページ画像 
是年印旛沼事業ノ経費、明治十九年中金原明善氏ノ資ヲ捐テ花島ニ池ヲ掘リタル百円余ヲ除キ、二十年以来ノ収支ヲ計査ス、即チ左ノ如シ
 金四千五百円          大明会員義捐金
 金五千五百拾九円五拾七銭八厘  経費支出
 金壱千拾九円五拾七銭八厘    支出ノ収入ヨリ超過
  但支出ノ概要ハ二十年十月試験掘ノ見込ヲ以テ検見川ヨリ大和田橋迄川幅取調等ヲ始メトシ、工師デレーケ氏出張量水標設置等ノ諸費、安食村長門川実測及ヒ高低測量費之ニ関スル製図諸費、事務所家賃並ニ備付等ノ物品購入費、雇員給料並ニ測量中出張旅費日当、二十年十月以来会員集会費、図書写料並ニ購入費、各所ノ量水標番人給料、二十二年以来印旛手賀両沼拝借願及ヒ内洋拝借願ノ為メ千葉ニ出張費、両沼調査及ヒ堀江ヨリ検見川間高低測量ノ為メ出張諸費、器械購入等ノ諸費、測量会社ニ渡金及ヒ測量技手月給並ニ旅費、測量定雇賃及ヒ臨時人夫賃、測量中会員旅費日当、交際費、酬労費、郵便税用紙料、総代滞京奔走費等ニシテ、支出ハ已ニ収入ヨリ超過スルモ、其ノ成蹟此ニ至ルモノハ金原氏ノ能ク中間ヲ左クルアリテ維持スルニ因ル

又工師技士ノ測量ニ依テ得ル所ノ図書ハ左ノ如シ
    印旛沼測量図書修成目録
 一印旛沼平面実測図 縮尺三千分ノ一         三巻
 一印旛沼全図 縮尺一万二千分ノ一          一巻
 一平戸検見川 開鑿線路平面実測図 縮尺千二百分ノ一 一巻
 一平戸検見川 開鑿線路高低実測図 縮尺千二百分ノ一 一巻
 一平戸検見川 開鑿線路横断面図           一冊
 一安食村長門川 高低実測横断面図          一巻
 一検見川大和田 開鑿高低測量図           一巻
 一検見川大和田 横断面図              一巻
 一平戸検見川 量水比較表              一葉
   以上

又印旛沼測量図書既ニ修成スルヲ以テ奈良原渋沢両氏ヨリ古市氏ニ談合シ、今度更ニ内務省ヨリ土木技師清水済氏ヲ派遣シテ実地ヲ検定シ設計ヲ遂クル事ニ決シ、既成ノ図ニ就キ尚簡易ノ一覧図其ノ他各種ノ図書ヲ新調スル等其ノ検定設計ヲ了スル迄ノ経費ヲ予算シ是ニ従事ス明治二十五年二月六日印旛沼測量図書中土木局ニ出セルモノト測量会社ニ預ケタルモノヲ記ス
    記
 一印旛沼全図      但縮図ノ分  一葉
 一印旛沼全体高低図   但縮図    一葉
 一平戸検見川 平面図  但縮図    一葉
 一同横断面図             一冊
 一同高低図              一葉
 - 第13巻 p.195 -ページ画像 
 一水位標比較図            一葉
 一量水調査表             六葉
 一面積調               一葉
  右土木局ヘ差出分
    記
 一印旛沼全体図            三葉
 一平戸検見川平面図          一葉
 一同高低図              一葉
  右測量会社ヘ預置分

五月二日曩ニ内務省ハ清水技師ヲシテ印旛沼開鑿ノ設計ヲ為サシムル事ニ決ス、清水氏ハ特ニ命ヲ受ケ工科大学生野田六次氏ヲ撰ミ、該設計ヲ同人ノ卒業問題ト為シ、実地ニ派遣シテ之ヲ調査セシム、是ニ至テ野田氏ハ一書ヲ織田完之ニ贈リ、面話ヲ要ス
 謹啓小生義今度工科大学土木工学科卒業論文トシテ印旛沼開鑿設計仕度先日ヨリ実地踏査仕候得共、尚是迄之成行承知仕度平戸ニテ植草氏相尋候得共目下上京中トノ事、又鈴木氏相尋候得共是又転宅先不明ニ付閉口仕候、本日大学ニテ清水教授ニ面会仕、貴君ヘ早速御伺申上度御面談之時期御指揮相仰度御一報奉願候、右之都合ニ候間貴答落手次第参堂之筈ニ御座候 頓首
  五月二日               野田六次
    織田完之様

野田氏ハ久留米ノ産、工科大学ニ於テ清水工学博士ノ識ル所トナリ、特ニ大学ヨリ印旛地方ニ派遣シテ実地ヲ点査シ、兼テ大明会ヨリ内務省ニ出シタル印旛沼全図以下八種ノ図等ヲ参考シ計画スル見込ナリト云フ、其ノ完之ノ宅ニ来訪スルヤ、完之ハ為メニ蔵スル所ノ印旛沼書類ヲ多ク貸渡セリ
七月十日是ヨリ先キ佐々井久和氏、印旛沼ノ図巻ヲ携ヘ来テ完之ニ示ス、此ノ図ハ天保工事殆ト落成セントスル頃実地見分ノ着色絵巻物ニシテ、幕府ノ臣僚槍ヲ立ツルモノ、諸侯ノ人数貝鼓節制ノ状、担夫数千入竭力ノ状、開鑿線路断崖水堰架橋道路山林家屋田畝ノ位置疏水路殆ト成ルニ垂ントスル真形ヲ写セシモノニシテ其ノ人物ノ多数ナル各其趣ヲ異ニシ彩色精密実ニ当年ノ感ヲ惹クモノナリ、蓋シ貝淵藩ノ家来某ノ著スモノナラント云フ、其ノ絵巻物ノ珍蔵主ハ小石川桜木町九番地質屋落合与三郎ナリト、之ヲ博物館ニ陳列センコトヲ企望ス云々完之一見シテ愛惜ニ堪ヘス請テ借覧スル五十日、所有主ヨリ返還ヲ促ス故ニ此ノ日携帯シテ之ヲ返ス、此ノ図ヲ写シテ参考ニ供セントスルモ細絵ニシテ容易ニナスヘキノ業ニ非ス、事実ヲ起シテ他日ヲ待ツ
七月野田六次氏印旛沼開鑿計画論ヲ撰シ、土木工学科ヲ卒業ス、尋テ大阪土木監督署ニ奉仕シ、三重県下桑名派出所ニ在勤セリ
八月二十日是ヨリ先キ織田完之書ヲ野田六次氏ニ贈リ同氏著ス所ノ印旛沼計画書ヲ借ランコトヲ要ス、是日回答アリ、該書ハ大学ニ出セルモノ整備スルヲ以テ宜ク大学ニ照会アルヘシト、抑々野田氏ノ計画タ
 - 第13巻 p.196 -ページ画像 
ル先年大明会ヨリ土木局ニ申請シ、和蘭陀水利工師デレーケ氏出張以来土木局長等ノ出張アリ、其ノ間常ニ東京測量会社員数名交互出張シテ調査シタル末、更ニ品川内務大臣ヨリ土木局長ニ命令アリ、局長ハ之ヲ清水工学博士ニ嘱シ、博士ハ野田氏ヲ信認シテ特ニ之ヲ卒業論文ト為シテ撰定セシメタルモノナレハ、則チ欧米学理上ノ調査ハ大体完結ノモノト言ハザルヲ得ス、故ニ完之ハ清水済氏ニ頼談シテ其ノ論文ヲ転写センコトヲ求ム、清水氏之ヲ了諾ス
同二十一日香取郡小御門村元高倉桜井清次郎氏ヨリ去月ノ水害景況ヲ織田ニ報ス、其ノ略ニ曰ハク
 去月二十六日夜利根川濁水一時ニ暴漲、午前三時頃安西樋崩壊、翌日午後四時頃迄ニ二十箇村一面ノ浸水、赤色天ニ耀キ波浪光リヲ発ス、其惨憺筆紙ニ尽シ難シ、拙庵ハ眼下ノ青田赤水ニ変シテ海ノ如ク、二十八日ヨリ三十日迄大南風ニテ逆浪ヲ翻ヘシ、右ニ付利根東部ノ横堤不残洗ヒ切レトナリ、矢口辺ヨリ佐原上大戸川谷中辺水色天ヲ覆フ、村老モ如此水害ハ未タ嘗テ見サル所ナリト、却説閣下治水ノ良知アリ、弊老モ青年ヨリ水辺ニ人トナリ常ニ治水ノ念深キモ用ヰラレス、我身ナカラ浅徳ノ甚キヲ歎キ安眠ナシ難キ夜モアリタリキ、閣下時アラハ印旛湖ヲ開キ下利根ノ水勢ヲ内洋ニ移シ数十万人ノ苦患ヲ救ハレンコトヲ希望ス、右アラ々々素意申述候、乱文御推読被下度候 頓首
  八月十九日              桜井清次郎
    織田完之殿

同二十五日曩ニ花島村大野長兵衛天保度工事ノ成蹟ヲ大明会ニ報告スルヤ、往々故老ノ当時ニ在テ親見記臆スル所ノ事実ヲ報道シテ工事ノ難カラサルヲ証明スル者アリ、是ニ至テ村上村ノ川島忠兵衛通船ノ事蹟ヲ記書セリ二十年八月廿九日及ヒ二十二年一月二十一日ノ条参看スヘシ
    天保度堀割筋通船之証蹟
一天保度堀割之後、印旛郡旧村上村地内字大和田橋ヨリ千葉郡検見川浦諸荷物通船ハ勿論猶私儀ハ佐倉堀田備中守殿御年貢右大和田橋ヨリ検見川浦是ヨリ寒川村御蔵迄積上御上納致シ、尤モ天保十五年ヨリ向五ケ年之間諸荷物運送候ニ相違無之候也
               千葉県下印旛郡旧村上村
  明治廿五年八月廿五日       川島忠兵衛(印)
    大明会御中

九月十四日是ヨリ先キ南豊島郡代々幡村丸山作楽氏印旛沼事業ノ実況ヲ聞カント欲シ予メ面話センコトヲ織田完之ニ報ス、次テ完之ノ家ニ来訪ス、時ニ完之不在ナルヲ以テ未タ果サス、是日完之往テ面ス、丸山氏曰ク頃者伊藤博文伯ニ見ユ、曰ク印旛沼開鑿ノ事業現況如何、卿若シ心アラハ左担スル如何ト、之ニ依テ詳細事実ヲ聞カント欲ス云々完之答テ曰ク、嚮ニ内務省ヨリ蘭工師デレーケ氏ノ出張アルヤ、東京測量会社員磯長得三ノ手ヨリ技手数名ヲ派出シ印旛沼並ニ内洋ハ堀江検見川間等残ラス点検測量シ了レリ、但其ノ間ニ古市公威氏ノ巡見ア
 - 第13巻 p.197 -ページ画像 
リ、其ノ注文ニ応シ精査タルモ亦少ナカラス、遂ニ二年ニ跨リ測量ヲ畢フ、而シテ品川内務大臣ハ土木局長ニ命シ設計ヲ立テシム、局長ハ之ヲ清水技師ニ託ス、技師ハ工科大学教授ナルヲ以テ之ヲ工学生徒野田六次ノ卒業論文ト為シ、同氏ヲシテ大学ヨリ印旛沼ニ派遣シテ調査セシムル事ニナリ、已ニ其ノ設計ハ英文九十五頁ヲ以テ之ヲ論述セリ因テ清水氏ニ請テ之ヲ謄写シ且之ヲ反訳ニ付セリ、其ノ反訳ナルヤ始テ学理的ノ説ヲ詳明スルヲ得ヘシ、今ヤ創業以来ノ顛末ヲ編輯シテ印旛沼経緯記ト題シ、之ヲ印刷シテ衆人ニ頒布シ、以テ当世ノ輿論ヲ惹起セント欲スルナリト、曰ク善シ、遂ニ印旛行ヲ促シ来ル二十四日ヲ以テ発スル事ニ決ス
同二十四日午後一時織田完之家ヲ発シ、薄暮船橋九日市ノ蔦屋ニ着ス已ニシテ丸山作楽氏到ル、図書ヲ展閲大ニ談熟ス、挙杯快甚
同二十五日午前四時完之丸山氏ト船橋ヲ発シ、車行検見川ニ到リ海浜ニ逍遥シ、花見川西ヨリ歩行天戸猪鼻橋ヲ巡見シ、花島村観音境内及ヒ大野長兵衛宅ニ憩ヒ開鑿ノ談ヲナス、藤代市左衛門ノ事ヲ言フ、先年地所買上ノ際ニ同人頗ル力ヲ尽セリト、去テ柏井高台、野馬越、横戸弁天等ヲ巡覧シ、又大和田橋高津落シノ水車等ヲ見テ萱田町ノ升重ニ憩ヒ昼食、車ヲ命シ平戸村ニ到ル、神野ヨリ船ニ乗リ、洪水尚汎濫タルヲ渡リ、植草兵左衛門ノ宅ニ到ル、同人ノ弟徳松出テ丸山氏ト語ル、去テ安食ニ向フ、兵左衛門随行、泉新田ノ高処ヲ越エ手賀沼開鑿線路ノ要処ヲ示ス、大森ヨリ乗車、兵左衛門ヲ返シ完之丸山氏ト安食ニ到リ竹村ニ投ス、已ニ夕刻ナリ、此ノ夜八時滊船三ツ堀ニ上ルト云フヲ以テ酒食ヲ了シテ車ヲ命シ利根川縁ヲ行ク、十町許ニシテ船ヲ待ツ客アリ、完之ヲ識ル、其ノ姓名ヲ問フ、曰ク下埴生郡久住村大字大生ノ根本啓蔵ナリ、船橋石井新吾ノ回縁嘗テ上京シテ面セシ事アリト又曰ク印旛沼開鑿ノ事衆民ノ希望スル所ナリ云々、完之曰ク水害段別ヲ所有スル人開鑿ノ挙業ニ際スレバ水難ヲ免ル為ニ銘々段別ニ金員ヲ義捐スル事ヲ誘導セハ応スルモノアリヤ如何、曰ク容易ナラン尚尽力スヘシ云々、待ツコト凡ソ二時余、小船ニ乗シ銚子ヨリ来レル滊船ニ乗込ム、船幅凡ソ三間余、長凡ソ十間余ナルヘシ、船中雑遝甚シ、十二時ニ発シ木下ニ到リ休憩、又進ム、浅瀬多ク船底沙ニ粘シ転進甚タ艱ム、丸山氏鼾睡齁々完之ハ困臥眠ル能ハス、時黎明ニ近ク鶏声遠近相和ス、三ツ堀ニ至リ休ム多時、和船ニ乗リ替ヘ徐々船ヲ牽テ逆流ヲ上ル、二里余ノ間時間ヲ費ス夥シ、深井新田ヲ出テ又休ム多時、又滊船ニ乗リ替ヘ新利根川即チ江戸川ヲ下リ行徳ヨリ堀江ノ西ニ出テ海ヲ廻リ永代橋ヲ過キ小網町ニ着ス、時ニ九時半、直ニ腕車ヲ雇ヒ完之ノ宅ニ帰ル、杯ヲ挙テ談話ス、快甚シ、丸山氏印旛沼関係書類ヲ要求ス
同二十六日完之印旛沼関係略図書ヲ丸山氏ニ郵寄ス
同二十七日清水工学博士ヨリ野田六次氏著ス所英文ノ印旛沼設計書ヲ織田ニ送致ス
 秋冷之候益御清勝奉賀候陳ハ印旛沼論文謄写相済候ニ付御届申上候
                          草々敬具
  廿七日                清水済
    織田完之殿
 - 第13巻 p.198 -ページ画像 
  追テ謄写料並用紙代共聞合可申上候

右設計書ヲ携帯シテ武藤喜一郎氏ニ反訳ヲ嘱ス、武藤一郎氏助手タリ同二十八日完之磯長氏ノ意見ニ係ル印旛沼計画書ヲ抜萃シ、併セテ事業ノ概況ヲ記シタルモノヲ丸山氏ニ送ル
同三十日金原明善氏遠州豊田郡瀬尻官林ニアリ、是日完之丸山氏ト印旛ニ行キタル概略ヲ報ス
十月一日織田完之代々幡村丸山作楽氏ノ宅ニ到リ、面悉近日一会シテ印旛沼開通策平戸検見川間ノ経費ト収益トヲ調査センコトヲ約ス
同五日本郷区竜岡町十七番地清水工学博士ヨリ左ノ書ヲ織田ニ致ス
 拝啓陳ハ過日御送付仕候印旛沼計画書謄写料金参円御序之節土木局員宮原直尭氏ヘ御渡相成度、右申上度 早々敬具
  十月五日                清水済
    織田完之殿 侍史

曩ニ野田六次氏ノ印旛沼設計ヲ立ツルヤ開鑿費八拾万円ト称ス、是日完之磯長得三氏ヲ南鍋町二丁目八番地ニ訪ヒ、八拾万ニ対スル利益ヲ算出セン事ヲ託ス
同六日織田完之内務省土木局ニ到リ宮原直尭氏ニ面話シ、野田氏論文九十五頁ノ写料ヲ交付ス
同二十日印旛郡萩山ノ岩井勝太郎完之ノ宅ニ来泊、曰ク、印旛郡布鎌村布太百八十五番地ニ於テ有志者利根治水協会ヲ起シ燕口《ツバクラ》ヲ〆切ルノ見込アリ、是レ三ツ堀運河逆流ノ為メ布鎌新田ノ平水頗ル高クナリ、従来ノ悪水堰ヲ聞《(開カ)》クコトヲ得ズ、故ニ物議紛囂タリ云々
同二十三日人造肥料会社員某下総常陸ヲ経テ帰リ、完之ノ宅ニ来ル、曰ク、下利根川十六島ニ於テ排水ノ為メ凡拾万円ノ経費ヲ要ス云々、農商務省技師沢野淳氏出張シテ其ノ経営ニ尽力セリ、土人曰フ、年々ノ水害無慮参拾万円ヲ消滅ス、今拾万円ヲ以テ其ノ害ヲ免ルヲ得バ幸甚ナリト、若シ夫レ其金ヲ利用シ以テ大和田以南ノ疏通工事ヲ起サハ無限ノ鴻益ヲナスニ至ルヤ必セリト、治水会以テ如何トナス云々
同二十七日完之金原明善氏ニ面会、印旛沼経緯記編輯ノ事、丸山氏ノ事、野田氏論文訳成ノ事等ヲ語ル
同三十一日是ヨリ先キ印旛沼開鑿設計書ヲ東京測量会社ニ付シ、其ノ費額ニ対スル収支予算ヲ求ム、是日調済左ノ如シ
    印旛沼計画書大要
 印旛沼開鑿ノ設計タル徳川幕府ノ時代ニ於テ要用ノ工事トシテ諸侯ニ命シ着手セシメタルモ種々ノ事情アリテ中止ス、近来又此ノ工事ノ必要ヲ感シ有力諸氏ノ熱望スル所トナリ屡其ノ測定ヲナセリ、余ハ清水博士ノ指示ニヨリ今玆ニ其ノ計画ヲ論スヘシ、乃チ此ノ工事ノ目的タルヤ検見川ヨリ平戸迄四里十三町ヲ開鑿シ、平戸ヨリ印旛沼中ノ澪筋左右ニ堤ヲ築キ且之ヲ浚渫シ、安食ニ連絡シ利根川ニ通セシム、即チ利根川ヨリ東京湾ニ一直線ノ航路ヲ得ルナリ、然シテ利根川ノ水平面ハ之ヲ検見川ノ水平面ニ比スルトキハ幾何ノ高キニ在ルヲ以テ、今此ノ運河成功ノ後ハ利根河水ノ幾分ハ此ノ運河ヲ通
 - 第13巻 p.199 -ページ画像 
過シテ東京湾ニ注入スルヲ以テ、利根ノ下流ハ幾何ノ平水量ヲ減少スヘケレハ、河岸ノ住民ハ不平ヲ鳴ラシテ工事ヲ妨碍セント欲スヘキ乎、故ニ余ハ左ノ如キ計画ヲ為スノ止ムヲ得サルニ至レリ、乃チ安食近傍ニ調和水閘ヲ築キ検見川ノ水平面ト利根ノ水平面トヲ均一ナラシメハ、利根川ノ漲水ニ際シテハ其ノ水ヲ運河中ニ流入スルモ平時ニ在テハ沼水ノミヲ流レテ検見川ニ出ルヲ以テ、利根河岸ノ住民ハ大ニ此ノ調和水閘ノ設立ヲ以テ満足スルコトナラン乎、又東京湾口ニモ暴潮ノ侵入ヲ防ク為メニ閘門ヲ立テ、不時ノ災害ヲ防クニ備フ、又別ニ瀬戸ヨリ吉高迄ヲ開鑿スレハ利アリト雖トモ、他ノ主要ナル工事ヲ終ル後マテ猶予シテ可ナラン
 此ノ起業ノ予算額ハ八拾万円ニシテ、工事成功セハ航路ノ安全ナルノミナラス、里程近キヲ以テ銚子港等ヨリ帝都ニ向テ来ル所ノ諸貨物品ノ此ノ運河ニ依テ日々航通スルモノ実ニ鴻大ナルヘク、随テ利益ノ充分ナランコトハ余ノ確ク信シテ疑ハサル所ナリ
    ○印旛沼開鑿設計書費目
 金八拾万円                総額
 一主要ナル開鑿費            五五一、七二五・一二五
 一雑種開鑿                一六、七四七・五〇〇
 一雑種浚渫                 七、三二〇・〇〇〇
 一堤岸保護                 四、四五五・〇〇〇
 一潰シタル陸地及取除ケタル家ノ損害    一七、一〇〇・〇〇〇
 一調和水閘                四五、〇〇〇・〇〇〇
 一水堰                   二、〇〇〇・〇〇〇
 一風潮閘                 四五、〇〇〇・〇〇〇
 一ハウ氏桁構橋              五四、〇〇〇・〇〇〇
 一木橋                   一、六〇〇・〇〇〇
 一半立方坪ノ土ヲ載セル子ーノ小舟     一〇、〇〇〇・〇〇〇
 一囲堰                   三、〇〇〇・〇〇〇
 一ポンプ及ヒ其働作            一〇、〇〇〇・〇〇〇
 一軽鉄道                  三、〇〇〇・〇〇〇
 一測量監査                一〇、〇〇〇・〇〇〇
 一一時ノ橋並代理人等           六七、六五二・三七五
  合計                 八〇〇、〇〇〇・〇〇〇
右計画書訳本紙数凡百三十枚アリ、本書ハ織田完之保管セリ
    印旛沼開鑿収支予算書
  ○初年ヨリ六箇年目マテ
 一金拾八万九千七百七拾四円五拾銭     収入高
    内訳
  金拾弐万五千六百八円          地所売却代
   是ハ沼地ニ属スル反別三千八百八拾九町二反歩ノ内水路敷地反別百廿町九反六畝歩(長七里幅廿四間)ヲ引去リ、残反別三千七百六十八町二反四畝歩ヲ六ケ年ニ売却スル者トシ、一ケ年売却反別六百弐拾八町四畝歩、壱反歩、売却代価金弐拾円
  金参万七千五百円            通船代
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  是ハ利根川通船一ケ年中五万九千六百二十余艘ノ内即二万五千艘通行スル者トシ、平均一艘ニ付税金壱円五拾銭ノ見積リ
 金弐万六千六百六拾六円五拾銭       水害排除義捐金
  是ハ印旛沼周囲耕地水害反別凡五千三百三十三町三反トシ、一ケ年一反ニ付金五拾銭収入ノ見積リ
一金壱万円                支出高
差引残金拾七万九千七百七拾四円五拾銭 純益
   内
 金九万円                資本償却積立金
 金八万円                資本金八拾万円ニ対スル配当一割
 金九千七百七拾四円五拾銭        別途積立
右六箇年目ニ至リ資本金ノ内金五拾四万円ヲ償却スル積リ
 ○七箇年目ヨリ
一金六万四千六百六拾六円五拾銭《(マヽ)》 収入高
   内訳
 金参万七千五百円            通船代
 金弐万六千六百六拾六円五拾銭      水害排除義捐金
一金壱万円                支出高
差引残高五万四千百六拾六円五拾銭     純益
   内
 金弐万円                資本償却積立金
 金弐万六千円              資本金廿六万円ニ対スル配当一割
 金八千百六拾六円五拾銭         別途積立
右十三箇年ニ至リ資本金弐拾六万円償却
合計十九箇年ニシテ総資本金償却ノコト
 又案スルニ資本金八十万円ヲ初年ヨリ六ケ年迄据置、其ノ純益金ノ内ヨリ資本減少準備金ヲ設ケ、其ノ積立金ヲ六年目ニ至リ四拾万円ヲ株主ニ割返シ、爾後四拾万円ヲ永遠資本金ト立レハ、其割合左ノ如シ
 ○初年ヨリ第六年迄
純益金拾七万九千七百七拾四円五拾銭
   内
 金八万円             株主配当資本金八拾万円ニ対シ年壱割
 金六万六千六百六拾七円      資本金減少準備積立金
 金三万三千九百〇七円五拾銭    運河浚渫費其外準備積立金
 ○第七年以降
純益金五万四千百六拾六円五拾銭
   内
 金四万円             株主配当資本金四拾万円ニ対シ年壱割
 金壱万四千百六拾六円五拾銭    運河浚渫費其外準備積立金
   ○印旛沼面積
一水中並荒地惣反別三千八百八拾九町弐反○畝壱歩
   内訳
 一四拾町五反壱畝廿三歩      (長門橋ヨリ長門川渡船場ニ至ル
 - 第13巻 p.201 -ページ画像 
 一千五百八拾三町八反五畝弐歩   (長門川渡船場ヨリ北須賀水神渡船場ニ至ル
 一五百四拾四町七反五畝廿壱歩   (北須賀水神渡船場ヨリ中川ニ至ル
 一五百九拾九町九反九畝廿五歩   (中川ヨリ瀬戸渡船場ニ至ル
 一五百九拾八町弐反九畝壱歩    (瀬戸渡船場ヨリ臼井渡船場ニ至ル
 一百拾弐町五反三畝四歩      (佐倉湾但鹿島橋以下
 一弐百六拾八町九反六畝九歩    (臼井渡船場ヨリ保品渡船場ニ至ル
 一百四拾町弐反九畝六歩      (保品渡船場ヨリ平戸橋ニ至ル
一平年水害ヲ蒙ル田畑並宅地惣反別千七百五拾六町四反七畝四歩
   内訳
 一五町〇反八畝拾八歩       (長門橋ヨリ長門川渡船場ニ至ル
 一百拾八町弐反六畝拾八歩     (長門川渡船場ヨリ北須賀水神渡船場ニ至ル
 一八拾町六反六畝弐歩       (北須賀水神渡船場ヨリ中川ニ至ル
 一百九拾町七反四畝廿歩      (中川ヨリ瀬戸渡船場ニ至ル
 一九拾九町三反七畝廿六歩     (瀬戸渡船場ヨリ臼井渡船場ニ至ル
 一八拾七町壱反六畝拾壱歩     (佐倉湾但鹿島橋以下
 一四百四拾壱町六反〇畝廿九歩   (鹿島橋以上
 一百廿五町四反四畝廿三歩     (臼井渡船場ヨリ保品渡船場ニ至ル
 一百五拾五町四反六畝拾五歩    (保品渡船場ヨリ平戸橋ニ至ル
 一四拾五町八反〇畝廿八歩     (下志津入込但水神橋以上
 一百七拾九町弐反三畝拾六歩    (神崎橋以上
 一弐百廿七町六反〇畝八歩     (平戸橋以上
近年ノ洪水其ノ災害ヲ蒙ルモノ八千町歩ニ上ルト云フ、故老ノ言ヲキクニ、寒ノ入リヨリ三日目四日目南風起ル歳ハ必ス洪水至ル、又八十八夜後ニ西風吹ク時ハ七十五日立ツ頃日光水押来ル、又春ニ入リ巽風連日吹ク時ハ洪水来ル、是レ印旛沼水害ノ前兆古来斯ノ如シト伝フ
同三日萩山新田ノ岩井勝太郎書ヲ寄テ曰ク、印旛沼開鑿成ルトキハ其ノ地価収穫等ノ概況左ノ如シト
 一印旛沼開発田地壱段歩
   地価凡金拾円      但高直積リ
    此諸税費一切年金三拾五銭位
 一壱段歩収穫米凡弐石
    此売高凡金拾弐円    但一石金六円積リ
 一壱段歩売買金弐拾五円    但安直積リ
 此他沼縁ノ水害ヲ除クトナレハ旧田地壱段歩ニ付凡金六拾銭ツヽ十五箇年出金スル位ハ負担ニ堪ユヘキナリ

同十日岩井又書ヲ寄セ、布鎌村燕口辺近来増水ノ実況等ヲ報シ、添フルニ利根治水協会ノ事ヲ以テス
 一三ツ堀出来後即チ明治二十年後ハ「ツバクラ」口辺ニテ平水凡八九寸余ノ増水ナリ、尤モ或人ノ話ニハ此ノ辺ノ増水ハ三ツ堀ノ開鑿固ヨリ其幾分ノ関係アリト雖モ、或ハ香取郡息栖下ヨリ新宿辺迄洲渚増加ノ為メナラントモ云フ
 一布鎌村押付ノ圦樋口ハ明治十八九年頃迄ハ布鎌最上ノ地諸方ノ悪
 - 第13巻 p.202 -ページ画像 
水ノ吐落スルモ二十年頃ヨリ開樋スル能ハサルニ至レリ、是レ物議ノ紛囂タル所以ナリ
 一「ツバクラ」口ハ従前〆切タルコトナシ、其〆切タル処ハ布鎌西ト平岡村ノ間ナル字負俵《マケタワラ》ニアリ、右〆切ハ天明元年ニ目論見、同三年出来、其後六年七月大洪水ニテ処々被害地数多ナルヨリ一意ニ之カ原因ヲ負俵〆切ニ帰シ、切流シヲ仰付ラレタル由ナリ
 扨利根治水協会モ来二月十日ヲ期シ賛成者ヲ募集シ、三月中旬頃一ト先ツ総会ヲ開クノ見込ナリ、其ノ主旨為御参考添テ申上置候也
                      岩井勝太郎
    織田完之殿
    利根治水協会創立趣旨大要
 輓近治水ノ法其ノ宜キヲ得サルカ為メニ年々洪水ノ氾濫一層其度ヲ高メ、吉野・筑後・淀・利根・富士・信濃・木曾等ノ諸大河沿岸ノ惨状ハ実ニ言フニ忍ヒサルモノアリ、明治十六年以来同二十年迄五ケ年間流荒損失ニ係ル一ケ年平均高ヲ見ルニ年々千二百万円ヲ下ラズ、而シテ之ガ修復ニ消費スル高ハ国庫金又ハ地方税ニ於テ平均毎年三百万円以上ヲ費スト云フ、然ラハ則之ヲ前ノ流荒損失高ニ加フルニ毎年実ニ千五百万円ノ巨額ヲ消費スルモノト云フヘシ、若シ夫レ其被害地ニ於テ消費スル諸雑費或ハ無形的ニ及ホス損害ノ結果ヲ算入スルコトアラハ其巨額実ニ驚歎ニ堪ヘサルモノアラン、殊ニ水害ノ最大悲惨ヲ究メタルハ明治二十年以後ニアルヲ以テ、設シ其統計ヲ得ハ尚一層ノ増大ナルヲ見ルヘシ、我利根川ノ如キハ其水源既ニ広袤逶迤タル山岳ヲ有シ、剰ヘ蚕飼・鬼怒・江戸三川ノ流ヲ受ケ中利根下利根辺ニ至テハ地形稍平坦ナルノミナラス曲折迂回甚キモノアルニ因リ、一朝大雨ノ沛然トシテ降ルヤ上利根外三路ノ四川ハ奔濤矢ノ如ク迅流咆哮ノ声ヲナシ、中利根下利根ニ至テ俄然停滞遅流スルヨリ、造次ニ氾濫漲溢シテ無限ノ耕田ヲ掃蕩スルノ惨状ヲ現スルニ至ル、去ル明治二十三年ノ如キ我印旛・下埴生・南相馬三郡下ニ於テ流荒損失高尚一百拾余万円ヲ以テ記セリ、若シ水害地方ノ水防費其他ノ諸雑費ヲ計算セハ殆ト二百万円ヲ超過スヘシ、当二十五年ノ如キハ未タ其統計ニ接セスト雖モ水災ノ過大ナル蓋シ二十三年ノ比ニアラサルヲ知ルナリ、左ナキダニ我農民同胞ノ前途零落悲愴安ンスヘカラサルモノアルニ加ヘテ、天災荐ニ臻リ歳々其惨観ヲ呈スルコト斯ノ如シ、嗚呼国家ノ急務経綸ノ主要一ニ治水ニアリ、木立テ道生ス、実ニ是アル哉、是レ本会ヲ創立スル所以ナリ
    利根治水協会発起員姓名(イロハ順)
  岩井七之助  五十嵐新五郎  井上択
  飯田勘七郎  海老原善一郎  岩井勝太郎
  稲村房次郎  磯谷与助    五十嵐慎
  鳥羽泰民   大沢庄之輔   小倉良則
  大塚常次郎  小手理右衛門  川島房太
  狩野揆一郎  川島長之助   吉岡吉太郎
  吉植庄之輔  吉植庄一郎   高瀬吉蔵
  武田正平   染谷大太郎   園辺岩五郎
 - 第13巻 p.203 -ページ画像 
  武藤宗彬   植村国治    山口登
  山田弥一   前田謙斎    松田直衛
  藤井東作   小島尚聚    小林大助
  湯浅常徳   湯浅与五右衛門 塩田平右衛門
  高瀬泰次郎

十二月三十一日是ヨリ先織田完之ハ印旛沼設計已ニ成ルヲ以テ之ヲ事業ノ一段落ト見做シ、印旛沼経緯記ノ編纂略其ノ功ヲ畢ヘタリ、玆ニ事ヲ以テ三河ニ行キ北設楽郡稲橋村古橋源六郎氏ノ家ニ泊ル、談印旛沼経営ノ事ニ亘リ、該沼ノ古名稲穂湖ト称スルコト回国雑記等ニ見ハルヽヲ告ク、源六郎大ニ其ノ事ニ感シテ曰ク、是天下ノ大業ナリ、宜ク必成ヲ期スヘシト、即チ蔵スル所ノ古根来ノ盆稲穂露ヲ滴ルヽ状ヲ金泥ニテ蒔絵セルモノヲ贈リ、以テ挙業ノ円滑ニ熟スルヲ祝ス、其ノ盆体ノ円クシテ朱色ナルハ朝日ニ象トルモノナリト云フ呵々
是ヨリ先キ印旛・千葉・北相馬三郡ノ人民印旛沼ノ開鑿ヲ希望シテ願書ヲ大明会ニ致シ、該会ノ起工ニ当ラハ人夫ヲ出シテ助手セント請ヒ又役ヲ興シ恤ヲ寓センコトヲ哀求シ、或ハ各自所有ノ土地一旦如何様ニナルモ他日交換ノ地ヲ得レバ足レリト、或ハ単ニ頻年ノ水害ヲ歎訴哀願片時モ起工ノ早カランコトヲ請フ等、陸続トシテ願書ヲ提出ス、其ノ書類明治二十三年ヨリ以来廿五年十一月ニ及フマテ積テ左ノ多キニ至ル、今夫レ糧食ヲ具シテ一呼スレバ忽チ五万ノ人数ヲ動カスニ足ル、実ニ天ノ時地ノ理人ノ和共ニ備ハル盛業ナリ、穴賢
  ○大明会宛願書要目左ノ如シ。
   印旛沼開鑿着手願。下総国千葉郡睦村平戸区富沢平松外二十一名。明治二十三年十月十一日。
   印旛沼開鑿着手願。下総国千葉郡睦村字佐山市原喜七郎外十一名。明治二十三年十月七日。
   賛成印旛沼開鑿書。千葉県千葉郡睦村麦丸周郷敏外一名。明治二十三年十月二十日。
   印旛沼開鑿ニ付人夫献上願。千葉県下千葉郡睦村平戸植草兵左衛門。明治二十三年十月二十二日。
   印旛沼堀割着手願。下総国印旛郡臼井町大字大町秋山与助外六名。明治二十三年十月二十三日。
   印旛沼開鑿御着手願。下総国千葉郡睦村字佐山市川半兵衛外二十三名。明治二十三年十一月五日。
   印旛沼開鑿御着手願。千葉郡睦村大字小池玉井亀吉外三十五名。明治二十三年十一月八日。
   印旛沼開鑿着手願。下総国千葉郡睦村島田山口団蔵外三十七名。明治二十三年十一月八日
   印旛沼堀割着手願。下総国千葉郡睦村大字桑納石井伊助他九名。明治二十三年十一月八日。
   印旛沼開鑿御着手願。下総国千葉郡睦村字直木野戸田乙治郎外九名。明治二十三年十一月八日。
   印旛沼堀割着手願。下総国千葉郡犢橋村字花島青木虎之助外二名。明治二十三年十一月。
   印旛湖開墾事業着手勧告書。印旛郡印旛湖沿岸船穂村横尾隼之助。明治二十三年十一月十二日
 - 第13巻 p.204 -ページ画像 
   印旛沼堀割着手願。下総国印旛郡阿蘇村大字米本桜井乙松外一名。明治二十三年十一月二十二日。
   印旛沼開鑿着手願。下総国印旛郡船穂村松崎区鈴木藤助外三名。明治二十三年十一月。
   上申書(人足五百人差出可申)千葉県下総国印旛郡内郷村大字萩山新田区総代人関豊三郎他二名。明治二十三年十二月。
   印旛沼開鑿御着手願。印旛郡船穂村武西長谷川菊治郎。明治二十三年十二月三日
   印旛沼開鑿着手願。下総国印旛郡元角来村兼坂助次郎外一名。明治二十三年十二月。
   印旛沼開鑿着手願。千葉県印旛郡酒々井町中川岡田新吉外四名。
   印旛沼堀割着手願。下総国千葉郡睦村字桑橋立石八十八。明治二十三年十二月十二日。
   印旛沼堀割着手願。千葉県下埴生郡字竜角寺区林田七郎右衛門外十七名。明治二十三年十二月十五日。
   印旛沼堀割着手願。千葉県下埴生郡境村大字酒直区山田治郎兵衛。明治二十三年十二月十八日。
   印旛沼堀割着手願。千葉県下総国下埴生郡境村字酒直石原僖平外一名。明治二十四年一月廿三日。
   上申書(人足五百人差出可申)千葉県印旛郡阿蘇村字保品今井磯七外三名。明治二十四年二月二十八日。
   上申書(人足二百人差出可申)千葉県印旛郡阿蘇村字神野村安藤久松外一名。明治二十四年二月二十八日。
   上申書(人足二百人差出可申)千葉県印旛郡阿蘇村大字米本加茂加藤治外二名。明治二十四年三月。
   印旛沼堀割ニ付助成人夫差出度願。(人夫一百人)茨城県下総国北相馬郡布川町第六十五番地渡辺嘉吉。(人夫一百人)同県同国同郡同町第五十八番地宇沢庄吉。(人夫一百人)同県同国同郡同町第九十八番地伊藤嘉平治。外ニ富沢源蔵。明治二十四年十二月。
   印旛沼堀割ニ付助成人夫差出度願。(人夫五百人)千葉県下総国印旛郡臼井町台第六十番地秋山与助。(人夫三百人)同第三百四十三番地根本郡司。(人夫三百人)同第三百八十番地秋山周造。(人夫二百人)同第五十八番地松田庄松。(人夫百人)同根本五郎治。(人夫百人)同秋山幸次郎。(人夫百人)同秋山猶次郎。明治二十五年一月二十二日。
   印旛沼堀割ニ付助成人夫差出度願。(人夫千人)千葉県印旛郡宗像村鎌刈区第千二百九十番地石橋弁右衛門。(人夫千人)同石橋源治郎。明治二十五年一月二十五日。
   印旛沼開鑿ニ付助成人夫差出度願。(人夫一万五百人)千葉県千葉郡睦村平民植草兵左衛門。(人夫二百人)土屋吉五郎。(人夫百人)平川甚右衛門。(同)平川嘉助。(同)黒沢長吉。(同)富沢仁助。(同)中台三蔵。(人夫二百人)植草治郎吉。(人夫百人)中台竹治郎。(同)植草巳之松。(同)林定七。(同)土屋勝治郎。(同)浅野勝治郎。同中台げん。(同)黒沢恒吉。(同)土屋兼吉。(同)黒沢長左衛門(同)染谷平五郎。(人夫千人)印旛郡臼井町字角来菊坂助治郎。(人夫五百人)同江原町土肥金之助。(人夫十人)同臼井町台小林紋蔵。(人夫十人)同渡辺藤左衛門。(人夫五十人)同町秋山金七。(人夫三十人)同町大谷仁右衛門。


印旛沼経緯記内編 (織田完之著) 第三三八―三三九頁〔明治二六年七月〕(DK130021k-0002)
第13巻 p.204-205 ページ画像

印旛沼経緯記内編(織田完之著)  第三三八―三三九頁〔明治二六年七月〕
二十六年一月二十日織田完之上野東照廟ノ社務所ニ開ク参河懇親会ニ臨ム、会散シテ夜帰ルノ途次、本郷竜岡町十七番地土木局技師工学博
 - 第13巻 p.205 -ページ画像 
士清水済氏ヲ訪ヒ、印旛沼経緯記二十巻ノ成ルヲ報シ、且曰フ、曩ニ印旛沼測量図書ヲ以テ設計ノ事ヲ内務大臣ニ稟請スルヤ、大臣ハ之ヲ土木局長ニ命令シ局長ハ之ヲ君ニ嘱ス、而シテ君ノ印旛沼ヲ巡歴スルヤ吾輩随行実地ヲ案内シ、一巡シテ還リ、後数月間君ハ大明会ノ製図及ヒ書類ト内務省雇蘭工師フハントーロン氏等ノ調ヘタル図書トヲ考覈シ曰ク、印旛沼ヲ内洋ニ決導スル元来勾配少ナキヲ以テ沼中ノ平水ニテ運漕ノ便足ルヘシ、利根本川ノ平水ヲ分流スル蓋シ僅々タルニ過キス、故ヲ以テ安食ニ閘門ヲ設ルニハ及ハスト明言セリ、其ノ後君ハ工科大学生野田六次ヲ派遣シ其ノ設計ヲ試ミシム、六次ハ印旛沼地方ヲ巡見シテ帰リ、予ヲ訪テ該沼ニ関スル記録ヲ参照シ、遂ニ印旛運河設計書英文九十五頁ヲ作リテ之ヲ学科試験ノ論文トナシテ土木学ノ全科ヲ卒業シ、大坂土木監督署ニ奉職スルニ至レリ、予ハ君ヲ煩ハシ其ノ設計書ヲ転写スルコトヲ得、且ツ人ヲシテ之ヲ翻訳セシメタリシニ百三十余枚トナレリ、其ノ設計総費金八十万円ト定メ、中ニ安食村ニ調和水閘ヲ設クルノ説アリ、此ノ水門ヲ設ルノ事ハデレーケ氏モ報告書中ニ記シタレトモ実地巡検ノ時ハ不用ナリト云フ、此ノ閘門ヲ設ルノ件ハ果シテ不用ニ属シテ可ナル乎ト、曰ク然リ、此ノ閘門説ノ外ハ野田ノ調ヘ皆取テ用ニ供スヘシト、予曰フ、然ラハ則チ兼テ大明会ヨリ内務大臣ニ向テ印旛沼設計ヲ稟請シタル結果ハ此ノ計画書成ルヲ以テ一段落トナシ、事済ト見テ然ル可キ乎、曰ク然リ、予又曰フ、然ラハ則チ是迄大明会ヨリ内務省ニ出シタル図書ハ悉皆返戻ヲ請フ、曰ク諾予又曰ク、此ノ顛末ヲ我印旛沼経緯記ニ誌シテ記念ト為スヘキナリ曰ク善シト、遂ニ拝謝シテ去リ、即夜之ヲ筆ス
  明治二十六年一月二十日夜十一時
            大明会創立員  織田完之識


中外商業新報 第二七九五号〔明治二四年七月一二日〕 ○印幡沼開鑿発起人会(DK130021k-0003)
第13巻 p.205 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

渋沢栄一書翰 織田完之宛(明治三七年)一月六日(DK130021k-0004)
第13巻 p.205 ページ画像

渋沢栄一書翰 織田完之宛(明治三七年)一月六日  (織田雄次家所蔵)
○上略
印幡沼之事ハ何分愚案ニ能はす候、誰か土地開拓ニ実験多き人を撰定して担当為致度事ニ御坐候、尚右ニ付而ハ其中拝眉緩々御相談も可仕候、右不取敢拝復如此ニ御坐候 不宣
  一月六日
                     渋沢栄一
    織田先生研北
         侍史


(銀林綱男)書翰 渋沢栄一宛(年未詳)一月十日(DK130021k-0005)
第13巻 p.205-206 ページ画像

(銀林綱男)書翰 渋沢栄一宛(年未詳)一月十日  (渋沢子爵家所蔵)
 - 第13巻 p.206 -ページ画像 
貴簡拝読寒威甚候処弥御清適欣賀仕候、陳ハ織田完之氏編著内海経緯記並印幡沼開疏意見書等三巻御贈与被下一覧仕候、右事業ハ小生ニ於テモ大利益アル事ハ兼て相信居候得共、旧幕府以来再三着手之顛末、高低面積里程等右著書ニて始テ承知仕候次第深謝之至ニ候、我県下ハ御承知ノ通年々利根川防水ノ為地方税而已ニても凡拾万円ヲ費シ、一朝二十三年ノ如キ水害ニ罹ルトキハ公私ノ損害数百万円ニ及ヒ実ニ困難ヲ極居候間、印幡沼開疏ノ如キ利根川ノ水ヲ下流ニ於テ疏通スル事業ハ上流ニ停滞スル水量ヲ減シ得ヘキ利益可有之候間、何卒速ニ開疏事業相運候様希望仕候、右事業ハ開田ノ利ト運漕ノ便ト水害ヲ除クトノ三件ヲ目的トスルハ勿論ニ候得共、最モ公衆ニ利益ヲ及ホスハ水害ヲ除クノ計画ニ可有之ト信シ候、然ル上ハ検見川以北高陵ノ堀割ハ可成広クシ、又印幡沼口ノ江筋モ幾分カ之ヲ広メ候方可然ト存候、右ニ付てハ政府ノ事業トシテ挙行セラルヽハ固ヨリ切望スル所ニ候得共、若行ハレ難キトキハ、政府ヨリ会社ニ対シ利益ヲ保証スル者トシ、会社設立民業トシテ施行スルモ亦可ナラン、若此保証モ得難キ場合ニ至ラハ千葉・茨城・埼玉・栃木四県水害地ノ反別ニ応シ四県地方税ヨリ利益ノ不足ヲ補給スル事ト為スカ何レカノ手段ニ依リ疏水ノ道ヲ開キ小江戸川ヲ此地ニ作ル事最必要ト愚考仕候、右ハ御礼旁愚見申上候、乍憚織田氏ヘ御序宜御伝声奉願候 頓首
  一月十日               銀林綱男
    渋沢栄一様
         侍史