デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
23節 土木・築港
8款 大船渡築港鉄道株式会社
■綱文

第13巻 p.220-241(DK130025k) ページ画像

明治39年7月7日(1906年)

是ヨリ先栄一、奥羽地方開発ノタメ雨宮敬次郎等ト岩手県大船渡地方ニ鉄道ヲ敷設シ、併セテ製鉄船渠業ヲ創設セント図リ、是日大船渡築港鉄道株式会社創立委員トナル。十月十六日其委員長ニ推サレ、爾後政府当局者ニ対シ補助金下附申請ヲ始メトシ種々斡旋ニ努メタレドモ、四十二年六月ニ至リ其職ヲ辞ス。


■資料

竜門雑誌 第二二〇号・第三八―三九頁〔明治三九年九月二五日〕 ○大船渡築港鉄道株式会社の設立計画(DK130025k-0001)
第13巻 p.220-221 ページ画像

竜門雑誌 第二二〇号・第三八―三九頁〔明治三九年九月二五日〕
○大船渡築港鉄道株式会社の設立計画 今回青淵先生・近藤廉平・雨宮敬次郎・馬越恭平・小野金六・佐竹作太郎・園田孝吉・浅田正文・竹内綱・若尾幾造の諸氏設立委員として企画したる岩手県大船渡築港鉄道鉄業株式会社は資本金千五百万円にして、同所の築港及び同港より西方黒沢尻に於て日鉄線を横断し夫れより秋田県横手町に達し奥羽線に聯結する百二十哩の横貫鉄道を敷設し、兼て製鉄業をも営み、尚ほ事業の進捗に伴ひ前記資本金以外に更に資本を増募して一大船渠会社を新設するの計画なるが、該鉄道たる奥羽地方山岳重畳する僻遠の地人煙稀れなる処を横断する鉄道なれば起業後数年間は充分の収益を得る能はざるべきも、東北地方良好の港湾なきを遺憾としつゝある今日此に完全の港湾を新設し又た横貫鉄道を以て日本海太平洋方面との聯絡を計るは国家的事業として軽々看過すべからざればとて、前記設立委員諸氏及び設立人安田善次郎・大橋新太郎・大倉喜八郎・千阪高雅・井上角五郎・日下義雄・中野武営・吉田幸作・説田彦助・窪田弥兵衛・立川勇次郎・田中経一郎・織田昇二郎・岡本善次郎・袴田喜四郎氏は九月十七日附を以て利益六分に達する迄政府に於て補給を附せられんことを内務・大蔵・農商務・逓信の四大臣に出願したる由なり因に記す、同築港鉄道は多年建議案として議会に提出せられたるものにして、第十四、第二十二議会に於て四百万円の補助を与ふるの建議案を可決し大に此計画を賛したるが、折柄日露交戦に際し一時中絶の姿となりしを、去七月七日出資者相会し創立委員十五名評議員四十名を置くことに決し、同月十七日郵船会社楼上に創立委員集会し協議の結果愈々会社を設立する事に決し、同時に雨宮敬次郎・竹内綱・小野金六三氏を専務委員に推し、本月七日及同十四日両度に上野精養軒に賛成者の出席を求めて承諾を得、前記請願書に記名調印せりと云ふ、其資本金及事業目は左の如し
 資本金一千五百万円
    内
 一金九百万円        大船渡より横手(秋田県)迄鉄道敷設費
 - 第13巻 p.221 -ページ画像 
 一金四百五十万円      製鉄事業費
 一金百五十万円       築港費


銀行通信録 第四二巻第二五二号・第五二四頁〔明治三九年一〇月一五日〕 ○大船渡築港鉄道鉄業会社設立計画(DK130025k-0002)
第13巻 p.221 ページ画像

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竜門雑誌 第二二一号・第五二―五三頁〔明治三九年一〇月二五日〕 ○大船渡築港鉄道協議会(DK130025k-0003)
第13巻 p.221 ページ画像

竜門雑誌 第二二一号・第五二―五三頁〔明治三九年一〇月二五日〕
○大船渡築港鉄道協議会 本月十一日午後六時より同気倶楽部に於て開会せられたる大船渡築港船渠製鉄鉄道株式会社協議会には七十二名の出席者ありて、青淵先生を会長とし竹内・日下・守屋三氏より視察状況の報告をなし会長の指名を以て二十名の創立委員を挙ぐる筈にて内十二名丈け決定したり、其人名は青淵先生・雨宮・竹内・小野・浅田・馬越・佐竹・堀田・中野・井上・千坂・日下の諸氏にして事務一切を創立委員に委任することに定め、同三時半散会し直に創立委員会に移り、事務所の選定及び会社組織に関し協議の結果、資本金千五百万円を五十円株三十万株とし悉く発企人にて引受くる事とし一般の募集をなさず払込ますることゝし、其筋に請願中なる六朱六百二十六万円の補給金決定次第其の工事に着手するに確定し同六時解散したりと云ふ
次て同社創立委員諸氏には同月十六日午前十時日本橋兜町渋沢家事務所に其創立委員会第一回を開き、互選を以て青淵先生を委員長に、雨宮敬次郎・竹内綱・小野金六の三氏を常務委員に(内雨官氏は会計専務を兼ること)選定し、堀田正人氏《(マヽ)》を事務長に任命せり


竜門雑誌 第二二二号・第四三―四四頁〔明治三九年一一月二五日〕 ○大船渡築港鉄道創立委員会(DK130025k-0004)
第13巻 p.221-222 ページ画像

竜門雑誌 第二二二号・第四三―四四頁〔明治三九年一一月二五日〕
○大船渡築港鉄道創立委員会 同鉄道創立委員は本月九日兜町なる渋沢家事務所に於て第二回委員会を開き、松平正直男を創立委員に追加し委員の数を十三名と為したるが、第三回委員会を去十四日同所に於て開き、委員の外に守屋此助・栗原亮一両氏出席し、野呂工学博士の製鉄に関する意見を聞き、終りて運動方針に就き協議を凝せる結果、愈々大活動を試むる事に決して午前十一時散会せり
当日野呂博士演説の大要は、製鉄業の原料たる鉄鉱は海陸両面より搬入する者にして、陸は附近砂子沢・人首の両鉄山、海は宮古・相馬の両鉄山よりし、猶ほ原料の不足を告ぐる時は目下政府に於て不用に属
 - 第13巻 p.222 -ページ画像 
せる赤石鉄山の鉱石を使用し得べく、然らざるも附近諸鉄山の鉱石買収其他の方法に依り原料頗ぶる豊富なるを以て年額約二十万噸の製品を産出す可しと説き、進んで刻下の計画以外に猶ほ製鉄業に五百万円を投じ総額九百五十万円の資本を以て経営すべく、尚ほ後者の五百万円は補給利子出願以外とし之れを一般に募集し、着手の上は優に二割の配当を行ふ事を得べき見込なり、製品はレールを主眼とす云々、之れに対し守屋此助氏より政府は三千万円を投じて猶ほ年額九万五六千噸より外製出する能はず、然るに約一千万円を以て年額廿万噸を産出するは如何なる成算ありやとの質問あり、野呂博士より結局政府事業と民設事業の相違せる点等は斯の如き懸隔を生ずる旨を述べ、終りて渋沢男爵より製品の主要目的物としてレールを製作するは政府事業と対抗するの観を呈せざるなきかとの質問に対しては、日本目下の需要額は年額約三十万噸以上なるを以て、政府の製出額を十万噸とするも猶ほ二十万噸の余裕あり、然るに政府は政府の需要を充たすべきを以て会社の製品は何等の競争を試むる等の事なく優に民間に供給するを得可きを説明したりと云ふ
尚聞く所に依れば同鉄道の国庫補助の件に就き逓信省は目下技師数名を岩手・秋田の両県下に派遣し詳細の調査を遂げしめつゝあり、調査の結果補助を必要と認めたる上は追加予算として本期議会に提出する予定なりと


竜門雑誌 第二二三号・第四〇―四一頁〔明治三九年一二月二五日〕 ○大船渡築港鉄道株式会社の議員招待(DK130025k-0005)
第13巻 p.222 ページ画像

竜門雑誌 第二二三号・第四〇―四一頁〔明治三九年一二月二五日〕
○大船渡築港鉄道株式会社の議員招待 同鉄道株式会社創立委員には十一月二十六日星ケ岡茶寮に各政派の重なる人々を招待したるに、参会者は千阪高雅・松平正直・元田肇・大岡育造・栗原亮一・森本駿・改野耕三・加藤政之助・波多野伝三郎・堀田蓮太郎・石塚重平・横田虎彦・大野亀三郎等の諸氏にて、席上雨宮敬次郎氏の同築港及鉄道計画沿革談に引続き、青淵先生は熱心に東北の発達及び製鉄事業の必要を説き、政府当局者に陳情したる顛末を報告し、尚各政党に於ても十分該事業を調査せられんことを希望する旨を陳べ、出席者一同之を諒として散会したり
尚ほ同会社創立委員は本月十一日兜町渋沢家事務所に於て第三回創立委員会を開催し、事務の打合せ並に今後の運動方法に関して協議をなせしが、形勢は頗る良好にて両院通過に就ては十分の見込立ちたりといふ
   ○明治三十九年七月七日ハ栄一韓国旅行中ニシテ、三十九年度ノ栄一日記ハ七月十六日以下ノ記事ヲ欠クヲ以テ、当会社ノ記事ヲ見ルヲ得ズ。


竜門雑誌 第二二五号・第二〇―二一頁〔明治四〇年二月二五日〕 ○大船渡築港事業に就て(二月四日)(青淵先生)(DK130025k-0006)
第13巻 p.222-223 ページ画像

竜門雑誌 第二二五号・第二〇―二一頁〔明治四〇年二月二五日〕
    ○大船渡築港事業に就て(二月四日)(青淵先生)
  此篇は先生が大船渡築港鉄道株式会社創立委員長として其事に賛成を求むる為め憲政本党本部に於て為されたる演説の大意なり、但し筆記は中外商業新報に掲載せられたる所に依る。
大船渡築港・鉄道・製鉄の事業は昨年来成立に就きて種々手段を尽く
 - 第13巻 p.223 -ページ画像 
して運動中なるが、同事業は戦後国力の発展上必要欠く可らざる所なりと思考する所以を述べんに、先づ大船渡は東北に於ける絶好の良港にして既に十年以降頻りに識者の間に唱道せられ、殊に肝付兼行氏土木監督署等の調査報告に見るも完全無欠の良港たるは明かにして、其の修築費用の如き僅々にして完成し得べきは勿論、船舶碇繋区域の広大は横浜の比に非らざる而已ならず、繋船岸の広大なるに至りては大滊船六十艘を横付し得との土木監督署調査報告に見るも明かなり、一朝開港せらるゝ暁には東北唯一の良港として他に比肩する者無る可し而して陸上連絡は当然の事業として附帯せざる可からず、元来東北には縦貫鉄道三条あるも横貫鉄道は一も之れある無く、交通運輸の不便実に云ふ可からざる者あり、此の交通の不便は即ち東北の発展せざる所以にして、東京以南の発達せるに関せず常に東北の蠢動せるは誠に慨嘆す可き限りにして、之れを開発し国富を増進せしむるは誠に急を要する所と云はざる可からず、而して此目的を達せんが為め羽後に通ずる山脈を横断し開発の資源たらしめんとす、猶ほ築港鉄道の完成と同時に製鉄業を経営するは誠に已む可からざる所なり、即奥羽に於ける諸鉱物は無尽蔵の観ある中にも鉄山の有望なるは更に云ふを要せざる所にして、製鉄事業は国家の進運と伴ふ可き者たるを以て政府に於ても枝光の如き斯業に大に力を用ふる所なるが、日本刻下の進運の鉄の供給に伴ふ可きは言を要せざる所にして益々斯業の盛大を期せざる可らず、而して鉱物は海陸より搬入するを得べく附近鉄山産額も野呂氏の調査に依れば二千万噸以上の供給を仰ぐを得べし、斯して製出せる鉄材は政府の事業と競争するの結果に至らざる可きやとの疑問あるも決して然らず、単に民間の需用に応じて猶ほ不足を生ず可き計算なり、之れを統計的に云へば鉄の英国に於ける一人の使用量と我が国一人の使用高を比較するに約二十分の一或は三十分の一に当り益々斯業の有望なるを見る可し、且つ大船渡築港鉄道株式会社は利益を収得するの目的を以て設立せらるべきは性質として勿論なるも、事は国家の進運東北の開発に至大の関係を有するを以て国家の助力を仰がざる可からず、即ち補給利子を請願せる所以なるを以て、此大目的貫徹の為め有力なる憲政本党代議士諸君の賛助を乞はざる可からず云々


竜門雑誌 第二二五号・第四四頁〔明治四〇年二月二五日〕 大船渡築港鉄道会社創立委員会(DK130025k-0007)
第13巻 p.223-224 ページ画像

竜門雑誌 第二二五号・第四四頁〔明治四〇年二月二五日〕
○大船渡築港鉄道会社創立委員会 先生の創立委員長たる同会社創立委員は本月六日午後兜町事務所に於て委員会を開き、引続き午後七時より岩手・秋田両県上京委員は湖月楼に協議会を開きて左の事項を決議せり
 一、大船渡築港鉄道は築港なる名称を止め、築港費と計上したる百五十万円は陸上設備費又は海陸聯絡費として修正する事
 二、鉄道は政府に於て架設せらるゝ様催促する事、若し政府の財政上急速架設の余地なくば民間希望者に架設を許す事
   但六朱の補給は政府に於て架設するも無利息の金を投資するものにあらざる故、外国に払ふ利息を内地投資者に振替へ払はしむる方針を採る事
 - 第13巻 p.224 -ページ画像 
 三、政府当路者並に両院に請願し飽迄此議に於て成功を図る事
 四、岩手・秋田両県上京委員は目的を達する迄間断なく各大臣・次官・貴衆両院議員を歴訪する事


渋沢栄一 日記 明治四〇年(DK130025k-0008)
第13巻 p.224 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四〇年
二月四日 晴 寒
○上略午後二時憲政本党ニ於テ大船渡ノコトヲ演説ス○下略
二月十四日 晴 軽暖
○上略午前十時永田町ニ総理大臣ヲ訪問シ、精糖事業其他ニ付テ議員ヘノ注意ヲ乞ヒ、大船渡築港ノコトヲ述フ○下略
三月一日 晴 風強
○上略堀田正又来リ、大船渡築港ノコトヲ談ス○下略
四月八日 晴 軽寒
○上略午後一時大船渡築港ノコトヲ《(ニ)》関シ委員会ヲ開ク、竹内・雨宮・井上・小野・日下・佐竹諸氏来会ス○下略


渋沢栄一 日記 明治四一年(DK130025k-0009)
第13巻 p.224 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四一年
七月二十七日 晴 大暑
○上略午後四時事務所ニ抵リ、大船渡築港事業ニ関シ雨宮・竹内・小野氏等ト協議ス○下略


大船渡開港案内 第三頁〔明治四〇年六月二〇日〕(DK130025k-0010)
第13巻 p.224 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
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青淵先生公私履歴台帳(DK130025k-0011)
第13巻 p.224-225 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳           (渋沢子爵家所蔵)
    民間略歴(明治二十五年以後)
 - 第13巻 p.225 -ページ画像 
○上略
一大船渡築港鉄道株式会社創立委員長 三十九年十一月《(マヽ)》 四十二年六月六日辞任
○中略
  以上明治四十二年六月七日迄ノ分調


竜門雑誌 第二五三号・第四七―四九頁〔明治四二年六月二五日〕 【我青淵先生○中略本月六日…】(DK130025k-0012)
第13巻 p.225 ページ画像

竜門雑誌 第二五三号・第四七―四九頁〔明治四二年六月二五日〕
我青淵先生○中略本月六日○中略同日附を以て左記の如き辞任書及書状を発送せられたり
    辞任書
拙著儀頽齢に及び事務節約致度と存候間、貴社「何々役」辞任仕候此段申上候也
  明治四十二年六月六日          渋沢栄一
    書状
拝啓時下向暑の候益々御清泰奉賀候、陳は小生儀追々老年に及び候に付ては関係事務を減省致度と存し、今回愈々第一銀行及東京貯蓄銀行を除くの外一切の職任を辞退致候事に取極候に付、別紙辞任書差出候間事情御了察の上可然御取計被下度候、尤も右様役名は相辞し候へ共向後とて従来の御交誼上必要に臨み御相談に与り候事は敢て辞する処に無之候間其辺御承知置被下度候此段申添候 敬具
  明治四十二年六月六日          渋沢栄一
 辞任せられたる各種事業の名称及職任左の如し
○中略
 大船渡築港鉄道株式会社同○創立委員長
○下略



〔参考〕過去六十年事蹟(雨宮敬次郎述) 第三二一―三四二頁〔明治四〇年七月〕(DK130025k-0013)
第13巻 p.225-226 ページ画像

過去六十年事蹟(雨宮敬次郎述) 第三二一―三四二頁〔明治四〇年七月〕
    大船渡開港問題
大船渡開港問題は明治三十年頃から始つた事であるが、三十一年に巌手県の有志が大船渡に築港したいから、貴方仲間になつて呉れと云つて来たから、私には築港の利害がまだ能く分らないと云つてやつた所が、水路部長の肝付少将が知つてるから肝付少将に尋ねれば分ると云ふ、所が三十一年の十二月二十九日に肝付少将が帝国ホテルに来て大船渡の築港の事に付ての御演説があると云ふから聴きに行つた、海軍省の遠武秀行と云ふ人も来て居た。巌手県の人が五六人来て居たが、段々帰つて仕舞つて終まで残つたのは僅かの人であつた。
 然かし肝付少将は其んな事に頓着せず二時間ばかりの演説をして呉れた。聴いて居る人は二人、速記者が一人と云ふだけで到頭済まして仕舞つて、其速記したものを印刷にして見ると云ふと、なかなか是は大変もない良港である。湾の大きさは丁度長崎の湾を一ツ半位寄せた大きさである。既に八年ばかり前に英国の船が二十八艘碇泊したことがあつた位だ。水深は六七尋位で日本で一二と云ふ港である。其港が開けないのは何故であるかと云ふと、湾の四面が皆高山であつて、運輸が通じない高山であるから遂に今日まで開けずに居た。是はどうし
 - 第13巻 p.226 -ページ画像 
ても開かなければならぬ、肝付さんの演説に依ると普通一立方尺に人が十人居るものならば、こゝには二立方尺に一人位しか居ない、併しながら此港は国家有益なものであると云ふことを肝付少将から聞いてそこで是はどうしても国家の為に開かなければならぬと云ふ所から、熱心に此事を説いた。
 三十二年に大船渡まで自分で出掛けて行つて見た所が成程肝付さんの話の通りである。是は、何処までもやつて見なければならぬと思ふた○下略
 然し只港を開いたゞけでは行かぬ、港を開くには、第一に鉄をやらなければならぬ。此処で鉄をやれば自然に近所近辺の港から船が寄つて来るやうになる。さうすればだんだん此港の繁栄を来すだらう、よしんば彼所の港を開くにしても四面が高山であるから、此高山へ隧道を開かなければならぬ。此隧道はどうかと云ふと花巻の停車場から四十分の一の勾配をとれば四十五哩ばかりで行ける、六十分の一の勾配ならば六十哩の距離になる、そこで六十分の一の勾配をとつて測量さして見ると凡そ六百万円掛かることになつた。
 そこで築港の方はどうであるかと云ふと石垣を積んで唯設備をする丈の話であるから二百万円で出来る。さうすると四百万円掛けて製鉄所を起して築港と鉄道製鉄所《(鉄道とカ)》と見合てやつたならば一割や八朱の利益を得られると云ふので、大船渡開港鉄道鉄業期成同盟会と云ふものを作つた、是も矢張三十二年の事である。会頭には榎本さんを戴き副会頭は自分其任に当つて此事を処理して行つた○下略
○上略 其調査費用は初め十円づゝのを二百口集めて置たが其れで足りないで更に百円一口を二百人二万円の金を拵え其れで地所の調査や鉄道の測量をしたのである。併し其仕事が大仕掛けだけ何様も民間ばかりではやつて行けぬ、是は政府に保護して貰はなければならぬものであるから先にも屡々政府へ話をして見た、すると政府も矢張此事はやらなければならぬと云ふので議会の諸氏に諮つて見たが皆大賛成で遂に議員から補助を建議した、就中星亨氏の如きは自身態々視察に行つて大賛成を表し其結果百五十何人かの賛成者でとうとう議会を通過したさうこうする中に日露戦争が始まる、遂に伸び伸びになつて到頭去年三十八年に至つて又議会で大多数を以て「政府では早く補給を与へて此港を御開きなさい」と云ふことを建議した。そこで是は会社組織でなければならぬと云ふので会社組織に更めて、創立委員を選挙して今政府に願はんとして居る所である。○下略
   ○「過去六十年事蹟」ハ雨宮敬次郎ノ口述ニヨルモノニシテ、所掲文章中ニ目下大船渡築港ニ関シ奔走中ナル意味ノコトアルハ、同書ノ明治三十九年十二月編纂ニカヽル旨ノ序文ヨリ首肯シ得ベシ。


〔参考〕大船渡開港鉄道主唱発起趣意書 第一―一一頁(DK130025k-0014)
第13巻 p.226-228 ページ画像

大船渡開港鉄道主唱発起趣意書 第一―一一頁
    大船渡開港鉄道主唱発起会趣意書
一度坤輿ノ図ヲ披テ我国ト世界各国通商ノ線路ヲ見ヨ、西ハ一葦帯水ヲ隔テヽ亜細亜大陸ヲ牽連シ、東ハ太平洋ニ臨ンテ南北米ノ大陸ヲ控制シ、東西両洋ニ上下スル幾百ノ船舶北ハ晩香坡ヨリ南「サンチーゴ
 - 第13巻 p.227 -ページ画像 
ー」ニ至ルマテ皆我国ヲ以テ枢軸ト為サヽルハナシ、故ニ横浜以下ノ五港ハ勿論明治廿二年以来開キタル特別輸出港ノ如キモ益々貿易ノ繁盛ヲ来シ輸出入額ノ年々増進スルモノアルハ亦偶然ニ非ラサルナリ、唯々遺憾ナルハ我国商港ノ位置往々一方ニ偏在シテ天勝ノ国勢ニ副ハサル是ナリ、見ヨ九州ニハ長崎・門司・博多・唐津・口ノ津及三角アリ、中国ニハ神戸・大坂ノ外ニ下ノ関・四日市アリ、北陸ニハ新潟・敦賀・伏木及七尾アリ、北海道ニハ函館・室蘭・小樽及釧路アリ、独リ関東以北ノ東岸ニ至リテハ唯々一ノ横浜港アルノミニシテ蜿蜒幾百里東北ノ海岸一ノ良港無シ、如斯ハ独リ一地方ノ不利益ノミナラズ真ニ国家ノ一大病害ニシテ、之ヲ人身ニ譬フレバ半身偏枯シテ其用ヲ為サヽル如ク、其源々生産ノ発達ヲ妨害スルコト幾許ソヤ、然リ而シテ此ノ東北地方ハ海外輸出ノ産物ニ乏シキカ、曰ク否、東北即チ奥羽地方ハ元来面積大物産富内地第一位ヲ占メ、生糸・木材・銅鉄・米穀ノ大産地ニシテ特ニ支那ニ輸出スル水産物山ノ如キ、又近来発見シタル鉄鉱ノ如キ、石炭ノ如キ、金銀山ノ如キ、其他天産、地物ノ美利有ル者年一年ニ多キヲ加フレバ将来ノ産出高ハ実ニ意料ノ外ニ出テントス加之数年ノ後ニハ西比亜鉄道ノ貫通シテ渺茫タル亜細亜原頭天府ノ富源ハ此ニ開発セラレ、又世界ノ運輸交通ニ一大変化ヲ与ヘ、彼ノ青森海峡ニ至テハ東西両洋連絡線ヲ要扼シ卓然トシテ海門関鍵ノ位置ヲ占ムルコト地中海ニ於ケル「ジブラルタル」ノ如クナランコト火ヲ見ルヨリモ明カナリ、而シテ此ノ附近ニ良好ノ港泊ヲ設備スルハ我国ノ利益又世界ノ通商貿易上最モ喫緊ノ事業ナレトモ未タ北陸沿岸ニ於テ之ヲ得ル能ハズ、青森湾内亦良好ノ所ナク函館港ハ北方ニ僻在シテ其ノ本土ト隔絶シ、横浜港ハ南方ニ偏倚シ航路迂回ノ憂アリ、故ニ横浜以北函館間ニ於テ之ヲ求メザルベカラズ、然レトモ往年野蒜築港ノ挙アリタレトモ失敗ニ終リ、近来又松島湾築港ノ計画アルモ其港湾ノ不良ナル識者以テ往年ノ覆轍ヲ免カレサル者トス、独リ岩手県気仙郡大船渡湾ニ至リテハ実ニ天然ノ良港ニシテ(地図参観)誠ニ全国一二ノ良港ニ位シ、湾内深奥ニシテ優ニ数百ノ船艦ヲ容ルヽニ足ルノミナラズ如何ナル大艦巨船ト雖トモ直チニ岸ニ著クヲ得ベシ、殊ニ四面山ヲ以テ環ラシ如何ナル暴風狂濤アルモ之ヲ侵ス能ハズシテ湾内常ニ穏波洋洋トシテ明鏡ノ如ク(現ニ明治二十九年六月十五日ノ大海嘯ニ際シ実ニ気仙郡ハ其中心点ニ属シ惨状ヲ呈スル尤モ甚シク、其南隣小友村末崎村及其北隣唐丹湾並ニ綾里村ノ如キハ激潮ノ為メニ幾千ノ人命家屋船舶ヲ傷害シ土地貨財ヲ蕩尽シタルモ、独リ本湾沿岸各町村ノ恬然無事ナルヲ得タルハ則チ之ヲ証スルニ余アリ)且ツ水ノ深浅其宜シキニ適スルヲ以テ尤モ碇繁ニ便ニ、沿岸又平坦広濶ノ地多ク殆ンド天造ト称スベキハ当局者ノ調査ニ照シテ明白ナリ(海軍水路部長海軍少将肝付兼行君演述参照)特リ陸路交通ノ便ニ至リテハ未タ開ケズ天勝ノ良港モ為メニ其効用ヲ空フシテ古ヨリ徒ニ撈鰕採藻ノ区トナリ以テ今日ニ至レリ、然レトモ幸ニ其地タル日本鉄道幹線ヲ距ルコト僅カニ四五十哩ニシテ其間峻嶺崇岳ノ之ヲ鎖サスモノアルニアラズ、過半ハ平原大野ニ属シ鉄道ヲ敷設シテ幹枝連絡海陸貫通セシムルコト是亦容易ノ業ナリトス、此ノ鉄道ニシテ一タビ開通センカ陸路交通ノ便始メテ開
 - 第13巻 p.228 -ページ画像 
ケ本湾天勝ノ利始メテ発揮シ太平洋頭一大商港トナリ、我国港湾偏在ノ病始メテ癒エ奥羽地方百貸出入ノ咽喉関門トナリテ無尽ノ富源ヲ開発スルノミナラズ、亦西比利鉄道ニ対シ枢要ノ港場トナリ炭水供給ノ「ステーシヨン」タル地位ヲ占メ、万国千百ノ船艘林立輻輳スベキハ鏡ニ掛ケテ見ル如シ、足豈一大快事ナラスヤ、予輩此ニ感スル所アリ之カ開港鉄道ノ事業ニ従フヲ期シ、先ツ斯業ニ関スル株式会社組織ノ準備トシテ同志相会シ名ケテ大船渡開港鉄道主唱発起会ト称シ、此ニ港湾ノ実測及設計ト与ニ鉄道線路ノ撰定及設計ニ従事セントス(別冊規約ニ拠ル)嗟呼斯業ノ成効ハ豈啻ニ事業其ノ者ノ利益ヲ計ルノミナランヤ、亦将サニ進ンテ国家ノ福利ヲ増進シ世界的通商ノ必要ヲ充タス所以ニシテ対外策上一日モ之ヲ忽ニスルコトヲ得サルナリ、仰キ願クハ朝野ノ諸君子速カニ之ヲ賛襄シテ斯業ノ大成ヲ図リ玉ハンコトヲ
    附言
 他日本業ニ従事スルニ至テハ四近ノ地価幾層ノ騰貴ヲ致スベキヲ以テ、投機者流カ相競フテ要地ヲ先占壟断スルカ如キノ奸策ヲ逞フスルハ必然ナリ、故ニ気仙郡ニ於ル大船渡湾開港期成同盟会(地方有力志士ノ結合)ナルモノアリ、既ニ之カ予防策ヲ講シ、大船渡村・盛町・赤崎村ノ一町二村ニ属スル(以上共ニ開港上必要ナル地)民有地大凡弐百町歩ハ予メ価格ヲ定メテ之ヲ買収スルノ予約ヲ為シアリ、其協同借地ニ係ル海苔採場大凡三拾万坪ノ如キモ之カ払下ノ準備ヲ整ヘツヽアリ、共ニ本業株式会社成立ノ上ハ無償ヲ以テ之ヲ会社ニ引継クノ計画ナリ、聊カ此ニ附記シテ賛成諸君ノ注意ニ供ス
  明治三十二年二月 日     発起人
                  岩手県 石井省一郎
                  同   伊藤儀兵衛
                  同   大隈英麿
                  同   小田為綱
                  同   名須川良平
                        ○他六十六名氏名略
                  青森県 菊池九郎
                  同   奈須川光宝
                  秋田県 大久保鉄作
                  同   大日向作太郎
                  山形県 山下千代雄
                  同   小倉信近
                        ○他四名氏名略
                  東京  遠武秀行
                  同   雨宮敬治郎《(雨宮敬次郎)》
                  同   高城元胤幸
                  同   浅野正友
                  同   石井順治
                  同   林通友


〔参考〕大船渡開港鉄道主唱発起趣意書 第一三―一四頁(DK130025k-0015)
第13巻 p.228-229 ページ画像

大船渡開港鉄道主唱発起趣意書 第一三―一四頁
 - 第13巻 p.229 -ページ画像 
    大船渡開港鉄道株式会社主唱発起会規的
第一条 本会ノ目的ハ陸前国気仙郡大船渡湾ヲ貿易港トナスニ付、日本鉄道幹線ヨリ同湾ニ至ル間ノ鉄道ヲ布設スルカ為メ株式会社ヲ組織スルニ在リ
第二条 本会ハ同上ノ目的ヲ達スル為メニ左ノ計画ヲナス
     一大船渡湾ノ開港上必要ナル実測及設計
     二日本鉄道幹線ヨリ同湾ニ達スル鉄道線ノ撰定及実測並ニ設計
第三条 本会ハ会員ノ総会ニ於テ左ノ役員ヲ選挙スベシ
     一会長
      会長ハ委員ノ協議ヲ経テ本会一切ノ事務ヲ整理シ及会計ノ責務ニ任ス、但委員中ノ互撰ヲ以テ之ヲ定ム
     二委員
      本会ノ目的ヲ達スル為メニ諸般ノ協議ヲナシ事業ノ進行ヲ計ル
     三事務員
      会長ノ指揮ヲ受ケ庶務及会計ニ従事ス
第四条 本会ノ役員ハ総テ無給トス、但会長ノ見込ヲ以テ実費ヲ補給スルコトアルベシ
第五条 本会員ハ本会ノ目的ヲ達スル為メニ金弐千円ヲ醵出シ其実費ニ充用スベシ、但本会員ヲ弐百人トシ一人金十円ヲ出金スルモノトス、又一人ニシテ数人若シクハ数十人分ヲ出金スルモ妨ケナシ
第六条 前条ノ出金額ハ株式会社創立ノ上ハ其創立費中ヨリ返還スベシ
     但株式会社成立ニ至ラサルトキハ総会ノ決議ニ拠リ処分ス
第七条 本会ハ開港ノ測量設計及鉄道線ノ測量設計ノ完了ヲ以テ終局シ株式会社発起人ニ引継クモノトス、但本会員ハ株式会社ノ株主タルト否トハ各自ノ随意タルベシ
第八条 本規約ニシテ規定セサル条項ハ総テ民法組合ノ法律ニ従フ可シ


〔参考〕大船渡開港鉄道主唱発起趣意書 第一五―三六頁(DK130025k-0016)
第13巻 p.229-232 ページ画像

大船渡開港鉄道主唱発起趣意書 第一五―三六頁
    大船渡ノ開港ニ対スル私見
 此筆記ハ、当日○明治三一年一二月二九日ノ演説筆記ニ拠リ、読者ヲシテ判読ニ易カラシメムガ為メニ、冗辞ヲ除キ欠意ヲ補ヒ、以テ其要旨ヲ務メテ簡約ニ綴リ直セシモノナリ、故ニ当日ノ演説トハ、其辞ニ異ナル所アルヲ免カレスト雖モ、其精神ニ於テハ、更ニ異ナル所ナク、寧ロ一層明瞭ニ為シ得タリト信ス、読者宜シク先ツ之ヲ諒スベシ。
                             肝付兼行
諸君私ハ今日此処ニ諸君等ガ御集マリニナルニツキ、大船渡ノ港ノコトニツイテ一場ノ談話ヲシテモラヒタイトイフ御求メヲ遠武君ヨリ受ケマシテ出席シタノデアリマス。就テハ十分ニ御話ヲシテミル積リデアリマスガ、職掌ガ職掌、即チ職ヲ水路部ニ奉シテ居リマスカラ、タ
 - 第13巻 p.230 -ページ画像 
トヘ公談デナイニモセヨ、亦言責ヲ重ンジナケレバナリマセヌ、従フテ思ヒ切ツタコトハ謂ヒ尽シカネマスガ、要スルニ、私ガ大船渡ノ開港ヲ以テ、有利多望ノ事業デアルト信ズルノハ、胃即チ食物ヲ消化スル機関ノ丈夫デアル人ガ極メテ健康ナルガ如ク、国モ亦其物産ヲ消化スル所ノ胃ノ丈夫ナ国ガ極メテ強イ、故ニ富国ニ強兵ニ其働キヲ十分尽サウトイフニハ、ドウシテモ先ヅ国ノ胃ガ丈夫デナケレバナラヌト云フ理屈ニ基ヅクノデアリマス、ソコデ国ノ胃トハ、是レ即チ港ニ外ナラナイノデアル、鉄道船舶等ノ如キ亦固ヨリ物産ノ消化機ニ相違ハナイガ、是等ニナルト港ガアツテ始メテ其働キヲ尽シ得ルノデアルカラ、結局国ノ胃トイフコトニナルトドウシテモ港デナケレバナラヌ、サレパ《(バ)》港ハデキレバデキル丈、其国ガ益々健康即チ富ミガ増シテ兵ガ強クナルノデアル、ソコデ大舟渡ノ開港モ、私ノ眼カラ見ルト東北一部ノ事業デナク、国家事業トシテ論ジナケレバナラヌ事柄デアル、故ニ話ガ大ニ迂遠ニナルカモ知レヌガ、先ツ我国ガ世界ノ一大国トシテ如何ナル地位地形、如何ナル特利、如何ナル欠点ヲ有スルカヲ陳述シ次キニ其陳述シタル所ニ処スルノ道ヲ述ヘ、ソーシテ其手段ニ論ジ及ボシタラバ、我日本人ノ自今世界ニ対シテ働クヘキ方針ガ定ツテ来ヤウト思イマス、ソースルト港ナル者ノ国ニ必要ナル所以ガ、自然ニ能ク分ツテ来ル筈デアリマスカラ、ソコデ先年来、敦賀ニ、大阪ニ、博多ニ、松島湾ニ、孰レモ世ニ紹介ノ労ヲ取リナガラ、何故ニ此大舟渡ナル港ヲ今日迄世ニ紹介スルニ務メナカツタカノ理由ヲ述ベ、続イテ今日之ヲ世ニ紹介スル時機ノ到来シタコトニ説キ及ボシ、ソーシテ大船渡ノ港トシテ其各要素ニ欠クル所ナキ我国有数ノ良港タル所以ヲ明ラカニシマシタナラ、諸君等ノ私ニ御求メノ要点ニハ、ドウカ御答申スコトガデキヤウト思ヒマス、ソコデ言論ノ極ハメテ下手ナ上ニ、斯ク所見ヲ遠大ニ述ヘヤウトスルノデアリマスカラ、御聴キ苦シイニ加ヘテ話シガ随分長クナラウト思ヒマス、暫ラク御辛抱アツテ御聴取ノ程ヲ願ヒ置キマス。
ソコデ先ヅ、我国ノ地位地形トイフコトヲ、御話シシヤウト思ヒマスガ、世界輓近ノ形勢ニ注目シテ見ルニ、概シテ世界ニ海上権ヲ占有シテ居ル国ハ、皆其国ガ富ムデ兵ガ強イ、即チ一国ノ振フト振ハザルトハ、実ニ海権ヲ有スルト有セサルトニ因テ定マルトイフテヨイノデアリマス。
○中略
偖、述ヘ来リマシタ所ハ、我日本国民ガ、国富ヲ発達シヤウトイフニハ、将来ニドウシテモ実行シテユカナケレバナラヌ事柄ト私ハ信ズルノデアリマス、ソコデ又港ノ如何ニ直打ノアルモノデアル乎、之ヲ開クコトノ如何ニ利益ナモノデアル乎ヲ知ルニ、玆ニ「文明ノ元ハ交通ニ在リ、而シテ交通ノコト、過半ハ水利ニ属ス、故ニ一国文明ノ進歩ハ其国海岸ノ多少ト比例ス。」トイフ先哲ノ言ガアリマスガ、此海岸ノ多少トイフコトハ取モ直サス港ノ多少デ、詰リ海陸交通ノ接続点ノ多少トイフコトデアリマス、又彼ノ海外トノ交通ヲ、絶ツコト之ヲ鎖港トイヒ、開クコト之レヲ開港トイフニ徴シテモ、開港ノ進取的デ、港ト其国文明ノ進歩トノ関係ノ如何ニ重大ナルモノデアル乎ガ分リマ
 - 第13巻 p.231 -ページ画像 
スガ、港ハ他ナシ是文明輸入ノ門口デ、其土地ノ百事之レ有レハ則チ進ミ、之レ無ケレハ則チ進マヌノデアリマス、ソースルト、港ハ幾ラデモ、収支ノ償フ見込ノアル処ニハ、開クガ何ヨリモ国家ノ為メニナリ、之ヲ開クハ実ニ一国文明ノ進歩富源開発ノ第一着手デアリマス、ソーシテ現今ノ所デハ、我国ハ全体ガ述ベマシタ通リノ有様デアルノミナラス、諸君等ニ対シテハ誠ニ申シニクイコトデアリマスガ、東北ハ殊ニ百事ニ後レテ居ル方テアリマス、故ニ其土地ニ港ノ開ケルコトハ、独リ直接ナル実利上ノミナラス、間接ニハ実ニ人智ヲ開発スル庶物示教ノ一手段トシテ、教育上ニハ勿論、又殖産興業ノ誘導ニ、永久無限間接ノ鴻益カアロウト思ヒマス。
偖、大船渡ハ、明治十四年ニ海軍デ発見シテ、其際ニ測量シタ港デアリマスガ、私カ日本ノ港湾論ヲ演説シテ之ヲ世ニ告タノハ、明治二十四年ノコトデアリマス。ソーシテ其時ニハ時勢ノ然ラシムル所、其他自分ガ判定ノ届キカネル所カアツタノデ、要スル処、港ハ非常ニ良イガ、開イテモ其成立ツコトガ難イト信ジタノデアリマス、仍ヲ《(テ)》当時ハ結局開ク見込ノナイコトニ論ジテ置キマシタガ、今ヤ即チ開イテモ成立ツベキ見込ノ立ツ時節ガ到来シテキタノデ、其理由ハ斯ウデアリマス、凡ソ陸岸ノ環繞、広サ及ヒ水深ノ適度、底質ノ佳良、揚陸ノ便利トイフコトハ、港ニ必要ナ要素デ、之ニ欠クル所ガナケレバ、則チ良港ニハ相違ナイガ、其港ノ繁昌スルヤ否ヤハ、其地位ノ舟運ノ便アル河道ノ口ニ在ルヤ否ヤ、主要ナル輸出物産ノアルヤ否ヤニ因テ、決スルモノデアル。其例ハ遠キ支那ノ上海、近キ我新瀉及石之巻等《(潟)》ノ、或ハ出入ニ困難ナル、或ハ碇泊ニ最モ不安全ナル、孰レモ欠点ノ多イ港デアルニモ拘ラス、其繁昌シ又繁昌ヲ失ハナイ所以ハ、是全ク上海ノ揚子江ノ口ニ在リ新潟ノ信濃川ノ口、石之巻ノ北上川ノ口ニ在ツテ、内地ノ水運ニ富ミ、従フテ出港貨物ハ固ヨリ、入港貨物ノ自然ニ少ナクナイノニ因ルノデアル、然ルニ大船渡ハ、繋船揚陸ノ便利ニハ欠クル所ハナイガ、二十四年頃ニハ未タ此河道ニ代ルベキ機関即チ人造ノ河道タル所ノ鉄道ガ、此処ニ通ジヤウトイフ見込ガ立チカネタ、即チ名負北上山系《ナニシオフ》テフ大山脈ノアルノミナラズ、私立事業ヲ以テ此港ニ鉄道ヲカケヤウトイフヤウナコトハ、決シテ望マレナカツタノテアル、加フルニ鉄鉱ノ調査モ未ダ不十分デアツテ、此港ガ鉱鉄ノ積出シ口トナルトイフヤウナ算ガ立タナカツタ。是レガ嚮キニ開ク見込ノ立チカネタ所以デアル、然ルニ、今ヤ実地測量ノ結果、人造ノ河道ニシテ繁昌ノ大要素タル鉄道モ容易ニ布設スルコトガデキルトイヒ。又此鉄道ノ一タビ通ズル上ハ仙人山其他ヨリ鉱鉄ガ非常ニ出テ、皆此鉄道ニ依ツテ大船渡ニ出ルトイヒ、ソーシテ其鉄道モ官設ヲ待タス私設デデキルトイヒ、港ハ固ヨリ長崎ニ尚ホ半バヲ広クスル丈ノ面積ガアツテ、其要素ニ於テハ、陸ノ環繞《トリマキ》ニ、水ノ深サニ、底ノ土質ニ、船デ岸ニ近寄レルコトニ、何モ欠クル所ガナク、即チ繁泊ノ安全、水陸間ノ便利ニハ、申分ガナイノデアルカラ、要スルニ収利ヲ投機的ニ争ハズシテ永遠ニ鞏固ナル利益ヲ得ルノ算ヲ立テ、当分ハ先ヅ放資ニ相当スル報酬ヲ得レバ足ルトイフ心持デ、偏ニ東北人智ノ開道ト勧業トヲ目的トシ、半利半義ノ公共心ヲ以テ先ヅ其鉄道サヘ布設シタナラバ港ハ差向
 - 第13巻 p.232 -ページ画像 
キ手ヲ入レズトモ其儘役ニ立ツノデアルカラ、忽チニシテ便利極マル鉄道ト船舶トノ接続地トナリ、其繁昌ハ年一年ニ増シテ、蓋シ十年ヲ待タズ東北有数ノ繁華港トナリ、東北ノ気運ヲ一変スルニ至ルハ、期シテ待ツベキコトデアリマス、況シテ東北ニ港ノ少ナイノハ、此港ノ成立チニ、却テ望ミガ多イノデアリマス、ソコデ、此公共的義心ノ放資ノ鞏固ナル世襲財産ト変ズルノモ恐ラクハ十年否数年ノウチデアロウト信ジマス、尚ホ桟橋、灯台、船渠、検疫消毒等ノ位置建設ニツイテハ、既ニ図上ノ考案ハアリマスガ、要スルニ是等ノ事ハ港ノ繁盛ニ趣キ出シタ後トデモ晩カラヌコトデアリマス、故ニ猶実地ヲ詳細ニ見タ上デ他日述ルコトニ致シマセウ、即チ私ガ現今大船渡ノ開港ニツイテ成立ツ見込ノアルトイフノハ、先ヅ大要斯ウイフ理由デアリマス、終リニ尚ホ松島湾築港ノコトヲ一言シテ置キマスガ、是モ私ガ見込ヲ立テ、謂ヒ出シタコトデアリマス。其工事ハ固ヨリデキ得ヘキ工業デデキ上ツタ上ハ実ニ盛大ナ港トナロウト思ヒマス、然シ大船渡トハ全ク其施工カ別デ、港泊地ヲ造ルコトガ第一デアルカラ、仮令償フ道ガアツテモ巨額ノ資本ガ一時ニ要ル、故ニ鉄道サヘ布設スレハヨイ大船渡ノ企工トハ、其資本及工事ノ困難ニ非常ノ差ガアルノデアル、即チ大船渡ノ方ハ工事ガ容易デ、金ノ要ルコトモズツト少ナイノデアル、私ハドウゾ両処トモニ成切《(功)》セムコトヲ、東北ノ産業発達ノ為メニ希望致ス者デアリマス。
又大船渡ノ室蘭ニ近クシテ、北海道ノ石炭ヲ入レルニ便利ナコト、又其小名浜平潟ニ近クシテ、磐城炭ヲ入レルニ便利ナコトハ、従フテ船舶用及将来其内地鉄道線ノ沿路ニ興ルヘキ工業用ノ石炭ヲ供給スルニ便利デアルカラ、是亦此港繁昌ノ一要素トシテ特ニ数フベキモノデアルト信ジマス。
又将来米国行キ物産ノ東北ニ発達スルトキハ、横浜ヨリモ近イカラ、此港ガ自然ニ其出口トナツテ亦其直輸入品ヲ生ジ、米国太平洋岸ノ諸港トノ間ニ航路ノ開ケル望ミガアル、尚ホ将来ニ眼ヲ注クトキハ、未ダ幾ラモ話ハアリマスガ、余リ長クナリ、モハヤ私ノ大船渡開港ニ対スル意見モ、迀遠且ツ不十分ナカラ、略ボ御了解ニナツタロウト思ヒマス、故ニ今日ハ之レデ止メマスガ、偖、諸君我国ガ是迄世界ノ進運ニ後レタノモ、亦東北ガ是迄我国ノ進運ニ後レタノモ、要スルニ交通ノ機関ヲ欠イタガ為メデ、詰リハ是全ク港ナルモノヲシテ其用ヲ尽サシメナカツタコトニ帰スルノデアリマス、ソーシテ今ヤ我日本ハ戦後其国位ヲ進メ、之レガ経営ノ為メニ国財ニ甚タ窮シテ居ルノデアリマス、即チ海外ヨリ財貨ヲ吸収スルコトハ、何ヨリモ国家今日ノ急務デアル、サレハ大船渡ニ貿易港ヲ開クコトハ、国家ノ為メ、時代ノ為メ地方ノ為メニ、実ニ有益多望ナ好事業デアリマスカラ、玆ニ之ガ必成ヲ望ムト同時ニ、地方ノ産業ヲシテ益々発達セシムルコトニハ、自今大ニ用意セラレムコトヲ偏ニ希望致シテ置キマス。


〔参考〕東京経済雑誌 第五四巻第一三六六号・第一〇二一―一〇二三頁〔明治三九年一二月八日〕 大船渡港視察の結果(上)(DK130025k-0017)
第13巻 p.232-235 ページ画像

東京経済雑誌 第五四巻第一三六六号・第一〇二一―一〇二三頁〔明治三九年一二月八日〕
    大船渡港視察の結果(上)
         (経済学協会十一月例会に於て 守屋此助君演説)
 - 第13巻 p.233 -ページ画像 
諸君、此の港と云ふ事に就ての観念は、我々先祖が一向無頓着のやうであつたが、此の前の会に阪谷君がちよつと話された如くに、港の良否は其の国の盛衰消長に関することは世界列国の有様を見ても明である、故に日本の国でも近頃港の事に付ては先覚の士が眼を着けられて海陸連絡の必要上、一つの港に、数千万の金を擲つやうになつた、十年、二十年前までは一つの港に付て三千円、五千円の金を注込むのは狂人若くは愚人のやうに思はれたが、今日は余程それが歓迎される時勢になつて来た、それで私は大船渡港の事に付て御話したいが、いつぞや経済学協会で肝付さんが言はれた通り、東洋に於ても他に斯う云ふ良い港は無いのであります、新嘉坡と雖も斯う云ふやうな天然の形は存してない、是は日本の国の天恵で斯う云ふ形になつて居る、私は他の国の港も五六、日本の港に付ても一種の道楽を持つて居るので方方見て歩いた、所が実に小説家が筆の先きで書いたら、此の様な港は希望通りの物が書けるだらう、画工が之を見て描いたら望み通りの物が画けるであらうと思ふ程の物は此の大船渡の港であります、大船渡へは今から二ケ月ばかり前に参つた、所が流石は星亨君である、世の中が港の論をし出す前に星君は既に此の港を視て居る、三十一年に星亨君が此の港を視て下すつたと云ふことをば、あちらの人は言つて居る、成程星と云ふ人は一部分に付ては悪る口を言はれたが、日本の政治家で、あの離れた所の交通不便極はまる所へ行つたと云ふことは、一頭地擢でて居つた人であると思ふ、大船渡に行つた時に、それを聞いて倩々感じたのであります
大船渡の港はどう云ふことになつて居るかと云ふと、総て数字の事柄は肝付さんが水路部長として調べられた責任ある官吏の調査と、それからもう一つは明治三十二年に土木監督署で調べられて、内務大臣へ報告して居る責任ある官吏の調査がある、此の二つの物に付て数字の御話をしたい、私は此の港が広い所で何百何十間あるか、唯船の内で浪の立つて居る上を走つたので深さがどの位ゐか分らなかつたが、幸にして二人の責任ある官吏の書類がありますから、之に付て申しますが、此港は巌手県でモトの日鉄で花巻の停車場から黒沢尻に行く、略ぼ六十哩弱の所でありましてあすこの港の這入口は東を受けて居る、東から這入つて北にずつと五六十町奥に這入つて居る、丁度鍵の形になつて居りますが、其の東から這入る口の間数が四百五十間ある、それから鍵の曲つたやうになつて奥に這入るのが五十町余、それで湾内の狭い所が四百十五間、広い所が千百間余、まるで嚢の口に這入つた如き形をして居る、此の港に船を着けるに宜いことは岸の根が直ぐと深くなつて居る、それから這入口に三合島と書いてありますが、此の島が左右にあつて、此の島のあるのを一つの港として非難するけれども、此の岸の東の水の深い所、即ち三十呎までの吃水の所が三百三十三間、水深四十呎までの所が二百二十間、それから島の西側の水の深さは三十呎の吃水で百十七間、水深は四十呎までの所が九十三間であります、それ故に大船巨舶が自由自在に左右共に出這入りが出来ると云ふ責任ある官吏の報告書に書いてございます
先づさう云ふ港であれば、長崎の港の双方に山があつても屹立つて居
 - 第13巻 p.234 -ページ画像 
るので市街を拵へることが出来ぬやうなことはない、長崎には三菱が船渠を拵へて居るが、断岸絶壁の所にあるので大金が掛つて居る、且つ其長崎の市街は山の阪になつた所にある、然るに大船渡のは鍵になつて居て丁度神戸の諏訪山に上ぼつて行くやうで、山の麓に勾配が付いて居る、それから行止つた所が二里ばかりと云ふもの平坦砥の如くであります、船の出這入りするにも非常に良く、又我が国開闢以来斧も鋸も入れない山がありますから、清水の奇麓なものが涌出て居つて如何にも清潔である、鉄管などを敷いて飲料水を遠方から取るに及ばぬ、それから五六里行くと五葉山と云ふ山があつて、価にすると数百万円の価のある樹木がある、さう云ふ訳でありますから、港に付て人間が総ての仕事をする上に都合が好い、建築をして人間が住ふに第一の必要なる水も十分であります、さて此の港は日本に是まである港に比較すると長崎のは吃水二十八呎は保てない、所が大船渡は三十呎以上四十呎又五十呎の所もありまして、それが今申したやうな広い面積がある、長崎の港は九十二万坪、横浜の港は百六十万坪、大船渡は港として使へるのは百五十三万坪あります、百五十三万坪であると横浜の港より七万坪狭いが、狭いと云つても吃水に至つては横浜如きものでない、横浜のは、モト二十五呎の吃水であつた、それが「モンゴリア」号が初めて来ると云ふ時に二十八呎の吃水にしないと這入れないと云ふので四万両掛けて渫つた、それで「モンゴリア」が来た時に私も見に行つたが、あの船が這入つたらずつと水が濁る、底に触れるからさうなる、モトは二十五呎の吃水であつた、それを二十八呎にしたけれどもそれでも濁した、それから「ミネソダ」、「タコマ」が来ると云ふことになつて、日本の港に亜米利加で出来た二万一千噸の船が這入れぬとあつては国辱だ、三十二呎の吃水を保たしめなければならぬと云つて又七万両掛けた、「モンゴリア」、「ミネソダ」、「タコマ」が来るに付て丁度十一万円を掛けて一部分三十二呎の吃水が保てるのでございませう、それで横浜の港は比較的今日の港は完備して居りますが、底が「トタン」岩でありまして、錨がうまく掛からぬ、「トタン」岩は石と土との凝まりでザラザラとなる、何でも港は底が砂で錨がジツと喰はなければいかない、それで此の大船渡港は是は天の恵であると言はれて居る、是は海軍大臣の斎藤君も、賞めたいけれども自分の国であるから我慢をして居るのであると肝付さんが言はれた、全く是は天の恵である、五十呎、六十呎行つた所でもうまく錨が掛かる、二万噸の船は措いて五万噸の船を酔狂者があつて拵へてやつて来ても、大船渡の港は渫はぬで十分に這入る、斯う云ふ港がある、そこで二十世紀になつて此の港の良否が国の盛衰消長に関すると云ふことであれば、天の恵みで斯う云ふ所がある以上は、人力人智のある者は何とか考へなければならぬ、是だけのものがあるから、そんならば大船渡が開けて、ナニ神戸横浜の街くらゐは何でもないと云ふことになりさうなものであるが、何を云ふも六十哩の間、山又山でありますから、一噸の鉱石を運ぶにも一俵の米を搬ぶにもそれは大騒きだ、六十哩の間に小友峠、白石峠と云ふ二つの峠があつて、二哩近くの隧道《トンネル》を拵へなければならぬ、さう云ふ所でありますから何んにも交通が付かぬ、一
 - 第13巻 p.235 -ページ画像 
時英吉利の東洋艦隊が這入つて来たことがあるけれども、豚を買はう鶏を買はうとしても、迚も一艘の船が需める供給が出来ない、日本の船でも避難の為に来ることはあつても、唯這入ると云ふだけで、物資の供給が出来ませぬから、直ぐに出て行つて仕舞ふ、天の与へた此の恵みを望見して居る、是は人力人智学識学問で動かすことが出来ぬと云ふことなら、我れは手を拱いで待つのみ、唯之を開けば、僅か六十哩、一哩十万円の金を掛けても六百万円あれば鉄道が架かる、然かも此の港には大船巨舶が桟橋に横着けになる、「ミソネダ《(ミネソダ)》」、「タコマ」と云ふ船なら何艘でも横着けにすることが出来る、それはタツた百五十万円で出来る、岸まで深くなつて居るので非常に良い、阪谷君は神戸の港に三千二百万円を掛けて、防波堤を拵へ埋立地を拵へ繋船岸を拵へて、それに船を着かせやうと云ふので之が為に大金が掛かる、それを天がスツかり拵へて居るのは大船渡である、僅々百五十万円あればどんな船が這入つて来ても、荷物の揚卸なども直ぐに出来る、御承知の如く「ミネソダ」、「タコマ」などは電気力を以て、ドンドン荷物の揚卸をするので此の横着けになる所では僅な時間で荷扼をする、所が此「ミネソダ」が荷物を一ぱい着んで横浜あたりに来ると二十日掛つても荷扼が付かぬ、シアトルではそれを六時間で荷扼すると云ふことである、もう桟橋に着くと荷の揚げ下げは電気の力でやる、横浜の港は浪風が立つといけぬとか、夜はいけぬとか云ふので二十日も掛かるさうであります、何ぜに一艘の船でそんなに掛かるかと云ふと、設備が悪るいからでございます、然る所横浜も今日又八百万円もかけてやると云ふことでありますが、それにしてもナカナカ大船渡に及ばざること数等の下に居る、それで横浜では外の方に防波堤をして、生麦の辺の所に拵へると云ふ設計がある、併しさうした所で是が世界の貿易港だと云ふことは思ひも依らぬ、あれが十年を経るとあの港は裏店港で、どうにも斯うにもならぬ、パナマの地峡が開けて大西洋から来る船が這入るやうになれば、今より十年後には意外な大きい港を拵へなければならぬ


〔参考〕東京経済雑誌 第五四巻第一三六七号・第一〇六七―一〇七〇頁〔明治三九年一二月一五日〕 大船渡港視察の結果(下)(守屋此助君演説)(DK130025k-0018)
第13巻 p.235-238 ページ画像

東京経済雑誌 第五四巻第一三六七号・第一〇六七―一〇七〇頁〔明治三九年一二月一五日〕
    大船渡港視察の結果(下)(守屋此助君演説)
大船渡の港は大躰先づ以上の如き次第であるが、之を開くにはどうしたら宜いか、鉄道を開けばそれで宜いか、鉄道を開いたばかりでどうするか、是には渋沢男爵を委員長として戴いて居らるゝ所の大船渡築港・鉄道・製鉄と云ふ三つの事柄を目的とする会社事業が起りつゝある、是は三つとも離るべからざる所のものでありますと云ふのは、港だけでは何んにもならぬ、鉄道を敷かなければいけない、其の鉄道も港の無い所に敷いては何んにもならぬ、港無しとしてやれば是は狂人にあらざれば愚人であります、そこで築港と鉄道と其の次が製鉄事業である、是は満山金属鉱石・鉄が大部分でそれに次では銅山である、それからもう一つは金山、此の金山も渡辺博士の考では非常に有望である、けれども学者の議論は甲の学者が右と云へば乙の学者は左と云ふ論がありますから分りませぬが、大学の博士として日本政府があれ
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だけの待遇をせらるゝ所の渡辺君の考であると四十億の金があると云ふ、大船渡から僅か一里ばから《(り)》離れて金山かある、四十億有るか無いかは知りませぬが、私が細谷川に行つた時に砂金を拾つて居るのを見た、子供や女が金を拾ふ、是は砂鉄砂金と云ふ事柄を営業にし、稼業にして居ない者が拾つて来る、兎に角金のあることは確である、量の多少は我れ保証せず、所が或方の説では無いと云ふが、是は無いとも有るとも云へない、有るか無いか半分半分、併し半分にしても二十億あれば宜いが、さう云ふ訳にもいかぬ、けれども鉄は確にある、何ぜ守屋は鉄は確だと云ふかと云へば行く路広袤数里の間に炉筒がある、大船渡の港を距る少しばかりの所に釜石製鉄所がある、是は政府が炉筒があつても、其の時分の政府は無責任のやり方でありましたから、大金を入れてやつて見たが、鉄山はないと云ふので廃めた、田中長兵衛君が之を引受ける時に、炭を焼いて炭を積んで置いて払下げて居た熔鉱炉があつても鉱石が無いから遊んで居る、それから田中長兵衛君が其の山に横山久太郎と云ふ人を使つて孜々汲々としてやつた、それで今日の有様はどうであるか、巌手県の端であるが一年に何百万両の金を儲けて居つて、人が何とも言はない、東京の街は電車の三銭が四銭、一銭違ふと石を擲げる、社会党など云ふものが物知り顔をして貧乏なくせに悪口を言はれる、所が田中長兵衛と云ふ人は一年に数百万黙つて居つて儲ける
それで、亜米利加から近年鉄が出て英吉利を圧倒するのは何かと云ふと、亜米利加では石炭、鉄の鉱石が豊富であつて山崩しをやると云ふことを聞いて居つた、成程亜米利加ではそれであるが、今度釜石で田中君のやつて居るのを見ると大変驚いた、私は旅順に遊んで二竜山・松樹山の砲台を爆裂弾で破壊したのを見ましたが、あの如き有様で大きな山を爆裂弾でやつて砕いて、ダラダラ垂れて出る其の十貫目の鉄石の中から七貫目の鉄が出ます、さうして其の山の隣からは鉄を溶解するに必要欠くべからざる所の石炭が出る、丁度此の水瓶とコツプと云ふ工合であります、水ばかりでは飲めないコツプがあるから斯うやつて飲める、鉄があつても石灰石がなければ、溶解することが出来ない、是が山崩しである、孔を掘つて採るのでない、高い所からドロドロ落す、其の下にレールを敷いてあつてドンドンやつて行きます、さう云ふ物が出来て居るのが数里の間、所が鉄が無いと言つた人は政府の責任ある技師の口から出て居る、そこで九州に製鉄所を拵へる時に田中があると云つても、どうも日本に鉄が無からうと云つて、大冶の鉄を取つて九州の枝光に製鉄所を拵へた、田中長兵衛があると云ひ、博士や学者は無いと云ふので、到頭巌手県ではあの人が利益して居るそれで兎に角巌手県の鉱物に富んで居ると云ふことは是が証拠立てゝ居ります
それと同じ形になつて居る所であれば先づ私は此所にも鉱物があると云つて宜い、是は学者の言ふことであるから、確でありませうけれども、学者でも時々違ふことがあるから、何とも分らぬが、野呂景義博士に聞くと、釜石で田中がして居る鉱物と云ふものは、今度大船渡で製鉄をする事業には手を着けることが出来ない、あすこでは田中がや
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り、又雨宮君が仙人山をやつて居る、矢張り是も雨宮君は供給しないと見て居る、さうして供給するのは二千万噸の鉱石があるから五分どまりにして千万噸は出来る、枝光のは三千何百万円から掛けて九万何千噸より出来ませぬ、而して、日本で鉄の需要は三十幾万噸であります、之を見て諸君残念なことは、支那人がどう云ふ無礼なことを言ふか、日本の人は鉄を拵へることを知らぬ、文明の利器は鉄だと云つて漢陽に製鉄所を拵へて、支那人が三十万噸を拵へて日本を助けてやると申して居ります、日本に何んにも無ければ支那人から助けて貰はうと云ふのも宜からむ、けれども日本は此の通り豊富なる鉄がある、此の鉄の事業をすれば儲かるのである
日本では此の間海関税が改つて一割五分に政治家がした、それは日本内地の製鉄事業の保護だと云ふ、どれだけ鉄を製する上に保護するかと云ふと、斯うして置けば出来るだらうと云ふことである、今日戦後の経営と云ふことに付て、鉄を買ふに一割五分の海関税が掛かると云ふので誰か始めたものがあるが、さう云ふものは出来て居らぬ、斯う云ふ工合に一面に国が考へるならば、此の鉄道は何としてもやらなければならぬ、此の港が出来、此の鉄道が出来て、製鉄もやれるのである、それで此の大船渡築港と伴はれて居る所の鉄道、それが出来れば金山も開け銅山も非常に開け鉄も出て来る、黒沢尻より秋田県の横手に行く間が最も多い、横手から大船渡までは八十三哩敷くことになつて居る、さうすれば銅山も非常な開発が出来ます、それで一たび此の声が大きくなつた為に秋田・巌手両県に於ては、鉱山採掘を我れも我れもと出願した、けれども運輸の便が無いから、鉱物如何に豊富なりともコークスすら運ぶことが出来ない、鉱物は鉱物で独立自存して居り、港は港で独立自存をやつて居る、之を巧まく調和し連絡することになると、彼所も此所もと願出る者が出来て居るから、今度出来る会社が、直接に営まれる鉱山業の外に、非常に開発するだらうと思ひます、之をする為にどう云ふ事をやつて居るかと云ふと、日本鉄道も始め開いた時には、八朱の補給を政府がせられた、其の他九州の鉄道でも、或は京釜鉄道でも、満洲の方でも色々国家が発達する途を開いてやつて居る、それで今度此の港が出来た、鉄道が出来たと云つても直ぐは儲からぬ、数年は営業費が償はぬかも知れない、作《(併)》し国家がするとなれば横浜も漁村で葭や茅が生えて居つた所であるがあの通りになる、さう云ふことは国家的の仕事で国家がやれば宜いのである、所が戦後の経営と云ふものは何等の経営と云ふものを、耳にもせぬければ眼にもせぬ、斯う云ふ時に向つて政府になされと云ふて行くのは無論だ、けれども此の日本の国を小さくして言ふて見れば、東北六県七ケ国、日本の本土の面積にすれば十分の四あります、それだけの面積を有して居るにも拘らず、東北開発の事柄を棄てゝ居るので、半身不随で年々歳々東北が衰へて、西が盛になつて居る、それはどう云ふ訳かと云ふと一つの良い港が無いと云ふことに帰するのであります、国の半身不随を治するのは其所である
それで此の港が出来て船舶が出入し、鉄道が出来て是等の鉱山業・製鉄業が発達すれば、東北は富まぬで居らうと云つても、富まずには居
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られない、けれども今の儘では東北が貧乏せまいと思つて居つても、貧乏せずには居れない、それは何ぜかと云ふと東北の者も羅紗の着物を纏ひ、ビステキ《(フ)》も喰ふのである、喰ふ物着る物は文明的のことをやつて、オヂーさんや、オバーさんの着て居つた着物を着て居らぬのである、江戸の東京を見るのは百人に一人であつたのが、大概の人は東京へ出て来るやうになつた、さうして東北の諸君と云ふものは、此の国の盛衰消長に関する所の港を持たぬで居つてジツと見て居る、自分の衣食住の生活の度を高くして、是で国を富まさうと云ふ、怪しからぬ、無理の注文をして居る、併しそれは私事で仕方がないが、兎に角一方の手が温つて居て、片一方の手が冷へて居ると云ふことであれば国が半身不随である、何も東北を孤にすることは無い、北海道も港は十年計画をして北海道五六の港に金を掛けやう、鉄道も曠漠無尽の所に敷くと云ふことになつて居る、然からば東北の六県七ケ国はどうして呉れるか、如何にも冷淡な政治の仕方がしてある、でありますからさう云ふ点から見ましても、戦後の経営としては東北に於ても、私は是だけのことをしなければならぬと思ふ、又之をしても日本帝国の戦後の経営としては宜からう、然る所今度此の会社事業が起つて鉄道に九百万円、製鉄に四百五十万円、港に八十万円、先づ千五百万円で是だけの仕事が出来ると云ふことに付て、之に対して利益の上がるまでの間、六朱の補給をして呉れろと云ふことを政府に願たと云ふ話である、それで政府は、宜しい六朱の金をやると云ふ、斯う云ふ声を出してさへやれば出願人がドンドン出て来て、鉱物税も余程這入つて来る唯声を大きく上手にやれば、大蔵省の計算にも痛いことも痒いこともあるまい、況やそれが為に国全体が富むことになつたら、こんな良いことは無い、此の渋沢男爵の計画は時の要路に当る政治家諸公は頓首百拝して、然るべきものと思ひます、此の事は今晩此所に阪谷君が来て居ると最も多く聞いて貰はなければならぬが、御出でない、併し私は港の論を度々やつて、一度は二時間もやつたから、大概阪谷君の耳にも能く這つて居ると思つて居りますが、今晩阪谷君が居ればもう少し言ひたかつた、と云ふのは不足を言ひたかつた、それは早くやると云ふ声を何ぜ立てないかと云ふことを言ひたかつた、それよりか、是れ是れのことが戦後の経営として急ぐと云ふ事があれば、謹んで我れ其の説を聞かむ、唯戦後の経営として明年の予算の数字を合はすに汲汲として居ると云ふことであれば、それは政治家でも何でもない、此の大戦争をして比較的利害得失で、こちらよりは、こちらの方が宜いと云ふ事があれば、謹んで教を待たう、若し、戦後の経営として、一も見るべきものが無いと云ふなら、此の通り金科玉条の民間の人のやつて居らるる所を、歓んで御迎へになるが、宜からうと思ひます、どうか諸君に御賛成を願つて、此の声の大ならむことを諸君に願つて置きます、甚だ清聴を煩して恐縮でございました(拍手)


〔参考〕東京経済雑誌 第五五巻第一三七七号・第三五八頁〔明治四〇年三月二日〕 ○大船渡補給建議案と補給年度割(DK130025k-0019)
第13巻 p.238-239 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕東京経済雑誌 第五五巻第一三八二号・第五八七頁〔明治四〇年四月六日〕 衆議院の部(DK130025k-0020)
第13巻 p.239-240 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕奥羽及大船渡湾之図 附記文(DK130025k-0021)
第13巻 p.240-241 ページ画像

奥羽及大船渡湾之図 附記文
    大船渡築港鉄道鉄業船渠場起業沿革
一大船渡起業ノ必要ハ去ル明治三十一年十二月末日海軍中将肝付兼行氏ガ、大船渡港湾ノ商港トシテ適良ナル事、築港ニ多額ノ金員ヲ要セサル事、長崎港ニ比シ十ニ対スル十六ノ広サヲ有スル事、帝国ノ東北ニ此港ヲ除キテハ他ニ商港トスヘキ良港ナキ事、等ヲ列挙シ、帝国ホテルニ於ケル帝都ノ資産家集会ノ席上演説ヨリ始メテ世上ニ紹介セラル
二同三十二年二月十九日岩手県有志者ヲ始トシ、帝都ノ資産家築地雨宮商店ニ集会ノ上大船渡開港鉄道鉄業主唱発起会ヲ創設シ、榎本子爵ヲ会長ニ両宮敬次郎氏ヲ副会長ニ選定シ地方委員数名ヲ設置セリ
三此ノ事業ハ左ノ通リ計画ヲナス
 1大船渡築港予算費百五拾万円、2同所ト日本鉄道幹線花巻ニ達スル鉄道六十六哩敷設費六百万円、3製鉄業費四百五拾万円、計壱千弐百万円
四此ノ企業ハ成立ノ暁ニ於テ港湾周囲ノ土地騰貴スベキ見込アルト、他ヨリ土地占有ノ希望人出来ノ嫌疑アルトニ基キ、発起会ノ名ヲ以テ土地所有者ト約束ヲ結ヒ、周囲並工場用地トナスベキ地坪凡ソ弐百万坪ヲ平均壱円少許ニテ向フ五ケ年間ハ何時タリトモ発起会ニ売渡シ、他ニ売買セザルノ公正契約ヲ締結シタリ、此契約ハ此頃ニ至リ期限満了セシモ改メテ向フ五ケ年間更ニ継続スル事ト致シタリ
 - 第13巻 p.241 -ページ画像 
五同三十三年二月十四日岩手県代議士下飯坂権三郎氏外二十七名ノ諸氏提出者トナリ、星亨氏外百四十一名ノ諸氏賛成者トナリ、予算惣額千弐百万円ノ三分ノ一即チ金四百万円ヲ国庫ニ於テ補助ノ建議案帝国議会ニ提出セラル
六同年同月十七日内務・大蔵・農商務・逓信ノ四大臣ヘ金四百万円国庫補助ノ請願書ヲ提出シタリ
七同年同月十九日右ノ建議案議事日程ニ上リ委員附托トナリ、委員長ニ根本正氏選定セラル
八同年同月廿二日大多数ヲ以テ四百万円補助案衆議院ヲ通過シタリ
九同年七月卅一日大船渡湾築港ノ請願書ヲ岩手県知事ニ提出セリ
十本会ノ企業賛成者ハ盛岡藩主ヲ始メ男爵渋沢栄一・大倉善八郎ノ諸氏外帝国資産家四百余名ナリ
十一昨三十八年六月ニ至リ米国人ジンウヰツヂーナル者大船渡湾並ニ岩手県ニ無尽蔵ナル鉄山ヲ踏査実見シ大ニ望ヲ嘱シ米国資産家ト共同企業ノ申込ミアリ、依テ協議ヲ遂ゲ前顕予算中製鉄費ヲ増加シテ壱千〇五十万円トナシ、計金壱千八百万円ノ株式会社組織ノ見込ヲ以テ半額ヲ米国側ニ半額ヲ日本ニ募集ノ相談ヲ為セリ、ジンウヰツヂーハ此協議ヲ齎シ米国ニ帰リ、紐育市ホワイト会社ト交渉ヲ遂ゲ、三月三十一日迄ニ三名ノ調査技師日本ヘ到着ノ見込ニテ、来ル派遺ノ準備略ホ出来ノ旨已ニ数日前電報到着セリ
十二戦後経営ノ必要上東北ニ明リ窓ヲ開キ(築港)埋没ノ鉄山ヲ発堀シ鉄道ハ奥羽六県ノ交通機関ニ無限ノ大洪益ヲ与エ、加之露領ノ漁業権拡張ニ伴フ東北ニ船渠場ナク大船渡湾中二箇所ノ良船渠場アルヲ利用スル等最急務ナルベシト確信ス、依之一ハ米国側ノ資金ヲ吸収スル必要ト、一ハ目下ノ国是トニ基キ玆ニ国庫補助ノ前趣旨ヲ貫徹シ因テ以テ斯業ヲ必成セシメ永ク帝国ノ福利ヲ図ラントノ熱誠ヨリ特ニ議会並ニ政府諸公ノ御一考ヲ切願スル所以ナリ
十三此ノ企業ニ就キ若シ質問ヲ要セラルヽ事アレバ何時タリトモ発起会事務所ヘ御申越被下度、即時出頭委曲御説明可仕候
  明治三十九年三月初日
              大船渡開港鉄道鉄業発起会事務所
                     電話 本局  九九番
                     同  同  二六五番
                日本橋区西河岸十三号雨宮商店内