デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
25節 取引所
4款 大阪株式取引所
■綱文

第14巻 p.183-187(DK140015k) ページ画像

明治11年4月13日(1878年)

五代友厚・広瀬宰平等十一名、大阪ニ株式取引所ヲ創設スベク仮会議ヲ開ク。第一国立銀行大阪支店支配人井口新三郎・同勘定改役熊谷辰太郎モ亦発起人タリ、栄一ノ指導ニヨルモノノ如シ。


■資料

自明治十一年至同廿六年 書類其一(DK140015k-0001)
第14巻 p.183 ページ画像

自明治十一年至同廿六年 書類其一  (大阪株式取引所所蔵)
玆ニ株式取引会社ヲ設立セン為メ卑生菲力ヲ不顧微意ヲ各位ニ陳ス、各位高明已ニ目ヲ此ニ注キ意ヲ之ニ加フル所アリ、敢テ多弁ヲ待スシテ卑生カ微意ヲ納レ以テ直ニ本日仮リニ会議ヲ開キ各位臨席高議明断会社ノ基礎ヲ建立スルノ地歩ヲ得タリ、嗚呼已ニ此初会ノ地歩ヲ占ム特リ卑生カ欣喜ノミナラス、又同盟各位ノ栄幸ノミニ止マラス、即我人民社会上ニ於テ幾分ノ利便ヲ与ヘ幾分ノ幸福ヲ招カシムルハ固ヨリ其所ナリ、本会已ニ了セハ従テ建社ノ事ヲ明政府ニ上申以テ允可ヲ請ハサル可ラス、已ニ允可ヲ給フニ至ラハ断シテ其保護ノ浅カラサルヲ信シテ疑ハサルナリ、而シテ同盟氏名ヲ聯ネ以テ建社ノコトヲ天下人民ニ広告セハ人民モ亦此建設ハ其社会上ニ利便アルヲ覚知シ、殊ニ彼金禄公債証書ノ如キ無数ノ金額ニシテ将来拡ク売買ノ行ハルヽニ至ラハ、本社ノ事務モ亦従テ盛大ニ進マンコト必セリ、雖然業ノ盛否ハ自他ノ信義厚薄如何ニアリ、故ニ事ヲ執ルヤ誠、規ヲ立ルヤ堅、而シテ人民ヲシテ一目信ヲ置カシムルニ非ンハ不可ナリ、古人曰、成立之難如升天覆墜之易如燎毛ト、若シ夫放過忽諸一タヒ信用ヲ失スル時ハ只ニ会社ノ衰枯ノミナラス、則自己私家ノ毀敗ニ関スルコト最大ナリトス、故ニ其栄枯ト毀誉トハ同盟各位ノ自ラ之ヲ招キ之ヲ邀フモノト確信シ、堅忍憤励以テ全終ノ機軸ヲ堅牢ナラサラシメサル可ラス、卑生惟ヘラク、已ニ盟ヲ会社上ニ立テ班ヲ各位ノ下ニ辱フス、会社上ノ義務ハ素ヨリ奮励セサル可ラサルモ、其平日社外ノ交誼ニ於テモ互ニ親睦ヲ敦クシ所謂輔車相依ノ友情ヲ表セスンハ有可ラスト、只望ラクハ同盟各位亦此事ヲ以テ心トシ、栄誉共ニ収メ以テ永ク社名ヲ汚サヽランコトヲ、卑生本会ヲ開クニ方リ歓喜禁スル能ハス、則鳴謝ノ意ヲ致シ併テ本日ノ立会ヲ頌ス
  明治十一年四月十三日          五代友厚
   ○「大阪、第一国立銀行」ト印刷セル罫紙ヲ用フ。


自明治十一年至同廿六年 書類其一(DK140015k-0002)
第14巻 p.183-184 ページ画像

自明治十一年至同廿六年 書類其一  (大阪株式取引所所蔵)
    本会臨時議長を撰之議事之可否ハ説の多少を以テ決すへき議案
凡事ヲ議スルニ其可否ヲ決スルハ会社成規上資本出財之多寡を以テ説の多少ヲ分チ之ヲ裁定スルノ制アリト雖モ、今資本出財ノ前ニ於テハ
 - 第14巻 p.184 -ページ画像 
各自同権ニシテ亦成規ニ基キ難シ、因テハ本会ニ限リ一同投票臨時裁定ニ任スヘキ人ヲ撰ミ、以テ本日ノ議長タラシメ、議事ハ人頭ヲ以テ説ノ多少ニヨリ同意多キ方ヲ取テ可トスヘシ、若シ可否同数ナル時ハ議長之ヲ裁制シテ事ヲ決スヘシ、敢テ高説ヲ請フ


自明治十一年至同廿六年 書類其一(DK140015k-0003)
第14巻 p.184 ページ画像

自明治十一年至同廿六年 書類其一  (大阪株式取引所所蔵)
    会社資本出金募集方法議案
例ヘハ此ニ発起人拾名アリ、其十名ヨリ資本惣額十三万円募集スル時ハ之ヲ人頭ニ分チ分割セハ壱名壱万三千円ナリ、即其金数ヲ銘々出財セシムルモノトス、然レトモ十名中壱万三千円ノ出財ヲ欲セサルモノハ各随意ニ之ヲ減省スルコトヲ得可シ
然ルニ十名中五名ハ壱万三千円ノ高ヲ出財スルコトヲ諾シ、外五名ハ其高ノ三千円ヲ減シ壱万円宛出財セント云ヘハ、即惣額ニ壱万六千円之不足《(五)》ヲ生スヘシ、右不足ノ壱万六千円《(五)》ハ已ニ壱名壱万三千円ノ高ヲ出財センコトヲ諾セシ五名ヘ割付、更ニ壱名三千円ツヽ合セて壱万六千円ノ出財ヲ求ムヘシ
此ニ至リ五名中二名ハ尚其高ヲ加ヘ則壱万六千円ノ出財ヲ諾スルモ、残三名ハ之ヲ出スヲ欲セサル時ハ又九千円ノ不足ヲ生ス
此九千円ノ不足ハ已ニ再ヒ増出ヲ諾セシ二名ヘ出財ヲ求メ、又一名ハ諾シ一名ハ諾セサルコトアラハ其残額ヲ諾セシモノヘ出財ヲ求ムル等総テ此手続ヲ以テ資金ノ募集ヲ為スヘシ
  敢乞公議


自明治十一年至同廿六年 書類其一(DK140015k-0004)
第14巻 p.184-185 ページ画像

自明治十一年至同廿六年 書類其一 (大阪株式取引所所蔵)
玆ニ株式取引《(所脱カ)》ヲ設置セント欲シ本月本日仮会議ヲ開クニ付集会セシ人員左ニ
                           住友吉左衛門代理
                              広瀬宰平
                           鴻池善次郎代理
                              斉藤広則《(斉藤慶則)》
                           山口吉郎兵衛代理
                              西田永助
                           井口新三郎
                           五代友厚
                           平瀬亀之助代理
                              白木保三
                           三井元之助代理
                              西村乕四郎
                           広岡信五郎代理
                              白木保三
                           加納次郎右衛門代理
                              白木保三
                           笠野熊吉代理
                              五代友厚
                           態谷辰太郎
          以上拾壱名
 - 第14巻 p.185 -ページ画像 
此人員会同シテ左ノ要件を議定ス
 発起人員 拾壱名
 金高   拾四万円
壱万六千円                      住友吉左衛門代理
                              広瀬宰平
壱万六千円                      鴻池善次郎
壱万円                        山口吉郎兵衛
                             代西田
壱万六千円                      三井元之助
                             代西村
壱万
――円                        井口新三郎
壱万六千円                      五代友厚
壱万六千円                      平瀬亀之助
壱万円○抹消シアリ                  広岡代
                              白木保三
壱万円                        加納次郎右衛門代
                              白木保三
壱万六千円                      笠野熊吉代
                              五代友厚
壱万円                        態谷辰太郎
   金額計 拾四万円《(マヽ)》



〔参考〕中外物価新報 第八五号〔明治一一年四月一七日〕 東京商況 大坂(前号の続き)(DK140015k-0005)
第14巻 p.185 ページ画像

中外物価新報 第八五号〔明治一一年四月一七日〕
  東京商況
    大坂(前号の続き)
○上略
公債証書の買売に就てハ大に不審なき能ハず、如何となれバ其売買ハ西京に及バざること遠く相場の如き始終西京の影響を受くるなり、而して西京に至りて売買を為す者を見るに大坂の商人多きに居れり、大坂にハ証券の所有高少きと云ふことも聞かざる所にして、斯く己の土地を離れて態々西京に到り売買を為すハ余の了解し能ハざる所なり


〔参考〕竜門雑誌 第三四七号・第二四頁〔大正六年四月二五日〕 ○健康と事業(青淵先生)(DK140015k-0006)
第14巻 p.185-186 ページ画像

竜門雑誌 第三四七号・第二四頁〔大正六年四月二五日〕
    ○健康と事業(青淵先生)
      ――予が八十年の健康法――
  本篇は青淵先生の談として雑誌「向上」四月号に掲載せるものなり(編者識)
○上略
又、予が知れる人に五代友篤氏《(五代友厚)》がある。氏は鹿児島の人で維新の際は参与となり、外国判事となり、会計官となり、欧米各国を漫遊して帰朝の後は、大阪に於て商工業を営んだ。商法会議所・株式取引所・銀行・製藍所・鉱業等文明的施設の実業は、多く氏に依つて経営されてあつたのに拘らず遂に其の事業は完成せずして、中途で斃れてしまつた。これが若しあの勢力で、大倉喜八郎氏の如く、今日まで継続したら、相当な大事業を完成した事だらうと思ふ。
 - 第14巻 p.186 -ページ画像 
○下略


〔参考〕明治商工史(渋沢栄一撰) 第一六四―一六七頁〔明治四四年三月〕(DK140015k-0007)
第14巻 p.186-187 ページ画像

明治商工史(渋沢栄一撰) 第一六四―一六七頁〔明治四四年三月〕
    第十二章 大阪株式取引所
 創立 大阪株式取引所は明治十一年の創立に係る、此より先き政府は明治七年十月株式取引所条例を発布し且頻に其設立を勧誘する所ありしが、時運の尚早なると其制度多く欧米取引所に摸倣し、当時の我経済界に適合せざる等の事情により創立の機未だ熟せざりしが、明治十一年五月に及び政府は旧法を廃して新条例を発布し努めて実際に適せしめ、加ふるに財界の情勢は漸次秩禄公債・新旧公債等の売買増加し、国立銀行其他事業会社の創立相継ぎ取引市場の必要を感ずるに至りしかば、当時大阪地方の紳商富豪五代友厚・鴻池善右衛門・三井元之助・住友吉左衛門・山口吉郎兵衛・井口新三郎・平瀬亀之助・嘉納次郎右衛門・態谷辰太郎《(笠野熊吉脱)》の十氏発起人となり、其内五代友厚氏及住友吉左衛門代理広瀬宰平氏を以て創立委員となし、同年六月四日大阪府庁を経由し大蔵省へ創立願書を提出し、同年《(月)》十九《(十七)》日認可を得、八月十五日大阪東区北浜二丁目十一番地旧金相場会所跡に開業し、元兵庫県権令中山信彬氏頭取に、広瀬宰平氏副頭取に撰任せらる、当時の仲買人は多く往時金相場に関係せる両換商にして、相当の資産位置を有するもの多く一般の信用も亦頗る篤かりき、而して売買取引の方法其他の習慣は多く範を沿革久しき堂島米会所に取り、取捨選択して市場に応用せり。
 開業当時の取引 同取引所開業の当初に於て定期取引に附せるは唯公債類に止まり、而かも其種類は僅に秩禄公債及新旧公債に過ぎず、同十月に及び金禄公債の売買取引を開始せるが、当時西南戦争の余弊を受け経済界は非常の変調を来し、公債類騰落の差極めて顕著にして十三年冬期の如きは市中の日歩十四五銭、丙号金禄公債は七十円、起業公債は六十円以下に下落し、価格の変動激しく投機の余地充分なるを以て、一時公債取引は非常の賑繁を見、十四年上半期の如きは六千三十一万九百円の取引あるに至れり、然れども十六年に至り政府は公債価格の維持回復に勉め、又其売買に重税を賦課し、投機を防遏せしかば同取引に一大頓挫を来し、加ふるに十八年には兌換制度の確立を見、公債市価回復し僅に金融の事情其他により僅少なる時価の変動をなすに止まるに至りしかば、爾来市場の公債定期取引は最近に至るまで久しく其跡を絶ちたりき。
 金銀貨の売買 公債に次で開始したるは金銀貨の売買にして、明治十二年十月初めて定期取引に附したるが、当時西南戦争の不換紙幣濫発により紙幣下落正価昂騰の趨勢を呈し、一時銀貨一円に付一円五六十銭の高直を見るに至りしかば、取引開始と共に忽ち非常の殷賑を来し、同年下半期は一日平均二十三万円以上、翌十三年上半期は五十万円以上の売買を見たり、而して其取引は現場及び定期取引相半ばし、直取引は其額極めて僅少なりき、然れども此に随伴して弊害の指摘すべきもの頗る多く、且つ銀貨騰貴防遏の必要上よりして政府は十三年四月一時金銀貨の売買停止を命じ、次で五月十八日に至り解停の命を
 - 第14巻 p.187 -ページ画像 
下せりと雖も、定期取引は断然是を差止めたるを以て一時盛況を極めたる同市場も俄然衰態を現はし、十四年に至つては現場取引すら全然売買を見ざるに至れり、斯くて同取引所は此等の悲運により十四年一月資本を半減するに至りたるが、由来金銀貨の取引は単に投機の為のみならず、銀価の変動激甚なる当時にありては貿易業者等は定期に銀貨を売り又は買繋ぎ、以て其期間に於ける銀価騰落より来る損害を防ぐの外他に途なく、同業者には欠くべからさる必要機関にして、此が禁止は実業界に非常の不利不便を感ぜしめ、又一面には取引所に於ても同定期取引復活は唯一の市場振興策なるを以て、百方研究の末横浜株式取引所に於ける所謂金銀ジキ取引と称する一種変則の取引を摸倣し、十五年三月より銀貨直取引を開始し法律を避けて内実定期取引を行ひたり、而して当時猶銀価の変動激しかりしを以て又々投機熱を誘致し人気は全然同市場に集中し、同年下半季に於て其取引合計一億五千二百八十七万円の巨額を算し年七割の配当をなすに至り、銀貨売買全盛の時代を現出せるが、一般に射倖投機の念に駆られたる結果弊害又々紛起し、取引所役員及仲買は互に連絡して不正の奇利を博せんとせる如き事実を生み、遂に法令違反の廉を以て告発を受け、十六年三月同取引所役員及仲買人等の検挙拘引を見、頭取吉田千足以下罰金に処せられ、且つ吉田千足は主務省より解職の命を受くるに至りしかば金銀取引は玆に再度の大頓挫を来し、爾来十六年八月政府は二ケ月に超へざる定期取引を許したるも、重税其他の事由により復た前日の繁盛を見ず、十八年上半期に於て多少取引の旺盛を見たるも一時の現象にて、政府の財政は漸次整理の緒に就き兌換制度も亦確立するに至り銀価の変動落付きたるを以て同年限りにて金銀貨売買は全く終熄を告ぐるに至れり。
 株式は、同取引所創立の当時にありては関西地方の株式会社は僅に数個の国立銀行及堂島米商会所及株式取引所等に過ぎず、十二年一月初めて当所株を定期取引に附したるも微々として振はず、爾来硫酸製造会社・大阪製銅会社・大阪紡績会社・阪堺鉄道・大阪商船会社等の諸株式会社設立せられ相次で取引市場に上れるも資金小額にして其種類亦多からず、加ふるに当時市場の人気は公債及金銀貨に集中し、復た株式を顧るの暇なかりしを以て全く市場に閑却せられたりき、然るに明治十九年の頃より金銀貨売買の廃絶、財界の恢復、兌換制度の確立と共に株式の取引は俄然として活況を呈し、特に大阪商船株の如きは当時市場の呼物として盛に売買せらるゝに至れり、次で財界一般の順調により続々株式会社の設立を促し定期取引に付せらるゝもの漸次多きを加へ、二十一年には山陽・大阪・関西の諸鉄道株、二十二年には九州鉄道・天満紡績、二十三年には大阪電灯・浪華紡績等を市場に上す等時を逐ふて繁盛に赴けり。