公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
第14巻 p.382-386(DK140039k) ページ画像
明治23年11月3日(1890年)
是日有限責任帝国ホテル会社開業ス。
有限責任帝国ホテル会社第一回報告(DK140039k-0001)
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有限責任帝国ホテル会社第一回報告
有限責任帝国ホテル会社第一回報告
本社ハ明治廿三年十一月三日ヲ以テ開業シ、自来業務漸次緒ニ就キ、玆ニ本年上半季ヲ経過シタルニ因リ、乃チ第一回報告ヲ裁シ、株主各位ノ閲覧ニ供ス
○中略
創立之事
本社ノ創立ハ、明治廿年ノ初メ当時ノ外務大臣井上伯爵ハ本邦ノ首府ニシテ外来賓客ノ需ニ応スヘキ壮大ノ客館ナキハ国際上欠典ナリトノ意見ヲ以テ、現在ノ株主諸氏ニ謀リ、諸氏其挙ヲ賛成シテ創立ノコトヲ決定シ、発起人総代弐名、則渋沢栄一・大倉喜八郎ノ両氏ヲ撰挙シテ創立ノ事務ヲ委任シタリ、而シテ外務省用地麹町区内山下町一丁目一番地ノ内四千弐百一坪六勺ヲ同年八月ヨリ五十ケ年ヲ限リ無地代借用ノ允准ヲ得、尋テ地質ヲ撿査シ其可ナルヲ認メ建築ノ計画ニ着手セシモノナリ
○中略
建築之事
本社建築ノ設計ハ学理ト実用トヲ斟酌シテ定メタル者ニシテ、其受負ハ日本土木会社ニ委托シ、其地盤ノ築立ハ明治廿年七月ニ起工シ二十一年十一月ニ竣リ、一切建築ハ廿三年十一月ニ至テ落成セリ、建坪ハ本館洋式三層六百坪余、其外平家百七十三坪余、及附属家ヲ合計シテ千弐百九十五坪余トナス○中略
営業之事
本社ノ営業ハ明治二十三年十一月三日開業シタル以来閲月尚ホ浅キヲ以テ其一歳繁閑ノ如何ヲ考定スルヲ得ス○中略左ニ開業以来毎月来客ノ数ヲ記載シテ以テ査考ノ一端ニ供ス
年月 投宿客数 食事客数 宴会客数
廿三年十一月 九拾六人 参百五拾五人 六百拾参人
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十二月 五拾五人 九百拾八人 八百四拾六人
廿四年一月 参拾五人 四百参拾人 七百六拾八人
二月 弐拾九人 参百九拾七人 百〇五人
三月 四拾四人 参百五拾八人 五百拾弐人
四月 九拾八人 参百四拾弐人 弐百九拾六人
五月 百八拾人 四百四拾八人 四百拾五人
六月 百五拾参人 参百参拾壱人 八拾壱人
合計 六百九拾人 参千五百七拾九人 参千六百参拾六人
○中略
役員之事
本社ノ役員ハ定款第十一条ニ拠リ明治廿年十月株主ノ投票撰挙ヲ以テ渋沢栄一・大倉喜八郎・横山孫一郎三氏理事ニ就任シ、尋テ定款第十二条ニ拠リ互撰ヲ以テ渋沢栄一氏理事長ニ任シ、而シテ二十三年七月ニ於テ諸部ノ役員ヲ採用セリ、其職名人員給料ハ左表ノ如シ
重役
理事長 一名 無給
理事 一名 無給
専任理事 一名 一ケ月報酬百五拾円
合計 三名 金百五拾円
○中略
決算之事
明治弐拾三年十一月ヨリ同弐拾四年六月ニ至ル八ケ月間ノ諸勘定左ノ如シ
借方
株金 弐六〇、〇〇〇、〇〇〇
預リ金 五、〇〇弐、六〇〇
第壱国立銀行借越金 壱、弐〇八、七九七
未払勘定 壱、三三弐、壱五壱
当季利益 八、三四弐、九七三
総計 弐七五、八八六、五弐壱
貸方
家屋 弐壱三、四八壱、〇四四
装飾品 壱三、八〇八、〇七五
什器 弐五、九五四、七九〇
食器 九、〇壱壱、五〇壱
貯蔵食料品 壱、弐三三、八六弐
石炭薪炭 四八、壱七九
仮払金 弐七三、九弐〇
掛売金 壱、七壱五、〇六壱
金銀有高 五壱四、八弐弐
創業費 九、八四五、弐六七
総計 弐七五、八八六、五弐壱
損益勘定
一金参万五千七百弐拾八円四拾参銭五厘 当期収入金
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内
金弐万七千参百八拾五円四拾六銭弐厘 当期支出金
内訳
金八千五百八拾弐円五拾弐銭五厘 食料原品
金弐千七百拾円六拾四銭七厘 酒煙草類
金壱千六百四拾弐円弐拾参銭参厘 電灯費
金六千九百五拾八円九拾七銭参厘 諸給料
金七千四百九拾壱円八銭四厘 諸雑費
差引
金八千参百四拾弐円九拾七銭参厘 利益金
内
金弐千五百円 家屋什器損傷積立金
金五百円 創業費消却
金五百参拾四円 賞与金
金四千八百八円九拾七銭参厘 後半季繰込金
○中略
帝国ホテル会社株主姓名表
株金高 株数 住所 氏名
五万五千円 五拾五株 内蔵頭 杉孫七郎
弐万五千円 弐拾五株 神田区駿河台北甲賀町四番地 西村乕四郎
弐万五千円 弐拾五株 日本橋区兜町二番地 渋沢栄一
弐万円 弐拾株 神田区駿河台東紅梅町十六番地 岩崎弥之助
弐万円 弐拾株 牛込区新小川町二丁目十番地 川田小一郎
壱万五千円 拾五株 赤坂区葵町三番地 大倉喜八郎
○下略
○他株主ハ十五人アリ。
○本報告書ノ配布前数回ノ事業報告書ヲ出シタル由ナレドモ、第一次火災ノ折消失シタレバ今之ヲ見ルニ由ナシ。定款モ亦ナシ。後ノ定款ニ就イテハ本款明治四十年一月二十五日ノ条(第三九九頁)参照。
雨夜譚会談話筆記 下・第六七九―六八一頁〔昭和二年一一月―五年七月〕(DK140039k-0002)
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雨夜譚会談話筆記 下・第六七九―六八一頁〔昭和二年一一月―五年七月〕
第二十四回 ○昭和四年九月十七日 於飛鳥山邸
五、帝国ホテル創立に就て
先生「帝国ホテル創立に就ては詳しくは知らぬ。唯々ホテル建築の外国式の組織考案については、大抵私が世話した。
○中略
帝国ホテルの創立に就ては、井上馨さんが頻りに発議してやつたのだが、実際の仕事には横山孫一郎氏が心配した。井上さんは帝国ホテル創立の時には既に外務大臣は罷めて居つた。外務大臣を罷めて建築局を設け其処の総裁となつて、政府の建物其他の西洋建築を起す事に尽力したやうに思ふ(註、井上侯は外相在職時代に頻りに欧化主義を唱へ、其一手段として建築局を興し、外相を以て其総裁を兼任した、此の青淵先生のお話は記憶違ひらしい)日本煉瓦会社の創立は其時で、西洋風建築材料の必要から、益田孝氏等を勧誘して
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煉瓦会社を作つたのである。井上さんは学術的ではないが、煉瓦に就ては立派な能力を持つて居つた。私が世話したのは火事で焼けた建築で、今の新しい帝国ホテルの建物のことは知らない。
○当日ノ出席者ハ栄一・敬三・渡辺・白石・小畑・佐治・高田及編纂係員岡田・泉ノ九名。
雨夜譚会談話筆記 下・第七二三頁〔昭和二年一一月―五年七月〕(DK140039k-0003)
第14巻 p.385 ページ画像
雨夜譚会談話筆記 下・第七二三頁〔昭和二年一一月―五年七月〕
第二十六回 ○昭和四年十月二十九日 於丸ノ内渋沢事務所
一、外客誘致策に就て
先生「○上略帝国ホテルの創立も矢張外人接待の必要から生じたのだつた。井上さんが、明治二十年頃、外務大臣を罷めて、建築局総裁に立たれた時、私が首唱して帝国ホテルを設立したと云つてもよい。何でも宮内省も株主としての関係があると思ふ。帝国ホテルは現在はどんな成績を挙げてゐるだらうか。配当はやつてゐるだらうか」
白石「年六分位配当してゐるやうでございます」
○当日ノ出席者ハ栄一・篤二・敬三・白石・佐治・高田及編纂係員岡田・泉ノ八名。
渋沢栄一 書翰 斎藤峰三郎宛(明治二三年)四月一七日(DK140039k-0004)
第14巻 p.385 ページ画像
渋沢栄一 書翰 斎藤峰三郎宛(明治二三年)四月一七日
(斎藤峰三郎氏所蔵)
○上略
村尾氏ニ面会被成、ホテル株主総会ハ五月早々ニ相開申度候間充分取調置帰京之上直ニ差出呉候様御伝声可被下候
○中略
四月十七日
渋沢栄一
斎藤峯三郎殿
○封筒ニ「従大坂」ト記セリ。
渋沢栄一 書翰 斎藤峰三郎宛(年月未詳)一一日(DK140039k-0005)
第14巻 p.385 ページ画像
渋沢栄一 書翰 斎藤峰三郎宛(年月未詳)一一日 (斎藤峰三郎氏所蔵)
拝啓別封帝国ホテル横山宛之書状ハ来ル十五日開業式之評議書類ニ付至急御遺し可被下候
他之一封ハ柏村氏ヘ宛御廻し可被下候
○中略
十一日
渋沢栄一
斎藤峯三郎様
渋沢栄一 書翰 斎藤峰三郎宛(年未詳)七月二五日(DK140039k-0006)
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渋沢栄一 書翰 斎藤峰三郎宛(年未詳)七月二五日(斎藤峰三郎氏所蔵)
○上略
帝国ホテル評議書も小印返却仕候、御届可被下候
右当用御返事まて如此御坐候 不一
七月廿五日
渋沢栄一
- 第14巻 p.386 -ページ画像
斎藤様
渋沢栄一 書翰 斎藤峰三郎宛(年未詳)一一月八日(DK140039k-0007)
第14巻 p.386 ページ画像
渋沢栄一 書翰 斎藤峰三郎宛(年未詳)一一月八日 (斎藤峰三郎氏所蔵)
○上略
帝国ホテル之小切手弐枚ハ小印返却仕候、至急ニ御遺し可被下候
○中略
十一月八日
渋沢栄一
斎藤峯三郎様
○下略