デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
28節 貿易
6款 生糸改会社
■綱文

第14巻 p.472-500(DK140056k) ページ画像

明治6年12月(1873年)

横浜生糸改会社ノ発展ニ脅威ヲ覚エシ外商等、通商条約違反ヲ名トシ、外交団ヲシテ我ガ政府ニ、ソノ解体ヲ要求セシムルコトアリ。然ルニコノ社タル、曩ニ栄一官ニアリシ頃主張シテ設立セシメタルモノナルヲ以テ、大蔵少輔事務心得兼租税頭陸奥宗光、神奈川県権令大江卓及ビ会社重役等ノ依頼ヲウケ、大蔵卿大隈重信ヲ訪ヌル等、ソノ存続ニ尽力ス。


■資料

(陸奥宗光) 書翰 大江卓宛(明治六年)一二月二日(DK140056k-0001)
第14巻 p.472-473 ページ画像

(陸奥宗光) 書翰  大江卓宛(明治六年)一二月二日
                    (大江恒吉氏所蔵)
本月一日之尊書相達洗手拝読候処御清栄珍重奉存候、扨は生糸会社之義ニ付金子平兵衛租税寮へまゐり云々達之趣ニ付御立論之趣至極敬服御同意ニ御坐候、然ルニ小生ハ御承知之通発足前より久敷出勤も不致総体之模様も承知不致候へ共、此件ニ付態ト過日大隈へも一書相遣シ置候事ニ御坐候得共、定而尽力行届兼候場合も可有之歟、何分遠隔之地故想像難致候、乍併老兄ニは御来諭之如ク此会社之設立ハ表向ハ人民協同ニ相違も無之候へ共其実際ハ官より勧奨致候は相違無之事ニ付、一旦公然タル布告等致シ候節ハとても前途之維持無覚束候、甚以歎息之極ニ御坐候、最初設立之砌は渋沢栄一子之論にてハ純然名実共官命にて取締可致ナト之事ニ有之候処、小生輩外国之議論ヲ慮り僅カ名義上のミ相立、他日之議論可相塞之覚悟ニ御坐候処、今日ニ至りてハ殆ト水泡ト相成申候、此上老兄ハ勿論生糸会社商人共之尽力等ニて維持出来候得は一層之御尽力有之度、又御序ニ渋沢栄一子等へも御相談相成候而ハ如何、誠に政府之官員一両人之変革にて議論忽チ相変シ候義ハ実ニ歎息之事ニ御坐候、僕輩現今遠隔之地ニ有之ノミナラス仮令極論致候共々行々見込も無之先ツ鉗黙可致ト存候
一内務卿云々之事承知仕候、或ハ来諭之如き勢も可有之と遠察仕候
一其県邏卒課沓云々之義ニ付其責ヲ小生ニ御引付ニ成候趣承知勿論其責ヲ遁候訳ニハ無之候へ共、此位之事スラ小生之議論不被相行権力之乏敷御推察被下度、併来諭ニ寄今一応大隈へ拙生可申遣候得共、老兄にも御催促有之度候
一近来之形勢ヲ御察見云々御歎息之趣承知、更ニ御無理ト不存候、併シ御退身之義は左ノミ御急き被成候義ニも有之間敷候間、不日ニ小生帰京之比まて何事も含垢御耐忍有之度小生等も種々愚考罷在候へ共今暫ク
察見可仕ト存候、尤も早々帰京可致云々之来示も有之候へ共小生輩速ニ帰京致候共格別当時之間似合申間敷夫よりハ今暫クハ養生可仕、就而
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者近日今暫ク養生之願書可指出心得ニ御坐候
一京都府知参事免職之義ハ如何之訳ニ可有之驚入候次第ニ御坐候、其訳柄委敷御聞糺シ早々御申越被下度此件に就而は小生も一議論有之候事ニ御坐候、呉々も委曲御申越有之度候
一生糸会社之一件如何ニも残念ニ御坐候、原善三郎等実ニ憤発之心有之候時ハ小生一考有之候、併シ是ハ来諭之次第ニ基き同人等より政府へ歎願極論スルニ如カス、併シ同人等ハとても其力ハ有之間敷候其趣向ハ筆上ニ難述候、若シ御入用ニ候へハ今一応御申越有之度候
右之件々御答迄如此ニ御坐候御一見後火中
  十二月二日夜                 六石
    楊鸖先生
  ○六石ハ陸奥宗光、楊鸖ハ大江卓ノ号ナリ。
  ○明治史料顕要職務補任録ニヨレバ陸奥宗光・大江卓ノ歴任左ノ如シ。
   陸奥宗光(大蔵省、主税局、租税頭)

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 五年二月十三日神奈川県令兼外務大丞ヨリ兼任                陸奥宗光 和歌山士陽之助 五年三月十二日罷 五年六月十八日神奈川県令ヨリ任六年五月十五日大蔵省三等出仕ニ補仍本官兼任 陸奥宗光 和歌山士    七年一月十五日罷 (大蔵省出仕) 六年五月十五日租税頭ヨリ三等出仕ニ補仍租税頭兼任             陸奥宗光 和歌山士    七年一月十五日罷 



   大江卓(神奈川県令)

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 五年七月十四日同県参事ヨリ権令ニ任 大江卓 高知士 七年一月十五日大蔵省五等出仕ニ任 



  ○明治七年一月十五日、大江卓、神奈川県権令ヨリ大蔵省五等出仕ニ任ゼラレシハ、蓋シ生糸改会社一件ニツキ外交団ノ圧迫ニ基キシモノカ。
  ○明治六年七月「横浜ニ於ケル生糸改会社設立ニ付各国公使異論一件」ナル古記録、外務省ニ所蔵サル。右ハ生糸改会社ニツキ英・仏・米・独・和・西ノ各国公使ヨリ発セラレタル抗議交渉ノ記録ニシテソノ強硬ナル遂ニ県令ノ責任迄モ追及シテ止マズ。陸奥・大江ノ罷免ハコレニ関セルカ。
   該記録中「明治七年一月十日於外務省寺島外務卿英公使パークス江対話」ナル一括アリ。文中、井上・渋沢ノ名ヲ出スアリ。生糸改会社トハ別項ノ交渉記録中ノモノニシテ経緯分明セザレドモソノ個所ヲ左ニ録ス。
   「  一錫之一件ハ如何
   一是レハ兼而井上渋沢之両人ニ任セ有之しに両人共免職相成候ニ付今日渋沢江問合候旨大隈大蔵卿より噺有之候、且、那ノ品ハ政府より直ニヒツトマン江売しには無之同氏ハ両人之手より買得ラレシものなるよし」


(陸奥宗光) 書翰 大江卓宛(明治六年一二月)(DK140056k-0002)
第14巻 p.473-474 ページ画像

(陸奥宗光) 書翰  大江卓宛(明治六年一二月)  (大江恒吉氏所蔵)
三浦半兵衛持参之尊書拝読、且半兵衛口演ヲも承り候処御主意並頭取共之議論共ニ尤ニ御坐候、此責小生尤も任ス可シと申度候得共素より一己之考慮ヲ以テ最初説諭致候義にも無之、皆政府之議ヲ拡張致候義ニ付前日之論素より宗光一箇之論ニ非ス、今日之議又宗光一箇ニシテ之ヲ防ク能ハス、併シ頭取共ニ対シテ宗光実ニ面皮ハ無之候ニ付種々工夫ヲ廻ラシ候へ共、此カ為ニ帰京スルと申訳ニ不参、又帰京シタカラトテ小生之議論が決テ被行候共も不存、就而は亀善等が奮発シテ大蔵卿へ申立タナレハ或ハ少しク引直シ候事も可有之哉、何分ニも此度政府にて更ニ布告センナラント云コトハ如何にも難解若シ改会社之規則不都合アレハ其条丈ケ改正可致也、実ニ各国公使之威権ハ可恐も亦可懼歎息之外無之候、併シ半兵衛が態々参り候事故先ツ生糸改会社より大蔵
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卿江可願出草稿ヲ作リ遣シタリ、是ハ極内々也、御一見之上御改正有之度候、是も原善三郎等が大ニ奮発セ子ハ書面丈ケにてハ六ケ敷カル可シ
一小生ハ今暫クハ滞留ス可シ
一京都知参事ノコトハ如何
                         六石
    楊鸖先生
  本文之義ハ渋沢栄一へ是非御相談有之度、同人が弁スレハ小生之在京シテ弁スルニ異ルコトナカル可シ


(陸奥宗光) 書翰 渋沢栄一宛(明治六年)一二月四日(DK140056k-0003)
第14巻 p.474 ページ画像

(陸奥宗光) 書翰  渋沢栄一宛(明治六年)一二月四日  (竜門社所蔵)
爾後打絶御疎音ニ罷過候、定而御健食ト奉存候、僕御別後此地にて日日接養大ニ相当仕候哉ニ存候、尤も世事疎空ニシテ養痾之間射猟読書頗ル閑清ニ消光罷在候、扨は先達而御苦労相懸候蚕紙之一件より遂ニ生糸改会社へ葛藤ヲ引起シ、租税寮より同会社へ内達等有之候より例之原善等ガ奮発別紙之通り申越猶三浦半兵衛と申者相遣シ責任ヲ僕ニ為負申候、勿論僕其責ヲ避候訳ニハ無之候へ共、当時之勢にてとても僕より大蔵省へ申立候共愚存貫徹難致哉と推考尤も先達而此件ニ付大隈大蔵卿へハ此地より書翰ヲ以テ縷々申遣候事も有之候致候ニ付、半兵衛へハ極秘にて一策ヲ与へ置候、乍併原善等ガ力にてハとても抗論無覚束存候、抑モ各国公使之異見何処ニ有之候哉ハ承知不致候へ共、此会社設立之旨意ハ因ヨリ政府にて榷束之義ハ最初より政府之意也、是ハ
老台にも飽迄も御承知之事ニ可有之、然ルニ布告案之文体にてハ独り其責ヲ会社ニ為負候義如何にも政府之信義難相立、原善等言フ所尤ニ相聞候、若シ各国公使異存有之候ハ規則中何条ニ可有之哉其条丈ケ改正致シ可然事ニ御坐候、夫是之処愚存ニハ難解因ヨリ
老台ハ当時高蹈勇退之御身分に付、御関係無之候ハ勿論ニ候へ共、此件ハ最初より之御尽力も有之、原善等より何ソ願出候へハ智嚢ヲ御貸シ被下間敷哉、此等之事僕当時喋々論スルトキハ強チニ我意自論ヲ主張スル様にて少しく嫌忌無之にもあらす
老台ハ何も御関係之事も無之儘或ハ十分之御弁解被下間敷哉、別紙布告案之通り相成候時ハ各会社瓦解勿論ニ御坐候、共訳ハ人民協同之名ヨリモ政府奨勧之挙多キ所以ナリ、今多弁ヲ煩セす 老台ニハ御了解被下候事ニ付荒増如此御坐候 謹言
  十二月四日                宗光拝具
    青淵老兄
         坐下
  二陳、御渾家様宜敷御伝声喜作子へ御面晤之節ハ別而宜御鳳声奉願候、此頃ハ木卯之御別宅ハ時々御来臨ト存候是亦よろしく呵々


(陸奥宗光) 書翰 大江卓宛(明治六年)一二月一〇日(DK140056k-0004)
第14巻 p.474-475 ページ画像

(陸奥宗光) 書翰  大江卓宛(明治六年)一二月一〇日
                    (大江恒吉氏所蔵)
本月七日御認之芳墨拝読、弥御清栄之段珍重存候、扨者過日、三浦半兵衛ヘ相托シ一書御披見被下候由、夫ニ付彼夫御尽力生糸会社頭取共
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モ此度ハ余程奮発之由、先以珍重、併シ又々議論已ニテ事実ハ被行間敷歟云々トノ御考案、定而御考案之通リ可有之、世事浩歎ニ付スル而已、渋沢ナトヘモ御相談御座候哉、生糸会社頭取共モ何卒十分奮発有之、仮令此度ハ議論不被行候共、向来我カ人民モ権利ヲ主張スル事之端トモ相成、事々物々苟モ権理ヲ屈辱サルヽ時ハ政府ニ対シ候共、其議論ヲ展サル事ヲ得候ヘハ大ニ向後上下之為筋ト存候。此辺御勘考一層之御尽力被下度候
一、京都府之一件御申越承知、然ルニ又々拒刑ヨリ裁判相始候ハ如何之訳ニ可有之哉、委曲御探知御申越被下度奉願候
一、大隈御面会御座候由、然ルニ内務一件之云々之定テ彼是同氏モ配慮之事ト存候、又前島云々、是ハ至極之人撰ト存候、万一同人ニテモ左モ相成候上ハ兼々老兄ヘ御内談申置候老兄御身上之儀モ大ニ都合宜敷ト存候
右等御返答迄如此御座候 以上
  十二月十日                六石
    楊鸖先生


(陸奥宗光) 書翰 渋沢栄一宛(明治六年)一二月一〇日(DK140056k-0005)
第14巻 p.475-476 ページ画像

(陸奥宗光) 書翰  渋沢栄一宛(明治六年)一二月一〇日 (竜門社所蔵)
  此書一閲後火中ニ付セヨ否レハ他人以テ詬病トセンコトヲ恐ル
                       宗光再白
御回答トシテ芳墨被投洗手拝読御盛栄之起居雀躍之至ニ御坐候、扨者□日御依頼申上候生糸会社之一件《(過カ)》ニ付縷々来諭被下、且態ト日比谷へ御越被下深ク御尽力被下候等敬承、多謝此事ニ御坐候、併シ大蔵卿之□□□□□□如何にも残念至極ニ候へ共畢竟微力之政府にて内外之大事ヲ担当致シ難キ御場合ニ可有之偏ニ歎息之至ニ御坐候、其上政府之大臣方も随分西洋流之経済ヲ説キ、理財之道ハ斯クアルモノ物産増植ノ術ハ左モアルベキモノナ□□論ニ至リハ《(マヽ)》夫々之名□偉評□□□□□□□《(有之カ)》日本之経済法ニ疎ク、現ニ生糸ナトハ此国之最第一之物産ニシテ之ヲ保護増植セサレハ貨幣ノ本位ガ金デアロウガ銀テアロウガ第一要メノ商売ガナクナリ全国尽ク貧乏人トナレハ国立銀行モ有テ無テモ同シコトナルベシ、抑劣生ノ深憂スル処ハ独リ此生糸改会社ノ興廃ノミナラス、元来我国之人民ハ深慮長案ニ乏ク諸物産多クハ皆生糸ノ濫製ニ等シク、所□□《(謂各カ)》物之実価ヲ保全セス既ニ茶葉ノ如キモ生糸ト並立之物産ニ候処、其詐偽濫製ノ甚キハ殆ト生糸ノ詐偽ヨリモ多分ニ有之様ニ存候間、明年ニも相成候上ハ是亦生糸改会社ニ習ヒ一層之改革モ可仕心得にて稍々腹稿も出来候程之事ニて、其他物之産モ総テ政府之保護ヲ以テ夫々其真成之価位ニ立直シ可申と存居候事□□□□□我国□如キ人民□保護□我国ノ如キ有様ノ政府ノ経済法ニ可有之ト一図ニ存込ヲリ候事にて、則ち劣弟之職掌上之義務ト相考申候、然ルニ生糸会社一敗塗地候上ハ、茶葉其他之物産保護ナトノ策ハ決テ施ス可カラス、仮令之ヲ施行スルモ、最早人民之信用ヲ得可キニアラス、此辺之事ハ西洋流之経済者も何卒少ク了解有之度事ニ御坐候、併シ斯ク言フ□□□□□《(モノヽカ)》出来ヌコトハ致方も無之候へ共、来諭之如ク大江等御加策曲リナリニモ維持之術御注意被遣候得は、劣生ニ於ても、尤も難有
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次第ニ御坐候
一来書ニ寄リ初テ相考候ヘハ此度之布告案ハ例之ハアクスより指出候哉にて他ノ各使ハ猶一層ニ激論有之由云々、是ハ更ニ了解難致事ニ御坐候、日本政府之布告ヲ各国公使より草案指出候も実ニおかしきモノ也、又如何程激論候共条約ニ触ルヽケ条ヲ改正スルハともかくも或ル会社□□解躰□□□□《(セシムルカ)》等ノコトハ決テ他人ノ所関ニ有之間敷、御説ノ如ク寺ト副トノ異同ハ可有之候ヘ共約リ日本政府ト人民之為筋ニ取リ《(マヽ)》ハ其損益如何ヲ知ラス
一戦士ノ強ク候風聞モ少ク落付候云々来示之趣、是ハ大ニ幸ナルコトナル可シ、現今之政府にてハ禍ヲ転シテ福ト為スノ挙ハトテモ出来申間敷、左スレハ禍ノ無之方誠ニヨロシカル可シ
一春畝氏御面会相成候□《(由カ)》兼而願置候件御叩キ被下候処同人ニ於ても別ニ深ク異情も無之僕ヘ対シテ忠告云々との来示敬承、定而同氏は忠言ニテアリシナルベシ、僕愚ニシテ悟ラス僕ハ亦忠告シタル積リアリシナリ、免も角も過去之事にて同氏解情ハ大ニ難有存候、全ク老兄平生之交誼不相尽候御事ト深ク奉感謝候
 右等御答迄如此ニ御坐候 謹言
  十二月十日             陸奥宗光



〔参考〕大隈重信関係文書 第二・第二〇九―二一〇頁 〔昭和八年八月〕 【三六七 大江卓書翰「大隈重信宛」明治六年十二月七日】(DK140056k-0006)
第14巻 p.476 ページ画像

大隈重信関係文書 第二・第二〇九―二一〇頁〔昭和八年八月〕
  三六七 大江卓書翰「大隈重信宛」明治六年十二月七日
呈寸楮候、一昨宵ハ昇堂高話拝承仕難有仕合奉存候、其節略申上置候九州行申附候野村より之報告昨日御座候処差たる事件も無之候得共御承知迄呈上仕候、拝答申上置候各所之密偵ニ御遣之儀は岩公ニ御噺被為成候哉、退テ熟考仕候ニ仙台辺よりは土国の方先ツ急なる方可然歟、附而土人弘田某事可然人物ニテ当税関奉職罷在候間当人之帰省ニ托して探偵致候ハヽ大様相分可申と奉存候、素り奥州派出之人物も御座候間御指揮通取計可申と奉存候、いつれ不日出京仕候間夫迄ニ御打合置相成候様仕度奉存候
一生糸改会社頭取共ニ昨夜示談仕候処、猶同人共協議之上書面を以可申立趣ニ付十日頃迄ニは頭取之内三両名召連出京万事可申上候間、夫迄之間ハ御布告御達之儀御見合相成候様御含置被成下度此段書面を以不取敢申上置候、右申上度 匆々頓首
  第十二月七日
                     大江卓拝
    大隈公閣下


〔参考〕大隈重信関係文書 第二・第二一一頁 〔昭和八年八月〕 【三六八 大江卓書翰「大隈重信宛」明治六年十二月十日】(DK140056k-0007)
第14巻 p.476-477 ページ画像

大隈重信関係文書 第二・第二一一頁〔昭和八年八月〕
  三六八 大江卓書翰「大隈重信宛」明治六年十二月十日
寸楮拝呈仕候昨宵は昇堂生糸会社一条ニ付縷々申上且今朝租税寮へ罷出猶又松方氏○正義へ縷述仕置候処、右会社廃立の義ニ付テハ渋沢氏○栄一も見込之筋有之候間今一応会社之ものを両人ニ而説諭し、可相成ハ瓦解不相成様仕度、右ニ付今夜は罷出兼候間明早昇楼仕度御都合相伺申候、尤今夕会社之もの共昇堂可仕筈ニ有之候哉ニも承知仕候間、若
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罷出候ハヽ無御面会私旅宿ヘ罷越候様御申附被下度、此段乍失敬以書中申上候 頓首
  第十二月十日
                     大江卓
    大隈公閣下
           御直展


〔参考〕(陸奥宗光) 書翰 渋沢栄一宛(明治七年)一月六日(DK140056k-0008)
第14巻 p.477 ページ画像

(陸奥宗光) 書翰  渋沢栄一宛(明治七年)一月六日  (竜門社所蔵)
一昨日之芳翰ヲ得テ諸事今日ニ相迫リ候義ニ付、朝来大隈参議方尋訪明日之結局ヲ問詰メ帰途尊宅へ可罷出心得ニ候処、大隈方にて熊谷ニ面会同人直様参堂可致筈ニ付其手続は御承知被下候事と奉存候、同人大隈方退出後も参議と指向ヒにて橋場之約ニ違ヒ候事共詰問且明日之都合等相計置候、同氏も明日は自身引受老兄へ御談判可致と随分憤発いたし居候、尤も万世不究と申事ハ因ヨリ可有之理は無之候へ共、過日之結局ハ相付ケ可申候間、老兄ニおひても明日ハ是非御参朝成否黒白を分ケ御進退共御決被下度、無左候而はいつ迄も袋打に相成有之候而は一統之方向も不相附又後来之目的無之泛舟之姿ニ而は甚以苦心之至ニ御坐候、且参議にも諸方の議論ヲ受ケ一身にて百責ヲ受クル之所以も有之情実亦尤ト存候ニ付、何分にも明日は是非共御勉強被下度、此事もはや熊谷杉浦等より御承知と存し候へ共於小生一分ひたすら御奨め申上候 不一
  一月六日
                     宗光再拝
    青淵盟兄
二陳、過刻熊谷へ相托し候生糸会社規則刈行之分《(刊)》ハ、已ニ御許可之筋ニ候処、此度諸国之糸商人参り猶写字之通り相改度と申事ニ御坐候、大略ハ同一ニ候へ共約り製糸之模様ヲ改正スル大意ニ而生糸改会社之規則ニハ□□□□□よろしく廉哉ニ候へ共、商人共之望に付有テモ亦指支ナキコトニ御坐候間、強テ御了簡無之候へは御聞届被下度、明日本寮迄御返却被下候様奉願候


〔参考〕大江天也伝記 (雑賀博愛著) 第一六二―一六九頁〔大正一五年一月〕(DK140056k-0009)
第14巻 p.477-479 ページ画像

大江天也伝記(雑賀博愛著)  第一六二―一六九頁〔大正一五年一月〕
    県参事時代の諸治績
 大江が神奈川県権令になつたのは、明治五年七月十三日の事であつた。それ迄は陸奥県令の下で種々献策する所があつたのであるが、其間に於ける大江の関係した事件は、決して少くはなかつた。一々挙ぐれば際限がない。今玆に県参事時代に於ける彼の治蹟と見るべきものを一活《(括)》して掲げて置く。
一、生糸改め会社の創設 生糸は輸出物産中の最上位を占むるめ《(も)》のであることは、今更説明を要しない。当時既に生糸輸出は海外貿易の最重要の地位を占めて居つた。従つて横浜には当時既に沢山な生糸問屋があつた。所が日本商人の狡猾な性癖は、彼等をして早くも粗製濫造品を作らしめた。そして盛んに海外に輸出して、不当の暴利を貪ぼらんとしたのであつた。然し乍ら斯くの如き事は決して永く続くべきも
 - 第14巻 p.478 -ページ画像 
のではない。上積の荷物に良質の生糸を積み込み、中は悉く粗製品であることが、屡次外国商人の実見する所となれば、勢ひは日本生糸の評価を堕さない訳にはゆかない。其の結果、生糸の価額は暴落した。輪出も減少した。若し此勢ひが長く継続するとすれば、単り生糸の声価が泥土に委する許りでなく、惹いては他の商品にも及び日本商人の信用にも関することであつた。故に大江は此勢ひをどうにかして挽回せなければならぬと考へて、生糸改め会社なるものを創立したのであつた。此会社は政府が民間に勧誘して造らしめたものであつて、央ば官立の性質を含んで居つたのであるが、当時総ての点に於て、人民の自由興業を奨励せんとして居つた、陸奥大江等は、民間の大問屋並びに、生糸業関係者に勧説して、此の会社を民間経営の組織と為さしめたのであつた。で、此会社では、輸出品に対して厳重なる品質試験を行つて、日本生糸の声価を挽回しようと努めたのであつた。更に悪生糸業者の反省を促し、商業道徳の精神を確立せしむると云ふ意味から一々生産品に対して検査料を取つたのである。此結果、生糸業者に対しては、大いなる福音を齎らすべく思はれたが、結果は寧ろ反対であつて、直ちに之れに対する反対の声が起つたのは、所謂粗製濫造の生糸業者である。彼等は、粗製濫造品に依つて、大いに暴利を貪ぼりつつあつたのであるから、斯様な半官半民の邪魔者が出来て、どしどし粗製品を排斥するのみならず、一々検査料を取られるのでは全く立ち行かないのである。で大江等に対して随分手酷い反対運動を起した。左に掲ぐる陸奥宗光の大江に与へた往復書に見ても、当時如何に彼等が、此問題に就いて、焦慮したかを察することが出来る。
  ○往復書翰前掲(第四七二頁)ニヨリ省略。
 一方英国に於ても、新聞紙を以て、盛んに生糸改め会社の組織及び其設立に就いて非難攻撃を加へ居つた。或新聞の如きは該会社に於て手数料を取るが如きは、貿易の自由なる進歩を阻害する許りでなく、惹いては日本生糸の生産能率にも影響を及ぼす悪制度である。此の手数料を取ると云ふ事は、大江が私腹を肥やさんが為の手段である。とまで極論した者もあつた。之を見て大江は憤然として怒つた。そして直ちに、英国領事館を訪問して、之を詰問した。其時領事の言ふには英国の訴訟法に於ては斯かる場合、被害者の訴訟が提起されなければ之を取扱はないのである。若し足下が、果して不正の行為がないと云ふ自信があるならば、此の出訴状に調印してお出しなさい。さすれば英国の裁判に廻して、事の黒白を決するであらふ。(玆に曰ふ裁判所とは英国領事館裁判を指す)時に大江は次の如く曰つた。『自分は自ら顧みて、何の疾しい所はない。英国新聞紙の報ずる所は、全然無根の虚構である。然し乍ら今之を相手にして、訴訟すると云ふのも大人気ない話である。英国に於ては事の黒白を判ずる場合に、最後の審判を裁判に依つて決するかは知らぬが、吾国に於ては自己に関する問題は自己の良心を以て、最後の審判とするものである。吾輩は今日一個の微々たる地方官に過ぎない。然し乍ら志は国家の政治にある。他日中央政府に出でゝ、大官の任に当るかも判らない。其時に際して、大江は嘗つて自己の良心によつて審判さるべき問題を、英国の裁判法に
 - 第14巻 p.479 -ページ画像 
よつて辛うじて黒白を正したとあつては、甚しく自己の名誉を傷つくるものとなるであらう。』
斯く広言して、大江は英国新聞紙の罵詈を更らに意に介せなかつた。
 内外共に非常な不況に陥つたけれども、此生糸改め会社の存立は、日本生糸の声価を恢復するに与つて、少なからざる力を寄するものであつた。○下略


〔参考〕開港と生糸貿易 (藤本実也著) 下巻・第一三六―一九八頁〔昭和一四年一二月〕(DK140056k-0010)
第14巻 p.479-499 ページ画像

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〔参考〕横浜沿革誌 (太田久好著) 第一六五―一七三頁〔明治二五年七月〕(DK140056k-0011)
第14巻 p.499-500 ページ画像

横浜沿革誌(太田久好著)  第一六五―一七三頁〔明治二五年七月〕
○上略
同月○明治六年五月弁天通六丁目後ニ本町六丁目八拾五番ニ会社及石庫ヲ新築スヘ生糸改会社ヲ創立シ前年十一月生糸粗製濫造ノ宿弊ヲ矯正センカ為メ各地方当業者中ノ重ナルモノ及横浜生糸売込問屋ヲ大蔵省ヘ召集セラレ其矯正方法ヲ協議セシム、本年一月太政官第三十二号ヲ以テ生糸取締規則之ニ次キ大蔵省ヨリ生糸及繭真綿印紙売買鑑札施行規則ヲ発令セラレタリ、因テ該規則ノ趣意ニ随ヒ産出地方ヘ生糸改会社ヲ設立ス横浜ニ於テハ売込商三拾五名結合本社ヲ設置シ其役員ハ官撰ナル三越得右衛門・原善三郎・茂木惣兵衛・上原四郎左衛門・金子平兵衛以上五名ヲ社長ニ、手塚清五郎・鈴木保兵衛・吉田幸兵衛・田中平八以上四名ヲ副社長トス、撿査掛ニハ瑞西国人モチイヲ雇聘シ助手若干会計庶務等ノ手代水揚等弐拾余名ヲ雇使セリ六月一日ヨリ開業生糸及附属屑物ノ撿査ヲ為ス糸荷ハ解放シ地方改ノ再検査ヲ精密ニナシ粗ナルモノハ悉ク除去セシム当時奥羽地方ハ折返シ及鉄砲造其他ハ概ネ提糸ナリ該社名ハ明治十年迄継続シ生糸取締規則ハ明治十年悉ク廃セラレタリ翌十一年之ヲ生糸撿査所ト改称シ同十二年解散ス
○中略
同月○明治六年七月海外輸出ノ目的ヲ以テ横浜ヘ輸送ノ蚕種検査ヲ横浜生糸改会社ニ委任セラル、因テ同所ニ検査所ヲ開設シ八月一日ヨリ検査ニ着手ス前年蚕種取締規則発令アリ、原紙ヲ武州深谷信州上田岩代福島ニ於テ製造売下ケ、蚕種紙ハ内外用ノ区別アリ、印紙ヲ蚕種紙壱枚毎ニ貼用シ其地方ニ世話役大総代ヲ置キ之レカ撿印ヲナシ送券ヲ添付シ横浜ニ輸ス、撿査所ハ蚕種ノ良否ニ関セス裏面ノ印紙証印等正則ナルヤ否ヲ撿査シ改査ノ印章ヲ押ス
○中略
十月○明治六年独逸国キニフル商会手代松葉屋桂助ナル者上州小此木村ニ至リ堀込庄平等ヨリ内国用蚕種九千枚ヲ買受横浜ニ輸送ス、当時生糸及蚕種ハ横浜生糸改会社ノ検査ヲ経サレハ其荷主ヘ受クルコト能ハサル規則アリ、因テ之ヲ該会社ニ送ル可キ旨、鉄道運輸方ヨリ会社ヘ通ス、彼是往復中荷主商会ヨリ受取持参セントス、社員其違則ナルヲ説諭スルモ不肯、不得止立番邏卒ノ保護ヲ請フ、是ニ由テ同国領事ノ出張スルト同時ニ神奈川県官モ亦出張シ、物品ハ領事ノ預ル処トナリ事先ツ一時鎮定セシモ、其際不敬アリトノ談判ヲ発セリ、又各地方ヨリ横浜ニ出張滞在スル蚕種商数百人モ亦之ヲ伝聞シ万一国内用種ノ輸出
 - 第14巻 p.500 -ページ画像 
スルニ至ラハ一時動揺スヘキ掛念アリ、其結局果シテ如何ト皆疑念ヲ生スルノ景況アリ、是ニ於テカ生糸改会社ノ正副社長頗ル之ヲ憂慮シ原善三郎・茂木惣兵衛・金子平兵衛・上原四郎左衛門・鈴木保兵衛等キニフル商会ニ出張シ再応談判シ、遂ニ他ノ良種ト交換スヘキ約ヲ整ヘ無事ニ局ヲ結ヒタリ
○中略
同月○明治七年三月横浜居留生糸商総代仏国人ジヤクモ外二名生糸改会社ニ来リ社長原善三郎・上原四郎左衛門・金子平兵衛・副社長鈴木保兵衛ニ面会シ、生糸風袋ノ件ヲ商議シ、提糸ハ百斤ニ付元結印紙ヲ合セ風袋ヲ弐斤半、其他ノ糸類ハ有目通リトセンコトヲ約定ス、口約ナルモ猶ホ今日迄履行セリ
○下略