デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
28節 貿易
7款 蚕種紙買入所
■綱文

第14巻 p.513-545(DK140061k) ページ画像

明治7年12月23日(1874年)

是ヨリ先、蚕種紙買入所ハ十月九日ヨリ十一月二十日マデ、蚕種紙四十四万八千四百十三枚ヲ買上ゲ、良質紙五千二百四十九枚ヲ除キ、他ヲ悉ク焼棄ス。而シテコレニ要セシ費用八万五千五百四十五円余ハ、実質上政府之ヲ負担セリ。是日栄一、勧業頭河瀬秀治ニ書翰ヲ送リ、遮般ノ蚕種貿易挽回方法ノ実行成績ニツキ、資料ヲ添付シテソノ結末ヲ報告ス。


■資料

渋沢子爵家所蔵文書 【[明治七年蚕種紙焼棄ノ件 書状 三十一通]】(DK140061k-0001)
第14巻 p.513-519 ページ画像

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渋沢栄一 書翰 渋沢喜作宛(明治七年)一〇月一五日(DK140061k-0002)
第14巻 p.520 ページ画像

渋沢栄一 書翰  渋沢喜作宛(明治七年)一〇月一五日
                   (渋沢子爵家所蔵)
伊勢町にて 渋沢喜作様 急用 同栄一
只今原氏出京横浜□景況承及処色々混雑《(之カ)》も相生し候哉之由ニ付、是非御出張被下度候、右御出張ニ付不取敢同氏も拙宅ニ候間、一寸尊来奉願候也
  十月十五日              渋沢栄一
    蘆陰老兄
  ○明治七年十月十六日、横浜蚕紙買入所当番金子平兵衛ヨリ栄一ヘノ書翰ニ喜作ノ来港ヲ要望スル句アリ、本書翰ハスナハチ当時ノモノナルベシ。
  ○「色々混雑も相生し候哉之由」云々トハ野沢屋忠兵衛抜売一件ヲサスカ、「東京日々新聞」明治七年十月十九日参照。


(玉乃世履)書翰 渋沢栄一宛(明治七年カ)一〇月一七日(DK140061k-0003)
第14巻 p.520 ページ画像

(玉乃世履)書翰  渋沢栄一宛(明治七年カ)一〇月一七日
                   (渋沢子爵家所蔵)
○上略
序ニ曰
 蚕卵紙即今横浜之景況ハ如何
 老兄之先見的当小生之先見も老兄之次ニハ可有之自信し愈以御先見ニ感佩せり
此上ハ来年之処何卒何卒復古説ニ御互ニ尽力仕度候、是亦例之沢山癖不覚為
老兄発之
  十月十七日夜十二時
          灯下認
    渋沢盟台                 世履
         侍史拝復
  ○年次ヲ明ラカニセザレド姑クココニオク。


(原善三郎)書翰 渋沢栄一宛(明治七年)一〇月二〇日(DK140061k-0004)
第14巻 p.520-521 ページ画像

(原善三郎)書翰  渋沢栄一宛(明治七年)一〇月二〇日
                    (渋沢子爵家所蔵)
今朝御達之尊書今晩相達拝見仕候、金弐万円也御支店へ御回し之趣承知仕候、扨当港蚕種之景況御配慮之依而昨今之摸様者大井ニ引立候様子、併確斗取引も無之候得共、先最初直立之節稀物と而七分位之処尚時ニ有品ハ少し、中辺ニ者候得共か成六七分売込出来可申候見込、然ル処現在之品半高買入所へ売渡スへく商人之釣足ニ付、昨今迄ニ売渡シ不足之分取調ニ付彼是面倒も出来、外国人より売出し之日限も定り不申候、僕も過日之仰も有之旁心配致候得共何分行届キかね困入申候、何卒程能売込も初メ申度是非明日御出港被成下、製造人の重立候者へ御諭示被下候様致度、今日之買入も弐万少し余ニ相成申候、此処ニ而四十万買入候ハヽ追々引〆リ可申一同見込ニ付、製造人之頭取衆へ少
 - 第14巻 p.521 -ページ画像 
し御加勢も致候故出来候半高者減し可申哉、先余程之国益眼前ニ相見へ申候、御安慮被下度候、尚明日御出港一同待上奉候也
  十月廿日夜
                     原善三郎
    渋老兄君


(河瀬秀治)書翰 渋沢栄一宛(明治七年)一一月二日(DK140061k-0005)
第14巻 p.521 ページ画像

(河瀬秀治)書翰  渋沢栄一宛(明治七年)一一月二日
                    (渋沢子爵家所蔵)
横浜蚕種之近況遂一御報知被下委細拝誦仕候《(逐)》○中略右者不取敢拝酬迄
                         草々頓首
  十一月二日
                   河瀬秀治拝
    渋沢様


(原善三郎)書翰 渋沢栄一宛(明治七年)一一月一二日(DK140061k-0006)
第14巻 p.521 ページ画像

(原善三郎)書翰  渋沢栄一宛(明治七年)一一月一二日
                    (渋沢子爵家所蔵)
今日之買入高別紙ニ奉御覧入候、明日明後日ハ今一層相増可申見込ニ付、昨日相願候通金弐万円明日ハ無相違御廻シ被下様致度候、尚明朝参殿委細可申上候也
                         原
  十一月十二日
    渋沢君


(河瀬秀治)書翰 渋沢栄一宛(明治七年)一一月一四日(DK140061k-0007)
第14巻 p.521 ページ画像

(河瀬秀治)書翰  渋沢栄一宛(明治七年)一一月一四日
                    (渋沢子爵家所蔵)
華翰拝誦仕候○中略且横浜之近況ハ亀善出寮可申置旨是亦拝承仕候、右者御請迄 草々頓首
  十一月十四日
                       河瀬秀治
    渋沢様


(原善三郎)書翰 渋沢栄一宛(明治七年)一一月一九日(DK140061k-0008)
第14巻 p.521 ページ画像

(原善三郎)書翰  渋沢栄一宛(明治七年)一一月一九日
                    (渋沢子爵家所蔵)
尊書相達金貨云々御尋問之次第承知仕候、当時貯蔵之分は八万円、尤日々都合ニ依而過不足有之候得共、五七万円之高は何時ニ而も御間ニ合せ可申候、鈴木氏江も御打合可申候也
蚕紙買入之儀も昨今之処は至而無少ニ候間、御仕払之儀ハ鈴木氏江御打合可申候、㝡早廿日迄ニ而千秋楽之積りニ御坐候、余分高ニは相成間敷と奉存候
一国々惣代之者歎願之一条も何と歟御工風被仰聞候様仕度、尚相伺候て御指揮之程奉願上候也
  十一月十九日
                          原
    渋沢様
        尊下

 - 第14巻 p.522 -ページ画像 

(三浦半兵衛)書翰 渋沢栄一宛(明治七年)一一月二八日(DK140061k-0009)
第14巻 p.522 ページ画像

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(河瀬秀治)書翰 渋沢栄一宛(明治七年)一二月一三日(DK140061k-0010)
第14巻 p.522 ページ画像

(河瀬秀治)書翰  渋沢栄一宛(明治七年)一二月一三日
                    (渋沢子爵家所蔵)
尊翰拝誦仕候、陳者予め御面倒奉願候蚕種買入一条、即今結末ニ至り勘定書類残金額とも不日御差出可被下候旨段々の御高配偏ニ奉拝謝候将明年蚕種之一条ニ付製造人惣代共々も切迫痛心罷在候次第、右之場合夫是御教示被下度、今明日之内御来臨可被下候御都合、右ハ従是参上可致筈之処、尚都合も御坐候間明十四日午後四時頃より拙宅迄御光駕被成下度、意外失敬至ニ候得共、御示之旨基キ不顧失礼、此段御請申上候 草々頓首
  十二月十三日
    渋沢栄一様           河瀬秀治
       御請


(河瀬秀治)書翰 渋沢栄一宛(年未詳)一二月一九日(DK140061k-0011)
第14巻 p.522 ページ画像

(河瀬秀治)書翰  渋沢栄一宛(年未詳)一二月一九日
                    (渋沢子爵家所蔵)
○上略
陳者先頃来拝謁相伺度条件も有之候得共、不得其閑打過候処、可相成は明廿日午後四時頃より罷出候様仕度、御差支も無之候得者御面語可被成下候、若又御不都合之義も候得者何日何時頃参堂仕候得者御支江も無之候哉、其摸様乍御面倒御示し可被下候 頓首百拝
  十二月十九日              河瀬秀治
    渋沢様


渋沢栄一 書翰 河瀬勧業頭宛(明治七年)一二月二三日(DK140061k-0012)
第14巻 p.522-524 ページ画像

渋沢栄一 書翰  河瀬勧業頭宛(明治七年)一二月二三日
                    (渋沢子爵家所蔵)
本年蚕種貿易之義ハ、内外用区別之御制度御解被成候より、国々之製造品挙て之を輸出ニ供し候勢ニ相成、十月初旬横浜貿易之景況殆と無価之極ニ陥り、各地之製造家ハ概算壱万人余出港して各其売込を争ひ実ニ景状すへからさる之有様ニ付、御寮ニ於て深く御悼嗟被為在、何分之方法御下問も有之候ニ付、愚案之次第条陳仕候処、速ニ担任施為可致旨御内命相成、尤も其実ハ御寮より資金御支給被下候とも、其名ハ商估之取扱ニ帰し候様との御趣意も奉戴仕、早速横浜港重立候商人共へ申談、御允許之方法条款ニより、去々十月九日より買入焼棄相始、十一月廿日終局迄、日数四十二日、買入蚕種数四拾四万八千四百拾三
 - 第14巻 p.523 -ページ画像 
枚、此代価金八万四千八百拾六円弐拾九銭五厘平均壱枚ニ付拾八銭九厘壱毛と相成、外ニ右買入ニ付雇入書記並人足之給料、其他筆墨紙料、及右買入蚕種中試験之為外国人へ差送候入費資金東京より横浜へ廻送等迄、合計七百弐拾九円弐拾六銭六厘を加へ、費金総計八万五千五百四拾五円五拾六銭壱厘ハ別冊仕払帳記入之通夫々仕払致し、㝡初御預金高拾三万六千九百五拾弐円弐拾五銭と差引、金五万千四百六円六拾八銭九厘ハ別紙第一国立銀行手形を以返上仕候、右買入ニ付□蚕種代仕払方総計簿壱冊並各所持主より買入之節各其代金相渡候証として日々連名登記いたし候内訳簿冊第壱号より弐拾七号迄ニて、蚕種代金仕払方ハ明了ニ簿記仕候間、此仕払ニ於て決而不都合無之ハ勿論、如何之買入等いたし候義ハ万々無之段、右簿冊御細覧之上御了解被下度候
総計簿之末ニ記載仕候此買入焼却等ニ付、諸入費ニ係り候仕払ハ、其受取書相添不申候得共、是以現ニ遣払候実費ニ相違無之候、白紙受取証御入用ニ候ハヽ御下命、夫々取揃進呈可仕候
買入所取扱方日誌ハ別冊之通ニして、其日之事務梗概を略記したるものニ候得共、書記文筆ニ拙く候間、其要を採録する能わす候、乍去現場之実況御併覧之為メ共ニ進呈仕候
買入候蚕種之中、㝡上之品と見受候分五千弐百四十九枚ハ焼却ニ附せす、横浜ニ於て取扱之者共手許ニ相存し、其中五百枚ハ伊仏商人五名へ各百枚宛試験之為差送り《*》、残四千七百四拾九枚ハ現ニ横浜ニ有之候間、御指揮次第進呈仕候とも、又ハ何分之取計可仕候
*(欄外記事)
[五名之名前並差送候枚数ハ日誌中ニ記入仕候
蚕種焼棄之景況ハ後日追想之為写真致し置候ニ付、其壱葉を進呈候間御笑覧可被下候
此買入ニ付而之所得ハ今日より之を見れハ、敢而明著之効験も無之哉ニ候得共、既ニ日誌中にも記載いたし候如く、十月五六日頃ハ蚕種之価壱枚ニ付五銭にても、外国人ハ絶而之を購入せす、泰然として尚其輻湊するを相待、日本之製造人ハ之に反して翕然相競奔シテ其売却を求るニ付、当時之景況ニ就て之を想像せハ、其無価ニ至るハ素より言を俟たす、而して十月五六日迄之外国人へ売込高凡三拾万枚なれハ、其後尚百万枚之高を凡五六十銭ヨリ三十銭マテニ売却せしハ、皆其功を此買入焼却之方法ニ帰せさるを得す、然時ハ此買入ニ付、日本之蚕種代価を外国人より増収せしハ概算五拾万弗之額ニ下らされハ、其買入費金八万五千円を陰ニ官府ニ於て損せしも、素より有用之消費にして、目前六倍致し殖益を為せしものなれハ、其得失較計ハ充分ノ駮験《(効)》ト奉存候
且先一事ヲ処スル同時ニ両般ヲ試ム可ラス、設シ仮ニ此買入焼却方法ナシトセハ、固々之製造人横浜出港之徒《(個)》ハ、概シテ其宿料ダモ支ユル能ス、多クハ窮途ニ迷ヒ、離散逃亡之極ニ至ラン、然ル時ハ人民保護ノ御義務ニ於テモ、亦御捨置キ被成候事ニテ、今八万五千円ヲ散シテ此離散ヲ御救護被成候モ、其効既ニ多シト可申歟、況哉前条之比較計算有之ニ於テ乎、実臨時至緊之御所置ニシテ然モ其当ヲ得候義ト奉存候
此買入たる蚕種を焼却せしハ、頗る暴戻之所為ニして、野蛮之極ニ似
 - 第14巻 p.524 -ページ画像 
たりといえとも、外国人ハ此買入を為せし後、其蚕種を輸出するを恐れ、其間大ニ危疑之念ありき、故ニ此焼却之実際を通覧して始て其買入之価格を増せしハ十月廿三日之売込価格ニよりて之を徴信すへし全此焼却之野蛮法却而此品種貿易之度ニ適するものと存候間、亦以無用之好事と御看做被下間敷候、而《*》して此価を定めて買入候ハ所持人之随意ニして預り候より其効万々相増候義ハ、更ニ喋々之弁ヲ費スニ不及事ニ御座候
本年蚕種横浜輸出高惣計百七拾六万四千四百拾枚にして内百三拾壱万五千九百九十七枚ハ現ニ外国へ輸出し、四拾四万八千四百拾三枚(註輸出高ノ十分ノ三三)ハ買入所ニ於テ買入焼却ニ附せしニ付、全国製造之惣数弐百六拾万枚とせハ、差引残り八拾三万五千五百九拾枚ハ内国用之為メ貿易場ニ輸出せさるものと存候、而して日誌中ニ横浜入荷之惣高調と右外国輸出並買入焼却との較計ニ差違あるハ、多くハ東京ニ於て外国人へ直売せしもの、横浜改所之入荷調ニ脱セシニ付、此計算之照査ヲ得サルコトト存候
 *(傍註)
  一般ノ製造高輸出求需之高ニ超過スルノ理ハ、此一事ニても確証スルヲ得ヘシ
右者本年蚕種貿易挽回方法取扱方御下命ニ付、勤勉従事之上、其終局之手続並其際之卑考等具陳いたし、且此事ニ付テノ諸簿冊類残余之金額共相添、謹而考課具状仕候也、
  明治七年十二月廿三日
                     渋沢栄一
    河瀬勧業頭殿
    進呈品目録
一金五万千四百〇六円六拾八銭九厘 第一国立銀行振出し切手壱枚
一蚕種焼棄所写真         壱枚
一蚕種買入所日誌         壱冊
一同蚕種総計締帳         壱冊
一蚕種買入簿           第壱号より弐十七号迄弐拾七冊
 〆
右之通進呈仕候也
  十二月廿三日
  ○「東京、第一国立銀行」ト印刷セル罫紙ヲ用フ。栄一自筆。


(河瀬秀治)書翰 渋沢栄一宛(年未詳)一二月二六日(DK140061k-0013)
第14巻 p.524 ページ画像

(河瀬秀治)書翰  渋沢栄一宛(年未詳)一二月二六日
                    (渋沢子爵家所蔵)
拝啓今廿六日午後一時頃より銀行江参上可仕候様昨日御示諭之趣不取敢御請書差出置候都合ニ御坐候処、両三日少し風邪之折柄昨夜より一層頭痛甚敷、今朝ニ至り何分枕を脱し兼難渋仕候次第、無余儀御断申上度、尚快方次第御都合奉伺候様可致奉存候 草々謹言
  十二月廿六日             河瀬秀治
    渋沢様


(原善三郎)書翰 渋沢栄一宛(明治八年)一月一二日(DK140061k-0014)
第14巻 p.524-525 ページ画像

(原善三郎)書翰  渋沢栄一宛(明治八年)一月一二日
                    (渋沢子爵家所蔵)
 - 第14巻 p.525 -ページ画像 
昨日御達之趣奉拝承、陳者蚕種焼棄ニ付勧業寮ヘ御差出シ之書面御草案拝借之分則封中御返達申候、御落手可被下候
○中略
  一月十二日               原善三郎
    渋沢栄一様


東京日日新聞 第九一〇号〔明治八年一月一八日〕 【○客年政府に於て蚕種…】(DK140061k-0015)
第14巻 p.525 ページ画像

東京日日新聞  第九一〇号〔明治八年一月一八日〕
○客年政府に於て蚕種内外用区別の制度を解きたるより国々の製造人挙つて之を輸出に供し、各地の製造家壱万人余出港して各其売込を争ひ、十月初旬に至りてハ横浜貿易の景況殆と無価の極に陥らん有様に付き、同月八日東京横港《(浜)》の巨商等六名協力して蚕種紙凡ソ八九十万枚を買潰して之を焼棄ん事を発起し、翌九日より買入焼棄を始め、十一月廿日に至りて終る、右の一件に付き昨十二月廿三日其筋の人より内務省勧業寮に出したる報告書を得たり、今其要を撮みて左に掲く○下略
  ○報告書ノ内容ニツイテハ前掲栄一書翰(第五二二頁)参照。



〔参考〕(陸奥宗光)書翰 渋沢栄一宛(明治七年カ)一一月一六日(DK140061k-0016)
第14巻 p.525 ページ画像

(陸奥宗光)書翰  渋沢栄一宛(明治七年カ)一一月一六日
                    (渋沢子爵家所蔵)

沢栄一様 拝答
〆 陸奥宗光
拝読万敬承、扨者井上氏も出京後刻御来訪被下候趣謹而御待申上候、尤も上流舟遊之御趣向も御座候得は、私より参趨仕候而も宜、或者柳橋辺にて御出会可仕歟、今一応御高諭を蒙申度候 以上
  十一月十六
                        六石生
    青淵先生


〔参考〕(陸奥宗光)書翰 渋沢栄一宛(明治七年カ)一一月二〇日(DK140061k-0017)
第14巻 p.525 ページ画像

(陸奥宗光)書翰  渋沢栄一宛(明治七年カ)一一月二〇日
                    (渋沢子爵家所蔵)
已夜者忽卒間諸事失敬仕候、扨者是非一応御面晤仕度品有之、明早天七時迄ニは必ス参堂拝晤仕度候間参堂可仕候、右者明朝ニ無之候而者少々時期を誤り可申と存候事ニ付、可成者御操合御在宅被下度奉願候、為其如此ニ御坐候 以上
  十一月廿日                  陸奥
    青淵盟兄
         坐下


〔参考〕(陸奥宗光)書翰 渋沢栄一宛(明治七年カ月日未詳)(DK140061k-0018)
第14巻 p.525-526 ページ画像

(陸奥宗光)書翰  渋沢栄一宛(明治七年カ月日未詳)
                    (渋沢子爵家所蔵)
 - 第14巻 p.526 -ページ画像 
(朱書)――
朶雲拝読已刻之御投書も有之直チニ参趨可仕理候処、唯今無余義来客有之一二話合罷出候早ク済次第直チニ参上可仕候へ共、自然御出懸之場処も御坐候へは何卒御出掛被下度、都合次第升田屋へ参り追懸ケ可申上候。上流枯野之御遊楽ヨリハ升田屋之土蔵にて火閤之対坐之方《コタツ》ナレハ更ニ妙也、何れにも後刻迄ニは参趨可仕候
    渋沢先生                陸奥


〔参考〕(陸奥宗光)書翰 渋沢栄一宛(明治七年カ)一一月二一日(DK140061k-0019)
第14巻 p.526 ページ画像

(陸奥宗光)書翰  渋沢栄一宛(明治七年カ)一一月二一日
                    (渋沢子爵家所蔵)
渋沢栄一様 陸奥宗光
昨夜一書拝呈仕置候ニ付而ハ唯今尊邸へ罷出候処、未タ御帰宅無之と申事、御出先へ罷出可申哉と奉存候へ共、鴛鴦之吉夢を驚攪致し候も無情之至と存シ、且御談申上度義は少々秘ニ申上度ニ付、御同伴之人も難計、則ち御尊邸へ相扣へ罷在候、御都合次第升田へ罷出可申哉、又は御帰宅相成候哉待御回答 謹言
  十一月廿一日


〔参考〕(尾高幸五郎)書翰 尾高勝五郎宛(明治七年)一一月五日(DK140061k-0020)
第14巻 p.526-527 ページ画像

(尾高幸五郎)書翰  尾高勝五郎宛(明治七年)一一月五日 (渋沢子爵家所蔵)
  尚々伝二郎江其節酒三本御送り遺し候処正ニ人手仕候間此段荊妻江御申聞ケ被下度存入候
愈御安静之条奉南山候、陳者此程中ハ亦々蚕種之義御厄介なから伝二郎持参仕度、早速古川氏江御依願被下候由宜ク奉願候、且過日来相願置候分此程中売払ニ相成候趣承知仕候、相場之義上直段殊ニ洋銀も都合よろしく誠ニ御情ニ預り難有奉謝候
其来ハ当地辺之説ニ申ハ先ツ本年も近来続ノ如成行可申抔之所説而已如何心配罷在候処、其内当邸大人並ニ湯嶋主人之方法ニて気配引直候趣ニ而一般安堵之思ひを成候次第、生抔纔手製分なから一節ノ気合ニ而ハ御頼申置候得とも先つ見切物と存入候処、右条売上ケニ相成候而ハ実ニ十分之事ニ御坐候間、殿様奥様江此段宜ク御鳳声是祈候、偖次ニ御依頼申候品者取集メ物ニて先品よりも相劣り候心得ニ候間、若シ売先相場之義も先分と相移り兼候得とも、予テ申上置候次第無御遠慮御取計、早速御売捌相成候様奉頼候
且右売捌代金之義ハ是迄色々殊ニ荊妻此度参上之義ニ付定而御借用之事存入候、亦時計其他御立換金之処ハ合右ノ差引ニ而御入帳奉願上候残金之義ハ家内帰宅候節か亦者尊父君之御帰邸之節御送り被成下度奉願候
一時計取換之義御精々被下候処当方より御送り候品ハ当時不流行品之由五円より高価ニハ受不申、且今度十六円之品と御取換被下候義承知仕候依テハ右下々当方より差送候品ハ知己之者ニて引受申度人有之候間今一応五十銭位ニて御直し御送り被下度候、尤も右新ニ此度御求メ被下候ハ別ニ買取り御遣し被成下候、右色々我儘以テ申上候得共、此段宜ク
 - 第14巻 p.527 -ページ画像 
御願申上候
一こと眼病之義平愈致し、何れ二十日頃ニハ帰宅候趣之由、且黒七子切四尺八寸と申早速差出し候間、其節御入手可被下候、右者申上度
                          匆々謹言
  第十一月五日              尾高幸五郎
    尾高勝五郎様


〔参考〕(尾高幸五郎)書翰 渋沢栄一宛(明治七年カ)一一月一六日(DK140061k-0021)
第14巻 p.527 ページ画像

(尾高幸五郎)書翰  渋沢栄一宛(明治七年カ)一一月一六日
                    (渋沢子爵家所蔵)
拝啓愈御安静可為遊候条欣然之至奉敬賀候、随而弊屋無異乍憚御休神奉祈候、陳者過日来蚕種之義不顧御厄介御配慮ニ預り候処、此程御売捌ニ相成候趣勝五郎より被越申委細拝承、且相場之義格合別而上直段洋銀弐枚壱分ニて不残売払ニ相成候由、但シ洋銀仕切も場合克都合実ニ御配念を蒙り、右条十分之仕合居なからニ而相伝誠ニ難有御義奉拝謝候、偖其以来ハ蚕種説件も当地辺ハ近年来ノ如ク瓦解ニも難計哉等之新説而已ニて心配罷在候処、然ルニ其内今般尊下並ニ湯島主人之御尽力ニ而御方法相立候義ニ付、気配も猶引直し候事ニ一般製造人安堵之思意を成し候次第、且国内用義最初より一節景況ニ而ハ何方も矢張り本年も亦候輸出立返り候を相待可申抔を相唱ひ、如何ニも思□なく私共組も粗々残り種少々有之義ニ付亦右の輸出ニ換勝五郎方江差送り、御厄介申入候処、余り如何敷義存入、尊下之御耳ニ入候も恐入候義ニハ存候得とも、此程申願候段只顧奉拝謝候
一こと女眼疾之義、長々此ク御心配を蒙り平愈相成候事ニ付近日帰宅可申趣、何とも実ニ難有奉仰候、何卒乍憚御奥様江も宜ク御鳳声奉希上候、右ハ拙筆乍失敬不取敢得尊意度候 匆々膝行頓首々敬白
  第十一月十六日           尾高幸五郎(印)
                       千拝
    渋沢尊大人様
            閣下
別啓奉拝候、此度尾高兄君義病気ニ付免職願申出候義ニ付、此ノ十五日御免ニ相成候趣拝承、実ニ如何心配候得とも、乍併此件者定テ御談示御差含義も可有御坐事と奉恐察候得とも、此上猶奉祈念候、右者奉申上度 匆々頓首々
                      尾高幸五郎
                          拝


〔参考〕自明治二年至明治七年 蚕卵紙生糸取締関係雑件 第一巻(DK140061k-0022)
第14巻 p.527-528 ページ画像

自明治二年至明治七年 蚕卵紙生糸取締関係雑件 第一巻 (外務省所蔵)
(朱書)
甲第三拾五号
蚕卵種内外用区別被廃候上者夏種之儀も薄紙江仕立候分外国人ヨリ所望候節者製造人ヨリ直ニ売込候とも精良品ニ候ハヽ売買ヲ禁候訳者有之間敷処、右ヲ制禁之規則有之ハ何等之趣意ニ候哉御問合之趣致了承候、右者夏種輸出制禁と之儀者規則上明文モ無之候得共、元来夏蚕之儀者規則第二則第一節ニ内国於テモ可成丈ケ製造致間鋪旨掲載有之、将元来粗悪之質ニ付総テ海外輸出之蚕種者精良之品而已製出候様追々諭達およひ有之儀ニ而、既ニ本年内外流用便利之為メ一様之印紙下ケ
 - 第14巻 p.528 -ページ画像 
渡相成候ニ付而者、自然欺罔之所為ヲ以夏蚕種及掛合風穴等之種類海外江輸出シ一般蚕種之声誉ヲ堕落セシメ候而已ナラス、竟ニ彼我損害ヲ醸シ不容易儀ニ付、心得違ヲ以濫ニ輸出致間鋪旨当寮より各地方へ及説諭置候儀ニ有之、従来粗悪品之故ヲ以内国用之分而已製造いたし来候儀ニ而、殊ニ本年之儀者製造凡積取調之節ヨリ製造人共於テモ海外輸出之見込者無之儀ニ付、今俄ニ夏蚕等勝手ニ輸出売買為致候ハヽ前条之弊ヲ生シ、彼是不都合不尠候間輸出願出候共濫ニ許可不致見込ニ候条、其辺御了承有之度存候、此段及回答候也
  七年十月四日         勧業権頭 河瀬秀治
    外務大少丞
          御中
  ○「内務省」ト印刷セル罫紙ヲ用フ。


〔参考〕自明治二年至明治七年 蚕卵紙生糸取締関係雑件 第一巻(DK140061k-0023)
第14巻 p.528 ページ画像

自明治二年至明治七年 蚕卵紙生糸取締関係雑件 第一巻 (外務省所蔵)
(朱書)
「第三百二十四号 十月十五日達ス」
 (朱印)
  庶務局
      庶務局来
    河瀬勧業頭殿          外務大少丞
蚕種製造人とも挙て輸出セント一時横浜へ出荷候品多分相成夫か為メ価格を落シ候ニ付、品数を減し再ひ声誉を得ント荷主共申合同港於テ多数之蚕種焼捨候趣風聞有之候処、右虚実、且右蚕種之原紙ハ最初政府より売渡し候廉ヲ以原紙並印税とも政府より償還相成候由、右之虚実とも両廉承知致シ度旨伊太利公使より申立候条、御取糺至急御回報有之度、此段及御掛合候也
  七年十月十五日
  ○「外務省」ト印刷セル罫紙ヲ用フ。


〔参考〕自明治二年至明治七年 蚕卵紙生糸取締関係雑件 第一巻(DK140061k-0024)
第14巻 p.528 ページ画像

自明治二年至明治七年 蚕卵紙生糸取締関係雑件 第一巻 (外務省所蔵)
(朱書)
「甲第四拾号」
蚕種製造人共横浜江出荷候品多分相成価格ヲ落シ候ニ付、品数ヲ減シ声誉ヲ得ント荷主共申合同港おゐて蚕種焼捨候趣風聞有之候処、右虚実、且右蚕種之原紙者政府ヨリ売渡候廉ヲ以原紙者印税共償還相成候由、右之虚実とも承知致度旨伊太利公使ヨリ申立候条、取糺至急可申進旨御掛合之趣致承知候、然ル処右焼捨云々之儀者東京新聞紙上等ニ而見受候儀者有之候得共、其虚実者当寮おゐても難相分、勿論新聞紙上之趣ニ而者相対購求之品粗悪之分焼捨候との儀ニ相見候間、政府ニ於テ可差止廉モ無之儀と被存候、且又原紙代並印紙料等償還相成候儀等者曾テ無之儀ニ候条、其旨御了承有之度存候、此段及回答候也
  七年十月十八日        勧業権頭 河瀬秀治
    外務大少丞
          御中
  ○「内務省」ト印刷セル罫紙ヲ用フ。


〔参考〕東京日々新聞 第八一二号〔明治七年九月三〇日〕 【横浜へ信奥上武諸州…】(DK140061k-0025)
第14巻 p.528-529 ページ画像

東京日々新聞  第八一二号〔明治七年九月三〇日〕
 - 第14巻 p.529 -ページ画像 
○横浜へ信奥上武諸州より蚕種紙を運送して既に山の如く各行内《しよとひや》に堆積《つみあげ》せり、其数百万枚に踰《こゆ》べし、前号に言ひし如くイタリヤ人ハ最初に信州人の売りたる低価を以て高頂の位と定め其より下なる価を以て総ての蚕種紙を買ハんとせり、而して日本人ハ今日に至るまでハ未だ低価を以て投棄《なげすて》るに忍びずして忍耐《しんはう》したれども、数百人の田舎商の中にハ内実種々の苦情あるを以て遂に必らず価に拘ハらずして売る者あらんとす、是レ日本商人の為にハ其害烈風暴雨よりも甚しき者にしてイタリヤ人の企望する所の機会なりと云ふ


〔参考〕東京日々新聞 第八一九号〔明治七年一〇月八日〕 【九月五日より今月五日…】(DK140061k-0026)
第14巻 p.529 ページ画像

東京日々新聞  第八一九号〔明治七年一〇月八日〕
○九月五日より今月五日まで三十日の間に各州より横浜へ積送りし蚕種紙の荷高百五十一万三千五百七十六枚なり、此の如くなれバ家ごとに数万枚の蚕種紙を積み重ね、多くの荷主入り込みて騒き立れとも未だ隆《しか》としたる商《あき》なひも無く、只少し計りの取引ありしのみなれバ直段も慥にハ極まらず、然し極上等の品にて一枚に付価洋銀七十五箋《センス》、中品にて同四十五戔より三十五戔ぐらゐ、下物ハ顧《みむ》く人もなし、四五日前より生糸改会社に於て横浜売込問屋ならびに諸国の蚕種紙総代及び荷主商人等集議して今年蚕種紙出来高の四分を焼捨《やきすて》て荷高を減じ、価を騰《あ》げんとの談判始まりたれども、異論紛々として未だ定まらざるよし、然れどもイタリヤ人も本年蚕種紙の荷高はなはだ多く、且ツ下直なるを見て若し日本人イタリヤへ蚕種紙を送り荷する者あらんも計り難しとの心配ある故か買入を見合せ居たりしに、此たび焼捨の論起ると聞て皆其決議を待ち居るとの由なり、蓋し日本の蚕種紙ハイタリヤ商人毎年これに依りて利を得るもの多し、故に直段ハ少し上るとも日本人より直《ちか》に持ち行かるゝよりハ宜しきなるべし


〔参考〕東京日々新聞 第八二〇号〔明治七年一〇月九日〕 【横浜にて蚕種紙焼捨…】(DK140061k-0027)
第14巻 p.529 ページ画像

東京日々新聞  第八二〇号〔明治七年一〇月九日〕
○横浜にて蚕種紙焼捨の議漸やく調のひ、問屋問屋に泊り居る諸国の荷主へハ各々その問屋主人より説得《せつとく》したれバ、凡ソ七八分ハ承知したり、是まで横浜へ入荷の蚕紙凡ソ百五拾万枚余と見為し、其内凡ソ三拾万枚余ハ既にイタリヤ人へ売渡したる物として残り百二十万枚を二ツに分け、其半高六拾万枚をバ成り丈ケ下等の品を選んで生糸会社に持集り焼き捨て、跡六十万枚の蚕紙を以て今年の売り品と為すべきに決議し、数日前すでに其仕法を定め問屋主人も各々約定調印し此事の落着までハ蚕紙売込を差し留る事に成りたれども、今日に至るまで未だ一枚の蚕紙をも生糸会社へ持ち来る者なく却て日々下直なる価を以てイタリヤ人に売与《とりひき》する者多し、且ツ本月五日の夜イタリヤコンシユル金川県令へ申出たる由にて、蚕紙ハ私に抑留すべからざるの諭示あり、之レに因て未だ一枚の蚕紙をも焼かざるに彼の会議ハ既に煙と成れり、此議論に依りて売り込ミを見合せ居る者も多かりしが、其内に荷高ますます増加して直段ハいよいよ下落せり、奥州梁川ならびに羽州米沢ハ天下第一等の蚕種なれども、一枚に付代金漸く洋銀六歩ぐらゐ、信州上田の品にて同五歩より四歩なり、其他の品ハ天保一枚の価もなしと

 - 第14巻 p.530 -ページ画像 

〔参考〕東京日々新聞 第八二三号〔明治七年一〇月一三日〕 【横浜港蚕種貿易景況…】(DK140061k-0028)
第14巻 p.530-531 ページ画像

東京日々新聞  第八二三号〔明治七年一〇月一三日〕
○横浜港蚕種貿易景況ノ詳説ヲ得タレバ重子テ之ヲ報ズ、扨本年諸国製造蚕種ノ輸送高凡ソ百五拾万枚余ノ巨額ニ至リ、其上尚追々輻輳スベキノ摸様ナレバ、外国人モ四五日前迄一切買入ヲ見合ハセ、最初ニ信州高井郡ノ上物壱枚ニ付洋銀七分位ノ立直段ナリシガ、次第ニ其価減ジ、既ニ十月五六日頃ハ同品ノ上種ニテモ僅ニ三四分迄ニ低下シ、且ツ其直段ニテ売込ムトモ横浜ニテ唱フル商館拝見ノ時ニ及ンデ百枚ノ中僅ニ二三十枚ナラデハ取引ニ相成ラズ、其余ハペケトテ抛却セラレ殆ンド無価ノ勢ニテ、強テ売ントスレバ壱枚ニ付五銭迄低価モアリトノ由、右様ナル低下ノ売込ニテモ蔵番ノ支那人ハ通常ノ挨拶抔ヲ要スレバ、詰リ売込タル代金ハ其挨拶ニモ引足ラザル程ニテ、国々ヨリ出港シタル六千人余ノ農商ハ面色恰モ菜ノ如ク日々茫然トシテ市中ニ彷徨シ実ニ可憐体ナリシニ、本月八日東京・横浜ノ巨商等協力シテ凡八九拾万枚ヲ買潰シノ挙ヲ発起セシヨリ、其発起人ヘ荷物ヲ送込ミタル荷主ハ勿論其摸様ヲ聞キ込タル者、我先ニト是迄外国人ヘ預ケ置タル荷物ヲ取戻サントスルニヨリ、即日ニ景気少シク立直リ、預ケタル荷物ハ多ク最初ノ立直段ニ例シテ売込ト成リタル由、偖其夕方ニハ弥弥右発起人ヨリ横浜新聞紙ニテ其買ヒ潰シヲ為ル訳ヲ稟告シ、現ニ一昨九日ニハ弁天通三丁目ノ横町ニテ其買入ヲ為スニ付キ下等ノ蚕種ヲ所持スル者ハ多人数同所ヘ売込ヲ申来リ、右ノ場所ニ於テ九日ノ買入レ高凡壱万枚ニ至レリ、右買入タル蚕種ハ其夕方六時頃ヨリ荷車ニ積ミ荒縄ニテ蚕種ヲ束子タル儘、絡繹ト弁天通太田町ヲ過リ元吉原ノ岩亀ト云フ妓楼ノ跡ノ空地ニテ残ラズ焼棄タリ、此時見物ノ者ハ日本人外国人トモ数千人ニ至ル中ニ、港内ノ婦女子ハ其蚕種製造ニ付テハ田舎人ノ辛苦ヲ追懐《オモヒヤ》シ、焼棄トハ余リ惨酷ナ所為ナリト譏ルモアリ、又其買入ヲ頼ミタル製造人抔ハ幸ニ此ノ非凡ノ救恤アルヨリ止宿料ノ負目モ償フヲ得レバ実ニ九死ヲ出デヽ一生ヲ得、所謂地獄デ仏ノ心地ニテ涙ヲ呑デ焼棄ヲ見物スルモアリタリ、外国人ハ概子此挙ヲ目シテ日本商人一時ノ権謀ナリトシ頗ル疑惑ヲ抱ケル様子ナリ、但シ是マデ相応ニ買入ヲ為セシ外国人ハ此挙発起人ノ稟告ノ如クナレバ実ニ日本蚕種ノ声価ヲ挽回スルモノト賛称スルモアリ、又価格ノ更ニ低下センコトヲ慮リテ未ダ買入ヲ為サヾル者此所作ノ暴戻ヲ鳴ラシ言ヲ搆ヘテ之ヲ誹議セント欲スルモアリ、昨十日ニハ更ニ早朝ヨリ此買入ヲ始メタレバ当日買入レハ凡弐万五千枚位ノ高ニ至ラン、両日共ニ買入所ノ前ノ往来ハ衆人雑沓シテ人力車荷車モ道ヲ避ルニ至レリ、横浜ノ売込問屋等モ此挙ノ起リシニヨリテ両様ノ考案ヲ生ジ大勢打寄リテ種々ノ評論アルヨシ、其両様ト云ハ甲ハ此買入ノ持久スベカラザルヲ危ブミ、即時此景気ニ乗ジ買入場ノ直段ヨリ少シモ高価ニナレバ早ク外国人ニ売込ムヲ善トシ乙ハ此買入ハ必ズ持久スベキト思考シ各荷主ヲ説得シ可成丈ケ其種ヲ部分シ下品ハ此場所ニ売却シ其残リノ上品ノ高ヲ予算シ、詰リ発起人ノ按算ノ如クシテ外国人ノ目的ヲ立テシメ相応ノ価格ニ引戻スヲ待テ之ヲ売ルヲ上策トシ、其論説区々ナレバ到底熟議スベカラザルニ近シ、然シ要スルニ此買入方一時ノ権謀ナラズシテ真ニ其
 - 第14巻 p.531 -ページ画像 
稟告ノ如ク八九拾万枚ヲ除却セバ乙者ノ考ヘ相当ナルニ似タリ、我輩ヲ以テ槩論スレバ此蚕種本年ノ景況ニ至ルモ深ク怪ムベキニハ非ズ、元来日本ノ蚕種製造人ノ是迄ノ利益ニ狎レ、我先ニト競フテ其製造ヲ増シ、終ニ供給ト求需トノ釣リ合ヲ失スルヨリ此低価ヲ生ジタルナレバ、日本ノ製造人ハ本年ノ損失ヲ以テ其身ヲ懲艾シテ、最上ノ場所ナラザルヨリハ其製造ヲ廃シ、仮令本場タリトモ明年ヨリ悉ク其製造ヲ減ジ其品ヲ精整セバ、又此発起人ヲ待タザルモ其価格ヲ復スルコト疑ヲ容レザルベシ、モシ然ラズシテ尚ホ百五拾万ノ輸送アラバ決シテ本年ノ轍ヲ踏ムハ今日ヨリ屹度請合フベシ(明年モ此発起人ヲ望ムトモ得ベカラザルベシ)併シ蚕種ノ価格昨年一昨年ノ如キハ余リ高価ニ過ギテ、却テ製造人ヘ迷途ヲ生ズレバ、願クハ上品壱枚ヲ壱弗乃至壱弗半位ニシ、毎年多シテ百二三拾万枚少クシテ百万枚位ノ輸出タレバ、生糸製造トノ割合モ甚ダ隔絶セズシテ真ノ永業タルコトヲ得ベケン歟
○下略


〔参考〕東京日々新聞 第八二七号〔明治七年一〇月一七日〕 【数日前より報告せし如く…】(DK140061k-0029)
第14巻 p.531 ページ画像

東京日々新聞  第八二七号〔明治七年一〇月一七日〕
数日前より報告せし如く東京横浜の巨商六人憤発して今年蚕種紙製造高の甚だ多くして価格すでに地に落たるを挽回し、国内一般蚕種商人の敗北を助け御国産の声価を保たんと、日々大金を散して数万の蚕種紙を買ひ集め元吉原の焼跡に於て惜し気も無く焼き捨るハ実に豪義なる者なり、昨日聞く、去ル九日より十四日までに焼棄る所の蚕種紙二十六七万枚に及べりと、是レ漸やく今年製造高の一割なり、然れども奥羽・上信其他諸州の荷主等追々に争ひ来りて買い取りを請ふ故、一日一日と其数増加し、最初の日ハ漸く一万枚ばかりなりしも昨今ハ毎日六七万枚に余れる由なれバ遠からずして百万枚に至らんとす、真に斯の如ならハ其価格の旧に復すること掌を指すが如くなるべし、思ふに此六巨商ハ素より年々生糸蚕紙を以て得る所の利も亦少からず、故に今年此頽敗の際に当り憤発して此義挙を為す者ハ又以て旧恩に報ゆる所なるべし、然らバ則チ諸州の製造家も宜しく此大敗に懲りて再たび今年の覆轍を履こと勿れ、此巨商等決して年々此憤発を為すべからず、又決して年々此浩大の国産を一炬に付すべからず、遂に前日の平均説に従ふに至るべし


〔参考〕東京日々新聞 第八二九号〔明治七年一〇月一九日〕 【横浜にて蚕種紙焼捨…】(DK140061k-0030)
第14巻 p.531-532 ページ画像

東京日々新聞  第八二九号〔明治七年一〇月一九日〕
○横浜にて蚕種紙焼捨《たねがみやきすて》の事ハ既に引続きて十日に及ばんとす、蓋し彼の憤発したる六大商人ハ必らず現在横浜入荷の半高を焼き棄んと決意せしなり、然るに横浜にて売込問屋と称する者五六十軒あり、又現下四方諸州より来宿せる蚕紙の荷主五六千人ありて各々その勝手なる見込ある故、又各々その偏屈なる意地を張り日々擾々紛々として街頭《まちたか》に立談し酒楼に会議して、果ハ屯所へ押して行くとか裁判庁へ持ち出すとか云ふ事も往々あるよし、中にも彼の問屋仲間にて野沢屋忠兵衛ハ古き家柄なるが、兼て此焼捨の事終るまでハ仲間一同外国商館へ決して蚕紙一枚にても持込まじきの約定に背き、窃かに蚕種紙千二百枚を或る商館に輸入せしかバ、諸人忠兵衛が議定に背くの罪を責むるに、
 - 第14巻 p.532 -ページ画像 
忠兵衛云く、是れ焼捨の議いまだ起らざる前に彼の外国人に売り渡すべき約定せし品なり、今若し是を渡さゞれバ必らず罰金の沙汰に及バんと云ふに、諸人彼が其曖昧の約束を守りて我が赫々の盟《ちかひ》に叛くを憤ほり、益々之レを責めけるに遂に遁るべき道なくして降伏謝罪し、其過料として彼の商館へ持込し蚕紙千二百枚をバ無代金にて焼捨の社中へ差出し、全国の蚕紙製造人中へ罪を佗たり、扨も(イタリヤ・フランス)の蚕種買商人等《たねかひ》も此度の義挙にハ実に胆を潰したりと云ふ


〔参考〕東京日々新聞 第八三三号〔明治七年一〇月二四日〕 【横浜にて去ル九日より…】(DK140061k-0031)
第14巻 p.532 ページ画像

東京日々新聞  第八三三号〔明治七年一〇月二四日〕
○横浜にて去ル九日より二十二日までに焼捨たる所の蚕種紙凡ソ五十万枚に近し、然るに(イタリヤ・フランス)の蚕種商人も近々出帆の飛脚船にて本国へ帰り度おもふ者も多き由を聞察して、売込の機会を失ハん事を恐れ、問屋一同会議して蚕種紙持ち荷の全く半高を焼捨社中へ売り渡したる事明白なる店々《たな》に限りて、昨二十三日より外国人へ売捌を許すべき事に仲間中に於て議定せり、然れども焼捨の事ハますます盛んに行ハんとするの趣なり、蓋し今日まで焼捨る所の蚕紙いまだ現在荷高の半数に至らざるを以て、彼の六人の大商ハ益々奮発して此義挙に従事せり、然らざれバ是レまで焼捨たる高大の金高も遂に無益に属して、未だ御国産第一と称したる蚕紙の本価を挽廻《ひきかへし》するに足らざる事を憂ひて益々この義気を奮起せしこそ実に称誉すべし、在港の外国人等も大に此挙に驚きて紛々議論を起す者多く、或ハ云ふ、日本人ハ勇往不退《あとへひかぬ》の気像《きしよう》あり、此心則ち以て支那十八省を圧倒すべしなど取り取りに評し合へりと云ふ、此頃或る人今年蚕紙の製造高を十分に穿鑿したる者ありしに、兼て聞及びしよりハ其数大に少なし、既に外国人へ売り渡したる者を除き現在の処にてハ全く紙数百六十四万枚左右なり、此内五十万枚ハ既に焼滅せり、又三万枚程ハ国内用の為に持ち帰らんとする者あり、然れバ此上なを三十万枚余を焼亡すれバ全く今年荷高の半分を減却すべしと云へり


〔参考〕東京日々新聞 第八三八号〔明治七年一〇月二九日〕 【横浜にて此度全く焼捨…】(DK140061k-0032)
第14巻 p.532-533 ページ画像

東京日々新聞  第八三八号〔明治七年一〇月二九日〕
○横浜にて此度全く焼捨たる蚕種紙の実数左の如く高大なるを以て、近日やゝ其価格を恢復せり、現下蚕種の第一等と称する奥州伊達・羽州米沢の品にて一枚に付き洋銀八分位、信州の上物にて洋銀五分余と云へり
 九日  蚕種紙 壱万三千八百枚
 十日  〃   弐万弐千六百枚
 十一日 〃   四万弐千六百廿枚
 十二日 〃   五万八千五百枚
 十三日 〃   六万七千八百五拾枚
 十四日 〃   五万四千五百九拾枚
 十五日 〃   五万七千九百五拾枚
 十六日 〃   五万弐千八百七拾五枚
 十七日 〃   三万八千九百廿枚
 十八日 〃   四万五千三百拾八枚
 - 第14巻 p.533 -ページ画像 
 十九日 〃   三万九千七百六拾八枚
 廿日  〃   五万千七百三拾枚
 廿一日 〃   壱万千八百三十五枚
 廿二日 〃   壱万七百五十九枚
 廿三日 〃   四千八百十六枚
 廿四日 〃   六千四百六十七枚
 廿五日 〃   休ミ
 廿六日 〃   三千弐百五十九枚
〆五十八万三千六百五十七枚


〔参考〕東京日々新聞 第八四一号〔明治七年一一月二日〕 投書 [班岳道人](DK140061k-0033)
第14巻 p.533 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕郵便報知新聞 第四八一号 〔明治七年一〇月一四日〕 横浜港蚕種貿易の近況(DK140061k-0034)
第14巻 p.533-534 ページ画像

郵便報知新聞  第四八一号〔明治七年一〇月一四日〕
○横浜港蚕種貿易の近況
本年蚕種貿易の景況ハ諸方製造蚕種の輸送高凡百五拾万枚余の巨額に至り其上尚追々輻輳すへきの摸様なれハ、外国人も四五日前まて一切買入を見合せ、最初信州高井郡の上物壱枚に付洋銀七分位の立直段なりしか、次第に其価を減し、既に十月五六日頃ハ同品の上種にても僅に四五分迄に低下し、且其直段にて売込と云とも横浜にて唱ふる拝見の時に至りて百枚の中僅に弐三拾枚ならてハ取引にハ相成らす、其余ハペケとして抛却せられ、強て之を売却せんとせハ壱枚に付五銭迄の低価もありしとの由、右様なる低下の売込にても蔵番の支那人ハ相当の挨拶抔を要すれハ、詰り売込みたる代金ハ其挨拶にも引足らさる程にて、国々より出港したる六千人余の農商ハ其面色恰も菜の如く茫然として市中に彷徨し真に可憐体なりしに、本月八日東京横浜の巨商等協力して凡八九拾万枚を買潰すの挙を発起せしより、其発起人へ荷物を送込みたる荷主ハ勿論、其摸様を承込みたる者ハ我先にと是迄外国人へ預け置たる荷物を取戻さんとせしにより、即日に其景気少しく立直り、其預けたる荷物ハ多く最初の立直に例して売込と相成りたる由偖其夕方にハ弥右発起人より横浜新聞紙にて其買潰しを為す所以を稟告し、既に本月九日より弁天道三丁目の横町にて其買入を為すに付、下等の蚕種を所持する者ハ多人数同所へ売込を申来り、右の場所に於て九日十日十一日まての買入高凡五六万枚に至たれり
 - 第14巻 p.534 -ページ画像 
右の買入れたる蚕種ハ毎日夕方六時頃より之を荷物車に載せ但蚕種ハ荒縄にて束ねたる儘なり絡繹と弁天通太田町を過り、元吉原の岩亀と云ふ妓楼の跡空地に於て不残焼棄てたり、此時見物の者ハ日本人・外国人共凡そ千を数ふに至る、中に港内の婦女子ハ其蚕種製造に付て田舎の人の辛苦を追懐し、此焼棄ハ余り惨酷の所為なりと譏るもあり、又其買入れを頼みたる製造人抔ハ幸に此非凡の救恤あるより、止宿料の負目も償ふを得れハ、実に九死を出てゝ一生を得、地獄に墜て仏を得たる心地にて涙を呑て其焼棄を見物するもありたり、外国人ハ概ね此挙を目して日本商人一時の権謀とし頗る疑惑を抱ける様子なり、但し是迄相応に蚕種買入を為せし外国人ハ此挙発起人の稟告の如くなれハ、実に日本蚕種の声価を挽回する要訣と賛称するものあり、又価格の更に低下せんことを慮て未た買入を為さゝる者ハ此所作の暴戻を鳴し言を構て之を誹議せんと欲るあり
横浜の売込問屋等も此挙の起りしによりて両様の考案を生し大勢打寄りて種々の評論あるよし、其両様と云ふハ、甲ハ此買入の持久すへからさるを危み、即時此景気に乗し、買入場の直段より少しも高価なれハ早く外国人に売込むを善とし、乙ハ此買入れハ必す持久すへきと思考し各荷主を説得し可成丈其種を部分し、下品ハ此場所に売却し其残在の上物を予算し、詰り発起人の按算の如して外国人の目的を立てしめ、相応の価格に引戻すを待て之を売るを上策とし、其論説区々なれハ到底熟議すへからさるに近し、然し要するに此買入方一時の権謀ならすして真に其稟告の如く八九十万枚を除却せハ、乙者の考案相当なるに似たり
我輩の愚案を以て之を概論すれハ、此蚕種本年の景況に至るも深く怪むへきことにハ非らす、元来日本の蚕種製造人是迄の利益に狎れ我れ先にと之を競ふて其製造を増し、終に供給と求需との釣り合を失するより此低価を生したるなれハ、日本の製造人ハ本年の損失を以て其身を懲支して、最上の場所ならさるよりハ其製造を廃し、縦令本場たり共明年より悉く其製造を減し其品を精整せハ、又此発起人を待たさるも其復するを疑を容れさるへし、もし然らすして尚百五十万の輸送あらハ決て本年の轍を踏むハ今日より之を確言するを得へし明年も此発起人を望むとも得可らさるに近からん併し蚕種の価格昨年一昨年の如きハ余り高価に過きて却て製造人の迷途を生すれハ、願くハ上品壱枚を壱弗乃至壱弗半位にし、毎年多くして百弐三拾万枚少くして百万枚位の輸出たれハ、生糸製造との割合も甚た隔絶せすして真の永業たることを得へけん歟
  明治七年十月十二日


〔参考〕郵便報知新聞 第四八四号 〔明治七年一〇月一七日〕 【皇国第一の産たる蚕…】(DK140061k-0035)
第14巻 p.534-535 ページ画像

郵便報知新聞  第四八四号〔明治七年一〇月一七日〕
○皇国第一の産たる蚕卵紙当年価格地に落て製造家一般殆と危急に陥んとするの勢あるを以、古河市兵衛・原善三郎・小野善三郎・上原四郎左衛門・金子平兵衛・鈴木保兵衛の六名既に商議して製造家より卵紙買上けの事を広告し、買上るに従て是を焼滅するこゝに三日、製造家も又偕しく会議して此紛擾鎮定まて暫時商館輸出を控留せんと其議を一般に布くに、製造人並各問屋既に承諾して議定書に連署調印す、
 - 第14巻 p.535 -ページ画像 
該に野沢忠兵衛なるもの又其中に在て既に決議に協同しなから一身走利の姦計或製造人と諜し合せ卵紙千二百枚を以窃に商館に輸送す、ここに於て製造家一般其盟約に叛くを責めて数千人其家に迫る、野沢忠兵衛答ふるに、輸送の卵紙ハ議定以前に売る所にして、今もし是を送らされハ外国人罰金の輪に及はんとす誠に止むを得さる也と、製造家是を責るに又、彼に約を固ふして我に約を緩ふするハ夫当港の通法か夫問屋の定則かと云を以てす、正邪もとより敵すへからす、遁辞過を失して涕泣謝言し、遂に商館輸送の紙員を出して無価焼滅に属せられんことを請ふ、則十三日の夜左の証書を以製造家中主として其事に管するものに謝す
    記
一蚕種紙千二百枚但手違之筋有之候為謝罪此度無価にて差出可申分
右種紙正に御預り申上候、明日中に無相違此証書引替御渡可申上候以上
  明治七戌十月十三日         野沢屋忠兵衛 印
    取扱人
      野本甚作殿
      寺田勘兵衛殿
      秋山仁左衛門殿
      竹内造酒平殿
嗚呼姦商の錐頭小利を争へる既に此大損を招き、又汚名を以普く数千の人に知らる、豈恥さるへけんや、慎むへからさらんや、因て録して後誡に供す 皇国養蚕人一同


〔参考〕郵便報知新聞 第四八七号 〔明治七年一〇月二〇日〕 【本年横浜蚕種紙の景…】(DK140061k-0036)
第14巻 p.535 ページ画像

郵便報知新聞  第四八七号〔明治七年一〇月二〇日〕
○本年横浜蚕種紙の景況新聞紙に載する所を以て詳悉せり、我等少年の時聞及ひたる事あり、本邦甲州の葡萄ハ御国内第一の名品たり、然るに往年文化年間にや年月ハ忘たり武江の菓物問屋共申合せ其仕切を極賤額に定たりき、時に来りし宰領のもの大に憤り、甲の葡萄古来斯の如き貨売ある事なしとて、駄荷を其儘持還し帰途の山路に於て悉く荷物を切り棄てゝ渓谷の間に投却したり、既に帰て荷主に其趣を報したれハ、荷主宰領を少も咎むる事なく大に喜悦して却て取計ひのよきを賞誉し、かくありてこそ甲陽の瑕瑾を免れたり、よしよし以来の甲の葡萄一粒も武江へハ送るましと荷主一同約したり、於是菓物問屋大に迷惑し段々人を以て詫言を為し遂に和談を整へぬ、是より以来甲の葡萄に於て嘗て定額の増減ある事なしと、此ハ僅に武甲両地の貨物なり、今蚕種の如きハ御国第一の貿易にして海外諸国に関係したる事件なれハ尋常容易の談に非す、然るに市井錐刀の利を争ふ商估にして数万金を糞土の如く抛却し、億万錦繍を織出す可き蚕種を倏忽の間秦宮一炬の火に附す、観者如堵と其壮志盛挙感するに余りあり、是こそ所謂大和魂にして国華に光を増と称して可なり、我等商估輩にあらされハ、其策の利害得失ハ知らされとも、其挙を愛し併せて其人を愛す、偶甲陽葡萄の事を思ひ出し快愉の余并記して以て貴社の余白を涜さん事を欲する耳
                     七十一翁蠢愚道人

 - 第14巻 p.536 -ページ画像 

〔参考〕郵便報知新聞 第四八七号 〔明治七年一〇月二〇日〕 【予東京横浜の商六名か…】(DK140061k-0037)
第14巻 p.536 ページ画像

郵便報知新聞  第四八七号〔明治七年一〇月二〇日〕
○予東京横浜の商六名か卵紙を焼かんと欲する広告を見て歎して云く偽る哉言や人豈欺く可んやと、蓋し其文表面潔と雖も其裏実姦を行ふに在れハなり、今試に之を弁せん、文に云、当港出荷せし蚕種所持人の望に応し善悪に従ひ相当の価を以て買入一炬に付すと、濫悪を除て声価を落さしめさるに似たり、其次に云、本年内地蚕種製造高の内幾万ハ製造不成の白紙幾万ハ養蚕原種と夫々按算し、差引八十万より九十万ハ当港に散在し貿易の妨碍を為せハ芟除せんと、苟も真実悪種ならハ百万も皆焼可し苟も悪種ならさる歟一葉も焼可からす、思ふに其意唯其数を減するに在る識る可し、又云く、尽数持出して明年可養の蚕種を一人の顧慮する無しと、何そ其言の甚しきや、我か如き小戸猶最初の内論《(諭カ)》に基き製出全数の六分を輸せしのみ、近隣大抵皆然り、余国亦或ハ然らん、抑文章の道抑揚甚しからされハ旨趣明ならすと雖も誣て以て辞を作る遂に牽強実を失ふに至る、夫れ自己の得失利害を算せす誠真に世の為にせんと欲せハ中以下の品のみを買て焼之捨之ハ可なり、何そ人を狭制し其佳悪を論せす一概に出荷の五分を出さしめ低価之を扼して取るの非法非理あらん可、見、彼六商出荷の多くして己れ既納の紙価低下に至るを恐れ人に迫て其数を減せしめ、其価の昂るを待て己れ之を利せんと謀るの慾情に出て、然して名を義設侠挙に託するを、我該夜横浜荷を託する家に泊せんとす、夜未た八時に過さるに鎖戸悄然屡々敲て後応す、蓋し主人ハ出て家に在らす、婦女留りて在る者惶惑驚怖の色あり、恠て之を詰れハ、答に、蚕種強買の夥伴貨主の拒むを憤り近隣数戸に至り囂々強弁漸く将に我に及んとす、故に鎖局して之を防くを以てす、於此余奮然云く、彼の意真に下悪を捨て善良を保全するに在らハ我之を拒ますと雖も、苟も人の貨を減して己の貨の昂価を算る姦意に出る如き、予ハ一紙を与ふるを肯せすと謝絶して帰れり、或云、六商買紙の貲源ハ陰に大蔵省に発す、或ハ云、該金幣ハ一高貴の庫中より出つと、未た其信に然るや否やを知らす、但造紙ハ官限の数中に在りて民の恣に多く造るに非されハ、此際に至り姦偽の言を信し塗抹の悪跡を留て外人の嗤笑を招くハ我か大に歎する所なり、試ミに思へ、比年大豊斗米百銭にして大倉の粟紅腐に至るも之を焼て隣国に貴糶せし善政無きを      繭山桑者


〔参考〕法令全書 明治七年 内務省布達 甲第二十八号(十月二十四日)府県(DK140061k-0038)
第14巻 p.536 ページ画像

法令全書  明治七年
内務省布達 甲第二十八号(十月二十四日)    府県
蚕種原紙贏余ノ儀ハ本年太政官布告第十九号蚕種原紙規則第四条及ヒ第六条ニ準拠シ春・夏蚕ノ種類ヲ不論都テ最寄蚕種原紙売捌所ヘ可差出筈ノ処、夏蚕掛合セ等ノ原紙贏余ノ分其儘貯蔵致居候向モ有之哉ニ相聞、不都合ニ候条、今以不差出向ハ至急右売捌所ヘ可差出、此旨布達候事


〔参考〕法令全書 明治七年 内務省達 乙第八十五号(十二月二十八日)府県長崎宮崎両県ヲ除(DK140061k-0039)
第14巻 p.536-537 ページ画像

法令全書  明治七年
内務省達  乙第八十五号(十二月二十八日) 府県長崎宮崎両県ヲ除
 - 第14巻 p.537 -ページ画像 
明治七年分蚕種大総代月給・旅費並世話役検査表手当共未タ受取方不申出向ハ、至急取調小訳証書ヲ副ヘ往復ヲ除クノ外日数十日限リ受取方可申立、此旨相達候事
 但当省於テ勘定組ノ都合モ有之間、本年十二月三十一日迄ノ分ヲ取束可差出儀ト可相心得事


〔参考〕維新以後蚕種製造取締沿革 (轟木長著) 第一―一二頁〔明治二四年一月〕(DK140061k-0040)
第14巻 p.537-540 ページ画像

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〔参考〕旧勧業寮第壱回年報撮要(勧農局編) 第四八―五〇頁〔明治一〇年七月〕 蚕種紙(DK140061k-0041)
第14巻 p.541 ページ画像

旧勧業寮第壱回年報撮要(勧農局編)  第四八―五〇頁〔明治一〇年七月〕
    蚕種紙
蚕種紙ハ外国通商以来製額歳ヲ逐ヒテ増加シ、人民競ヒテ其多製ヲ貪リ、随テ粗製濫造ノ弊ヲ来シ、其甚シキニ至テハ贋品ヲ騙売スル者アリ、是ヲ以テ内国所産ノ生糸モ自カラ其品格ヲ墜シ、本邦名産ノ声誉ヲ害フニ至レリ、此際独リ内地ノ需用ニ充ントスル製種家及ヒ製糸家ハ痛ク之ヲ憂苦スルト雖トモ、畢竟開港場貿易ノ形状ト人民趨利ノ情態トノ然ラシムル所ニシテ、之ヲ挽回スルニ術ナク荏苒歳ヲ弥ル、維新ノ後民部省ニ於テ始テ蚕種紙売買ノ規則ヲ設ケ、勧農局ヲシテ之ヲ管掌セシメタルヨリ保護ノ術稍備ハルト雖トモ、固ヨリ新設ノ方法ニシテ、加フルニ藩治ノ時ニ際スルヲ以テ規則普ク行ハレサリキ、四年ニ至リテハ蚕種貿易ノ形状実ニ言フヘカラサルノ失敗ヲ取リ、是カ為メニ廃業倒産ニ至ルモノ往々コレアリ、是ニ於テカ再ヒ保護ノ方法ヲ釐正シ、五年五月大蔵省中勧農寮ヲシテ之ヲ管掌セシメ、十月該寮ヲ廃シ租税寮中勧農課ニ属セシム、是ヲ以テ五六両年ノ間ハ監督ノ法ヲ立テ、内外供給ノ多寡ヲ概算シ、印紙ヲ発行シ、原紙ヲ売与シ、若シクハ該年ノ産額ニ応シテ輸出ノ額数ヲ増減スル等ニ至ルマテ、各其制限ヲ立ルヲ以テ、此両年ハ頗ル輸出ノ額ヲ増加シ、貿易上ノ利益少カラサリキ
七年一月始テ内務省中ニ勧業寮ヲ置キ本務ヲ該寮ニ属セシム、然ルニ此年六月蚕種内外用印紙ノ区分ヲ廃セシヨリ人民競ヒテ輸出ヲ要シ、其数ノ多キヲ以テ価格ノ低下スルノミナラス、終ニ巨万ノ蚕種ヲシテ空シク灰燼ニ付セシムルニ至レリ


〔参考〕横浜市史稿 産業編・第三五二―三五六頁〔昭和七年一一月〕(DK140061k-0042)
第14巻 p.541-543 ページ画像

横浜市史稿  産業編・第三五二―三五六頁〔昭和七年一一月〕
    ○蚕種紙の焼棄事情
 明治七年十一月、旧吉原空地今の横浜公園、旧港崎町遊廓跡に於て蚕種紙四十四万五千五百余枚を焼棄したことがあつた。其原因は蚕種紙の海外輸出が、数年来甚だ旺盛を極め、各地方の蚕種製造人などは何れも目前の射利的行為に走り、毫も遠大の長計に著眼しなかつた結果、粗悪品を製造した為め、遂に需給の権衡を失するに至つた。明治七年よりは、内外用途の区別を解かれ、同五年以来発行せしめられた蚕種印紙をも廃し之に代ふるに一様の印紙に改正せられたので、横浜に移入する蚕種紙は積つて巨額に上り、其著荷の紙数は前年の輸出総額に超過すること七十余万枚に達し、尚ほ日々に増加して、殆ど底止する所を知らざるに至つた。それで外国人は袖手傍観して顧みず、既に例年の売買期を経過したけれど、一の購買者なく、各地方より八月以来、横浜に滞在する数百人の地方荷主は、空しく数月を空費し、殆ど困窮に陥り、その惨状坐視するに忍びざるものがあつた。是に於て生糸改会社の正副社長は蚕種売込問屋と協議を遂げ、其救済策を講じ、終に蚕種買上所を設け、相当の価格を定めて、期日を限り問屋をして之を荷主に通達せしめ、荷主は惣代を定め、若干枚づつを買集めた。然るに買上方を申出づるもの続々あつて、数日にして四十余万枚を買集めたので、乃
 - 第14巻 p.542 -ページ画像 
ち之を焼却し、一時荷主の窮迫を救つた。爾来漸く外国人も買進み、再び商取引は行はれたのであるが、内商は各自先を争つて売却したので、其価格も著しくは昂騰せず、前年の凡そ七分の一であつた。為めに蚕種商で家計を蕩尽した者は尠くなかつたと云ふことである。今、明治七年に於ける横浜移入、海外輸出の蚕種紙の数を見るに、左の如くである。
 蚕種紙百七十六万五千二十一枚   移入高
    内訳
  蚕種紙四十四万五千五百〇六枚    焼棄高
  内   四万五千二百〇一枚     地方積戻
 差引 蚕種紙百二十七万四千三百十四枚 海外輸出高
   此代価洋銀五十七万三千四百四十一弗三分
 明治八年、蚕種紙は前年の失敗に懲りたのと、各地方共に蚕種製造に制限を加へたのとに因り、各地方より横浜への移入高は前年の半額に減じた。併し需給未だ其宜しきを得ず、十二万余枚を減じたに過ぎなかつた。今、明治八年に於ける蚕種紙の横浜移入高を見るに、次の如くである。
 蚕種紙七十九万八千九百二十三枚    移入高
    内訳
  蚕種紙九百四十九枚         摺潰高
  同  十二万八千五百二十枚     地方積戻
 差引 蚕種紙六十六万九千四百五十四枚 海外輸出高
   此代価洋銀六十一万四千九百五十八弗八分
 明治九年、地方より蚕種紙の横浜移入高は前年の二倍余に達し、到底採算上不利なるを焦慮し、在荷の消化方法を議し、寧ろ摺潰などの窮策を講ずるよりは、地方積戻に如かずと、之に評議一決し、四十余万枚を地方へ返送したので、其後は著しく好売行を見るに至つた。今明治九年に於ける蚕紙の横浜移入高及び海外輸出高を見るに左の如くである。
 蚕種紙百十九万三千三百四十四枚    移入高
    内訳
  蚕種紙四十一万七千二百五十六枚   地方積戻
 差引 蚕種紙七十七万六千〇八十八枚  海外輸出高
   此代価洋銀百二十九万八千三百九十五弗二分
 明治十年、蚕種紙売買の情況は前年稍々好結果を収めてより、横浜移入の総額百五十八万枚に達し、外国人の之が買約を為す者殆んど稀になつた。故に蚕種商は大に困難に陥り、昼夜寝食を忘れて東西に奔走し、恰も狂するが如く、競うて売却を急いだが、外国人は愈々冷静に袖手傍観して、毫も買進まなかつた。是に於て《(註一)》売込商及び各地方荷主凝議の末、蚕種摺潰を行ひ、在荷の減少することに努め、横浜公園に於て三十一万二千四百二十一枚を竹箆にて摺潰を為し、玆に始めて商談が行はれ、総計九十万三百六十四枚を売込み、尚ほ残余の三十七万千四百〇五枚は内国用として地方積戻と為つた。
 明治十一年十二月六日、蚕種貿易商惣代等は、横浜公園に於て蚕種
 - 第14巻 p.543 -ページ画像 
紙約十八万枚を摺潰に著手した。惟ふに之が原因は左記の事情に因るものであらう。各地方蚕種製造人及び商人等は、連年蚕卵紙の横浜市場へ入荷の多いに過ぎたに拘らず之に反省せず、陸続巨額の移入があつたので、外商は其買入に躊躇し、殆ど取引を中止した。是に於て問屋は荷主と協議を遂げ、需給の権衡行はれず、為めに再三減殺方法を協議したけれども、其議纏まらず、遂に此月に至り、之を実施したが既に時機を失して空しく外商の術中に陥つたものの如くであつた。明治十一年、横浜移入の蚕種紙は九十一万九千〇九十三枚で、外商へ売込の分は五十余万枚、之に焼棄数を差引き、猶ほ三十万枚があつた《(註二)》。これは地方へ積戻し、或は問屋に委託するものもあり、或は一枚二・三銭にて売却し、之を風穴に貯蔵するものもあつて、荷主の得る所は旅費を償ふに足らなかつた。惟ふに慶応元年以来十四年間、年々巨利を占めた蚕卵紙輸出も、此歳を以て海外輸出は全く畢りを告げたるものの如くであつた。
  ○註一、二略ス。


〔参考〕日本蚕糸業史(同編纂委員会編) 第三巻蚕種史・第一二七頁〔昭和一一年二月〕(DK140061k-0043)
第14巻 p.543 ページ画像

日本蚕糸業史(同編纂委員会編)  第三巻蚕種史・第一二七頁〔昭和一一年二月〕
 ○第一章第三節第二項 明治前期の蚕種輸出
   三、蚕種輸出の衰運
(イ)蚕種の焼却
 明治七年六月太政官は蚕種紙の国内用並に海外輸出共一様の原紙を下附することを布達するや、人民競ふて輸出を計り、其の数非常に夥しく、前年度より増加すること七十万枚の巨額に達するに至りしを以て、大に声価を失墜し、外国人は束手傍観して敢て顧みるものなく、既に例年の売買時期を経過せしも一の購買者なく、陰に蚕種商の挙動に注目するのみなりき。之に反して全国各地方より横浜に出港する者八月以来実に数百人の多きに及び、空しく数月を徒消し殆んど窮困し其の惨状傍観するに忍びざるものがあつた。
 内務省は予め此事あらんことを慮り、原紙払下代金八万五千三百九十八円を使用して臨機権宜の処分をなし、商佐《(估カ)》をして開港場に輸送せる蚕卵紙四十四万余枚を買収し、十一月横浜旧吉原町空地に於て焼棄せしめ以て声価の挽回を計つた、爾来漸く外国人も買進み夥多の取引を為すと雖も、内商は各自先を争ふて売却に努めしを以て、其の価格は前年の凡七分の一にも昂らず、家産を蕩尽するに至れるもの亦尠なからざりしといふ。(蚕史、蚕種業史)


〔参考〕日本蚕糸業史(同編纂委員会編) 第四巻政策史・第一二―一四頁〔昭和一〇年六月〕(DK140061k-0044)
第14巻 p.543-545 ページ画像

日本蚕糸業史(同編纂委員会編)  第四巻政策史・第一二―一四頁〔昭和一〇年六月〕
 ○第一章 奨励及取締施設
  (乙)明治維新以後
    第一節 蚕種輸出の奨励
 明治新政府は諸種産業の開発進展を期すると共に、貿易の振興を図らむが為、当時重要貿易品であつた蚕種の取締に関して種々施設する所があつた。即ち明治元年閏四月大総督府は蚕卵紙生糸改所を江戸呉服橋内牧野駿河守邸内に設置し、外輸に充つるものは検査改印を受く
 - 第14巻 p.544 -ページ画像 
べきことを令し、後七月二十六日同所を北八丁堀松平和泉守邸に移し八月一日開所、蚕卵紙蚕糸営業者に対し鑑札を下付し之に課税することゝなつた。翌二年六月十九日生糸蚕卵紙を外商に密売することを禁じ、更に九月民部省に於て蚕卵紙蚕糸改所を各開港場に置き、輸出の蚕糸蚕卵紙を点検し、贋作偽製の取締を為したが、粗製濫造の弊は之に依つて改められず、蚕種輸出の旺なるに従ひ、国内用蚕種も亦粗悪となり蚕作を不安ならしむる虞があり、国家産業上憂ふべき情勢を呈したので、三年正月十三日民部省は蚕種濫製取締の為製造の概数を定め、鑑札申請の人名を計査録上せしめ、八月二十日太政官布告を以て厳に当業者の不心得を戒め、同時に民部・大蔵省令として蚕種製造規則を発布し、内地向と輸出向とに拘らず、本部種二十五枚以上を製造する蚕種製造者は支配人より免許の鑑札を受け、且百人内外を以て組合を設け世話役一人を定め、作柄の豊凶、産額の状況を支配所に報告せしむることゝ為し、製造蚕種に付ては内地向は支配所、輸出向は通商司に於て証印を受けしむることゝ為した。
  註 本部種とは、蚕種台紙の表面に百蛾乃至百二十蛾をして間隙なく産附せしめたもの二枚を本部一枚と称す
 斯く政府は一方に於て弊害除去に努むると共に、優良蚕種製出の目的を以て、上品(精良)蚕種褒賞規則を民部省より発布し、蚕種品位の鑑定を行ひ、成績優良の蚕種製造者は品等に従ひて之を褒賞し、其名を天下に公布せしむることゝ為した。
 五年大蔵省は蚕種製造取締の為各養蚕地方に大総代を設けしむることゝし、東京府外十一県に令して公選せしめ、三月之を召集して蚕業上の要旨を諭告した。又十一月四日太政官布告第三百三十一号蚕種原紙規則及蚕種原紙売捌所規則を設け、原紙は大蔵省に於て抄製し売捌所をして大総代に売与せしめ、蚕種の濫製を防ぎ尚帰殻の再用を恐れて其買上を為すことゝした。
 六年四月二十八日太政官布告第百四十号を以て蚕種取締規則を実施し、蚕種の製造額は毎年大総代並世話役の奥印を得て各支配所に届出で、印紙の下付を受け蚕種一枚毎に印紙(十銭)を貼用するものと定めたが、輸出向のものに対しては之を免除し奨励の趣旨を明らかにした。
 七年六月五日太政官布告第六十号を以て蚕種の国内用と輸出用との区別を廃した結果、蚕種製造者は競うて輸出用蚕種の製造を企て、横浜に著しく蚕種の滞荷を生じ、価格は従て低落し、為に倒産者続出せむとするに至つた。内務省は予め此事を慮り、原紙の払下代金八万五千三百九十八円を充当して臨機の処置を為すに決意し、商估をして開港場に輻輳せる蚕種四十四万八千四百余枚を買収せしめ、一大英断を以て之を焼棄した。然るに翌八年に於ても前年の轍を踏む虞があつたので、二月二十二日太政官布告第三十二号を以て、蚕種取締規則を廃し、代るに蚕種製造組合条例及組合会議局規則を発布し、蚕種製造者二十五人以上結合して組合を組織し、相互の制裁に依り従来の悪弊を匡正せしめ、又東京府下便宜の地に会議局を設け、毎年一回各地方の蚕種製造組合頭取等此所に相会して蚕種製造上の打合せを遂げ、販売
 - 第14巻 p.545 -ページ画像 
上の違算なからしめむとする制度を樹てたが、蚕種の輸出は逐年減退の一途を辿り不振を続くるにも拘らず、蚕種製造者は依然輸出を謀るもの多く、十年に於ても再び滞荷を生じ外商買進まず、勢ひ投売を行ふの已むなきに至つたので、有志者は内務・大蔵両省に迫り、資金二十万円、洋銀三十万弗を借用して、全般の商人より其持高に応じて蚕種の買収を為し、横浜に於て約三十万枚の蚕種の摺潰しを断行した。此絶望的処置を観て外人は急に買進み、一時取引に活況を呈し稍々愁眉を開くことを得たが、翌十一年亦連年の失敗を顧みず、横浜に蚕種を持ち込む者多く、供給過多となりて売行悪く、玆に於て再び蚕種十八万枚を摺り潰すの余儀なきに至つた。同年内務省は蚕種に関する条例及規則一切を廃し、蚕種の製造及販売に対しては全然自由放任主義を採り、蚕種の輸出亦殆ど其跡を絶つた。明治十四年農商務省が設置せられ、産業行政の事務は之を内務省より移管することゝなり、明治十八年十一月二日発布の蚕糸業組合準則及其以後の関係法令に於ては内地需要の蚕種を目的として必要なる取締規定を設け、輸出蚕種に付ては別段の規定を設けられぬことになつた。
  ○一八四〇年仏国ニ蚕病(微粒子病)発生シ、欧洲全般ニ蔓延スルニ及ビ、蚕卵紙ノ供給ヲ東洋ニ需ムル必要ヲ生ジ、我国ヨリモ開港以後輸出盛ニシテ、文久三年(一八六一)幕府ハ一旦蚕卵紙ノ輸出ヲ禁止シタルモ、慶応元年解禁シ、以後毎年盛ニ輸出シタリシガ、ヤガテ粗製濫造ノ弊ヲ生ズルニ至レリ、此ニ於テ政府ハ明治四年蚕種製造規則ヲ設定シ、五年六月改正シ、大蔵省ニ於テ内国用輸出用ヲ分チテ免許印紙ヲ製造販売シ、各府県ニ蚕種製造方大総代ヲ任命シテ、管下ノ監督ニ任ゼシメ、蚕種製造人約百名宛ヲ以テ組合ヲ組織シテ、斯業ノ改良ヲ図ラシメシガ、明治七年ニ至リ内国用輸出用ノ区別ヲ廃止シタルヲ以テ輸出ヲ企図スル者激増シタリ。(明治八年五月ノ蚕種会議局決議書ニヨル)
  ○今井五介著「日本蚕業発達史」第四十頁ニ左ノ記事アリ。
     玆に於いてか政府は之れが救済策として、明治七年蚕種の買上を行ひ横浜高島町の空地にて、而も外人の面前に於いて四十四万五千五百枚の種紙を焼却し、翌八年亦原紙売上金八万五千三百九十八円を支出して四十四万八千四百余枚の蚕種を買上げ、公園にて之れを焼却した。
   按ズルニ焼却シタル枚数ハ明治七年ト八年ヲ混同シタルナランカ、明治八年ノ焼却ニハ栄一関係シタリヤ否ヤ明カナラズ、尚同書巻頭ニハ「横浜に於ける蚕紙焼棄の図」ヲ載セタリ。