デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
29節 其他
6款 東京水道会社
■綱文

第15巻 p.300-306(DK150022k) ページ画像

明治23年8月9日(1890年)

兼テ東京府知事ニ設立出願中ノ東京水道会社計画ノ水道敷設事業ハ、東京市区改正事業ノ一ニ加ヘテ施行スルコトニ決定シタルヲ以テ、是日市区改正委員会ニ於テ、芳川委員長ノ名ヲ以テ東京水道会社創立発起人総代渋沢栄一ニ対シ、感謝状ニ金二千円ヲ添ヘテ贈ルノ件ヲ議決ス。


■資料

中外商業新報 第二五一七号 明治二三年八月一〇日 謝状と二千円を贈る(DK150022k-0001)
第15巻 p.300 ページ画像

中外商業新報 第二五一七号 明治二三年八月一〇日
    謝状と二千円を贈る
東京市水道敷設事業は最初会社の事業とするの見込にて夫々其予算設計を取調べたる処、其後右水道敷設事業は東京市区改正事業の一に加へられたるを以て、右に関する一切の書類は水道会社発起人総代渋沢栄一氏より市区改正委員会へ差出し、該会に於ては之を参考として大に裨益する所ありたるを以て、此際聊か謝意を表する為めに芳川委員長より水道会社創立発起人総代人渋沢栄一氏へ宛、謝状に金二千円を添へ贈ることに昨日の市区改正委員会に於て決したるやに聞けり


中外商業新報 第二五三一号 明治二三年八月二七日 委員会よりの謝礼(DK150022k-0002)
第15巻 p.300 ページ画像

中外商業新報 第二五三一号 明治二三年八月二七日
    委員会よりの謝礼
兼て市区改正委員会に於て議決相成たる旧水道会社発起人に謝する謝礼の儀は、其後それそれの手続を経て、昨日渋沢栄一氏代理福山武氏へ懇切なる謝状に金二千円を附して渡されたりと云ふ


中外商業新報 第二五三三号 明治二三年八月二九日 東京水道会社発起人の相談会(DK150022k-0003)
第15巻 p.300 ページ画像

中外商業新報 第二五三三号 明治二三年八月二九日
    東京水道会社発起人の相談会
旧東京水道会社発起人諸氏は今度芳川市区改正委員長より金二千円を寄贈されしに付、明三十日午後四時より坂本町銀行集会所に会し残務の処分旁た相談会を開く由
 - 第15巻 p.301 -ページ画像 


中外商業新報 第二五三四号 明治二三年八月三〇日 水道会社委員長への謝礼(DK150022k-0004)
第15巻 p.301 ページ画像

中外商業新報 第二五三四号 明治二三年八月三〇日
    水道会社委員長への謝礼
芳川市区改正委員長より東京水道会社創立委員総代渋沢栄一氏へ贈られたる金二千円の贈与状は左の如し
曾て東京水道会社に於て取調られたる東京水道設計書類本会へ寄贈相成候処、本会調査上許多の参考に供し候に付ては金二千円該調査費の内へ贈与候条受納有之度、此段申進候也


中外商業新報 第二五三五号 明治二三年八月三一日 東京水道会社の委員会(DK150022k-0005)
第15巻 p.301 ページ画像

中外商業新報 第二五三五号 明治二三年八月三一日
    東京水道会社の委員会
予記せし如く東京水道会社の委員会は、昨三十日午後五時より坂本町銀行集会所に於て開会したりしが、渋沢栄一・大倉喜八郎・西村虎四郎・安田善次郎・荘田平五郎・山中隣之助(渡辺治右衛門・梅浦精一の両氏は他行、川村伝衛氏は病気、福地源一郎氏は事故等の為め何れも不参)等の諸氏参集して、同社発起創設以来該工事設計の為めに要したる経費支弁の方法を協議したる処ありしが、結局総費額の内より先日市区改正委員会より贈与せし二千円を扣除し、其残余不足は発起創立員の負担することに決定し各々退散したるは同十時頃なりしが、尚ほ其詳細は聞き得て次号に記載する処あるべし


中外商業新報 第二五四三号 明治二三年九月一〇日 東京上水改良計画の由来(DK150022k-0006)
第15巻 p.301-302 ページ画像

中外商業新報 第二五四三号 明治二三年九月一〇日
    東京上水改良計画の由来
東京市は過日の市会に於て遂に水道改良の為に一千万円の市債募集の事を議決せしが、此の頃社員が某氏の許を訪ひたる節談偶々水道の事に及よひ数日前解散したる東京水道会社の由来なりとて聞き得たる大要を記さんに、同社の目的たる上水改良鉄管水道布設の挙は去る廿年七月中の企図にして府下の紳商渋沢栄一・西村虎四郎・安田善次郎・大倉喜八郎・荘田平五郎・山中隣之助・渡辺治右衛門・須藤時一郎・梅浦精一・川村伝衛等諸氏の発起する所なり、殊に渋沢・大倉・梅浦の三氏は創立委員となりて横浜水道の水源及溜池の実視等諸処奔走の労を取り、横浜水道の主任技師英国陸軍工兵少将パーマル氏に其の設計を托し、爾来種々の取調をなして資本金五百万円の会社を設立するの計画をなしたり、当時発起人諸氏は市内に毎年悪疫の流行するは其原因多くは飲料水にあることを憂ひ、上水改良と同時に火災消防の利便を計らんとて毫も普通営利的の念慮なく、該会社の資本金に対し区部(今の市)より大凡三十ケ年間年六朱の保証利子を仰き、其年限中に株金総額を抽籤法にて返却し遂に区部(今の市)の共有財産に属せしむるの計画なりしが、此の事業は私立会社の業務に一任すへからさるものなりとて創立許可の運びに至らざりしは実に遺憾の至りなりし然れども此の計画は市内公衆をして鉄管水道の必要欠くべからざる事を了知せしめ、遂に又市区改正委員会をして之を是認して其設計をなし、市参事会を経て市会に呈出し市公債を募集して布設工事を議決せしむるに至らしめたり、是より先き同社の発起人諸氏は已に取調べた
 - 第15巻 p.302 -ページ画像 
る設計書を挙て同会に贈呈し、新設計の材料に具へたるが故に、同会に於ては大に満足の意を表し金二千円を同会社設計費中へ寄贈せられたり、元来同事業は偉大の計画なるか故に其設計の費用も随て巨額を要し殆と金四千円に近き程なれば、其差引損金は発起人諸氏に於て各其一分を負担して同社の残務一切を整理し漸々解散の事に運ひたるよし、斯く発起人諸氏は私利の為に企図せしに非らすして公益の為に計画したる事業なれば、其布設は会社に於て実施せさるも今日市会に於て議決したる一切の計画は、同社に於て企図したる方針と同一轍にて其素志は達し得たるか故に棄損したる損失金は敢て無効にあらさりきといひ居るよし、之を要するに、彼は私人の会合に係り是は自治の団体に成る故に、彼は株券として発行し是は市公債を発行するの差異にして、其名は同じからざるも其実は逕庭なく、諸氏の発起は市内に裨益するの効実に大なりといふべし



〔参考〕中外商業新報 第二五二八号 明治二三年八月二三日 水道の顛末及設計の詳報(DK150022k-0007)
第15巻 p.302-303 ページ画像

中外商業新報 第二五二八号 明治二三年八月二三日
    水道の顛末及設計の詳報
昨日の紙上に約せし如く今日より東京市水道の顛末及設計に就き委しく記さんに、元この目論見の始めをと云へば、明治二十年の末渋沢栄一《(マヽ)》・渡辺治右衛門・大倉喜八郎等十数名の有志者日本橋区坂本町銀行集会所に会合して、目下の飲料水を改良するは東京府民の最も急務とする所なり、然るに府民の負担既に軽ろからず、此場合に於て数百万の資本を投じて之か改良を計らんとする要は誰人も感ずる所なれと府民の経済其ものゝ許さゞるを奈何せん、就ては仮令ひ成立ことは或は覚束なしとするも、兎に角之が設計を立ることは我々府民の身分として決して無益の事に非らざるべしとの協議を為したるに在り、夫より渋沢栄一・大倉喜八郎・梅浦精一の三氏之が委員となり、工事の設計は先年横浜水道を計画したる英国工兵少将パーマー氏に一任し其他の庶務は渋沢氏自から指揮して福山武氏に取扱はしめ、漸く明治廿一年十二月に至りて調査を終へ亜て同月廿六日《(マヽ)》を以て東京水道会社創立許可の儀を其筋へ願出たり、当時世論は一般に水道事業は一個私立会社に許すべきものに非らず、宜敷政府若くは府民の共同営造物と為さゞるべからずと云ふに在り、又政府に於ても之に関する議論二派に分れ一派は厳格なる取締法を設くる以上は私立会社に経営せしむるも差支なしと云ひ、他の一派は之に反して飽まで水道事業は公共の経営と為さざるべからすと云ふに在て議論頓に一決せす、荏苒数閲月に渉る時に偶々山県内務大臣欧米巡廻の事あり、猶更此等の事柄の決定すべき様あらさりしが、突然内務大臣は旅行先より水道事業は公共の事業とするを要する旨電報を以て本省へ申越されたるより玆に省論一決し、遂に水道条例発布の手続を為すの運に立至れり、尤も東京市区改正委員会に於ては当初より其公私に拘はらす上水下水は同会の設計に依らしむべき目的なりしを以て、水道改良の事に付ても再三の調査を遂げしのみならす、内務大臣に随行せし古市技師にも其調査を嘱托せし始末なるを以つて、斯く政府に於て水道は公共事業とすべしと云ふに決定せし上は、委員会に於ても水道のことに一層身か入り、内務省衛生
 - 第15巻 p.303 -ページ画像 
工事顧問ウイリヤム・キニンモンド・バルトン氏を以て、工事設計立按者となし、古市・原口・倉田の諸工学博士学士之か調査委員となり、或は参照を水道会社発起人より差出したるパーマー氏の設計に執り、或は遠く伯林水道局長ギル氏に新按を叩き、竟に先頃に至て完全なる大設計確定したるものなり(未完)



〔参考〕中外商業新報 第二五二九号 明治二三年八月二四日 水道の顛末及設計の詳報(続き)(DK150022k-0008)
第15巻 p.303 ページ画像

中外商業新報 第二五二九号 明治二三年八月二四日
    水道の顛末及設計の詳報(続き)
去り乍ら溯ぼりて其原を糾せば民間有志者が企し水道会社の設計に基きしものと云ふを得べし、左ればこそ有志者諸氏は節倹に節倹を加へたるも尚ほ之が調査の為めに三千余円を費したりと云ふ、是れ這回市区改正委員会に於て水道会社創立委員諸氏に対し鄭重なる謝状に金二千円を附して贈らん事を議決せし故なりとかや。扨這回の設計を実施したる暁に於て果して如何程迄の便益を受け得らるゝものなるや、市民は一般に我も人も水道改良を希望するも、其辺の詳細は恐く知る者多からさらん、依て先つ其概要を挙げんに(第一)浄水工場に於て種種の方法に依り水を溜過沈浄するか為め晴雨寒暑の嫌なく水は何時も清浄無垢恰も鏡を見るか如くなるを以て衛生に適する事(第二)水に圧力を与ふるか為め市内一般何れの場所に於ても干潮平均点(干潮平均点とは春秋の大潮小潮を平均したるものを云ふ)より高きは百三十尺低きも尚ほ八十尺以上水を吹き上げる事(第三)第二の水圧力を利用して下町は五十間、上町は七十五間位の距離を以て路傍に消火栓を設置しスワと云はゞ其火元の囲り真方に在る消火栓の口を開て此最強圧力の水を注瀉するが故、二階三階は愚か五階六階の大厦高楼の火事たりとも忽ち之を消し止め得らるゝ事(第四)水に前記の圧力あるが為め日常の家事用水其引用者の望みに依て何れの場所に迄も随意に引かれ且指頭を以て螺旋を捻れば力を労せずして思ふが儘に清水を汲み得らるゝ事(第五)現在の水道は都て木造なるが故極めて腐朽し易く随て桶枡水管の伏替あるが為め毎度水切の不便を蒙る事あるも、改良水道は悉く鉄管なるが故決して斯る憂ひなく昼夜絶へず給水し得らるる事等を以て最も著しき改良の結果なりとす、而して斯くも好結果を見るには如何なる方法を以てするか是れ這回の設計ある所以なり、乞ふ聞くが儘に之を次号に掲げん(末完)



〔参考〕中外商業新報 第二五三一号 明治二三年八月二七日 水道の顛末及設計の詳報(前々号の続き)(DK150022k-0009)
第15巻 p.303-304 ページ画像

中外商業新報 第二五三一号 明治二三年八月二七日
    水道の顛末及設計の詳報(前々号の続き)
水道事業に於て先つ第一に充分の研究を尽さねばならぬものは水源を撰定することなり、如何に其水質は善良にして理化及衛生諸学的の試験上満足の成績を見るも、全体の水量豊ならさる時は之を用ゆるを得す、良又其設計を立る当時に在ては可なり給水区域内の人口に割当て不足なきが如くなるも、猶ほ其を以て水源を定むる能はず、何となれては水量は何か或る原因あるに非らされは偶然増加すべきものならずと云へとも、人口は自然年々歳々増殖するものなれは、数年を出すし給水に不足を見るの日あるへけれはなり、又之に反して水量は如何程
 - 第15巻 p.304 -ページ画像 
豊なるも其水質理化及衛生学的試験上飲用に供すへからさるものあれは、愈々一市町村の水源となさんには水質よく其量も豊なるものを撰定するを要す、然るに我東京には近傍に玉川の水流あり正応年間以来不充分なから水道の設けありて之を引用しつゝありぬ、元来玉川は源を甲州郡都留郡一ノ瀬村に発し三十里の末流武州西多摩郡西多摩村即旧羽村に於て本流に分れ、十里三十一丁余の長水渠を流通して東京四谷大木戸に達するものなり、其水量大木戸に於ては一秒時間に僅か三十八立方尺に過きすと云へとも、コレは右十里間の水渠に都合十九ケ所の分水あるか為にして、実際羽村の水門に流れ入る所の水量一秒時間無慮四百四十一立方尺なるは、如何程東京の人口増殖するも需要に応して前記の十九ケ所の分水量を節する以上は決して全体の水量に不足を感すること无かるへし、又玉川の水質は頗る善良にして且つ四時変化することなく能く其良質を保全せり、今四谷大木戸の水を酌み其水質を分析したる成績を記すれは左の如し

図表を画像で表示--

 採酌時 固形物全量 塩素     硫酸    アムモニヤ 亜硝酸  カメレヲン  硬度    加爾基  マク子シヤ 硝酸 一月  五、六〇  〇、一二九  〇、二七六   〇   〇    〇、一五〇  一、五三   微濁  痕跡    〇 五月  六、八〇  〇、一二八  〇、二四〇   〇   〇    〇、一二〇  一、九五   同   微痕    〇 九月  六、九〇  〇、一五八  〇、三〇〇   〇   痕跡   〇、三三〇  一、七五   同   痕跡    痕跡 



世人或は神田上水も良水源にして敢て玉川上水に異らさる者の如く思ふ者之あらん、乍去上水は武州西多摩郡井の頭池、下井草村善福寺池及妙正寺池の湧水其過半を占め、之に南豊島郡角筈村玉川分水湊合して小石川区関口町に達し、一は廼ち上水となり、一は廼ち江戸川の水源となるものなり、左れば其水量の充分ならざるは勿論水質も亦善良ならず、加之該上水の小石川に至る迄の水路は押均して其地方の最も低き土地を通過するが故、沿道の汚水皆之に注入して倍々不潔の水とは成りぬ、是れ這回水道改良設計者が水源を玉川の一に定めたる故なりと云ふ(未完)



〔参考〕中外商業新報 第二五四三号 明治二三年九月一〇日 水道の顛末及設計の詳報(去月廿七日の続)(DK150022k-0010)
第15巻 p.304-305 ページ画像

中外商業新報 第二五四三号 明治二三年九月一〇日
    水道の顛末及設計の詳報(去月廿七日の続)
右の如く沈澄池に於て水を沈澱させ又濾池に於て濾上たるものを貯水池へ送るなり、此貯水池と云ふは人口百五十万に対する十二時間分の水量を容るゝものと為し之を別て二種とす、則ち干潮面二十尺以下の地を底地となし是れより以上の地を高地と為す、高地には此所より直接に給水を為し底地へは此所より一旦麻布今井町の貯水池か、又は小石川伝通院近傍に設くる貯水池かへ大なる鉄管を以て送水し、此処より更に圧力を附けて下町の各区へ給水する趣巧なりと云ふ、故に貯水池は千駄ケ谷村のものを除きて猶二個ある都合なり、扨何か故に斯くは所々に貯水池を設け、又別々に蒸滊力を用て水圧力を附けるが如き不経済を為すかと云ふに、是には中々道理ある事にて却て経済の為め此考按を立てたる訳なりと、今其次第を聞くに東京は流石手広き丈けありて土地の高底非常に懸隔せり、廼ち四谷大木戸は海面上百十尺か
 - 第15巻 p.305 -ページ画像 
らの高さなれど、本所の極底き所僅か十尺内外なり、斯くも高底一様ならさる場所へ各地面上一様なる圧力の水を送らんとするには、僅かなる高地の為めに市内全体の水圧力を増さねはならぬと云ふ不経済あるか故へ、初めより給水所を分て三ケ所となし、高地・底地各々其要用たけの圧力を附して給水することとせしものなり、而して其高地として千駄ケ谷浄水工場より直接に給水する区域は四谷・赤阪・麻布の全体及芝・麹町・牛込・小石川・本郷・神田区の一部分にして、又底地給水区域は日本橋・京橋・下谷・浅草・本所・深川の全体及芝・麹町・牛込・小石川・本郷・神田区の一部分にして、此等は麻布今井町又は小石川伝通院の貯水池より給水するものなり
這回玉川上水のみを以て新水道の水源と定められたる理由は以上陳へたる所の如し、扨又此水を配分する区域は東京全市を以て標準となし其全市には現に人口百五十万あるものと仮定して諸般の計画を立て、他日人口増殖して仮令ひ二百万に達するとも敢て改正を要せざる様見積りたるものなりと云ふ、然り而して各一人に対する毎二十四時間分の消費水量は欧米各国同一ならず、多きは百三四十「ガロン」(一「ガロン」は凡そ我二升五合)に至り少きは十四、五「ガロン」に過きす是れ蓋し各地の気候習慣、製造所の多少、給水の方法等に由りて此差異あるものならん、依て我か東京水道に於ては彼是を参酌し一人一日の平均水量を十六「ガロン」強と定め、其一ケ年中最も多量を要する時季に在ては之に五割増即三十二「ガロン」余となり居るとかや
玉川の水質いかに善良なりと云へとも暴雨の為め本流膨漲泥土を流して溷濁する事あるは常に免かるべからざる所なり、是を以て上水の東京に達するや未た配水せさる前に於て之を清浄にするを要す、則ち南豊島郡千駄ケ村《(谷脱)》に浄水工場の設けある所以なるか、聞く水を清浄にするには先つ沈澱法を行ふこと必要なりと、其方法たる大なる池を設け其池の一方の口より流れ来れる上水を引入ると同時に緩かに他の一方の口へ水の上層だけ流出し、所謂水垢をば地底に沈澱せる方法なり、上水降雨の為め非常に溷濁せし場合に於ては十二時間も水を池中に静止せしむ、斯くする時は流石溷濁の水も余程うつくしく相成ゆへ之をば濾水池と云ふへ送り、一昼夜二十四時間に深さ十尺濾過する速度を以て砂濾とする訳なり、此池を濾池と云ひ面積六万平方尺のもの都て十二個を設け、平常は其十個を使用し二個を予備に為す見込なるよし又前の沈澄池は人口百五十万に対する一日半分の水量を容るゝ為め其容積を九百万立方尺となし、之を三個に分ちて其一個の容積を各三百万立方尺とするよし(未完)



〔参考〕中外商業新報 第二五四七号 明治二三年九月一四日 水道の顛末及設計の詳報(前々号の続)(DK150022k-0011)
第15巻 p.305-306 ページ画像

中外商業新報 第二五四七号 明治二三年九月一四日
    水道の顛末及設計の詳報(前々号の続)
今度の設計に於て一寸目新しきは水圧力を附する方法の通常に異りたる所なり、横浜・長崎等の水道は勿論従来我国に於て水に圧力を附くるには大抵一旦水を高き所に引上け更に之を底地に落し来りたるに、今度は左はなくて恰も児供か水鉄砲と云へる物を以て水に圧力を附するが如く、夫の各所の貯水池より蒸滊ポンプを以て鉄管へ力つよく注
 - 第15巻 p.306 -ページ画像 
瀉して水圧力を附ける仕組なり、斯くして此水を送る本管は都て五十九哩余、之に支管とて各町々へ布設するもの三百五十哩を合し総計四百九哩余の延長間に幾千万個の小管を附て市内各戸の飲用水は勿論、道路撒水用の水、防火用水、街頭便所用の水または公園の噴水等皆な随意の用に供すると云ふ、尤も水を買ふにも種々の道あり、計量給水とて各戸受持の小管に「メートル」を附け置き一日又は一ケ月の使消水量に《(を)》点検して其石数に応じて水代を払ふもあり、又は一ケ月の平均を以て月何円と云ふ水代を払ふもあり、其は名々の望みに依る事なれと、兎に角水道役所は不断供給法とか申て、年が年中一日半時も各戸水口の螺旋さへ捻れは清水飛て桶に入る様する趣考なるよし
以上陳ぶるが如き大事業は果して幾年の後に竣工するかと云ふ事は我も人も皆な疑ふ所なるが、今主任技師の説を聞に、第一着手に千駄ケ谷村旧戸田邸なる浄水工場の築造に取掛り、第二着に現在水道の設けある神田・日本橋・京橋・麹町の各区に着手し経済の許す限りは精々取急く可ければ、遅くも来る明治廿九年春頃までには全市残る隈もなく上水の行渡る様相成るべしとの事、何に致せ前代未曾有の大事業なれば斯くは設計の梗概を連載して世人の参考に供しぬ(完結)
 前々号の本項中末尾の「各三百万立方尺」云々より続出し「右の如く沈澄池」云々に続く可きを誤植の為め顛倒せしめたるを以て爰に正誤す