デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
29節 其他
7款 四日市製油会社
■綱文

第15巻 p.307-315(DK150023k) ページ画像

明治21年1月1日(1888年)

四日市製油会社設立サレ、本邦最初ノ種油洋式製造開始サル。栄一株主タリシモ二十五年六月解散シ、財産・事業ヲ九鬼紋七ニ譲渡ス。


■資料

青淵先生六十年史 (竜門社編) 第二巻・第一四一頁 明治三三年二月刊(DK150023k-0001)
第15巻 p.307 ページ画像

青淵先生六十年史 (竜門社編)第二巻・第一四一頁 明治三三年二月刊
 ○第三十一章 製油業
    第一節 四日市製油会社
四日市製油会社ハ三重県四日市ニ在リ、明治二十一年一月一日ヲ以テ設立シタルモノニシテ其目的ハ専ラ種油ノ製造販売ニアリ、同社ハ元四日市工業会社ヨリ其工場器械及製品等一切ヲ譲受ケタルモノナリ同社ノ資本金ハ最初七万円ナリシカ後チ三万円ノ増資ヲナシタリ、青淵先生ハ同社ノ株主ナリ、明治二十五年六月ニ至リ同社ハ終ニ解散ニ決シ、其財産ハ事業ト共ニ四日市製油場持主ニ譲渡セリ


竜門雑誌 第一〇号・第二九―三〇頁 明治二二年二月 ○勢尾地方漫遊記(承前)(渋沢篤二)(DK150023k-0002)
第15巻 p.307 ページ画像

竜門雑誌 第一〇号・第二九―三〇頁 明治二二年二月
    ○勢尾地方漫遊記(承前)(渋沢篤二)
四日○明治二二年一月 午前八時八巻氏同道ニテ三重紡績会社ヲ一覧セリ、当日ハ折悪シク機械修繕中ナリシヲ以テ其運転ヲ見ル事能ハス、故ニ工場及ヒ職工寄宿場ヲ巡覧シ他日ヲ期シテ去レリ、夫レヨリ四日市製油会社ニ至リ工場ヲ一覧ス、同場ハ機械ノ据付試験運転等ハ既ニ済タレトモ雇外国人技手未ダ来港セサルヲ以テ事業ヲ始メス
○下略


中外商業新報 第二三七八号 明治二三年二月二七日 四日市製油会社(DK150023k-0003)
第15巻 p.307 ページ画像

中外商業新報 第二三七八号 明治二三年二月二七日
    四日市製油会社
同会社にては先年外国より絞油機械を購入して之れを据付け、爾来一日二百石の菜種を搾油し盛んに其の業を営み居れる由なるが、其の絞り方は固より我国通常の不完全なる機械を以てせざるものなるが故に彼の矢を打つ圧力の響きに応じ、水気も油も一時に出ずるが如きものにあらずして、自然の圧力に依り絞り取れるものなれば水気又は汚物等は悉皆粕に残り純粋の油のみ流れ出で、尚ほ其の機械に掛くる当初菜種を煎るにも粒のまゝ煎て、之れを細末の粉にする如きことなければ、自から汚物の出来る憂もなく随て臭気も薄く色合も浅ければ其の品質は頗る良好なりとの高評あるも、何分同会社は創業日未だ浅く商標の普く通ぜざるより、本日の広告欄内にもある如く広く之れを世間に告げ、爾後益々其の品質を精良にし世評を博せんとするの計画なりと云ふ


渋沢子爵家所蔵文書 【製油プレース八台四台ノ日本搾リ比較】(DK150023k-0004)
第15巻 p.307-309 ページ画像

渋沢子爵家所蔵文書
 - 第15巻 p.308 -ページ画像 
    製油プレース八台四台ノ日本搾リ比較
フレース四台ノ平均実際勘定一ケ月廿七日間トシ此壱日分但菜種百石搾リ
  此諸費
一金八円八拾銭    職工給四拾人分
一金五円〇五銭五厘  粕袋弐枚四分〇七四余
一金七円也      白絞リ油五升並油三斗
一金拾壱円七拾五銭  石炭四千七百斤廿五円ガヘ
一金壱円四拾四銭五厘 工場諸雑費
一金五円四拾五銭   事務諸費
 合計三拾九円五拾銭

プレース八台ノ平均予算一ケ月廿七日間トシ此一日分但菜種弐百石搾リ
一金九円四拾六銭   職工給四拾三人分 但中等ノモノ三人増トス
一金九拾四銭六厘   同繁務ニ付一割増給ノ見込
一金拾円〇拾壱銭   粕袋前ノ壱倍
一金拾円〇五拾銭   白絞リ油並油 前ノ五割増
一金拾四円拾銭    石炭前ノ弐割増
一金壱円七拾三銭四厘 諸雑費前弐割増
一金六円四拾五銭   事務取扱諸費
 合計金五拾三円三拾銭
  現況粕日本搾リト比較
一機械〆菜種壱石ニ付粕拾七貫百五拾目
  壱円ニ付九貫五百目トシ
   代金壱円八拾銭〇五厘三毛
一日本搾リ菜種壱石ニ付入土共弐拾貫トシ弐八粕其実弐貫七百目壱円ニ付三枚五分ガヘ
   代金弐円拾壱銭六厘四毛
 差引三拾壱銭壱厘壱毛
右ノ処日本搾リノ土代及壱度煎テ搾リ直ス費用全ク相当相掛ルモノニ付、粕目方弐拾貫ニ付拾銭ト見積リ差引スルトキハ粕代ノ差
 金弐拾壱銭壱厘壱毛 機械〆ノ損毛

プレース四台一日菜種百石搾リ一ケ月廿七日間トシ日本搾リ比較壱ケ年間
             機械搾リ
一金壱万弐千七百九拾八円 菜種三万弐千四百石ノ営業総費額
  内
  金九千七百廿円    右菜種壱石ニ付油壱升五合出増シアルモノトシ壱石ニ付廿円トシ
  引テ         代金引但日本搾リノ比較出増
  金三千〇七拾八円也  全ク営業費
             日本搾リ
一金壱万九千四百四拾円  菜種三万弐千四百石壱石ニ付六拾銭ノ積リ雑費
 此差引
 - 第15巻 p.309 -ページ画像 
 金壱万六千三百六拾弐円也  機械工場ノ益
右ノ処日本〆ニテモ金利ハ必用ノモノト雖之ヲ仮ニ無キモノトシ、本社ノ支出金利ト種粕ノ農家ニ於テ其功ヲ知ラズシテ形ノ異ナルヲ以テ疑惑ヲ起ス損毛ト本社カ菜種蔵ノ不足スル費用ヲ顕シ、現況ヲ以テ一ケ年ノ別費ヲ工場益ヨリ引去ルトキハ左ノ如シ
                機械搾リ
 一金参千円          平均年中三万円営業金借用アルモノトシ此一ケ年ノ利子
                機械搾リ
 一金六千八百三拾九円六拾四銭 菜種壱石ニ付弐拾壱銭壱厘壱毛ツツ油粕壱ケ年間ノ損失
 一金三拾円          菜種蔵不足ニ付年中二三ケ月間百坪ノ蔵借入ルモノトシ坪月拾銭ノ割
                其蔵敷
  三口
   合金九千八百六拾九円六拾四銭
    右ヲ工場益ヨリ差引トキハ
   金六千四百九拾弐円三拾六銭ノ全ク益ナリ

プレース八台一日弐百石搾リ一ケ月廿七日トシ一ケ年間日本搾リ比較
一金壱万七千弐百六拾九円廿銭   機械搾リ六万四千八百石
                 菜種壱石ニ付五拾三銭三厘ノ費用
  内
  金壱万九千四百四拾円     右菜種壱石ニ付油壱升五合出増壱円ニ付五升替代引
 引テ
   金弐千百七拾円〇八拾銭   営業得益
                 日本搾リ
一金参万八千八百八拾円      菜種壱石ニ付六拾銭ノ費用此六万四千八百石分
  此合算
  金四万千〇五拾円〇八拾銭   工場益
右ノ処前同断現況ヲ以一ケ年別費ヲ工場益ヨリ引去ルトキハ左ノ如シ
 一金五千円           平均年中五万円営業金借入アルモノトシ此利子年壱割
 一金壱万三千六百七十九円廿八銭 前同断油粕ノ損失前ノ壱倍
 一金弐百四拾円         種蔵不足分弐百坪ノ蔵年中借入ルモノトシ坪月拾銭ノ割
 一金三百円           前ト比較シ借入金弐万円増加スルニ付借入方ニ困難多キカ為メ其費用見積リ
 一金三百廿四円         前ニ比較シ原料購求方製品販売共総テ壱倍ニ付意外ノ奔走費アルモノトシ一日壱円ノ積リ
 五口合計
  金壱万九千五百四拾三円廿八銭
 右ヲ工場益ト差引トキハ
  金弐万千五百〇七円五拾弐銭ノ全ク益ナリ
   ○本資料ハ渋沢子爵家所蔵柳行李ニ保管スルモノ、未ダ如何ナル会社関係カ知ラザレドモ或ハ四日市製油会社ニ関スルモノナランカ。


中外商業新報 第二六七四号 明治二四年二月一九日 ○四日市の各会社(DK150023k-0005)
第15巻 p.309-310 ページ画像

中外商業新報 第二六七四号 明治二四年二月一九日
○四日市の各会社 三重県下四日市港に於ける各会社の現状を記せば精米会社は目下休業し、製油会社は製油場と改めてより其の規模を縮め、製紙会社は随分盛に営業し居れども収益多からず、現に二十三年
 - 第15巻 p.310 -ページ画像 
下半季に於て純益の配当をせず後半季に繰越したる程なり、又三重紡績会社の製糸は一等凡改七十四円、並七十一円の相場にして、北陸道並ひに東海道へ販路を拡張せんと勉め居れり



〔参考〕熊沢九右衛門翁談話(DK150023k-0006)
第15巻 p.310-311 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕九鬼金平氏談話(DK150023k-0007)
第15巻 p.311 ページ画像

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〔参考〕三重県事業史 (第九回関西府県聯合共進会三重県協賛会編)第九三頁明治四〇年八月刊(DK150023k-0008)
第15巻 p.311 ページ画像

三重県事業史 (第九回関西府県聯合共進会三重県協賛会編)第九三頁明治四〇年八月刊
 ○第二編 第五章 商工業と其経営者
    九鬼紋七氏の製油場
種油の生産地は県下四日市附近を以て最も著名なりとす、明治十五年斯業の有志者四日市製油会社を組織し、英人を聘して人力圧搾法に代ふるに機械力製造法を以てせんとし、遂に二十一年二月純然たる洋式製油を開始するに至れり、然れども其の圧搾の経験に乏しきに加へて販路の充分ならざりし為め、不幸にも会社は解散の悲境に沈淪せしが氏は該事業を継承し大に其業務を刷新し、技術者を海外に派遣して菜種白絞、ボイルド、ペイント等の諸油を製し、其販路内地は勿論支那地方へも歳々巨額の輸出を見るに至れり、是れ全く氏が経営其宜しきを得たるに基ひせり



〔参考〕三重県史(服部英雄著) 下編・第五七六―五七八頁大正七年一月刊(DK150023k-0009)
第15巻 p.311-312 ページ画像

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〔参考〕油界百星 (中外経済新報社編) 第三四七頁昭和三年一一月刊(DK150023k-0010)
第15巻 p.312 ページ画像

油界百星 (中外経済新報社編) 第三四七頁昭和三年一一月刊
    星印胡麻油製造元 四日市製油場(三重県四日市市尾上町)
 四日市製油場は、現在九鬼徳三氏の個人経営として、専ら星印胡麻油の製造に力め、東西市場に相当の声価を有しつゝあるのである。当製油場は由来幾多の変遷を経て今日に至れるものである。明治十五年同地に於ける斯界の有志謀つて、一工業会社を創立したるに始まり、明治十九年組織を更めて四日市製油会社と為し、洋式最新式搾油機械を輸入して、製油に従事す。之れ本邦に於ける洋式製油事業開始の嚆矢と為す、亜いで先代九鬼氏は之れを買収して四日市製油と名命し、かくの如く幾多の変遷を経て去る明治四十五年合資会社組織としたるが、其後油業不振の為め迂余曲折を経て昨年八月現在九鬼氏の買収する所となり、純然たる個人経営として現在に至つて居る。合資会社当時に在つては資本三十二万円、同地方に於ける植油会社としては其最も大規模のものであつた、而して社員は名望ある九鬼紋七氏を首め同族一派の人々であつたのである。東京販売店は神田区多町カネ吉商店飯島録三郎氏専属特約店として一手販売を引受け、大阪に在つては和田製油所之れを引受け、胡麻油としては其品質の優秀にして、而かも比較的価格の廉なる点に於て、他の同種品を凌駕し、前途益々光輝を斯界に放たんとする、幸に健実なる発達を祈る。



〔参考〕四日市市史 第四五四―四五五頁 昭和五年一二月刊(DK150023k-0011)
第15巻 p.312-313 ページ画像

四日市市史 第四五四―四五五頁 昭和五年一二月刊
 ○第五 産業編 第三章 第二節 工業の種類
    第三項 製油業
 - 第15巻 p.313 -ページ画像 
 製油業は貞享年間に始めて起つた、元禄十二年(二二五九《(三)》)には森寺喜兵衛が斯業を興隆し、天保時代には南納屋町に吉田千九郎、北納屋町に水谷孫左衛門、桶之町に九鬼文助、浜町に中島文五郎、川原町に山中伝四郎等の油商があつて其の生産高も漸次多くなり、古来伊勢水と称せられ名声は頓に挙つた、其後年に月に発達し、明治維新前に製造戸数七十三戸に達した。併し当時製法は手搾りで規模も亦小さかつたが、明治十五年四日市工業株式会社(現名古屋製油株式会社四日市工場の前々身)が創立せられ、同十七年設備も漸く完成したので、製糸・製油の二部に分れて事業を開始した。同十八年製糸製油を各独立の会社として製油部は株式会社として経営し、英人を聘して人力圧搾法に代ふるに機械を以てした。而し経験の不良分《(マヽ)》と販路未開の為め程なく経営難に陥り解散した。時に九鬼紋七(先々代)が製油業機械化の廃絶を憂ひ独力で之を買収し、幾多の困苦と闘ひ技術の研究に努力し、菜種白絞、ボイルド、ペイント等の諸油を製造する様になつた明治三十九年には熊沢九右衛門個人経営の熊沢製油所が稲葉町に建設せられた。爾来漸次発展して、現在では製造戸数十二戸百三十七馬力の汽鑵汽機瓦斯発動機と、二百馬力の電気を動力として、男女百二十一人の労働者を使つてゐる、主なる工場は、浜町の名古屋製油株式会社四日市工場・熊沢製油合資会社・丹羽商店・伊勢油商合資会社・合資会社鷲野商店等で、製品は菜種油・自然油・大豆油・胡麻油・荏油亜麻荏油・椰子油・麻油・カストル油等である。其の年産額は左の通りである

図表を画像で表示--

  年次    製産価額                円 明治二十六年   一二〇、九七五 同  三十年   一六四、五〇六 同 三十六年   三九五、二七九 同 四十一年   四五五、七五二  年次    製産価類                円 大正二年     九〇七、九二四 同 七年   二、一四九、八三三 同十二年   二、二二〇、三五五 昭和三年   二、〇四〇、六七七 






〔参考〕竜門雑誌 第三六一号・第七二頁 大正七年六月 ○青淵先生愛知三重両県下旅行記事(DK150023k-0012)
第15巻 p.313-314 ページ画像

竜門雑誌 第三六一号・第七二頁 大正七年六月
    ○青淵先生愛知三重 両県下旅行記事
青淵先生が令夫人同伴にて五月四日西下せられたるは既報の如くなるが、右に付き各都市に於ける諸新聞紙は筆を揃へて青淵先生の消息を伝へ或は歓迎辞を掲げ或は講演を詳記して以て先生の人徳を崇敬愛慕せざるなし、依つて左に其一般を掲げて先生の行を偲ぶことゝせり。
○中略
総べて勢州毎日新聞の報道に依ることゝせり
○中略
    ○渋沢男と四日市
△男爵と製紙 此の外、四日市港に於ける事業として男爵の援護を蒙れるものに四日市製紙会社、四日市製油場あり、前者は明治十九年設立したる四日市工業会社より分離し、明治二十年十二月設立したるものにて漸次発展し、資本金二百五十万円に達して全国屈指の製紙会社となれるが、本会社の今日ある蓋し男爵に負ふ所大なるが、後者即ち
 - 第15巻 p.314 -ページ画像 
四日市製油場も初め四日市製油会社と称し、男亦た株主の一人たりしも、明治廿五年六月に至り之を現在の持主に譲渡し、三十万円の資本金を以て敷地千五百余坪を算す、工場には約百名の従業者を有し盛大に経営せられつゝあり、之を要するに男爵が創立し主宰されし第一銀行の支店が明治十七年四日市に開設され、金融機関の効用著大なりしを始め、四日市は
△今日の小壮 人物に於て、当時の状態を知らざるもの漸次多くなれど、過去の事業其の他が男爵に依て助成されたる功績真に没す可らず是れ吾人が今聊か主要なるものゝ一班を紹介し置く所以なるが、今次来市の如き、井上第一銀行支店支配人が上京の都度、特に市勢の変遷を述べ来遊を懇請されし為め、玆に愈々実現せられたるものゝ由にて恁は亦た井上支配人に対し市民の深く謝し且つ其の労を多とする所ならん



〔参考〕中外商業新報 第二三七八号・広告 明治二三年二月二七日 広告(DK150023k-0013)
第15巻 p.314 ページ画像

中外商業新報 第二三七八号・広告 明治二三年二月二七日
明耀正菜種油 大日本 伊勢国 登録商標 有限責任 四日市 製油会社
      三重県伊勢国三重郡
        有限責任 四日市製油会社
  水油販売広告
四日市製油会社の水油は洋式大機械を備へ製造したる純良菜種油にして、色薄く汚物なく点灯用及ひ食料に用ゆるも、日本機械は勿論洋式小機械等を以て是迄製造したる絞油に比すべきものに非す、古来無比の良品なり、然りと雖ども売広めの為め当分の内伊勢油同等の価格を以て売捌候間、陸続御購求あらんことを希望す
               芝区兼房町一番地
                 東京一手売捌所 橘屋六兵衛



〔参考〕竜門雑誌 第一一七号・第二〇頁 明治三一年二月 伊勢地方修学旅行の記(上)(穂積重遠)(DK150023k-0014)
第15巻 p.314-315 ページ画像

竜門雑誌 第一一七号・第二〇頁 明治三一年二月
    伊勢地方修学旅行の記(上) (穂積重遠)
○上略
労れに労れぬれば、前後も知らずうまいして、漸く目醒めしは翌二十六日の九時頃なり。朝餉も終へ、扨尾高氏に従ひて、先三重紡績会社に至りぬ。○中略 此所を出でゝ直に其隣に至る。此所は四日市製油場なりけり。門を入れば、油の臭にや、異様の臭鼻を衝きて来る、内に入れば、蒸気の力にて、様々の機械を動かし、菜種を搾りて油を取り、其糟を肥料とす。圧搾器の大にして巧みなる、油桶のこちたく積める目を驚かす計りなり。それより町の有様など見つゝ、港の方に歩むに伊勢米擣き白らぐる精米所、軒を並べて立てり。○中略
扨四日市に就きて、少しく観る所を記さんに、抑此地は伊勢の北部、桑名と津とのあはひにありて、関西鉄道の衝に当り、港は特別輸出港の一なれば、水陸の交通繁くして、商業の盛なること当国第一なりとかや、東は伊勢の海に臨み、南北西は伊勢平原なり。三重川其北を流れ、町は川に沿ひて細長し。人口は二万二千許、人情は商業には聡と
 - 第15巻 p.315 -ページ画像 
けれど、稍鄙吝なる傾きはあらざるか。製造業は前に述べつる紡績・製油・精米なり。又輸出品は米・茶・油・雑穀にて、扨名産とも云ふべきは、彼いとみやびたる、万古焼となん呼べる陶物にぞありける。