デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

6章 対外事業
1節 韓国
1款 韓国ニ於ケル第一銀行
■綱文

第16巻 p.5-11(DK160001k) ページ画像

明治11年6月8日(1878年)

第一国立銀行釜山ニ支店ヲ開業ス。栄一当行頭取トシテ之ニ与ル。


■資料

青淵先生伝初稿 渋沢同族会編 第九章下・第二八―三〇頁大正八―一二年刊(謄写版)(DK160001k-0001)
第16巻 p.5 ページ画像

青淵先生伝初稿 渋沢同族会編 第九章下・第二八―三〇頁大正八―一二年刊(謄写版)
先生が第一国立銀行の支店を朝鮮に設置し、彼地の金融に著手せるは専ら朝鮮と為替・荷為替の途を開き、貸付の便を計り、傍ら韓銭の交換を為して、彼我の商業に利せんとするにあり。明治十年大倉組と組合ひて、釜山交換所を設立せんとするや、大蔵省は銀行が他の商社等と資金を合併して、更に一箇の組合を設くることは、許し難しとありければ、乃ち銀行の独力を以て経営せんとし、十一年三月第一国立銀行釜山支店を開設し、且つ営業資金として政府より銀銅貨十万円の貸付を得、五月四日より開業せり。其営業科目は、彼我貨幣交換・並為替・荷為替・逆為替・抵当貸・定期預金・当座預金・振出手形・約定預り金・輸出入物品売買引受等なりき。尋で釜山領事館官金出納、並に東京海上保険会社代理店事務をも取扱ひ、彼我の商人に便利を与へ其歓迎する所となりたれば、十三年五月元山津の開港と共に、此に出張所を開設して、領事館の官金出納事務と、上海領事館の為替事務をも取扱ひ、十五年一月仁川の開港と共に、同地にも出張所を開設して京城公使館及び仁川領事館官金出納の事務をも取扱へり。かく数年の間に釜山・仁川・元山津の三港に支店出張所を置き、以て日韓貿易の金融に任じ、更に我が国の貨幣をも流通せしむることに尽力せり。我が国の銀行にして支店を海外に設置せるは、第一国立銀行を以て嚆矢となす。
   ○右「青淵先生伝初稿」及ビ次掲「第一銀行五十年史稿」ニハ釜山支店開業ヲ五月四日ト記セドモ、後掲「第十回半季実際考課状」ニヨレバ六月八日ヨリ開店セリ。仍テ玆ニハ同支店ノ開業ヲ六月八日トナス。


第一銀行五十年史稿 巻三・第五六―五九頁 大正一二年刊(DK160001k-0002)
第16巻 p.5-6 ページ画像

第一銀行五十年史稿 巻三・第五六―五九頁 大正一二年刊
 ○第一編 第三章 営業の拡張
    第三節 海外発展
○上略
本行が朝鮮の金融界に従事するに至れるは、明治十一年の事なりき。是より先き、同九年日韓修好条約成りて釜山の開港せらるゝや、我国民の其地に至りて商業に従事するもの数百人に及びたれども、皆小売商人のみにして、其資力は彼我の通商上に貢献するに足らず、加ふるに釜山の地たる、朝鮮の東南端に位して、物産に乏しく、交通また不
 - 第16巻 p.6 -ページ画像 
便なるが上に、同国在来の銅銭を通貨に使用せるなど、通商の進歩容易に期しがたきものあれば、本行は清国との関係将に生ぜんとするの勢に乗じ、更に朝鮮方面にも其手を伸ばし、海外発展の素地を為さんと、此に釜山貿易振興の策を按じたり。
此に於て大倉喜八郎と謀り、明治十年八月大倉組と組合ひて交換所を設け、貨幣の交換、荷為替貸付の取扱に従事せんとし、我銀銅貨拾万円の貸与と、毎月両三回の定期航路を開かれんことを大蔵省に出願せり。政府之を納れ、資金貸与の内議あるの際、西南の戦役起りて、国費多端なりしかば、其平定の後において貸与すべければ、先づ交換所の規則等を調査して内意を候すべく、定期航路の件は内務省と交渉すべしとの指令に接したり。然るに大蔵省の議一変して、銀行自ら他の商社・商賈と資金を合併し、更に一箇の組合を設くることは相成がたしとて却下せられ、内務省よりも、毎月両三回づゝの郵船往復は採用するを得ず、但毎月一回の航路は既に開設しあれば、擾乱平定次第、定規の如く通航せしむべしとの達を受け、玆に一頓挫を来せり。よりて大倉組との関係を絶ち、本行単独の事業として、交換所を経営せんとし、其規程を改定し、十一年の春、大蔵省より、第一国立銀行支店の名称を以て之を開設することを許可せられ、資金の半額、即ち銀銅貨五万円の貸下を得たれば、三月釜山支店を設立し、五月四日より開業せり。処務規程によるに、営業の種目は、彼我貨幣交換・並為替・荷為替・逆為替・抵当貸・定期預金・当座預金・振出手形・約定預り金・輸出入物品売買引受の諸項なりき。然るに最後の一項は、銀行自ら商業に従事するの嫌ありとて、政府の詰問を受けたれども、実は我商人が航路の不便なるが為に、貨物の輸送に際し、本行に託して其代金を徴集し、或は其荷為替を処弁せるに過ぎず、要するに荷為替の一種なることを弁明して事なきを得たり。かくて同支店は尋で貸与資本金の残額五万円を領収し、後また其流通資本として、新銅貨壱万円の貸下をも仰ぎて、営業の完備を図ると共に、釜山領事館の官金出納の事務を取扱ひ、なほ、東京海上保険会社の代理店事務をも引受けたるが、いたく両国商人の歓迎する所となり、公私の取引日々増加し、開業後一年ならざるに、早くも基礎を確立し、釜山唯一の金融機関として世に重んぜらるゝに至れり。
○下略


第一国立銀行半季実際考課状 第九回・第一〇―一一頁明治一一年一月刊(DK160001k-0003)
第16巻 p.6 ページ画像

第一国立銀行半季実際考課状 第九回・第一〇―一一頁明治一一年一月刊
    ○営業事務ノ事
○上略
一朝鮮トノ通商ハ近年漸次ニ開進シ為替荷為替交換等ノ途モ亦随テ急務ニ属スレハ、清国ノ例ニ傚ヒ、同地釜山浦ニ於テ当銀行ノ支店ヲ開設スル事ヲ要シ、其方法規則ヲ撰定シテ十二月十五日○明治一〇年大蔵省ニ稟請セリ、且此挙ハ曩ニ大倉組商会ト合同シテ同省ニ稟候シ、並其郵便滊船開航ノ事ヲ内務省ニ稟請シテ、速カニ指令ヲ領シ、後更ニ合同ノ事業ヲ区分シテ再申スル所ナリ
○下略
 - 第16巻 p.7 -ページ画像 

第一国立銀行半季実際考課状 第一〇回・第二―四頁明治一一年七月刊(DK160001k-0004)
第16巻 p.7 ページ画像

第一国立銀行半季実際考課状 第一〇回・第二―四頁明治一一年七月刊
    ○営業事務ノ事
○上略
一前回支店ヲ朝鮮国釜山浦ニ於テ開設スルノ一事ヲ報告セリ、後一月廿五日大蔵省ノ允准ヲ得、尋テ該規程ヲ定画シ、一切節目ヲ妥理シ三月十四日該員ヲ派遣シ、六月八日ヨリ開店セリ
一同支店ニ於テ郵便切手売捌方ノ為メ五月十六日駅逓局ニ稟請シ未タ其允准ヲ得ス
一又証券印界紙売捌方ノ為メ五月廿一日租税局ニ稟請シ六月五日允許セラレタリ
一又同支店ハ海外不便ノ地ニ在テ郵船ノ便毎月僅カニ一回ニ過キス、是ニ由テ其毎半季実際報告ノ如キハ他ノ支店ト与ニ期ニ照ラシテ一併蒐輯スルヲ得ス、須ラク五月三十一日十一月三十日ヲ以テ定メテ決算ノ季ト為スヘク、且当季ノ如キハ必ス期ヲ過クレハ後半季ヲ待テ一併決算スルヲ要スルカ為メ、五月廿三日大蔵省ニ稟請シ、同廿九日特典ヲ以テ允准セラレタリ
○下略


第一国立銀行半季実際考課状 第一一回・第三五―三六頁明治一二年一月刊(DK160001k-0005)
第16巻 p.7 ページ画像

第一国立銀行半季実際考課状 第一一回・第三五―三六頁明治一二年一月刊
    ○貸附金ノ事
○上略
一朝鮮国釜山浦支店ニ於ル貸附金ノ抵当ハ丁銅白銅錫生金巾天竺木綿唐糸生平染粉牛皮牛骨薬種海草ノ類ニシテ、利足ハ高キモノ年一割五歩、低キモノ一割、期限ハ長キモノ六ケ月短キモノ一ケ月ト為ス


第一国立銀行半季実際考課状 第一一回・第九頁明治一二年一月刊(DK160001k-0006)
第16巻 p.7 ページ画像

第一国立銀行半季実際考課状 第一一回・第九頁明治一二年一月刊
    ○営業事務ノ事
○上略
一前回朝鮮釜山浦支店ニ在テ郵便切手ヲ売捌ク為メニ官府ニ稟請セシ事ヲ報告セリ、後八月十日駅逓局ヨリ指令シテ請ノ如ク允准セラレタリ
○下略


第一国立銀行半季実際考課状 第一一回・第二一―二二頁明治一二年一月刊(DK160001k-0007)
第16巻 p.7-8 ページ画像

第一国立銀行半季実際考課状 第一一回・第二一―二二頁明治一二年一月刊
    ○本支店景況ノ事
○上略
一朝鮮釜山浦支店ハ則当半季間ニ於テ始テ景況ヲ報告スルヲ得テ未タ確察ノ情状ヲ述ル能ハス、営業ノ大略ハ為替・荷為替ヲ第一ト為シ貸付ハ之ニ次キ、韓銭ヲ交換シテ彼我ノ商務ヲ利スルモ亦要旨ト為シ、預リ金ノ類ハ目下敢テ望ム者ニアラス、当半季ニ於テ稍此等ノ端緒ヲ開クト雖トモ未タ互市場ノ盛ンナルニ至ラスシテ、加ルニ前回苛税ノ一挙ニ会シ一時貿易ノ途ヲ絶チ営業甚タ冷索ニ属セリ、然ルニ幸ニ日ヲ経スシテ苛税ノ令ヲ廃シ旧面ニ復スルヲ得テ反テ商情
 - 第16巻 p.8 -ページ画像 
ノ前日ニ勝ラントスルノ形勢ニ向フヲ得レハ、営業ノ目的ハ必ス永遠ニ達スヘキヲ信セリ
○下略


第一国立銀行半季実際考課状 第一二回・第二七―二九頁明治一二年七月刊(DK160001k-0008)
第16巻 p.8 ページ画像

第一国立銀行半季実際考課状 第一二回・第二七―二九頁明治一二年七月刊
    ○本支店営業景況ノ事
○上略
一朝鮮釜山浦支店ノ景況ハ初テ前回ノ考課状ニ陳述シ今纔ニ一周年ヲ過キテ営業ノ形勢大ニ進ム者アルヲ覚フ、向キニハ当支店開業ノ後幾クモナクシテ苛税ノ変起リ、一旦貿易ノ不利ヲ取リ、今春又啓釁ニ因テ一時紛争ニ遇ヒシハ、反テ形勢ノ遷移ヲ速ニスルノ果ヲ得タリ、爾来貿易前日ヨリモ繁ク、昨年ハ我商賈ノ同浦ニ居留スル者四百名ニ上下シ、即今ハ則七百有余名ノ多キヲ為ス、故ニ当春以来当支店ノ営業諸事少シク営理スル所アリ、就中荷為替ノ業漸ク増加シ他店(皆内国)ト「コルレスポンデンス」ノ約束ヲ結フ者三項、当座預リ金三項、定期預リ金九項、貸附百六十八項、別ニ又売買品取扱ノ業ハ大ニ其居留商賈ニ適スルヲ以テ現ニ輸入商品ヲ取扱フ所ノ金額ハ六万余円トナス、而シテ只一大害ノ貿易市上ニ横ハル者ハ彼国通貨即チ銅銭欠乏ノ事是ナリ、而シテ彼ノ物貨我ニ輸出スルトキハ毎ニ銅銭ノ価格貴昂ノ勢ヲ持シ、甚タ貿易ノ権衡ヲ妨クル者アリ是ニ因テ我カ居留商賈ハ朝鮮政府ヲシテ新貨鋳造ノ挙アラシメン事ヲ議シ、已ニ我カ管理官ニ之ヲ上申セリ、聞ク所ニ依レハ方今彼ノ政府ニ照議中ナリト云、又彼ノ物産ニ至テハ概ネ皆天造ニ係リ製作ハ皆極メテ粗笨拙劣我カ用ニ足ラサル者多ク、惟タ他年ノ利藪ト認ムル者ハ金銀及ヒ砂金ノ類ニ在ルノミ、然レトモ是亦未タ採礦ノ業ニ精シカラスシテ、従来ノ採法ハ聊カ土竜ノ為ス所ニ優レルノミト云、故ニ今日金銀モ亦甚タ多カラサルカ如シ、要スルニ将来彼ノ政綱一変シ市上ノ局面ヲ改ムルノ時ヲ俟ツテ後ニ図ルヘキナリ、今日早ク已ニ小効アルハ実ニ望外ト謂フヘキノミ



〔参考〕釜山開港五十年之回顧(DK160001k-0009)
第16巻 p.8-11 ページ画像

釜山開港五十年之回顧
                   男爵 大倉喜八郎
 釜山開港五十年の記念として釜山府に於て朝鮮貿易品展覧会並港湾展覧会を開催せらるゝに当り、釜山府尹泉崎三郎君より、老生が釜山開港当時より最も深き関係を有せるの故を以て、其の歴史的資料を徴せられたことは、老生の誠に感慨無量とする所である。
 釜山は老生に採りて最も憶ひ出深き土地である。開港当初殆ど見る影もなかつた釜山が、今や欧亜大陸を連絡する関門として東洋屈指の商港となつたことは、釜山の為めに寔に慶賀に堪へざると共に、隆々たる帝国の奎運に想到して欣快極りなき次第である。
 老生は今思ひ出づるまゝ開港草創時代に於ける釜山の面影を追憶して、聊か記念の資に供したいと思ふのである。
初て釜山に渡り日韓貿易を開始す
明治八年十月韓国仁川の沖即ち江華湾頭に於ける朝鮮兵の我が雲揚艦
 - 第16巻 p.9 -ページ画像 
砲撃事件が動機となつて両国間多年の懸案であつた日韓修好条約が締結せられ、花房義質・近藤真鋤等諸氏が外務省御用掛を命ぜられ、韓国に駐剳することとなり、玆に初て日韓両国間に通商貿易が開かるゝことゝなつたのである。然るに其実際は、我国に於ては韓国と云へば恰かも虎伏す荒野の如く思はれて居つて、一人として冒険的に進で韓国との通商貿易に当らんとする者なく、実施期間を空しく経過して、折角の修好条約も廃棄同様にならんとするの状況であつた。政府に於ても頗る焦慮されて、国内有力なる商人に勧誘を試みたのであるが、依然として之に応ずる者は一人もなかつた。終に大久保内務卿から老生を見込んでの懇談あり、修好条約の手前国家の体面にも関することなれば、奮て其の衝に当らんことを求められたので、老生も実に尤なりと、其の成敗を顧みるの暇もなく、微力を日韓貿易の為めに効さんとしたのである。即ち明治九年八月我が国産並に諸雑貨を満載し、玄海灘の荒浪を越えて初て釜山に渡航した。当時の釜山港は唯寄せては返す大波小波が、所謂終日《ヒネモス》のたりのたり哉で、陸には白衣の韓人が牛の骨や皮を乾して居るのを見る計りの長閑さであつたが、一朝風吹き浪荒るゝ時は、波止場は勿論之と云ふ船付もなく、船を繋くことは仲々容易でなかつた。又在留の日本人は老幼合せて僅かに九十人に過ぎず而かも其の総ては対州人のみであつた。其内十数年前釜山で物故した福田増兵衛氏や総島・古谷の諸氏等は今尚老生の記憶に残つて居る人人である。そこで商売取引の方法を如何にするかと云ふ点に就て相当考へて見たが、明治五年渡欧の際実見した所謂バザー式の商品陳列館が、幼稚なる韓国の商売には最も相応はしく思はれたので、場所を東莱府の東上寺に定め、此処に載来した貨物一切を陳列して朝鮮人の賈客を呼ぶことにしに。陳列品の主なるものは舶来品としては羅紗・金巾・天竺木綿の類、日本品は甲斐絹・縮緬を初め京都西陣の織物其他雑貨類・日用品等であつた。而して商品の総てには正札を附し、一目売価を明示したのである。此の方法は後年我国に流行した勧工場の先駆を為したものであつた。此の商品の陳列即売は忽にして朝鮮人間に好評を博し、遠近相伝へて門前市を為すの盛況を呈し、数百ならずして其の全部を売り尽し、新らしき此の第一の試みは確かに成功した。是につけても思出さるゝことは、当時如何に朝鮮人が幼稚であつたかと云ふことである。初め朝鮮人は此の正札販売を見て非常に驚いた、『日本人はこんな事をして果して商売が出来るであらうか』と言つたさうである。元来朝鮮には公貿易・私貿易とも云ふ可き二種の商取引があつた。公貿易とは所謂輸出入の場合で、之は公商人の手に依て営まれ、其他は一般の商売即ち私貿易であるが、此の場合其の値段は絶対に之を秘密にして置くのが商慣習となつて居つた。然るに老生は表裏なしの正札附の値段で売捌いたのであるから『之では商人が買つて他に売らうとするも利益を得らるゝ筈がない』と云ふのである。其処で老生は『商売人が買つても決して儲からぬ事はない、夫は小売と云つて、少しづゝ売る時は素人でも商売人でも誰が買つても正札通りだが、卸売と云つて纏めて沢山売る場合には割引する、此の割引で買つた品を今度は少しづゝ売れば、矢張り此の正札通りの値段にても利益
 - 第16巻 p.10 -ページ画像 
になるのである』と仔細に説明したので、初めて納得すると云ふ様なことであつた。
斯の如くして日本と韓国との貿易は其の端緒を開き、修好条約を具体化することを得たのであるが、従来韓国に於ける商売の実権は、何と云つても古き歴史の下に根強き勢力を有する支那人の前には到底及ぶべくもなかつたので、老生は盛に我国各地の商人にも宣伝して朝鮮との商売を勧説すると共に、店舗を釜山に開き、高麗丸と云ふ専用の西洋型風帆船をも建造して商売用に充て、鋭意貿易の進展を図つたのであつたが、此の結果年を逐ふて漸次日本人の渡航者を増し、又朝鮮人の理解と信用とを得て日韓貿易が漸く盛になつて来たのであつた。
以上は老生が微力を顧みず、率先日韓貿易を開始した当時の実況であるが、今日釜山の繁華と盛況とに比べ見て、正に隔世の感があるのである。
初めて朝鮮に銀行を設立す
日韓両国間の貿易は前述の如くして開始され、又着々発展の緒に就たのであつたが、当時は勿論朝鮮に一の金融機関なく、商取引の実状は頗る不便極まるものであつた。即ち当時の貨幣は主として葉銭を用ひたのであるから、少し値嵩の商売になると叺入の葉銭を温突の室内に並べて、一つ一つ之を勘定すると云ふ幼稚さで、手数と時間とを要すること夥たゞしく、到底敏活なる商取引を期し難く、商売上の不便不利尠からざるものがあつた。此に於て老生は銀行の設立を以て日韓貿易発展上最も急要の施設なりと痛感するに至つたので、之を当時の第一国立銀行頭取の今の子爵渋沢栄一君に諮つた。渋沢君は克く之を諒解して直に賛成して呉れたのであるが、当時第一銀行の大株主たる三井組の代表者永田甚七、小野組の代表者行岡庄兵衛の両人は、何れも銀行の年番役と云ふ要職に在つて、我国に於てさへ漸く第一銀行開設間もなき時であり、朝鮮の銀行設立は時機尚早なりと主張して容易に賛意を表しなかつた。そこで老生は第一銀行の力を藉ることの容易でないので、渋沢君と共同して私設銀行と云ふ様の形式で各半額宛の出資を為し、資本金五万円の銀行を釜山に開設した。実に明治九年である。其後数年を経て、我が政府に於て新に国立銀行条例を発布し、他に同種類の営業を認めぬと云ふ事になつたので、此の私人経営の釜山銀行は今後之を継続することが出来なくなつた。そこで渋沢君と善後処置を協議したのであつたが、老生は元来今日に於ても銀行を経営せざるが如く、主義として銀行経営を好まず、唯釜山には銀行の施設を急要とする、第一銀行は引受けぬと云ふので、已むを得ず渋沢君と共同して銀行を設立したるに過ぎない。随て此場合第一銀行が之を承継して呉れるなら寔に好都合であると折衝を重ねた。結局第一国立銀行が引受けて経営することゝなり、同銀行支店として公認せらるゝに至つたのである。第一銀行に移管してから後も、可なり経営難に苦められた様であつたが、此の銀行の為に商取引の面目を一新し、釜山の繁栄を促進したることは勿論、日韓貿易の発展上多大の資益を齎したことは争ふ可からざる事実であると確信する。今日に於て資本金四千万円を擁する朝鮮銀行も、其の源に遡れは、此の明治九年より十年に亘
 - 第16巻 p.11 -ページ画像 
りて呱々の声を挙げた釜山の一小銀行が全く其の濫觴を為したことに想到して、寔に今昔の感に堪へないのである。と同時に、渋沢君が第一銀行両年番の抗議を外にして、此の私設銀行の設立を賛助したるの功は没し難きものと思ふ。
○下略
   ○左ニ韓国ニ於ケル第一銀行支店及出張所ヲ表示ス。

    支店又ハ出張所名  設立年月      備考
   釜山支店      明治十一年六月
   元山津出張所    明治十三年五月   明治二十九年九月廃止
                       同三十八年四月再興
   仁川出張所     明治十五年十一月  明治二十一年九月支店ニ昇格
   京城出張所     明治二十年十月   明治三十六年二月支店ニ昇格
                       同三十九年五月韓国総支店トナル
   木浦出張所     明治三十年十月
   鎮南浦出張所    明治三十六年二月
   群山出張所     明治三十六年二月
   平壌出張所     明治三十七年三月  明治三十八年四月支店ニ昇格
   大邱出張所     明治三十八年四月
   城津出張所     明治三十八年六月
   安東県出張所    明治三十八年六月
   開城出張所     明治三十八年七月
   咸興出張所     明治三十九年二月
   馬山出張所     明治三十九年二月
   鏡城出張所     明治四十年四月

   ○韓国銀行設立ニ際シ明治四十三年二月京城釜山両支店ノミヲ存シテ一般銀行業務ヲ営ミ、他ノ支店出張所ヲ閉鎖シソノ業務ヲ韓国銀行ニ譲渡セリ。