デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

6章 対外事業
1節 韓国
3款 京仁鉄道合資会社
■綱文

第16巻 p.542-546(DK160086k) ページ画像

明治31年5月3日(1898年)

是ヨリ先栄一、夫人同伴東京ヲ発シテ二日仁川ニ着シ、是日京仁鉄道線路ヲ視察シ京城ニ入ル。


■資料

竜門雑誌 第一二一号・第二八―三一頁 明治三一年六月 ○京城に於ける渋沢氏(在京城蟻生十郎君)(DK160086k-0001)
第16巻 p.542-545 ページ画像

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銀行通信録 第一五二号・第一〇一〇―一〇一二頁 明治三一年七月 韓国見聞談(第二回の演説)(DK160086k-0002)
第16巻 p.545 ページ画像

銀行通信録  第一五二号・第一〇一〇―一〇一二頁 明治三一年七月
    韓国見聞談(第二回の演説)
○上略
○京仁鉄道 は殆んど落成せんとす、余は仁川より京城への旅行に於ては輿に乗り、一行十数人程なりき、韓人は肩の力甚だ弱けれども、物を背負ふ力に於ては、頗る強壮にして、荷物は皆背にて運搬するなり、余が京城に至る迄の間は都て鉄道線路に沿ふて進行せり、其中にて工事の最も困難なる所は漢江の架橋工事なり、漢江の源は何処より発せるやを知らざれども、鉄道の敷設橋梁の架設に困難なる箇所と云ふは、河原一面に小砂利ありて一里余に連続せり、是を以て見れば該河は時々汎濫するものと知るべし、漢江の鉄道橋梁は鷺梁津といふ処に架設する都合なり、橋を渡りて竜山といふ所に至る、夫より三哩許にて京城に達するなり、鉄道工事未だ充分に竣功せざれども、漢江の橋梁を除く時は、概ね出来せりといふべし、軌道はスタンダートゲージの方式を採用せるものにして、日本には未だ見ざる所の広軌鉄道なり
○下略
  ○右ハ明治三十一年六月十五日両国亀清楼ニ於ケル東京交換所組合銀行有志者招待会ニ於ケル栄一ノ演説速記ノ一部ナリ。

 - 第16巻 p.546 -ページ画像 

渋沢栄一書翰 阪谷芳郎宛(明治三一年)五月八日(DK160086k-0003)
第16巻 p.546 ページ画像

渋沢栄一書翰  阪谷芳郎宛(明治三一年)五月八日   (阪谷男爵家所蔵)
○上略
京仁鉄道之組合ニ国王を加入せしむる事ハ尤以妙案と存候、但其出資金ハ到底日本より之貸付金を振換位ニ無之而ハ致方有之間敷候得共、夫ニても将来両国之為を謀候時ハ、右様相成候ハヽ無此上事と存候間、内々加藤公使へ相談仕候処、同公使も同意ニて、何か機会有之候ハヽ手段を以て成功候様尽力可致と申居候、乍去右等之事ハ老生今日打附ニ政府又ハ宮内府之役人抔ニ申出候も如何ニ付、詰り向後公使之心配ニ依頼候方と存し、其辺ニ打合置申候
○中略
  五月八日
                       渋沢栄一
    阪谷芳郎殿


渋沢栄一書翰 八十島親徳宛(明治三一年)五月一三日(DK160086k-0004)
第16巻 p.546 ページ画像

渋沢栄一書翰 八十島親徳宛(明治三一年)五月一三日   (八十島親義氏所蔵)
○上略
益田・爪生より例之書面ニ付指令延引候得共、伊藤総理面会之模様ニてハ心配無之と存候云々来電有之候、是も回電ハ致候得共、益田氏へ宜敷申入可被下候、且此度鉄道之義ニ付而ハ実地も充分研究し、公使とも篤と引合致し、将来工事上及営業上ニも種々見込相立置候間、帰京後可申上と御伝可被下候、既ニ今日もコールブランと引合、漢江橋梁之義及各停車場之事共談判之積ニ御坐候
○中略
  五月十三日
                       渋沢栄一
    八十島親徳殿
  ○仁川ヨリノ発状。


渋沢栄一書翰 八十島親徳宛(明治三一年)五月一九日(DK160086k-0005)
第16巻 p.546 ページ画像

渋沢栄一書翰 八十島親徳宛(明治三一年)五月一九日   (八十島親義氏所蔵)
○上略 京仁鉄道資金ニ関する願書ニ指令之事ハ未タ下付無之候得共、伊藤総理より安心せよとの内示有之候云々過日電報ニて承知いたし候
○中略
  五月十九日長崎ニ於て
                       渋沢栄一
    八十島親徳殿