デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

6章 対外事業
2節 支那・満州
3款 日清銀行設立問題
■綱文

第16巻 p.684-686(DK160114k) ページ画像

明治32年(1899年)

是年及ビ爾後一・二年、栄一日清銀行設立ニツキ岩崎弥之助・犬養毅・伊藤博文・松方正義等ト談合スル所アリ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三二年(DK160114k-0001)
第16巻 p.684 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治三二年        (渋沢子爵家所蔵)
四月二十二日 曇小雨
○上略午後一時岩崎弥之助氏ヲ駒込別邸ニ訪ヒ清国ニ銀行創立ノ件、及滊車製造合資会社ノ件ヲ話ス○下略
   ○中略。
十月廿五日 晴
○上略○午前犬養毅氏来ル、清国銀行ノ事ヲ話ス○下略
   ○中略。
十一月一日 雨
○上略午後三時霊南坂伊藤侯爵ヲ訪フテ日清銀行ノ事ヲ内話ス○下略


渋沢栄一 日記 明治三三年(DK160114k-0002)
第16巻 p.684 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治三三年        (渋沢子爵家所蔵)
二月十三日 曇
○上略
此日午前清国商麦少彭・梁子剛・潭笙伯・林北泉及柏原文太郎ノ諸氏来ル、日清銀行設立ノ事ヲ談ス
   ○中略。
二月十七日 曇
○上略午後五時益田氏ト共ニ松方伯ヲ永田町官舎ニ訪ヒ、日清銀行ノ事ヲ談話ス○下略


渋沢栄一 日記 明治三四年(DK160114k-0003)
第16巻 p.684 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治三四年        (渋沢子爵家所蔵)
七月九日 曇
○上略午前九時曾禰大蔵大臣ヲ官舎ニ訪ヒ。○中略日清銀行設立ニ関スル昨年来ノ経過ヲ談話ス○下略



〔参考〕竜門雑誌 第一二〇号・第一一―一三頁 明治三一年五月 ◎清国中央銀行設立に就て(田口卯吉君)(DK160114k-0004)
第16巻 p.684-686 ページ画像

竜門雑誌 第一二〇号・第一一―一三頁 明治三一年五月
    ◎清国中央銀行設立に就て(田口卯吉君)
 本編は竜門社春季総集会に於て田口君か選挙法の改正に就て演説せられたる序に発表せられたる意見にして特に項を分ち題目を掲げ読者に便ならしめたるまでにして敢て他意あるにあらず依て附記す
支那のことに関係致しまして会員諸君の御攻究を請ふのみならず、殊に渋沢先生には今度朝鮮に行かれると云ふことでございますから、尚更御考を請ひたいと思ひますが、支那の今日の有様は実に憐なることで○中略もう少し自分で以て事の出来るやうに、諸外国から侮られない
 - 第16巻 p.685 -ページ画像 
やうにしてやらねば、見るに見兼ねるのみならず日本も心細いと云ふ有様であらうと思ふ、それに就きまして種々方法があらうかと思ひますが、第一の欠点は私は支那に於て此中央銀行のないと云ふことが不都合であらうと思ふ、で支那人と云ふものは日本人とは違つて中々勤倹……金を溜めることが上手である、左れば一個人としては支那人は確に日本人より富んで居ると思ふ、上海辺の利息相場を見ても倫敦とさう変らない、日本抔よりは余程安いと云ふことであるから支那には必ず金がありませう、けれども国家万一の場合には日本では二億万円も公債を募れるが支那に於ては内債も募れないと云ふことは何であるか、之を募る機関が備つて居らぬ為めであらうと思ふ、若し此支那へ持つて行つて日本銀行のやうな中央銀行を立てましたならば、私は直ちに大なる公債今までの公債位は無利息の公債とすることが出来るのみならず、尚ほ将来に、公債を募る力を養ふことが出来るだらうと思ふ、何故なれは一寸簡単に御話して見ますと日本の人口は今日では四千万と見まして、而して兌換券の流通高はどの位あるかと云ふと殆と二億万円に近い、けれども是は適当なる流通とは見ないから凡そ一億六千万円位を適当なる流通高と見ますれば、日本に於て兌換券の流通高は凡そ一人に就て四円位の割になると思ふ、是は将来貿易の発達と共に発達致しませうが今日は其位あらうと思ふ、支那には人口三億八千万ある、若し支那に於て兌換券を発行する一の中央銀行がございましたならば、其割りにすれば十五億万円位の兌換券の流通が出来るです、俄にさうは行かぬかも知れないけれども、割合はさうなる、試みに十五億万円の兌換券が、支那に於て通用すると云ふ訳になつたならば、今日は一も兌換券の如きものはなく国内洽く通する通貨のない国でありますから、兌換券が流通するならば支那の商売を利益するのみならず、十五億万円の兌換券が流通する場合になりましたならば、其半額は正貨準備にしても半額の七億五千万円の保証準備と云ふものが出来るので、七億五千万円の保証準備をどう使ふか知れないが、公債を買て置くとしますれば政府が公債を処分することが出来る、此取る所の利息は中央銀行が取ること日本銀行の如くするか、或は国家が之を取つて中央政府の歳入を利益するにしましても、七億五千万円の金と云ふものは無利息になるとか或は軽い利息で出来ると云ふことは大なる力であらうと思ふ、で今日の支那の改良と云ふことは種々ございませうが財政上に於きまして先つ第一に行ふへきもの即ち行はざるへからざるものは中央銀行の設立で、中央銀行を設立して此国の財政を救ふのか第一の策じやないかと思ふ、若し此点が御同意でございますならば、どうか此事を実行せしむるやうに、御尽力を請ひたい考である、支那は今までは尊大の国でございましたけれど此頃は尊大ではない、日本に求めて居ると云ふ容子で先頃支那の上海に於て事務報と云ふ雑誌を出して居る人で、王康年と云ふ人と曾紀沢の息子の曾広詮と云ふ人が日本に参りまして、日本の新聞の日々の発行の仕方を見に来ました、そうして私共へ参つてそれから新聞社や何かに紹介をしてやりましたが、此人を経済学協会に呼ひまして種々の話を聞きましたときに、此人の言ふに経済と云ふのはどう云ふ訳であると言ひますから
 - 第16巻 p.686 -ページ画像 
斯う々々云ふ事柄が経済であると言ふと、其人がソレは経済とは言いない、支那で云へば富国と云ふ字だと言つて少し不同意な容子でございましたが、此頃上海に帰つて向ふても経済協会と云ふものを立てたさうでございます、此事は岸田吟香氏の話でございますから事実であらうと思ふですが、経済と云ふ字は不都合かも知らぬが今日は経済と云ふ字を支那人も日本の真似をして使ふやうになつて来た、加之二三日前の日本新聞を見ると、王康年が何か議論をして居る、其中にも日本のことを褒めて、経済其他何々と云つて、経済と云ふ字を使つて居る、ですから今日は確かに経済と云ふ字を使ふやうになつて来た、斯う云ふ風に支那人は今日本に求めて万事日本の真似をして其国を強くしたいと云ふことに余程熱心して居る容子でございますから、今日本に於て有力なる人々が忠告をし親切に計画でも定めてやりましたならば、支那に於て中央銀行を設立するやうなことになり、さう日本に御厄介を掛けないやうな国になりはしないかと思ひます所から、一応此事を発議致しまして諸君の教を請ひたいと思ひます



〔参考〕竜門雑誌 第一二九号・第三四頁 明治三二年二月 △日清銀行(DK160114k-0005)
第16巻 p.686 ページ画像

竜門雑誌 第一二九号・第三四頁 明治三二年二月
△日清銀行 大日本綿糸紡績聯合会は今春大に日清金融機関設備の必要を説き日清銀行設立の計画を立て、益田孝・安田善次郎両氏の如きも熱心なる設立論者にて台湾銀行の組織を拡張し資本を千万円とし、本店を東京に置き支店を台湾・香港及支那沿岸に開設するの案を台湾銀行創立委員会に披露せし由なれど衆議の容るゝ所とならす、左りとて今日の場合新に日清銀行を組織することは難事なるを以て当分は再び経済界の問題に上らざるべしとなり



〔参考〕竜門雑誌 第一七四号・第六九頁 明治三五年一一月 ○日清銀行法案(DK160114k-0006)
第16巻 p.686 ページ画像

竜門雑誌 第一七四号・第六九頁 明治三五年一一月
○日清銀行法案 政府が此議会に提出せんとする日清銀行設立法案は其資本金を一千万円とし、而して政府は其三分の一の株を引受くるか或は三百五十万円を限り無利子にて貸下ぐるかして之を補助し普通銀行事務及為替事務の外は主として紡績・鉱山及鉄道に放資せしめんとするに在り、尚政府は本年の議会に追加予算を以て創立費及右の補助費を支出する筈なりと云ふ



〔参考〕竜門雑誌 第一八六号・第三二頁 明治三六年一一月 ○日清銀行法案(DK160114k-0007)
第16巻 p.686 ページ画像

竜門雑誌 第一八六号・第三二頁 明治三六年一一月
○日清銀行法案 同銀行法案は再び今期の議会に堤出せらるゝことに決定せられ居る由なるが、前提出案に比すれば多少改正せられ居り、又政府持株に対する財源には、前回同様前年度繰入金を以て充つることゝなり居れりと伝ふ
   ○「索引政治経済大年表」(東洋経済研究所編)ニヨレバ設立議案ノ提出日及ビ其後ノ在留邦人ノ陳情及ビ経過左ノ如シ。
    明治三五年一二月一三日。政府、日清銀行設立案を議会提出。
    明治三六年一二月二三日。天津商談会(在留邦人実業家団体)日清銀行設立促進方陳情。
    明治三九年三月三日。根津嘉一郎等、日清銀行設立建議案ヲ衆議院ヘ提出。(一三日否決)