デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.14

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

7章 経済団体及ビ民間諸会
1節 商業会議所
1款 東京商法会議所
■綱文

第17巻 p.5-19(DK170001k) ページ画像

明治10年12月27日(1877年)

是ヨリ先内務卿伊藤博文@大蔵卿大隈重信東京府下ニ商工業者団体ノ無キヲ憂ヒ栄一等ニ商法会議所ノ設立ヲ勧誘ス。是ニ於テ栄一、益田孝・福地源一郎・大倉喜八郎等ト共ニ東京商法会議所ヲ設立セントシ、是日其旨ヲ東京府知事楠本正隆ニ請願ス。十一年三月十二日認可セラル。


■資料

回議録 第七類 商法会議所(DK170001k-0001)
第17巻 p.5 ページ画像

回議録  第七類 商法会議所       (東京府文庫所蔵)
    商法会議所設立之儀願書
商法ヲ講シ商則ヲ議シテ一般通商上ノ成規慣法ヲ改良タラシメ、又新案ヲ設ケテ更ニ其便益ヲ増ス事ヲ謀ルハ、方今官府ニ於テ孜々御経理アラセラルヽト雖モ、倩ラ之ヲ実際ニ観察スルニ其規画ノ当時ニ適スルヲ得ルニ非レハ従令千百ノ思考ヲ尽シテ燦然不欠ノ法則ヲ編成スルモ之ヲ実施スルニ当テハ、却テ人情ト背馳シテ終ニ充分ノ効ヲ奏スルニ至ラサルノ類古今其例少ナカラサル事ニテ、苟モ此弊ナカラシメント欲セハ、須ラク厥始ニ於テ普ク諮ヒ広ク詢リテ能ク其精キ者ヲシテ其説ヲ尽サシメ、而シテ後之ヲ稠衆ノ輿論ニ採リテ更ニ補綴シテ其法ヲ組成スルニ如カス、是乃チ欧米各国ニ於テ多ク商法会議所ノ設ケアル所以ニシテ、而シテ一旦其設立ヲ得ルニ於テハ特リ会同諸員ノ各其経業ニ付テ友誼ヲ厚フシ、意向ヲ同フスルノ益アルノミナラス共ニ全般ノ公利ヲ保護シ、或ハ新報ヲ賡酬シ、或ハ紛議ヲ仲裁スル等其世益ヲ稗補スル事実ニ少々タラサルニ付、私共爰ニ相発起シテ東京府下ニ於テ此商法会議所設立仕度奉存候間、御准允被成下度候、因テ別紙設立見込書相添此段奉願候也
  明治十年十二月二十七日        米倉一平
                     竹中邦香
                     渋沢喜作
                     不在ニ付代印 渋沢栄一
                     大倉喜八郎
                     三野村利助
                     福地源一郎
                     益田孝
                     渋沢栄一
    東京府知事 楠本正隆殿
 - 第17巻 p.6 -ページ画像 

東京商法会議所官衙諸達並上申書綴 一(DK170001k-0002)
第17巻 p.6-8 ページ画像

東京商法会議所官衙諸達並上申書綴 一
                   (東京商工会議所所蔵)
  商法会議所設立見込書
    第一款 社員撰挙之事
商法会議所ノ社員タラン者ハ、差向キ三十名ヨリ五十名迄ヲ発起人ヨリ勧誘シテ入社セシムヘシ
既ニ設立ノ後又ハ設立ノ際ニテモ入社ヲ望ム者アラハ、社員一同ノ衆議ヲ以テ規則ニ照ラシ之ヲ拒ミ又ハ之ヲ許スヘシ、而シテ此社員ニハ敢テ定員ヲ設ケサル可シ
社員タル事ヲ許可スヘキ人員ハ東京府下ニ在住シテ本籍又ハ寄留ニテモ現ニ商業ヲ営ミ、且相応ノ家産ヲ有スル者ニ限ルヘシ、若シ騙瞞又ハ坐臓ノ刑ニ処セラレ、或ハ身代限リノ処分ヲ受ケタル者、及ヒ二十歳未満ノ者ハ敢テ社員ノ衆議ヲ取ル迄モナク之ヲ拒ム可シ
此入社員ハ衆議ニテ除名セラルヽカ、又ハ自分ノ都合ニテ退社スルノ外ハ別ニ年限ヲ定ムル事ナク、永ク社員タルヲ得ヘシ、但シ社員中役員ニ撰任セラルヽ者ハ其規則ニ従テ年限ヲ定ム可シ
此社員タルモノ及役員タル者ヘハ、其証トシテ会議所ニ於テ定メタル書躰ニ従テ辞令ヲ渡スヘシ
    第二款 役員撰任之事
商法会議所ノ役員ハ社員一同ノ投票ヲ以テ総社員中ヨリ撰挙スヘシ、而シテ其会頭又ハ副会頭又ハ理事委員トナリタル人ニテモ会議ニ於テハ一人丈ケノ権利タルヘシ
役員ト称スル者ハ、理事本員・理事委員ノ二様タルヘシ、而シテ会計方・書記・翻訳者・筆生ノ如キハ会頭ノ考案ヲ以テ之ヲ社員中又ハ社外ノ人ヨリ撰任スヘシ
社員中ヨリ撰挙サレタル会計方又ハ書記ハ其管理ノ事務ニ付テハ会頭ノ指揮ヲ受クルト云トモ、衆議投票ノ時ハ社員タルノ権利ヲ有スヘシ
        理事本員
      会頭    一名
       定式・臨時会議ノ議長トナリ会議所一般ノ普通雑務ヲ調理シ及其責ニ任ス、且会計方・書記其他ノ者ノ事務ヲ進退スルヲ掌ル
      第一副会頭  一名
      第二副会頭  一名
       会頭ノ事務ヲ補翼シ且其欠席ノ時ハ議長ノ任ヲ代理スルヲ得ル
        会計方  一名 会頭副会頭ノ指揮ニ従テ会議所ノ簿記計算及出納事務ヲ掌ル
        書記   二名 会頭副会頭又ハ各課委員会長ノ指揮ニ従テ諸方案ヲ調査シ及記録ノ事ヲ掌ル
        翻訳方  一名 会頭副会頭又ハ各課委員会長ノ指揮ニ従テ諸翻訳及洋文ノ事ヲ掌ル
        筆生   二名 会頭副会頭又ハ各課委員会長ノ指揮ニ従テ諸文書浄写ノ事ヲ掌ル
      以上
        理事委員
      仲裁控訴委員  五名
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        内会長 一名 此委員中ノ投票ヲ以テ撰任スヘシ
       社員中又ハ社員ト他ノモノトノ間ニ起リタル紛議ヲ和解仲裁シ、及会議所ノ名ヲ以テ控訴ヲ起スコトアレハ之ヲ管理スルヲ掌ル
     此委員ハ理事本員タル会頭・第一副会頭・第二副会頭ノ三名及社員ノ投票ヲ以テ社員中ヨリ二名ヲ撰挙シテ成立スルモノトス
      内国商業事務委員  五名
        内会長 一名 此委員中ノ投票ヲ以テ撰任スヘシ
       内国ノ商業ニ関スル一切ノ事務ヲ調査スル事ヲ掌トル
     此委員ハ社員一同ノ投票ヲ以テ社員中ヨリ撰挙シテ成立スルモノトス
      外国貿易事務委員  五名
        内会長 一名 此委員中ノ投票ヲ以テ撰任スヘシ
       外国貿易ニ関スル一切ノ事務ヲ調査スルコトヲ掌ル
     此委員ノ成立スル手続モ内国商業事務委員ニ同シ
      運輸及船舶事務委員  五名
        内会長 一名 此委員中ノ投票ヲ以テ撰任スヘシ
       運送及舟車ニ関スル一切ノ事務ヲ調査スル事ヲ掌トル
     此委員ノ成立スル手続モ内国商業事務委員ニ同シ
会頭・副会頭及各課委員ノ会長ハ社員中ノ投票ニヨリテハ一名ニシテ三課迄ハ兼摂スルヲ得ヘシ
以上理事本員一課、理事委員三課トス、追テ其分課ヲ増サンコトヲ要スル時ハ社員ノ衆議ヲ以テ之ヲ決定スヘシ
    第三款 社員集会議事之事
此議場ニ於テ議事ニ附スルモノハ都テ一般ノ商事ニ関スル要務ニ限ルヘシ、議目ハ諸官衙ヨリ下附セラルヽモノ又ハ社員中ヨリ建案スルモノ又ハ社外一般ノ人民ヨリ建白スルモノニ限ルヘシ、而シテ社外人ヨリ建白スルモノハ其議スルト議セサルハ社員ノ投票ヲ以テ之ヲ定メ、且之ヲ議スルモノト決スルモ全ク此議場ヨリ起リシ説ト同視シテ建白人ニハ関係セサルヘシ
会議ハ定式・臨時ノ二様ニ分チ、定式会議ハ毎月一度第□ノ□曜日ヲ以テ会場出席スヘシ、又臨時会議ハ会頭ノ考案ニヨルカ或ハ社員十名以上ノ望ニヨリテハ何時ニテモ之ヲ開ク可シ
総社員中十分ノ三以上出席セサレハ(会頭副会頭ヲモ合セテ)会議ヲ開ク可ラス、故ニ定式・臨時ノ会議ニ当リ出席人員其限員ニ減スレハ其会ヲ延スヘシ
定式・臨時共ニ会同シテ事ヲ議スルハ左ノ手続ヲ以テスヘシ
    定式会議
     第一 通常事務ヲ書記ヨリ読上ル事
     第二 入社退社人ノ事ヲ会頭ヨリ報告シ、及其決議投票ノ事
     第三 理事本員ヨリ事務ノ成跡ヲ陳述スル事
     第四 理事本員ヨリ未済新規ノ議事ヲ催ス事
 - 第17巻 p.8 -ページ画像 
     第五 各課ノ委員(会長自ラスルトモ)ヨリ其調査シタル事務ヲ陳述シ及其決議ヲ要スル事
    臨時会議
     臨時会議ハ之ヲ開クノ前ニ何件ヲ議スル為メ開場スルコトヲ通達スヘキニ付、其件ヲ限リテ之ヲ議決シ他ノ定式会議ニ要スルコトヲ議ス可ラス
議場ノ躰裁、議事ノ順序ハ別ニ其規則ヲ設立ス可シ
    第四款 諸官衙交渉之事
此会議所ハ東京府ノ管轄タルヘシ、而シテ其議事ニ於テハ其管渉ノ諸官庁ニ対シテ具申復牒スヘシ
故ニ其議目ニヨリテハ外務省・内務省・大蔵省・司法省・警視庁ノ各衙ヘハ直接ニ諸般ノ稟請又ハ復牒スル事アル可シ
諸官衙ヨリ議目ヲ下附セラルヽニハ其議事ノ緩急秩序ヲ斟酌セラレ及決議上申ノ後其事項採用ノ有無等ヲ明示セラルヘキ事ヲ書面ニテ稟請シ、其明示ヲ乞ヒ置ヘシ、議場ノ都合ニヨリ議決各件ノ内建白スヘキ件アレバ随時各官衙ニ之ヲ建議申請スル事ヲ得ヘシ
諸官衙ヨリ下付セラルヘキ議目ニ付テ要用ノ事アレハ其官衙内又ハ其外ニテモ右議事ニ於テ要用ナル諸件ノ調査ヲ乞ヒ、或ハ調査ノ為メ会議所書記等ヲシテ稟候セシメ、又ハ当任ノ官員ヲシテ此議場ニ臨ミ弁解ヲ乞フ事ヲ得ヘシ
以上四款ハ此商法会議所ヲ設立スルニ於テ発起人共ノ企望スル要点ニ候間、此要旨御採納アリテ其設立ヲ御許可被下候ハヽ速カニ同志ヲ募リ更ニ商法会議所一般ノ規則及議場ノ規程等ヲ調査シテ上申可仕候也
  明治十年十二月二十七日
                     米倉一平
                     竹中邦香
                     渋沢喜作
                     不在ニ付代印 渋沢栄一
                     大倉喜八郎
                     三野村利助
                     福地源一郎
                     益田孝
                     渋沢栄一
    東京府知事 楠本正隆殿


回議録 第七類 商法会議所(DK170001k-0003)
第17巻 p.8-9 ページ画像

回議録  第七類 商法会議所       (東京府文庫所蔵)
第三万三千七百九十四号《(太字ハ朱書)》
    商法会議所設立之儀ニ付上申
於府下商法会議所設立之儀府下平民渋沢栄一外七名より別紙見込書ヲ添願出候処、右会議所之儀ハ専ラ商業上必要之儀ニテ実際貿易互市ノ便宜ト相成、弥成立之上ニハ其功効モ不少儀ト存候間、追々拡張ノ積リヲ以テ設置可聞届ト存候処、新規創立之儀ニ付一応及上申候条何分之御指揮有之度候也
  明治十年十二月廿七日   東京府知事 楠本正隆
 - 第17巻 p.9 -ページ画像 
    内務卿 大久保利通殿
願之趣聞置候条商業上ノ景況並其利害得失等時々当省及ヒ大蔵省ヘ具申報告候義ト可相心得候事
 但設立見込書第二款中仲裁委員及第四款連項ハ総テ刪去シ、該会議所設立ノ上規則決定スレバ更ニ之ヲ其府ニ為届出可申事
  明治十一年三月九日           内務卿 大久保利通


東京商法会議所官衙諸達並上申書綴 一(DK170001k-0004)
第17巻 p.9 ページ画像

東京商法会議所官衙諸達並上申書綴 一
                   (東京商工会議所所蔵)
第五千六十五号《(太字ハ朱書)》
願之趣聞置候条商業上之景況並其利害得失等時々可届出内務大蔵両省ヘモ具申候様相心得可申事
 但別紙見込書第二款中仲裁委員及第四款連項ハ総テ刪去シ、設立ノ上規則決定候ハヽ更ニ可届出事
  明治十一年三月十二日        東京府知事 楠本正隆


東京商法会議所官衙諸達並上申書綴 一(DK170001k-0005)
第17巻 p.9-10 ページ画像

東京商法会議所官衙諸達並上申書綴 一
                   (東京商工会議所所蔵)
    商法会議所設立見込書之議ニ付再申
商法会議所創立之儀ハ既ニ御許可ヲ蒙リ候処、其設立見込書中第二款中仲裁控訴委員ノ件及第四款連項ハ総テ刪去候様御指令相成候ニ付テハ、左ニ掲載候三項ハ更ニ御承認被成下度候
 第一商業上ノ景況及利害得失ニ関シ内務省大蔵省ヨリ御下問之答議並ニ議場ヨリ建議之件々ハ直チニ御両省ヘ具申シ、且正副議長又ハ議員ハ時々御両省ニ抵リ其主管ノ人ニ稟問スルヲ得ヘキ事
 第二議場ニ於テ決定セシ事項具申ノ後、其採用ノ有無挙止ノ理由等ハ、此議場ヨリ御両省ニ向テ明示ヲ乞フ事ヲ得可キ事
 第三右議事ニ要用ナル行政事務ノ取調ハ御両省ノ主管ニ帰スルト否ラサルトヲ問ハス都テ調理ヲ乞フ事ヲ得ヘキ事
右之通御聞届被下度此段再申仕候也
  明治十一年三月廿七日         米倉一平
                     竹中邦香
                     渋沢喜作
                     大倉喜八郎
                     三野村利助
                     福地源一郎
                     益田孝
                     渋沢栄一
    東京府知事 楠本正隆殿

    商法会議所設立見込書之儀ニ付再申
商法会議所設立之儀ハ既ニ御許可ヲ蒙リ候ニ付早々議員之撰挙ヲ遂ケ開議之手続相運候様仕度候処、右設立見込書中第四款連項ハ総テ刪去候様御指令相成候ニ付テハ、商業上之形況及利害得失等内務大蔵御両省ヘ申上度候節ハ正副会頭ハ時々御両省ニ抵リ直ニ具申候様仕度、且
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又右議事ニ関シ候諸取調物等有之候ハヽ御両省ヘ相願御調理被下候様仕度奉存候間、兼而御聞置被下度此段再申仕候也
  明治十一年五月廿一日         米倉一平
                     竹中邦香
                     渋沢喜作
                     大倉喜八郎
                     旅行中ニ付代 益田孝
                     福地源一郎
                     益田孝
                     三野村利助
                     渋沢栄一
    東京府知事 楠本正隆殿
第二万九百七十二号《(太字ハ朱書)》
書面之趣聞届候事
 但前上申之分ハ下届候事
  明治十一年六月十四日        東京府知事 楠本正隆


東京日日新聞 第一八七七号 明治一一年三月九日 【今度渋沢栄一・益田孝…】(DK170001k-0006)
第17巻 p.10 ページ画像

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渋沢栄一書翰 五代友厚・広瀬宰平宛 明治一一年七月九日(DK170001k-0007)
第17巻 p.10 ページ画像

渋沢栄一書翰  五代友厚・広瀬宰平宛 明治一一年七月九日
                   (大阪株式取引所所蔵)
  明治十一年七月九日
○上略
商法会議所之事も速ニ御着手之由、幸勧商局長も御滞在ニて御便宜と奉存候、当方も近々該場新築落成ニ付、初集会相催し候積ニ候間是又後来時々御往復申上候心得ニ候
○中略
                     渋沢栄一渋沢《(朱印)》
    五代友厚様
    広瀬宰平様


五代友厚 広瀬宰平書翰案 渋沢栄一宛 明治一一年七月一七日(DK170001k-0008)
第17巻 p.10-11 ページ画像

五代友厚 広瀬宰平書翰案 渋沢栄一宛 明治一一年七月一七日(大阪株式取引所所蔵)
○上略
一商法会議所之儀ハ幸ヒ川瀬君御阪中ニ付打合セ願書差出シ候迄相運ヒ候、御安心可下候
 - 第17巻 p.11 -ページ画像 
○中略
                      (五代友厚)
  十一年七月十七日
    (渋沢栄一)            (広瀬宰平)


商法会議所要覧 天野皎著 豊島住作校 第一―六丁 明治一三年刊(DK170001k-0009)
第17巻 p.11-12 ページ画像

商法会議所要覧 天野皎著 豊島住作校 第一―六丁 明治一三年刊
    第一章 総論
商法会議所トハ英語ニ「チアンブル、オフ、コンメルス」又「ボールド、オフ、トレード」ト云フ商工人ノ会集ニシテ其会員ノ利益ヲ議シ其都市ノ便宜ヲ図リ、而シテ其都市会員ノ営業商売ニ普及スルノ利便ヲ振起セシムルカ為同志ノ者相会スル所ノ一社ヲ謂フ、今其会例ヲ略挙スルニ、第一営業ニ関スル意見ヲ立法官ニ申告スル事、第二営業ニ関スル法案ヲ草スル事、第三商事ノ統計ヲ為ス事第四商業上ノ争論ヲ仲裁スル事、第五一人一己ニテ企ツ可カラサル事業ハ聯合ノ力ヲ以テ之ヲ達スル事、是レ蓋シ欧洲大陸ニ始マリ@ク各邦ニ施及セシ商法会議所一般ノ原則ナリ
商法会議所ノ創始セシ年代ヲ案スルニ、今ヲ去ル大凡六百年前仏蘭西馬耳塞《マルセール》ニ基立セシモノヲ以テ最古トス、此会議所ニハ市府官理・商事裁判ノ二権ヲ附与セリ、然レトモ其廃立常ナク降テ二百三十年前迄ハ定リタル権限職制等アル事ナシ、又西暦千七百一年(我元禄十四年)仏蘭西「ダンケルク」ニ設立セシモノアリ、是レヲ仏蘭西第二ノ会議所トス、是年商業総会ヲ仏都巴理ニ置ク、会僚六人ヲ挙テ主任トナシ別ニ全国中繁盛ノ都会ヨリ十二名ノ商人ヲ選挙シ又会僚トナシテ之ニ参セシム、是ヨリ一二年ヲ閲テ此制ニ傚フテ各所ニ輩立スルモノアリ即チ里昂《リオン》ノ会議所ハ千七百三年(元禄十六年)ニ、「ロオーン」及「トウロース」ノ会議所ハ千七百四年(宝永元年)ニ、「モントヘルリヤル」ハ千七百五年(宝永二年)ニ、「ボルドー」ハ千七百六年(宝永三年)ニ設置シ、爾後年々増立シテ千七百七十年(明和七年)ニハ四十八个所ノ多キニ至レリ
大不列顛ニ於テハ千七百八十四年(天明四年)「グラスゴー」ニ創立セシモノヲ以テ最古トス、千七百八十六年(天明六年)「イデインバラ」ニ設立セシモノハ初メニ米穀律ヲ廃シ自由貿易ヲ主張シ「スエス」ノ堀割ヲ企テタル著名ノ会議所ナリ、其会員ハ銀行主商人船主等合セテ六百人、千八百二十一年(文政四年)「マンチエストル」ニ特立シタル会議所ハ大ニ自由貿易主義ヲ拡張シ、千八百三十八年(天保九年)ニ至テ其会員四百人ニ上レリ、同年又「ハール」ニ一会ヲ立テタリ「リバフール」「リーズ」及「ブラツトホルト」ノ如キハ皆貿易製造ノ大都ナリト雖モ輓近ニ至ル迄会議ノ設ナカリシニ、千八百五十一年(嘉永四年)一時ニ各都ニ起リ、其「リパブール」ノ会員ハ六百人ニ充チ其歳入ノ金高大約四千円、「マンチエストル」ニテハ各会員ヨリ出ス所ノ金員一ケ年大約五円、其歳入総高三千円ニ至ルト云フ
亜米利加合衆国ハ建国以来僅ニ百年ナレトモ各州各都必ス会議所ノ設アリ、而シテ千八百六十九年(明治二年)通国商法会議所ヲ費拉的費亜《ヒラデルヒヤ》ニ開設シ、大ニ各地ノ代議人ヲ会セリ、其憲法ノ如キハ下条ニ詳カナリ
東洋諸方ニ於テモ通商互市ノ港及泰西人移殖ノ地ニハ亦皆商法会議所
 - 第17巻 p.12 -ページ画像 
アリ、清国上海等ノ地ニハ清人ノ会館ト云フモノアリ、同業ノ人同郷ノ人随時相会シ親問慰藉以テ交ヲ厚フシ商況ヲ談シ価値ヲ較シ以テ売買ノ便ヲ通ス、是亦一種ノ会議所ナリ
我商法会議所ハ明治十一年東京ニ大坂ニ創設シ、明治十二年大ニ外交条約改正ノ議ヲ立テ其意見ヲ政府ニ建言シ、開港以来外国人ノ為メニ抑圧セラレタル国権ヲ伸張セントス、嗟哉我国ノ商事ハ現行条約改正ノ道通シテ始テ進歩ノ遅速ヲ論スルモノニシテ、東京大坂二会議所ノ功蓋シ与テ力アリト謂フヘシ、是ニ於テカ相踵テ能ク起ルモノ五、曰ク堺商法会議所、曰ク長崎商法会議所、曰ク岡山商法会議所、曰ク山梨商法会議所、曰ク横浜商法会議所、今其巨臂ナルモノヽ体裁規則ヲ列叙シ、并テ欧米各国ノ会規ニ及ハントス、読者宜シク其権限ノ広狭ヲ視、事務ノ異同ヲ弁シ、而シテ宇内商勢ノ隆替ヲ察セヨ
    第二章 日本商法会議所
東京商法会議所ハ明治十年十二月廿六《(七)》日ヲ以テ其設立ヲ出願シ、十一年三月十二日許允ヲ得、次テ木挽町ニ会場ヲ新築ス、毎会印刷公布スル所「東京商法会議所要件録」アリ、大坂商法会議所ハ明治十一年八月廿七日ヲ以テ出願シ、許允ヲ得テ同年九月二日発会シテ、次テ会場ヲ高麗橋通四丁目ニ建築ス、毎会印刷スル所「大坂商法会議所議事日誌」アリ、又毎週「商法新報」毎日「商況調査日報」ヲ発刊ス


竜門雑誌 第四五一号・第一―五頁 大正一五年四月 商業会議所に就て(青淵先生)(DK170001k-0010)
第17巻 p.12-15 ページ画像

竜門雑誌  第四五一号・第一―五頁 大正一五年四月
    商業会議所に就て(青淵先生)
 東京商業会議所は又も問題を惹起して居るやうである。先日も指田さん、稲茂登さん其他数名の方々が見え、親戚の阪谷を会頭に推薦したから、其の就任方を勧めて呉れと云ふ話であつた。私は商業会議所とは今では疎遠であるから、之に付て彼是云ふべき筋合ではないが、然し同所の創立せられた明治十一年から同三十九年まで、二十八年間会頭を勤めたから、以前は深い関係があつたと云ふて差閊ない。さう云ふ事情にあるので、此処に東京商業会議所が如何に変遷して今日に到つたかに就て又之に関する私の感想を概略述べることにしやうと思ふ。
 抑も商業会議所は西洋諸国ではチエムバー・オブ・コムマースと称し商人団体の総代たる人々が会議し、会議の結果一致した意見を発表する機関として生れたのである。商業会議所は何時頃から創設せられたものか今よく記憶せぬが、兎に角重要な機関として相当古くから組織せられて居たのである。然るに日本では、明治の初年には政治上、議会の必要は説かれて居たが、商業会議所の方は未だ論ぜらるゝまでに到つて居なかつた。処が偶然東京商業会議所が創設せられるやうになつた。其事情は斯様である。
 当時の英国公使はシルパルヂー・パークスと云ふ親切であるが、然し一面意地の悪い人であつた。パークスは伊藤公や大隈侯などゝ親しく往来して居たが、当時は国権常道論が喧しく唱導せられた時分であつたから、大隈侯なども親密であつたオリエンタル・バンクに居たカーレルと云ふ人などによく英国に於ける外交のこと、商人のことなど
 - 第17巻 p.13 -ページ画像 
を聞き、色々の刺戟を受けて居たので、外務当局でない者も条約改正に関する議論をすると云ふやうな有様でパークス等とは其の正式交渉を為して居たのであつた。尚此オリエンタル・バンクは其後なくなつたが、彼の我国最初の鉄道たる東京横浜間の鉄道敷設に際して百万円を貸出した銀行である。
 私は銀行業者であつたけれど、前々からの関係で大隈侯とは常に親密に心安く往き来して居たが、明治十一年であつたかと思ふが、突然侯から商法会議所、今日の所謂商業会議所を作りたいと思ふがどうしたらよからうか、と相談があつた。恰度英米などにはチエムバー・オブ・コムマースと云ふものがあつて国家の法律に依らず、一般商人の申合せで団体組織を為して事実立派にやつて居るから、私は充分やれると答へたのである。すると愈々やるならば政府で年千円位の補助をすると云ふことであつた。何故斯くも至急に商法会議所の設立が必要となつたかと云ふに、条約改正に当つて、我国当局者が彼の英公使パークスに交渉して『輿論が許さないから改正されたい』と云つた処、『日本に輿論があるか、商人が申立てると云ふけれども何によつて云はるゝのか、日本に多数の集合協議する仕組がないではないか、個々銘々の違つた申出では輿論ではない』との意味で、却つて反駁して来た。言葉は違ふであらうが、さう云ふ意味で論戦したことゝ想像された。
 其処で条約改正に輿論が必要である、輿論を作る場所を形式的に作らうとし、玆に商法会議所の創設となつたのであつた。私は之に対し大いに力を入れ、益田孝・大倉喜八郎・渋沢喜作・小室信夫・福地源一郎・原六郎と云ふやうな人々廿五人を仲間としてこれを創設した。田中平八と云ふ人は『そんなものは嫌だ』と云つて相談しても入らなかつた。そしてこれは単に商人の申合せで規約を作り、云はゞ今日の振興会と云ふやうなものと同様の機関であつた。で英国の会議所を模範として、会頭・評議員などの役員を定め、主として税目のことなどを協議し、其の経費の徴収は規則で定めず、持寄りの寄附の形式とした。然し斯くして最初には会議所も必要らしかつたけれど、後には用がないものと云ふ風になり、政府の方でも、さして重要の機関として取扱ふことをしなくなつた。又参加して居る人が代つたり、商業の種類が片寄つて銀行業者などが多くなる傾向にあつたから、今一歩面目を改め工業家も加へなければならないとして、名称も東京商工会と変更し、商人及び工業家の組合とし、其の代表機関とすることにした。これは明治十七年頃で会議所創設六七年後であつた。そしてそれが明治二十三年商業会議所条例の現れるまで続いたのである。此の商業会議所条例は、例の五法を揃へた当時出来上つたもので、益田孝さんは『法律はない方がよい』と主張し、私も同様の意見を持つて居た。又英米でも全然法律に依つて居ないので、我が国でも任意のものとして置きたかつた。実は法律に依る選挙と云ふことには幾多の欠陥があるやうである。明治十四年府会の選挙でも面白くなかつたのであつた。然るに斎藤修一郎と云ふ人が農商務次官であつた時、各地に十幾つか出来て居た商業会議所へ『会議所の組織は任意がよいか、法律に依る
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がよいか』と諮問した。之に対し東京では直ちに『任意がよい』と答へたが、多数の地方会議所は『法律がよい』と申出でたので、遂に法律が出来上つたである、
 以上は商業会議所の過去の沿革を、極く簡単に述べたのに過ぎないが、時勢の進行に伴つて今日までに色々の変化をして来た。東京商業会議所の如き商法会議所として生れてから五十年にもなる程で其変遷は当然とも云へる。現状は余り面白くない問題を頻出して居る模様で褒めたことでもない。此間も商務官をして居る或る人が、私を訪ねて来た時、談たまたま商業会議所のことに及んだので、私が昔東京商工会組織当時のことを話した処
 『さうですか、さう云ふ相互的なものがあつたのですか、今日でもそれを行へばよい。どうもおしなべて議員と云ふ人達を見ても、昔の方が余程平均点が高いやうです。実際高い費用をかけ、手数を要して置きながら、議員の素質が悪くなるのでは困る。昔の任意で簡単な方が、複雑な現在よりよい人が出たとすれば、今日の組織は考へものであります』
などと海外の事情に詳しい此人は公平な見地から種々話して居た。指田会頭も苦しんで居るやうであるが、現状を見て露骨に云ふならば、一般に会議所に対して尊敬の念が薄い。私は現在議員である人々の善し悪しは云ひ度くないが、各人が自分達の会議所を本当の親切な心で愛し、誠意を以て事に当るならば、こんな風にはならぬであらうと思ふ。
 然し又会議所が斯様な結果になるのは、制度が然らしむる所もなしとは云へぬ。法律に依ることが商業会議所をして玆に到らしめる原因ではあるまいか。然し或は法律が全然なくてはやれないかも知れず法律があるから悪いと断定も出来ないけれども、私は東京商工会当時の任意のものゝ方が効果を挙げて居たと申したい。そして若し改革の積りで当時法律を適用したとすれば、其は非常な過で寧ろ改悪であつたから、思切つて昔に返すことも或は必要ではなからうかと考へる。
 益田孝さんは其時『法律を作ることは改悪になる、今に其の時機に到達するであらう』と予言して居たが、果して今日の状態になつた。私は当時のことを思ひ出して誠に感慨深いものがある。
 尚ほ私は現会頭の指田さんなどとは心安いので、情に於て気の毒に思ひ、此頃阪谷に起てと勧めるやうに頼まれたので、さう話して見たがどうしても阪谷が引受けぬ、其理由は
 『会頭となる以上片手間では何事も出来ない。或は全力を尽すとしても、純商人でなく役人上りであるから、なんの役人上りがと云はれるやうな点もあらう。而も今の処貴族院に席があり、其方に思ひ入れもある。従つて其方を辞して会頭の地位に就くことは自分の長所とまで行かずとも、慣れて居ることを放擲することになり、長所でない方へ赴く訳で、自己に不忠実な結果とならう。情からは応じたいが、自分を虐待することは出来ない。又双方やれるではないかと云ふかも知れないが、他人は知らず、自分には不可能なことである』
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とて全然断つて居る。私も頼まれた関係と、会議所との永い縁故を思つて勧めても見たが、希望は達せられなかつたのである。
 斯くて東京商業会議所の将来はどうなるかと云ふことは、勿論問題である。現在事に当つて居る人々は、其の現状のみに止らず、根本的な点までも深く考究して、今後に善処する要があるであらう。
                     (四月十五日談話)


鶴翁余影 鶴友会編 第三―四頁 昭和四年三月刊(DK170001k-0011)
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商工経済 第五巻第四号・第一二五―一二六頁 昭和一三年四月 東京商工会議所の過去を語る(DK170001k-0012)
第17巻 p.15-16 ページ画像

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東京商工会沿革始末 同会残務整理委員編 第一六―一九頁 明治二五年五月刊(DK170001k-0013)
第17巻 p.16 ページ画像

東京商工会沿革始末 同会残務整理委員編  第一六―一九頁 明治二五年五月刊
    ○東京商法会議所
東京会議所ハ既ニ解散シ其行務ハ其前ヨリシテ府庁ノ執行セル所トナリ、其原資金ハ東京府会ノ開設ヲ待テ其議決ヲ要スベキモノト成リタレバ全ク其事ヲ了シタリキ此共有原資金ハ東京市部会尋デ東京市会ノ議スル所トナリテ今ハ東京市ノ共有原資金トシテ存在スルモノナリ然ルニ東京会議所ガ未ダ解散セザルノ日ニ於テハ、東京府知事ハ会議所本分ノ共有金交渉事件ノ外ニモ苟モ東京一般ノ商工業ニ利害ノ関係アル事務ニ会ヘバ之ヲ会議所ニ諮問シ、会議所モ亦調査討議ノ労ヲ憚ラズシテ其得失ヲ実際ニ研究シテ答申シ、時アリテハ意見ヲ開陳シ、自ラ府知事ノ為ニハ商工業ニ必要ナル顧問ト為リ、加フルニ其議員ハ概皆府下ニ知ラレタル名士紳商ノ団躰ナリシヲ以テ世上ニ於テモ自ラ重ヲ此会議ニ推シ、当路ニ於テモ亦漸次其諮問ヲ下サント望ミタリシニ一旦其解散ニ会ヒテ朝野其望ヲ失ヒタルガ如クナリキ、而シテ此団躰ヲ為シタル各自ト雖トモ公益ヲ冷視シ去ルハ其本意ニ非ザルヲ以テ、府下商工業ノ利益ノ為ニ憤起スベキノ必要アラバ憤起スベク結合スベキノ時機アラバ結合スベシトハ思惟シタルガ如クナリキ
此時ニ当リ商工業ヲ奨励スルハ積極的政治ノ要務ナレバ商工団躰ノ意見如何ヲ知ルハ欠ク可カラザルノ必要ナルニ、我国ニハ欧米諸国ニ於ケル商業会議所《チヤンバルオフコムマルス》ノ如キ設立モ無ク、其萌芽トモ望ム可カリケル東京会議所ハ既ニ解散シタリ、例ヘハ税則改正議ノ如キモ当路ハ誰ニ向テ之ヲ諮問スベキ乎、宜ク先ツ東京府下ノ有志紳商等ヲ喚起シテ会議ノ団躰ヲ今日ニ組織シテ商工ノ公益ヲ謀ラシムル可シトハ、是レ明治十年ニ於テ当路ニ起リタル考案ニシテ、当時ノ内務卿(伊藤博文)大蔵卿(大隈重信)ハ親シク誘導ノ労ヲ執ラレタリキ、彼ノ旧会議所議員等ハ其事タル固ヨリ各自ガ希望セル所ナレバ誘導ニ応ジテ直チニ憤起シ同志ヲ結合シ渋沢栄一・益田孝・福地源一郎・三野村利助・大倉喜八郎・渋沢喜作・竹中邦香・米倉一平ノ八名発起人トナリ、乃チ明治十年十二月廿七日ヲ以テ商法会議所設立之儀ヲ当時ノ東京府知事楠本正隆ニ請願シ、併セテ其趣意方法目的規則等ヲ具申シタルニ、府知事ハ翌明治十一年三月十三日ヲ以テ許可シ、商業上之景況並其利害得失等時々可届出内務・大蔵両省ヘモ具申候様相心得可申事ト指令シタリ
○下略
   ○東京会議所ニツイテハ本資料第二編第二部第六章「政治・自治行政」所収「東京会議所」ノ条参照。
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東京商業会議所史 第三―四頁 刊(DK170001k-0014)
第17巻 p.17 ページ画像

東京商業会議所史  第三―四頁 刊
 東京会議所は解散し、商工界には一の団体組織の存するものなく、当時政府当局は諸外国と条約改正の議起り居りたる際なるを以て、屡屡外国使節と交渉往復するの必要ありたるに拘らず、我が民間実業家の輿論を提示して、その論拠と為すこと能はず。時の内務卿伊藤博文氏・大蔵卿大隈重信氏等大に之を憂へ、渋沢栄一氏を始め市内の主なる実業家に対して勧誘するに会議所設立のことを以てせり。是に於て渋沢氏等は其の意を諒とし、米倉一平・竹中邦香・渋沢喜作・大倉喜八郎・三野村利助・福地源一郎・益田孝の諸氏と東京商法会議所の設立を計画し、明治十年十二月設立願書を東京府知事楠本正隆氏に提出し、翌十一年三月十二日設立認可の指令を受けたり。 ○下略



〔参考〕竜門雑誌 第六一〇号・第六〇―六一頁 昭和一四年七月 東京商法会議所に就て(一)(山口和雄)(DK170001k-0015)
第17巻 p.17-19 ページ画像

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〔参考〕青淵先生公私履歴台帳(DK170001k-0016)
第17巻 p.19 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳          (渋沢子爵家所蔵)
  民間略歴(明治二十五年迄)
明治十年
○中略
十二月 東京商法会議所ヲ創立ス
 東京会議所既ニ解散シテ復タ一ノ商工団体ナシ、因テ同志ノ諸士ト謀リ、東京商法会議所ノ設立ヲ官府ニ請願シ、十一年三月認可ヲ得タリ、是ニ於テ其会頭ニ撰挙セラル、乃チ議事章程ヲ内国貿易・外国貿易・運輸船舶ノ三部ニ分チ、後又工業・農業ノ二部ヲ加ヘ、各部委員ヲ設ケ、大ニ会務ヲ振興セントスルニ際シ、十四年五月農商工諮問会規則発布セラレシヨリ、法律ノ効果終ニ会議所ノ発達ヲ阻シ、公私ノ信用ヲ失フニ至リ、十五年ニ及ンテハ会議ノ名アリト雖モ其実ナキノ状ヲ呈セリ
 ○中略
  以上明治二十五年五月十日調