デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

7章 経済団体及ビ民間諸会
1節 商業会議所
1款 東京商法会議所
■綱文

第17巻 p.832-842(DK170065k) ページ画像

明治16年10月11日(1883年)

当会議所、東京商工会将ニ成ラントスルヲ以テ、先ヅ自ラ解散シ且其所有財産一切ヲ商工会ニ譲渡スルニ決シ、是日栄一、会議所会頭トシテ之ヲ東京府知事代理銀林綱男ニ上申ス。


■資料

渋沢栄一書翰 五代友厚宛 (明治一六年)九月二四日(DK170065k-0001)
第17巻 p.832 ページ画像

渋沢栄一書翰  五代友厚宛 (明治一六年)九月二四日(五代竜作氏所蔵)
○上略
商法会議所も東京ハ終ニ同業会ニ引換候積ニて此間府知事より夫々各商業者招集勧誘相成候、右ニて近々設立之積、然時ハ㝡前之分ハ閉鎖之積ニ御座候
○中略
  九月廿四日                      渋沢栄一
  五代松陰先生
       玉案下


東京商法会議所官衙諸達並上申書綴 五(DK170065k-0002)
第17巻 p.832-833 ページ画像

東京商法会議所官衙諸達並上申書綴 五
                  (東京商工会議所所蔵)
    商法会議所解散届
去ル明治十一年中当商法会議所設立以来専ラ商工業ノ利害ヲ討議シ諸官衙ノ御諮問ニ復申シ、又ハ意見ヲ建言スル等前後数十回ニ及ビ、其他商況報告ノ如キハ本会ノ常務トシテ執行致シ来リ候処、去ル明治十四年五月廿三日太政官第廿九号御布告ヲ以テ農商工諮問会規則御頒布相成候ニ付、当会議所之儀ハ右御規則中所謂農商工議会ノ制ニ基キ従来ノ組織変更致シ度トノ衆議ニヨリ、其方法等種々計画仕候得共、何分其手続判明ナラザルニ付、彼是躊躇罷在候際過般太政官第十六号ノ御布告ヲ以テ前顕第廿九号ノ御布告御廃止之上、更ニ第十三号ノ御布達ヲ以テ勧業諮問会規則御頒布相成、尋テ頃日閣下ヨリ府下重立チタル商工業組合仲間及諸会社総代之者一同旧明治会堂ヘ御招集相成、右御布達ニ基キ聯合商工業会設立之儀御勧誘有之候処、一同賛成之上目下創立手続中之趣承リ及候、依テ右御趣意書拝読仕候ニ其組織並ニ会
 - 第17巻 p.833 -ページ画像 
員撰挙法等至極適当之御方按ニシテ、兼テ当会議所ニ於テ計画仕候改正方法モ亦此御趣意ニ外ナラザル儀ニ御坐候、就テハ今般愈以テ同会設立相成候上ハ従来私共ノ宿望モ相達シ候義ニ付、当会議所之儀ハ此際解散致候事ニ議決仕候間此段御聞置被下度候也
  明治十六年十月十一日
                  東京商法会議所会頭
                      渋沢栄一
  東京府知事代理
    東京府少書記官 銀林綱男殿

    添上申
別紙当商法会議所解散之義御聞置被下候上ハ、是迄本会ニ於テ共有致来リ候家屋什具及経費残額等之儀ハ今般設立可相成聯合商工業会ヘ悉皆寄附仕度、且ツ書籍・議事録・商況報告等参考上必須ノモノモ可有之ニ付、是亦同会ヘ引継キ候様仕度候間、追テ同会設立ノ上ハ此旨御通達被成下度此段添テ申上候也
  明治十六年十月十一日
                東京商法会議所会頭
                        渋沢栄一
  東京府知事代理
    東京府少書記官 銀林綱男殿
   ○右ノ商法会議所解散届ハ栄一加筆ノ草稿ニ依ル。


東京経済雑誌 第八巻・第一八四号 明治一六年一〇月一三日 ○商法会議所の解散(DK170065k-0003)
第17巻 p.833 ページ画像

東京経済雑誌  第八巻・第一八四号 明治一六年一〇月一三日
    ○商法会議所の解散
東京商法会議所は種々の事情により暫らく振はざるの景況ありしが、先般商工業会の設立ありし以来は自然稍々不用の姿なきにあらす、されは同会議所は其解散の可否を決する為め去る七日の夜会議を開かれしか、衆員皆な解散を可としたれは以来同所の什器・書籍等は商工業会へ寄付することに決したりと云ふ



〔参考〕東京商業会議所月報 第五巻・第一二号 大正元年一二月刊 ○全国商業会議所聯合会に於て(男爵渋沢栄一君演説)(DK170065k-0004)
第17巻 p.833-834 ページ画像

東京商業会議所月報  第五巻・第一二号 大正元年一二月刊
   ○全国商業会議所聯合会に於て (男爵 渋沢栄一君演説)
○上略
斯う云ふ商人の会同して物を議するなどと云ふことは今日はもう誠に有り触れた一の機関と相成りましたけれども明治の初めには殆どございませなんだ、又それを好むと云ふ気風も少なかつたやうでございます、各地は勿論のこと、東京が一番さう云ふことには海外のそれを受売《(得カ)》る本であつたけれども其東京すら余り喋々する人はなかつたのでありました、故に此東京の商法会議所の創立は寧ろ自働でなくて他動であつたのでございます、外国の関税の折衝に付て例へば之を減ずるとか之を増すとか云ふことが多く駐在の公使が其時の役人だけの挨拶と云ふことを甚だ不満足に思つて、一般の人民の希望と云ふものは日本には更にないからそれでは吾々にはどうしても承諾が出来ぬ、吾々の
 - 第17巻 p.834 -ページ画像 
言ふことは唯役人の目で見、心に考へた説でなくて、所謂世の輿論であると云ふものを始終突込んで参られるに付て大に時の当局者が弱られて、遂に此商売人の輿論を作ると云ふ一の必要として商法会議所を拵へたいと云ふことが思ひ起されたやうに覚へて居ります、今記録を見ますと明治十年故伊藤公爵が内務卿であつて大隈伯が大蔵卿であつて此二人が是非せねばならぬと云ふことで、東京市内の十数名の人に商法会議所を作るが宜からうと云ふことを勧誘したと書いてございます、事実が其通りであつたやうに覚へます、私共も其勧誘を受けた一人であつて是非拵へたいと云ふことで組立てたのであります、悪く申すと、其時分には一種の御用会議所と云ふ姿があつたのです、初めそれでありましたけれども、偖組立てゝ見ますと云ふと唯御指図に従つて物を言ふと云ふ訳に参りませぬ、やはり其集りから一の説か生ずる其説に依つては政府に付て大に考を異にする場合がある、従つて意見を述べ論議を戦はすと云ふことは、大に進んで参つたやうにございます、併しどうも此商法会議所が十分に人の集りが少ないとか、或は経費の負担か困るとか云ふからして多分十六年と覚へて居りますが更に組立を変へて、当時いろいろ組立が多くあつたものですから、其頃組合と云ふものが続々出来掛つた頃でした、それからして代表者を出す其代表者が相会することにして一の会合にしたらば個人々々でなくて会費徴収にも大に便利を得るであらうと云ふ仕組で、それには商法会議所と云ふより寧ろ名を変へて、商工会としたら宜からうと云ふことで、爾来七八年の間は商法会議所と云ふ名が商工会と変じて東京は継続したやうに覚へて居ります ○下略
  ○右ハ大正元年十一月十八日、東京商業会議所ニ於テ開催サレシ第十九回商業会議所聯合会ニ於ケル栄一ノ演説ノ一節ナリ。



〔参考〕農商務卿第一回報告 明治一四年 第一〇四―一〇六頁 刊(DK170065k-0005)
第17巻 p.834-835 ページ画像

農商務卿第一回報告 明治一四年  第一〇四―一〇六頁 刊
    商法会議所
商法会議所ハ明治十一年ニ在リテ東京・大阪二府ニ開クヲ権輿トス、爾来東西地方其風ヲ聞キ興起セルモノ頗ル多ク長崎・福岡・大津・山梨商法会議所ハ同十二年ニ、横浜・金沢・福井・宮城・松本・飯田・高松・徳島・撫養・小倉商法会議所ハ同十三年ニ、其他昨年ニ於テ官准ヲ得テ開立スルモノハ熊本・松山・三重・新宮・富山・武生・坂井大聖寺・金沢聯合商法会議所等ニシテ、此余各県ノ認可ニ係ルモノ三所、相併テ海内二十八所ノ多キヲ見ルヲ得タリ、其然ル所以ノモノハ開市以還気運漸ク熟スルニ際シ、商業亦法ヲ欧米ニ採リ事ヲ公議ニ帰セサルヘカラサルヲ認了セルニ因ルモノニシテ、而シテ其方規・例則ノ如キ未タ備ハルヲ一時ニ求ムヘカラスト雖トモ、既ニ邦賈カ眼睛ヲ戮力図益ノ点ニ注クヲ徴スルニ足ルモノトス、独リ議会ノ組織ニ於ケル未タ俄ニ欧米各邦ニ傚フヲ得サルモ、要スルニ本会ノ如キ業已ニ賈人カ精神ヲ傾瀉スルノ蛋卵ニシテ、若シ煦育其宜キヲ得ハ他日翔翺ノ羽翼ヲ伸ルハ蓋シ亦難カラサルベシ
東京・大阪ハ本邦首府ノ地、而シテ長崎亦枢要ノ市衢ニシテ前程貿易ノ旺盛ヲ期スルヲ以テ、殊ニ勧誘ヲ該府港ノ商法会議所ニ加ヘ毎歳保
 - 第17巻 p.835 -ページ画像 
護金額弐千五百円ヲ附与セリ、既ニシテ昨年以降此挙ヲ廃スト雖トモ該所ハ尚ホ旧ニ依リ議会ノ顛末ヲ詳報ス、則東京商法会議所ニ於テ昨年度議会ヲ開クモノ定式会六回、臨時会六回、委員会五回、大阪商法会議所ニ於テハ定式会壱拾七回、臨時会九回、委員会五回、長崎商法会議所ニ於テハ定式会弐拾六回、臨時会八回ナリ



〔参考〕農商務卿第二回報告 明治一五年 第五九頁 刊(DK170065k-0006)
第17巻 p.835 ページ画像

農商務卿第二回報告 明治一五年  第五九頁 刊
    商法会議所
商法会議所ノ客歳間設立ニ係ルモノハ和歌山・鹿児島・大野ノ三所ニシテ即チ全国ヲ通シテ三拾四所トス、而シテ茲ニ商業上尤モ枢要ナル東京・大阪・横浜及ヒ長崎等ノ会議所ニ於テ執行セシ議会ノ動静ヲ掲記シ以テ其一斑ヲ徴セントス、即チ東京商法会議所ニ於テハ定式会二回、臨時会五回ニシテ議スル所ノ件数壱拾四件、大阪商法会議所ニ於テハ定式会二回、臨時会弐拾三回ニシテ議スル所ノ件数弐拾五件、横浜商法会議所ニ於テハ定式会二回、臨時会一回ニシテ議スル所ノ件数四件、又長崎商法会議所ニ於テハ定式会二回、臨時会三回ニシテ議スル所ノ件数壱拾弐件ナリ



〔参考〕農商務卿第三回報告 明治一六年 第七八―七九頁 刊(DK170065k-0007)
第17巻 p.835 ページ画像

農商務卿第三回報告 明治一六年  第七八―七九頁 刊
    商法会議所
東京商法会議所ハ客歳十月十三日ヲ以テ解会シ、更ニ商工会ヲ設立シ其他金沢・小松・岡山等ノ三会議所モ閉会ヲ届出タリ、故ニ之レヲ前年度ノ数ニ比スレハ四所ヲ減シ現存スルモノ全国ヲ通シテ三拾所ト為ス、中ニ就キ松本商法会議所ノ如キハ客歳八月以降休会セリ、但シ解会ノ理由タル東京商法会議所ハ元来府下商工相半シ加フルニ商工業ノ関係最モ親密ナルヲ以テ更ニ之カ組織ヲ変更セシニ止マリ、其他三所ノ如キ或ハ商業未タ十分ノ進歩ヲ占有セサルニ因リ是ヲ以テ彼ヲ裨補スルノ実益ヲ見ル能ハサルニ基ヒスルモノアリ、或ハ比年商況ノ不振ヨリ之カ維持ノ方法ヲ立ツル能ハサルモノ等ナリ
茲ニ商業上最モ枢要ナル東京・大坂及横浜三所ノ商法会議所ニ於テ本季間執行セシ議会ノ動静ヲ提記シ以テ其一班ヲ徴セントス、即チ東京商法会議所ニ於テハ委員会一回、臨時会一回ニシテ議スル所ノ数八件大坂商法会議所ニ於テハ定式会二回、臨時会壱拾回、委員会壱拾六回ニシテ議スル所ノ数六拾六件、横浜商法会議所ニ於テハ通常会二回ニシテ議スル所ノ数二件ナリ
三重商法会議所ハ其組織他ノ商法会議所ト異ナルモノアリ、乃チ県内津・松山・山田・伊賀・桑名・四日市・神戸・鳥羽《(坂カ)》ノ七所ニ分会ヲ置キ各分会ノ議員中ヨリ開会毎ニ三名以上ノ出席委員ヲ互撰シ、本会ノ会員ニ列セシム、故ニ其議員ノ数ヲ総計スレハ四百九拾九名ノ多キニ及ヘリ



〔参考〕農商務卿第四回報告 明治一七年 第一二三―一二四頁 刊(DK170065k-0008)
第17巻 p.835-836 ページ画像

農商務卿第四回報告  明治一七年  第一二三―一二四頁 刊
    商法会議所
商法会議所ノ状況ヲ察スルニ去十四年ノ調査ニ拠レハ其数三拾四所ニ
 - 第17巻 p.836 -ページ画像 
上リタルモ、漸次減少シテ目今存スルモノ弐拾七所ニ過キス、其中二三ヲ除クノ外ハ大率痿靡不振ニ属ス、抑々商法会議所ハ純然タル民設ノモノナレトモ、明治十三四年ノ交ニ於テハ其開設ノ挙陸続各地ニアリテ大ニ商業ノ進歩ニ裨補アルカ如キ勢ヒナリシモ、数年ナラスシテ斯ノ如ク衰頽ヲ招キシ所以ノモノハ比年商況ノ不振ニ基ヒスルモノアリト雖トモ、亦組織法其宜シキヲ得サルニ職由セサルヲ得ス、今後該会議所ヲシテ商業上滋々裨補アラシメント欲セハ従来ノ組織ヲ一変シ商業者ヲシテ十分ノ信用ヲ得セシメサル可ラス、其方法ノ如キ目下既ニ調査中ナリ
本季間千葉県下ニ於テ銚子商法会議所ノ設立ヲ出願シ既ニ之レヲ允可シタリ、又其閉会ヲ届出タルモノハ岡山・長崎・大津・金沢聯合ノ四所ニシテ、前年度ノ総数三拾所ニ比スレハ三所ヲ減シタリ
玆ニ商業上最モ枢要ナル大坂及ヒ横浜等二所ノ商法会議所ニ就テ本季間執行セシ議会ノ動静ヲ提記センニ、大坂ニ於テハ定式会三件、臨時会拾壱件、委員会三拾八件、立按委員会四件ニシテ総件数五拾六件ナリ、又横浜商法会議所ニ於テハ僅々臨時会三件ノミニ止マル



〔参考〕竜門雑誌 第六一九号・第六四―七〇頁 昭和一五年四月 東京商法会議所に就て(九)(完)(山口和雄)(DK170065k-0009)
第17巻 p.836-842 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。