デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

7章 経済団体及ビ民間諸会
1節 商業会議所
3款 東京商業会議所
■綱文

第20巻 p.560-562(DK200059k) ページ画像

明治28年3月6日(1895年)

仏国法律博士ボアソナード帰国セントス。是日栄一当会議所会頭トシテ、其二十余年我国法学界並ニ法典ノ編纂ニ貢献シタル労ヲ多トシ感謝状ヲ贈ル。


■資料

東京商業会議所月報 第三二号・第一二―一四頁 明治二八年四月 【○三月四日、本会議所…】(DK200059k-0001)
第20巻 p.560 ページ画像

東京商業会議所月報  第三二号・第一二―一四頁 明治二八年四月
○三月四日、本会議所事務所ニ於テ第五回定期会議ヲ開ク、当日ノ出席者ハ左ノ如シ、
 益田克徳君 ○外三十七名氏名略
午後五時開議、会頭渋沢栄一君議長席ニ着キ、左ノ件々ヲ議事ニ附シ午後八時四十分閉会ス
○中略
 一、仏国法律博士ボアソナード氏帰国ニ付、感謝状送呈ノ件(会員中野武営君提出)
本件ハ全会一致ヲ以テ可決シ、且ツ文案ノ起草等ハ正副会頭ニ全任スルコトニ決ス


東京商業会議所月報 第三二号・第一六頁 明治二八年四月 【○同月 ○三月六日、…】(DK200059k-0002)
第20巻 p.560 ページ画像

東京商業会議所月報  第三二号・第一六頁 明治二八年四月
○同月 ○三月六日、第五回定期会議ノ決議ニ基キ会頭渋沢栄一君並副会頭奥三郎兵衛・大江卓ノ両君ニハ仏国法律博士ボアソナード氏ヲ其旅宿ニ訪ヒ、同氏ニ感謝状ヲ呈ス(感謝状ノ全文ハ参照ノ部第五号ニ掲載ス)


東京商業会議所月報 第三二号・第一九頁 明治二八年四月 【○参照第五号 三月六日仏国法律博…】(DK200059k-0003)
第20巻 p.560-561 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕ボアソナード先生功績記念 (著者代表杉山直次郎) 第二七―二九頁 昭和一一年九月刊(DK200059k-0004)
第20巻 p.561-562 ページ画像

ボアソナード先生功績記念 (著者代表杉山直次郎)
                      第二七―二九頁 昭和一一年九月刊
    ボアソナード教授小伝
 エミール・ギユターヴ・ボアソナード・ド・フオンタラビー教授は一八二五年仏国巴里近郊ヴアンセンヌに出生。一八四五年文科大学得業士(バカロレア・エス・レツトル)を取得、次いで一八四八年巴里大学法科大学得業士(バシユリエー・ド・ラ・フアキユルテ・ド・ドロア)証書を授与せられ、翌年学士(リサンシエ)の称号を受けたる後、一八五二年博士(ドクトウル)の称号を受く、時に廿八歳。翌年法科大学教授資格(アグレジエ)試験に首席にて通過す。
 一八五二年より一八六四年迄巴里大学法学部にて講義をなし次いで一八六四年より一八六七年迄グルノーブル大学法科大学助教授たり。
 一八六七年仏国翰林院に研究報告を提出してメダル並に賞金を受く同年巴里にて先づ刑法学教授オルトラン氏次いで経済学教授バトビイ氏の助手に歴任。一八六八年トウルーズ法曹協会に研究報告を提出して金メダルを受け、翌年同協会会員となる。一八七一年仏国翰林院に第二次研究報告を提出、再び賞金を授与せらる。
 一八七三年駐仏日本公使鮫島氏の懇請に基き、アカデミ・ド・パリ総長シヤルル・ジロー氏より、巴里在留日本人に憲法並に刑法の講義をなすの命を受く。講莚に列したるは、井上毅・名村泰蔵・岩吉兼与鶴田浩・川路利吉・今村和郎並に岩下大尉の諸氏なり。三ケ月の後、右の諸氏の希望に基き、鮫島大使より新法典編纂並に法学教育の為め日本来遊を懇請せらる。仍つて一八七三年一一月名村氏と共に日本に赴任、直ちに司法省官吏に講義を試む。
 一八七四年より一八八四年迄同省附近に開設せられたる司法省法律学校に於て教育に従事せるも同校は恰も当時帝国大学に移管せらる。
 一八七四年、台湾事件の顧問として大久保利道[大久保利通]卿に随行して北京に赴く。
 一八七五年、元老院設置せらるるや、その顧問に任ぜらる。
 一八七七年、顧問官邸に於て経済学の講議をなし、山崎直胤氏これ
 - 第20巻 p.562 -ページ画像 
を訳出す。
 一八七五年より一八八〇年に至る迄、刑法典並に治罪法典を編纂し註釈を付して公刊す(仏文・全二巻)。
 一八八一年より一八八八年に至る迄、民法典を編纂し同じく註釈を付して公刊す。
 尚ほ右期間中、行政裁判所・外務省・内務省並に各裁判所の顧問として種々の献策をなす傍ら、司法省並に其の他明治大学・和仏法律学校等の各私立大学校に於て法律学の講義をなす。
 一八八九年、賜暇を得て帰国六ケ月間仏国に過したる後、帝国大学に於て二ケ年間授業をなす為め再び日本に来朝す。
 後、巴里大学法科大学名誉教授に任ぜらる。
 一八七四年オフイシエー・ダカデミーに、一八七七年オフイシエーダンストルユクシオン・ブリツクに、而して一八八七年シユヷリエード・ラ・レジオン・ドヌールに叙せらる。
 日本に於ては、一八七六年勲二等旭日重光章を、一八八九年大日本帝国憲法発布記念章を、而して一八九四年大婚二十五年祝典之章を授けらる。
 一八七九年白耳義政府よりシユヷリエー・ド・ロルドル・ド・レオポールに、一八八二年伊太利政府よりコンマンドウール・ド・ラ・クロンヌに、而して一八九〇年羅馬尼亜政府よりコンマンドウール・ドラ・クロンヌに叙せらる。
 日本政府より年金二千円を授けらる。
 一八九五年、前後二一年間を異国に過したる後、仏国に帰朝。一九一〇年六月二七日アンテイーブ(アルブ・マリテイーム県)に於て殁す。