デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

7章 経済団体及ビ民間諸会
1節 商業会議所
3款 東京商業会議所
■綱文

第21巻 p.298-300(DK210048k) ページ画像

明治31年4月19日(1898年)

栄一韓国視察旅行ニ赴クニ就キ、当会議所会員等芝紅葉館ニ於テ送別会ヲ開ク。副会頭中野武営送辞ヲ述ベ、栄一答辞ヲ述ブ。


■資料

竜門雑誌 第一二〇号・第三一―三三頁 明治三一年五月 ○東京商業会議所の渋沢会頭留送別会(DK210048k-0001)
第21巻 p.298-300 ページ画像

竜門雑誌  第一二〇号・第三一―三三頁 明治三一年五月
    ○東京商業会議所の渋沢会頭留送別会
明治三十一年四月十九日、東京商業会議所会員申合せ、会頭渋沢栄一君の為めに芝紅葉館に於て留送別会を開く、当日来会したる会員三十三名、午後六時一同着席あるや、中野武営氏は衆に代りて送別の辞を演説あり、之に対して渋沢氏は答辞を述へられ、夫れより杯酒献酬の間に主客歓を尽くし、散会せしは夜の九時頃なりし、中野・渋沢両氏の演説要領は左の如し
    中野副会頭送辞の要領
 自分は本会の紹介者たる故を以て一言すべし、今回渋沢君には朝鮮に赴かるゝに付、前例に依り今日留送別会を開きたるに、君の来臨を辱ふし一同満足の至りなり、謹て君の健康を祝す
 偖渋沢君の渡韓に就て其用向の何たるは吾々の知る処に非ざるも、
 - 第21巻 p.299 -ページ画像 
朝鮮と我国とは其地形上に於て唇歯の関係あり、且つ交通上の情誼も一朝夕の故に非さるに、外交政策の失敗より今や呉越啻ならさる有様となりしは遺憾千万なり、顧ふに政治上に於て彼我の交情旧態に回復するは容易の業に非ず、寧ろ将来は商業上の関係より相扶掖して政治上に於ける失敗を償ふの外なし、今回渋沢君の渡韓は此希望を遂達するに就て幾多の便宜を与ふるならんと信す、君は銀行業の上に於て彼国とは密接の関係あり、加ふるに日本実業界の泰斗として其名声は鶏林八道に嘖々たるものあるべきを以て、平素無感覚の朝鮮人も君の謦咳に接して大に感奮すに至るべし、願くは君に於ても彼国官民に接せらるゝに当りては、我国民真意の在る所を開示し、以て彼我阻隔の感情を融和するに力められんこと切望の至に堪へず
 今夕は極めて不行届なれども、款語尽酔斯夕を永ふせられんことを望む
    渋沢会頭答辞の要領
 今回自分渡韓に就て、前例に依り留送別会を開かれたるは誠に満足なり
 只今中野君より贈言を辱ふせり、同君の述へられし処は自分も至極同感なりと雖とも、不才無能の自分に於て到底其贈言に当る能はさるを恐るゝのみならす、此行は左様なる大目的大抱負を有するには非すして、早く言へは支店の巡視に過きす、元来同地に於ける支店は鶏肋銀行とも謂ふへきものなり、曾て英人(サルド)氏より内地の取引を専業とする銀行に於て、外国に取引を開始するは危険にして、其結果失敗に帰し易しと警められたることありしか、如何にも廿七年より廿九年頃迄は閉店せんかと迄思ひし程なりし、幸に其後は差したることなく今日に至りたるも、此際実況視察の必要を感し急に渡韓を思ひ立ちし次第なり、勿論単に支店巡視とは云ものゝ実は他国に於ける貨幣問題の実況を調査せんとするもの亦目的の一なり、御承知の如く朝鮮は以前は銅貨国にて流通貨幣は銅貨のみなりしか、其後五両銀・白銅なと通用するに至れり、然るに五両銀は其鋳造高二万円に過きすして、実際は日本の一円銀は殆んと同国の通貨同様に国内に流通し、銀紙合算して同国内に流通しつゝある我貨幣の高は凡三百五六十万円に上ぼり、同国に於ける通商其他の大部は全く此三百五六十万円にて支配され居る実況なり、其国の貧弱推想に余りあり、然るに昨年十月以来我国は金本位を施行したれは同国に流通し居る円銀は自然回収せらるへく、其回収せられたる後は同国は復ひ銅貨国の旧態に復さんも知る可らす、相場は変動多き銅貨か其国内の流通貨幣となりては通商貿易上に感する不便少からさるより、仁川・釜山等に於ける日本人商業会議所は之を憂慮し、日本円銀に刻印して依然同国内に流通せしめ置きたしとの意見を申立て、内地銀行へも同意を求め来りたり、財務顧問たりしブラオン氏には左様の意なきにも非さりし様なれど、露人アレキシーフ氏代るに及んで此意見には反対を表せり、顧ふに我円銀に刻印して依然同国に流通せしめ置くことは、我国の幣制より観ても、彼国の体面よ
 - 第21巻 p.300 -ページ画像 
り観ても、頗ふる考究を要する事柄にて、其得失は軽々に決すへきに非れとも、兎に角関係多き問題なるにより、親しく実況を調査して自分の意見をも定めんと欲するなり、今も述ふるか如く、朝鮮は固より貧弱国なるには相違なけれとも、貿易上の関係に於ては決して軽視す可らさるものあり、此程も一寸取調へ見たるに、明治二十一年より今日迄十年間に於て彼我輸出入の額は七倍に上り、今や輸出は五百万円、輸入は八百万円の多きに達せり、日韓貿易の前途は頗ふる多望なりと謂はさるを得さるなり、欧米強国への渡航にのみ重きを置き、朝鮮なとへ赴く者をは軽ろしめると云ふ様にては、迚も我通商上の実益を進むる能はすと信す、会員諸君か特に自分の渡韓の為めに此光栄ある盛宴を張られたる、其の用意の在る所を推想すれは、自分は殊に満足に堪へさるものあり、只恐る自分の不才なる到底諸君の希望を完ふするに由なからんことを、謹て玆に諸君の好意を謝す
当日来会者人名左の如し
  中野武営   岡部広     木村荘平
  佐久間貞一  若林七五郎   町田徳之助
  井上角五郎  野中万助    八尾新助
  雨宮綾太郎  山中隣之助   岩谷松平
  加東徳三   岡田来吉    中沢彦吉
  長尾三十郎  山本達雄    喜谷市郎右衛門
  渋沢喜作   栗生武右衛門  益田克徳
  渋沢栄一   豊川良平    田口卯吉
  林九兵衛   岩田作兵衛   小野金六
  小林義則   加藤正義    梅浦精一
  河村隆実   池田謙三    矢野二郎
   ○栄一ハ四月二十三日離京、韓国ニ旅行シテ五月三十日帰京ス。