デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

7章 経済団体及ビ民間諸会
1節 商業会議所
3款 東京商業会議所
■綱文

第21巻 p.305-314(DK210050k) ページ画像

明治31年5月16日(1898年)

是日当会議所副会頭中野武営、会頭栄一ノ代理トシテ今回清国ヨリ収受セル償金ヲ以テ内国公債ヲ償還シ、以テ民間資金ノ運転ヲ円滑ナラシメンコトヲ内閣総理大臣侯爵伊藤博文・大蔵大臣伯爵井上馨・農商務大臣金子堅太郎ニ建議シ、貴族院議長公爵近衛篤麿・衆議院議長片岡健吉ニ請願ス。


■資料

東京商業会議所月報 第七〇号・第三頁 明治三一年六月 【○同月 ○五月九日午…】(DK210050k-0001)
第21巻 p.306 ページ画像

東京商業会議所月報  第七〇号・第三頁 明治三一年六月
○同月 ○五月九日午後四時、本会議所ニ於テ役員会議ヲ開キ、公債償還ノ義ニ付臨時会議開設ノ件ヲ審議シ、午後五時閉会ス


東京商業会議所月報 第七〇号・第一―二頁 明治三一年六月 【○明治三十一年五月十…】(DK210050k-0002)
第21巻 p.306 ページ画像

東京商業会議所月報  第七〇号・第一―二頁 明治三一年六月
○明治三十一年五月十四日、本会議所ニ於テ第七十回臨時会議ヲ開ク当日ノ出席者ハ左ノ如シ
 河村隆実君 ○外三十八名氏名略
午後五時開議、副会頭大江卓君議長席ニ着キ、左ノ件々ヲ議事ニ附シ午後八時三十分閉会ス
 一内国公債償還ノ義ニ付建議・請願ノ件 (会員提出)
本件ハ会員中野武営君外七名ノ提議ニ係リ、其要旨ハ清国ヨリ収受シタル償金残額ヲ以テ内国公債ヲ償還シ、民間ニ於ケル資金ノ運転ヲ円滑ナラシムヘシトノ旨ヲ政府ニ建議シ、議会ニ請願スヘシト云フニ在リ、右ニ対シ会員井上角五郎・梅浦精一ノ両君ヨリ修正意見案ノ提出アリ、審議ノ末多数ヲ以テ修正意見案ノ如ク可決セリ


東京商業会議所月報 第七〇号・第三頁 明治三一年六月 【同月 ○五月十六日、民間…】(DK210050k-0003)
第21巻 p.306 ページ画像

東京商業会議所月報  第七〇号・第三頁 明治三一年六月
○同月 ○五月十六日、民間資金ノ運転ヲ円滑ナラシムル義ニ付、内閣総理大臣・大蔵大臣・農商務大臣ヘ建議書ヲ、貴族・衆議両院ヘ請願書ヲ進達ス(建議・請願書ノ全文ハ参照ノ部第一号ニ掲載ス)


東京商業会議所月報 第七〇号・第四―五頁 明治三一年六月 【○参照第一号 明治三十一年五…】(DK210050k-0004)
第21巻 p.306-307 ページ画像

東京商業会議所月報  第七〇号・第四―五頁 明治三一年六月
○参照第一号
 明治三十一年五月十六日第七十回臨時会議ノ決議ニ依リ民間資金ノ運転ヲ円滑ナラシムル義ニ付、内閣総理大臣・大蔵大臣・農商務大臣ヘ進達セシ建議書、貴族・衆議両院ヘ進達セシ請願書ノ全文ハ左ノ如シ
    民間資金ノ運転ヲ円滑ナラシムル義ニ付建議(請願)
我国現時ノ実況ヲ観ルニ、政府ニ財政ノ困難アリ、民間ニ資金ノ欠乏アリ、上下相率テ将ニ漸ク窮境ニ陥ラントス、而シテ目下政府ハ頗ル意ヲ財政ノ整理ニ用ヒ、事業ノ緩急ヲ謀リ膨脹シタル政費ヲ一時ニ支出スルコトヲ避ケ、以テ予算ト現計トニ著大ノ懸隔ヲ生スルカ如キ失態ナカラシメント勉メラルヽノ跡アリ、是本会議所ノ大ニ多トスル所ナリト雖トモ、一国経済ノ基礎ヲ安固ナラシメント欲セハ独リ之ヲ以テ満足スヘキニ非ス、同時ニ民間資金ノ運転ヲ円滑ナラシメサルヘカラサルナリ、今ヤ民間ノ資金ハ其欠乏日ヲ追テ益々甚シク、前途有望ノ事業ヲシテ一時中止ニ帰セシメサルヲ得サルノ趨勢アリ、例セハ鉄道ノ如キ之ヲ国内ニ普及セシムルニ於テ断シテ遅々タルヲ容サヽルモノナリ、然ルニ既成ノ鉄道ハ纔ニ其経済ヲ維持シ得ルモ、未成ノ鉄道ニ至テハ或ハ之ヲ中止シ、甚シキハ工事既ニ成リテ其運転ヲ開始スル能ハサルモノアリ、例ヲ鉄道ノ一事ニ挙クルモ此ノ如シ、其他諸般ノ事業多クハ然ラサルハナシ、今ニ於テ民間資金ノ運転ヲ円滑ナラシム
 - 第21巻 p.307 -ページ画像 
ルニ非スンハ、何ヲ以テカ一国ノ独立ヲ完フシ、人民ノ富貴ヲ謀ル事ヲ得ンヤ、本会議所ハ曩ニ当路ニ建議シテ外債二億円募集ノ事ヲ進策セリ、今ヤ宜シク之ヲ決行セラルヘキノ時機ナリ、本会議所ハ我政府ノ此機ニ於テ速ニ之ヲ決セラレンコトヲ望ムモノナリ、而シテ政府幸ニ此議ヲ決セラルレハ、今回清国ヨリ収受シタル償金ヲ以テ今日直ニ内国公債若干ヲ償還セラレンコトヲ希望セサルヲ得ス、顧フニ償金残額ニ対シテハ将来ノ使途自カラ定マルモノアルヘシト雖トモ、今日之ヲ内国公債ノ償還ニ充テ、他時外債ヲ以テ之ヲ補塡スルニ於テハ、政府ノ財政計画上毫モ支障ヲ生セザルヘキナリ、只其内国公債償還金額ニ至テハ姑ラク之ヲ当局者ノ施措ニ一任シ、経済上ニ急激ノ変動ヲ与フルカ如キコトナカラシメント欲ス、蓋シ内国公債償還ヲ以テ目下ノ急ニ応セントスル所以ノモノハ、其最モ便ニシテ且ツ容易ニ実行シ得ラルヽカ為メノミ、他日外債募集ノ時ニ至テハ本会議所ハ強チ之ヲ以テ内国公債ノ償還ノミニ充ツヘシト主張スルモノニ非ス、試ニ各国ノ事例ニ就テ観ルニ、鉄道ノ如キ大資本ヲ要スル事業ニ在テハ、之ヲ国内ニ普及セシムルニ当リ外資ニ依ラサルモノ殆ント稀ナリ、然レハ既成ノ鉄道ヲ改良シ未成ノ鉄道ヲ完成スルカ為メニ此外債ヲ使用スル何ノ妨ケカ之レアラン、独リ鉄道ノミナラス諸般ノ事業ノ資ヲ此ニ取ルヘキモノ亦少ナカラス、故ニ本会議所ハ目下先ツ内国公債若干ノ償還ヲ断行シテ民間ニ於ケル資金ノ運転ヲ円滑ナラシメ、他日募集シ得タル外債ハ其時ノ事情ヲ熟察シテ機ニ臨ミ宜シキヲ制シ、以テ徐ニ之カ使途ヲ措画セラレンコトヲ切望ス、若夫レ外債元利ノ償還ニ至テハ他日民力恢復セハ之ヲ完済スルニ綽々トシテ余裕アルヘキヲ信シテ疑ハス、要ハ一国経済ノ基礎ヲ安固ナラシメント欲スルニ外ナラサルナリ願クハ閣下(貴院)速ニ本建議(請願)ヲ採納セラレン事ヲ
右本会議所ノ決議ニ依リ建議(請願)仕候也
  明治三十一年五月十六日   東京商業会議所会頭代理
                  副会頭 中野武営
    内閣総理大臣 侯爵 伊藤博文殿
    大蔵大臣   伯爵 井上馨殿
    農商務大臣     金子堅太郎殿
    貴族院議長  公爵 近衛篤麿殿
    衆議院議長     片岡健吉殿



〔参考〕金融六十年史 東洋経済新報社編 第四〇六―四一六頁 大正一三年一二月刊(DK210050k-0005)
第21巻 p.307-312 ページ画像

金融六十年史 東洋経済新報社編  第四〇六―四一六頁 大正一三年一二月刊
    明治三十年第一次の反動
叙上の如く、二十八年下半季より勃興せる企業熱は、二十九年に於て熾烈の絶頂に達し、三十年には早く《(も脱カ)》反動期に這入つた。併しながら、其兆候は、二十九年末季に於て既に其端を現はした。先づ貿易を見るに、二十九年から、輸出減退輸入激増を示し、そして爾後連年巨額の入超を惹起した。

                                金銀出入
  年次  商品輸出    商品輸入     商品入超
                               ▲入超△出超
          千円      千円       千円      千円
  二八 一三六、一一二 一二九、二六〇 (出)六、八五一 △二一、四二七
  二九 一一七、八四二 一七一、六七四   五三、八三一 ▲二七、五四三
 - 第21巻 p.308 -ページ画像 
  三〇 一六三、一三五 二一九、三〇〇   五六、一六五 ▲六二、二四七
  三一 一六五、七五三 二七七、五〇二  一一一、七四八 △四四、四二三

 唯だ併しながら、廿九年には金銀に二千七百万円の入超があり、又商品入超の初年でもあり、更に景気昂進の最も盛んな時期でもあり、銀行も信用を膨脹させたので、未だ左迄金融の緊化を示すに至らなかつたと雖も、尚ほ金利の騰貴を免かれなかつた。即ち日本銀行は卒先して、同年九月七日に、貸付・割引共に一厘方引上げて、前者を二銭一厘・後者を二銭にした。之が即ち利上げの振出しで、爾後三十一年三月迄に、左の如く五回の利上げを続行した。
    日本銀行金利表

              貸付     割引
              銭      銭
  二九年九月七日    二・一〇   二・〇〇
  三〇年六月十四日   二・三〇   二・〇〇
  三〇年八月十一日   二・四〇   二・一〇
  三〇年十月廿三日   二・五〇   二・二〇
  三一年一月九日    二・六〇   二・三〇
  三一年三月十四日   二・七〇   二・四〇

 又、東京株式市場の株価を見るも二十九年の四月・六月・八月の交に大抵其最高を記録し、同年の十二月には、其最高相場から、東株は四割余を、其他の重要株も概して二割内外を落した。左に東京市場に於ける主要株の先物の月平均を示す。

        廿九年最高   廿九年十二月     三十年最低    卅一年六月
             円      円           円      円
 関西鉄道 (六月) 七六・一〇  六〇・四〇 (十二月) 五四・二〇  四七・三〇
 炭鉱鉄道 (六月)一〇八・一〇  八五・八〇 (七月)  八七・一〇  八〇・三〇
 日本郵船 (六月)一一一・七〇  七五・六〇 (七月)  五七・〇〇  四七・二〇
 鐘淵紡績 (八月) 七〇・八〇  六二・三〇 (十二月) 四二・四〇  四〇・九〇
 東京株式 (四月)六二四・〇〇 三五〇・二〇 (十二月)一六三・五〇 一二三・〇〇

 更らに権利株及び新企業会社の株券市価を見るに、是又た左の如く暴落した。

              二十九年中         三十年上季
            払込額     高直    払込額   六月時価
            円      円      円      円
  武相中央鉄道   五・〇〇  二四・四〇   五・〇〇   八・一〇
  金辺鉄道     一・〇〇  一〇・〇〇  一二・五〇   九・五〇
  近江鉄道     一・〇〇   六・五〇  二五・〇〇  一二・〇〇
  中国鉄道     一・〇〇   五・五〇  一五・五〇   四・八〇
  京姫鉄道     〇・五〇   三・〇〇   一・〇〇   〇・二〇
  大社両山鉄道   〇・五〇   二・〇〇   一・〇〇   〇・三〇
  東洋汽船会社   (権利)   九・〇〇  一二・五〇   八・七〇
  興業銀行     (権利)   三・〇〇  一二・五〇   九・五〇
  相模鉄道     一・〇〇   八・五〇  二五・〇〇  一九・〇〇
  東武鉄道     一・〇〇  二〇・〇〇   一・〇〇   五・八〇

 諸株式の上に起れるこの市価の崩落は、独り企業心を打撃して之を沮喪せしめたるに止まらずして、又大に信用を破壊し、金融界を俄に困難に陥れた。而して其逼迫が大阪に於て殊に強く現はれ、殆んど小恐慌の状態を暴露した。
 二十九年秋季は尚新事業計画の盛んに進行中であつたに拘らず、其一面金融は益々緊張し、例に依て早くも恐慌来の声を聞くに至つた。
 - 第21巻 p.309 -ページ画像 
而して通例なら金融の緩むべき十月に於ても愈々引締り、屈指の大銀行と雖も容易に貸出さぬ程で、又早くも救済の声さへ聞くに至つた。恰かも其頃、大阪市の糸商大門利兵衛の振出した一万二千円の約束手形が不渡となりて、同市の加島銀行の為に財産を差押へられ、大門氏を頭取とする大阪同盟貯蓄銀行は俄に預金の取付に逢ひ、其他大門氏の関係銀行たる島之内銀行、讃岐の琴平銀行大阪支店も、取付に逢ふて、何れも支払を停止した。のみでない、大阪手形交換所同盟銀行三十有余行の中、景気に乗じて営業を過度に拡張したものもありて、中には一行にして百万円近くの手形を売出し、其他借入一方の窮迫銀行も三・四を数へ、これ等が又加りて銀行間の警戒愈々厳重となり、銀行間の融通殆んど杜絶し、交換日歩三銭七厘に昂騰し取引僅に一万円に減少した日さへあつたといふ。この影響は遂に発して、手形交換所に於て盛んに手形を売出した第四十七・第七十九の国立銀行、大阪明治銀行・大阪銀行・天満銀行・天王寺銀行・木津銀行・玉造銀行・逸見銀行・近江銀行等に、預金取付となり、就中、旧幕以来有名な両替商であつた逸見銀行は融通の途を失ひ、若し同行にして支払を停止せば、手形の売出百万円に近く、預金は五十万円に上りしを以て、其影響の甚大なるべきを憂へ、同盟銀行は之が救済の途を講じ、同盟銀行七行の保証によりて日本銀行大阪支店より三十万円を借入れ、僅に其破綻を弥縫した。
 大阪金融市場の景況斯の如く急迫せるを以て、早くより銀行業者はその救済に日夜奔走し、大阪商業会議所は日本銀行に救済の道を求むることを決議し、日本銀行又之に処する方針を定めて大阪支店に訓示したが、未だ其訓示なき以前に於て大阪支店主任川上佐七郎理事は専断を以て、同盟銀行聯帯の責任を担保として手形三百万円の割引を承諾した。此為に本支店間に衝突を生じ、川上理事は遂に辞職したが併し川田総裁は川上理事の然諾を重んじて之を実行することを宣言した然るに第一銀行大阪支店及三井銀行大阪支店はこの聯合を脱したので残存六銀行の懇請により日本銀行は三百万円を限り融通を与へた。
 之と同時に、東京方面に於ても、木綿問屋三・四の不渡手形を端緒として、それ等に関聯せる融通手形を濫発せし同業数十店に危機を醸し信用取引大に警戒せられ、就中機業地を窮地に陥れ佐羽吉の不渡事件を生じた。佐羽吉は桐生の織物仲継商佐羽吉右衛門のことにして、関東第一流商と称せられ、桐生・足利・伊勢崎の機業家と密接関係を有し、その得意、東京・横浜・名古屋・大阪等に広く亘り、濫発手形百万円と称せられ、此事件は、銀行家・機業家・製糸家等をいたく驚愕せしめた。而して其結果の重大を恐れ、東西相応じて救済に努め、整理幸ひに成りたるも、之が為に金融を大に渋滞せしめた。
 以上に依て、反動の兆候は二十九年の末季、或は秋季(七・八・九の三ケ月に於て入超が最も多額に上つた)に於て、既に認め得られるが、併し、物価指数に依りて見る限り、三十年四月迄は、尚ほ騰貴を続けてゐたので、財界が一般に反動を感知したのは、春以後のことに属するようだ。而して反動期の困難の絶頂も亦、実に三十年の下半季から三十一年の春期にかけてゞあつたことは、前に掲げた日本銀行の
 - 第21巻 p.310 -ページ画像 
利上げの続発に依つて、善く伺はれる。
 前叙の如く、三十年六月から三十一年三月に至る間に五回の利上げを行ひ、貸付日歩七厘になつた。日本銀行の金利が此高率に上つたことは、次に説く三十四年の恐慌期を外にすれば、絶無のことである。尤も、川田小一郎総裁が二十九年十月二十一日に死去し、岩崎弥之助氏が同総裁職を襲ひて日本銀行の金利政策にも改革を行ひ、従来、何時の頃からか、出来るだけ金利を動かさぬ方針を、此時から事情に応じて動かす方針に改めたことも、かく利上げを頻繁ならしめた理由の一つであつたらう。だが兎に角、当時の金融逼迫が如何に猛烈なりしかは、右の外、当時の市中金利の暴騰と、正貨準備の激減の二事に依て善く伺ひ得る。例へば次の如し。
    兌換銀行券発行高

             正貨準備        保証準備         合計
                   円           円           円
二十九年十二月末 一三二、七三〇、一九二  六五、五八三、七〇四 一九八、三一三、八九六
三十一年五月末   六二、〇五三、〇〇九 一一九、七六六、二三〇 一八一、八一九、二三九

    東京金利貸付日歩

            最高     最低     平均
            銭      銭      銭
  二十九年五月   二・六三   二・二八   二・四三
  三十一年六月   三・三四   三・〇六   三・二〇

 二十九年・三十年には商品貿易の入超額累計して一億一千万円に上れるに拘らず、その一方、尚正貨の入超を続け、両年の累計約九千万円(内三十年入超六千二百余万円)に達せるは、一見奇異なる如きも併し、日本銀行の正貨準備が二十九年十二月末の一億三千二百七十三万円を以て当時の最多を劃した事実に依て見ると、三十年の正貨入超は、先きの所謂償金預合法に依て、正貨準備に繰込めるものを正貨で現送せるものであらう。併し何れにしても、二十九年末から三十一年五月末に至る十七ケ月間に、正貨準備は七千七十万円弱を減じて、六千二百万円になり、保証発行は六千五百万円より一億一千九百万円に激増し、而かも兌換銀行券発行高は一億九千八百万円から一億七千四百万円に収縮した。金融逼迫の如何に甚だしかつたかも思ひ遣られるが、又実に当時、正貨準備は辛うじて兌換銀行券発行総額の三分の一を維持し得たのである。岩崎総裁は此形勢を見て、断然利上の連発と引締政策とを敢行したものだと伝へられる。
 こゝに一言し置きたきは、銀行増設の激甚であつたことである。既述の如く、二十八年秋季以後に於ける企業熱の中心は鉄道であつたと雖、併し銀行業の設立熱は此時程熾烈を極めた場合はない。試みに左にその増設の模様を示す。


         行数     公称資本金       払込資本金     払込資本対前年増加
                        円           円          円
  廿七年末    八六九 一二九、〇六四、〇〇〇 一〇一、四〇八、八八一  六、八九六、〇三三
  廿八年末  一、〇四三 一六九、〇五四、九七九 一三〇、二三三、四七〇 二八、八二四、五八九
  廿九年末  一、三三八 二四五、八九四、五四四 一六六、二二二、二八一 三五、九八八、八一一
  三十年末  一、五九九 三二二、七二二、一一四 二一〇、四八二、三六四 四四、二六〇、〇八三
  卅一年末  一、八〇六 三八四、九九五、五三四 二五二、六八三、二四一 四二、二〇〇、八七七

 善く雨後の筍の如しと云ふが当時の銀行新設は正にそれであつた。これ戦時戦後に於て銀行の利益が非常に増加した事実に刺撃せられた
 - 第21巻 p.311 -ページ画像 
結果である。例へば二十六年には、銀行の資本金百円に対する純益は全国を平均して十六円五十七銭であつた。それが二十七年には十七円二十二銭に、二十八年には二十円五十八銭に、二十九年には二十七円九十三銭に増加した。当時銀行熱に犯されたのも偶然でない。而して三十一年に至る四年間に、銀行数は八百六十九行より一千八百六行に払込資本は一億一百万円から二億五千二百万円になつた。而して是等新旧の銀行は、当時の企業勃興、景気の旺盛に乗じて、其信用を極度に利用し、其資力を百般の投機に放下した。されば、一度反動期に入るや、遂に退きも進みも出来ぬ窮地に陥り、第一に、銀行が救済を叫ばねばならなくなつた事情は全くこゝにある。
 上記の如く日清戦後第一次の反動は、二十九年秋季に於て早く其端を発したと雖、併し物価は其後も続いて騰貴した。例へば、日本銀行の物価指数(明治二十年一月を一〇〇とせるもの)に従へば、二十九年十二月の一五三を一時の最高として、三十年一月には一四六、同二月には一四七を示したと雖、三月には反騰して一五二、四月には一六一に、十一月には更に一七四に上進した。其一原因としては、勿論当時の銀価下落を挙げねばならぬ。即銀価は、二十九年上半季は概して三十片台にあつたが、三十年八月には二十五片になつた。併しながら最も有力なる事情は償金の流入である。政府はこの償金を以て戦費及軍備拡張費に充て、之を民間に撒布したので、一般消費は依然として盛んであつた。されば当時に於ける反動の打撃の中心は、企業の急なる新設拡張となり、金融が急激なる逼迫に陥り、株価の下落と投機の失敗とから、所謂株屋・銀行業者等で、一局部の現象に過ぎなかつたのである。
 併しながら三十年十月二十三日に日本銀行が第三回目の利上(貸付二銭五厘、割引二銭二厘)を行へる際には、金本位採用(十月一日実施)・銀貨下落・上海金融の逼迫等の諸事情から、紡績業者の困難を惹起し、延いて既に一・二銀行の支払停止をも見、更に三十年末に行はんとした日本銀行の利上は之を中止した程であつたが、市中金利が続騰するので、日本銀行は三十一年二月九日に第四回、次で三月十四日に第五回の利上(貸付二銭七厘、割引二銭四厘)を断行した上に、担保価格を引下げて時価の六掛とした。於是乎、市中銀行の警戒と相待て金融益々渋滞し、投機者は息を絶たれ大銀行は小銀行との取引を戒め、遂に久留米銀行は支払停止をし、八王寺の織物仲買商城所林七の振出手形二十万円の支払停止を動機として、関東機業地は又々非常の困難と不安に襲はれた。
 三十一年四月に入り、右久留米銀行支払停止事件を端緒として、又救済運動起り、株屋は政党に渡りをつけて鉄道国有論を主張せしめ、京都商業会議所は農工銀行に割増債券を発行せしむることを決議し、大阪商業会議所は外資輸入を決議し、東京商業会議所は償金を以て公債を償還することを建議し、大阪実業家は日本勧業銀行をして十分に貸付を為さしむると同時に、日本銀行の金利引上を中止することを政府に建議した。是より先き、三十一年一月松方内閣倒れて、伊藤内閣之に代り、井上馨が大蔵大臣に就職した。而して井上蔵相は遂に救済
 - 第21巻 p.312 -ページ画像 
要求の叫びに耳を仮し、政府は公債を募集せず、鉄道を買収せず、併しながら、
 (一) 政府は勧業債券五百万円を引受け工業貸付を為さしむること(同時に従来一口の貸付十二万円を超ゆべからずとの内規を拡張すること)
 (二) 日本銀行をして償金の一部を以て公債の買入をなさしめ以て資金の䟽通を計ること
 (三) 日本銀行の利子は今後これ以上引上げざる方針を取ること
右の救済策を行ふことに決し、三十一年六月より、政府は約三千八百七十万円の公債を買収して、資金を市場に放ち、勧業銀行に於ては三十一年中に約二百三十七万円の工業貸付をなした。而して之に由て財界は辛うじて一時の窮厄を凌ぐことを得た。惟ふに僅々四千万円内外の公債買上を以て、当時の危急を能く救済し得た事実に徴しても、財界の所謂困難なるものゝ、株屋・銀行屋を中心とせる局部的であつたことを反証するに足るであらう。
 尚こゝに注意を要することは、当時政府が使用した救済資金は、一部は之を償金残額の流用に仰ぎ、他の一部は三十年に海外に売出した既発内債(預金部手持)四千三百万円を利用したことで、何れも外金の流入に外ならぬ。



〔参考〕金融六十年史 東洋経済新報社編 第三九三―三九七頁 大正一三年一二月(DK210050k-0006)
第21巻 p.312-314 ページ画像

金融六十年史 東洋経済新報社編  第三九三―三九七頁 大正一三年一二月
    償金の収支
 対清媾和条約の談判に於て、我全権伊藤博文は二億両の賠償金と台湾及遼東半島の割譲とを、支那の李鴻章をして承諾せしめ、我朝野は戦勝の歓喜を味はんとせる刹那、即ち二十八年四月二十三日に突如として露・仏・独の三国の干渉に逢ひ、精神的の大打撃を受けて、実に意気沮喪した。併し、頭上の光栄は一朝にして奪はれ、之に代へて、汚辱を蒙らされた遺恨は骨髄に徹し、実に「嘗胆臥薪」の叫びを以て国を充たすに至つた。其結果は則ち謂ふ所の「十年計画」なる陸海軍備の大拡張計画となつて現はれ、償金の大部分はその経費に吸込まれたのみでなく、之が為に、爾後我財政経済は永く累せられるを免かれ得なかつた。併し其点は、財政問題になるから、こゝには触れぬこととし、単に金融上の見地から、償金収支の関係を簡記する。先づ償金計算並に其領収状態を表示する。
      償金計算及其領収

                 償金            償金種類及領収日
一、庫平銀      二〇〇、〇〇〇、〇〇〇両       軍費賠償金
一、同         一〇、八三三、三三三両       賠償金利子
  此英貨       三二、九〇〇、九八〇磅七志四片七五
 第一回領収       八、二二五、二四五磅一志一〇片七五 二十八年十月三十一日
 第二回領収       八、二二五、二四五磅一志一〇片七五 二十九年五月八日
  第一回利子        二〇五、六三一磅二志六片    同上
  第二回利子        八二二、五二四磅一〇志二片   二十九年十一月七日
 第三回領収       二、七四一、七四八磅七志三片    三十年五月八日
  第三回利子         六八、五四三磅一四志二片   同上
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  第四回利子        六八五、四三七磅一志一〇片   三十年十一月八日
 第四回領収      一一、九二六、六〇五磅七志九片    三十一年五月七日
一、庫平銀       三〇、〇〇〇、〇〇〇両       遼東還附報償金
 英貨領収        四、九三五、一四七磅一志一片七五  二十八年十一月十六日
一、庫平銀        一、五〇〇、〇〇〇両       威海衛守備費償却金
                              二十九年五月八日
 英貨領収          二四六、七五七磅七志     三十年五月八日  三回領収
                              三十一年五月七日
総計庫平銀      二三一、五〇〇、〇〇〇両
 英貨         三八、〇八二、八八四磅一五志六片五
 邦貨        三六四、〇七九、一九五円
  外に         八、五二九、一九二円二十一銭八厘 償金運用利殖並立換差増高
邦貨総計       三七二、五九九、四八八円

 斯の如く償金は遼東還附報償金を合せて、二十八年十月三十一日から、三十一年五月七日に至る間に五回に領収せられ、之に威海衛守備費償却金と、更に償金の運用利殖金を合せると、実に約三億七千二百六十万円の巨額に上る。右の内、威海衛守備費償却金は、償金とは稍や趣きを異にせる理由から、償金特別会計に入れずして、一般会計に繰入れ、其他の償金は之を特別会計の下に収入し、政府は之を左の如き用途に振り当てた。
  償金遼東還附報償金及其運用利殖高交換高
                          円
                三六四、五九九、六五六
    内
   臨時軍事費補足       七八、九五七、一六四・二五三
   陸軍拡張費         五六、七九八、六三八・九八九
   海軍拡張費        一三九、二五九、三八七・一五九
   製鉄所創立費           五七九、七六二・九九三
   三十年度臨時軍事費及運輸通信部一般会計繰入
                  三、二一四、四八四・〇二〇
   三十一年度一般会計補充繰入 一二、〇〇〇、〇〇〇・〇〇〇
   帝室御料へ編入       二〇、〇〇〇、〇〇〇・〇〇〇
   軍艦水雷艇補充基金     三〇、〇〇〇、〇〇〇・〇〇〇
   教育基金          一〇、〇〇〇、〇〇〇・〇〇〇
    差引
   明治三十六年三月三十一日現在残高
                  三、七〇〇、二一八・二四六
 以上の使途の中、一言を要するは、帝室御料編入及三基金の形態についてゞある。帝室御料編入は、現金を以てしたは僅に四十五円《(万脱カ)》だけで、他は、軍事公債及び整理公債の時価を以てした。併し三基金は非常軍事準備金であるから、之を内国公債で保有するを許さぬ。だからと云ふて、其全部を正貨で埋蔵するは容易な負担でない。そこで、一千五百万円余を金貨金地金を以て繰入れ、其他は、我四分利及五分利の英貨公債(額面約三千八百万円)を以て繰入れ、金貨金地金の千五百万円余は、政府の必要ある時返納の条件を附して、日本銀行に預け入れた。
 償金の使途は右の如くであつたから、我が金融市場に直接資金として供給せられたものは、帝室御料編入の二千万円と、三基金中の正貨を以て日本銀行に預入した一千五百万円の二口、合計三千五百万円に
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過ぎない。其他の三億二千五百八十万円余は、戦費及軍備拡張其他の不生産的事業に、悉く消費せられて了つたのである。