デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

7章 経済団体及ビ民間諸会
1節 商業会議所
3款 東京商業会議所
■綱文

第21巻 p.386-410(DK210067k) ページ画像

明治32年1月21日(1899年)

是日当会議所、東邦協会ト聯合シテ清国視察ノ為メ英国聯合商業会議所ヨリ派遣セラレタルチヤールス・ベレスフオード卿ノ歓迎会ヲ帝国ホテルニ開ク。栄一当会議所ヲ代表シテ歓迎ノ辞ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三二年(DK210067k-0001)
第21巻 p.386-387 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三二年       (渋沢子爵家所蔵)
一月十二日 晴
午前十一時農商務省ニ抵リ、益田孝氏ト共ニ曾根大臣《(禰)》ニ面会シ、清国ニ関スル貸金ノ事及英国ヨリ渡来セシベルスフオルト卿歓迎ノ事ヲ談話ス ○中略 稲垣満治郎氏《(稲垣満次郎氏)》ニ書ヲ発シテベルスフオールト氏歓迎ノ事ヲ申遣ス
一月十三日 晴
○上略 稲垣満治郎氏来会ス、ベレスフオールト卿歓迎会ノ事ヲ談話ス
○下略
一月十四日 晴
○上略
午後 ○中略 東京商業会議所ニ抵リ、議事ヲ開ク、夜九時過帰宅ス
一月十五日 晴
午前 ○中略 英国公使館ニ抵リサトウ公使ニ面会シテベ卿歓迎会ノ事ヲ談ス、然レトモ卿ノ滞留時日短縮スルヲ以テ確諾ヲ得ル能ハスシテ去ル
○下略
一月十六日 晴
○上略
午後、青木外務ヲ官邸ニ訪フ、ベレスフオールト卿歓迎ノ事ヲ談話ス
○下略
一月十七日 晴
○上略 此夜稲垣満治郎氏来リテ、ベ卿歓迎会ノ事ヲ協議シ、東邦協会ト商業会議所ト合併ノ事ヲ打合セテ明日其決定ヲ約ス、小崎懋氏 ○東京商業会議所書記来会ス
一月十八日
朝商業会議所ニ於テ役員会ヲ開キ、ベ卿歓迎会ノ事 ○中略 ヲ議定ス ○下略
十九日 ○一月 晴
朝来ベレスフオール卿歓迎会ニ於テ演説スヘキ腹按ヲ筆記シテ小崎氏
 - 第21巻 p.387 -ページ画像 
ニ交付ス ○中略 此夜大倉氏宅ニ於テベ卿ノ招宴ニ参席ス
一月二十日 晴
○上略 午後帰宅、七時青木外務私邸ニ於テベレスフオール卿招宴ニ参席ス、山県総理・サトウ公使其他十数名来会ス
一月二十一日 晴 大風
○上略 今夕五時ヨリ帝国ホテルニ於テヘレスフオールト卿歓迎ノ事アルヲ以テ帰宅、直ニ帝国ホテルニ抵リ、歓迎会ニ従事ス、此夜来客無慮五百人、卿ト共ニ食事スル者モ二百二十人余ニ及フ、頗ル盛会ナリ、近衛公爵ト共ニ卿ヲ歓迎スルニ付テノ事ヲ演説ス、ベ卿演説畢テ夜十一時帰宿ス
   ○稲垣満次郎ハ東邦協会ノ役員ナリ。東邦協会ハ明治二十三年ニ創設サレタル対清文化団体ナリ。


東京商業会議所月報 第七八号・第三頁 明治三二年二月 【○同月 ○一月十四日…】(DK210067k-0002)
第21巻 p.387 ページ画像

東京商業会議所月報  第七八号・第三頁 明治三二年二月
○同月 ○一月十四日午後二時、本会議所ニ於テ役員会議ヲ開キ、ベレスフオード卿歓迎ノ件ヲ審議シ、午後四時閉会ス


東京商業会議所月報 第七八号・第一―二頁 明治三二年二月 【○明治三十二年一月十…】(DK210067k-0003)
第21巻 p.387 ページ画像

東京商業会議所月報  第七八号・第一―二頁 明治三二年二月
○明治三十二年一月十四日、本会議所ニ於テ第七十八回臨時会議ヲ開ク、当日ノ出席者左ノ如シ
 河村隆実君 ○外三十一名氏名略
午後三時開議、会頭渋沢栄一君議長席ニ着キ、左ノ件々ヲ議事ニ附シ午後六時四十分閉会ス
○中略
 一ベレスフオード卿歓迎ノ件 (役員会議提出)
本件ハ役員会議ノ提出ニ係リ、其ノ要旨ハ、清国商業視察ノ途次渡来セル英国聯合商業会議所派遣員ベレスフオード卿ノ為メニ歓迎会ヲ開クヘシト云フニ在リ、審議ノ末全会一致ヲ以テ之レヲ可決シ、歓迎ノ準備等ハ一切之レヲ役員会議ニ委託スルニ決ス


東京商業会議所月報 第七八号・第五―二四頁 明治三二年二月 ○チヤールス、ベレスフオード卿歓招会記事(DK210067k-0004)
第21巻 p.387-405 ページ画像

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〔参考〕竜門雑誌 第一二八号・第一八―二四頁 明治三二年一月 ○遠来の貴賓(DK210067k-0005)
第21巻 p.405-410 ページ画像

竜門雑誌  第一二八号・第一八―二四頁 明治三二年一月
 - 第21巻 p.406 -ページ画像 
    ○遠来の貴賓
 ベレスフオード卿の正名はロード チヤーレス ウヰリアム デ ラ ボーア ベレスフオードにして、弘化三年二月十日(西暦を本邦暦に改たむ)を以つて生まれ、安政六年十二月海軍候補生となり慶応二年一月少尉となり、明治元年九月大尉となり、爾後陞進して三十年九月少将となれり、其顕著なる事歴は明治十五年七月十一日埃及亜歴山砦砲撃の時砲艦コンドル号に艦長として武勇の誉高く、此砲撃の終はりし後亜歴山府に上陸し、海兵を以て警察制度を組織し、全府の安寧を保護したるによれり、諸人は卿が勇猛の武将たるのみならず、亦其行政事務の敏腕家たるを賞讃せり、卿が少佐より大佐に昇進せるは此役の戦功によれるなり、其後明治十七年十一月より翌年三月までの間ゴールドン将軍応援として埃及に赴き、ナイル河の上流なるスーダン戦に臨み大功あり、名誉ある勲章を授けられ、議院に於ても賞讃を得たり、明治十八年中野戦に使用する機砲の車台を発明し疾走車と名く、明治三十年一月より同年十一月までは女皇の侍従武官となれり、卿の議院生活は明治十八年保守党を代表して西マレルポーン選出の議員となれるに始まり、十九年に再選せられソースベリー内閣に海軍次官となり、昨年一月更らに選ばれて三度議院に入る、露国旅順口に拠るの警報英国に達するや、卿が議院の内外に在りて盛に日英同盟論を主張し、爾来今日に及び、全英国の輿望を負ひ清国視察の途に就きたるなり、卿の本邦に滞在中の概況を左に摘記すべし
△神戸  卿は一月十三日午前コプチツク号にて神戸和田岬に着し、一応の検疫を経て十時上陸せり、随行者は秘書グレー氏及従者一名にて、英国領事其他の出迎を受け、後馬車にて兵庫県庁に到り訪問の礼を為し、夫より休憩所なる香港上海銀行支店長の家に投じたり支那協会支部は此日オリエンタル ホテルに午餐会を催ほして招待せしかば、卿は十二時半グレイ氏を随へて之に臨めり、列席者は総て五十八名、協会長グルーム氏先づ起て卿の為に祝杯を挙げ、卿は之に対する挨拶及び少時間の商業的談話を為し、午後二時散会し、夫より神戸倶楽部に入りて玉突の遊戯を試み、四時頃休憩所に帰り五時汽車に搭じて大阪に向ひたるなり、協会に於ける演説の要領左の如し
余は清国の社稷を保全し之をして完全なる発達を遂げしめんことを希望す、日英米独同盟は之が目的を達するに最も緊切なりと信ず、抑も同盟の目的は戦争を未然に防遏し、通商貿易の平和的事業を振張し、兼ねて清国の門戸を開き、其富源を開発する所以なり、若し夫れ門戸開放主義の真に清国に行はれんか、上海・広東の繁栄は数年ならずして人目を驚かすものあらん、米と云ひ、独と云ひ、日と云ふも、咸な我英国と意見を同うし、之と利害の相伴ふものなるを以て、此同盟は吾人の最も力を致すべき所なり、殊に日英両国間に在りては一層親睦を厚うせざるへからず、思ふに諸君は現に日本神戸の地に在りて商業を営める人なれば、能く相互の感情を疏通するに努められん事を望む日本の国力は実に頼母しき者あり、近き将来に於て其商工業の著しく
 - 第21巻 p.407 -ページ画像 
発達せん事期して待つべし、加ふるに改正条約の実施近きに在りて、政府は新に法律を制定し開国進取文明国の班に列せんことを努む、従つて英人の利益を享くる亦少しとせず、諸君請ふ、日英間親睦の情諠を保てよ、余は微力なりと雖も亦之が為に力を尽し、日本当局者に説く所あらんと欲すと、云々
△大阪  三日午後六時卅分頃大阪に着し、神戸より同車せしは随行秘書グレー氏、英国領事ホール氏及び大阪府庁の前田官房属等にて梅田停車場に着するや、大阪の歓迎会発起人の総代として田村太兵衛・平沼淑郎・土居通夫・浜田健次郎・小泉清左衛門の諸氏其他西沢書記等の出迎へあり、直に府庁より差廻はされたる二頭引馬車にて領事秘書等と大阪ホテルに入り一泊し、翌十四日は早朝より土居商業会議所会頭・浜田書記長其他の案内にて先づ大阪城内を見物し其れより砲兵工廠・精糖会社等の模様を巡覧し、終りて大阪ホテルなる歓迎会に臨みしは二時頃なりし、歓迎会の来会者は府知事・商業会議所会頭・市参事会員・市府会議員等総て百二三十名にて立食の饗宴を開き、卿の演説あり、終て大阪鉄工所・大阪紡績会社等を順覧したり、歓迎会に於ける演説の要旨下の如し
今度予が日本に来航せしは日本の事情を視察し、将来為す所あらんが為也、元来日本は商工業の点に於て大に英国に似たる所あり又其国の狭小なる割合に人口多き点も英国に似たり、将来食物の供給を外国に仰ぎ内に商工業を益々盛にするの必要ある点も英国に似たり、日本は斯る国柄なれば将来英国の如く外に殖民地を有するの必要あり、斯く英国と相似たる点あれば其結果も亦英国に類せざるを得ず、即ち商工立国の点は英国と同様ならざるべからず、予は是に於てか思ふ、日本と英国は必ず聯合し、之に米国をも聯合して大に世界の商工業を発達進歩せしめざる可らず、予の斯く同盟を主張するは決して国際上・軍事上の為には非ずして、全く右の意に外ならざる也、諸君は世界の商工業に対し大義務を負ふ者なれば、願くは奮発せられよ、云々
△京都  十五日午前十一時到着、知事・市長其他有志者の案内にて京都ホテルに入り、午後一時より水利事務所を一見し、有志者の催に係る美術品陳列場に抵り、夫より知恩院を視て東本願寺に行き、法主大谷伯の案内にて本堂其他を一覧し、五時より当地有志者の請に依り議事堂にて演説をなし、終りてホテルに於る有志者の歓迎会に臨み、日本料理の饗応を受けたり、来会者は知事・書記官・参事官・市長・助役・商業会議所会頭其他の紳士・紳商数十名にて頗る盛会なりしと云ふ、演説の大要左の如し
紳士諸君、此大都会に余を歓迎せられしを謝す、又今夜来駕ありて余の意見を清聴さるゝを謝す、今回余が東洋に来遊するの使命は英国に取りて重大なるのみならず、実に東洋に取りて重大の使命を帯ぶるものなり、余の来遊せしは海軍少将としての旅行に非ず、又国会議員としての旅行に非ず、即ち英国の勢力(英国の貿易)を代表して来遊せしなり、即ち英蘭・愛蘭聯合商業会議所の代表として送られ、今日日本が如何に発達したるか、将た如何に発達しつゝあるか、又如何なる方法を取れば、将来益々発達の域に達するか、此等の諸件を観察せん
 - 第21巻 p.408 -ページ画像 
が為めなり、抑も支那の門戸開放は英国人の共に主張する所なり、余は英国を出立する前に於て此問題を研究せし結果、此開放を成就するには日・英・米・独四国同盟の第一必要なるを感ぜり、此の商業上同盟の基礎は支那を現在のまゝに保全すること、支那の諸港を開放することに在り、而して此同盟は平和の同盟なり、戦争の同盟に非ざるなり、此同盟にして成功するあらば、外国連衡して支那の地を割取り以て過重の関税を課せんとするを防ぐに取りて、大勢力具はりしものたるを疑はず
余が支那漫遊中の観察に依れば、支那人には英人に対するのみならず日本人に対しても大に信用の念あるを発見せり、元来支那人は商売の人民なり、故に彼等は日・英・米と共に貿易を営と云ふこと、即ち四国同盟の利益を容易に了解するを得るなり、而して余は此意見を以て支那の有力なる商業家並に他の支那人に話したるに、彼等は大に喜びて余の意見を容れ、支那開放の事も彼等は喜んで余の意見を容れたり是を以て余は帰国前に当り貴国に来りて、貴国の政治家並に商業団体に対して余の意見を陳述し、以て諸君の意見を窺ふの必要なるを信じて来遊せしなり
是を以て今夕来会の諸君にして幸に(第一)支那の門戸開放と(第二)日・英・米・独四国同盟と(第三)支那を現在のまゝにて進取の域に導く、と云へる此三箇条に同意し賜ひ、爰に右同意の決議を得るならば、余が帰国の際、大なる土産となるべしと存ず、若し斯の如き決議の出来るならば、西帝国に対して東帝国より音信を伝ふるものゝ如く如何に日本が支那に対して利害を有するの大なるかを現はすものと謂ふべし、余は信ず、遠からざる中に必らず穏和なる且つ礼儀を具へたる方法を以て、支那に対し一の処置を為すの必要あるを、何となれば現今列国中支那の割譲を望むもの数多ければなり、若し此等列国にして支那に勢力を占むるに至らば、彼等は支那に於て必らず重き関税を課するに至るは是れ亦疑ふべからざる事実なり
余の意見は以上述べしが如し、諸君の十分に清聴されしは余の大に感謝する所なり、且つ余は此京都を巡覧せしことに付き諸君に感謝せざるを得ず、今日余は水利事務所に至り、水力発電に依りて水車の運転するを見、又発電器をも熟視せり、事業の整頓して装置の精巧なるは余の感嘆に耐へざる所ろ、余は帰国の後此有様を我国人に演説せんと欲す、又余は今日有名なる寺院(本願寺)を見たり、余は世界の各地を漫遊したれど、未だ曾て此の寺院程宏壮美麗なるを見ざりき、余は思ふ、此寺院は古昔の建築上の思想を今日適用せしの一例たるを、換言すれば奴隷の力を以て此寺院を作りしにあらずして、衆人の信仰心より此を建てしことを信じ、諸君の清聴を汚したるを謝す、余が日本語を繰るを得ざるは遺憾の至なれども、他日多少之を繰るを得るに至らんか、云々
△東京  十七日午前八時四十九分新橋に来着し、英国公使館よりの出迎馬車にて直に同館に入り、同夜公使サトー氏卿の為め晩餐会を開き山県総理・西郷内務・青木外務・山本海軍の各大臣も招待せられたり、十九日午後六時より大倉喜八郎氏の招宴に臨み、廿一日は
 - 第21巻 p.409 -ページ画像 
東邦協会及東京商業会議所の歓迎会に出席し、廿二日午後二時より大審院・控訴院及東京地方裁判所を巡覧し、廿三日午前十時三十分英国公使サトー氏に伴はれ、秘書記官グレー氏を従へ参内し、鳳凰の間にて西郷内務大臣・田中宮内大臣・徳大寺内大臣等侍立し 天皇陛下に謁見仰付られ、同夜横浜支那協会の歓迎会に列し、廿五日横浜解鎖の亜米利加丸にて米国を経て帰英の途に上られたり
△横浜  二十三日夜横浜のオリエンタル ホテルに於て催ほされたる支那協会歓迎会に臨みしが、当夜の来会者は百六十二人にして、サミユエル商会のミツチエル氏会長となり、日本天皇・英国女皇両陛下の万歳と、卿の健康を祝し、其れより卿の功績を称揚し、清国の開放は我々の切望する所にして、卿が之を主張し、延て四国の商業同盟を唱道するに至りたる其功労は決して没す可からず、又日本の進歩は著しきものにして、今後もますます進歩し、我々英人も其利益に均霑するを希望すれども、日本の為めに計るに貿易の隆盛を望まば、先づ再輸出に対し寛大の政略を施さゞる可からず、又日本は其商工業の発達に外資を要すれども土地所有権を外人に許すと共に資本に重税を課せざること必要なる可しと述べたり、之に次でベレスフオード卿は答辞を述べ、会長ミツチユエル氏は謝辞を述べたる後、浅田知事の健康を祝したるに依り、同知事は招待の厚意を謝し、卿の来遊は日英の関係を一層親密ならしむる力ある可きこと確実にして、其主張する門戸開放の商業増進に必ず効ある可しと述べ次に会長は横浜商業会議所会頭大谷氏の健康を祝し、氏は卿の健康を祝したり、斯て散会したるは夜半なりし、卿の演説せる要領左の如し
斯の如き盛大なる歓迎に接したるは余の深く感謝する所にして、余の功績に付き称揚を受けたれども、国家の為め全力を尽し敢て声誉を求めざるは英人の本色なるのみ、毫も傲るに足らず、尤も余は実力に富める後援を有すれば、帰国の上は絶東の商業に微功を致さん事を望む扨余が四国同盟を主張するは是れぞ我商業の発達を計り、併せて各国を利する最良策なりと信ずるが故にして、東洋に於ける商業の発達を計らんとせば、支那を開放せしむると共に其保全を維持せざる可からず、其れには日・英・米・独の四国相結託せざる可からず、余は此会の招待を受けたるとき、万邦同家ならん事を希望せり、如何となれば所謂英国の荘厳孤立時代は既に経過し去りたればなり、現今我英国の領土は広大にして、若し領内に事変続出せば仮令ひ徴兵の制を用ふも充分これを制馭するを得ず、況んや外国と事端を開きたる時に於ておや、左れば我国に取り最も重要なる商業上の利益を全うせんと欲せば休戚を共にする国と結ばざる可からず、支那を開放せしむるに同盟を主張するも即ち此意に外ならず、又我国は今世紀の当初に於ける戦争に依り、海上権と共に世界の貿易権を専有したれども、今や専有の時代は去て競争者現はれたれば関税を公平にし、門戸を開放して、正々堂々の陣を張り相争はざる可からず
余は新条約中特に司法制度に関し、英人が其施行の円滑なるを望むのみならず、出来る限り円滑を計るの意なりと聞き欣喜に堪へず、由来
 - 第21巻 p.410 -ページ画像 
英人は法律秩序に敬意を失はざるを以て有名なる人民にして、日本政府も外国人に対する礼を知れは、司法上の事に付き注意を怠らず、未決囚に関しては英米の制度に則り、其罪跡の判定するまで無罪なる者として取扱ふならんと信ず、土地所有権に関しては余は既に屡々述ぶる所あり、諸君と意見を同うすれば今改めて云ふの必要なし、又日本が将来太平洋の商業中心地となる可しとの説も卑見と符合する所にして、尚資本その他の件に就ても貴説に同意すれども、諸事一度に其完成を望む可きに非ず、日本は既に急速の進歩を為したれば、是等の注文を穏かに日本政府に説かんか、必ず採用して之に応ずべし、余は世界を三周し、到る所に於て英国商人の所行を観察せしに、皆その業務に勤勉熱心にして、日本に在留する者も亦この例に漏れざるを知り得たり、但し東洋の英商は訴ふる所甚だ多く、中には最も至極なるものあれとも、多くは不当なりしが如し、嘗て清国在留の英商は余に向ひ我々英商は奮勉努力して東洋の商業を開始し他国民の為めに販路を開きしに、今や彼等は我れを圧倒せんとせりと説けり、余は彼の商人の不平に同意したれども、我英国の国運をして今日の盛大に至らしめ国富を増加したるは、取も直さず開放主義の結果にして、若し之を放棄せんか、却て本来の目的を破壊するに至る可し、他国人の来りて利益を占むると否とは問ふ所に非ず、要は平等不偏なる地歩を占むるに在るのみと答へたり
海軍と航海業とは恰も唇歯輔車の関係を有するものにして、我商業の進歩は此二者に依るものなれば、互に相助け合はん事を望む、抑も水夫・水兵の教育は極めて実地的ものにして、余の如きは下院に於て其乏しきを感じ、常に遺憾に堪へず、彼等は外交の事を知悉すること親しく、外務の局に当るものに優るは、即ち広く世界を周航し外交政略の結果を知るが故なり
東洋の商業に関する問題に就ては、前夜一時間以上に渉り既に意見を吐露し尽したれば、今事新らしく述ぶ可きものなけれども、斯く多数の優待を受けたるに就ては熱心に感謝の意を表する所なり、云々