デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

7章 経済団体及ビ民間諸会
2節 其他ノ経済団体及ビ民間諸会
6款 横浜経済会
■綱文

第23巻 p.62-69(DK230008k) ページ画像

明治32年10月24日(1899年)

是日栄一、横浜経済会ノ招請ニ応ジ、同市日進楼ニ於テ、同会々員ニ対シ「経済界ノ前途ニ対スル企望」ト題スル演説ヲ行フ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三二年(DK230008k-0001)
第23巻 p.62 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三二年       (渋沢子爵家所蔵)
九月十九日 曇
○上略 此夜ハ横浜経済会ヨリ演説ヲ依頼サレシモ風邪ノ為ニ辞シテ出席セス ○下略
   ○中略。
十月廿四日 晴
○上略 大磯発ノ汽車ニ搭シ四時過横浜ニ達ス、第一銀行支店ニ抵リテ長谷川一彦氏ニ面会ス ○中略 午後五時半横浜経済会幹事須川・矢田二氏来ル、蓋シ此夜同会ニ日進楼ニ招宴セラレタルニ依ル、六時一同相携テ日進楼ニ抵ル、来会ノ会員凡五・六十名ナルヘシ、食後経済界ノ前途ニ対スル企望ト名クル演題ヲ以テ一場ノ演説ヲ為ス、終ニ至リ経済界ノ態度ハ高尚ニ且剛毅ナルヘキ事ト云フニ至リテ、一同頗ル感激ノ体アリキ、夜九時横浜発ノ汽車ニテ十時過帰京、兜町宅ニ帰宿ス


横浜経済会報告 第一三号・第二五―三八頁 明治三二年一一月二一日(DK230008k-0002)
第23巻 p.62-69 ページ画像

横浜経済会報告  第一三号・第二五―三八頁 明治三二年一一月二一日
    第廿八例会に於ける渋沢栄一氏の演説
諸君、今夕は当経済会に御招待の御案内を受けまして諸君に御面会しますのは頗る光栄の至りで実に感謝に堪いませぬ、全体先月出るやうに仰せ下されまして必ず参上すると云ふ御約束を致しました処、生憎と持病が起りました為めに其節に止むを得ず御断りを申して誠に不都合千万の次第で唯赤面の外はございまぬ、全く病の然らしむる処で余儀なく長谷川君に願つて諸君に御執成しを願ひましたのでございます幸に御懇意を厚ふせられ感情を損すると云ふまでに至らぬで再び御招待を受けましたのは私の深く謝する次第でございました、左様に屡々御心配を煩して今夕参上致しましたのでございますから、何か平素心得て居る処を申上げるやうにとの事ゆえ喜んで申上げませぬではならぬのでございますが、更に妙案もございませぬから迚も諸君を益するなどゝ云ふことは為し得られぬであらうと考へます、唯心に感じ居りました二・三の事を申上げて御清聴を煩はさうと思ひます
私は玆に御話し致したいと思ひます事は経済界、即ち此経済社会の前途に付て一・二の希望を申上げたいと考へて居るのでございます、併しながら未来の事を申上げるに付ては順序として既往の沿革も玆に演ずべき必要があると思ひます、其経済界の有様は如何に進んで来たかさうして現今の有様は如何なる地位に在るか、此経済界は何う望むかと云ふやうに御話を致したく考へましたのでございます、但し既往の
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事に付ては時々或会などに於て申演べたことがありますで殆んど陳腐に属して居りますから諸君は言はぬでもと耳五月蠅思はれますか知れませぬが、此経済界の今日の有様を演ぶるとしては矢張故きことを再演せざるを得ぬかと思ひます、日本の経済界の歴史を古昔からずつと演ぶることは私に於ては出来ませぬが、仮りに維新以後の三十余年来の経過を見合せると其話は実に微弱なものである、建国に対して我国は瑞穂の国とか何とか云ひますが、経済……此経済と云ふ文字が果して適切なる文字なるや学説としては申上げ兼ねますが、私が申上げますのは商工業の事で……一般商工業其他の事は維新前の間は如何なる有様であつたかと云ふと、実に極く力の弱い位置の低いもので御話しにならぬ有様でありました、仮りに日本の其昔幕府時代……其昔は知りませぬが幕府の制度に依て見ると武士が国を護ると云ふに付て何人が其財本を拵えたかと云ふと其必要に応じて我々は財本を働らき出すと云ふやうに……職分の如く彼れ等は国を始めると云ふ本職の如く政事と商工業が分割されて居つて、商工業は政事の奴隷のやうになつて居つた、又幕府の制度として海外との交通を禁じてあつたから其時分の商売は小売商人であつたのでございます
維新後幸ひに商工業と云ふものゝ力が進むやうになりましたから商売……其商工業者自身の自動力が確かであつたかと云ふと悲しいかな左様でない、悉く皆政事の力から誘導されたと言はなければならぬやうに思ひます、試みに今現在の国の種々なる方面より観察しますと、譬へば海陸軍事上の事、運送の機関或は商業の仕組みなどゝ言ふものは皆吾々商工業から自動して行つたかと云ふとさうではなく政事の方から働らき掛けられて来て進んだやうに思ひます、けれども幸ひに此政事なり学問なり般べての事物が維新後の進歩と云ふものは皆海外に則り……即ち欧米に則つたのである、欧米の全体が何ふ云ふ有様かと云ふと殆んど国の力と云ふものは商工業者が国運を発達せしむる為めに殆んど一手に仕事を進めたるやうの有様でありまして、従て商業人も迫々に国の栄誉を増進して我々の力に依らなければならぬ、又此力の漸々進んで来るのが国の価値が増すのであると云ふことは共に商工業より追々進歩するやうになつて来るやうに見えます、此進歩の階段を概略申して見ると経済社会の浮沈が丁度七年又は五年位に一度張り又縮むと云ふやうな有様で所謂一伸一縮……緩むと云ふ字も悪からうが一寸適当な字を申上げかねますが進んで行つては……止まり進み過ぎて立止まり進んでは復た立止まるやうに波瀾をなして居るやうに思ひます、併し此三十余年間の経済界の事情を私が悉く説明することは出来ませぬが概略は記憶して居りますから玆に申述べやうと思ひます
維新の際に暫くの間大蔵省に出仕して居りました、明治四年頃商売人達と商売の景況を始めて見ました、其時分の商業と云ふものは殆んど銀行制度も頓となく、商売と云ふものも小売と云ふ手合ならではなかつた、維新の時に通商司と云ふものを置かれて頻りに会社組織を政事家が企て種々なる勧誘をされたけれども、其れ等は遂に明治四年・五年頃に至つて成立ち掛けて倒れた、為替なり、開墾会社なり、海上保険なり、各藩ともに企てられたが皆付け焼刃と云ふやうな次第で、仕
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組の良くなかつたのと適当な人を得なかつたのと、他動に勧誘されて成立つた為めに……財政上も一向其時分には整理しないのとで十分に成立たなかつたのであります、幕府の時分で云ふと御掛屋と云ふのが政府の金融に対する機関でありました、併し維新の際に三井・小野などゝ云ふ其時分の有力な人達が金を融通して功を奏された、種々なる財務の保護をして功を奏されました、明治四年頃の財政と云ふものは今日の日本銀行と云ふ役は三井・小野の為替組が取扱つて居りました明治七年《(四)》の七月十三日でありました廃藩置県の制度を布いて、各県に於て財政を一任することに付て、其租税を取扱ふ金の管理と云ふことは県官が取扱ふことが出来ぬから、相当の人にさせなければならぬと云ふので、三井・小野・島田の三軒が取扱ふやうになりました、其後米を租税に取ることを止めて金納に致した、其れが為めに大に経済社会に影響を与へて参りました、而して米に対する商業に付て商人の……米商人の営業の区域を拡げてやつたと云ふやうな有様でありまして六・七年頃に古るい習慣でありますから拡張と云ふ程ではありませぬが、経済社会が維新の後四・五年経過して余程発達して来ました、丁度明治七年の十月でございましたが小野組と云ふものが力不相応に拡張をしたので蹉鉄して閉店を致しました、此閉店の為めに車の両輪の如くなつて居りましたから三井も困難を致しましたが、実際実力が確かでありました為めに小野のやうに閉店しませぬかつたのみならず、三井は弥増し繁昌をして居りますが小野は遂に軽進した為めに失敗致しました、此小野組の失敗は一商人の失敗でありますから経済社会の影響と云ふ程に言はぬでも宜いか知れませぬが重もなる大阪・京都の店は余程影響を蒙むりました、丁度令私の関係して居る第一銀行も六年に発起して、最初三井・小野とに依て拵へられてあつたのでございます、一方の小野の閉店の為めに自分等も寝食を忘れて苦心したと云ふても宜しい位でございます、独り自分等が苦心せしのみならず政府も之では懲りて御掛屋為替方と云ふものに厳重なる方法を設けると云ふやうになりましたから八・九・十、此両三年の為めに七年迄で進み来つた経済社会が一つ進まんとして踟蹰するやうになつたと考へて居ります、其れから十年の戦争であります、戦争は必ず経済社会に害を及ぼす……戦争は幾何かの害を与へるものでございますから尚更戦争の為めに否塞しました、そこで戦争の為めに不換紙幣を増発しました申さば止むを得ず財政の上に取り妨害でありまして、此増発の紙幣と共にモ一ツ増発を助けたのは国立銀行であります、此国立銀行の紙幣を政府は借りて、一部分の財政の保障をさせやうと云ふのでありました、第十五銀行は其れが為めに、成立つたのであると云ふても差支ない、政府は大に借りて居つたのですが其れは政府も始末は付けましたが、左様な戦争の為め止むを得ぬ処から紙幣の増発になりました、此れが如何に商業に影響したかと云ふと、通貨が膨脹された為め般べての諸色を引上げた、少し年配の諸君は御記憶でございませうが、壱弗の銀貨を一円八十銭までも上げたのは紙幣増発の余響であつたと云ふて宜しいと思ひます、夫れより以降二・三年間は余程商業が活溌になつて、引取物も其前年まで少なくあつたのが横浜の取引が大に殖え、
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輸入品が進みました、十一年・十二年は其前年・前々年に比すれば著しき進歩であらうと思ひます、何物も景気が宜い、穀物も高くなる、又農家も従つて物を買ふから輸入品も従つて捌けが宜しい、其商業の活溌な有様を見せたのは其実は真正なる繁昌でなく紙幣の増発から来たのでありますから、遂に銀貨をして壱円の銀貨が紙幣では殆んど二円に値ひすると云ふやうに紙幣の値を下落せしめました、此有様では貨幣制度の有様が何うでありますか、日本の標準に立つべき貨幣其物の真価が帰復しなければならぬものであると云ふやうな有様であるが此時は貨幣制度も何処かに飛んでしまつたような有様で、段々議論の末が発行せし不換紙幣を兌換紙幣に引換へ、兌換制度に因て回復せしむると云ふやうになつた、是れは丁度明治十四年から十九年までゞあります、此不換紙幣を減縮すると同時に商業が不景気になつてしまいました、実際に御取扱になつた方は知つて居られるだらうと思ひますが一両年は繁昌したが段々諸色は下る、何でも其間に自から其実力は膨脹されたものと見えて百般の紙幣を減縮すると同時に銀貨の値が下つて、紙幣のあたひか回復して来て丁度十九年の末に銀紙対等になつて来ました、十四年から五年の間刻苦経営して、兌換紙幣を布くと云ふことが十分になつたのは十九年であつたと思ひます、十四年から十九年までは物が進まんとして〓跙しました、恰かも其内に力を休ると云ふ……水の進み方を休めると云ふのでもありませうか、果して是れが喜ぶべき徴候であるか将た憂ふべき徴候であるかと云ふに、二十年の兌換制度が一般に普及して二十一年・二十二年は恢復時期で、株式会社も十二・三年頃から銀行は余程出来て居りましたが、余り諸会社の進んで行くやうな景気はなかつたのでありましたから、二十一年・二十二年には鉄道のみならず各種の会社が余程出来て、是れは何処まで行くか止まることを知らぬと云ふと、経済界は是非とも同時に不景気を惹起した暫らく休んだ浪が打返して一大波瀾を起したと云ふ有様であると云ふても宜しいと思ひます
二十三年頃になつて又経済界の恐慌と云ふやうな現象が大坂附近で見えました、大阪の銀行業者は日本銀行に発電して救済の事を申出で、一方には大蔵省に向つて種々なる救済と云ふやうなことを申出で心配して居りました、其頃の日本銀行の総裁は川田小一郎君で、大蔵大臣は矢張松方正義伯でありました……大坂に呼出されて今申す見返り品即ち担保品などを以て此事を救済しやうと云ふたので……其取引で二十三年の冬からして二十五年の時代までは減縮時代に経過して居ると思ひます、併しながら此時期は左迄に原因が深くなかつたものと見えて、二十三年には恐慌でも来る如くに唱へたけれとも其担保品の数を殖やして日本銀行から貸出すと云ふことになつて幸ひに免れました、金額は最初には五百万円なければならぬとか七百万円なければならぬと云ふやうな評議がありましたが、左程の金額を借りぬで居る内に恢復に傾ゐて来ました、遂に二十五年になつては金利の非常の騰貴といふことは二十四年の有様を忘れるやうになつて、追々に金融緩慢となり昨年頃から当年の春今月までの景況とも宜しくなつて居るやうに、事業の苦労が少ない、金が余り利足が下る、大坂は殊に金融緩慢であ
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りました、大阪の事は銀行者諸君が沢山御出席もあり自分は委しく知りませぬから其比較を申すまでもありませぬが、東京に比較して強い下げるも急、上るも急、果して金利を下げた、甚しきは或一事の例を申さうならば二十四年でございました、鉄道買上げと云ふことを唱へて騒いだ、其当時そんな事をせぬで宜しいと云ふと国家を害する奸賊などゝまで罵つて置きながら、二十六年には官有鉄道を払下げを願はうではないかと云ふやうに騒いだ人が連署して出すやうな有様に二年の間に景況が一変しました、二十五・六年頃左様に金融が緩んて来たら自から事業の企てべき時機となつて来たのであります
此時に方つて日清の戦争と云ふことが始つて来た、二十七年の一年間は殆んと張んと欲して控ゑたと云ふ有様に経過しました、然るに戦争が幸にも十分なる勝利を奏したゆゑに唯でさへ勃興せんとしつゝありし処へ十分なる勝利を得て償金も取れ、そこで時こそ来れと云ふから二十八年の勃興と云ふことは止むを得ぬ場合、一応然るべき話しであります、加之歳計に於ても二十八年の有様は歳計を議するに二倍にも……二倍半位までになりました位でございます
大勢右の如くで諸事業も何も需用が殖ゑると、我人共に企てる各種の事業と云ふものは一時に勃興して来ました、そこで二十八年・二十九年の初めの各事業の勃興に、二十九年の末から三十年の初めより昨年まて殆んど、引続きて今年の春より順勢に復して居るやうでございます、従て一般の我々の……二十七年から二十八年に進んた波の打ち方が強く波が大きかつたから経過時期も亦長い、最早休んでも宜しいと云ふ波になつても未た休まぬ、是れは敢て休むに足らぬだらうと想ひます、是れは春あたりから経済家も実業家も新聞屋も此の先が何うであらうかと云ふて居ります、我人ともに方向がはつきり立たぬで居るけれども、私の考ふる処では左程酷らい金融必迫と云ふやうな時代は通り越してしまつて居ると思ひます、土用の入りは幾日にして、寒の入りは幾日、彼岸は幾日であると云ふ区劃はありませぬが、最早時節も通過ぎて彼是心配せぬでも宜しからうと思ひます、私の考へが間違つて居るかも知れませぬが、実際もう少し事業が進みさうなものではないか、心の入れ方が少いではないかと云ふ考へが我人ともにあります、夏頃までは金融が緩んで居るけれども般べての物は回復が見ゑぬと云ふことは事実でありました、秋頃の有様を見ますと不幸にして米は豊年とも言へぬが、自から戸毎に相当に農家に蓄へがあつたものと見え売出しも宜し自から購買力も進んで来る、鉄道其他運送の収益に依て見ても概算に依りましても、其他紡績株の売買とか諸物品の需用の多いと云ふことから見ても、実際今日は不景気だと云ふて歎声を洩す程のことがなくても宜しい様に思ひます、思うやうに事業の起らぬと云ふのはまだ今申す通り凝りが強いと云ふやうなことが一つあるのみならず、そんなら利益ある仕事が面のあたり見えぬのではないか、今日の如く金融が緩んで壱銭八厘とか壱銭七厘とか云ふ如くに割引する、若くは弐銭以内てぐつと留つて居ると云ふことは事業家が明らかに分つたなら、施すべき事業が沢山あるだらうと思ひます、昨年の春あたりは三銭三・四厘と云ふことがあつたのでございますが、三銭以
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上の金利を払つて儲かる事業と云ふものは容易にはありませぬ、是れは起業の成効を企てる訳には行かぬ、段々良い事業は夫々企てられ成立つても居る、其次に廻るべきもの則ち成立つて居らぬ利益のある、事業は少ないやうになる、見出すことも容易でない、鉱業とか若くは鉄道とか云ふやうなものは見出すことの出来ぬのは前に申す通りゆえ事業が見当らぬのではなからうかと思ひます、さうして見れば此民業の有様は左程に気遣ふべきものではないと思ひます、私はもう一歩踏出すと云ふ念を持ちたいやうに考へて居ります、そこで短かく申すならば今日は即ち憂ふべく考ふべきの時にあらずして、何等の事業に着手すべきの時であつて、私は仮りに二十八年の事業熱か過ぎ去つた……完全に癒えぬと云ふことは、申上げられませぬかも知れませぬが、回復したと云ふて宜しいと思ひます
で是れがまあ、一寸短かく申上る経済社会の三十年間の間追々に変化しつゝ来まして、三十二年の今日に至つた概略と云ふて宜いと思ひます、併し決して此一場の御話にて経済歴史を申上げ尽すことは出来ませぬ、従て既往に遡ぼり現在の有様に進歩せし要点の一・二を申せば実に明治の初めに貿易場五港の内にも当港若くは神戸此二ケ処で貿易されるものは……殆んど其二ケ処と云ふて宜しい位で、長崎・新潟・箱館此総計が何んな有様をして居るかと云ふと、明治の初めには記録がなくつて分りませぬが、三年頃の輸出の統計は二千六百万円と云ふ数字を見て居ります、其れが三十一年の数字は四億五千万円ばかりになつて居るやうに思ひます、殆んど二十倍近い進歩であります
又株式会社の成立ちなども、明治六年から銀行が一番初めに組立られて、其れから株式其他の会社が成立されましたが、統計が十一年には二千六百万円と云ふ額であると思ひます、其れが三十一年の統計は八億六千万円になつて居ります、其他鉄道に或は蒸気船に各種の此経済に供する機関の進歩と云ふものは、少なくも十倍若くは二十倍・三十倍と云ふが如く進歩をして居りますから、初めには実に徐々と流れた水が歳を経て行くに付て大河の有様と云ひたい位愉快千万に進みましたが、仮りに斯様なる悦ぶへき有様であるが、此経済社会の未来に付て如何なる希望を持つかと云ふことは要点でありますから玆に一言申上けたいと思ひます
私は経済社会の将来に付て熱心に希望することは数多くありまするが第一に経済社会の事業をもう少し拡張して、働らきを強めると云ふことを是非しなけれはならぬと思ひます、今一つは経済社会の態度を高尚に且つ剛毅に致したいと考へるのでございます、此二点は我々経済社会の人等は互に注意して余程攻究しなければならぬと私は熱心に思ふのでございます
此第一の回復……働らきを強めると云ふてもが何う云ふ風に働らくかと云へば、是非東洋の各国に向つて日本の経済が働らき掛けるやうにならぬでは、十分に日本の面目を保ち得られぬであらうと思ひます、今日隣国の有様は何うであるか殆んど全くの開放である、其開放と同時に諸邦の人が種々なる事を企て種々なる事に手を付けて居る、此日本人が何う云ふ事をして居りますか、農商務省で視察員を遣りました
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が左程有識な人ではないと思ひます、左様な人が七・八人位ぐるぐる廻つて来た処、決して真正なる事業に着目も出来ず、具状すると云ふことも為し得られぬだらうと思ひます、朝鮮・支那に向て事業を遣りたいと云ことは我人共に希望する処であります、我々も人も朝鮮へも支那へも向つて口を開けば、日本は是非東洋商業国の中心になりたい少なくも東洋の英吉利の様に致したいと云ふことは云ひますが、只意に思ふ計りでは決して実行は出来ぬ、されば支那に力を張り朝鮮に力を為すと云ふやうに手を出さなければなりませぬ、私は支那或は朝鮮の事業に付ては初めの間は利益あるばかりではないかと思ひます、併しながら決して冒険的の事業ではないと思ひます、紡績糸は販路を拡めて彼国への輸出が三十万梱位あるだらうと思ひます、近頃は又西洋紙……日本で出来る画箋紙擬ひの紙です、或は……京都あたりで出来る是れも妙な言葉でありますが南京繻子と唱へる綿繻子、般べてさう云ふ物が段々に販路を拡めて来るやうでございます、或は相当なる日本人が力を致して斯う云ふ事に着手したと云ふことは聞きませぬ、当地などは海外に向つての商業は極御熟練にて、経験も多い方に付ては御思考もあろうと私は考へることでございます、朝鮮の国は工業の望みはないだろうと思ひますけれども、決してさうした国とは私は申しませぬ、相当な鉱山もありませう、土地を開発すると云ふことも力を用ひたならば出来ぬこともありますまい、是れはもう有望な事業でないかと思ひます、朝鮮へは農産物を追々進めるならば一挙両得、彼の国の生産物は米・大豆等で、夫れが能く出来ぬならば日本の物を安くし彼れに利益もあるから製造費を我に仰ぐ、支那と雖とも先つさう云ふ土地柄であると思ひます、支那は西洋人が入込んで居りますから中に手剛い奴がありますが、自分等の考へる処では西洋でも米国でも今日の儘にして宜しいとは言はぬ、今日の有様は商業は躄商売である、躄商売が皆悪いと云ふばかりではありませぬ、日本の商業が大半其れに組立てられて居りますから其れを以て詰らぬと云ふのではありませぬけれども、躄商売ばかりして居ることは勝利ではないだらうと思ひます、朝鮮・支那などに至つては頻りに開発的の商業をしなければならぬだらうと思ひます、決して当地の諸君はさう云ふ事に手を出して相当な資格否な責任があると云ふても宜しいと思ひます
第二に申上げたいのは経済社会の態度は高尚に且つ剛毅に……商売人が皆仁義道徳、五倫五常を行へと云ふ意味ではございませぬが、前に申す通り経済社会と云ふ繊弱のものでございます、他の導に依て開発されたと云ふ斯様にか弱い経済社会でありますから、或政事家に結托するとか利益に付ては斯う云うことに参るとか……私は恐れる、経済社会は常に政事の奴隷否政事の嬖臣と云ふやうなものになりはせぬかと……一歩進めば嬖臣姦臣になる、況んや此政事社会が政権政事のやうな有様でなくて常に党派党派と云ふ、是れは私権を執ることになると云ふのは免がれぬ、政党と云ふても「れぱぶりかん党」たると「でもくらつと党」たると、保守とか自由とか帝国党たるに拘はらず、三つなり若くは四つの党派が相軋ると云ふことに見へて明らかである、又勿論、政事と調和して行かなければならぬと云ふことは明らかであ
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る、併し結托して利益を壟断しやうと云ふことは、飽くまでも之を戒めなければならぬ、調和して事を為すと嬖臣奸臣たるとは大に違ひます、調和と結托とは違ひます、結托と云ふことはそのやうな罪悪でも免がれぬだらうと思ひます、私は西洋の学問がないから欧羅巴の例を玆に申上けることが出来ぬ、聊か覚えた漢籍に就て一言申しますが、孟子梁恵《(王脱カ)》の章句に於て「万乗の国其君を弑する者は必す千乗の家、千乗の国其君を弑する者は必ず百乗の家、万に千を取り、千に百を取る多からずと為さず」とか或は「上下交も利を征して国危し」とか、今日の儘で参つたならば殆んと恐れる左様な国になりはせぬかとまで私は懸念する、若しさう云ふことで此世の中が漸々利益さへ多ければ何でも彼でも構はぬ、一般に左様の者のみあつたならば此社会は暗黒なる社会にならなければならぬと思ひます、決して今玆に左様な杞憂の事を申上げて詰り何か相談らしくなることは好みませぬけれども、決して諸君の心の裡に彼れか此れかと思ふことは不幸にもありはせぬかと思ひます、何卒此経済社会を維持して行かうと云ふには態度を成るべく高尚に、気象を剛毅に持ち発達するやうにするか、商工業等をして斯様否日本の国をして真正なる富強をさせやうと云ふには、左様しなければならぬと私は思ひます
余事でございますが此間青年会の丹羽清次郎と云ふ者が米国へ青年会の用事で行きましたが、私は聊か東京の養育院の世話をして居りますから青年会と因んで慈善事業と云ふことを委托して遣りました、九月に帰朝して取調べた報告を聞きましたが、曾て私が米国を見て来た人達の話を聞きますと賄賂を使つて税関を通すとか、大蔵大臣は之を咎めぬとか、白昼盗賊が横行して居る国柄の様に聞て居る、又皆さう云ふ評論をするやうに私は覚へて居ります、丹羽と云ふ人が青年会の責務と慈善事業の取調をして参つたので、私は殆んど米国の元気は玆に在らん、米国の人の気象は玆に在る、米国富強の原因は玆に在ると云ふことを発見しました、青年会の会員が二十三万人にして三十幾個所か慈善の事業を為す出張所があつて貧児・労働人或は孤児等種々なる者に職業を授けて居る、利益あることを与へる場処、其力の用ひ方、其行状殊に費府・市俄古の二ケ処に於ては最も盛んでありました、細かいことは記憶して居りませぬが、米国人の彼の事業を闊大に遣る所謂放胆文章を書く人々に不似合なる良好なる心懸けが強い、此国の富力玆に原因すると云ふことを知ることが出来ると思ひます、物を頻りに施すと云ふことを以て珍重するのではありませぬが、元気を拵える素養があると云ふことを敬服するのでございます、日本の経済社会も今一段高尚に今一段別段に、唯金銭ばかりを悦ぶと云ふことを止めて気風を一層手強くしたいと云ふことを希望に堪えぬのでございます、商人社会に於ては熟知の諸君に向つては経済談は未熟至極でございますから諸君に向つてさうせよと云ふのでなくして、己れ自分がさう致したいと感ずるのでございます、若又宜しき説がございましたら申上げることゝ致しませう、今晩は価値のない説を申述べまして恐縮千万でございます、経済界に対して希望するの余り一・二点を申上たに過ぎぬのでございます(拍手大に起る)