デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

8章 政府諸会
2節 博覧会
5款 第五回内国勧業博覧会
■綱文

第23巻 p.616-622(DK230059k) ページ画像

明治34年1月19日(1901年)

是日栄一、当博覧会評議員ヲ命ゼラル。爾来評議員トシテ重要事務ノ審議ニ従フ。


■資料

第五回内国勧業博覧会事務報告 農商務省編 下巻・第三五二―三五六頁 明治三七年八月刊(DK230059k-0001)
第23巻 p.616-618 ページ画像

第五回内国勧業博覧会事務報告 農商務省編  下巻・第三五二―三五六頁 明治三七年八月刊
    第二十九章 事務局職員
本会職員ハ、官制ノ定ムル所ニ依リ総裁ハ皇族中ヨリ勅ニ依リテ命セラレ、副総裁ハ農商務大臣ヲ以テ之ニ充テ、事務官長ハ農商務総務長官ヲ以テ之ニ充テ、審査総長・審査部長・事務官・審査官及評議員ハ農商務大臣ノ奏請ニ依リ内閣之ヲ命シ、書記以下ハ副総裁之ヲ命セリ之ヲ列挙スレハ左ノ如シ

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   総裁           陸軍少将大勲位功四級    載仁親王   副総裁 明治三十三年六月四日任命   農商務大臣  男 曾禰荒助 同年十月十九日解職 同三十三年十月十九日任命   同上       林有造 同三十四年六月二日解職 同三十四年六月二日任命    同上     男 平田東助 同三十六年七月十七日解職 同三十六年七月十七日任命   同上     男 清浦奎吾   審査総長 明治三十四年二月十八日任命  枢密顧問官  男 大鳥圭介   事務官長 明治三十三年六月四日任命   農商務総務長官  藤田四郎 同三十四年六月五日解職     同三十四年六月五日任命    同上       安広伴一郎 同三十六年九月三日解職 同三十六年九月三日任命    同上       和田彦次郎   事務官 明治三十三年六月十二日任命  農商務大臣秘書官 織田一 


                          ○外十五名氏名略

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  評議員 明治三十四年一月十九日任命  東京帝国大学総長     理博 菊池大麓 同年七月十日解職 同年一月十九日任命      農商務省特許局長        柳谷謙太郎  以下p.617 ページ画像  同三十四年一月十九日任命   大阪府知事           菊池侃二 同三十五年二月廿八日解職 同三十四年一月十九日任命   農商務省山林局長         原保太郎 同              農商務省水産局長         牧朴真 同              農商務省農務局長         和田彦次郎 同              東京高等工業学校長        手島精一 同              農商務省鉱山局長         田中隆三 同              農商務技師         理博 巨智部忠承 同              農商務技師         農博 酒匂常明 同              従三位              田中芳男 同              従三位              村田保 同              正四位           工博 古市公威 同              正四位           男  渋沢栄一 同              正五位              改野耕三 同              従五位              香川真一 同              従五位              土居通夫 同              従六位              渡部朔 同              従七位              与倉東隆 同              勲四等              大谷嘉兵衛 同              勲六等              山本亀太郎 同                               大西五一郎 同                               奥田正香 同                               鈴木長蔵 同三十四年一月十九日任命                    平出喜三郎 同                               岡崎唯雄 同                               水登勇太郎 同                               田村太兵衛 同年十一月二十五日解職 同                               浜岡光哲 同年十一月二十五日解職 同                               松田源五郎 同年三月一日死 同年四月八日任命       農商務省商工局長         木内重四郎 同              帝室博物館主事          久保田鼎 同年五月三十日任命      台湾総督府民政長官        後藤新平 同              東京帝国学理科大学教授   理博 箕作佳吉 同              京都帝国大学理工科大学教授 工博 中沢岩太 同              東京帝国大学工科大学教授  工博 渡辺渡 同              従三位              平山成信 同              正四位              田健治郎 同              従四位           子  三島弥太郎 同              従四位              和田維四郎 同              正五位              有賀長文 同              従五位              竜居頼三 同                               田中源太郎 同                               滝兵右衛門 同                               大三輪長兵衛 同                               伊藤徳三  以下p.618 ページ画像  明治三十四年五月三十日任命                   斯波与七郎 同                               野尻岩次郎 同                               秋岡義一 同                               北田豊三郎 同                               山下重威 同                               柴谷武次郎 同                               小森理吉郎 同                               前川槙造 同                               森作太郎 同三十五年十月十四日解職 同三十四年七月十日任命    逓信総務長官           浅田徳則 同              大蔵総務長官        法博 阪谷芳郎 同              文部総務長官           岡田良平 同              京都府知事            大森鐘一 同              外務省通商局長          杉村濬 同年七月十七日任命      海軍主計大監           下条正雄 同年七月十日任命       熊本県技師            執行弘道 同              正四位              藤田四郎 同年十一月廿五日任命     東京美術学校長          正木直彦 同              従六位              鶴原定吉 同                               西村治兵衛 同                               岩田清秋 同三十五年二月廿八日任命   内務総務長官           山県伊三郎 同三十五年二月廿八日任命   大阪府知事            高崎親章 同              正三位              辻新次 同              正六位           工博 平賀義美 同年九月廿七日任命      宮内次官          男  花房義質 同              外務総務長官           珍田捨巳 同              海軍総務長官           斎藤実 同              陸軍総務長官           石本新六 同              兵庫県知事            服部一三 同              従四位           伯  広沢金次郎 同              従五位              住友吉左衛門 同                               沢田佐助 同                               亀岡徳太郎 同                               吉田顕三 同                               横田虎彦 同                               小泉清左衛門 同                               尾形兵太郎 同                               北村左吉 同                               藤田平太郎 



○下略


青淵先生公私履歴台帳(DK230059k-0002)
第23巻 p.618-619 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳         (渋沢子爵家所蔵)
    任免授受
 - 第23巻 p.619 -ページ画像 
同 ○明治卅四年一月十九日 第五回内国勧業博覧会評議員被仰付 内閣


第五回内国勧業博覧会事務報告 農商務省編 上巻・第二二―二三頁 明治三七年八月刊(DK230059k-0003)
第23巻 p.619 ページ画像

第五回内国勧業博覧会事務報告 農商務省編  上巻・第二二―二三頁 明治三七年八月刊
 ○第二章 事務局ノ組織
    第五節 評議員会
博覧会ニ関スル重要事項ノ諮詢機関トシテ、事務局官制ノ定ムル所ニ依リ、三十四年一月十九日ヲ以テ学識又ハ経験アル者ヲ評議員ニ選任シ、同年四月四日初メテ評議員会ヲ農商務省ニ開キ、博覧会ニ関スル大体ノ方針並ニ規則案等重要ナル案件ヲ審議セシメ、爾来之ヲ開会セシコト数回ニシテ、其急須ノ必要アリシ場合ノ如キハ総員ノ召集ヲナスノ遑ナキヲ以テ、単ニ在京評議員ノミヲ以テ開会シ、在地方ノ評議員ニハ其要旨ヲ通牒スルニ止メタリ
其後開会期ノ切迫スルニ迨ヒテハ到底評議員ヲ召集スルノ遑ナカリシニ依リ、諮問案ヲ送附シテ其意見ヲ詢ヒ、然ル後之レヲ決定セルモノ亦少カラス、而シテ毎回ノ諮問事項ハ大体ノ方針及規則ノ改廃等重要ナル事項ニ限レリ
左ニ第一回ノ評議員会ニ於テ議決シタル議事規則ヲ掲ク
      評議員会議事規則
 第一条 議員ノ席次ハ抽籤ヲ以テ之ヲ定ム
 第二条 議員ハ病気其他ノ事故ニ依リ参集スルコト能ハサルトキハ其旨届出ツヘシ
 第三条 議員建議案ヲ発議セントスルトキハ、案ヲ具シ議長ニ提出スヘシ
 第四条 発言セント欲スル者ハ起立シテ議長ノ許可ヲ受クヘシ
 第五条 発言ハ議席ニ於テ起立シテ之ヲ為スヘシ
 第六条 討議已ニ終リタルカ若ハ討論未タ終ラスト雖モ、論旨尽キタリト認メラルルトキハ議長ハ討論終結ノ宣告ヲ為スヘシ
 第七条 議事ハ過半数ヲ以テ之ヲ決ス、可否同数ナルトキハ議長之ヲ決ス
 第八条 議長必要ナリト認ムルトキハ議案若ハ修正案ヲ調査セシムル為メ、議員中ヨリ調査委員ヲ命スルコトヲ得
 第九条 主任官吏並ニ建議案若ハ修正案ノ発議者ハ、調査委員会ニ列シ其旨趣ヲ弁明スルコトヲ得
   但シ表決ノ数ニ加フルコトヲ得ス
 第十条 本則ニ明文ナキ事項ハ議長総テ之ヲ決スヘシ



〔参考〕内外博覧会総説並に我国に於ける万国博覧会の問題 永山定富著 第四四―五〇頁 昭和八年九月刊(DK230059k-0004)
第23巻 p.619-622 ページ画像

内外博覧会総説並に我国に於ける万国博覧会の問題 永山定富著  第四四―五〇頁 昭和八年九月刊
 ○第二編 第一章 内外博覧会の沿革
    一、内国博覧会
○上略
第五回(大阪) 第五回内国勧業博覧会の開設は明治三十二年を以て期年となすべきであつたが、三十三年巴里万国博覧会参同出品の為め、官民共に之が準備に忙しく到底其開設を実現し難き情勢にあつた。之に対し衆議院は之を三十五年となすべしとの建議を提出したが、猶準
 - 第23巻 p.620 -ページ画像 
備に余裕なきが故に更に一年を延期し明治三十六年大阪市に開設することを決定するに至つた。此間会場を以て東京と為すべし、又は仙台と為すべし等、建議若しくは陳情等相尋て提出せられたが、参酌考慮の結果大阪市を以て開催地となすに至つたものであつて、会期を同年三月一日より七月三十一日に至る百五十三日としたのは、従来の博覧会中の最長期間である。会場は大阪市の無償提供にかゝり、地均し・植樹・道路施設等又悉く市の負担であつた。即ち同市南区天王寺今宮の地を採択し、実際の使用地積は九万七千百六十一坪余である。
 本博覧会事務局は農商務省内に之を置き、総裁には 載仁親王を奉戴し、副総裁には主務省大臣之に当り、審査総長には男爵大鳥圭介、事務官長には農商務次官之に任じた。第一部より第十部に至る各審査部長には田中芳男・原保太郎・武井守正・村田保・和田維四郎・中沢岩太・平賀義美・手島精一・古市公威・真野文二・辻新次・平山成信等単独に又共同に之に当り、本局には文書・庶務・出品・審査・会計外事の六課を置いて万般の会務を分掌した。又会場内には出張所を設け現場の事務を取扱つたが、本博覧会は従来の博覧会中最も大規模のものである丈けに、本局職員にして事務関係者四百四十人・審査部関係者千百四十九人、合計千五百八十九人の多数に上つた。
 出品の撰択に関しては、珍奇を衒つて褒賞を僥倖するが如き従来の弊風を打破するにつとめ、出品の資格を左の如く限定した。
 一、出品物の採取・産出又は製造を業とする者
 二、出品物の採取・産出又は製造に参与し、之を販売するを以て業とする者
 三、特殊の考案を以て出品を採取・産出又は製造したる者
   又外国人と雖も邦内に在留し以上の規定に該当する者の出品を許可した。
 出品部類は第一部より第十部に及び、農業及園芸・林業・水産・採礦及冶金・化学工業・染織工業・製作工業・教育学術・衛生及経済・美術及美術工芸の諸部とし、出品陳列館は農業館・林業館・水産館・工業館・機械館・教育館・美術館・通運館・動物館・水族館・台湾館の十一館並に参考館を加へ、総坪数一万二千百四十六坪九合といふ前例なき規模であつた。
 右の内参考館の建設は、広く諸外国の製品殊に諸器械の陳列を以て我当業者の智識開発・実効促進を期し、同時に外国出品を主として将来に万国博覧会を開設すべき一階梯たらしめたものである。該出品は英吉利・独逸・北米合衆国・仏蘭西・露西亜等十八ケ国の出品に本邦品を加へ、総点数三万一千六十四点・出品人員百二十五人である。而して外国政府の出品に係るものは加奈陀・清国・韓国・北米合衆国オレゴン州・布哇・蘭領印度・ブラジル等の出品であり、参考館出品希望者にして場内面積の不足により自営特別館を建設せるは加奈陀政府館外五館であつて、総坪数二千四百八十三坪余である。
 出品陳列の方法は従来部別の下に府県別を採用するを例としたが、類別陳列に依らざれば同種の物品につき各地出品の通覧対比上不利不便尠からざるにより、類別の下に府県別陳列をなすの方針をとり、陳
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列上一生面を開くことゝなつた。陳列箱及び陳列台は前回に至るまでは凡て政府に於て準備施設するところであつたが、時勢の進運最早之を必要とせざるに鑑み、凡て出品人の負担たることゝした。但し之を急激の改制として不便多き場合に限り、地方庁に対し相当の補助を与へて之を準備せしめ、美術品及官庁出品に対しては政府事務局に於て全部之を設備の上貸与することゝした。
 出品の撰択に関しては精良第一主義により、出品及出品人資格に厳重なる考査を施したが、出品点数及び人員共に前回に倍蓰するの盛況を呈した。即ち出品人員十三万四百十六人・点数二十七万六千七百十九点・価格百九十七万六千百四十六円の巨額に達した。而して美術工芸品に対しては予て鑑査を行ひ其許否を決したことは前回と同様であつて、出願総数五千八百八十二点の内八百十四点に対し出品を許可した。出品の審査は開会当日より之を開始し六月十日を以て終結した。褒賞の種類は名誉金牌・名誉銀牌・一等・二等・三等賞牌・褒賞の六種とし、審査の結果授賞せるもの総数六千四百八十七点である。
 本博覧会は予定の如く明治三十六年三月一日開場したが、開会式は四月二十日 明治天皇親臨して式典を挙行せられ、褒賞授与式は御名代貞愛親王台臨挙行せられた。而して閉会式は会期満了の翌日之を挙行した。
 本会陳列品御巡覧の為め 天皇には四月二十三日より五月五日までの間に於て、七回本会場及水族館に行幸あらせられ、 昭憲皇后には四月二十七日より五月六日迄の間に於て 天皇と隔日に、七回本会場及水族館に行啓あらせられた。毎回の事乍ら殖産興業を深く念とせらるゝ聖慮の程を拝察し奉るべきである。
 観覧券は前回までの三種制を廃して之を一種とし、本会の観覧券は一枚金五銭、水族館は一枚金三銭とし、日曜・火曜・木曜・土曜・大祭日は本会に在つては一人に付き観覧券二枚を要し、水族館に在つては日曜及大祭日に限り一人に付き観覧券二枚を要することとした。観覧券の発売は大阪市の希望を容れ、料金として七万円を事務局に納付せしめ、堺市(水族館)よりは二千円を納付せしめて、発売の請負を命じた。大阪市は之に依つて三十万七十四円七拾五銭(前記七万円を控除す)堺市は三万四千二百七十三円七十七銭を収入した。優待券の発行は四千五百四十二枚、特別入場券の発行は三千四百七十五枚である。而して来観者総数は四百三十五万六百九十三人、内夜間入場者五十四万五千五百八人であつて、之を第四回に比すれば約四倍の増加にして、水族館入場者は昼夜総計九十五万四千五百十六人である。
 外人招待に関しては前例により英文招待状四千三百六十五通を欧米各国に、支那文招待状四千四百十通を清・韓両国に送附し、之によつて欧米各国人二百四十二人、清・韓両国人三百六人の来観を見た。又来観外人の為めに協賛会は宿泊・案内・通訳等の労を取つた。
 出品の売約高は総計四十九万千六百七十六円六十六銭九厘である。また本博覧会の経費総額は百九万三千九百七十三円二十二銭であつて内五十三万六千百九十円余を建築に費したが、其総建坪は一万四千七百二十五坪余である。
 - 第23巻 p.622 -ページ画像 
 会場内原動力の供給は事務局に於て之を経営し、蒸汽力を以て発生する電動力と決定した。運輸に関しては観覧人の便宜を計り従来に見ざる諸多の設備を施し、或ひは会場軌道引込み、又は臨時停車場の増設等汽車・汽船共何れも最善を尽して来観者に備へた。又館内通信・警備・衛生等に関しては規模の大なるに従ひ夫々適当の施設を試み、飲食店・興行場等に対しては其盛況に資せしむると同時に、充分の取締りと監督とを施した。
 博覧会各般の事項にして一般に周知せしむべきは、事務局公報として新聞紙に掲載せしめ、又出品目録・美術品図録・審査概況・授賞人名等は材料を事務局より供給し、確実なる出版業者に委ねて出版発售せしめた。但しこの材料無償提供に対しては、出版業者に命じ事務局必要の分を無代とし、又は実価提供を実行せしめた。
 本博覧会に関し地方庁の協賛援助は何れの前例をも凌駕したが、就中大阪市は本会敷地の提供・協賛会設立・大阪出品会補助・道路橋梁の新営及び修繕・本会観覧券の発売等に当り、堺市も亦水族館敷地提供・道路改修・桟橋架設等施設する所少くなかつた。
 場内売店の開設者は千八百六十二人にして、総売揚高は百九十六万千四百九十円余に上り、余興及び興行物も其種類に於て、其数に於て百態千様非常の盛況を極めた。
 以上の如く本博覧会は我政府の施設に係る内国勧業博覧会中最も大規模のものであつて、単に内国品のみならず、外国の参同出品を見たる点に於て事実上万国博覧会たるの観を呈した。且つ其経営に在つても回を重ぬること既に五回に及び、明治六年以来内外博覧会に得たる智識と経験との集大成となり、本邦開設の博覧会中第一等の地位を占めたことは蓋し偶然ではなかつた。 ○下略
   ○明治三十六年四月、栄一京阪地方ニ赴キ二十二日以後五回ニ亘ツテ当博覧会ヲ見ル。第三部身近中「旅行」明治三十六年四月二十一日ノ条参照。