デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 養育院其他
1款 東京市養育院
■綱文

第24巻 p.108-119(DK240009k) ページ画像

明治18年11月19日(1885年)

是ヨリ先、明治十五年四月、東京府会ニ於テ養育院処分案議セラレ、明治十八年六月末日限リ地方税支弁廃止トナル。仍ツテ本年二月十日、栄一院長トシテ当院ガ共有金其他ノ基金ニヨリテ経営セラレンコトヲ東京府知事ニ建議ス。是日、東京府知事当院ノ規定ヲ改正シ、栄一外十名ニ委任経営セシム。栄一、委員ノ互選ニヨリ院長トナル。


■資料

東京市養育院創立五十周年記念回顧五十年 渋沢栄一述 第九―一二頁 大正一一年一一月刊(DK240009k-0001)
第24巻 p.108-109 ページ画像

東京市養育院創立五十周年記念回顧五十年 渋沢栄一述  第九―一二頁 大正一一年一一月刊
    五 東京府会の養育院廃止論
 然るに明治十五年頃から東京府会議員の間に養育院無用論が起り、窮民を府で救助すると云ふことは寧ろ惰民を造る原因になる、是から先は社会に貧困者が年一年と増して来る、之れを一々救助して居ては終に東京府の富を以てしても之れに充つることが出来ぬやうになりはしないか、現に英吉利などでも済貧は却て惰民を養成するものであると学者が論じて居ると聞く、斯かる事を東京府で継続するのは実に愚の至りである、宜しく養育院廃止すべしと云ふ声が高くなつて来た、右の説を聞きて余は大に憂慮し、当時の府会議員中には余も知人が多かつたから、特に懇親なる議員に遇ふ毎に其説を反駁し、若し養育院を廃するやうになつたらば東京府は必ず他日後悔するやうにならう、斯かる大都会、然かも一国の首府にして是れ位な設備を置いて窮民を救助すると云ふことは絶対に必要である、現に欧羅巴でも各国に此施設がある、蓋し窮民を救ふに弊害が伴ふと云ふことは独り英吉利のみではない、唯だ濫りに財物を喜捨して制限なくこれを救護すると云ふことは惰民を造る弊害となるは事実であるが、それが為めに救済事業を無用視することは出来ぬ、現に路頭に迷ふ窮民を救助する方法なしとせば彼等は凍餒の為めに一命を隕すことは必然である、それ故適当の方法を立て之れを救ふのは所謂人道である、人道を捨てゝ顧みざるは是れぞ暴戻の政になると云ふ趣意で切りに論争したのである、余の反対説によりて幸に一時は廃止論も成立しなかつたのであるが、明治十六年に至り、府会は遂に明治十七年を限りとして養育院を廃止する
 - 第24巻 p.109 -ページ画像 
の議を決した、但し此廃止決議も余の運動に依て幾分を緩和せられ、明治十七年以後は新しく窮民を入院せしめず、現在残留の収容者の死亡及出院し尽すを待ちて全廃すると云ふことになつた。
    六 養育院が私人の設立となる
 是に於てか余は已むを得ず之れを私人の経営に移し、府より独立したる事業として継続せざるべからずと思ひ立ち、乃ち当時養育院に属したる財産の一部と事業其物とを府より貰ひ受け、東京市内の有志を募りて玆に私立の養育院を設け、従前の府立養育院の仕事を全然引受けて窮民救助の任務に当ることゝしたのである、之れは明治十七年十二月《(十八年)》であつた、 ○下略


養育院六十年史 東京市養育院編 第二五九―二七〇頁 昭和八年三月刊(DK240009k-0002)
第24巻 p.109-114 ページ画像

養育院六十年史 東京市養育院編  第二五九―二七〇頁 昭和八年三月刊
 ○第三章 東京府営時代
    第一一節 府会の養育院処分問題
○上略
 然るに翌明治十五年度予算編成に当り、府当局は養育院経費の地方税支弁を廃するに至つた。即ち明治十五年(一八八二)七月二十五日通常府会に於ける知事松田道之開会の辞中、近来地方税支弁の増額せる次第を述べ、養育院費をこれより除けることに言及した。云く、
 …遂に養育院経費の如きは本年よりして地方税支弁を止めたりき、此点に付きても一応其目的を示ささるへからす、其れは前にも申す如く事業中一も省き得へき者なく、皆要用なるに拘らす、此養育院は之を除き得へき者なるやとの疑もあらんか、本官の見る所を以てすれは之れ迚も除き得へき者にあらす、既に昨年も養育院に付きては論者の説も種々起りたれとも、今日の現況にては猶ほ政治上にて之れを維持すへきものと思はる、然れとも他の事業の為め本年の経費に増額を加へしも尠少の事にあらされは、若し幸に他の工夫ありて地方税支弁を止め得へくんは之れに其支弁を求むへしとて考案せしに、先つ一案を得たれは之れに代へ以て本案の如く初めて除くを得たるなり、左りなから本年よりして直に望むか如くするを得されは、昨年末より既に地方税にて養ひ来りたる者を出院なし能はさるは猶ほ之を残留せさるを得す、依て拠ろなく其補助を共有金に求めたり、大体は此養育院も除くへきにはあらされとも已むを得す此の如くの策に出てたり、故に過刻も申したる通り必要中の者なれとも幸に他の工夫によりて維持し得へきか為めに、初めて之を除くの目的を立たる事にして、而て其他は尽く之を除却し若くは廃棄し得へきの目的は、更に之れなし(明治十五年府会議事録)
かくて養育院処分の議案提出となり、府会に於て討議修正の上、これを通過した顛末は左の通りである。
 府号外議案
    養育院処分案
 一、明治十五年度より、養育院の費用は地方税の支出を要せす、同院蓄積金利子と元府立病院蓄積金利子を以て支弁すへし
 一、現今在院窮民の内、止むを得さる事実ありて本年度限り退院し
 - 第24巻 p.110 -ページ画像 
難きものに限り残留窮民となし、之に属する費用は区部共有金利子に対し補給を求むるものとす
   但養育院蓄積金・元府立病院蓄積金利子を以て第一項の費用を支弁し、有余ある時は仍ほ本項の費用に供すへし
 説明
 養育院の費用は久しく共有金を以て支弁せりと雖も、地方税施行以来救育費の目あるを以て其支出に移し、毎歳若干の金員を以て継続維持したりと雖も、地方税支出の額は年々其の多きを加ふるの現況にて、十五年度に於ても又幾分の増額を見るに至れり、仍て本院の方法を改正し費用省減の策を立つるは特に要用なるを信するなり、窮民の入院を許すへきものは自今大略恤救規則明治七年十二月八日第百六十二号公達に適し、且其住所なきものに限り之を許可せんとす、抑も恤救規則に適するものは老幼・癈疾・不具等の単身者にして、窮民たるを徴するに足り、且府下在籍の故を以て逓送を受くるも、啻に其戸籍の存する迄にて住所なきものゝ如き実に窮困逼迫のものとなすも不可なる事なきを信すれはなり、十五年度の始めに至り在院窮民の内、家族等ありて前項の性格に適せさるものは宜しく之を退去せしむへしと雖も、其家族も亦病患に罹り事実困迫のものなきにあらす、此輩をして一概に退去せしむれは或は街衢に斃れ、或は道路に彷徨するに至るへし、仍て残留窮民となし、引取人あるか又は其身病患の平癒する迄之を救育せんとするなり
 養育院蓄積金篤志者の納れたるものにて、其額金六千八百弐拾九円余なり利子、及元府立病院蓄積金金弐万三千七百三十九円余利子を以て養育院の費用に充つるは、啻に地方税の支出を減少するのみならず、其性質に於ても適当なるを信すれはなり、尤も現在入院窮民の内本年度の末に至り退去せしめ難きものに係る費用は、此利子金を以て補給し得へきにあらす、仍て区部共有金に対し其補給を求むるなり、抑共有金なるものは区部のみに属すれは如此郡区連帯の事項に消糜すへからさるものゝ如しと雖も、現在入院者の戸籍を閲するに郡部の戸籍にあるもの百中其七に過きす、而して本年度中退院し得るもの亦なきにあらされは、十五年度の始に至れは郡部の籍にあるものは殆んと尽るに至るへし、加ふるに共有金は其区部のみに就て論すれは、如此の費用に充つるは其性質殊に適当なれはなり
 元府立病院蓄積金利子を以て本案の費用に充んとするものは、病院と云ひ、養育院と云ふ、等しく是れ救済の事項に属し、且将来入院を許すへきものは老幼を除くの外は皆身に病患あるものなれは、彼此其性質相近似するものにて不当にあらすと信すれはなり
 本案議決に至れは、十五年度に於て養育院に要するの費用及共有金補給の額とも更に予算をなし、各其会議に付せんとするなり。
 ○三十番松波宏祚曰 本案に対し常置委員の意見は全体に付きては真に之れを可とせり、勿論稍々修正を加へたる所あれとも、第二次会にいたり逐条に申すへし
 ○十一番牧山源兵衛曰 唯今常置委員よりも報道ありしが、此案は甚た可なり、為めに二次会を聞かれん事を望む
 - 第24巻 p.111 -ページ画像 
 ○議長曰 本案に付き総体論あれは唯今陳述あるへし、別に発議なくは決を取るへし、此案の為めに二次会を開くへしとするものは起立
   全会一致
  然らは此二次会を開くとし、而して稍々早きも此所にて休息すへし
   午後第六時三十分着席 出席五十九員
 ○議長芳野世経曰 正議長は事故ありて已むを得す退席せられたれは拙者代り議長たり、之れより前会に継き、養育院処分案の第二次会を開くへし
   書記第一項を朗読す
 ○三十番松波安祚曰 此項に付き常置委員は修正を加へ「地方税の支出を要せす」との十字を削りたり、其主意は第二項に連絡する事なるが、原案に拠れは残留窮民を養ふは共有金の利子に対し補給を求むる事となり居れとも、此共有金なるものは知らるゝ如く区部に属し居るものにして、而して養育院は一府の所属即ち郡区連帯経費に係るものなれは、たとひ残留者に限るにせよ、性質の異なりし金に対し補給を求むるは不都合なり、勿論説明にもある如く郡部の者少く、十五年度の始に至りなは殆んと尽くるに至るへしとの事なれとも、之れとても想像に外ならす、仮令ひ百中の一に過きされはとて、既に帯に連属すへきものなれは、此補給を区部の共有金に求むへきにあらす、郡区各其経済を分つ上は、連帯すへきは之れを連帯し、分ち得へきは之れを分つか至当なるを以て、錯雑せさる為め此共有金の補給を止め、而して之れも亦地方税より出さんとするなり、左すれは本案の大体は甚た之れを好みするも、残留窮民は矢張り地方税にて出すへしとて此十字を削らんとす、是常置委員の見込なれは之れを報道し併て本員は之れを賛成す
 ○十一番牧山源兵衛曰 之れは常置委員の見込の如くせさるへからさる事なり、依て之を賛成す
 ○三十二番高橋基一曰 此案に付きては本員も一論を出さんと欲せしものなり、此事たる勿論三十番を賛成すれとも、稍々其点を異にする所あれは念の為めに一応之れを申述へたし、其は此十字を削るに付きては第二項の共有金に関係を及ぼす事なれとも、元来此共有金なるものは府会に於ては云ふを俟たす、たとひ区部会と雖も之れを議すへき事にあらさるへし、之れ本員の曾て論せし事ありたる平生の持論なるが、抑々区部と云ひ郡部と云て此府会を分ちしは全く経済を分つ上に付きての事にして、之れを合して府会とし、之れを分ちて区・郡部会とすれとも、其議権は地方税収支を議すへきものにして、之を外にしては議し得へきの権あるにあらす、左れは区部会とても単に地方税にのみ付きてこそ其議権もあれ、他の事柄に関しては法律の許るす所あるにあらす、然るに此共有金はたとひ日月も長く其間に幾多の沿革を経過したるも必竟地主の積金に根元せしものなり、故に之れを左右せんとせは
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政府に請ふて宜しく十五区聯合の会を開くへき事ならん、依て之を玆に議するの権なきものとするなり、斯く其精神には異なるあるも、削るに至りては則ち一なるが故に三十番を賛成す
 ○三十三番桂信行曰 常置委員の説至当なれは、之れを賛成す
 ○議長曰 他に異議なくは、決を取るへし、常置委員の意見にして「地方税の支出を要せす」との十字を削除す、其主意は三十番より報道せられし如し、之に同意は起立
   一人の外総起立
 過半数なるを以て修正に決す
  書記第二項を朗読す
 ○三十番松波宏祚曰 此項に対し常置委員は修正を加へたり、其主意は前項に於て詳述せし如し、依て「区部共有金利子に対し補給を求むるものとす」とあるを「地方税を以て支弁するものとす」と改めたり
 ○四十三番大貫伝兵衛・三十二番高橋基一並曰 常置委員の説を賛成す
 議長曰 直に決を取るへし、三十番の報道せられし常置委員の説に同意は起立
   二人の外総起立
 過半数なるを以て修正に決し、而して此案の為めに三次会を開くへきや否やの決を取るへし、三次会を開くへしとする者は起立
   四人の外総起立
 又曰 然らは本案は至急を要するか故に、直に三次会を開くへし
   書記朗読
 府号外議案
    養育院処分案
 一、明治十五年度より養育院の費用は、同院蓄積金利子と元府立病院蓄積金利子とを以て之を支弁すへし
 一、現今在院窮民の内、止むを得さる事実あつて本年度限り退院し難きものに限り残留窮民となし、之に属する費用は地方税を以て支弁するものとす
   但養育院蓄積金・元府立病院蓄積金利子を以て第一項の費用を支弁し、有余あるときは仍ほ本項の費用に供すへし
 ○議長曰 右に確定は起立
   二人の外総起立
 然らは之に確定し、直に議長の名を以て上申すへし(明治十五年府会議事録)
右の議決を経たる後ち養育院費予算に付、左の通り説明されてゐる。
 養育院費は、十五年度より其支弁の方法及ひ入院を許すへき窮民の性格を改正するにより、職員の数を減し、窮民取扱の方法を簡易にし、勉めて節減を加へたりと雖も、現今在院者の内窮困逼迫、十四年度限り退院せしめ難きもの少小にあらさるを以て、猶本案金八千九百拾四円を要せり、然れとも本院処分法の議決に拠り雑収入に掲けたる同院蓄積金利子と元府立病院蓄積金利子を合し、金弐千五百
 - 第24巻 p.113 -ページ画像 
五十円を控除すれは其地方税より支出するの金額は六千三百六十四円なり、而して入院窮民と雖も尚恤救規則に適したるものは、其規則に拠り救助を受くるの考案なるを以て、果して之を受くる時は猶本案金額の幾分を償却し得へきなり(明治十五年府会議事録)
 即ち十五年度より養育院費は、院の蓄積金利子と元府立病院蓄積金利子とを以て支弁するを主旨とし、尚ほ地方税より補給することゝした。随つて明治十六年度は養育院補助費として千六百三十四円余、十七年度は二千四百二十五円余を支弁したが、十八年度より支弁されず同年度の救育費壱万七千六百余円は、一の癲狂院費に過ぎないものとなつた。尚ほ当時の会計年度は当年七月一日より、翌年六月末日までと規定せる時代なれば、養育院経費の地方税補給支弁は、明治十八年六月末日(十七年度末)限り廃止されたのである。
渋沢院長は右十五年(一八八二)府会の議決以来、過去十数年の歴史を有し、府唯一の救貧施設たる養育院の前途に付き深く憂慮して措かず、遂に十八年二月府知事に対し左の建議を提出した。
 済民恤窮は治民必要の事務にして、全国の主府たる本府の如き、若し此の施設を欠けは、即ち貧困者依る所なく、凍餒目下に迫り、餓莩街頭に横はるの惨状なき能はす、此の如くなれは其布政豈宜を得るものと云ふへけんや、故に明治の初に当りて、今の養育院を上野山内に設置せられ、後之を和泉橋に移し、以て今日に至る、其間数数沿革ありと雖も、要するに府下窮乏困厄の者をして、頼て以て道路に斃るゝの結果を免れしめたるは、本院与て力ありとす、明治十五年府会の議決を以て此の済恤の事を漸次廃棄すへきものとせられ爾来在院の無告者を将て、務て之か出院を促し、僅に残留するものは病羸にして一身起臥に勝へ難きものに過きさるのみ、今や既往に回顧して将来を推考すれは、此の済恤の事たる、到底今日に廃棄す可らさるものなり、然るに本院の如き僅に病羸を残留して其他の無告者を顧さるの観あるは、蓋し府会の議決に因り、地方費の支弁に係るを以て然らしむる所にして、是を本院設置の旨意に背かさるものと謂ふへけんや、今従来の経験を以て仮に本院収養の窮民を百五十人として、一歳の費途を概算すれば、其金額総計四千五百円に満たす、本院又従前より行旅患者及棄児の為に、其費用を収めて之を撫育するの例あり、此費用の内幾分の剰余を生すへきを以て、今其予算を設けて前の四千五百円の内より之を除く時は、其費額実に三千八百円未満にして足れりとす、因て以為らく、此の済恤に供用すへき原資金若干なるものは、曾て府庁に存在するを以て、今又本院現在の地所家屋を売却して、其代金を以て此の原資に加ふることを得は、其集資より生する所の利子を以て、必す前項の費額を支ふるを得へし、果して此の如くなれは本院は全く地方経費に依らすして永く府下に存立して、治民必要の具に任し、庶幾くは布政の万一を裨補するを得へし、因て別紙(別紙省略)概算書を添へて謹て此に建議す 誠惶頓首
明治十八年二月十日     東京府養育院長 渋沢栄一
    東京府知事 芳川顕正殿
 - 第24巻 p.114 -ページ画像 
○下略


養育院六十年史 東京市養育院編 第二七一―二七七頁 昭和八年三月刊(DK240009k-0003)
第24巻 p.114-116 ページ画像

養育院六十年史 東京市養育院編  第二七一―二七七頁 昭和八年三月刊
    第四章 委任経営時代
 養育院の経費は既述の如く、明治十八年(西暦一八八五)六月末日限り地方税を以て補給することを全廃され、一に養育院及元府立病院蓄積金の利子を以て経営することゝなつた。この時より市営に至るまでを委任経営時代と称する。斯くこれを称する所以は、同年十一月十九日付の達を以て、養育院の規程は全く改革せられ、全体機構の変更を生じたからである。即ち院の事務は府知事これを直轄し、府下に在住して名望ある数名の委員を特選し、これを全任することゝなつた。而して、事務管掌の順序は、該委員会の議決に一任するも、重要事項は府知事の認可を得ざれば専行するを許さず、又院の原資金は総て公債証書に替へてこれを府庁へ保護預りとし、この公債より生ずる利子を以て、院の経費に充つることゝしたのである。又委員は凡て府知事これを特任し、院長は委員会に於て委員中より選挙して、府知事これを任じ、医長も亦府知事の特任とした。即ち養育院は府知事の直轄に属し、府知事より特任された委員が、会議の上、全般の事務を統理する組織なれば、純然たる委任経営の制度である。この制度は明治二十三年(一八九〇)一月、東京市の所管に移るまで継続したるを以て、この四ケ年余の期間を委任経営時代と称するのである。
    第一節 規程の大改革――委任経営の機構
 養育院が委任経営となれるは、明治十八年(一八八五)十一月、府知事より通達された次の如き規程の大改革によるものにて、当院史上特筆すべき一変化である。
 第九百三拾九号
                        養育院
 其院規程別冊之通改正候条此旨相達候事
  明治十八年十一月十九日   東京府知事 渡辺洪基
    東京府養育院規程
      第一章 綱領
 第一条 養育院は、東京府下の鰥寡孤独又は貧窶に陥りたる者、及ひ癈疾不具其他病羸に罹りたる者を救助するか為め設置する所のものとす
 第二条 養育院の事務は、貧困者を入院せしめて之れを救育すると其疾病に罹る者を救療するとに在り、但追て原資金増殖の時に於ては貧院と貧病院とに区別すへし
 第三条 養育院の事務は東京府知事之を直轄し、府下に在住して名望ある数名の委員を撰て之れを全任すへし
 第四条 養育院事務管掌の順序は都て委員会の議決に任すと雖も、左の五件は府知事の認可を待たすして之を専行するを得す
   第一 本院の規程を改正増減する事
   第二 毎年度の定額金を定むる事
   第三 入院窮民の資格を定むる事
 - 第24巻 p.115 -ページ画像 
   第四 醵金の方法を設くる事
   第五 臨時費を支出する事
 第五条 養育院毎年の経費を定むるは前年度の末委員会の議決を以て之れを立案し、府知事の認可を得て之を決定すへし、而して其決算報告は翌年度の初に於て之れを調理し、考課状と共に府知事に申報すへし
 第六条 養育院の原資金は、都て之れを公債証書に替へて東京府庁へ保護預と為し、決して他に之れを使用すへかちす、而して此公債より生する所の利子を以て毎年本院の経費に充つへし、但後来醵金其他の方法に依て此原資金を増額するも、同く之れを公債証書に替へて保護預と為すへし
      第二章 職制
 第七条 養育院は左の職員を置きて其事務を管掌せしむへし
   委員     拾名
    内
   院長     壱名
   医長     壱名
   幹事     壱名
   委員会書記  壱名
   書記     定員ナシ
   会計     同
   医師     同
   教師     同
 第八条 委員は府知事之れを特任し、其会議の議決に拠て本院全般の事務を統理するものとす
 第九条 院長は委員会に於て委員中より之を選挙し、府知事之を任して、幹事以下の職員を指揮して院内一切の事務を監督整理するものとす
 第十条 医長は府知事之れを特任して、院内の衛生及治療の事務を総理するものとす
 第十一条 委員会は少くとも毎月一回本院に於て之を開き、諸般の事務を議決すへし、但院長又は委員中に於て特に之を要する時は何時も臨時会議を開くを得へし
 第十二条 委員の会議は院長之れか議長となり、多数を以て之れを議決すへし、而して其出席員過半数に充たされは之を開くへからす、但至急を要する事件に付ては、院長より稟札廻議を発して議決せしむる事あるへし
 第十三条 幹事は院長之れを推挙し府知事之を任して、院長を輔けて諸般の事務を管理す、院長不在の時は之れか代理たるを得へし
 第十四条 委員会書記は院長の指揮に従て会議の事務を整理し、其録事を調理すへし
 第十五条 書記・会計・教師等は院長之れを命して、各其課の事務を分担せしむへし
 第十六条 医師は医長之れを命して衛生及ひ治療の事務を調理せし
 - 第24巻 p.116 -ページ画像 
むへし、但其勤務上に就ては院長の指揮を受くへし
 第十七条 委員及医長は府知事の嘱託に依て名誉上之れに属するものなれは、其俸給は給与せさるへし
 第十八条 幹事以下の役員は、委員会の議決を以て各其職に応して相当の給料を支給すへし
      第三章 事務管掌順序
 第十九条 養育院の事務は左の六掛に分課して、之れを整理せしむへし
   書記掛
   庶務掛
   会計掛
   病室掛
   教場掛
   工業掛
 第二十条 書記掛は院内の諸録事及ひ文書の往復、議案の起草、其他諸書類の編纂等を調理すへし
 第廿一条 庶務掛は在院窮民の戸籍を明瞭にし其出入・死亡及ひ就業者の配置等を調理し、其他男女童幼の諸取締向を担当すへし
 第廿二条 会計掛は院中経費の出納を掌りて其簿記を詳明にし、物品の購入及交付其他用度の事を調理すへし
 第廿三条 病室掛は在院の患者種類に依て其看護人の配置及薬餌の交付等を掌るへし
 第廿四条 教場掛は在院の童幼へ算筆を教授せしむる事を掌り、併て其教師・生徒の勤惰を監督すへし
 第廿五条 工業掛は在院窮民授業の事を掌り、併て職工を使役し、勤惰を監督して其事務を調理すへし
 斯の如くして院一切の事務は、委員合議制によりて決することゝなつた。依て府知事は十二月に至り渋沢栄一・三井三郎助・伊達宗城・松平定教・青地四郎左衛門・橋本綱常・大倉喜八郎・福地源一郎・沼間守一・川村伝衛の十名を委員に委嘱する所あつた。右委員中より渋沢栄一を院長に、橋本綱常を医長に特選して事務を進行することゝした。而して院長・医長・委員等は全部篤志を以て無給奉仕したのである。 ○下略


東京府日誌 巻之七四 明治一八年一二月(DK240009k-0004)
第24巻 p.116-117 ページ画像

東京府日誌  巻之七四 明治一八年一二月  (東京府庁所蔵)
○十二月廿六日土曜日
                    渋沢栄一
                    橋本綱常
                    伊達宗城
                    福地源一郎
                    沼間守一
                    青地四郎左衛門
                    大倉喜八郎
                    三井三郎助
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                    松平定教
                    川村伝衛
 東京府養育院委員嘱託候事
               東京府養育院委員
                    渋沢栄一
 東京府養育院長委嘱候事


東京日日新聞 第四二二五号乙 明治一八年一二月二三日午前 ○養育院の組織改革(DK240009k-0005)
第24巻 p.117 ページ画像

東京日日新聞  第四二二五号乙 明治一八年一二月二三日午前
○養育院の組織改革 同院ハ其始め旧の東京会議所の設置に係り、今の十五区共有金を以て支弁せしを、明治十二年府県会を開かれてより以来区部の地方税にて維持し来りしが、今度地方税支弁を離れて独立なす事となり、随て大に同院を改正せられんとて、本月十七日渡辺府知事にハ委員たるべき人々を築地の精養軒に招ぎて嘱托ありしに、何れも之を諾せられたり、其人々ハ伊達宗城・池田章政・久松定敬(旧桑名藩主)・渋沢栄一・三井八郎右衛門・青地四郎左衛門・川村伝衛沼間守一・福地源一郎・橋本綱常の諸君にして、委員中より渋沢君を院長に、橋本君を医長に撰ひたり、且つ其方法を聞くに資金は既に金五万円を有し、利子其他年々収入する所を合せて四千余円を得、これを以て凡そ百三・四十人を養ひ得らるべく、行務ハ院長、医務ハ医長之を執り、委員ハ毎月一回集会して大小の事務を協議し、重事ハ府知事の認可を経る等の規約を定め、其他の事務を相談の為に、尚ほ明廿四日午後より委員一同ハ同院に会して協議せらるゝ所ありとか聞く


東京市養育院月報 第一四六号・第一―六頁 大正二年四月 本院の沿革と現状(院長渋沢栄一)(DK240009k-0006)
第24巻 p.117-118 ページ画像

東京市養育院月報  第一四六号・第一―六頁 大正二年四月
    本院の沿革と現状 (院長 渋沢栄一)
       本項は去月十三日参院の市会議員諸君に対し演説せしものなり
○上略 一つ私設を以て此窮民を引取つて、東京府と引離れて経営することに致したいと云ふ考案を私が起しまして、それで現在の財産と相当なる涙金を呉れよと云ふことを東京府会へ請求しました、それは其際和泉橋の地所は政府の物でありましたけれども、これを売却して東京府に貰ふと二十万円以上の金になる、それで今の通り養育院は逐立てられて是から独立して、一の婦人慈善会を起し、其慈善会で年々数千円の金を集めてそれを以て維持するやうにする、又差向いた所は市内の富豪に寄附金をして貰つて、これに依て一の新しい場所を設けて私設の養育院を組立る、併ながら今日和泉橋から他に移転するに付ては相当なる資金を東京府会から涙金として貰ひたい、さうすると残留人員は私設のものに収容して、救助して行くやうにすると云ふことを申出まして、漸く四万円程であつたと思ひますが、和泉橋の地所を売つて、東京府が政府より貰ふ金の中から養育院の方へ貰つたのでございます、それで以て本所長岡町に移転したのが私設の養育院でありました、暫時の間私が私設養育院の院長となり、故橋本綱常氏が医長となり、其他いろいろな人がありましたが、二十幾名かの仲間と、それから貴婦人連に大に力を入れて貰うて、婦人慈善会を催して年々相当の寄附金を得まして、収容の窮民を取賄つて居つた、此間は府と云ふ公
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共団体とは全く引離れて私設として、明治十七年から廿一年まで五年の間経営致しました故に、事務も伸びませぬ、又寄附金も余り充分に集めることが出来なかつたのでございます
○下略


竜門雑誌 第四八一号・第一二一―一二三頁 昭和三年一〇月 社会事業と青淵先生(窪田静太郎)(DK240009k-0007)
第24巻 p.118-119 ページ画像

竜門雑誌  第四八一号・第一二一―一二三頁 昭和三年一〇月
    社会事業と青淵先生 (窪田静太郎)
○上略 先生 ○栄一は常に何かの機会に於ては自分が養育院を担当することになつたのは、真に偶然の機会からで、深く思索を遂げた結果でもなく、社会事業に関係することゝなつたのも、言はゞ偶然の行掛りに過ぎない様に申して居られるが、翻つて考へるに、若し唯偶然の機会から養育院其の他の社会事業に関係せられたものなりとすれば、又必ずや偶然の機会に之れから離れて仕舞はれた筈であつた。此の如き機会は例へば十七年府立養育院廃止の際とか屡々あつた筈である、数十年の久しきに渉つて一貫して養育院の事業に当られ、其の他の社会事業に当られて、今日の如きに至る筈がないのである、当初は共有金の関係から養育院の管理に当られたとしても、明治十七年の府立廃止の際の如き場合に、単に通り一遍の意味を以て関係して居たものゝ採り得べき処置ではない、心中に人道より燃ゆる熱情と、将来に対する深き思慮見識あるに非ざれば、為し得るところでないのである、而して先生が人道に厚く、不幸なる人の為尽される所以の源は、固より其資性に出づるものなるべきも、而も幼少の頃に於ける家庭の感化が大に与て居るものと思ふ。加ふるに少年の頃から深く孔孟の教を研鑽せられて実践躬行に努められ、以て今日に至つて居るのであるから、此の徳教の力が亦甚だ大である、而し家庭の感化が力あつたことゝ思ふのは嘗て癩患者の救済に付て協議の際先生の御話に、先生御幼少の頃近所に癩病の子供があつて、皆他の子供たちも之を嫌つて誰も共に遊んでやる者がない、然るに母君は先生に訓へて、あの子供は誠に可哀想である、他人が遊んでやる者がないからお前は親しく之と交つて慰めてやれと申されて、自分丈は癩病の子供と仲善く遊んで居た、斯様なことで、癩患者の救済に付ては特に深く責任があるやうに感じる次第であると云ふことを親しく先生から聞いたことがあるが、之に依て観ても如何に母君が仁愛の心が深く、従つて家庭に於ける感化も亦尠くなかつたと思はれるのである。又嘗て先生が人に語られたところに依れば、先生は慶応二年二十七歳の時に、水戸徳川家の先代昭武卿が将軍の名代として、仏国の万国博覧会に参列の為め渡航せらるゝのに随行せられ、引続き明治元年迄仏国に留学せられた、其の間に巴里で慈善市(バザー)開催に付、買物をして貰ひ度いとの依頼状を時々受けられ、初は其の趣旨が分らなかつたが、人から夫れは博愛済衆の趣旨に出でたもので、其の資金は慈善事業に使用するのであると云ふことを知つて大に之に感じ、帰朝の後は我国に於ても追々斯様なる習慣を作りたいものであると云ふことを考へられたさうである。之に依て観ても先生の衷心には早くより強き博愛の情が潜んで居つて、明治十七年に養育院の公設を廃止せられんとするに及んで、勃然として其の情が
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奮起したのである、而も仏国に於て遭遇せられた経験・知識が、如何にして之を私設として維持すべきかの成算を得られるに付ては与つて大に力あつたことゝ思はれ、先生をして決心を為さしめた一つの原因に為つたかと思はれるのである ○下略
   ○府営時代甚ダ不振ナリシ養育院ノ経済ハ私設時代ニ入リ稍恢復シタリ、明治十九年ヨリ二十二年ニ於ケル当院歳出合計左ノ如シ。(養育院六十年史附録第三十頁)
     明治十八年(府営時代)四、二二〇円
     同十九年       七、〇七二
     同二十年       七、一八〇
     同二十年       八、一九八
     同二十二年      九、七四一