デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 養育院其他
1款 東京市養育院
■綱文

第24巻 p.119-126(DK240010k) ページ画像

明治18年12月(1885年)

是月、当院神田区和泉町ヨリ本所区長岡町四十三番地ニ移転ス。栄一院長トシテ之ニ与ル。


■資料

東京市養育院創立五十周年記念回顧五十年 渋沢栄一述 第一二―一三頁 大正一一年一一月刊(DK240010k-0001)
第24巻 p.119 ページ画像

東京市養育院創立五十周年記念回顧五十年 渋沢栄一述  第一二―一三頁 大正一一年一一月刊
    六 養育院が私人の設立となる
○上略 斯くて余は此新設私立養育院の院長となり、故陸軍々医総監橋本綱常氏が医長となり、其他同志と胥謀りて相当の部署を定め、一方官衙又は民間よりの寄附金を集め以て収容の窮民を養ふことゝしたのである、之れが明治十七年十二月から二十二年の末まで満五年間の状態であつたが、其間明治十九年の三月には和泉橋の藤堂屋敷より本所の長岡町に移転をした、廃止論が勃発してより私営の事業となり、更に明治二十三年東京市営に切換へらるゝに至るまで、足掛六・七年間の余等同志の苦心と云ふものは、自ら申しては憚りあれど蓋し一通りのものではなかつた。


東京日日新聞 第四二〇六号乙 明治一八年一二月一日午前 ○養育院移転(DK240010k-0002)
第24巻 p.119 ページ画像

東京日日新聞  第四二〇六号乙 明治一八年一二月一日午前
○養育院移転  本所長岡町なる養育院ハ、其の修繕既に落成したるに付、本日を以て下谷和泉橋際なる養育院を玆に移転せしめらるべし


養育院六十年史 東京市養育院編 第二八五―二九五頁 昭和八年三月刊(DK240010k-0003)
第24巻 p.119-123 ページ画像

養育院六十年史 東京市養育院編  第二八五―二九五頁 昭和八年三月刊
 ○第四章 委任経営時代
    第三節 神田より本所へ
 神田和泉町の養育院用地は、当時の施設として差支を生ずるが如き狭隘の地にあらざりしが、移転と同時にその一部は東京大学医学部附属病院の用地に貸渡され、他方は勧工場へ貸地としてゐた。移転の翌年即ち十三年(一八八〇)四月の如き、室内満員にて、流行病等の懸念もありし為め、病室建増の上申をしたが、何等指令なくして経過した。翌明治十四年(一八八一)十月に至り、更に「在来の病室模様替及建増等致度、然る処右模様替等より西隣地との藩籬薬局病室へ相接し、通路不便にて差支も不尠、且今般幼童者教育方法を設け、上申仕
 - 第24巻 p.120 -ページ画像 
候通り健全成長を得せしめ候様仕度候に付ては、窮民各室と相離れ候場所へ運動場等も差定致度、其他往々見込の儀も御座候間、本院用地の内別紙地面朱引の通取拡申度候」との上申を為した。その取り拡むる地坪は間口九間・奥行九十九間である。これは「聞届」との指令に接して取り拡げたるが、当時の収容人員に比して、必ずしも広いとは云へぬ。斯かる事情より、府は十八年二月養育院の附属として、本所長岡町の地所を購入したのである。
 今般本所長岡町四十三番地第三号地所建物とも貴院へ附属の為め買上相成候に付ては、追て何分の儀達し相成候迄、不取締無之様管守方御取計有之度、依命此段及御通達候也
  明治十八年二月十四日     庶務課長 田中直達
    養育院長 渋沢栄一殿
翌三月十四日付を以て、更に同課長より「今般右地所官有地第四種に組替相成候」旨の通達があつた。而して現在神田の地所家屋を売却して、これを原資金に加ふべしとは、渋沢院長が二月前章既述の如く府知事へ建議せる所にして、府もこれを容れ、本所へ移転する計画もありて買上げたる如く、移転の儀は当時既に決定してゐたと思はれる。他方本所の新築は着々進行しつゝあるを以て、十一月十日移転費に付上申した。
 今般本所長岡町へ移転可致に付、物品及病者等を運搬可致車数取調候処、運搬品は概ね日用品に付、前以確と予定致候訳にも難相成に付、臨時多少の増減は相生し可申候得共、略別紙調書の通相成可申と奉存候、付ては有志の者より運搬車百輛丈は無代価にて差出し申度旨願出も有之候間、右等差引いたし候時は実費凡そ金拾円以内にて移転費の支払は相済可申、且前陳の通り臨時車数等の増減も有之候儀に付、右移転事務丈けは当院に於て取扱候方便宜の儀と奉存候間、右御聞届被下度、且其費用も一時当院経費の内より操替置、追て御下渡し方相願候様仕度候、此段上申仕候也
  明治十八年十一月十日     養育院長 渋沢栄一
    東京府知事 渡辺洪基殿
これに対し、府知事より十一月二十七日付を以て「書面上申の趣聞置候事、但運搬費の儀年度末精算仕訳書を以て申出つへし」と指令された。
 (別紙)
    運搬品車数調
 一、衣服入長持   拾七棹    凡拾七車
 一、弗匣      壱個     凡壱車
 一、椅子      三拾七脚   凡壱車
 一、寝台      六拾五個   凡弐拾弐車
 一、竜吐水     弐挺     凡壱車
 一、炊事用鍋釜   六個     凡六車
 一、雑品類            凡弐拾車
 一、衣服類            凡五車
 一、蒲団類            凡拾壱車
 - 第24巻 p.121 -ページ画像 
 一、書物葛籠    拾個     凡弐車
 一、学校用本箱大小 拾三個    凡弐車
 一、テーブル    拾七脚    凡五車
 一、食台      拾五脚    凡弐車
 一、水瓶      三個     凡壱車
 一、大小桶類    弐百個    凡四車
 一、工業用雑品          凡拾車
 一、蚊帳             凡壱車
  合計百拾壱車
   此賃金拾七円七拾六銭 但壱輛に付金拾六銭
  外に
 一、伝馬船 壱艘 幼童及食器等運搬用
    此賃金壱円弐拾五銭  但船子付
 一、弐人乗人力車弐拾輛 病者四拾人運搬用
    此賃金壱円四拾銭  但壱輛に付金七銭
本所長岡町の新築院舎は、十一月末に至り竣工を告げ、移転の準備すべき旨通達があつた。
 其院本所長岡町院舎新築並修繕等略出来候に付ては、移転の儀更に御達可相成候得共、凡来十二月一日頃より移転の運に御手配可有之為御心得此段及御通知候也
  明治十八年十一月二十八日   庶務課長 田中直達
    養育院長 渋沢栄一殿
果して十二月三日に至り、愈々移転すべき旨の通達に接した。
 第千〇九号
                        養育院
 其院本所長岡町四十三番地へ移転すへし、此旨相達候事
  但移転済の上は届出へし
   明治十八年十二月三日   東京府知事 渡辺洪基
右と同時に左の達があつた。
                        養育院
 長岡町養育院へ、木石引移し費として金八拾円七拾弐銭五厘三井銀行預り券を以て別途下渡候条、引移方取扱ふへし、尤も土木課に於て監督候に付、右引移し日限申出つへし、此旨相達候事
  但金円受領証を出し、且つ引移済の上は精算書を差出すへし
   明治十八年十二月三日   東京府知事 渡辺洪基
斯くて十二月、養育院は神田より本所へ移転したるが、引移したる建家並に本所長岡町養育院建坪調は左の通りであつた。
    和泉町より長岡町へ引移し候建家
 拾三坪五合           浴室    壱棟
   是は長岡町へ移し拾五坪に建直す
 三拾九坪            第四男病室 壱棟
   是は男病室に用る分
 拾三坪弐合五勺         葬堂    壱棟
   是は拾壱坪七合五勺に建直す
 - 第24巻 p.122 -ページ画像 
 弐拾五坪            炊事場 上野より移転の節建の分
   是は炊事場に用る分
 弐拾三坪五合          第三病室
   是は拾六坪五合に建直し失禁病室に用る
 総計 百拾四坪弐合五勺
    本所長岡町養育院建坪調
 一、五百五拾三坪       惣坪数
    内訳
 一、拾二坪五合          土蔵 壱棟
 一、百弐坪七合五勺        表門及第一男室厠共
   内 四坪弐合五勺 雪隠 拾坪 表門
 一、六拾弐坪五合         婦人室同病室厠共
   内 三坪五合 廊下 三坪 雪隠
 一、四拾七坪五合         事務所及厠共
   内 壱坪五合 雪隠 四坪 廊下
 一、四拾五坪           炊事場
   内 五坪 廊下
 一、八拾八坪五合         幼童室教場厠共
   内 四坪五合 雪隠
 一、壱坪五合           幼童者手洗所
 一、三拾九坪           男病室厠共
   内 三坪 雪隠 三坪 廊下
 一、四拾九坪五合         工業場
   内 壱坪五合 雪隠二ケ所
 一、拾五坪五合          失禁病室
   内 五合 雪隠
 一、五坪五合           避病室
   内 五合 雪隠
 一、拾弐坪            物置
 一、五坪             米庫
 一、拾五坪            浴室
 一、五坪             薬湯室
 一、八坪             炭団場
 一、拾壱坪七合五勺        葬室
 一、弐拾六坪五合         廊下
又移転費の精算額は、左の上申書が示す如く、合計金拾円を要しなかつたのである。
 明治十八年十一月十日付を以て、当院移転に際し病者其他日用品等之運搬は臨時車数の増減も有之、且其費用も凡金拾円已内に可有之候間、移転事務丈は当院に於て取扱、其費用は一時当院経費之内より操替置、追て御下渡し方相願度旨上申仕候処、御聞届相成費用之儀は年度末に至り精算書相添可申出旨御指令有之候に付、此際御下渡方更に可申上候処、十八年度本院経費傭給の項に於て金廿五円五拾九銭の残余有之候間、右の内より流用支弁仕度奉存候間、御聞届
 - 第24巻 p.123 -ページ画像 
被下度、別紙精算書相添此段上申仕候也
  明治十九年四月十七日     養育院長 渋沢栄一
    東京府知事 高崎五六殿
      精算書
 一、金九円四拾六銭五厘   養育院移転費
    内訳
   金壱円八拾九銭     二人乗人力車二十七輛 壱輛に付金七銭
   金拾五銭        同壱人乗車三輛 壱輛に付金五銭
   金七円四拾弐銭五厘   荷物運送車五十五輛 壱輛に付金拾三銭五厘


養育院六十年史 東京市養育院編 第二九九―三〇三頁 昭和八年三月刊(DK240010k-0004)
第24巻 p.123-125 ページ画像

養育院六十年史 東京市養育院編  第二九九―三〇三頁 昭和八年三月刊
 ○第四章 委任経営時代
    第四節 委任経営の直前直後
○上略
 東京府養育院沿革
○中略
 明治九年五月二十三日会議所の事務を府庁に致納し、本院府庁の直轄する所となりて院規をも改正し、遂に明治十二年度より十七年度迄は府会の議決に由り、地方税を以て其の費途を支弁したりしか、十八年度即ち明治十八年七月一日よりは地方税の支弁を離れ、宮内省より下賜の金円及ひ従来慈善者より恵投の金円其他の余資を合せて凡金五万円を原資として公債証書を買入れ、此利子を以て院中一切の経費を支弁することゝなり、現在本所区長岡町四十三番地に独立するに至りぬ
 於是乎本院の事務は府庁の直轄と成り、乃ち明治十八年十二月を以て依嘱に由りて、渋沢栄一・三井三郎助・伊達宗城・松平定教・青地四郎左衛門・橋本綱常・大倉喜八郎・福地源一郎・沼間守一・川村伝衛は委員となり、更に渋沢栄一を院長に、橋本綱常を医長に挙けて事務を総括し、幹事及ひ各掛あつて院務を分掌す、但院長・委員等は皆篤志を以て無給奉務する者なり
 凡そ東京府下の窮民にして入院を乞ふ者は郡区長より本院に照会し本院の規程に従て入院せしむ、但し院費に定額あるの故を以て、毎時定数の外は入院せしむるを得す
 院内は窮民室・授業場・筆算所・会食堂・浴室・医局・喪堂等の設あり、又窮民を分て五部となす、男室・女室・幼童室・盲人室・病室是なり、窮民男女の中身体稍健にして性直なるもの数名を撰ひ各室の頭目となし、病室は別に看護人を置く
 入院するものある毎に医員之を診断し、其身病羸又は老衰と雖も聊か操作の労に任する者は、工事を授けて坐食の弊を防く、病者は之を病室に入れて治療を加へ、癈疾・幼童等は皆分部して室を与ふ、夫婦たりとも男女同室するを禁す、只乳者は母子同室を許すと云とも、三・四歳に至れは断乳分居せしめ以て舐犢の弊を防く、幼童学齢に及へは則ち算筆を授け、実用を主として教育し、其十歳以上の者は毎半日工事を執らしむ、死亡は之を区役所に照会し、親戚の屍
 - 第24巻 p.124 -ページ画像 
を領するなきものは谷中墓地に埋葬するを例とす
 窮民喫食は、男女老幼の別なく一日三食を与へ、朝は粥を食し、昼夕は飯を食し、三食毎に醃菜・梅干・食塩の類一品を付し、隔日を以て一菜或は汁を与ふ、澡浴は夏秋炎熱の節は一日一浴し、冬春の間は三日に一浴し、男女理髪も亦定度あり
 院中に執行する工業は張文庫・炭団・草履・鞋・縄等にして、盲人は按摩の業を執らしむ、其工業より成立ちたる品物は之を売却し、其売得金は工業資金及ひ手間代を除扣し、純益は工業積立金として該院の原資に充つ、尤も窮民へ渡すへき手間賃は其出院後の手当として其半額を本院に預る者とす、但し貯蓄金の有無に関せす自活を得へきもの、又は親戚より出院を請ふ者等は皆出院を許し、其貯蓄金あるものは之を郡区役所に交付し、本人生活の為めに調査あらんことを委嘱す、又能く工業を勧め同者を誘励するの実効あるものは出院の際賞を与へ、院規を犯すものは之を懲艾す
 凡そ慈善者の給与する金銭は之を原資金に補充し、一時口腹の為めに消費せす、但た物品は之を窮民に分配するを例とす、若し慈善者より食事・布帛の料として金銭を恵むときは、其意に任せて其厚志を全くす
 本院創立より今日に至る費用の共計は、之を別表に載せて以て既往院費支出の概況、窮民収育の事情を了知するに便す、其死亡者の太た数多なるは入院の窮民殊に病羸多きを以てなり
 近来府下貧民の形状を見るに、郡区衙に至り養育院に入るを哀願するもの益多し、然れとも限りあるの院資を以て、限りなき窮者を救育するは極めて難事とす、本院は只強て冗費を省き、以て収育の人数を増加せんと欲するのみ、本院は初め工業を拡張して其経費を省くの計なりしか、今日の養育院は昔日と其趣を異にし、工業を以て其経費を補助するの計は已に画餅に属したれは、今日は惟た原資金を増殖して其利子を以て之に供給するの一策あるのみ、然り而して向来種々の方法に於て領収すへき見込なりと雖とも、現今府庁に於て本院の原資金として別に保管する者は、七朱利附公債証書高四万九千六百六拾円にして、其利子は一年金三千四百七拾六円弐拾銭に過きされは、其利子を以て養ひ得る者は僅々百十五人強に過きす、且つや其の費用は窮民壱人に付一箇年平均金三拾円の少を以て支弁する者たれは其健康を恢復するも亦自ら遅々たらさるを得す、此等は都て原資不足の為に胚胎する者なれは、尚此上に一層手厚の方法を以て救済ありたきは我徒か平生の希望なるのみならす、今の病室を以て漸く之れを拡張し、貧院と貧病院とを区別して府下無告の窮民又は其病に罹る者は挙て之を収育せんことを希望する者なり、此際特に公衆に望む所は、広大なる慈善心を以て此原資を増殖するの方法を講し、或は戸外救助の姑息を止め(手の内なる者)或は虚礼往復の浪費を節し(年詞喪葬)其の金銭品物を活用して之を該院に贈与し、日月に原資の多を加へ、随て其救育の区域を広くするを得工業を営むの窮民は工業資本に富み、治療を受くるの病民は早く平癒の途に就て此の悲痛哀矜すへき窮民をして仁慈の雨露に沐浴せし
 - 第24巻 p.125 -ページ画像 
むるを得せしめは、誰か捐助の徳に感せさらんや、誠に如斯なれは只昔賢の遺恵を空くせさるのみならす、捐資各位の陰徳も亦た無窮に伝ふるものあらん、因て本院の由来と景状を述へ、併て大方諸君の賛成を望むと云爾
  明治十八年              東京府養育院
○下略


養育院六十年史 東京市養育院編 第二八〇―二八一頁 昭和八年三月刊(DK240010k-0005)
第24巻 p.125 ページ画像

養育院六十年史 東京市養育院編  第二八〇―二八一頁 昭和八年三月刊
 ○第四章 委任経営時代
    第一節 規程の大改革――委任経営の機構
○上略
 叙上の如く規程の大改革となり、院の事務は特任の委員等に全任されたのである。こゝに従来使用し来れる東京府の「府」字を除き、東京養育院と改称して可然儀を上申せるに、府知事はこれを認許しなかつた。
 今般本院規程御改正相成、全般の事務を委員へ御任し相成候に付ては、此際府の文字を除き、向後東京養育院と相改候方可然と奉存候間、右御許可被成下度、此段上申候也
  明治十九年一月十四日     養育院長 渋沢栄一
    東京府知事 渡辺洪基殿
これに対し左の如く指令された。
 第一六八〇号
 上申之趣認許難相成候事
  明治十九年一月二十九日   東京府知事 渡辺洪基
○下略


養育院六十年史 東京市養育院編 第六四六―六四七頁 昭和八年三月刊(DK240010k-0006)
第24巻 p.125-126 ページ画像

養育院六十年史 東京市養育院編  第六四六―六四七頁 昭和八年三月刊
 ○第八章 養育院の経済
    第三節 委任経営時代
○上略
    (ロ)皇室の恩寵と国家の助成
○中略
 十数年の歴史を有する養育院の経営は、今や基本金の利子にて窮民を救助する建前を取るに至つた以上、十分の成績を挙ぐるには、是非とも基本金の増殖を図るの外ないのである。幸ひに慈善会の活動及広告等によりて広く一般に認めらるゝに至つたが、遂に明治十九年(一八八六)五月、内務省より娼妓賦金の一部を特別に下附せられたのである。
                        養育院
 其院原資金として其筋より娼妓賦金の内金参千円特別下附せられ候条、此旨心得へし
  明治十九年五月三十一日   東京府知事 高崎五六
この書式にて下附せられたること、左の如く前後四回に亘つてゐる。
   明治十九年五月三十一日    金参千円
 - 第24巻 p.126 -ページ画像 
   明治十九年十月二十日     金参千円
   明治二十年八月八日      金参千円
   明治二十一年一月二十一日   金五千円
 内務省が過去約二十年来、全国優良の社会事業団体に対して、助成金を下附せらるゝことは、既に周知の事実にして、今や年中行事となれるが如きも、今より四十六年前に於ては、未だこれを聞かざりし所斯く国家に於て養育院の事業を認められ、以て助成せられたることは洵に光栄の至りであつた。
○下略