デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 養育院其他
1款 東京市養育院
■綱文

第24巻 p.177-180(DK240018k) ページ画像

明治33年7月24日(1900年)

是日栄一、当院委員長トシテ、収容中ノ虚弱児童ノ為ニ千葉県安房郡勝山町ニ海浜療養所ヲ設置センコトヲ東京市長松田秀雄ニ建議ス。二十六日許可セラル。


■資料

養育院六十年史 東京市養育院編 第五〇四―五〇八頁 昭和八年三月刊(DK240018k-0001)
第24巻 p.177-178 ページ画像

養育院六十年史 東京市養育院編  第五〇四―五〇八頁 昭和八年三月刊
 ○第六章 学校及分院
    第二節 安房分院
 養育院に収容せらるゝ幼童は遺児・棄児及迷児等より成るが、これ等の幼童中には虚弱なるもの多く、随つて死亡率も高きを免れぬ。而してその死亡は主として肺結核病に因ることが判明した。依てこれが実地調査を本院医長医学博士入沢達吉に委託したのは、明治三十二年(一八九九)であつた。入沢医長は精細なる調査を遂げたる後、これが救済策として海浜療養所の設立を渋沢院長に建議された。
    海浜療養所設立に付ての主意
○中略
 頃日欧米諸国に於ては貧民療養所なるものゝ設けあり、乃ち其療養所設立の主意たるや、各地の慈善団体か医師をして病弱なる貧民及ひ貧児を診査せしめ、其医師の意見に拠て若干時日間療養所に収容せしむるにあり、而して此療養所は積雪不滅の高山中か或は海浜湖辺等に設立せりと云ふ、蓋し皆是れ空気土地等清浄高燥にして、細菌の発育極めて少き所ならさるはなし、是れ衛生上害毒を除却するに適当なる手段と謂ふへきなり
 今本院か幼童の衛生上害毒を除却せんと欲せは、更に其療病所を海浜に設置せんことを要す、蓋し海浜は冬季気候の温暖なること、夏期水浴を為し得へきこと、空気の清潔なること、交通運搬の便利なること、滋養品供給の容易なる等の便益あればなり
 療病所に要する医師・看護婦、其他必要なる諸々の設備の如きは、愈々設立と決定したる後謀議するも妨けなかるへし
  明治三十三年七月         医長 入沢達吉
    東京市養育院委員長 男爵 渋沢栄一殿
この建議書趣旨の頗る時宜に適せるを認め、同年七月二十四日、渋沢委員長より松田東京市長へ左の上申を為した。
 本院入院の幼童中肺結核に罹り死亡する者、明治三十年・三十一年三十二年の三ケ年平均実に死者百分の五十七に当り、且常に病室にある者十中七・八は同患者に有之、医員の診断に依れは幼童健康者中同病疑似に属する者又は身体虚弱にして伝染に犯され易き者等多多有之趣に付其伝播予防及離隔法に関し医長の意見を徴し候処、別紙の通申出有之候に付、近海沿岸に適当の家屋を借受、同病疑似に属するも健康室に在りて未た薬用せさる者、虚弱にして該病に罹り易き者等を相移し、三・四ケ月間相試度と相考へ所々承合候処、房
 - 第24巻 p.178 -ページ画像 
州勝山広田松二郎なる特志者三十余坪の家屋を所有致し居、幼童一人に付一日一銭宛の家賃にて貸与可致旨申出候、同地は海岸にて医員も最も適当の地と認候旨申出有之、舟賃の如きも一人に付拾八銭五厘にして、諸物価は京地とは凡三割位低廉にして、経費予算以内にて充分なる見込に有之候に付、当該費目より支出致候て差支無之と被存候間、右等の幼童を三・四ケ月間同地に遣し相試度候間、御認許相成候様致度、委員会の議決を経此段上申候也
   明治三十三年七月二十四日
これに対し市長より七月二十六日付を以て左の指令があつた。
                        養育院
 明治三十三年七月二十四日上申幼童離隔派遣の件認可す
   明治三十三年七月二十六日
               東京市参事会
                 東京市長 松田秀雄
 この認可を得て八月五日、房州勝山保養所へ幹事安達憲忠、十五名の幼童虚弱者及看護婦一名、保姆三名、保姆手伝として入院女子三名を引連れ出張の上、夫々の手配を終りて帰院した。当時恰も本院医員光田健輔は、保養の為め約一ケ月同地に滞在の見込なりしを以て、同所の監督及病者の手当等を嘱託した。この保養所は他日安房分院の開設を見るに至れる濫觴である。
○下略


東京市養育院創立五十周年記念回顧五十年 渋沢栄一述 第三一―三三頁 大正一一年一一月刊(DK240018k-0002)
第24巻 p.178 ページ画像

東京市養育院創立五十周年記念回顧五十年 渋沢栄一述  第三一―三三頁 大正一一年一一月刊
    十五 結核素質の児童に空気療養の必要
 然かし、前にも述べた本院児童の発育が悪るいと云ふことには困まる、さればとて値の高い滋養物を与へる訳にも行かないので、結局ドウしたらよからうかと毎々医師とも相談をしたところが、入沢博士が本院の医長であつた頃、同博士は之れは空気療法をするの外はないから、適当の土地に転地療養をさせるに限る、良い空気の土地ならば、食餌は同じであつても効能が違がふと云ふことを申された、そこで呼吸器系統の疾患ある児童及び病後恢復期にある児童を温暖なる海浜に送つて保養させることゝして、明治三十三年中、地を房州勝山町に相し、初めは同地の民家を借り、次で法福寺と云ふ寺院の建物を借入れて本院より病弱児童を此所に移し、試験的に転地保養の事業を始めて見た、然るに其効果は実に著るしきものがあつたので、引続き児童を交替的に此地に送つて保養せしめた為め、遂に其罹病率を大に低下することが出来たのである。


明治卅六年度東京市養育院第卅二回報告(DK240018k-0003)
第24巻 p.178-179 ページ画像

明治卅六年度東京市養育院第卅二回報告
                   第一四六―一四八頁 刊
    ○附属房州保養所の設立及成績
△明治三十三年七日二十六日、市の認可を得て房州勝山町に本院幼童保養所を設立せり、蓋し是より先、院児の肺結核に斃るゝ者甚だ多く、三十年以来三箇年間、同病死亡者の数は実に全死亡者百分の五
 - 第24巻 p.179 -ページ画像 
十七に当れり、是れ身体虚弱にして同病に罹り易きもの多きと、同病初期の者又は尚未だ全治に到らずして病室より出で健康室に移る者、此等雑居するの結果に出づるもの多かるべしと認らる、当時本院医長入沢医学博士の意見に依れば、沿海清潔の地を卜して保養所を設置し、虚弱者・肺病疑似者或は病室より出でゝ未だ全く健康体に復せざる者を是に移して療養せしめなば、其効果著しからんとの事なりき、此に於て乎、保養所設置の認可を乞ふに到れり、次て八月五日同地広田松次郎なる者の宅を借受けて之に移り、以て今日に到れり
 ○中略
 抑も保養所の目的たるものは、前述の如く院児中肺結核の疑あるもの又は該病初期のものをして空気療法を為さしむるにあり、而して本年度中に同所に遣はしたるもの、前表に示すが如く前年度の越三十一人、本年度遣はしたる者五十人、合八十一人の内、能く其目的を遂げて全治帰院したるもの四十二人の多きに達せり ○下略


東京市会史 東京市会事務局編 第二巻・第六六二―六六三頁 昭和八年三月刊(DK240018k-0004)
第24巻 p.179 ページ画像

東京市会史 東京市会事務局編  第二巻・第六六二―六六三頁 昭和八年三月刊
 ○明治年間 第五章 明治三十五年
    第七節 養育院ノ拡張
○上略
▽養育院保養所ノ補助  九月十八日 ○明治三五年ノ会議ニ於テ、養育院ニ収容スル幼童中ノ病弱者ニ対シ、隔離保養ノ目的ヲ以テ、特ニ之ガ保養所ニ充テタル千葉県勝山町法福寺ヨリ、参事会ニ対シ、修繕ニ要スル補助金交付ノ出願アリタルヲ以テ、予備費ヨリ三百円ヲ支出セントスル第七十二号案ノ提出アリ、冒頭渡瀬寅次郎君ハ、保養所ノ現況ヲ質問シ、浦田助役ハ、養育院収容ノ棄児・遺児等、幼童ノ病者年々増加セルヲ以テ、適当ナル方法ヲ設ケ、病者ヲ尠ナカラシメントノ趣旨ヨリ、三十三年十一月以来、房州勝山町ノ法福寺ヲ借受ケ、六箇月若クハ一箇年ヲ期シ、交替ニ虚弱ナル幼童ヲ隔離派遣シツヽアリ、其成績ハ頗ル良好ニシテ、二十九年ヨリ三十四年ニ至ル死亡者数、並ニ死亡ニ対スル病者ノ割合ハ、著シク其ノ数ヲ減ジタリトテ一々数字ヲ示シタル後、是レ全ク三十三年ヨリ保養所ヲ設ケタル為メナリト信ズ、尚参事会ニ於テハ保養所ヲ継続セン考ナリ。更ニ費用ノ点ハ養育院ノ総予算ニ於テ、一人当リ十五銭程ニ計上セルガ、勝山ニ在リテハ、十銭余ニ過ギズ、同所ハ漁場ナルヲ以テ、魚肉ヲ与フルモ尚且ツ五銭内外ノ廉価ナリ。養育院ノ存スル限リ、保養所ヲ設ケ置クノ必要ナルヲ感ズ。現今借受ケ居レルハ、五十坪程ニシテ、人数ハ三十人、多キ時ハ三十五人、四十人内外ヲ派遣シ居レリ。此法福寺ハ貧寺ニシテ、屋根大破セルモ修繕ニ五百円ヲ要シ、同寺今日ノ実情五百円ノ支出ハ困難ナリトテ、補助ヲ出願シ来リタルヲ以テ、其内三百円ヲ補助シナバ向フ三箇年ハ無償ニテ貸与スベシトノコトナリ。従来ハ一箇年六十円一箇月五円ノ家賃ヲ支払ヒツヽアリテ、本年十二月ガ期限ナレバ、三十六年ヨリ三箇年間ハ無償トスル条件ノ下ニ、本案金額ヲ支出スルヲ相当ト認メ提出シタリト説明シ、異議ナク直ニ原案通可決シタリ。
 - 第24巻 p.180 -ページ画像 



〔参考〕渋沢栄一 日記 明治三二年(DK240018k-0005)
第24巻 p.180 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三二年     (渋沢子爵家所蔵)
四月二十六日 晴
午前十時東京市長ヲ訪ヒ、養育院ノ事ヲ談シ ○下略
   ○中略。
八月一日 曇
○上略 安達憲忠来リテ養育院ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
十月十日 晴
午前十時小石川養育院ニ抵リ委員会ヲ開ク、丹羽清次郎来リテ米国慈善事業ノ概況ヲ演説ス ○下略
   ○中略。
十二月七日 雨
○上略 東京市役所ニ抵リテ養育院ノ事ヲ談ス ○下略



〔参考〕渋沢栄一 日記 明治三三年(DK240018k-0006)
第24巻 p.180 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三三年     (渋沢子爵家所蔵)
六月六日 曇
午前田中太郎・安達憲忠来ル ○中略 午後東京市役所ニ抵リ、市長及浦田氏ニ養育院ノ事並感化部ノ事ヲ談話ス、利光・中島ノ諸氏傍ニ在テ之ヲ賛助ス ○下略
   ○中略。
七月四日 曇
○上略 東京市役所ニ出席シテ、市長・浦田氏等ニ養育院ノ事 ○中略 ヲ談話ス ○下略
   ○中略。
七月九日 曇
○上略 午後四時東京市役所ニ抵リ市長・助役ト面会シテ養育院ノ事ヲ談ス ○下略
七月十日 曇
○上略 十時養育院ニ抵リ常設委員会ヲ開ク ○下略
   ○中略。
七月二十八日 曇
○上略 午後四時 ○中略 又安達憲忠氏養育院ノ事ニ関シテ来話ス ○下略