デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 養育院其他
1款 東京市養育院
■綱文

第24巻 p.196-199(DK240024k) ページ画像

明治41年3月20日(1908年)

栄一引続キ当院運営ニ尽力シ来リシガ、是日、当院院資増殖会会長トシテ、東京市長・助役・常設委員・各区長及ビ新ニ嘱托セル各区委員等ヲ銀行集会所ニ招待シテ晩餐会ヲ催シ、席上演説ヲナス。次イデ五月十三日、松平定信ノ忌日ニ際シ、当院内ニソノ遺物ヲ奠シテ祀ル。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四十年(DK240024k-0001)
第24巻 p.196-197 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四十年     (渋沢子爵家所蔵)
三月七日 晴 暖                起床七時三十分 就蓐十二時
○上略 安達憲忠氏来リ養育院ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
三月十三日 曇 軽暖              起床七時 就蓐十一時三十分
○上略 午前十時半養育院ニ抵リ院務ヲ視、慈善事業ニ関スル談話ヲ為ス畢テ院内ヲ一巡シ ○下略
   ○是年、月ノ十三日ニ本院ヲ訪フ記載多シ、十三日ハ白河楽翁会ノ忌日ニ相当ス。公ノ卒去セルハ文政十二年五月十三日ナリ。
   ○中略。
五月十三日 晴 軽暖              起床七時 就蓐十二時
○上略 午飧ヲ畢リ養育院ニ抵リ、安達幹事其他ノ人ト院務ヲ談ス ○下略
   ○中略。
六月十三日 雨 冷               起床七時 就蓐十一時三十分
○上略 五時養育院ニ抵リ事務ヲ協議ス、後院内ヲ一覧シタ方王子ニ帰宿ス ○下略
   ○中略。
七月十八日 曇朝雨 冷             起床七時 就蓐十一時三十分
○上略 又養育院幹事安達氏来話ス
○下略
   ○中略。
九月十二日 曇 冷               起床六時
○上略 八時朝飧ヲ畢リ、食後安達憲忠等ノ来訪ニ接ス ○下略
九月十三日 半晴 冷              起床六時 就蓐十一時三十分
○上略 九時過養育院ニ抵リ幹事其他ト院務ヲ協議ス、院内ヲ一覧シ ○下略
   ○中略。
十月五日 曇 冷                起床七時三十分 就蓐十一時三十分
○上略 十時東京市役所ニ抵リ、尾崎市長ニ面会シテ養育院吏員ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
十月十三日 雨 冷               起床六時三十分 就蓐二時
○上略 二時半養育院ニ抵リ全国ヨリ集合セル監獄教誡師ノ会同ニ出席シテ、慈善ニ関スル一場ノ講話ヲ為ス ○下略
   ○中略。
 - 第24巻 p.197 -ページ画像 
十月十六日 曇 冷               起床七時 就蓐十二時三十分
起床後入浴シ畢テ朝飧ヲ食ス、食後安達憲忠来リ養育院ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
十月二十三日 雨 冷              起床七時 就蓐十二時
起床後入浴シ畢テ ○中略 安達憲忠氏来リ養育院ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
十月二十八日 曇 冷              起床七時 就蓐十二時
起床後入浴シ畢テ朝飧ヲ食ス、食後安達憲忠氏其他二・三ノ来人ニ接ス ○下略
   ○中略。
十一月十三日 晴 暖              起床六時 就蓐十一時三十分
○上略 九時過養育院ニ抵リ、幹事其他ノ掛員ヲ会シテ院務ヲ談ス ○下略


渋沢栄一 日記 明治四一年(DK240024k-0002)
第24巻 p.197-198 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四一年     (渋沢子爵家所蔵)
一月二十四日 晴 寒
○上略 十時養育院ニ抵リ常設委員会ニ出席シ、四十一年度ノ予算ヲ議決ス、并テ本院医務其他ノ企望ヲ述フ ○下略
   ○中略。
二月八日 曇 寒
午前八時起床直ニ入浴シ、畢テ朝飧ヲ食ス ○中略 安達憲忠氏来リ養育院ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
二月二十一日 晴 寒
○上略 八時朝飧ヲ為ス、安達憲忠氏来リ養育院ノ事ヲ談ス ○下略
二月二十二日 曇又雨 軽寒
○上略 十二時東京市役所ニ抵リ、尾崎市長ニ面会シテ養育院ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
二月二十五日 晴 寒
○上略 午前十一時養育院ニ抵リ、高畠副幹事ト要務ヲ談ス ○下略
   ○中略。
三月三日
○上略 午前十一時東京市役所ニ抵リ、市参事会ニ出席シテ養育院ニ関スル歳出入予算ノ件及ビ幼童別置ニ関スル資金補助ノ件ヲ陳述ス、畢テ安達憲忠ニ其要旨ヲ示シ ○下略
三月四日 雪又ハ雨 寒気甚シ
午前八時起床入浴シ、畢テ朝飧ヲ食ス、昨夜ヨリ腹部ヲ損シ朝来尚愈ヘサルニヨリ出勤ヲ見合ハセ、褥中ニ在テ摂養ス、安達憲忠来話ス ○下略
   ○中略。
三月十五日 晴 寒
○上略 十一時養育院ニ抵リ、巣鴨ニ於テ一地所ヲ見ル、幼童別置方法ニ関シ安達・高畠二氏ト種々ノ協議ヲ為ス、午後三時帰宿ス、此日モ腹
 - 第24巻 p.198 -ページ画像 
部全愈ニ至ラサルニヨリテ養育院ヨリ他ニ巡回スルヲ見合ハセ帰宿摂養ニ勉ム ○下略
   ○中略。
三月二十日 雨寒
○上略 午後五時銀行集会《(所脱)》ニ抵リ、養育院々資増殖会ニ関シ、各区長其他ノ委員ヲ招集シテ一層ノ勉強ヲ請求ス、畢テ共ニ夜飧シ ○下略
   ○中略。
三月二十八日 曇 寒
午前七時起床入浴シ、畢テ朝飧ヲ食ス、安達憲忠氏来リ養育院ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
四月十三日 雨 軽暖
○上略
午前九時半養育院ニ抵リ、院務ヲ高畠氏ト談ス ○下略
   ○中略。
五月十三日 晴 暖
○上略 午前十時養育院ニ抵リ事務ヲ処理シ、院内ヲ巡覧ス、此日ハ楽翁公忌日ナルヲ以テ院内ニ其遺物ヲ奠シ、供物ヲ具ヘテ拝礼ス ○下略


東京市養育院月報 第八六号・第一五頁 明治四一年四月 ○本院々資増殖会の委員招待(DK240024k-0003)
第24巻 p.198-199 ページ画像

東京市養育院月報  第八六号・第一五頁 明治四一年四月
○本院々資増殖会の委員招待 三月二十日同会会長渋沢男爵は、尾崎市長を始として助役・常設委員及各区長、並に今回新に嘱託せし各区委員を日本橋区坂本町銀行集会所に招待して晩餐を饗し、席上渋沢男は大要左の演説を試みられたり
 社会の進歩発達に伴ひて、他の一面には生存の競争に打ち負けたる所謂可憐の窮民の日に月に増加するは自然の勢にして、独り我が東京市のみならず、何れの国の都市に於ても均しく之れを認むる所なり、彼の英国倫敦市の如きは、其隆盛につれ年々数万の窮民の増加を来たすと云ふ、我東京市養育院の如きも、明治三十六年より本年に至る其収容者増加の趨勢は実に驚くべき速度を示めし、三十六年度末に於て千七十五人にてありしものが、本年三月十三日には千四百七十人となれり、吾人は人道の上より又は都市の体面上より是非とも相当の設備を為し、彼等をして他日再び社会の生活場裏に復帰せしむるの法を講ぜざるべからず、之れ公共団体当然の義務にして特に幼年者の教育に関しては是非とも其設備を整頓し、以て遺憾なきを期せざるべからず、蓋し彼等幼年者中には将来有望のものもあらん、然るに目下養育院の状態は老幼同棲雑居の有様にて、幼年者は為めに悪感化を被むり、懶隋放逸の性に陥るの恐れ鮮尠ならず、孟母三遷の譬の如く、幼童の教育は尤も肝要なりと雖も、之れが機関の設備を全からしめんと欲せば、先づ院資の増殖を図り、以て之れが必要に応ぜざるを得ず、而してこの必要上より去る三十九年六月院資増殖会なるものを初めて設立し、江湖慈善家諸氏の寄附により目下弐万九千七百参拾五円余を蓄積し得たり、然かりと雖ども如上の目的を達せんとするには前途猶ほ遼遠なりと言はざるべからず
 - 第24巻 p.199 -ページ画像 
之れ予が本日市の要職を占めらるゝ各位の尊来を玆に煩はし、今後尚一層の高配を懇請する所以なりとす、諸賢希くは予の微衷を諒とせられ、奮つて一臂の助力を与へられんことを


養育院六十年史 東京市養育院編 第四七〇頁 昭和八年三月刊(DK240024k-0004)
第24巻 p.199 ページ画像

養育院六十年史 東京市養育院編  第四七〇頁 昭和八年三月刊
 ○第五章 東京市営時代
    第一七節 年中行事
○上略
一、楽翁公記念会 養育院は当初営繕会議所の経営に属して会議所の養育院と通称され、その創立当時より明治十二年頃までの経費は所謂七分金と称する共有金を以てした。これは松平定信(白河楽翁公)寛政年間老中となり、江戸の町費を節約し四年にして金四万両を余したがこれを十分して ○中略 その七を町会所に積立て備荒貯金とし ○中略 これを七分金と称した。 ○中略 養育院も亦この共有金、所謂七分金積立の内を以て経営されたのである。当時もしこの資金なかりせば、本院の創立も或は疑問であつたらう。渋沢院長は平素深く楽翁公の善政と高徳を偲ばれ、五月十三日は公の祥月命日に該当する為め、明治二十年代より毎月十三日を卜して養育院登院日と定め、当日は万障を排して登院するに勉められ、又毎年五月十三日には公の祭典を営み来つた ○下略