デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
3節 保健団体及ビ医療施設
6款 社団法人東京慈恵会
■綱文

第24巻 p.562-564(DK240065k) ページ画像

明治41年10月12日(1908年)

是日、皇后陛下ノ行啓ヲ仰ギテ当会総会ヲ開ク。栄一、御前ニ於テ会計報告ヲナス。


■資料

東京慈恵会総裁威仁親王妃慰子殿下御事蹟 東京慈恵会編 第七六―七七頁 大正五年六月刊(DK240065k-0001)
第24巻 p.562 ページ画像

東京慈恵会総裁威仁親王妃慰子殿下御事蹟 東京慈恵会編
                            第七六―七七頁 大正五年六月刊
    其五 総裁慰子殿下と東京慈恵会
○上略
 東京慈恵医院拡張の事業一段落を告げて、東京慈恵会医院と改称せられたるに就き、明治四十年十月二十四日 皇后陛下の行啓あり。総裁慰子殿下は評議員と共に御車寄にて奉迎、徳川会長御先導、陛下便殿着御の後、諸職員拝謁に際して殿下御侍立、次に会長御先導、皇后陛下は会場に御出であらせられて左の令旨を賜はりたり。
 慈恵医院拡張の趣旨により玆に慈恵会の成立を告く、各員一同の尽力よろこばしく存ず、尚将来本会の事業益々発達せんことを望む
総裁殿下謹で奉答しまゐらす。
  曩に慈旨ヲ奉承シテ東京慈恵医院ノ事業ヲ拡張シ之ガ基礎ヲ確立センコトヲ謀リ、篤志諸員ノ協賛ヲ得テ遂ニ東京慈恵会ヲ組織セリ、今 親臨ヲ辱クシ併セテ優渥ナル 令旨ヲ賜フ、慰子感激ノ至ニ堪ヘス、将来益々勉励シ諸員ノ尽力ニ頼リ広ク同志ニ諮リ目的ヲ成就シテ、以テ令旨ニ副ハンコトヲ期ス、謹デ玆ニ奉答ス
右畢りて便殿に入御、やがて還啓あらせらる。御奉送したまへる殿下の御感懐いかに深かりけむ。かくして東京慈恵会は、更に新たなる行程に上るに至れり。
○中略
尋で明治四十一年十月の総会に行啓の際左の令旨を賜はりたり。
 本日慈恵会の総会に臨み各員を見るを喜ぶ、各員の尽力により追々本会の発展するは満足の至りに存ず
○下略


渋沢栄一 日記 明治四一年(DK240065k-0002)
第24巻 p.562-563 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四一年     (渋沢子爵家所蔵)
二月二十八日 快晴 軽暖
○上略 午後一時半慈恵会ニ抵リ理事会ヲ開キ、徳川公爵其他ノ諸氏ト要務ヲ議決ス ○下略
 - 第24巻 p.563 -ページ画像 
   ○中略。
四月二十八日 曇 暖
○上略 二時慈恵会ニ出席シ、四十年度ノ決算、四十一年度ノ予算ヲ議ス会長其他来会ス ○下略
   ○中略。
九月十六日 曇夜雨 冷
○上略 二時慈恵会ニ抵リ、徳川会長及高木男其他ト共ニ総会開催ノ事等ヲ議ス ○下略
   ○中略。
十月十二日 晴 冷
○上略 十二時三十分慈恵会ニ抵リ
行啓ヲ奉迎シテ会務ニ関スル会計事務ヲ御前ニ於テ報告ス、式畢テ芝離宮ニ抵リ、庭前ニテ茶菓ヲ賜フ ○下略
   ○中略。
十一月五日 晴 冷
○上略 九時半有栖川宮ノ夜会ニ出席ス、来会者頗ル多シ、会ハ霞ケ関離宮ニ於テ開催セラル、立食後王子帰宿ス、時恰モ十二時三十分ナリキ ○下略
   ○中略。
十二月十五日 晴 風寒
○上略 畢テ慈恵会ニ抵リ理事会ニ出席ス、四時半再ヒ事務所ニ抵リ ○下略


渋沢栄一 日記 明治四二年(DK240065k-0003)
第24巻 p.563 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四二年     (渋沢子爵家所蔵)
五月八日 曇 暖
○上略 午前十時慈恵会ニ抵リテ理事会ニ出席ス、徳川会長其他ノ理事来会ス、予算・決算等ノ議事決了シテ、十一時半井上侯ノ邸ヲ訪フモ面会ヲ得ス、更ニ伊藤公ヲ官邸ニ訪フモ不在ナレハ○下略


竜門雑誌 第二四五号・第八二頁 明治四一年一〇月 ○慈恵会第二回総会(DK240065k-0004)
第24巻 p.563 ページ画像

竜門雑誌  第二四五号・第八二頁 明治四一年一〇月
○慈恵会第二回総会 慈恵会第二回総会は、本月十二日午後一時より芝愛宕町なる同会に於て挙行せられ、当日は 皇后宮陛下行啓の上令旨を賜はりたり、青淵先生は同会の副会長たるを以て、当日は徳川会長・高木医院長以下各顧問、理事・商議員・評議員・有功会員及終身会員等と共に拝謁の栄を得たるのみならず、会長・医院長と共に御前に会務の報告を為すの栄を荷へり



〔参考〕東京慈恵会総裁威仁親王妃慰子殿下御事蹟 東京慈恵会編 序・第三―四頁 大正一五年六月刊(DK240065k-0005)
第24巻 p.563-564 ページ画像

東京慈恵会総裁威仁親王妃慰子殿下御事蹟 東京慈恵会編
                           序・第三―四頁 大正一五年六月刊
    序
 故本会総裁威仁親王妃慰子殿下が、無告の人々に深き慈愛の御心を注ぎたまひ、本会の事業を拡張して、救療の徹底を期せられ、幾多の障礙を意とせられず、熱心に御尽力ありし御事蹟は、申すも畏き極みなるが、それにも増して忘るゝ能はざるは、本会の前途に就きて御配慮ありし深遠なる御心事なり。
 - 第24巻 p.564 -ページ画像 
殿下は夙に世運の進歩に鑑みて、慈恵事業の一層必要なるべきを察したまひ、本会の資産を金弐百万円となし、其の基礎を鞏固ならしめんと思召され、屡々これを御物語あらせられし御声、今尚、耳底に存するを覚ゆ。爾来国運は年を重ねて発展し、生活は月を追ひて複雑を加へ、慈善救済の施設を要すること益々急にして、光栄ある歴史を有する本会の任務愈々重く、今更の如く、殿下の御深慮の辱さを痛感するに至れり。併かも未だ、其の御遺志を実現する能はざるは、ひとり殿下の尊霊に対し奉りて恐懼に堪へざるのみならず、本会の事業の上より見るも、亦遺憾これに過ぐべからず。今此の御事蹟を編述するに当り往事を回想して感慨窮り無く、天下の志士仁人が深く思ひを之に寄せて、殿下の御遺志を翼成せられんことを庶幾ふの情、最も切なるものあり。由つて聊か所感を記して以て序となす。
  大正十五年五月
           東京慈恵会副会長 子爵 渋沢栄一
   ○「明治四十年二月ヨリ同年七月三十一日マテノ慈恵院拡張ニ付おほえかき」ハ威仁親王妃慰子殿下御自筆ノ記録ナリ。
   ○東京慈恵医院ハ、明治十五年八月高木兼寛等ノ創立セル施療院ニシテ、始メ有志共立東京病院ト称シ、明治十六年九月威仁親王ヲ総長ニ仰ギタリ。明治十七年五月伯爵夫人伊藤梅子等婦人慈善会ヲ興シタリシガ、明治十九年十月有志共立東京病院ニ合併シ、皇后陛下ヲ総裁ニ、一品熾仁親王御息所董子ヲ幹事長ニ仰ギ、名称ヲ東京慈恵医院ト改メタリ、明治二十年五月二日幹事会ノ席上ニ先生外二十名ヲ招キ、幹事長宮ヨリ同院ノ将来ニ関シ御懇話アリシコトアリ。(東京慈恵会総裁威仁親王妃慰子殿下御事蹟第二八頁参照)明治二十九年四月威仁親王妃慰子殿下幹事長ト為レリ。