デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
4節 災害救恤
1款 火災救恤
■綱文

第24巻 p.565-566(DK240066k) ページ画像

明治5年2月(1872年)

是月和田倉門内ヨリ失火アリ、栄一、罹災者ヘ金百円賑恤ス。


■資料

東京市史稿 東京市役所編 変災篇第五篇・第一〇〇一―一〇〇二頁 大正六年八月刊(DK240066k-0001)
第24巻 p.565 ページ画像

東京市史稿 東京市役所編  変災第五篇・第一〇〇一―一〇〇二頁 大正六年八月刊
 ○第五章 第二節 本記 帝都時代ノ火災
    明治五年火災
○上略
去廿六日之火災ハ、実に非常之厄運にして、此災害に罹り候一般之人民ハ如何計困窮可仕哉、就中貧乏之者共ハ、僅々担石之余資も、一朝塵灰に委し、唯屋宅を失候而已ならず、単衣粒米も需求之術なく、甚しきハ路頭に迷候者共も数多可有之にて、深く悲傷歎慨之至ニ奉存候。畢竟家屋建築之制粗悪にして、平素防火之予備無之、殊に貸家会社又ハ火災請負之方法も不相立より、斯る奇変に会し候節ハ別而困乏を究め、終に其産をも失却し、心ならず乞丐之徒に陥り候者共無之とも難申、目今隆盛之御時節、百般之美事良法御振興之際に於て、右様之事共有之候は、如何にも恐悚之至ニ奉存候。右は定而御救恤之方策、夫々御施設も可被為在と奉瞻望候に付、私義も乍瑣少金百円前書災禍に罹り候貧民江助成之為メ、御府江奉献納度候間、何卒御仕法之万一に御補給御座候様、伏而奉懇願候也。
  明治五年壬申三月五日    第四大区小一区住平民
                     渋沢栄一印
    東京府御庁
 別紙懇願之儀、再案仕候処、私儀卑職ながら、官途之末に罷在、方今官民之情状も略相心得居可申筈之処、尋常平民之願請に等しく奉申上候ハ、自ら叙次を誤り、不穏様相聞、却而恐懼之至に候得共、私儀ハ現ニ府下平民ヘ編籍願済相成居、所謂同里相憐之友情より相生し候義にて、全く官辺に不相関徴を奉懇願候次第ニ候間、何卒御諒察被成下御許允の程奉願候也。
  明治五年壬申三月五日      大蔵省三等出仕
                      渋沢栄一
    東京府御中


青淵先生公私履歴台帳(DK240066k-0002)
第24巻 p.565 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳         (渋沢子爵家所蔵)
    賞典
同 ○明治一三年  同 ○一二月 明治五年二月和田倉門内ヨリ失火之節、罹災人為救済金百円差出候段、奇特ニ付為其賞銀盃壱個下賜候事  同 ○東京府
 - 第24巻 p.566 -ページ画像 


竜門雑誌 第四二三号・第一一―一二頁 大正一二年一二月 ○帝都復興と私の希望(青淵先生)(DK240066k-0003)
第24巻 p.566 ページ画像

竜門雑誌  第四二三号・第一一―一二頁 大正一二年一二月
    ○帝都復興と私の希望 (青淵先生)
  本篇は青淵先生談として婦女界十一月号に掲載せるものなり
                         (編者識)
○中略
      △火災に対する不注意
○中略
 明治四年に和田倉門から発火して、築地の方まで延焼した東京大火がありましたが、当時私は大蔵省の官吏で、紙幣頭を兼ねてゐたので二・三の者と協力して防火に努め、周囲が全部焼けたのに拘らず、紙幣局の重要部分だけは、どうやら喰ひ止めたことがありました。 ○下略
   ○明治四年トアルハ同五年ノ記憶違ヒナルベシ。



〔参考〕新聞雑誌 第三四号 明治五年三月 【二月廿六日当府下大…】(DK240066k-0004)
第24巻 p.566 ページ画像

新聞雑誌  第三四号 明治五年三月
 二月廿六日当府下大火アリタリ。此日三字頃和田倉御門内元会津邸ヨリ出火、折節風烈シク諸所ヘ飛火イタシ、大名街兵部省長屋、岡山県・高知県ノ邸ヲ焼払ヒ、夫ヨリ京橋西紺屋町並ニ銀座二丁目、大通ハ銀座一丁目ヨリ尾張町二丁目迄、御堀端通ハ数寄屋河岸迄、三十間堀ハ三丁目迄、新島原南側不残、小挽町一丁目《(木)》ヨリ五丁目迄、西本願寺中不残、築地南飯田町ヨリ「ホテル」迄、焼失ス。因テ府庁ヨリ救助《スクヒ》トシテ一人金一分宛、死傷ノ者同二両二分宛下サレタル由。焼失町数・戸数並ニ死傷員数左ノ如シ。町数四拾一町 戸数四千八百七十四戸人員一万九千八百七十二人 死者八人 傷者六十人 救金惣計三千八百三十五両一分