デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
4節 災害救恤
4款 凶作救恤
■綱文

第24巻 p.608-610(DK240080k) ページ画像

明治38年(1905年)

是年ノ宮城県外二県ノ凶作ニ際シ、栄一、罹災者ヘ金千円賑恤ス。


■資料

青淵先生公私履歴台帳(DK240080k-0001)
第24巻 p.608 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳          (渋沢子爵家所蔵)
    賞典
同 ○明治四十二年四月十三日 明治三十八年宮城外二県凶作ノ際、罹災窮民ヘ金壱千円賑恤候段、奇特ニ付為其賞銀杯壱個下賜候事     賞勲局総裁



〔参考〕農村史 小野武夫著 現代日本文明史第九巻・第五四四―五四六頁 昭和一六年四月刊(DK240080k-0002)
第24巻 p.608-609 ページ画像

農村史 小野武夫著  現代日本文明史第九巻・第五四四―五四六頁 昭和一六年四月刊
 ○第二篇 第八章 明治後半期の農業災害
    第二節 東北地方の冷害
○上略
(3)明治三十八年の冷害 明治三十八年又もや東北地方は凶作に見舞はれた。同年の凶作は前回以上の恐るべきもので、宮城県は八割七分福島県は七割六分、岩手県は六割六分の減収であつた。
 宮城県下に於ける明治三十八年度の気候は挿秧期までは順調であつたのが、六月下旬より七月下旬に亘つて雨天と寒冷が続き、八月に入つてからも同様の状態が続き前月よりも一層不順となつた。九月上旬から中旬迄天候は稍回復したけれども、下旬に至り再び降雨冷湿の気候となり未曾有の大凶作となつた。斯して全県下水田面積八万町歩の平年収穫米は百十五万石であるのに三十八年度の収量は僅か十四万石に過ぎず、全県下の米収量は平年作の一割余に過ぎないのであつた。被害の最も激甚であつたのは柴田・名取二郡で、玉造・本吉・宮城の三郡之に次いだ。而して収穫皆無地の反別は、三万五千町歩で、窮民の数は二十八万余人の多数に上り、外国米で飢を凌ぐのは上等の部であり多くの者は外米に楢の実・櫟の実・樫の実・牛蒡の葉・蕨の根・葛の根・大根干葉・菜類・馬鈴薯・豆腐粕等を混じて食とした。衣類夜具・什器は大抵売払うて食料に換へ、襤褸を纏つて、焚火に暖をとり、寝る時は藁や菰の類を被るものもあり、冬期中防寒に耐ふる衣服
 - 第24巻 p.609 -ページ画像 
なく、破屋の裏に臥すも、腰を掩ふ可き襤褸さへないといふ惨状を呈した。又、乞食・移住者・失踪者を出し、数人の餓死者をすら見るに至つた。
 次は岩手県であるが、同県下の気候は七月中旬迄は順調であつたが下旬に入つて変調を来し、降雨多く日照り少く、八月に入つてからも日照温度共に不良で、雨量は平年の二倍に達した。斯くして又もや大凶作となり、平年収量五十七万石に対し、十九万石しか収穫したに過ぎなかつた。即ち約三割作に止つた。殊に東海岸に沿つた気仙・下閉伊・九戸・上閉伊の諸郡、宮城県に隣つた東磐井・西磐井の六郡は僅か一割乃至三割作で、就中気仙郡は一割内外の収穫であつた。畑作の方も作柄悪く、稗は七万石、大小豆は五万石、粟は三万五千石の減収で、平年の六割乃至七割の減収になつてゐる。
 次は福島県であるが、明治三十八年中に於ける同県下の気温と日照時数と雨量は、前記二県と同一状態を呈し、県下の水田面積九万三千八百余町歩、其の平年収量百三十三万石であつたのが、同年には僅か三十二万石に満たず、七割六分の減収となつてゐる。被害の最甚しかつたのは県内中央部の信夫・伊達・安達・安積・岩瀬・石川・田村・東白河・西白河の九郡と、東方海岸部の相馬・双葉・石城の三郡であつた。
 次に青森県は平年の収量七十四万五千余石に対し、明治三十八年には五十四万三千九百余石の収穫しかなく、二割七分の減収を示した。
 次に山形県は平年作百四十二万二千余石に対し、百三万八千四百余石の収穫で、二割七分の減収であつた。
 次に秋田県は平年作百二十四万七千八百余石に対し、九十八万七千二百余石の収穫で、二割の減収であつた。
 ○下略



〔参考〕明治三十八年宮城県凶荒誌 宮城県編 第七九五―七九六頁 大正五年一一月刊(DK240080k-0003)
第24巻 p.609-610 ページ画像

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