デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

2章 国際親善
1節 外遊
2款 韓国行
■綱文

第25巻 p.6-11(DK250002k) ページ画像

明治31年4月23日(1898年)

是日栄一、東京ヲ発シテ韓国視察ノ途ニ上ル。五月七日京城ニ於テ韓国皇帝ニ謁シ、同月三十日帰京ス。


■資料

竜門雑誌 第一二〇号・第三一―三三頁 明治三一年五月 ○東京商業会議所の渋沢会頭留送別会(DK250002k-0001)
第25巻 p.6-8 ページ画像

竜門雑誌  第一二〇号・第三一―三三頁 明治三一年五月
    東京商業会議所の渋沢会頭留送別会
明治三十一年四月十九日、東京商業会議所会員申合せ、会頭渋沢栄一君の為めに芝紅葉館に於て留送別会を開く、当日来会したる会員三十三名、午後六時一同着席あるや、中野武営氏は衆に代りて送別の辞を演説あり、之に対して渋沢氏は答辞を述へられ、夫れより杯酒献酬の間に主客歓を尽くし、散会せしは夜の九時頃なりし、中野・渋沢両氏の演説要領は左の如し
      中野副会頭送辞の要領
 自分は本会の紹介者たる故を以て一言すべし、今回渋沢君には朝鮮に趣かるゝに付、前例に依り今日留送別会を開きたるに、君の来臨を辱ふし、一同満足の至りなり、謹て君の健康を祝す
 偖渋沢君の渡韓に就て、其用向の何たるは吾々の知る処に非ざるも朝鮮と我国とは其地形上に於て唇歯の関係あり、且つ交通上の情誼も一朝夕の故に非さるに、外交政策の失敗より今や呉越啻ならさる有様となりしは遺憾千万なり、顧ふに政治上に於て彼我の交情旧態に回復するは容易の業に非ず、寧ろ将来は商業上の関係より相扶掖して、政治上に於ける失敗を償ふの外なし、今回渋沢君の渡韓は此希望を遂達するに就て、幾多の便宜を与ふるならんと信す、君は銀行業の上に於て彼国とは密接の関係あり、加ふるに日本実業界の泰斗として、其名声は鶏林八道に嘖々たるものあるべきを以て、平素無感覚の朝鮮人も君の罄咳に接して大に感奮すに至るべし、願くは君に於ても彼国官民に接せらるゝに当りては、我国民真意の在る所を開示し、以て彼我阻隔の感情を融和するに力められんこと、切望の至に堪へず
 今夕は極めて不行届なれども、款語尽酔、斯夕を永ふせられんことを望む
      渋沢会頭答辞の要領
 今回自分渡韓に就て、前例に依り、留送別会を開かれたるは、誠に満足なり
 只今中野君より贈言を辱ふせり、同君の述へられし処は、自分も至極同感なりと雖とも、不才無能の自分に於て、到底其贈言に当る能はさるを恐るゝのみならす、此行は左様なる大目的大抱負を有するには非すして、早く言へは支店の巡視に過きす、元来同地に於ける支店は鶏助銀行とも謂ふへきものなり、曾て英人(サルド)氏《(シヤンド)》より
 - 第25巻 p.7 -ページ画像 
内地の取引を専業とする銀行に於て、外国に取引を開始するは危険にして、其結果失敗に帰し易しと警められたることありしか、如何にも廿七年より廿九年頃迄は閉店せんかと迄思ひし程なりし、幸に其後は差したることなく今日に至りたるも、此際実況視察の必要を感し、急に渡韓を思ひ立ちし次第なり、勿論単に支店巡視とは云ものゝ、実は彼国に於ける貨幣問題の実況を調査せんとするもの亦目的の一なり、御承知の如く、朝鮮は以前は銅貨国にて、流通貨幣は銅貨のみなりしか、其後五両銀・白銅なと通用するに至れり、然るに五両銀は其鋳造高二万円に過きすして、実際は日本の一円銀は殆んと同国の通貨同様に国内に流通し、銀紙合算して同国内に流通しつつある我貨幣の高は凡三百五六十万円に上ぼり、同国に於ける通商其他の大部は、全く此三百五六十万円にて支配され居る実況なり其国の貧弱推想に余りあり、然るに昨年十月以来、我国は金本位を施行したれは、同国に流通し居る円銀は自然回収せらるへく、其回収せられたる後は同国は復ひ銅貨国の旧態に復さんも知る可らす、相場は《(の)》変動多き銅貨か其国内の流通貨幣となりては、通商貿易上に感する不便少からさるより、仁川・釜山等に於ける日本人商業会議所は之を憂慮し、日本円銀に刻印して依然同国内に流通せしめ置きたしとの意見を申立て、内地銀行へも同意を求め来りたり、財務顧問たりしブラオン氏には左様の意なきにも非さりし様なれど、露人アレキシーフ氏代るに及んて、此意見には反対を表せり、顧ふに我円銀に刻印して依然同国に流通せしめ置くことは、我国の幣制より観ても、彼国の体面より観ても頗ふる考究を要する事柄にて、其得失は軽々に決すへきに非れとも、兎に角関係多き問題なるにより、親しく実況を調査して自分の意見をも定めんと欲するなり、今も述ふるか如く、朝鮮は固より貧弱国なるには相違なけれとも、貿易上の関係に於ては決して軽視す可らさるものあり、此程も一寸取調へ見たるに、明治二十一年より今日迄十年間に於て、彼我輸出入の額は七倍に上り、今や輸出は五百万円、輸入は八百万円の多きに達せり、日韓貿易の前途は頗ふる多望なりと謂はさるを得さるなり、欧米強国への渡航にのみ重きを置き、朝鮮なとへ赴く者をは軽ろしめると云ふ様にては、迚も我通商上の実益を進むる能はすと信す、会員諸君か特に自分の渡韓の為めに、此光栄ある盛宴を張られたる、其の用意の在る所を推想すれは、自分は殊に満足に堪へさるものあり、只恐る自分の不才なる到底諸君の希望を完ふするに由なかんことを、謹て玆に諸君の好意を謝す
当日来会者人名左の如し
 中野武営   岡部広      木村荘平   佐久間貞一
 若林七五郎  町田徳之助    井上角五郎  野中万助
 八尾新助   雨宮綾太郎    山中隣之助  岩谷松平
 加東徳三   岡田来吉     中沢彦吉   長尾三十郎
 山本達雄   喜谷市郎右衛門  渋沢喜作   栗生武右衛門
 益田克徳   渋沢栄一     豊川良平   田口卯吉
 林九兵衛   岩田作兵衛    小野金六   小林義則
 - 第25巻 p.8 -ページ画像 
 加藤正義   梅浦精一     河村隆実   池田謙三
 矢野二郎


竜門雑誌 第一二〇号・第五三頁 明治三一年五月 ○渡韓中の青淵先生(DK250002k-0002)
第25巻 p.8 ページ画像

竜門雑誌  第一二〇号・第五三頁 明治三一年五月
○渡韓中の青淵先生 同先生には去月二十三日東京出発以来、海陸無事、本月二日仁川に着せられ、越へて四日京仁鉄道の予定線路に沿ふて京城に入京、以来同七日国王に謁見せられ、其前後加藤公使其他列国使臣との往来、韓国当路者間の訪答招請等に忙はしく、十二日に至り漸く当務に一段落を附け、仁川に下り、十五日玄海丸にて同港発帰朝の途に就かれたる由にて、長崎着の上は門司・神戸・大坂・京都等の各地を経て、二十八・九日頃帰京の予定なりといふ
先生か京城(八日附)及ひ仁川(十三日附)より、本社の八十島氏へ寄せられたる書信中の一節に曰く
 当方健全日々加餐奔走罷在候、京城着後は実に多忙を極め、東京に罷在候よりは寧ろ緊忙と申有様に御座候、昨夜抔は二時迄来人に接し、今朝は七時より用事に取掛り候有様に候、御察可被下候
 出立後陸海旅行及ひ京城滞在中とも大に健全にて、風邪気歟と申事さへ無之程に候、夫々へ宜しく御申通可被下候、京城着後は日々来人有之、殊に韓人との談判数日に渉り、真に寸暇無之に付執筆の時を得不申候、否食事の時さへも無之程に世話敷日を暮し申候、併し幾分か其効有之、極印銀の事も漸く相談行届候場合に相成候、云々
先生が京城滞在中、日夜事に当て如何に尽瘁せられたるかは、実に察するに余りありといふべし、先生が此行其活眼を以ての視察、及ひ韓国当路者との熱心なる協商は、蓋し日韓両国商工業上に著大なる聯鎖を作り、将来良好の結果の表はるべきは、予輩の期して俟つ所なり、記者は先生無事帰朝の日を待ち、先生に乞ふて其観察及ひ滞韓中の出来事に就き聴聞し、更に社員諸君に紹介する所あるべし


竜門雑誌 第一二一号・第六七―六八頁 明治三一年六月 ○青淵先生の無事帰朝(DK250002k-0003)
第25巻 p.8 ページ画像

竜門雑誌  第一二一号・第六七―六八頁 明治三一年六月
○青淵先生の無事帰朝 兼ねて韓国旅行中なりし青淵先生には略ぼ当該の要務も了へたるを以て、去五月十五日玄海丸にて仁川を発せられ長崎に上陸、爾後門司・厳島・岡山・神戸・大阪・京都・奈良・四日市・名古屋の各地を経、同月三十日午後九時無事帰京せられたり


渋沢栄一書翰 八十島親徳宛 (明治三一年)四月二五日・五月二日・同一九日・同二五日(DK250002k-0004)
第25巻 p.8-10 ページ画像

渋沢栄一書翰  八十島親徳宛 (明治三一年)四月二五日・五月二日・同一九日・同二五日
                   (八十島親義氏所蔵)
途中無事即夜西京着、昨日ハ日曜旁朝寝いたし、朝来銀行又ハ織物会社之人々と会話、午後四時より大坂へ参り申候、兼而之見込ハ今夕神戸へ罷越候積之処、紡績聯合会之請求も有之、今夕堺卯楼ニ招宴之由ニて夫へ出席、明朝当地出立と取極申候
玄海丸ハ十二時頃出帆之由ニ付瀬戸中ハ同船ニて参り、門司ニて上陸九鉄ニ乗替へ、廿八日午後迄ニ長崎着之予定ニ候、但長崎出帆ハ別ニ相違無之筈ニ御坐候
大坂も西京も金融ハ繁忙之様子ニて各店之主任者も頻ニ注意尽力いた
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し居候、本店も佐々木君別而痛心苦配と存候間、時々御聞合被成、若旦那ニも精々勉強幾分か佐々木之手助と相成候様御伝言被下度候
廿八日ニ相開候京北鉄道之創業総会ハ、是非解散ニ相成候様更ニ尾越氏ヘ御申入可被下候、台湾鉄道之事も徒ニ時日遷延候ハ無益ニ付、是又同様終局致度事ニ候
右等只今大坂支店ニて寸暇を得候ニ付一書申進候 匆々
  四月廿五日                  栄一
    八十島殿

長崎出帆後海上平穏ニて一昨朝釜山港着、暫時上陸いたし市街一覧、午後乗船五時頃同港解纜、今朝九時頃ニ仁川安着仕候、船中ハいつも安静ニて一同船気とても無之、歓喜中ニ当地着と相成申候、一行都而無事御省念可被成候、留守宅も児輩悉く息災と存候、深川其他親戚各家ヘも平安之二字早々御通し可被成候
一昨日釜山より電報ニて京北鉄道本免状申請書ニ関する委任状之事申上候、定而至急御取扱と存候、当地ヘも同様之打電有之候得共、㝡早取扱済と存し別ニ不申進候、今日ハ午後より吉川同行鉄道線路巡見之筈ニ御坐候、京城ヘ向出発ハ多分明日ニ致し候積ニ候、尤も線路一覧之為陸行之心組ニ付、其支度ニ付或ハ一日延引候哉も難測候
仁川港ハ釜山ニ比較して一段繁昌ニ相見ひ《(え)》、貿易も相応ニ有之候様子市街も先ハ奇麗之方ニて眺望も宜敷候、只路傍汚穢之韓人多人数徘徊候ニハ困却仕候、右ハ安着之通知迄如此御坐候 匆々不一
  五月二日仁川ニて            渋沢栄一
    八十島親徳殿
○下略

十二日附御状今十九日長崎到着後一覧仕候、先以其地一同無事小児連も健全ニて学校勉強之由、又深川始親族各家も都而平寧之由安心仕候当方一行も異状無之今日漸当地着仕候、予定ハ昨日着之筈なりしも釜山ニ於て風雨之為一日出帆延引致し其為今日之着帆と相成候義ニ候
京城之用向ハ稍満足ニ相済候ニ付其模様ハ帰宅之上ニて詳細可申述候京仁鉄道資金ニ関する願書ニ指令之事ハ未タ下付無之候得共、伊藤総理より安心せよとの内示有之候云々過日電報ニて承知いたし候、殊ニ日露協商之事も都合能相済候よしニ付此上幾分か安心之事と存候、台湾鉄道ニ関する借入金談判もフエンチ氏との打合廉書一覧仕候、右等ハ帰京之上承合候様可仕候、京北鉄道之義ニ付而ハ既ニ電報ニて取扱済と存候、岡部氏よりも来状ニ付此処一書返事いたし候、御届可被下候各会社異状無之、銀行も金繰世話敷候得共先ハ不都合なく繰廻候由安心此事ニ御坐候
公債償還之義は帰京之上ニて今一応心配可仕と存候、家政上ニ別条ハ無之候得共、借入金相増候ニハ困却云々承知仕候、詰り起業熱ニ感染せし余響と覚悟候外無之、向後ハ切ニ節約を守申度と存候
大倉氏之還暦祝賀ニハ何分間ニ合申間敷と存候間、電報ニて相断可申と存候得共留守宅よりも宜申上候様可被成候、其他諸方応答之事も夫々
 - 第25巻 p.10 -ページ画像 
承知いたし候、老生此上之旅行ハ明日九州鉄道ニて門司着、即夜乗船廿一日ニハ神戸着同所ニて二日位滞留、更ニ大坂ニも一両日用事有之候間、帰京ハ廿七日頃と存候、但本店ニて至急之帰京相望候ハヽ取急可申と存候為只今電報問合申候義ニ候、兎ニ角本月中ニハ帰宅、旅行中公私之珍話も詳細ニ可申述と存候、右回答まて如此御坐候 不一
  五月十九日長崎ニ於て          渋沢栄一
    八十島親徳殿
 尚々篤二より之一書も一覧仕候、銀行ヘハ今朝佐々木氏ヘ一書相発し置候ニ付別段篤二ヘ返書ハ相略申候、御伝声可被下候、又尾高幸五郎より之一書も一覧候得共是又回答相略申候、同しく御申伝ひ《(へ)》可被下候、深川始親戚各家ヘも夫々御申通し可被下候、子供之教育ニハ注意候様掛之人ヘ御申示有之度候也

本日廿日附御状廿三日神戸支店ニて一覧仕候、留守宅一同無異子供も息災之由安心仕候、当方不相替健全ニて今日大坂之用事相済、明朝西京ヘ向出立いたし候、同地も一泊ニて用事相済可申ニ付、廿七日ニハ四日市ニ立越候積ニ候、然時ハ廿八日名古屋廿九日帰京之都合ニ可相成、もし延引候とも三十日ニハ帰宅可致と存候、日本鉄道と日本郵船会社とニて頻ニ帰京相待候由、且廿七日ニハ郵船会社総会ニ付尚更帰京被相望候得共、西京・四日市等ニモ差掛候用向有之、無拠電報相断申候、又鉄道之方も今日帰京之時日電報問合有之候間、二十九日頃帰京之積と返電いたし置候、御心得まて申進候
過日差出候書類も夫々御配達被成候由承知仕候、本店金融之模様も引続き都合よろしき由、何寄之安心ニ御坐候、大坂店ハ熊谷大病ニテ心配罷在候、夫ニ付而ハ品ニ寄スクリツパ氏を頼入一応診察を受候方と存候得共、当地主治医吉田と申人頑固之由ニて相談いまた行届不申候もし右様企望候様相成候ハヽ、電報ニて申進候様可致ニ付御心得可被下候、尤委細ハ今夕田中元三郎氏出立帰京ニ付口頭打合置候、御聞合可被下候
右等過日来書之回答旁当用申入度如此御坐候 匆々
  五月廿五日夜              渋沢栄一
    八十島親徳殿
 尚々㝡早近々帰京親しく面会も可致候得共、親戚一同及尾高・柴崎等之人々へも宜敷御申通し可被下候也


(佐々木和亮) 備忘録 第三(DK250002k-0005)
第25巻 p.10-11 ページ画像

(佐々木和亮) 備忘録 第三       (佐々木哲亮氏所蔵)
五月十九日 ○明治三一年
○上略
渋沢君ニハ今朝上陸迎福亭ヘ参リ、折柄下婢玉ナル者渋沢夫人ニ対シ向フノ上ニ見ユルハ李鴻章ノ談判アリシ茶亭ナリトテ物知リ顔ニ語リシヲ渋沢氏ハ聞キトガメ、之ハ長崎ニテ、李鴻章談判アリシハ馬関ナリトテ、左ノ狂歌ヲ口ズサミタリ
  玉に出る短き智恵を長崎に
      李鴻章とは馬関 ○馬鹿《(原註)》ト読マスの間違ひ
 - 第25巻 p.11 -ページ画像 
右ノ如クナレバ、渋沢夫人兼子ニハ夫ハ玉ニ気ノ毒ナリトテ、直チニ左ノ
  人なみに優れる智恵を長崎に
      残して帰る玉の間違ひ
右ハ優美ニテイト面白シ ○下略
   ○本資料第十六巻所収「韓国ニ於ケル第一銀行」明治三十一年五月九日ノ条参照。