デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

2章 国際親善
1節 外遊
2款 韓国行
■綱文

第25巻 p.11-57(DK250003k) ページ画像

明治33年10月30日(1900年)

是日栄一、東京ヲ発シ韓国ニ赴キ、十一月十一日京城ニ於テ韓国皇帝ニ謁シ、帰途九州及ビ京阪地方ヲ視察シテ十二月十二日帰京ス。


■資料

竜門雑誌 第一五一号・第四〇―四三頁 明治三三年一二月 ○青淵先生渡韓日誌梗概(DK250003k-0001)
第25巻 p.11-15 ページ画像

竜門雑誌  第一五一号・第四〇―四三頁 明治三三年一二月
    ○青淵先生渡韓日誌梗概
十月三十日 前号に其概要を記したるが如く青淵先生には十月三十日午前六時二十分新橋発の汽車にて随行員市原盛宏・渋沢元治・八十島親徳・竹内雄平四氏外に従者一名と共に渡韓の途に就かれ、同日午后十時四十六分神戸着、熊谷辰太郎・岸崎昌・小島良太郎・花岡福太郎外諸氏に迎られて同地に一泊せらる
十月三十一日 正午先生一行には玄海丸にて神戸を出帆せらる
十一月一日 同船門司港に渟泊中郵船会社の甲藤其の他諸氏に迎へられて馬関に上陸し、関西二府廿二県聯合水産博覧会を見物せらる
十一月二日 同船長崎渟泊中先生には松田・東条其他諸氏に迎へられ同地に上陸して、同港改良工事に附帯せる埋立地を視察し且つ長崎市中を散歩せらる
十一月三日 同船韓国の釜山渟泊中能勢領事・荒井栄蔵・武川盛次其他第一銀行員諸氏・太田居留民総代・小倉郵船会社支店支配人其他拾数氏に迎られて同地に上陸せられ、先づ釜山鎮に於ける京釜鉄道停車場敷地の予定地を視察せられたる上第一銀行支店に小憩し、能勢領事の官舎に於て午餐の饗応を受けらる
十一月五日 午前七時半玄海丸仁川港に安着、先生の一行には尾高次郎・足立太郎、其他第一銀行支店・京仁鉄道会社・郵船会社支店等の諸氏に迎へられて上陸、稲田旅館に投宿せらる
同日青淵先生には我領事館に伊集院領事を訪問し、且第一銀行支店及京仁鉄道会社等を視察せらる
十一月六日 午前八時青淵先生には其数年来の経営により、本年七月目出度く全通開業するに至りし京仁鉄道二番列車に搭じて同九時四十五分京城に着せらる、此の時先生の胸中幾何の感ありしぞや、汽車愈愈京城停車場に着するや先生には不取敢同停車場構内に設けたる開業式場の準備を一覧せられ、韓国 皇帝陛下の勅使安学柱氏を初め大江卓・大三輪長兵衛・原田松茂其他の諸氏に迎られて泥峴の巴城館に投宿せらる
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当日先生には第一銀行出張所及附属分析所等を視察せられ、終つて公使館員及領事館員・韓国大官諸氏の来訪を受けられ、夕刻公使館に林公使を訪問せらる
 先生入京以来諸方よりの招待、来訪者に対する応接並に朝野の人々に対する往訪等日夜非常なる多忙を極められたる由にて、一々此等の詳情を記するも却て煩に渡る恐れあれば、今玆には就中主要なるものゝみを記することとせり
十一月七日 先生には此日京城居留民中重なる人士数名を泥峴掬翠楼に招かれ、第一銀行出張所新築落成披露の宴を開かる
十一月九日 此日京城学堂に臨み授業の実況を視察せられ、且つ渡瀬校長の請に応して生徒一同に対し一場の演説をせらる
同夕亦掬翠楼に韓国の大官、我公使・領事を始め、両館員其他数拾名を招かれて前々日同様の宴を開かる
十一月十日 韓国の皇族たる清安君(季載純)の招待に応し、同邸の晩餐会に臨まる
十一月十一日 同日午后六時先生には足立太郎・市原盛宏・尾高次郎八十島親徳の四氏を随へ慶運宮に於て韓国 皇帝陛下に謁見せらる、同日林特命全権公使も同席にて先生には国分書記官の通訳にて京仁鉄道・京釜鉄道及第一銀行等の事に就て具に上聞に達せられしが 陛下よりも亦優渥なる勅語を賜はり凡そ一時間に亘る御対話ありたり、右拝謁終りて後 陛下よりは丁寧なる晩餐を賜り、且つ余興として官妓の歌舞数番の催しあり
十一月十二日 当日は青淵先生渡韓第一の用向たる京仁鉄道開業式の日なりしが幸に天気晴朗にして、来賓には韓国 皇帝陛下の勅使、同国の大官、我公使・領事及各国の公使・領事を始めとして無慮六百名の多きに上り、式は京城停車場構内に於て挙行せられたり、式の景況及先生の式辞等は別項に記載せり
十一月十三日 正午林公使の招待に応し公使館の午餐会に臨まる、又夕刻三増領事の招待に依り領事館の晩餐会に臨まる、随行員の内渋沢元治・八十島親徳の両氏は忠清道稷山郡金礦区視察の為め同地に向て出発せらる
十一月十四日 正午魯国公使ハヴロフ氏の招待に応し同公使館の午餐会に臨まる
夕刻在京城我居留民の需に応し、商業会議所に於て在外商業者に対する心得向に就て演説せらる
十一月十五日 正午英国公使ガルビンス氏の招待に応し同公使館の午餐会に臨まる
夕刻京釜鉄道の件に関し、我公使・領事及韓国大官諸氏を井門亭に招待せらる
十一月十六日 正午谷岡守備隊長の招待に応し午餐会に臨まる、京城に於ける用向も一段落を告げたれは、此日午後仁川に下り稲田旅館に投宿せらる
夕刻仁川居留民の催にかゝる仁川居留民役所に於ける歓迎会に臨まれ且需に応して政治と商業の関係に就て演説せらる
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十一月十七日 夕刻我林公使・伊集院領事を初め官民数十名を仁川公園の八坂楼に招待して宴を開かる
十一月十八日 午前再ひ京城に入り、大韓鉄道用達会社長の招きに応して其午餐会に臨まれ、午後七時帰仁せらる
同夜亦在仁川我商業者数十名を八坂楼に招待せらる、此日稷山出張の渋沢・八十島両氏京城に帰り、翌日下仁す
十一月十九日 仁川公園八坂楼に於て開かれたる京仁鉄道会社の宴会に臨まる
十一月二十日 此日尾高次郎氏の招待に応し同氏の宅に赴かる
十一月廿一日 先生には三たび京城に上りて我林公使を訪問せらる
十一月廿二日 午後仁川に下り、伊集院領事の招待に応して晩餐会に臨まる
十一月廿三日 午前韓国鉄道院総裁閔丙奭氏より午餐の宴に招かれて四たび京城に入られ、夕刻に及んで帰仁の上同地支那領事の招待に応せられる
十一月廿四日 郵船会社・商船会社の両支店、十八・五十八両銀行支店及取引所等の招待に応じて播半楼に赴かる、又同日工学士渋沢元治氏は先発として白川丸に搭じて帰朝の途に就かる
十一月廿五日 同日出帆の予定なりし筑後川丸は、翌廿六日に延びし為め先生の一行も玆に図らず一日の閑を得、同夜は尾高氏等の催に係る杉風会の臨時大会に臨まる
十一月廿六日 筑後川丸愈々出帆、先生の一行は能勢領事・居留民総代・第一銀行支店員其他銀行会社員数拾名に見送られて同船に乗込み仁川を出発せらる
十一月廿七日 同船木浦寄港中先生には上陸して第一銀行出張所を視察せられ、夫れより森川領事・西川第一銀行出張所主任其他居留民二十余名の催に係る午餐の招待に臨まれ、其席上(領事館)に於て在韓貿易業者に対する注意及京釜鉄道の成立等に就て演説せらる
十一月廿八日 筑後川丸釜山に安着、先生の一行には同港に上陸の上京坂亭に投宿せらる、此くて先生には第一銀行釜山支店を視察せられ亜で同地商業会議所の請に応し、同会議所に於て釜山に対する所感及京仁・京釜両鉄道等に関して一場の演説をせられ、同夜は光月楼に於ける商業会議所会員其他諸君の招待会に臨まる
十一月廿九日 領事館に能勢領事を訪問せられ、同夜は同領事・大田居留民総代・小倉郵船会社支店長其他諸氏を京坂亭に招待して小宴を開かる
十一月三十日 先生には一行を従へ能勢領事を始め居留民数拾名に送られ玄海丸にて釜山港を出発、帰朝の途に就かる
十二月一日 午前九時同船長崎に安着、先生の一行には直ちに同地に上陸せられ、出迎人松田源五郎氏其他の数氏と共に迎陽亭に小憩の後正午十二時発の九州鉄道に乗して長崎を出発、同日午后七時半博多に安着せられて松島屋に投宿、同夜小河久四郎・安川敬一郎其他筑豊の商工業者数十氏の招待に応して福村楼に臨まれ、韓国視察談及京釜鉄道等の件に就て一場の演説をせらる
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十二月二日 朝箱崎八幡宮に参詣せられ、正午同地発の汽車に乗じ午后三時半門司着、仙石貢氏外数氏に迎へられて馬関に渡られ、大吉楼に休憩の後、午后十一時出帆の豊浦丸に搭じて同地を出発せらる
十二月三日 午前四時先生の一行には徳山港に安着、広島の松本清助児玉春房諸氏に迎られて徳山ホテルに小憩の後、同五時半の山陽鉄道にて同地発途上宮島に立寄られ、厳島神社に参詣の後同日午后二時広島着、海塚・桐原・松本・岡本諸氏に迎られ吉川旅館に投宿、同夜は広島商業会議所会員其他商工業者数十名の招待に応じて明暉楼に赴かれ、韓国視察談及京釜鉄道に関し詳密なる演説を為されたるが、同筆記は本号の社説欄に収録せり
十二月四日 午前先生一行には宇品を経て小蒸汽船にて呉に渡航せられ、賀茂郡広村に於ける広島水力電気会社の発電所を視察の上、同夜は呉の吉川旅館に一泊せらる
十二月五日 先生の一行には早朝再び小蒸汽船に搭じて呉を発し、宇品を経て広島に帰られ、同地水力電気会社の本社を視察の上、午后二時半広島発の汽車にて岡山に向はれ、午后九時同地着、三好野花壇に投宿せらる
十二月六日 一行には午前九時岡山発、同日午后二時半神戸に着せられ、土岐僙・伊藤伝七・伊藤与七・山辺丈夫其他の諸氏に迎へられて常盤花壇に投宿せらる
十二月七日 午前中第一銀行神戸支店・同兵庫出張所及郵船会社の支店等を視察せられ、正午台湾銀行理事土岐氏の招待に応じて自由亭に赴かれ、服部知事其他同席諸氏の請により韓国視察談及京釜鉄道等に関して一場の演説を為らる、かくて同日午后三時神戸発の汽車にて大阪に向はれ、今西林三郎・伊藤与七・竹山純平・山辺丈夫・小栗倉三郎・大川栄太郎・和泉栄其他拾数氏に迎へられて伝法屋に投宿せらる
十二月八日 午前中大阪汽車製造合資会社・瓦斯会社新設予定地及大阪紡績会社等を視察せられ、午後一時大阪ホテルに於ける同地商業会議所会員の招待会に臨席せられ、韓国視察及ひ京釜鉄道に関する一場の演説をせられ、午後五時より第一銀行大阪支店を視察せらる、此日随行員市原盛宏氏は先発として帰京の途に就かる
十二月九日 先生一行には午前九時半大阪を発して京都に入り、中川知一・田中源太郎・辻川新三郎其他諸氏に迎られて玉川楼に投宿の上第一銀行京都支店・京都織物会社等を視察せらる
十二月十日 午前九時先生の一行には京都を発し、同日午後一時伊勢国津市に着せられ、出迎人伊藤伝七・斎藤恒三・佐々木清麿・真野愛三郎等の諸氏と共に聴潮館に小憩の後、三重紡績会社津分工場を視察せられ、午後四時半津発、同七時四日市着の上、伊藤伝七氏の別邸昌栄館に投宿せらる
十二月十一日 午前三重紡績会社の本工場、第一銀行四日市支店等を視察せられ、午前十一時の汽車にて名古屋に向はれ、湯浅徳次郎・西条峰三郎・原簡亮・宮里仲太郎諸氏を初め同地商業会議所会員等拾数氏に迎られ川文旅館に投宿の上、直ちに名古屋ホテルに於ける同地経済会の招待会に臨まれ、更に午後三時よりは商業会議所の請に応し、
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同会議所に於て韓国視察談及京釜鉄道に関する一場の演説を為され、同夜は湯浅氏の招待により丸文楼に赴かる
十二月十二日 午前中第一銀行名古屋支店・三重紡績会社愛知分工場等を視察の上、正午十二時発の汽車にて一行を従へ帰京の途に就かれ同日午後十時半新橋に安着、玆に親族方を初め本社員其他諸氏二百余名に出迎へられ、兜町の邸に帰へられたり
 余輩は社員諸君と与に先生を始め一行の諸氏が、一ケ月半に亘る長旅行の間一人として健康を害せられたるなく無事帰朝せられたるを祝し、玆に先生の随行員たる八十島親徳氏より先生渡韓以来の紀行を聞き、其概要を記して永く紀念たらしめんとす


渋沢栄一 日記 明治三三年(DK250003k-0002)
第25巻 p.15 ページ画像

渋沢栄一 日記   明治三三年     (渋沢子爵家所蔵)
十一月十一日 晴 風強ク寒甚シ
午前数多ノ訪問客ニ接ス、十時玄尚健氏来ル、銀行ニ於テ会見シ、稷山金鉱ノ事及貨幣改鋳・財政整理ノ事ヲ談話ス、午後一時閔丙奭ヨリ案内セラレタル運輸会社開業式ニ列ス、会社ノ庭中ニ官妓ノ舞踏アリシモ、寒威凛烈ニシテ見ルニ堪ヘス、立食中一場ノ挨拶ヲ為シテ宴ヲ辞ス、此日ハ国王謁見ノ事アルトテ兼テ通知セラレタレハ、午後五時大礼服ニテ公使館ヲ訪ヒ、五時半公使・書記官等ト共ニ宮中ニ参内ス足立太郎・市原盛宏・尾高次郎・八十島親徳随行ス、宮中ノ扣所ニ於テ外務・宮内其他ノ大官ニ面会ス、七時頃国王ニ謁見シ、銀行事業・鉄道事業等ニ付テ種々ノ下問アリタレハ、一々爾来ノ経歴ヲ奏上ス、謁見畢テ宮中ニテ洋食ヲ餐セラル、朴外務・閔宮内・閔丙奭等接伴ス八時過宴ヲ撤ス、更ニ宮中ニテ官妓ノ舞踊アリテ夜十一時帰宴《(宿カ)》ス
   ○本資料第十六巻所収「韓国ニ於ケル第一銀行」明治三十三年十一月九日ノ条参照。



〔参考〕青淵詩存 渋沢敬三編 第一九―二〇丁 昭和八年刊(DK250003k-0003)
第25巻 p.15 ページ画像

青淵詩存 渋沢敬三編  第一九―二〇丁 昭和八年刊
    韓国雑吟
      釜山鎮懐古
  懸軍想昔扼嶙峋。尚見古塁護要津。只惜厳霜専粛殺。却忘滋雨潤斯民。
      京仁鉄道途上即事二首
  曲浦長橋鉄路平。車窓載夢向京城。曠原秋尽風蕭寂。汽笛時成虎吼声。
  復与韓山訂旧盟。客中光景総関情。重来頓喜行程速。旬日三回入帝京。
      上倭将台
  霜満南山落木紛。遺蹤尚見鎖愁雲。漢城日暮西風急。憶起当年鬼将軍。
      書感
  八道何辺認帝猷。居民只見事優游。嵯峨山岳汪洋水。却使行人促覊愁。

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〔参考〕明治卅参年秋韓国旅行日誌 八十島親徳記(DK250003k-0004)
第25巻 p.16-57 ページ画像

明治卅参年秋韓国旅行日誌 八十島親徳記   (八十島親義氏所蔵)
    はし書
明治三十三年の秋渋沢男爵渡韓の企てあり、主たる用務ハ京仁鉄道の開業式を挙けらるゝにあり、予ハ此鉄道の事務に就てハ去る三十年春創立以来聊微力を致したる関係もあれハ、其式に列なり併せて彼国情を視察することを命せられ、即十月三十日男爵に従いて東京を発し順路韓国に至り、帰路ハ関西各地を経て十二月十二日恙なく帰京せり、此間四十余日見聞き又ハ感せしところを日を追ふて随録せしもの、即ち此一小冊子なり、匆卒の間筆とりしたゝめしものなれハ、中にハ家に送りし書信を其儘挿めるもあり、其他すべて叙事文章共麁雑にして人に示すに足らす、左れと日夜忙ハしき身の詮方なく修正加除ハ後日閑を得たらんときに譲り、唯散逸を防く迄にかく纏め綴りて之を筐底に蔵むることとハなしたるなり
  明治三十四年春しるす
明治卅三年十一月一日
周防洋航行中玄海丸ニ於テ一書ヲ認メ差進シ候、偖昨朝神戸ニテ葉書相認メ同地迄安着ノ旨ヲ報シ置候ニ付御承引被下候事ト存候、尚繰返シ一昨日東京出発ノ旅程ニ付テ大略ヲ記載セハ、即チ卅日午前六時廿分新橋ニテ御分袂致候後汽車ハ例ノ急行故実ニ心地ヨク馳セ、品川ヲ経テ程ケ谷ニ至レハ石井健吾・書上順四郎・桃井可雄ノ諸氏プラツトホームニテ一行ヲ来訪セリ、夫ヨリ大磯・国府津・箱根山中等ヲ順次ニ経過シテ十一時半静岡ニ至レハ玆ニ平尾徳太郎氏始メ静岡商工会幹事十余名羽織袴ニテ来訪、予等一行ニ昼飯トンテ上等ノ弁当及麦酒・上茶等ヲ贈ラル、一行中青淵先生ハ上等室ニ、予等及ヒ渋沢元治・医師竹内雄平氏(之ハ故猿渡常安氏ノ義兄ニシテ今ハ上六番町ニ住ヒ某生命保険会社ノ嘱托医也、五十二才)及ヒ八木安五郎此四人ハ二等室ニ同乗ス、何レモ遠慮ナキニ付雑談快話ニ時ヲ移ス内午後四時半名古屋ニ着セシトキハ第一銀行ノ支店長湯浅徳次郎氏始メ四・五人来訪玆ニ又夕飯ノ寄贈アリ、六時頃関ケ原駅ニ至レハ盛三郎ヨリ書状達シ居リ、駅夫ヨリ受取リ欣デ一読セハ、同人事演習ニテ目下同駅ヨリ一里許リ距ル所ノ某村ニ舎営シ居レリトノ事ニテ予ノ渡韓ヲ祝シ健康ヲ祈ルノ一書ヲ申越セルニテアリキ、是亦旅中ノ一快也
此日新橋発車以来始終曇天ニテ中々寒ク、外套ヲ放ス事ナク尚暖ニ過クルヲ感セス、剰ヘ所々ニテ少雨ヲ催フシ汽車ノ旅トシテハ余リ愉快ノ方ニアラズ、九時前頃京都ニ着シタルトキ第一銀行ノ中川知一・前田丑太郎其他諸氏来訪、十時大坂ニテモ竹山純平(之ハ昨年正月ニ宅ニ来訪セシト覚フ)其他諸氏来ル、予ハ関ケ原以後近江地・京都・大坂ノアトサキハ前夜来ノ疲労ニテ大概仮睡ノ内ニ経過シ、京都・大坂ノ来訪者ニハネボケ眼ヲ以テ応待セシモ可笑シ
午後十時四十二分無事三ノ宮ヘ着、神谷第一銀行支店員等数十氏ニ迎ヘラレ、直ニ海岸ノ西村旅館ニ投ス、先着ノ市原盛宏氏モ此宿屋ニテ一処トナレリ
十二時頃来客モ皆引退ニ付入浴ス、昨夜来少々咽喉ヲ害セシ様ナリシモ差シタル事ハナク、且神戸ヘ着スルヤ同地ハ非常ニ暖気ニテ東京及
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ヒ東海道ノ汽車中ニ比スレハ殆ンド七・八度以上モ暖ナルベシト思ハルヽ位ナルニ付、旁以テ勇気ヲ鼓シテ入浴セシカ果シテ大ニヨキ心地トナリ、一時ヨリ床ニ入リ頗ル快寝セリ
十月卅一日 雨
生憎払暁ヨリ非常ノ降雨トナリ困ツタ事ナリ但暖気ハ仕合ナリトス
六時起出、先ツ来訪者ノナキ内留守宅始メ盛三郎等ヘ端書ヲ認メ発ス尚今朝兜町ヘモ一電ヲ発シテ「昨夜無事着今日玄海丸ニ乗ル」旨ヲ報セシニ付、更ニ兜町ヨリ其旨其許ヘモ報知セシ事ト信ズ
青淵先生ノ処ヘハ山本亀太郎・鳴滝幸恭等土地ノ有名ナル紳士ノ来訪スルモノ多シ、予ハ一寸第一銀行支店ニ至リ熊谷支配人・岸崎法学士其他諸氏ニ過日来荷物取扱、郵船会社ノ引合、保険会社ノ交渉等加意ノ謝辞ヲ述ヘ、夫ヨリ又郵船会社支店ニ至リ谷井支配人ニ面会シテ之亦謝意ヲ表ス
午前十一時一行ハ米利波止場ヨリ小蒸汽ニ乗リテ玄海丸ニ乗込ム、第一銀行諸氏其他数十名本船迄見送ニ来ル、時恰モ雨小歇《ヤ》ミトナリ好都合ナリキ
正午十二時解纜、港内ヲ出テヽ和田ノ岬ヲ回ハリ、夫ヨリ有名ナル須磨・舞子ノ海岸絶佳ノ景色ヲ右ニ眺メテ明石ト淡路島トノ間ナル明石海峡ヲ過キテ播州洋ニカヽリ、其内雨亦々降リ出セルモ気候ハ暖ニシテ且浪ハ至テ穏ナレハ勉メテ甲板上ニ運動セリ
十二時半食堂ニテ上等客一統着席食事(三度共洋食)
一行中主人ヲ始メ市原氏・元治氏ト及予ハ一等室ニ乗リ、竹内・八木両名ハ二等ニ乗レリ、一等ハ一室二人ツヽニシテ主人先ツ二人前ノ一室ヲ占メ、元治氏ト予トハ又同室ス、一室ニハ寝台二ツ(上ト下)外ニ長椅子・鏡・洗面台等アリ、食堂ハ上等客定員廿余名一度ニ食卓ニ就ク事ヲ得ベシ、又中等室ハ一室ニ寝台四ツアリ、設備ハ一等ヨリ大ニ劣レリ
同船ノ客ノ中日本人ハ予等一行ノ外
 天津領事官補   矢田長之助(高等商業校卒業生)
 同貿易商    須永達(同)
 同三井物産会社 添田歌三(同樹次郎ト同級)
 天津領事館書記生 大枝某
其他一・二人ニ過キス、他ハ皆西洋人ニシテ男女二十名許アリ、皆多クハ基督宣教師ニシテ北清ニ帰航スルモノヽ如シ、余リ優等ノ品格ノ人ト見ヘズ
本船ハ登簿噸数七百何十屯、総屯数千一・二百屯ナラン、飛脚船仕立故乗客ニハ至テ愉快ニ出来居リ、且上甲板ノ運動場モ中々広シ、雨降リ出スモ天幕ヲ張レルヲ以テ予ハ力メテ甲板上ヲ運動セリ
播州洋ヲ通過シ讚岐ノ小豆島ヲ経タル頃五時半頃日没シ暗クナル、室内・食堂等凡ヘテ電灯ヲ点シ明光々タリ、食堂ハ広々セルヲ以テ上客多ク玆ニ出テヽ読書・書キ物ヲナセリ、又日本人囲碁ヲナシ、洋婦バイブルヲ読ムアリ、又毛糸ヲ編ムモアリ、矢張婦人ハ西洋デモ三人ヨレハ多少喧々喃々タルモノヽ如シ
雨ハ止マザルモ風少ク浪穏ナリ、十一時ニ至リ室ニ入リ就寝ス、元治
 - 第25巻 p.18 -ページ画像 
氏ハ下ノ床ニ休ム、予ハ上ニ臥ス、今朝来究窟ヲ感シタル洋服及靴ヲ脱シ、フランネルノ単衣一枚トナリ初メテセイセイセリ、床ニ入リシーツニ包ミタル毛布(船ニ備ヘアル)ヲ被ムレハ丁度軽暖ヨキ心地ナリ、且船ノ推進器ノ音ニテビクビクビクビク小動スル工合ハ丁度小供ヲネカシ付クル工合ニテ中々ヨキ心地ノモノナリ
十一月一日 早朝快晴 十時少雨亦晴ル
昨夜快寝六時半目ヲ覚マシ洋服ヲ着シ、七時過甲板ニ上レバ天晴レ気清ク海静カニ已ニ讚岐・伊予ノ沿海ヲ辞シテ豊後ト防州ト差向ヒタル辺ニアリ、将ニ周防洋ニ差カヽラントスル所ニ在リ、左手遥ニ豊後ノ佐賀関ト伊予ノ佐田岬ト両々山脈斗出シテ相対スル辺明ニ見ユ、予等郷里ニ行クトキハ此海峡ヲ南進セハアト十里ニシテ達スベシ、遥ニ祖先否御両親墳墓ノ地ヲ拝シ転タ懐郷ノ情禁セサリキ
所謂奥州ノ松島ニモ勝レルトノ評アル瀬戸内海数千島嶼ノ絶景ハ、多ク讚岐・伊予ト備中・備後・安芸ト相対スルノ間ニアリ、之等ハ殆ント昨夜暗黒中ニ経過シ、今朝ハ已ニ周防洋ニ入ラントセリ、但シ天気快晴微風フキ気ハ清々トシテ四囲ノ遠山ヲ見、白帆ノ洋中ニ点々タルヲ眺メ、又時々汽船ノ行違ヒニ過クルアリ、甲板上ニ此等ノ風景ヲ見此等ノ良空気ヲ吸フテ前後運動スルノ愉快ハ亦別也、殊ニ浪ナク船ハ動揺セス、只今迄ノ処ハ実ニ好航海也、西洋人ノ夫婦連レ二・三組ハ皆両々腕ヲ擁シテ歩ヲ揃ヘ相共ニ運動セリ、其愉快察スベシ、予ハ他日其許及鄰子等ヲ携ヘカヽル愉快ノ海上旅行ヲ試ミン事ヲ期セリ
朝八時半朝食、予ハ不断ニモ似ズ充分食ス
此書状ハ馬関(又ハ門司)ヨリ投函セン為メ午前十一時船中ニテ認メシモノナリ、時ニ船ハ周防洋ヲ経過セリ、将ニ門司・馬関ノ間ニ入ラントスルノ頃ニシテ、両岸ノ景色頗絶佳ナリ
之ヨリ後ノ紀事ハ再応認メ、発郵スベキモ以上大略此ノ如シ、幸ニ御安心アレ、ノド全ク宜シク身体ニ聊異状ナシ
留守宅ノ計理何卒宜敷、鄰子ハ不相変ウマウマウマウマト申居候哉、凡ヘテニ御注意御愛育被下度、又其許ニモ摂生充分ニ御注意ノ程希望致候、品川大人様始皆様ヘモ宜ク御言ヲ乞フ
  十一月一日午前十一時於玄海丸         親徳
    徳子殿

  明治卅三年十一月四日玄海丸朝鮮州南諸島ノ間
    第二回
遠行ノ途上未タ家信ヲ得ルノ機ナキヲ憾ムト雖モ、貴方一統健在、鄰子ハ頻リニウマウマヲ呼ヒテ手ヲ振リ喜ビ和気堂ニ満ツルノ状ヲ遥察シテ欣挊ヲ極ム、予ノ旅途亦タ無事、幸ニ省慮アレ、去ル一日玄海丸ニテ将ニ門司ニ入ラントスルノ前、第一回ノ旅行日記ヲ認メ封書トナシテ馬関上陸ノ際投函セシヲ以テ、昨日頃ハ已ニ入手一読セラレタラント信ス
二日長崎ヨリ、三日釜山ヨリ端書ヲ以テ無恙事ヲ報セシト雖トモ、尚ホ第一回ノ旅行日記ニ引続キ旅中ノ状況ヲ左ニ筆録シテ一ハ留守宅ノ淋シサヲ慰メ、一ハ予カ将来ノ記念ニ残サントス
 - 第25巻 p.19 -ページ画像 
去ル一日船中ニ於テ第一回ノ報ヲ認メ終リシ頃ハ、玄海丸ハ已ニ周防灘ヲ通過シ、山陽道ト九州ノ地勢南北ヨリ相セマリ、海ハ漸ク狭マクナリ、両岸ノ景色中々佳ニシテ満珠・干珠ノ両島ハ松樹鬱蒼トシテ吾人ヲ迎フルモノヽ如ク、右ニ壇ノ浦ノ古戦場ヲ眺メ、尚ホ引続キテ山上ノ砲台樹間ニ隠見シ、又左方ニモ門司ノ砲台山上山腹ニ連置セラレ関門ヲ扼ス事実ニ厳重ナリ、船ハ此間ヲ静カニ過キテ門司ニ投錨セシハ午前十一時ナリキ、門司ハ北馬関ト海峡ヲ隔テヽ相対シ、其間セマキ所ハ七・八町、広キ部分モ一里ニハ充タサルヘシ、両市相対シテ一港ヲナス、門司ハ北ニ向ヒ山腹ト海岸トノ間ニ市街ヲナシ、左端ニハ陸軍兵器製造所アリ、右端ニハ浅野セメント分工場不相変煙ヲ吐ク事盛ナリ、碇泊船ハ独乙・英吉利等ノ外国船モ沢山アリ、皆石炭積込ノ為ナルヘシ、馬関ハ南ニ向ヒテ之レ亦山ト海トノ間狭マク長カキ市街ニシテ、船舶ノ出入ニ伴ヒ繁盛ヲ極ムルモノヽ如シ
船碇泊スルヤ馬関郵船支店長甲藤氏来リテ一行ヲ迎フ、即チ小蒸汽ニ乗リ案内セラレテ馬関大吉楼ノ桟橋ニ上陸ス、同楼ハ馬関第一ノ割烹店兼旅館ニシテ伊藤・井上諸公等時々豪遊ヲ試ムル所ナリト云フ、已ニ皇太子殿下此程御来遊ニ付右奉迎ノ為メ来関シタル毛利公爵一行モ此楼ニ逗留シ今朝立去レルナリト、此楼ニ上レハ楼下ハ海ニシテ直ニ門司ニ対ス、門司ト馬関トハ関係最モ深キ両市街ニシテ近来ハ電話モ両地間ニ通シ、且五分間毎ニ小蒸汽ヲ以テ両地間人馬ノ交通ヲ便スルト云フ、大吉楼ニテ入浴ノ上昼飯ヲ喫シ、終リテ一同巾セマク形奇異ニシテジヤンジヤン鳴ル所ノ人力車ニ乗リ目下開会中ノ門西二府弐拾弐県聯合水産博覧会ニ至リ一覧ス、事務官某先導シテ場内各府県陳列場ヲ案内ス、実ニ水産モカク計リ発達セシモノカト感嘆セリ、愛媛県殊ニ宇和四郡ノ出品物ハ就中予ノ注目ヲ引ケリ、宇和島人赤松鼎吉ハ予等八・九才ノ頃小学校ノ先生ナリシ人ナルカ、計ラス場内ニテ面会ス氏ハ愛媛県庁ノ派出員トシテ来場シ来ル事務官ナリト、久シ振ニテ面会セシヲ喜ヒ、丁寧ニ案内シ且ツ予ニ贈ルニ水産品一缶ヲ以テセラル(赤松ハ今武内ト改姓スト云フ)
水産博覧会ヲ覧終リ、夫ヨリ安徳帝ノ神社(赤間神社)及其廟ニ詣デ又其山腹ニアル平家一門ノ墓ヲモ見ル、一時平家ニ非レハ人ニ非スト迄豪華ヲ耀カシタル平家モ栄枯盛衰ハ忽チニシテ地ヲ換ヘ、殊ニ六百幾十年ノ後今日モカヽル墓ナキ墓所ヲ残スニ過キサルニ至ル、頗ル世事ノ期シ難キヲ感セリキ、明治廿八年日清講和談判ノ場処タル春帆楼モ亦神社ノ傍ニアリ、門前ニ至リ外部ヨリ一覧ス、李鴻章ノ負傷セシ場所モ案内者ニ指サレテ稍々之ヲ知了セリ、右等ノ巡覧ヲ終リ一旦大吉楼ニ帰リ、同楼ノ裏手ヨリ(三時頃)又小蒸汽ニ乗リテ本船ニ帰ル本日ハ天気晴朗且温暖陽春ノ如シ、外套ノ如キハ全ク不用ナリキ
本船即玄海丸ハ午後四時門司ヲ出帆ス、左ニ元門司セメント会社敷地ノ松林ナドヲ見、右ニハ彦島ヲ見ル、尋デ小倉・若松等豊前及筑前ノ都会ヲ遥カ左方ニ眺メ、六連島ノ間ヲ過ギリ進ミ、五時半頃ニ至リ島ノ外ニ出ツ、此外海ハ即所謂玄海洋ノ難所ノ取ツキナリ、時ニ一片ノ黒雲西方ニ出テ漸次蔓延シテ一天ニ満ツ、風漸ク盛ニ浪立ツ事高シ、船員ハ忙シク上甲板ノ天幕ヲ取リ去ル等ナントナク心経ヲ悩マセリ、
 - 第25巻 p.20 -ページ画像 
次第ニ雨サヘフリ来リ何トナクモノスゴキ有様トナレリ、船ハ今迄ノ静穏ニ引換ヘテ前後左右ニ動揺シ来レリ、予等モ今迄ハ甲板上ニ風ニフカレテ多少ノ雨ニヌレ力メテ運動セシガ、最早堪エ得ズナリシヲ以テ左右ニヒヨロヒヨロト所謂蹣跚トシテ歩ミテ船室ニ下リ、転バヌ計リニ漸ク便所ニ行キ、己ガ室ニ入リ、辛フジテ上外套ト上衣トチヨツキノミヲ脱シ、白シヤツ・スボン等ハ脱シ去ルニ遑ナク躍ルガ如ク床上ニ平臥シテ始メテ安ンズルヲ得タリ、船ノ前後左右ノ動揺ハ午後九時頃ヨリ漸ク甚シク、終夜斯クノ如シ、右ノ次第ナルヲ以テ大概ノ船ニ強キ人モ皆ナ船室内ニ閉ヂ籠リ、食堂ニ出デシモノハ漸ク西洋人四人位ニ過ギザリシ由、食堂ニテモ食器ハ框ニ載セテ卓下ニ転墜スルヲ防ギタリト云フ、船客中ニハ嘔吐セシ人モアリシ由ナルモ、予ハ床上横臥ノ後ハ左程ニ困難ヲ感セザリシハ仕合ナリキ
十一月二日 晴
暁四時頃ニハ船已ニ玄海洋ヲ過ギテ南ニマガリ、肥前ノ平戸・五島等ノ間ニ差カヽリ漸ク穏カトナリ天気モ亦晴ル、七時起キ出デ顔ヲ洗ヒ洋服ヲ着シテ甲板ニ出レハ船ハ已ニ長崎湾内ニ差カヽリ、両岸山水ノ景色実ニ絶佳也、最早船ノ動揺モナク漸ク安心セリ、一昨日ヨリ昨朝ニカケ瀬戸内ノ航海ハ実ニ平穏愉快ヲ極メ、家族相共ニカヽル愉楽ヲ分カツトセバ其快楽ハ幾倍ナランカトマデ感ゼシガ、船モ昨夜ノ如ク苦シクテハ先ヅ々々女小供ニハ禁物ト云ハザルベカラズ、船モ穏ナルトキハ汽車ニ勝ル事幾倍ナルヲ知ラズ、然レトモ浪ニアヒ動揺ニアヘハ汽車ノ究窟ニ劣ル事亦幾層倍ナルヲ知ラザルナリ
長崎湾内ニ進ミ右ノ方ニハ浅野石油タンク・三菱造船所等ヲ望ミ、左方ニハ居留地等ヲ見、八時港内ニ投錨ス、郵船会社支店長東条氏、十八銀行ノ永見氏其他某々等小蒸汽ニテ出迎フ、青淵先生始メ予等一行ハ急ギテ食堂ニ於テ朝餐ヲ了ヘ支度ヲナシ、前記諸氏ニ案内サレテ小蒸汽ニ乗リ込ミ先ツ長崎市ノ港湾改良事業ノ一タル埋立地所ニ至リ上陸シテ一覧ス、右ハ東洋浚渫会社ガ請負ヲナシ新式ノ浚渫器械ヲ以テ港内ノ土砂ヲ浚エ出シ、之ヲ粉砕シテ浚渫船内ヨリ鉄管ニテ其土砂ヲ埋立地ヘ送リ出スモノナリト云フ、此埋立地ハ凡ソ一万坪余リモアル由ニテ、長崎ニ有名ナル売女ノ惣大将お栄ト呼フ女ノ住宅ノ下ノ方ニアリ、其住宅ハ山腹ニアリテ城郭ノ如シ、稲佐のお栄ト云ヘハ有名ナルモノニシテ、殊ニ魯国海軍々人ハ上大将ヨリ下下士官ニ至ルマテお栄又ハ其幕下ノ為ニハ時々擒ニアヒ、為ニ軍艦ノ出発時間ヲ一夜モ二夜モ延期セシムル事サヘアリト云フ、日本婦女モ亦或ル意味ニ於テハ大勢力アリト云フヘシ、偖此お栄サンノ大城郭ノ下ニ於ケル右ノ埋立地ノ一見ヲ終リ、一行ハ玆ニ小蒸汽ニ帰ル為メ石垣ヨリダンベ船(小端艘ニシテ箱ノ形ヲナシ其中ニ入ル事ヲ得ベシ、此地方ノハシケハ皆然リ)ニ一同乗リ込ムヤ空前ノ一大珍事コソ起リタレ、即チ一行ノ内青淵先生ト市原氏トハ先ツ箱ノ中即チ屋根ノ下ニ入リ予ハ屋根ニ手ヲ掛ケテ右ノ舟端ニ立テリ、而シテ元治氏・医師竹内氏・八木等ハ艫ノ部ニ立チ、長崎ノ東条氏・永見氏其他二名漸ク石垣ノ段々ヨリ此小舟ニ乗リ移ルヤ、舟ハ忽チニシテ左舷ノ方ニ非常ノ角度ヲ以テ傾クト見ルヤ其一刹那、艫ニ立テル人々ハ皆ヒヨロヒヨロトシテ将ニ転ハントス
 - 第25巻 p.21 -ページ画像 
ル計リニシテ、同時ニ水ハ舟ニ浸シ入リテ皆靴ヲ没ス、軈テ其斜傾ノ反動トシテ先キヨリモ一層大ナル角度ヲ以テ反動ヲ起シテ右方ニ傾キ将ニ覆ラントス、此時早ク已ニ予ハ海中ニ投入シ、愍ムヘシ全身濡レ鼠トナリ、シヤポヲ被リ靴ヲ穿チタルマヽバタ々々ト三間計リ泳ギテ石垣ニ達シビシヨヌレトナリテ岸上ニ立テリ、此時舟ハアツチヘ傾キコツチヘ覆ラントシ、水ハ益々深ク浸入シタリト見エシガ、幸ニ之ニ隣リテ繋キタル一端艇アリテ予ヲ除クノ外一同ハ皆其舟ニノリ移リテ怪我ナキヲ得タレトモ、皆腰以下ハビシヨヌレトナリ一大災難ニカヽレリ、乍去全身水ヲ被リタルモノハ予一人ニシテ他ハ皆予ノ如ク甚シカラズ、即一同ハ他ノ小舟ニ乗リ移リテ小蒸汽ニ入レリ、小蒸気ハ直ニ一同ヲ載セテ浚渫会社ノ浚渫船ノ処ニ行キ碇泊シ、予ノ外一同ハ半身ヌレタル儘ニテ浚渫船ヲ見物セルモ、予ハ全身ヌレ鼠ナルヲ以テ此間小蒸気ニ止マリ悉ク衣ヲ脱シテ全ク裸トナリ、洋服ハ元ヨリノ事腹巻ヨリ糞透シニ至ルマデ全ク浸水シテ用ヲナサズ、依テ真裸トナリテ腹部以下ハ幸ニモ青淵翁ノ膝掛ヲ以テ包ミ、上ニハ同先生ノ外套一枚ヲ着シ、幸ニモ暖気ナリシユヱ先之ニテ一時ヲ凌キタリ、軈テ一行ハ浚渫船ノ見物ヲ終リテ小蒸汽ニ来リシヲ以テ小蒸気ヲ長崎ノ阜頭ニ着シ一同ヲ上陸セシメタリ、一同ハ直ニ迎陽亭ト申ス料理店兼旅館ニ至リ衣ヲ着カユル事トセルモ予ハ全身ヌレタル次第故直ニ八木ト共ニ小蒸汽ニテ本船(玄海丸)ニ帰リ、シヤツ・ズボン下・腹巻・腰布ヲ始メモーニング等皆用意ノ品ヲ以テ服装ヲ改メ、更ニ小蒸気ニテ上陸シテ迎陽亭ニ至ル、今日ノ災難ハ如何ナルハズミナリシカ実ニ危険極マル一大厄災ナリシガ、右ノダンベ舟ノ底ニ損処アリテ浸水セシナラントノ説モアリ、又艫ノ片端水中ノ石垣ニ乗リ居リシ為メ傾キテ水ノハイリシナリト云フ説モアリ、兎モ角青淵先生以下一行一時ハ殆顔色ナキ有様ニシテ、幸ニ岸辺ニテノ出来事ニシテ皆々一命ニ別条ナカリシハ仕合ナリキ、郵船会社ノ東条氏始案内セシ人々ハ皆恐懼措ク能ハサル有様ニシテ却テ気ノ毒ナリキ、中ニモ予ノ損害ハ一行ノ中最大ニシテ携帯ノ紙入・煙草入・蟇口等皆塩水ニヌレ、中ニモ最モ暖キフダンノ洋服ハ直ニ用ユル事出来ザルニ付之ハ迎陽亭ニシヤツ・下バキ等ト共ニ預ケ置キ、帰途立寄リノトキマデニ洗濯ヲ依頼シ置キタリ、不得已之ヨリハモーニングヲ以テフダン着トナスノ外ナシ、併シ幸ニモ思ヒシヨリハ暖気ニテ之ハ仕合ナリキ、右ノ如ク衣類等ニハ多少ノ損害ハ止ムヲ得ザルモ、恰モ暖ナル日ノ事トテ別ニ風ヲ引ク等ノ事モナク後デハ一ノ笑草ノ種トナリシ迄ニテ先々目出度カリシ、他ノ諸氏モ靴ハ皆ダイナシトナリ、且ズボン及ズボン下等ハ全ク浸水セリ
後ニテ青淵先生一句ヲ詠セラル、曰ク
  共に濡れてうきなかさきに立ちにけり
    見る人ハ嘸笑ふダンベー
穿チ得テ妙ナリト云フベシ
此ノ如ク迎陽亭ニ至リテ一行ニ合シ、先ツ入浴シ、夫ヨリ松田十八銀行頭取ノ饗応ニテ同行員及ヒ市長某氏等ト共ニ昼餐ヲ喫ス、迎陽亭ハ長崎市中ノ内山腹ノ高処ニアリ、一望ノ内港内ノ景色ヲ集メ、実ニ其風景ノ美云フ可カラズ
 - 第25巻 p.22 -ページ画像 
今日ノ珍事ハ早ヤ已ニ市中ニ聞コヘ渡リシト見エ、長崎県知事服部一三其他ノ諸氏来訪スルモノ皆見舞ヲ述ブ、又新聞記者来リ其様子ヲ聞カン事ヲ求ム、予之ニ応接シ「イヤナニホンノ少々水ガ飛ヒ込ミ一同靴ヲヌラセシノミナリ、別条ナシ」ト答ヘ、可成新聞等ニ出サヌ様注意セリ、中ニハ小蒸気転覆シ渋沢男以下一行非常ナル目ニ会ハレタリナドトノ評判サヘ伝ハレリト云フ
食後小休ノ後長崎市ノ公園ナル諏訪神社ニ詣デヽ全市ヲ見晴ラシ、車ニテ波戸場ニ出デ本船ニ帰ル、五時半本船出帆ス
本日ハ実ニ日本晴ノ好天気ニシテ気温モ暖カク、外套ヲ要セザルハ勿論ニシテ、去卅日東京出発ノ日汽車中ノ寒サト同日ノ談ニ非ズ
六時半食堂ニ出テ和洋客人ト共ニ洋食ヲ喫スル事例ノ如シ、西洋客人ハ前ニモ報セシ如ク世界漫遊者モアリ、宣教師モアリ、片語交リノ英語ニテ時々快(怪?)談ヲ試ミタリ
今夜月明カニシテ浪静カ、甲板上ヲ永ク運動シ、時々或ハ同船ノ人々ト快話ヲナシ、十一時船室ニ入リ就床ス、夜半対州沖ニカヽル頃ホヒヨリ船頗ル動揺ス、但前日玄海洋ニ於ケル如クニハ非ズ
十一月三日 快晴
前夜半来船動揺スルニ付夜明ケ後モ床上ニ安臥ス、午前九時ヲ過キ船正ニ釜山ニ入ラントスルノ頃漸ク波静カナリ、漸ク起キ出デ顔ヲ洗ヒ衣ヲ更ユレバ船ハ正ニ錨ヲ卸シ、第一銀行釜山支店長荒井氏・武川氏以下及郵船会社支店長小倉氏等小蒸気ニテ出迎フ、依テ釜山港ニ上陸スルノ前先ヅ一里計距リタル釜山鎮(朝鮮ノ城下ノ如キ市邑也)ヲ見物セントノ事ニテ、一行ハ小蒸気ニテ行キ上陸ス、此辺ハ純粋ノ朝鮮邑ニシテ道ノ両側ニ泥造リ草屋根ノ矮屋連ナリ、ブタ・牛等ノ糞尿途上ニ流ル、白衣着冠ノ人ハノツソリノツソリト緩歩シテ口ニ長キセルヲ含ム、実ニ優長ナリ、馬子モ水汲ミモ皆純白ナル衣ヲ着シ、頭ニハ冠ヲ戴ク、恰モ白丁然タリ、但シ衣ノ純白ナルハ実ニ百事不潔ノ集合処ナル朝鮮ニハ実ニ不似合千万ナリト云フベシ、釜山鎮ハ古ノ城趾ニシテ城門等モ中々壮大ノ跡アリ、但人家ハ何レモ何レモ皆一様ニ燕ノ巣ノ如ク、我邦内地僻村ノ牛小屋カ糞溜メカト見キチゴフ計也《(マカ)》、一行ノマワリヘ大勢ノ小供・壮丁等集リ来ルトキ、第一銀行ノ小使等アツチ行ケト叫ビテ手ヲ上グレバ、皆蜘蛛ノ子ヲ散ラスガ如ク逃ゲ行クナリ、誠ニ温柔ニシテ気力ナシト聞キシハ実ニ一見其信ナルヲ感シタリキ、此釜山鎮ハ後日京釜鉄道ノ停車場ヲ置ク予定地ナリトノ事ニテ、殊ニ青淵先生ノ行キ視ラレシ所以ナリ、右ノ視察ヲ終リ再ヒ小蒸気ニ帰リ、又後返リスル事一里計リ釜山港ニ上陸シテ第一銀行支配人荒井氏ノ宅ニ至リテ休憩ス
釜山ハ朝鮮ノ外国貿易港ナリト雖トモ、実ニ日本居留地ノミニシテ、他外国人ハ只基督教ノ寺院ヲ有スル位ニシテ商売等ハ殆ンドナシト云フモ可、故ニ町ハ皆日本人ノ商家ニシテ少シモ内地ト異ナラズ、只白衣正冠ノ朝鮮人徘徊スル点ノミ内地ト異ナルナリ、港ニ碇泊スル商船数十艘之レ亦皆日本船ノ由ニシテ、今日ハ天長節ニ付船ハ皆満艦飾ヲナシ、陸上ハ戸々国旗ヲ立テ、ダシヲ出シ、仁和賀ヲ催ス等、年中第一ノ賑ナリト云フ
 - 第25巻 p.23 -ページ画像 
青淵先生ト市原氏・元治氏及予ハ案内ヲ受ケテ領事館ニ至リ、領事能勢辰五郎氏夫妻ニ面会シ、外ニ長崎ヨリ同乗セル支那ヘ行カントスル参謀本部少佐萩原氏ト同席ニテ日本料理ニテ昼飯ノ饗応アリ、青淵先生ハ能勢氏ト京釜鉄道ニ関スル談話頻リナリ、能勢氏ハ天真爛熳快調ナル人ニシテ説モ従テ多シ、妻君亦交際ニ長ケタルモノヽ如シ
二時半領事館ヲ辞シテ竜頭山ニ上リ神社ニ詣ツ、竜頭山ハ居留地ノ中央ニアル小山ニシテ、朝鮮ニ不似合ニモ松樹鬱蒼海上遠方ヨリモ之ヲ見止ムベシ、神社ハ居留地ノ鎮守ノ由、高処ニアル故眺望中々宜シ、夫ヨリ市中ヲ散歩シ乍ラ天長節ノ賑ヲ見、第一銀行支店ニ立寄リ、更ニ税関及郵船会社支店等ニ立寄リ、小蒸気ニテ四時本船ニ帰ル、見送リニ来ル諸氏十数氏ニ対シ三鞭酒ヲヌイテ健康ヲ祝ス
四時半本船釜山ヲ抜錨シ、絶影島外ニ出ツレハ浪稍高ク船聊カ動揺ス風ハ稍寒クシテ前日神戸・馬関・長崎等ニ比シ気候ノ異ルヲ感シタリ但今日釜山上陸中ハ中々暖ニシテ外套ヲ用ヒズ
本日釜山鎮ニ於テ青淵先生作アリ、曰ク(釜山鎮書感)
  山河一望涙沾中  古塁依然扼要津
  只恨秋風専粛殺  却忘豪雨濶斯民
午後七時食堂ニ列ス、今日ハ天長節ノ佳節ニ付食卓上ハ美シク飾リ立テラレ、且渋沢男ト同席ノ一同内外ノ旅客ヘシヤンパン酒ヲ振舞ハレ一同ハ盃ヲ挙ケテ日本天皇陛下ノ万歳ヲ祝シ、終リニ西洋人ノ発言ニテ渋沢男ノ万才ヲ祝ス
夜深ク月益々明カニシテ甲板ニ上リ運動スルノ愉快不可名状、思ハス時ヲ移シテ十時過ニ至リ初メテ船室ニ入リ、就床快寝ス
今夜甲板上ヨリ後ロヲ顧ミレハ釜山ノ見当時々光ヲ発ス、コハ天長節ヲ祝ス為メ釜山ニテ花火ヲ打揚クルモノナリト、今夜ハ釜山領事館ニテ夜会ノ催アル由ニテ予等ニ迄招待状ヲ受ケシカ、船ノ出帆ニ時限アルヲ以テ列席スル事ヲ得サリキ
前報ニ書キ漏ラセシ同船ノ乗客ヲ追記センニ、神戸ヨリ同乗ノ人国民同盟会特派員井深氏アリ、清国ニアリテ永年彼国ノ内情ニ通シ日清戦争ノ際ノ如キ軍事探偵トシテ大ニ尽ス事アリシ人ナリト、時々事務長室ニ在リテ須永・矢田・大枝諸氏ト快談時ヲ移ス事アリ、又長崎ヨリハ萩原少佐ノ外白耳義領事トシテシヤムヨリ京城ニ転任セシバンカー氏熊本商業学校教諭(高等商業出身)□氏等アリ
十一月四日 快晴
七時半起キ出テ支度ヲナシ、甲板ニ出レハ本船ハ已ニ慶尚道ノ沿岸ヲ過ギ、全羅道ノ南岸所謂州南諸島点々起出セルノ間ヲ航セリ、此辺ハ群島ノ数実ニ数百ニ出テ、恰瀬戸内海ニ於ケルカ如シ、只異ナルハ山ニ木ナキ事ト此間白帆ノ点々来往スルモノナキト是ナリ、国ノ未開ヲ現ハス一ノ条件ト見ルヲ得ベキカ、島多キ間ヲ行ク為カ海誠ニ穏ニシテ、且水色黄ヲ帯ブ、蓋シ已ニ黄海ニ入ラントスルナリ、遥前方ニ三本マストノ一艦ヲ認メ我運送船豊橋丸ナリト、其他ハ一・二ノ朝鮮舟ヲ見シノミニシテ実ニ陸モ水モ寂寥ヲ極ム
昼頃全羅道ノ西南端ヲ過キ北ニ向フ、風漸ク暖ク、膝ノ辺寒キヲ感ズ但海波静ナルヲ以テ乗客ハ皆甲板上ニ出ズル事常ノ如ク、或ハ夫婦手
 - 第25巻 p.24 -ページ画像 
ヲ組ミ合ハセ、足ナミ揃ヘ往キ返リ々々々々運動スルモノ、望遠鏡ニテ遠景ヲ見ルモノ、椅子ニ倚リテ書物ヲ繙クムモノ、又日本人ニテハ碁ヲ囲ムモノ、椅子ヲ集メテ欒座快談スルモノ、伍々皆快色面ニ現ハル、予ハ此間食堂ニ入リテ此日認《(マヽ)》メ家郷ノ遠征ヲ憶フノ情ヲ慰セント欲ス、語ヲ寄ス、予ノ禿筆敢テ其目的ヲ達シ得ルヤ否ヤ、呵々
十二時半食堂ニテ食事、舟ハ北ニ進ムニ従テ風漸ク寒シ、予ハ益暖キ衣ヲ濡ラセシ事ヲ憾ム、但シ思ヒシヨリハ暖也、別ニ風ヲ引ク程ノ事ハ無之、幸ニ安心アラン事ヲ乞フ
今日ハ終日極メテ平穏ノ航海ニシテ、海ハ頗ル大ナレトモ波ナク船動揺スル事ナシ、昼頃全羅道ノ西南端ヨリ北ニ曲リシ以来真北ヲ指シ遠ク東ニ陸ヲ望ミ、西ハ渺茫タル水天髣髴タル景色ヲ眺メツヽ進行セリ午后六時半於食堂夕食、其後甲板ニ出テ渋沢男ヲ中央ニシテ日本人ノ一群船中又ハ洋行中ノ失策談始マリ、各人中々種多シ、渋沢男慶応二年水戸ノ民部公子ニ従テ仏国ニ航行セシ節、ホテルニ於テ便所ノ間違燕尾服ニ縞ノズボン等珍談ハ周囲ノ人ヲシテ腹ヲ抱エテ笑ハシム
前記ノ如ク天気晴朗、月光輝々、海波穏ナルヲ以テ船ハ予定ノ如ク明五日朝七時頃ニハ仁川ニ着スヘシト云フ
余ハ仁川ヨリ報スヘキヲ以テ本信ハ只今(四日午后九時)擱筆ス、予ノ一身ハ前ニ記スル所ノ如ク至極無事健康ナルヲ以テ幸ニ省慮アリテ申ス迄モナク鄰子ノ事ハ勿論其許自身ノ身体ヲ健康ニシ、一家眷族安泰息災ナラン事ヲ祈ル、何卒序ノ節西村大人・母堂・義子氏・樹次郎等ヘ宜敷御伝言アリタシ、道氏ハ其後変リナキ事ト信ス、之レ亦宜敷御伝アレ
帰路ハ矢張十七日仁川発、二十日長崎着ノ上ハ同処ニ上陸シ、夫ヨリ九州鉄道ニテ陸行門司ニ出テ予定ノ如ク広島・神戸・大坂等ヲ順次ニ旅行シ月末迄ニ着京ノ事トナルベシ、尚後便ニ万可申述候 匆々不宣
      三十三年十一月四日夜九時玄海丸船中ニテ
      時 朝鮮全羅道ノ西岸ニ沿ヒ航行中
                         親徳
    徳子殿
        参る

十一月五日
予等一行ヲ載セタル玄海丸ハ今暁五時仁川湾外ニ暫時碇泊ス、蓋シ港内ハ暗中ノ舟行危険ナル為ナラン、六時進行ヲ始ム、最早仁川投錨モ間近ノ事ナレバ直ニ起キテ支度ヲナス、愈七時半仁川港ニ碇泊ス(我大和艦、仁川丸及顕益号等碇泊セルヲ見ル)尾高次郎・足立太郎氏其他銀行員、京仁社員、仁川紳士・紳商等来リ向フル人多シ、小蒸気ニ乗リ移リ、行ク事三十分ニシテ始メテ阜頭ニ上陸ス、玆ニ亦出迎人多シ、徒歩稲田旅館ニ投宿ス
気候ハ此日意外ニ暖ニシテ外套ヲ要セザル位ナリ、少憩ノ後先ヅ京仁鉄道会社ニ至リ、足立総支配人・古津氏・松岡氏等ニ導カレテ事務所停車場構内・車庫・機関場等ヲ見ル、足立総支配人ニ伴ハレ領事館ニ至レハ、青淵先生ハ尾高氏等ト伊集院領事・有吉官補等ト接見中ニシ
 - 第25巻 p.25 -ページ画像 
テ、予等モ其室ニ至ル、夫ヨリ青淵先生始メ一行ニ従ヒ再ヒ京仁鉄道ニ至リ場内従覧ス、其間列車発着ノ都度乗客ノ昇降ハ数十人ニ不充、何トナクヒツソリシ、夫レニ仁川ハ土地起伏甚シキヲ以テ人力車ナルモノナシ、停車場内プラツトホームニハ列車着スル毎ニ韓人足負子ヲ負ヒテ客ノ手荷物ヲ運ブ、何トナク北無キ感アリ
午後ハ第一銀行及尾高次郎氏宅ニ至ル
仁川領事官補有吉氏ハ我高等商業出身者ニシテ予等ヨリ後進ナリ、今夜氏ノ官舎ニ被招、同席者ハ中島久万吉(同窓ニシテ京釜ニ従事)矢田長之助(同窓ニシテ天津領事官補トシテ赴任ノ途次)大枝氏(天津領事館書記生赴任ノ途次)其他商船会社支店長境野法学士等也、日本料理ニシテ且日本芸者等ヲ招キ盛会ナリキ、異境ニ入リ同胞且同窓者ニ歓迎ヲ受クルハ実ニ愉快也
十一時帰館就床
仁川ハ山腹海岸ニ臨ムノ開市ニシテ日本居留地其大部《四千人》ヲ占メ、支那居留地之《千人》ニ亜グ、外国人ノ在留者ハ百人ニ充タズト、故ニ外見ハ矢張日本町ノ観アリ
十一月六日 快晴 寒シ
昨日ハ意外ニ暖気ナリシニ引替ヘ今朝ノ寒サハ成程聞キシニ違ハズ
八時発ノ京仁鉄道ニテ青淵先生始メ一行京城ニ向フ、特ニ上等一車ヲ以テ一行ノ乗用ニ供セリ、汽車ハ所謂広軌ニシテ巾広ク天井高ク実ニヨキ気持也、殊ニ日本人ノ経営ニナリ、況ンヤ予等当初ヨリ関係セル此鉄道ニ乗リテ異国ノ広野ヲ馳奔ス心中ノ愉快ハ実ニ格別ナリキ、沿道ノ畑ニハキヤベツノ一種(支那菜)・麦・芹・大根等ヲ見ル、其間ニ燕ノ巣ノ如キ人家点々トシテ部落ヲナス、皆一様ナリ
ヤガテ行ク事一時間半、漢江ノ大鉄橋ハ実ニ壮大可驚也、行ク々々工事上ニ付足立氏ノ説明ヲ聞キ乍ラ九時四十五分京城停車場ニ着、玆ニハ大江卓・大三輪長兵衛両氏其他出迎ハル、先同構内ニ設ケタル開業式場ノ準備ヲ見ル、朝鮮ノ人民ハ不相変所カマワズ構内ドコヘデモ入込ミノソリソリ散歩ス、夫ヨリ泥峴ノ定宿巴城館ニ向ヒ人力車ニ乗ル予ハ今迄釜山・仁川等ハ見タルモ、皆領土ハ韓国ニ属スルモ、其市街ハ何レモ日本町ノ感ヲナセリ、然ルニ今京城ニ入リ初メテ真ノ朝鮮町(寧部落)ヲ見タリ、矮屋櫛比、白衣戴冠ノ人悠々緩歩、間々途上ニ立小便ヲナシ、順査・兵士皆我国風ニ傚フト雖トモ其姿勢動作ニ至テハ無規律ニシテ嘔吐ヲ催フス計也、王宮ノ大安門ヲ護ルノ兵士等参々伍々雑談、喫煙、体ヲ曲ケテ物ヲ観、其行儀ノ悪シキ、一見怠惰ノ民タルノ資格ヲ備ヘタリ、途ニ我守備隊ノ兵卒ニ合フ、其規律ノ正シキ同日ノ談ニ非ス、実ニ文野ノ展覧会ナリ
京城ニハ我専管居留地ナシ、雑居制度ナルモ羅洞ハ自ラ日本人群居一ノ居留地ノ観ヲナス、商店櫛比、文明的ノ商品ヲ需ムルノ韓人皆玆ニ来集スト云フ
軈テ巴城館ニ投宿ス、同館ハ京城居留地唯一ノ旅館ニシテ、内地ノ旅館ニ比スレハ不完全ナルモ室数モ十余アリ、日本人ノ営業ニ係リ凡ヘテ日本風ニ経営ス、料理番・女中・番頭皆日本人、只食事ノ如キハ調理法余リ美味ナラサルハ無拠所ナラン、昼食後第一銀行ニ至ル、同行
 - 第25巻 p.26 -ページ画像 
ハ巴城館ノ一軒置キテ隣ニシテ洋館建築新ニ成リ、壮麗也、分析仮所ヲモ見ル、同行ニテ土産物ノ荷物ヲ開ク、軈テ尾高次郎氏ト共ニ公使館ニ至リ、林権助氏ニ面会シテ、土産物ノ容斎幅ヲ進ス、青淵先生ハ此日公使館・領事館等訪問セラレ、夕ハ市原氏ト共ニ公使館ニ招ニ応シテ参ラル
夜信夫領事官補・中島久万吉氏来訪、夜半家信ヲ認ム
此日安学柱勅命ヲ帯ヒ青淵翁ノ一行ヲ南大門ニ出迎ヘ、且ツ巴城館ヘモ来訪ス
入京後ハ第一銀行出張所主任心得原田松茂氏、又韓語通訳トシテハ峰尾音三郎氏等諸事斡旋セラル
巴城館ニテ味フ処食物ノ内、米・魚・肉・菜等略ボ日本ノ産ト同ジ、菓物ハ大ニ宜シ、柿(タルガキ)ニ於テ殊ニ然リトス、兎モ角国外ニ出テ日本旅館ニ投シ故国ニアルト同シ生活ヲナシ得ルハ何トナク愉快ヲ感ス
気候ハ寒キモ雨少ク空気乾燥、故ニ風土人ノ身体ニ適シ、健康ヲ害スルモノ少ク、従テ流行病ト云フ事殆ナシト云フ事ナリ
十一月七日 快晴 夜雨
午前七時巴城館ニ於テ起出ツ、今朝ハ意外ニ寒ク、成程是ナレハ去月末東京出立前小林義雄ノ言ヒシ如ク先ツ東京ノ寒中ニ近シト云フモ可ナランカ、素足ニテ板ノ間ヲ履メハ冷キコト氷ノ如シ、蓋シ室内寒暖計モ四十四・五度位ナランカ、然ルニ今日昼頃ヨリハ大ニ暖ニナリ、午后公使館・領事館ニ往復セシナドハ外套モ不用ナリシ位也、夜分掬翠館ヨリ帰ル頃ハ雨トナリ降リ続ク、当国ニテハ雨ハ珍敷シト云フ、而シテ朝鮮ノ気候ハ称シテ三寒四温ト云フ習ヒニシテ、三日寒サ続ケハ後ノ四日ハ温カニシテ、常ニ此ク規則的ニ順環スト云フ、兎モ角朝ト昼トノ寒暖ノ差ハ夏冬共常例トスル所ナリト聞キシガ、今日始メテ之ヲ実見セリ
今日昼ヨリ青淵先生ハ国分書記官其他ノ来訪ヲ受ケラレ、終リテ同書記官・市原氏・峰尾通訳者等ヲ従ヘ各大臣・ブラオン等ヲ訪問セラレ夕方ハ林公使ノ来訪アリ、夜ハ隣ナル掬翠館ニ於テ第一銀行ノ徳意先新聞記者其他居留民重立者四十余名ヲ招キ、出張所新築披露ヲ兼ネ尚将来ノ愛顧ヲ乞フ為メノ宴会ヲ開カル
予ハ朝同郷人田村義一(臨時電信部提理陸軍工兵大佐)ノ来訪ヲ受ケ軈テ塩川通訳官ノ来訪ヲ受ケ、土産物整理ノ為同氏ヲ乞フテ共ニ第一銀行出張所ニ至リ、昼飯後ハ公使館ニ塩川氏ヲ訪ヒ、朝鮮大官ヘノ土産物目録ヲ示シ、其添付文章ノ調製ト宮内府献上物ノ手続等ヲ依頼ス塩川氏ハ一時京仁鉄道ニ仕ヘシ為メ予ハ爾来懇意ノ間柄也、又同氏ノ紹介ニヨリ外交官補埴原正直氏ニモ面会ス、又塩川氏ノ宅ヘハ持参ノ味付のり一鑵ヲ贈ル、来ル十二日頃主人始メ皇帝ヘ謁見ノ節ニハ予モ亦其末席ニ加ヘベシト懇切ニ申呉ル
帰後領事館ニ信夫領事官補及大山書記官(共ニのりヲ進物ス)ヲ訪ヒ信夫氏ノ官舎ニテ久敷談話ス、両氏共同窓ノ親友ナリ、五時半帰ル
夫ヨリ前記ノ如ク掬翠楼ナル第一銀行ノ宴会ニ列ス、来客四十余人、初メ頭取より開会ノ趣旨ヲ述ヘ、又尾高氏ヨリ予ヲ頭取一己ニ付シ対韓
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経営ノ事務ヲ取扱フモノナリトテ満座ヘ紹介セラレタリ、来客ハ商人新聞記者・居留民会議長・総代等ニシテ真ノ有力者トモ云フヘキハ単ニ五・六名ニ過ギズト、芸者大小十余名盃盤ノ間ニ周旋ス、芸者ノナリハ皆縞ノ衣物ニシテ多ク馬関辺ノ風俗ナリトカ、御面相ハ皆宿場女郎ノ如クナリ亦然リ頭髪ハ大ナル銀杏返ノ如ク旦髪毛ノ曲屈不整理ナルハ大ニ目ニ付ク、言葉ハ恰モ大坂ヲ真似テ非ナルモノナリ、初メ五六名座ノ中央ニ並ヒテ端歌ヲ唱ヒ小妓ツヾミヲ打ツ、次ニハ小妓一人立テ舞フ、夫ヨリハ全妓客人ノ前ニ配座シテジヤンヂヤカジヤンヂヤカアツチデモコツチデモ大騒キ耳モ聾スル計也、青淵先生ハ席央ハニシテ亦立チ、京仁全通迄ノ由来、京釜創立事務進行ノ現況等ヲ述ベ、前者ニ対シテハ尚一層ノ添心、後者ニ対シテハ大ナル賛助アラン事ヲ乞フノ愛敬演説ヲセラル、要スルニ京城第一ノ料理屋ニ於テ日本第一ノ実業家カ京城居留民中重立者ノ招待会ノ状態ハ如此モノナリト雖トモ、而カレトモ如此異国ノ中央ニ於テ純然タル日本風ノ宴会ヲナス事ヲ得亦愉快ナリト云フヘシ、来客ハ皆羽織袴ナリキ、予ハフロツクコート
京城人口二十万ト号シ、日本人ハ弐千三・四百、而シテ芸妓五十人、料理屋十一・二軒ナリト
日本人ノ専管居留地ナキハ勿論各国居留地モナク、全ク雑居ノ姿ナリト雖トモ、自ラ日本人ハ泥峴ニ群棲シ純然タル日本人町ヲナス、小ニシテハ豆腐屋・汁粉屋迄モ全備シ、女小供共内地辺鄙ノ小都会ニ於ケル如ク道路ヲ濶歩ス、実ニ日本人ノ大出来ト云フ可ク頗ル人意ヲ強フシタリ、居留地ト云フヨリハ寧ロ一殖民地ノ観アリ、日本人ハ生国ヲ見ステヽ海外ニ踏ミ出ス事ノ不得手ナル国民ト兼テ聞キシガ、朝鮮ニ於テハ実ニ意外ニシテ純然タル日本風ヲ以テ押出シタルナリ、カヽル状況モ明治十八年以来徐々発達シテ今日ニ至リシモノヽ由ニシテ、殊ニ廿七・八年戦役後著シク増進セリト云フ、魯国ト云ヒ米国ト云ヒ、皆外交上利益線ノ取ヤリニハ当局手腕ヲ用フルト雖トモ、居留者ハ宣教師位ニシテ只公使・領事位ナルノミ、日本人ハ公使館・領事館・郵便局・鉄道守備隊(一中隊)・警察署・電信提理等ヲ派遣シ実ニ盛ナルモノナリ、而シテカン獄モ備ハリ、韓人ノ韓人ニ対シテ犯罪シタルモノト雖、日本警察ニテ捕ヘ日本ノ監獄ニ投スト云フ、居留地ナキニ治外法権ヲ行フサヘ不思議ナルニ、カヽル法外ノ事ヲナス中々ノ勢ナリト云フヘシ、此植民地的ノ実況ハ予ノ先以テ感シタル点ニシテ、此形勢ハ京釜鉄道成効ノ暁ニハ蓋益々発達スルコトナラン、予ハ実ニ京釜鉄道ノ速成ノ如キハ国家的事業トシテ益々其必要ヲ認メタリ、而シテ政府ハ宜シク旅行券ノ面倒等ヲ廃シ、大ニ当国ヘノ渡航ヲ開放否奨励スルコトヲ望ム、事実ニシテ如此ナラバ朝鮮半島問題ハ自ラ外交家ヲ労セズシテ解釈サルヽ事ヲ得ン
今日ノ宴会ニ於テ同郷人西河通徹氏ニモ面会ス、氏ハ朝日新聞ノ特派通信員ニシテ在京城同業者ノ中ニテハ最信用アル人ナリト
偖翻テ朝鮮人ノ状態ヲ見レハ如何ノ観ヲナス、彼等ハ実ニ蠢愚可憐ノ民也、白衣戴冠優々途上ヲ緩歩シ路傍ニ跼息ス、昨日現王城大安門ノ前ヲ過ルニ門ニ番兵十数人アリ、皆日本然タル兵服ヲ着シ、腰ニ剣ヲ帯フレトモ伍々相集リ喃々タリ、体ヲ曲ケ右向キ左向キ実ニ姿勢ナシ
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去テ我守備隊ノ前ニ来ル、番兵二名門衛ヲナシ整然前面シ厳乎不可犯ノ風アリ、又今日街頭二名ノ盗ニ鎖ヲ付シテ護送スル韓人アリ、矢張白衣戴冠ノ人ナリ、蓋シ押丁ノ類ナラン、口ニ長キセルヲ含ミ煙ヲフカシ脇見シテ歩ム様見ルモ憐也、之ヲ我国ノ実況ニ比スレハ其差果シテ如何、労働者ハ背ニ荷ヲノセル器ヲ負ヒ之ニ重荷ヲノセテ運搬ス、水桶ノ天秤棒モ亦背ニテ支ユ、女ハ頭上ニ荷ヲノセル、上等ノ女ハ青キカツギヲ以テ全身ヲ被ヒ面ノ半部丈ヲ出ス、労働者ハ日本人ガヨボヨボト呼ヘハ直ニ来リ従順ニ使役セラル、以上ハ実見ノ事実、去テ通人ノ話ヲ聞クニ大臣ハ賄賂ヲ取ルニアクソクトシ、国王ハ悪銭ノ鋳造ニ力メ□ヲ自ラ《(欠字)》行ヒ、以テ万機朕ノ手ニ在リトテ打喜ビ国宝ヲ売テ我財布ノ充ツルヲ喜ブ、而シテ京仁鉄道ノ開業式ノ如キハ之ニ乗レハ仁川ヨリ直ニ日本軍艦ニ収容セラレテ日本ニ囚送セラレン事ヲ恐レテ来ルヲコバミ、又夜起キテ昼間イネ、為ニ京仁鉄道ハ其通行毎ニ安眠ヲ妨害セラルヽト号シ不平ヲ唱フト、実ニ憐ムニ堪ヘンヤ、又京仁間鉄道ノ左右ニ見ル処ノ村落ノ如キ皆土造ワラ葺矮屋燕巣ヲ並列スル如ク、其形、其大皆均一、何故此クノ如ク貧富否貧々均一スルヤ蓋シ一頭地ヲ抜テ財産ヲ貯フレハ其金穀ト山林等ノ如キヲ問ハス官吏ニ没収サルヽヲ以テ只其日ノ生活ヲナシ得ルヲ程度トシ年来ノ習慣ニテ之ニ甘ンズルニ至レリト、上下ノ状況此ノ如シ、実ニ亡国ノ兆顕然タリ、可憐ト云フモ愚ナラズヤ、然カレトモ韓人ハ教育スレハ一人前ノ人間トナル、即チ第一銀行出張所ノ李某ノ如キ早稲田専門学校出身ニシテ能ク日本語ト普通学ニ通シ今ハ行員トシテ普通ノ業務ニナレタリト、此一例ヲ以テ全然無望ノ民ニアラス、其之ヲ改善スルノ途如何曰ク国政ヲ改良スル是ノミ、之ヲナスハ外部ノ刺撃ニマツノ外ナシ、日人ノ移住植民ノ必要ハ実ニ刺撃力ヲ益スノ一勢力也、我当局者宜シク渡航ヲ開放否奨励セサルヘケンヤ、夜深ク人静マリ沈思所感ヲ記ス今日信夫氏方ニテ紅蔘ノ見本ヲ見ル、大ハ一斤(百五十匁)四十五円ヨリ小ハ一斤二十円ニ至ル、実ニ朝鮮ノ第一産物ニシテ、産地ハ海城其製造ハ国家ノ専売ニシテ、特許者以外ノモノハ海外(支那)ニ輸出スル事ヲ禁セラルト
第一銀行出張所附属ニ分析所アリ、昨日一見ス、新築ハ未出来セス、仮普請ニ於テ岡技手担任ス、韓人ヨリ金塊買入ニ付テ品位見定ノ為ト傍ニハ韓人ノ依頼ニヨリ分析ヲナストノ目的ナリト
十一月八日 晴
朝ハ霧一帯ニカヽリシガ漸次霽レ軈テ快晴トナレリ、今日ハ暖ニシテ温度モ六十度位ナリシナランカ、朝七時過起キ、食事後公使館ニ至リ国分通訳官ニ面会シテ、昨夜閔丙奭氏ニ交渉ヲ乞ヒタル件ノ結果ヲ聞キ、夫ヨリ塩川通訳官ニ面会シテ皇室其他大官ヘ進物ノ手続ニ付テ協議ス、一旦旅宿巴城館ヘ帰リシニ恰モ不在中ニ田村大佐再来訪セラレシトノ事ニ付、直ニ同将軍ノ宅ヲ訪フ、巴城館ノ裏手ニ当ル丘腹ニアリ、朝鮮家屋ヲ手入シタル住居ニシテ其応接室椅子ノ間ノ如キモ実ニ質素極マルモノナリ、凡ソ一時間計閑話ス、同将軍ハ中々評判ヨキ由ニテ蓋シ凡テノ人々ニ対シテ書生風ニ交際スルニ依ルナリ、又一方ニハ沈着ニシテ大局ニ目ノ届ク点ニモ依ルナラン、対韓問題・対魯問題
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等ニ対シ中々面白キ話アリ、同将軍ハ頻リニ我日本ノ政策トシテハ第一着手ニ猫モ杓子モドシドシ奨励シテ玆ニ移住セシムルノ利益ヲ主張セラル、大ニ予ノ意ヲ得タルノ議論ナリ
午食後青淵先生ノ命ニ依リ京城停車場ニ至リ、谷口・古津等ト来ル十日開業式当日ノ順序方法ニ付キ評議シ、詳細ナル一案ヲ作リテ帰館シテ認可ヲ得、足立氏ニモ面会シテ同意ヲ得タリ、足立氏ハ其器或ハ大ニ過クルト云ハンカ、公使・領事、其他大江・大三輪等ト衝突シタル為万事手都合ニ行違ヲ生シタル廉々多カリシガ、社長来着後一体ノ感情モ融和シ、従来ノ防害的行動ヲ去リシノミナラズ、進ンデ京城居留民一統ヨリ芸者ノ手踊、酌婦乃至手品等ノ余興ヲ寄付スルニ至ル、誠ニ好都合ナリ
夕刻大山卯次郎氏来訪ノ処予ハ田村将軍宅ヘ招カレ居ルニ付、乍遺憾暫時ニシテ氏ヲ謝シ和服ニ改メテ右田村氏方ニ至ル、同席者ハ信夫・塩川・中島及西川通徹氏ニシテ、畳ヲ布キタル朝鮮室ニ案内、下ニハオンドルヲ焚キアル由ニテ中々快キ工合也、但朝鮮室ノ事故七畳計リノ細長キ部屋ニシテ天井モ低ク至テ小ナリ、日本料理品々馳走セラレ芸者一名来ル、宴ノ前一席将軍ト碁ヲ囲ム、ヘボノ予尚且将軍ニ勝チ大笑トナレリ、来会者皆遠慮ナキ間柄ニシテ打とけ話ニ時ヲ移ス、宴央ハノ頃巴城館ヨリ使アリ、曰ク、京仁鉄道開業式延期トナリシニ付要事アリ可成早ク帰レト、依テ十時乍遺憾辞シテ帰ル
京仁開業式即十日ハ朝鮮招魂祭当日ニテ韓客一統差支ノ事漸ク昨今ニ分リ(迂濶ノ事也)シニ付、昨日来国分書記官ニ依頼シテ差繰リ来会ヲ説カシメシモ其効ナキニ付、無拠十二日ニ延期スルコトト決断セラレシ由ニシテ、急ニ来会中ノ峰尾・柴田・林田(商業会議所ノ理事)・古田・原田諸氏ヲ労シテ延期ノ通知状印刷、余興・料理店ヘノ照会等夫々手順ヲフミタル由、如何ニモ不体裁ノ事ナレトモ拠ナシ
予ハ此ノ如ク連日多忙ニシテ未タ充分見物散策ナトノ暇ナキハ遺憾ナリ、今日モ停車場ヘ往復ノ途次頻リニ感スルハ朝鮮人街頭ニ長煙管ヲ含ミナガラ用モナキニブラブラ漫歩スルモノ非常ニ多ク、如何ニモ暇人《ヒマ》ノ集合地ト見ユルナリ、亡国或ハ止ムヲ得ザランカ、兵隊巡査等ハ身ナリハ我国風ニ傚フモ其歩行中ノ行儀姿勢ハ同日ノ談ニ非ス、本日ハ当国ノ紀元節ノ由ニシテ予ガ通行ノ際丁度現王宮大安門ニ向テ大官ノ集マル処ナリキ、彼等ハ輿ニ乗ルモ武官ハ盛装シテ徒歩ス、其有様我国風ニ摸スト雖トモ其姿勢ニ於テハ天地ノ差アリ
朝鮮ニ烏ナシ、鵲アリ、胸白ク烏ヨリ小也
牛ハ大ニシテ大八車ヲ引キ、又荷ヲ背負フ、馬ハ小ニシテ兎馬ノ如シ荷ヲ付ケチンカラカラト早足ニテ歩ム、但体ノ小ナル割合ニハ力ハ強シトノ事
此日青淵先生ハ午後アーレン氏ヲ第一銀行ノ応接室ニ接見シ、夕刻大江・大三輪ト公使館ニ林公使ヲ訪ハル、蓋シ京釜鉄道ノ用向ナラン
十一月九日 快晴
本日快晴且暖ナリ、午前七時半起キ出テ京仁鉄道開業式延期通知状発送ニ付柴田・足立・古田・小山・林田・園田・中島諸氏ト共ニ尽力ス本日ハ兼テ公使館ノ尽力ニ依リ王宮ノ拝観ヲ許ルサレシニ依リ以上用
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事済ムヲ待チ午後一時半元治氏・竹内氏等ト共ニ人力車ニテ巴城館ヲ出テヽ新王城(慶福宮)ニ向フ、今日ハ半日足ラズトナリシニ付新王城ノミノ見物ニ留ムル積ニナシタルナリ
王城ノ正門ヲ光化門ト云フ、二層楼ニシテ壮大彫刻ヲ加フ、日光ニ比シテ凡テ粗造ナルモノナリ、慶福宮地ノ四周ハ四角形ノ御影石ヲ煉瓦ノ如クニ積ミ、高サ数丈厳重ノ構ヘナリ、正門外ハ広小路ニシテ両側ニ各省衙門並フ、門及左右ノ長屋ハ日本ノ大名屋敷ニ略同シ、但長屋ハ一平家ニシテ奥行ハ一間半位ト見ユ
前記各衙門ノ建築ハ朝鮮トシテハ立派ニシテ民人ノ住居ト相違スル事大也、況ンヤ慶福宮ノ如キ各殿閣ノ建設ハ大院君ガ民ノ膏血ヲ絞テナセシ処ニシテ其壮大ハ驚クニ堪ユ、人民ノ頭上ラズ貧ニ居リ愚ニ安ンズル亦理由アリト云フベシ、而シテ一面官人ト雖トモ国風トシテ十三四才ニナレバ早ク婚姻シ、女ハ年上ナルヲ常トス、故ニ夫稍長スル頃ハ婦已ニ老フ、故ニ若年ノ妾ヲ蓄フ、此クノ如クニシテ夫タルモノ皆身体弱、精神衰フ、上下国風ノ沈衰スル実ニ故アリト云フヘキナリ
偖左ニ新王城拝観ノ光景ヲ述ヘンニ、新王城ハ先年王妃殺害ノトキ迄ノ王居ナル由ナルモ、今ハ殿閣ハ風雨及鳩等ノ糞ヲナスニ委シ、庭地ハ草蓬々タリ、番人王城内ニ数十百人アルモ皆長煙管ヲ以テ喫煙シ、ブラブラト遊息ス、可嘆光景也
側方ノ門ニ至リ、巡査ニ公使館ノ紹介状ヲ示ス、即二名ノ巡査一行ヲ案内ス、凡テ日本人ト見レハ唯々トシテ便宜ヲ計ルヲ常トスルモ、尚一層ノ便ヲ計ラシメン為メ各一人ニ韓貨弐十銭ヲ与フ、容易ニ受ケザリシモポツケツトニ入レ遣ハシテ遂ニ甘受セリ、只表面上一応ノ辞退ヲナセシナラン、通弁ハ車夫(日本)ノ稍韓語ヲ解スルモノヲシテ之ニ当ラシメシモ、不完全ナリ、時々順査ト予及竹内ト筆談ヲ試ミ、各殿楼ノ縁因ヲ聞ク、楼名・閣名・門名等ハ皆額ニカケタリ、一目瞭然タリ、元治氏ハ頻リニ写真ヲ撮影ス
先ツ勤政殿ニ至ル、壮大ナル殿楼朱ヌリノ丸柱ヲ以テ作リ、日光ニ似テ其壁・天井等ノ作粗ナリ、二階普請ナレトモ殿内ハガランドウ、天井迄高サ凡ソ五丈、正面中央ニ御座処高ク設ケラル、三方ニ欄干及前ニ段階アリ、又此殿ノ前廊ハ石敷ニシテ石段ヲ下リ庭ハ一面石敷ナリ百官玆ニ坐シテ謁ヲ賜ハリシ処ナラン
思政殿・千秋殿・欽敬閣等ヲ見テ康寧殿ニ至ル、大ナル平家ニシテ王ノ居間ナリシト、棟去《(マヽ)》ラル中ニ入レハ広間アリ、其三周ニ小間十数アリ、皆八畳位ニシテ天井低シ、カヽル処ヘ靴・下駄等ノマヽ我々外人ノ蹂躙ニ委シテ𡛿マス可嘆哉
其後方ニ交泰殿アリ、前者ニ似テ稍小ナリ、王妃ノ居間ナリシト、又其後方ニ庭アリ、石壇三・四段其間ニ植木及飾付オンドル煙突アリ
更ニ行ク事若干ニシテ池アリ、乾清宮池ト云フ、ソリ橋(酔香橋)ヲ渡リテ香遠亭ニ至ルヘシ、亭ハ八角ノ二層楼ナリ、池ノ四周ニハ松樹其他ノ樹木アリ、一寸庭形チヲナス
池ノ後方ニ乾清宮アリ、中ニ玉壷楼ナドノ額アリ、乙未ノ変、王妣交泰殿ヨリ逃レテ乾清宮ノ一室ニ入リ玆ニ斬殺サルト、今尚宦官数人此室ニ番ヲナス、今ハ床其他ヲ取リ換ヘタルヲ以テ、血痕ヲ存セズト云
 - 第25巻 p.31 -ページ画像 
フ、而シテ王妃ノ屍ハ一旦宮池ノ一端ニ投シテ更ニ之ヲ引出シテ宮ノ右方一門ヲ出テヽ其外ニアル松林ノ中ニ持来リ、石油ヲ被ラシメテ焚去シタリト、其惨不可云、日韓国ヲ交ヘテ考フレハ果シテ如何ノ感ヲカナス、思ハス栗然タリ
其後方更ニ洋館アリ、今ハ宝物ヲ貯蔵スルノ庫也ト、其回廊ノ敷瓦四角形ノモノ一部毀レテ一片脱委スルモノアリ、車夫ニ命シテ持去ラシメントス、老年ノ巡査ハ見ヌフリセシモ若年ノ巡査頻リニ之ヲ制スルモノヽ如ク喃々タリ、依テ予ハ日本人ノ体面ヲ汚サン事ヲ恐レ、車夫ニ命シテ断念セシム、一方ニ予ハ朝鮮亦人アルヲ賞セリ、後ニテ車夫曰ク、若巡査ハ私カニ持去ラルヽハ差支ナキモ、只己レ案内スル以上若シ此事上官ニ発見セラルヽトキハ己レノ身ニ罪ヲ被ムルガツラサニ己レノ哀願ニ免シテ断念セラレタシト云フニ在リシト、玆ニ至テ予ハ矢張朝鮮亡国ノ看念ヲ増シタリキ
夫ヨリ観文閣、集玉斎等ヲ見、更ニ転シテ最初ノ勤政殿ノ前ニ来リ、右ニ門ヲ入リテ修政殿ニ至ル、殿ハ内部洋風ノ間取トナス、陛下出御群臣ト政ヲ議シ、且外国人等ニ謁ヲ賜フノ処ナリシト、其後方ニ大ナル四角形ノ蓮池アリ、其中央ニ四角形ノ大楼アリ、度会楼ト称ス、大理石ノ柱(三尺四方)立ツ事四十八本、階下ハタヽキトナシ、階上ハ数室アリ、壮大ニシテ大伽藍ノ如シ、但今ハ鳩ノ巣食ヒ糞ヲ積ムニ委ネタリ、此大理石ノ柱ノ楼ハ実ニ宮域中最大ノ見物ニシテ、如何ニシテ此成功ヲナセシカヲ疑フニ堪ヘタリ
右ニテ慶運宮ノ拝見ヲ終ル、時ニ午下四点鐘、即帰路ニ就キ、大理石(実ハ寒水石ノ如シ)ノ塔ヲ見ル、塔ハ鐘楼ノ近傍ニシテ東大門大通リヨリ少シク入リシ処ニ在リ、十五階ニシテ各階皆精巧ナル仏像ノ彫刻ヲナス、内最上ノ三階ハ加藤清正征韓ノトキ取リオロシ日本ニ持去ラントシテ遂ゲズトノ言伝ニシテ、今現ニ其傍ニ安置セリ、塔ノ四囲ハ韓民ノ家屋焼ケ今広場タリ、追テ公園トナス計画ナリト、傍ニアル亀ノ塔ヲ見、帰路鐘楼ノ傍ヲ通リ帰宿ス
本日午後五時ヨリ掬翠楼ニ於テ第二回ノ第一銀行ノ宴会アリ、韓庭大臣十人(外ニ正安君李載純(皇族)アリ)日本公使・領事初両館員、将校其他ニテ五十余人、頭取一応ノ挨拶ヲナシ、次ニ尾高氏満座ニ向テ予及古田氏ヲ紹介ス、酒三行ノ後、芸者ノ手踊ハ甚句・カツポレ・壮士歌ニ至ル迄大騒ヲナシ来賓大満足ノ体、タシカニ日韓親交ノ媒介トナルベシ、醜業婦デモ何デモ大ニ輸入スヘキトノ議論亦劣等国ニ対シテハ一理アリト云フヘシ、兎モ角外国ノ帝都ニ於テ其国ノ人ヲマネクニ料理屋カラ芸妓カラ食物カラ皆日本風ノモノヲ以テ其国ノ人ヲモ招キ其国ノ人亦喜デ一夕ノ歓ヲ尽スハ外人ノ身トシテ愉快ナラズヤ、本日ハ公使館員、領事館(三増領事ニモ本日初面会)員、予ノ知己多ク好都合ナリキ、本日ハ李載純氏一場ノ演説ヲナシ、且日本万歳ヲ唱フ、曲圏局技師韓人劉漢容之《(マヽ)》ヲ和訳ス、又頭取ノ挨拶ノ辞ハ峰尾氏之ヲ通訳セリ、予ハ九時半帰リ此日記ヲ認ム、終リシハ如例夜半十二時半
本日ハ予ガ結婚後満二年ノ大吉紀念日也、図ラズ遠ク京城ニ於テ此日ヲ過ゴシ遥ニ故国ノ天ヲ眺メテ回顧セリ
十一月十日 朝 暖
 - 第25巻 p.32 -ページ画像 
此日快晴、寒ナク実ニ暖気ナリ、屋外ニ出ツルニ外套ヲ用ヒズシテ可気温ハ六十度以上位ナラン乎
稷山金礦技術長前川工学士今暁工科大学助教授井上子ト共ニ稷山ヨリ出京ニ付、午前ノ内ハ古田氏及予モ同席男爵ト面会、同金礦調査ノ現況及ヒ将来ノ方針ニ就テ協議ス、彼是ニテ予ハ多忙ニ付外出ヲ得ズ
午後一時領事館舎ニ至リ信夫惇平氏ヲ訪ヒ快談二時間、妻君出テヽ接待頗外交官ノ妻君タル資格ヲ供ヘタリ、帰路一寸大山卯次郎氏ヲ訪ヒシモ不在也、其帰路理髪店ニ至リ理髪ス、所謂床屋文学ト云フ事アレトモ予ハ床屋ノ観察談ヲ聞ケリ、曰ク年々居留地ノ進歩、人口ノ繁昌金回リ悪クナキ事、曰ク地価五十円位、屋賃四十円(床屋ノ)理髪賃ハ二十五銭(東京ノ倍也)此クノ如クニシテ凡ソ一時間、理髪中モ或意味ニ於テハ視察ト云フヲ得ヘキ時間ノ利用ヲナシ、五時過帰宿
今夜七時半、清安君即李載純ヨリ男爵始随員一統ヲ其居邸ニ案内セラル、予モ其末席ニ列シテ朝鮮皇族(今ハ副将)ニ招待セラル、所謂大ナル光栄ト信シ、勇ミテ一行ト共ニ七時車ニテ宿ヲ出ツ、泥峴ヨリ朝鮮町ニ出テ道ハ巾広キ処アリセマキ所アリ、人家ハ見ルニ堪エズ、且不潔ナリ、悪臭モ紛々タリ、夜故人民ノ途上ニブラブラスルモノ少シト雖トモ全ク無人ノ境ニ非ス、彼等ハ手ニ角形ノ小提灯或ハ麻ニテ張リタル大提灯ヲ垂ル、処々朝鮮兵剣附鉄砲ニテ佇立スルハ何トナク剣呑ナル思アリ、彼等ハ併シ皆気慨ナキ柔弱奴ナリ、故ニ日本人ニ対シ聊ノ不礼ナキハ他ノ人民ガ我国人ニ対スルト同一ナルハ国風トハ云ヘ国ノ為ニ嘆スベシ、予ノ車夫殊更ニ途上ノ韓人ニ衝当ルモ韓人ハ驚テ避クルナリ、之ヲ吾国ノ風習ニ比スル双方極端ト云フベキナリ
清安君ノ宅ハ東大門ノ大通リ、鐘楼ノ先キノ方、往来ヨリセマキ小路ヲ入リテ達スヘシ、門アリ大名長屋門ニ似テ規摸小、構造粗且不潔ナリ、門ヲ入リ更ニ小門ヲ入レハ四角形ノハキ庭アリ、椽側ノ段ヲ上レハ直ニ応接室ナリ、八畳三間ヲ打ヌキタル位ニシテ、応接室モ外套帽子ノ置場モ同ジ一間也、之レガ皇族ノ応接間也、林公使・山座書記官国分書記官・塩川通訳官・大江・大三輪二氏一座セリ、当方ハ男爵始市原・尾高・元治及予ニシテ主人世安君始メ閔丙奭・朴斎純・金永準等同席セリ、葉巻煙草・ベルモツト等ノ接待ニテ手狭ノ一室ニクスブル事一時間、更ニ庭ニ出テ又別ノ室ニ入ル、玆ハ食堂ニシテ矢張リ八畳ノ間四室位ヲウチヌキシナリ、天井低キ事ハ例ノ通リ也、食事ハ宮内部大膳職ニ命シタル洋食ニシテ稍食フニ足ル、献立ハ立派ナリ、ボーイハ矢張白衣戴冠ノ人、袖バクバクシテ酒ヲ注グ毎ニパン・皿ノ上ヲコスリ気持悪シ国分・塩川二氏日韓人間ノ通訳ヲナセリ 山座書記官最モ快濶カイギヤクノ語ヲ弄シ、軽蔑的ノ戯ヲ云フ、世安君最モ之ニ対シテ妙答ヲ与ヘ敢テ怒ラズ、山座ニ限ラズ日本人ハ凡テ悪口ヲ軽蔑的ニイヘリ、猥セツノ話モ敢テ辞スル処ニアラズ、大江氏ノ如キハ世安君ニ向ヒ朝鮮ノ夫人モ矢張焼持ヲ焼キマスカナドヽ問ヲ起セリ、世安君最喜テ之ニ応答セリ、キーサンノ話ナドモ盛ニ出デ、又世安君ハ昨夜第一銀行ノ宴会ニテ久シ振リ日本ゲイシヤヲ見テ喜ビタリナドヽ憶面ナク話シタル位ナリ、朝鮮人ハ凡ベテ酒量可驚、シヤンパンノ盃ヲ挙ケテ相向ヒテ速ニノミホスコト実ニ驚クニ堪フ、当方ハ山座氏稍々之ニ応シ得タル位
 - 第25巻 p.33 -ページ画像 
ニ過ギズ、要スルニ韓人ノ如才ナク辞令ニタクミナルハ妙処ニシテ、到底日人ノ及ブ処ニアラズ、乍憚気慨トモ云フヘキモノハ少シモ見エザルハ国勢ノ衰フル所以ナラン
食事畢リ、更ニ前ノ応接室ニ帰リ、玆ニテ又シヤンパン始マリ、予等男爵ノ助勢ヲナシ頗酩酊セリ、一同十時辞シテ帰リ休ム
皇族ノ邸宅人ヲ招キ便所ノ備ヘナシ、予ハ庭ニ下リ小便ヲナス、会々夜番回リ来ル少シモアヤシムノ気色ナシ、一般ノ風習ナレバナラン
此日午后東京宿許ヨリ第一回ノ音信ニ接シ一同無事殊ニ鄰子益壮健ノ報ヲ得、旅中ノ愉快何ゾ之ニ過ギタルモノアラン
其他篤二殿・樹次郎・桂・松平諸氏ヨリモ郵便入手、何レノ処モ異状ナキ由ヲ承知シ安心セリ
十一月十一日 朝 大ニ寒シ 日曜
此日西風吹キ大ニ寒シ、昨日ノ暖ト比シ蓋シ十四・五度ノ差アラン、多分四十二・三度位ノモノナランカ、初メテ京城ノ寒サヲ知レリ、先ツ東京ノ厳冬ト同シ
午前ハ古田・前川諸氏ノ韓山《(稷カ)》ニ関スル要談アリテ、尾高氏ト共ニ第一銀行応接室ニテ会談今日元治氏等ハ旧王城ヲ見物セシモ予ハ多忙ノ為其意ヲ果サヾリシハ遺憾ナリ
午後ハ少閑アリ、市原・尾高・原田三氏ト倶楽部ニ至リ、玉二番ヲ試ム、市原・原田氏ハ秀テヽ稍相同シク、尾高氏ト予トハ劣リテ亦稍同等ナリ
本夕ハ男爵一行ニ韓国皇帝陛下謁見及晩餐ヲ賜ハルベク公使館ヨリ達アリシニ付、男爵ハ朝鮮輿ニテ、足立氏・市原氏・尾高氏及予ハ人力車ニテ午後六時前林公使(輿)ニ従ヒ参内ス、予モ男爵ノ余光ヲ持テ一国ノ皇上ニ拝謁スルヲ得ハ、仮令世界最劣等国ノ朝鮮トハ云ヘ光栄ノ至ナリ、男爵ハ大礼服、以下ハ皆燕尾服ナリ
現王宮ハ即大安門ヲ正門トスル所ノ慶尚宮ニシテ、其裏門然タル処ヨリ入リ、更ニ小門一ヲ過ギテ車ヲ下リ、更ニ一小門ヲ入リ、怪シキ玄関ヲ入レハ直ニ応接室ナリ、畳十二・三畳位カト思ハル、一小室ニ大勢ツメ込ミ丸デ香ノ物ヲ漬ケタルカ如シ、宮内・外部・大蔵諸大臣応接ス、大江・大三輪諸氏モ食事丈ニ招カレシ由ニテ来会セリ応接室ハ朝鮮室ニ椅子・卓及ストーブヲ置キシ箪笥不堪見モノナリ
六時半ト思フ頃案内セラレテ謁見処ニ入ル、応接室ヨリ廊ヲ通リテ次ノ間ニ出テ、更ニ扉ヲ入レハ謁見所ナリ、広サ十五・六畳位、粗末ナル西洋間ナリ、正面ハ少シク高クナシ卓ノ前ニ皇帝已ニ在リ、其向テ左ニ皇太子・宮内大臣及属員内官等アリ
林公使以下順次入リテ立礼ヲナシ、最後ニ草莽ノ陪臣タル予モ亦同様皇帝ト皇太子トニ立礼ヲナシテ、然ル後左ノ如ク位置ヲ定メテ正立セリ、皇帝ハニコニコシタル肥満ノ四十八・九ノ御方ニシテ、容貌・態
ストーブ タンス 王 卓 太子 宮内 属 林 国分 渋 山 外 足 市 尾 八 務 廊下 ストーブ カゞミ
 - 第25巻 p.34 -ページ画像 
度・姿勢・言語凡ヘテ威厳ナク、高尚ナ処ナク、結局モツタイナキ感ジハ少シモ起ラズ
皇帝ハ黄色ノ服ヲ着ケタリ、其両肩ト胸トニ七・八寸径ノ円形ノ竜ノモヨウアリ、頭ニハ冠ヲ戴キ胸ニ日本勲章二ツヲ著ク、皇太子ハ紅色ノ服ニシテ他ハ同シ、但日本勲章ハ一ツ也
尚前図ノ人名(日本)ヲ列記スレハ如左
              全権公使      林権助
              二等書記官(通訳) 国分象太郎
                        渋沢栄一
              一等書記官     山座円次郎
                        足立太郎
                        市原盛宏
                        尾高次郎
                        八十島親徳
国王ト御対面中談話ノ要領如左、凡テ国分書記官双方ノ間ニアリテ之ヲ通訳セリ
○林 此度渋沢入京ニ付特ニ謁見ヲ賜ハリシハ外臣等ノ幸栄トスル所ナリ
○王 渋沢過日入京ト聞キシニ最早近々帰途ニ着クベシトハ遺憾也、責メテ一月モ滞在セラルレバ好都合ナルニ
○渋 一昨年入京拝謁ノ栄ヲ見、今又再謁見ヲ許サル、何ノ光栄カ之ニ如カン、且今天顔ニ咫尺シテ其御健康ヲ拝ス、恐悦至極也、多忙ノ為滞在ノ時日短少ナルハ予モ亦遺憾トスル所ナリ
○王 予モ汝ノ健康ヲ見ル愉快ノ至ナリ、一昨年入京セシハ其何月ナリシカ
○渋 六月八日ナリシ
○王 其後ハ国内ニノミアリシヤ、外国ヘハ行カザリシカ
○渋 御意ノ如ク業務多忙ノ為国内ニ留マリテ尽瘁シ少シモ外国ヘハ旅行セザリシ、一昨年渡来ノ節工事中ニアリシ京仁鉄道モ本年ハ工事完成、業務ヲ開始シ、已ニ此度ハ渡来シテ明日開業式ヲ挙ケントスルニ至リシハ必竟陛下ノ御庇蔭ニ依ル次第ニシテ厚謝スル所、明日ノ開業式ニハ御臨幸ヲ乞ヒ度ナレトモ、寒天中却テ恐入ルニ付態ト差扣ヘタリ、願クハ宮中及政府ノ大官及侍臣各位ニハ力メテ参会セラルヽ様御下示アラン事ヲ
○王 京仁鉄道ノ開通セシハ実ニ満足ノ至ナリ、鉄道ハ文明ノ利器ニシテ将来益発達セン事ヲ望ム、庇蔭ニ力ムル如キハ当然ノ事也将来トテモ出来得ル限リ便宜ヲ与フベシ、安心セヨ、明日ノ開業式ニハ自ラ臨ミ度ナレトモ、少々風邪ニ付不本意乍ラ其義ヲナサズ、百官ニハ皆参同スヘキ旨下示セリ、一同必欣然参列スベシ、前ニモ述ヘシ如ク京仁ノ開業ハ実ニ予ノ満足スル所ナルヲ以テ、開業式ノ前一夜晩餐ヲ与ヘント欲シ、其故時刻ノ関係上謁見モ此ク夕刻トナシタルナリ
○渋 恐謝無辞、陛下ノ御料トシテ玉車一輛ヲ造リシカ、明日ハ式場ニ出シ大官ノ観覧ニ供スベシ
 - 第25巻 p.35 -ページ画像 
○王 実ニ満足ノ至ナリ
○渋 京釜鉄道モ計画漸ク熟シ近々工事ニモ着手セントス、之レ亦御厚護ヲ乞フ
○王 素ヨリ出来得ル限リ保護ヲ与フベシ、安心セヨ
○渋 誠ニ思召ノ程深ク謝シ奉ル、尚一事申上度ハ、第一銀行モ二十年来御国ニ支店ヲ出シ、爾来業務年ヲ逐フテ進歩スルヲ見ルハ必竟御保庇ニ基ク次第ト深ク感謝セリ、将来トテモ不相変御庇蔭ニ浴シ度シ、尚御便宜ハ充分計リ可申ニ付御所望ノ件有之候節ハ御侍臣ヨリ係員ヘ御遠慮ナク御通シアリタシ
○王 了承セリ、将来是亦同様庇護スヘシ、同行ノ我国ノ為ニ常ニ便益ヲ謀リ呉ルハ満足スル所ナリ
○林 外臣ニ対シ謁見ヲ賜フサヘアルニカク優渥ナル御玉話ヲ拝シ、尚又晩餐ヲモ賜ハルヽハ実ニ恐懼恐謝ニ堪ヘザル所也
 林公使ハ之ニテ辞出セン考ト見エタルガ、国王ハ尚モ語ヲ次ギ
○王 北清事件モ一段落ハ告ケシ由ナルモ、尚大事未治ラザル場合ナリ、願クハ東亜ニ国ヲ隣ルノ日韓ハ益親交ヲ加ヘ両々相俟テ其昌運ヲ期セン事ヲ乞フ
○渋 御仰ノ通
○王 渋沢ハ次回ハイツ来航ノ積ナルヤ
○渋 明年又ハ明後年再来スベシ
○王 中々待遠シキ事也、可成早ク再来セヨ、此次ハ少シハ緩々一月位モ滞留セヨ、汝ノ壮健ヲイノル
○渋 恐懼奉謝ノ至、願クハ陛下ノ万々歳ナラン事ヲ
○林 段々ノ御優語奉謝仕ル
右ニテ謁見ヲ終リ、林公使ヨリ順次前ニ進ミ敬礼シテ退出ス、足立氏ノ退ク頃国分氏ニ鉄道ノ人カト御尋アリシト
要スルニ陛下ハ極々お人ノヨイ方ニシテ中々如才ナキ交際上手ナリ、朝鮮ハ一体ノ国人モ国ニ法律モ整ハズ凡テ権利ヲ伸バシ理屈ヲ云フモ其目的ヲ達スル機関ナキ故只弁解的ニ上手ニ愛敬ヲ以テ談笑辞令ヲ巧ニシ人ノ甘心ヲ得ルニ秀ヅルナラン、国王ノ如キモ事大主義ニシテ昔ハ支那ニ事ヘ、其後ハ魯ニ親ミ、日本ニ交リ、米国ニ倚ル等常ニ日和ヲ見テモノヲスルニ傾ク故自然如此お人ヨシニナリ玉ヒシナランカ
右謁見終リテ退出シ、元ノ応接ニ帰リ暫クシテ食堂ニ案内セラル、食堂ハ応接室ヨリ廊下ヲ通リテ直ニ達スヘシ、八畳ノ間ヲ四ツ打貫キタル位、是亦天井(タルキ見ユ)ノ低キ朝鮮家屋ヲ西洋風ニシタルモノニシテ、処々字又画ノ屏風ヲ備フ、要スルニ堂々タル王居ノ観ナク田舎ノ庄屋ノ家ヘ招カレタル位ノ心地タリ(応接室ト云ヒ謁見処ト云ヒ食堂ト云ヒ)但食事ハ西洋食ニシテ中々美味ナリシ、灯火ハ釣ランプ及西洋ローソク也
着席ノ順次如左 ○第三六頁
閔種黙及ヒ成岐運ハ痩セタル愛敬ナキ田舎漢然タルモノ、朴斎純之ニ次ギ、閔丙奭ハ就中肥満且快活ニシテ山座書記官ト共ニ常ニ戯言ヲ交ユ、但昨夜ノ清安君(李載純)ハ又其上手ニシテ徹頭徹尾カイギヤクニシテ快活ノ好漢也、穂積重穎氏ニ似テ尚肥満シタル容貌ナリ、今夜
 - 第25巻 p.36 -ページ画像 
宮内大臣○閔種黙 ○渋沢男 ○国分書記官 ○尾高次郎 ○宮内府属某(日語ヲ解ス) ○市原盛宏 ○大江卓○大蔵大臣兼鉄道院総裁閔丙奭 外部大臣○朴斎純 ○山座書記官 ○大三輪長兵衛 ○塩川通訳官 ○八十島親徳 ○足立太郎 ○鉄道院副総裁成岐運 ○林公使
ハ同君ハ参同セズ
山座書記官ヲ主トシテ日人ハ不相変軽蔑的ジヨウダンヲ以テ彼等ヲカラカヘリ、但彼等又辞令ニ巧ミナルモノウマク之ニ応答シテ圭角ヲ示サズ、劣等国ノ人程愍ムヘキモノナシ、但彼等ハ只巧ニ辞令ヲ弄シテ御茶ヲ濁スノ才アルノミナラズ蓋亦気慨ノ如キハ先天的ニ欠乏セルノ国民ナランカ、昨夜清安君邸ノ招宴ノトキノ如キモ三鞭ノ盃ヲ一呑ニ乾シテ倒マニシ、以テ雨傘々々《ウーサン》ト号シテ互ニ相示スノ習アリ、清安君ト山座氏最其好敵手ナリシガ、今夜ハ其話出テ、昨夜ハ余リ雨傘流行セシ故遂ニ帰路ノ頃雨天トナリシ、清安君ノ如キハモーコレカラ皇族ヲ止メテ泥峴《チンユカイ》(日本人居留地)ニデモ傘屋ヲ開ク方ガヨイナドヽ、山座氏ハ随分思キリタル悪ジヤレヲ弄セルモ、彼等ハ少シクモ怒ルノ色ヲ示サヾリシ
右食事終リテ余興トシテ官妓《キーサン》ノ踊ヲ示サル、余興室ハ先ノ謁見処ノ次ノ間ニシテ吾人ハ謁見ノ間ニ入リテ之ヲ見ル、一時間前ノ玉座ノ如キハ我々勝手ニ靴ノマヽ蹂躙ス、実ニ日本ナレバ大不敬ナレド朝鮮ニテハ一向カマワヌ事ト見エタリ
官妓ハ年十五・六ヨリ二十迄ノモノ二十人計リ出ツ、皆平安道農民ノ娘多ク毎年買出シニ行ク事日本ノ娼妓ノ如ク、宮中ノ抱エトナリ踊等ヲナスヲ本任トス、但随分官人ニ聘セラレテ玩弄セラルヽ事、恰日本ノ芸妓ノ如キ有様モアリト云フ
顔ハ最別品ヲ撰ミタルモノヽ由ナレトモ、我々日本人ニハ一向別品ト見エズ、広額低鼻ニシテ色ハ青白キ方、体格ハ小ナリ、髪ハ縄ノ如ク束ネ、タボノ処ヨリ更ニ上ニマキ上ゲ之ニ種々ノ飾リモノヲナシ、且八寸大ノ金火箸ノ如キモノヲ二本サス、頭ノ重キ事非常ナリト、名ハ明玉・桃紅・山月ノ如キ名ニシテ皆長方形ノ紙ニ之ヲ認メ膝ニ垂ル
皆筒袖ヲ着、胴以下バクバクシタルキモノナリ、紋リンズノ如キ地ナリ、踊ヲナス間ハ廊下ニハヤシ方アリ、太皷ト笛ニテドンドンブーブー鳴ラシ、且切リ毎ニ糸ニテ数枚ヲ綴リタル如キヒヨウシギノ如キモノヲナラセリ、踊ハ笛・太皷ニ合セ初メ大勢ニテ踊リ、間ダニ少々計リ歌ヲ歌フ、其調子ハ葬式ノトキノ読経ノ如シ、次ニハ衝立(上部ニ穴ノアキタルモノ)ヲ中間ニ置キ、二妓双方ニアリテ踊リ乍ラ玉ヲ穴ヲ通シテ投ス、通リタルモノハ作リ花ヲ頭ニサシ損ジタルモノハ顔ニ墨ヲヌラル、凡テ目ナドニハ何ノ作用モナク、足ノ先ノ作用ニ見処アリトノ事ナリ、中々珍敷シテ奇麗ナリキ、第三ニハ中央ニ箱ヲ置キ矢張二妓踊リ乍ラ玉ヲ之ニ投スル事前例ノ如シ、尚一・二ノ踊アリ、其
 - 第25巻 p.37 -ページ画像 
次ニハ四人ニテ剣舞ヲナス、両手ニ小剣ヲ持チフリテチヤランチヤランナラシ乍ラ踊リ回ルナリ、最後ニハ獅舞アリ、之ハ日本ノト事変リ、虎ノ如クシヽノ如ク、胴ハ絹糸ノ綴レノ如ク、顔ハ平ニシテ鼻低ク、目ハツブルトキアリ、其時ハマツゲニテフタヲナス、奇妙也、且尾ヲ振レリ、胴ノ中ニハ男二人ハイリテ働作スルモノニシテ、此獅舞ハ公使等モ初メテ見タル由ナリ
右終リテ退出セシハ午后十時、旅宿ニ帰リ此日記ヲ認ム、終リシハ夜半過一時ナリ、今夜往復実ニ寒ク東京ノ大寒中ノ如シ、但三寒四温ト云フ諺ノ如ク常ニ変化アル由ニ付又暖クナルナラントノ事
要スルニ今日ハ予モ実ニ拝謁賜宴ノ末席ニ列スルノ光栄ヲ得タルハ望外ノ幸福トスル所ナリ、即玆ニ詳記シテ後日ニ残ス所以ナリ
十一月十二日 快晴 風吹キ大ニ寒シ
此日ハ愈々京仁鉄道ノ開業式挙行ノ当日ニシテ、十一時前ヨリ京城停車場ニ至ル、寒サハ実ニ甚シク朝ハ氷張リ手モカジカム許リナリシモ幸ニシテ快晴ナルヲ以テ正午十二時迄ニ式場ニ集ル来賓ハ韓国各大臣内官ヲ始メ我公使・領事、其他官民、各国公使・領事等六百名、社長総支配人以下我々ヲ始メ役員一同ニテ接待シ、玉車ニモ誘引シテ来賓ノ重ナル人々ニ拝観セシム
式場ハ停車場構内ニ方形ノ仮屋ヲ設ケ、青葉ヲ以テ内外ヲ装飾ス、又其外ニハアーチヲ設ケ(内外二ケ処ニ)韓日両国旗ヲ交叉シ題シテ迎賓門ト云フ、余興場ハ式場ノ傍其他五・六ケ処ニ設ケ、在京城日本芸妓ノ手踊、朝鮮軍楽、日本手品等アリ、又構外城壁ノ側空地ニハ朝鮮芝居(馬鹿囃ヒヨツトコ踊之如シ)餅蒔等ヲ設ケ、以テ韓人ノ群集無慮数万人ヲ吸集シテ牽制ス、此日韓人ノ弥次馬ハ京城住民ハ素ヨリ其他近在ヨリ泊リ掛ニテ出京セシモノ夥シト云フ
一時来賓ヲ式場ニ導キ、渋沢社長正面ノ壇上ニ上リテ式辞ヲ朗読シ、終リテ峰尾音三郎氏其韓訳文ヲ読ミ、続テ市原氏同シク英訳文ヲ朗読ス、次ニ鉄道院総裁閔丙奭氏祝辞ヲ朗読シ、同院属某之ヲ日文ニ通訳ス、之ニ続キテ足立総支配人工事報告ヲナシ、之ニテ式ヲ終リ来賓ヲ元ノ余興場ニ導ク、其間式場ニ立食ヲ準備シ、再ヒ玆ニ来賓ヲ導キ立食ヲ開始ス、立食ハ和洋取交ゼ、酒ハ日本及麦酒ヲソナヘ、日本芸妓客人間ニ斡旋ス、恰モ寒天ニ際シ何物モ氷ノ如クツメタクシテ食フニ堪エス、我公使林権助氏一場ノ食卓演説ヲナシ、終リテ韓国皇帝ノ万歳ヲ祝シ、衆之ニ和ス、続テ米公使アーレン氏京仁鉄道ノ万歳ヲ祝シ閔氏日本天皇陛下ノ万歳ヲ祝ス、立食終リテ尚余興場ニ於テ来賓歓ヲ尽シ、三時頃ヨリ散会セリ、玆ニ於テ兼テ京城ニ於ケル我官民中足立総支配人ニ対シ悪感ヲ抱クモノヽ彼是ト小妨害ヲ試ミタル開業式モ、渋沢男渡韓ト共ニ感情ヲ融和シ、而シテ本日ヲ以テ愈無事盛大ニ終リタルハ何ヨリノ幸慶ト云フベシ
予ト渋沢元治氏トハ此度渡韓ヲ好機トシ稷山金鉱地ノ実地ヲ荒増シ視察スル為メ、目下上京中ノ技師前川益次氏ト共ニ駄馬ニ跨リ明朝出発ノ予定ニ付、途中ノ食料補助トシテ鑵詰・パン類ノ用意、又ハ携帯衣類ノ準備等ニ従事ス
午後六時ヨリ大江氏ニ招カレ其宅ニ至ル、今夜ハ一行悉ク招カレシナ
 - 第25巻 p.38 -ページ画像 
ルモ男爵ハ稷山ヨリ上京中ノ前川技師・古田事務長及嘱托技師井上助教授ヲ掬翠楼ヘ招待セシ為メ不参、市原氏ハ風邪ト号シ是亦不参、予ト渋沢元治氏・竹内雄平氏ノ三人丈招ニ応シテ至ル、大江氏ハ韓人町韓人大官ノ邸ヲ売求《(買)》シ、手入ヲナシ京釜鉄道ノ事務所ヲ兼ネテ住居セラル、応接室・温突室等部屋数多シ《オンドル》、阿比留某外ニ此度京仁開業式臨場ノ為態々渡韓シタル鹿島岩蔵氏同席ス、饗応ハ朝鮮料理ニシテ十余ノ珍料理ヲ丼又ハ皿ニ盛リ机上ニ列シ銘々ノ小皿ニ取リテ食スルノ法ニシテ、何レモ心入レノ馳走ノ由ナレトモ、何分ニモニンニクノ臭気鼻ヲ衝クノト唐辛ヲ用ヒタル辛サニテ充分ニ味フノ勇気出デズ、只シンセン炉ト称シ寄セ鍋ノ如キモノニシテ素麺然タルモノナド交ゼ煮タルモノハ稍々口ニ叶ヒタリ、大江氏ハ此日ノ馳走トシテ朝鮮ノ官妓数名ヲ招キ斡旋セシメ、日本酒ノ酌ヲ始メ料理ノ取分ケ等皆彼女等ヲシテ取扱ハシム、例ノ扁平蒼白ノ顔色ニシテニンニクノ臭気ヲ添ユル女性ナレトモ、朝鮮ニテハ是等ヲ美人ト唱フルトゾ、朝鮮ノ歌ヲ歌ハシメ又アララン曲ト云フ俗歌ナド唱ハシメタレトモ、皆一律ニシテ敢テ妙味ヲ感ゼズ、食後温突室ヘ案内シ、其説明ヲセラル、温突丈ハ朝鮮人中貴賤貧富共一軒ノ家毎ニ必其装置アリ、貴人ハ別ニ薪ヲ焚キテユカノ下ニ火ヲ通シテ之ヲ温メ、賤民ハ炊事ノ火気ヲ導テユカ下ヲ通ス、中々愉快ナルモノニシテ慥ニ是レ丈ハ朝鮮ノ日本ニ勝レル処ト称スルヲ得ベシト思フ
明朝出発ノ用意モアレバ九時頃辞シテ巴城館ニ帰ル
今夜一書ヲ認メ、之ニ九・十・十一、三日間ノ日誌ヲ添ヘテ留守宅ニ発送ス

  稷山往復ノ紀行
十一月十三日 晴 暖
京城巴城館ニ於テ早起、天気晴レ且昨日ニ比シ大ニ暖和ナルハ仕合也匆々支度ヲナシ、襯衣其他小回リ用品・毛布及パン・鑵詰類ヲ荷物トシ、駄馬ニ附ケ其上ニ乗リ八時出立ス、元治氏及前川工学士皆如此、馬子朝鮮人一人ツヽ付属ス、外ニ通弁トシテ韓人夫金サバント云フモノヲ雇ヒ随従セシム、馬ハ小ニシテ驢馬ニ比シ稍々大ナリ、朝鮮ニ於テハ牛ハ何レモ大ナレトモ馬ハ皆此ノ如ク小ナリ
此ノ如キ支度ニテ八時巴城館ノ玄関ニテ男爵以下一行ニ送ラレ勇マシク出立ハシタレトモ、前途二日ノ行程二十里、滞在二日間ニ山々ヲ視察シ、又二日間馬背ニテ帰京セザレバ一行ト共ニ乗船帰国スル事出来ザル次第ナレハ、平素都会ニ住慣レシ元来ノ蒲柳ノ質、果シテ安全ニ目的ヲ果シ得ルヤ否ヤハ胸中ニ於テ聊心配セリ
巴城館ヨリ㞾峴ヲ通リ、南大門ヨリ門外路ニ出テシ頃ハ腰モ馬上ニ稍落付キ、左程落チソウニモナクナレリ、行ク事一時間、漢江ニ達シ、川原ノ沙上凡ソ二十町余、馬ヲ下リ渡舟ニテ馬ト共ニ川ヲ渡リ、夫ヨリ歩行スル事凡ソ一里、又馬背ニ上リ、十一時半果川駅《カチヨン》ニ達ス
果川ハ京城ヲ去ル事三里、一旅舎ニ入リ命シテ飯ヲ炊カシム(朝鮮ノ旅舎ハ必ス旅人ヲ見テ初メテ米ヲ洗ヒ釜ニ仕掛ルナリ)旅舎ハ不相変豚小屋同然、藁葺ノ泥屋ニシテ中ノ温突室ニ靴ノマヽ入リ跪座ス、四
 - 第25巻 p.39 -ページ画像 
足ノ膳ニ飯ヲ一丼之ニ下物三品ヲ添ヘテ出ス、何レモ臭ク且不潔ニシテ手ヲ付クルノ勇気サヘナシ、出立ノ当時、郷ニ入レハ郷ニ従フ鑵詰パン類等ノ必要アランヤト大言シタル元治工学士モ流石ニ箸取リ兼ネテ我々ト同ジクパント鑵詰ヲ主トシ、之ニ朝鮮飯(生卵ヲカケ)ヲ添ヘシノミ、然レトモ前川工学士ハ已ニナレ居ル由ニテ、味噌汁然タルモノヽ丼中ニ飯ヲ投シ真鍮ノ匕ニテ食ヒ、又朝鮮ノ漬物ナドヲ味フ事イト平気ナルハ感嘆セリ、食事ハ如此ニシテ終エタルモ、食後ニ茶ヲ飲ム事ヲ得ザルハ勿論清湯一盃ヲモ得ル事能ハザルニハ閉口セリ、之ハ意外ニシテ予等ハ水ヲモ湯ザマシヲモ携エザリケレバ無拠朝鮮ノ湯一杯ニ渇ヲ凌キタリ、其湯ト云フハ飯ヲ炊ギタル後其釜ニ水ヲ入レテ自ラ暖マリタル洗ヒ水ノ温マリタル如キモノニシテ、誠ニ胸ワルキモノナレトモ、渇ニハ代エラレズ目ヲ閉チテ一口二口呑ミ乾シケリ、其他馬ニ飼料ヲ与フルニモ時ヲ費シ、漸ク午後一時半又馬ニ跨リテ出立ス、凡ベテ二時間乗リテ半時間徒行スル如クニシテ行ク事トセリ、蓋シ馬ノミニテハ腰ヨリ腿ノ辺疲レ、又足ノミニテハ脚疲レルト雖トモ乗・歩之ヲ代ル代ルセハ稍疲ヲ減スルナリ、道凹凸又坂路ナキニ非スト雖トモ所謂公州街道ニシテ道路ヨク修マリ巾モ三・四間アリ、殊ニ水原ニ入ルノ前一里ヨリ道路ノ両側松樹・楊並栽セラレ且左右ノ田畠モヨク開ケ実ニ好景色ナリ、此松原ニ於テ鶴ノ数群列ヲナシテ飛翔スルヲ見ル、更ニ絶景ナリキ、水原ハ京城ヨリ七里、北門ニ入リ南門ヨリ出ツ、門ハ壮大京城ニ劣ラズ、古ヘ監察使ヲ置キシ処ノ由ニテ城壁モ立派ナレトモ、城内櫛比ノ家屋ハ皆不相変ノ豚小屋ノミニハアキレタリ、只城外山麓ニアル郡守ノ家ノミ瓦葺ナリト云フ
水原ヲ過クルトキ朝鮮巡査出テ来リテ誰何ス、前川工学士名刺ヲ出シテ其名ヲ告ケ、且内地通行免状ヲ示シテ通過スルヲ得タリ、水原ヲ過キ間モナク日暮レ、真黒ニナリ六時半大皇橋駅《タイハンキヨウ》ニ達シ、玆ニ一旅舎ヲ求メテ一泊スル事トセリ、大皇橋ハ京城ヲ去ル九里、朝鮮現王統ニ属スル古キ王ノ墳墓アル由ニシテ王様参詣セラルヽ事アリ、其為メ此処迄ノ道路ハ意外ニ宜シキナリト云フ
旅舎ハ実ニ不潔極マル陋屋ニシテ、一間《カン》ノ温突室ヲ我々三人ノ坐敷ト定メラル、蓋シ最上等ノ座敷ナリ、一間故方七尺計リ、高サ又之ニ協フ、床・天井・壁皆泥ヌリニシテ二方ニ小サキ入口(寧ロ穴ト云フ方当レリ)アリテ此処ヨリ出入シ、且食物等ヲ運ブ、床ノ上ニ御坐ヲ布キ且小サキブリキ製ノカンテラアルノミ、其他一ノ設備ナシ、壁ニハ所所ワレ目アリ、此処ヨリピンデイト唱フル寐台虫出テ来リ人ノ血ヲ吸フト云フ、斯ク殺風景ニシテ無残ナル一室ニ閉チ籠リ、先ツ食事ハ前ニ記シタル通ニシテ飯ノミヲ食ヒ、之ニ甘クモナキ鑵詰・鯛味噌・福神漬等ヲ添ヘ、釜ヲ洗ヒタル湯ニ咽ヲヌラシ、之ニテ夕食ヲ済マス、カンテラハクスブル故携フル所ノ西洋蝋ニ火ヲ点シテ灯火トセリ
小便ハスグ室外ノ庭先ニ垂レ流シニシテ、且又馬モ亦スグ傍ニ馬屋ニ繋キ、又馬子等ハ物置ノ如キ所ヘ着ノマヽニテ転ビ眠ル事平気也、之等ハ犬豚ト同居ナリ
食事モ終レバ別ニ仕様モナク今度ハ寝ル番トナレリ、即此泥造ノ一室ノ片隅ニ荷物ヲ片付ケ毛布ヲ布キ、三人打並ビカバンヲ枕トシ携フル
 - 第25巻 p.40 -ページ画像 
所ノドテラヲ上カケトシ、足ヲカヾメテ洋服ノ着ノミ着ノマヽニテ打臥セリ、稍アリテ頸筋・手首ノ辺ムヅムヅ痒シ、蓋シピンデイニ侵サレタルナリ、最早夜明ケタランカトマツチヲスリテ時計ヲ見レバカナシヤ未ダ十二時半、如此事三回漸ク四時ニ近シ、アヽウレシト三人思ハズ歓ビノ声ヲ揚ゲタリ、不断七時八時迄熟睡スル朝寐坊、夜半ヨリシテ夜明ノ晩キヲ嘆ズ、以テ推スニ足ランカ、真ニ戦争中ノ光景ナリ
十一月十四日 曇少雨
此ノ如クニシテ四時起キ出デシ頃ハ未タ真闇ニシテ雨サヘ降リ出テタレトモ直ニ馬ヲ後ニ従ヘ徒歩ニシテ出立ス、衣モ着タルマヽナリ、顔ヲ洗ハンニモ口ヲ漱ガンニモ水ナク湯ナク器ナシ、故ニ起キタルマヽ出立セリ、飯ハ次ノ駅ニテ食ハン計画ナレバ元ヨリ空腹ノマヽナリ
小便スルモ手ヲ洗フ事ヲ得ズ、大便所モ素ヨリナシ、幸ニモ今朝ハ我慢シテ出立セリ、如此設備ナル代ハリ旅舎ノ仕払ハ一飯二十銭ヲ払フノミ、部屋代モ全ク取ラズ、蓋シ飯ヲ食フ事ナケレバ一文モ要セスシテ宿泊シ得ルナリ(宿屋ニハ馬ノ飼料ヲ売ルノ利益アレバナリ)
大皇橋ヲ出テヽヨリ道小ナリ、七時半烏山洞《オオミジヤン》ニ着シ一旅舎ニテ朝飯ヲスマセ、夫ヨリ行ク事一里余、今迄ノ公州街道ヨリ左ニ折レテ安城街道ニ入ル、道益セマリ且山坂多ク(公州街道ニ添ヒテ朝鮮電信ヲ架ス但我軍用電信ハ他ノ道路ヲ通レリト云フ)且川ニ橋ナキニ至ル
沿道見ル処平地ハ悉ク田畠トナリ、我日本内地ノ光景ニ異ナルナシ、只耕ス事稍粗精ノ差アランカト思フノミ、山ハ松樹点々タルモノ多シ深山ハナシト雖トモ、亦兼テ想像セシ如ク絶対的ノ禿山ニモ非ス、杉ノ樹ハ全ク見ズ、山ニハ殆ンド松ノミニシテ、沿道ニハ楊・栗・樅等アリ
一ノ勾配最急ナル峠ヲ昇降シテ楊城《ヨンソン》ニ至リ、玆ニテ昼飯ヲ食フ事前例ノ如シ、今朝来我慢シタル大通モ終ニ辛抱シキレズ無拠庭先ノ一隅ニシヤガミテ之ヲナセシハ旅中ノ一滑稽ナリ、犬・豚ノ類直ニ来リテ之ヲナメ尽スト云フ、手ヲ洗ハントシテ水ヲ求ム、米ヲ洗フニ用ユルカメニ水ヲ入レ来ル、平気ナモノナリ、以テ一般ヲ知ルベシ
山坂漸ク多ケレトモ敢ヘテ険阻ト云フニ非ス、平地ニ出ズレバ不相変田モ畠モ先ヅ遺憾ナク漸ク開ケ鶴・雁ノ群ヲ見ル事多シ、或ハ田ニ下リ或ハ群飛ス、実ニ絶景、蓋シ内地ニ於テハ決シテ見ルベカラズ、只詩想・歌想ナキ我輩ヲシテ此佳光ヲ専ラニセシムルヲ憾ムノミ
夕四時安城(アンソン)ニ入リ郡守ノ居ル一邑ニシテ戸数モ多ク人口モ少カラズ、但皆不相変ノ泥土造リノ小屋ノミ、日本人福地辰蔵ナルモノ安城学校ト唱フル寺小屋ヲ経営シ、礦山ニハ縁故アル人ナリ、之ヲ尋玆ニテ昨朝以来初メテ一盃ノ茶ヲ喫ス、実ニ好味舌ヲ掬スヘシ
生徒ニ金七星ト云フチヨンガー(未婚者ト云フ事、少年ナリ)アリ、年十五、日本語ヲヨクシ語調内地人ト異ナラズ、我々ヲ敬遇スル事中中ニモ殊勝ナリ
安城ニテ已ニ黄昏ニ近シ、稷山郡保徳院即我々ノメザス所迄前途尚二里余、日没シ雨降リ道狭小ニシテ遂ニ左右前後ヲ弁ゼザルニ至ル、危険ナレバトテ馬ヨリ下リ歩ム、馬ハ小川ニ落チ馬子ハ泣キダス大騒ギナリ、西洋蝋ヲ荷物ヨリ出シテ点火シ道ヲ求レトモ得ズ、漸クニシテ
 - 第25巻 p.41 -ページ画像 
火光ヲタドリ人家ニ出デ、家人ニ提灯ヲ点シテ我々ノ一行ヲ保徳院マデ導カン事ヲ求ム、漸クニシテ家人之ニ応ジ二人案内者トシテ出テ来ル、如此ニシテ八時前漸ク保徳院ニ安着シホツト一息ヲツケリ
直ニ事務所向前川氏役宅ニ入リ小憩ノ後五右衛門布呂ニ入リ、夫ヨリ牛及雁等ノ馳走アリ、日本食事ヲナシ、其美味実ニ千金ノ価アリ
保徳院ハ山ト山トノ間、流レニ添ヒタル所ニシテ稷山郡中ノ一部落、我稷山金礦事務所ノアル所ナリ、道ノ両側即一側ハ山ニ沿ヒ、一側ハ河ニ沿ヒ、韓人ノ小屋五・六棟ヲ買ヒ、手入レヲナシテ事務所・役宅工夫部屋・物置ニナシタルモノニシテ、技師・事務長以下日本人四十人アリ、且微少乍ラ酒保モアリ、玆ニハ皆日本食事ヲナシテ生活セルナリ、前川氏ノ役宅ノ如キモ二間続キノ温突一室丈ニシテ実ニ簡単ナル生活ナリ、但シ中ヲ手入レヲナシ上下左右ヲ紙ニテハリ、且窓ヲ大キクシテ椅子等ヲハメシヲ以テ稍住フニ足ル、但シ便所ノ如キハ五・六間ヲ隔テヽ事務所ノ裏手、吹キ晒シノ処ニ設ケアリ、不便ヲ忍フ一同役員ノ勉強ハ大ニ其苦労ヲ察スヘキ所アリ
今夜事務所員葛原以下数人ニ一応面会シ、十一時迄前川氏等ト話シ、夫ヨリ藁ブトンノ上ニ快寝ス、オンドル室故毛布ヲ掛ケ、夫ニテ沢山ナリ
十一月十五日 晴
前川氏ノ仮宅ニテ早起、川ニ下リ顔ヲ洗フ、水清クシテ心地宜シ、水量ハ一秒時間五十立方尺位ノ見込ニシテ二百本ノスタンプヲ据フルニ適スト云フ、軈テ朝食後九時鞋装ニテ坑穴巡リニ立出ヅ、一行ハ前田氏・渋沢元治氏及事務所員一人ト韓人人夫一名(之ハお結ビノ弁当ヲ背負フ)ナリ、行ク事半里余、許武内《ホムネー》ニ至ル、此処ハ韓人坑穴ノ沢山アル処ニシテ小山上ノ一坑ハ昨年我組合ガ福地ヨリ譲受ケシ処、今近傍ニ小屋掛ヲナシ、事務所ニ充ツ、穴ハ竪坑ニシテ、小穴ヲ方四尺ニ掘リ、拡ゲツヽアリ、百二十尺ノ計画中今八十二尺ニ達セリト云フ、田ヲ隔テヽ小山二アリ、山腹・田野一面韓人小屋掛ヲナシ、其中ニ小坑ヲ掘リ、釣瓶(石油空鑵ヲ以テ充ツ)ニテ坑石ヲ上ゲ、石ノ上ニテ之ヲ粉砕シ、更ニ篩(石油鑵ノ底ヘ火箸大ノ穴ヲ穿ツ)ニカケ、更ニ之ヲ細粉ニ砕キツヽアリ、韓人坑数ハ凡ソ百余アルモ真ニ金礦石ノ出ヅルハ少シト云フ
夫ヨリ道ヲ転シテ進ミ、サジヤンクル山ニ昇リ、韓人ノ坑穴ヲ見ル、石英礦ノ露頭二尺余ノモノアリ、軈テ其頂上ニ昇レバ時正ニ十一時半即人夫ノ背ヨリ行厨ヲ卸シ弁当ヲ食ス、ニギリ飯ニ鶏ノ甘煮及ヒ湯サマシト云フ献立ニシテ、空腹ノ上ニ異国ノ山頂ニ上リ、且ツ平野ヲ一眸ノ内ニ集メ、牙山ハアノ見当ナリ、稷山ハ彼ノ山ノ方角ナリナド前川氏ノ説明ヲ聞キ乍ラ之ヲ喫ス、其オイシサ実ニ近代未曾有ナリ、少憩ノ後谷ニ下リ、又山ニ上リ、パレンコリニ韓人ノ採坑ヲ見、再ヒ谷ヲ隔テ韓人ノ畑(麦)ヲフミアラシ、或ハ谷間ノ小路ニ沿ヒ行ク事半里、更ニ一ノ山腹ニ上リ天応《チヨノン》ニ至ル、玆ニハ韓人ノ坑穴、下ヨリ下ニ段々ニ列ル事二十三・四、頗ル大ナルモノナリト云フ
玆ハ両山脈間渓谷ノ奥ナルガ、之ヲ谷ヲ後ニ返レバ川ニ沿フ処砂金ノ採集場又多シ、出テヽ五色洞《オサクサン》ニ至リ、其頂上ニ上ル、同山ハ平地ノ間
 - 第25巻 p.42 -ページ画像 
ニ屹立スル富士山形ノ山ナリ、全山五色ノ石英質ヲ以テ成ル如ク、而シテ山腹及頂上等処々ニ露出ス、山ヨリ平地ニ下リ更ニ反対ノ一山ニ聯リ枝ヲ出シ、礦脈ノ長サ一哩ニ出テ、其巾ハ三十尺以上アリト云フ此辺目下平地測量中ナリト云フ、山ヲ下ルノ頃、夕立ノ雨ニ逢ヒ、吾人ハヅブヌレトナル、韓人途上ニ行違フモノ冠ヲ蔽フノ油衣蔽ヲ持合ハセズ、為ニ冠ヲヌラサン事ヲ恐レ、之ヲ脱シテ袖ニテ蔽ヒ、頭ヲ雨ニサラシ走行スルモノ、頭オシキカ冠オシキカ一寸笑止ナリ
雨モ時余ニシテ止ム、雁及鶴ノ列ヲナシテ飛翔スルノ景ハ得モ云ハレズ、自ラ絵画中ノ人トナリシ思アリ
帰途迂路ヲ取リ(殊更ニ)イビチヤンノ市ヲ見ル、韓国各駅ニハ毎旬二回ノ市アリ、此市ハ市商人荷ヲ運ヒ順次ニ之ヲ開クモノニシテ、市ヲハズセバ次ノ市日迄ハ日需品ヲ需ルノ路ナシト云フ、群衆肩摩、店ハ土間アリ又床アルアリ、共ニ小屋掛ノ下ニ品物ヲ列シ販売ス、中ニ日本製ノタオル・マツチ・小鏡等ヲ見、懐カシキ思ヒス、固ヨリ夜店物ノ類ナリ、ブツキリアメヲ買ヒ歩ミ乍ラシヤブル、アク強ク味美ナラズ、居酒家アリ、群衆入リテドブロクヲ呑ム、聞ケハ其女将美人ナルヲ以テ客足集ルナリト、人ノ呑ミタル茶碗ハ一旦ハ酒ニテユスギ、此ユスギタル酒ハ尚酒ガメニ投シ、之ヲ攪拌シテ再ヒ茶碗ニ入レ、客ニ呈ス、客怪マズ、遂ニユスグノ所以ノモノヲ知ル能ハズ、蓋シ不潔ハ朝鮮ニ存在セズト云フテ可ナランカ
市ニ一匹ノ牛ヲ二人ニテ争ヒ居ルモノアリ、判決ヲ前川氏ニ求ム、蓋シ日本人ハエラキモノト信頼スル為ナラン、前川氏ハ固ヨリ取リ合ハズシテ去ル
エビチヤンノ市ハ毎旬四・九ヲ定日トスト、今日ハ旧暦ノ廿四日ナル也、夫ヨリ黄昏ニ入リ、路ヲ急ギテ六時半帰ル
今日ハ路モナキ山坂ヲ上下シ頗ル疲労ス、行程総計五里余、帰後入浴食事美味不可云
入浴場ハ屋外ニ水風呂ヲ据ヘタルモノ、在稷山諸子ノ苦励之ヲ以テ其一端ヲ察スヘシ
事務所ハ韓人ノ泥屋ヲ買ヒ、其内部ヲハリ、玆ニ事務員一統群居ス、前川・古田両氏共同ノ住宅トシテ矢張韓人ノ泥室一軒ヲ以テ、内部ヲハリ、漸ク雨露ヲ凌クノ所トナス
事務所ノ近傍ハ従事員ノ宅又ハ事務所丈ニテ、吾居留地ノ観ヲナス、道路ヲ挟ミテ両側ニ陣取レリ、中間ノ途ハ韓人ノ通行ヲ禁シ、彼等ハ河ニ下リテ水際ヲ通行スヘキ旨制札ヲ建テタリ、彼等柔順ニシテ之ニ従ヒ、官庁モ亦之ヲ争ハズ、優勝劣敗実ニ何処ニモ行ハルヽナリ
夕食後前川氏ト雑談ヲナス、室ノ下ハ温突ノ装置アリ暖ニシテ気持宜シ、松薪ノ相場ハ十六〆目韓銭卅銭(我貨廿一銭位)温突一間(八尺四方)ニ一日半荷ヲ要スト
又芝(麁朶)ハ十五貫目韓銭廿二銭ナリト云フ
前川氏等ハ先般来井上工学士氏等ノ補助ニヨリ調査ヲ経タルモノハ凡ソ左ノ五大方面ナリト云フ

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  第二 天応《チヨソン》方面   第一 許武内《ホムネー》方面      サジヤンクル  以下p.43 ページ画像       トジヤンクル      第四 康徳里《カントクリ》方面      パレンコリ      チヨヌン        第五 安城《アンソン》附近      五色洞  第三 左聖山方面      青竜山      左聖山      ツーミー      アンサン(鞍山) 




鎮川 六里 安城 木川 保徳院 三里半 稷山 二里 成歓 三里 天安 平沢 屯浦 牙山 海
点線ハ四里ニ六里ノ範囲ニ依テ礦区ヲ定メント欲スル腹案ナリトノ事ナリ
前川氏ノ説明ヲ聞クニメタラジーニハ左ノ方法アリト
一、ウヲシングWashing
  粉トナシ水ヲ用ヒ比重ニテ分ケル方法
二、熔解精煉Smelting
  オーアoarノrichノ場合即一万分一以上ノトキ之ヲ用フ、而シテ硫化物(鉛等)ノ多キトキニ之ヲ用フルヲ宜シトス、故ニ稷山ノ如ク含分量少ク旦鉛等ノ混和物ナキニ付之ヲ用ヒズ
三、湿式Wet way
 甲混汞法Amalgamation
  之ハquarity即石英ニ金ヲ含ム場合ニ最適当ニシテ硫化物ヲ混合スルトキニハ不適当ナリ
  crusherニテ礦石ヲ砕キstampニテ搗ク、又一ニハmillニテ之ヲナス事モアリ
 乙Solution
  青酸加里sianideヲ用ユ、硫化物多キトキハ塩ヲ加ヘ塩化物ニカヘル事アリ
四、Electric metallorgy
  之ハ合金物ノ場合ニ用フト
偖今日実視シタル各礦区ニ於テ韓人ノ行フ採金方法ハ左ノ如シ
  許武内・サジヤンクル・トヂヤンクル・パレンコリ・チヨヌン等ニ於ケル韓人ノ煉製法
一、礦石ヲ槌ニテ砕ク、砕キタルモノハ径一分位トナル
二、之ヲ篩ニ掛ケル(篩ハ石油空鑵ニ錐大ノ穴ヲ明ケタルモノ)
三、然ル後右ノ細片ヲ石ノ台ノ上ニテ他ノ石ヲ以テ磨擦シ、再ヒ細マ
 - 第25巻 p.44 -ページ画像 
カキ篩ニ掛ケル
四、此クシテ得タル極細マカキ砂ヲ木ノ鉢ニ容レ、水辺ニ持行キテ之ヲユスリ、比重ニテ取ルナリ、残ルモノノ中ニハ鉛・鉄・亜鉛等ヲ混合ス、再三ユリ分ケルナリ
五、右ノ如ク鉢中ニ残リタル(重キ故下底ニ存留スル也)モノヽ中鉄ハ馬蹄磁石ニテ除去ス
六、其残リヲ硝酸ニテ焼ケバ金分丈残ル
七、右ノ金粉ヲ溶解シテ塊トナシ市場ヘ出スナリ
          以上
十一月十六日 晴 寒シ
朝九時半草鞋ニテ出掛ケ前川・葛原二氏、元治氏及韓人人夫一名ト共ニ保徳川ノ上流ニ上リ、一山ノ山腹礦石大露頭(青竜山)ヲ見、青竜寺ノ古刹ニ入リ見ル、堂宇古ク将ニ朽チナントス、建築ハ宏壮ナルモ装飾ハ粗ナリ、仏像見ルヘキモノ一・二アリ、元治氏ハ不相変写真機ヲ以テ何物ニテモ奇ト感シ面白ク見ユルモノハ悉ク撮影ス
夫ヨリ山端荊棘ノ間ヲ攀ヂ、一ノ墓場(墓場ハ土マンヂウニ芝ヲツケタルヲ普通トシ、由緒アルモノニ限リ石碑アリ)石碑ノ傍ニ於テ弁当ヲ食シ少憩ス
夫ヨリ山路勾配急ナル処ヲ昇ルコト十数町、青竜寺ノ内院ニ至ル、僧十余名アリ、予等ノ一行ニ対シ堂ニ上ラン事ヲ勧ム、前川氏ハ韓人ト同化主義ニテ何事ヲモカケ隔テヲナサヌ流義故、直ニ上リテ油皮張リノ室内ニ平坐シ、僧ノ饗応スル所ノ樽柿ヲ食ヒ、談佳境ニ進ミ、予等語通セヌ為頻リニ筆談ヲナス、或ハ東亜ノ大勢ヲ論シ、日清韓ノ親交スヘキコト、稷山金礦事業ノ概要等皆漢文ヲ書シテ示スニ、彼等頻リニ欣喜応答ヲナス、一文ヲ書テ示ス毎ニ彼等ハ必ス音読、其調恰モ日本ノ僧侶ガ読経スルカ如シ、留ル事時余、山伝ニシテ峠ヲ超ヘ三時過前川氏宅ニ帰ル、昨今ニ見タル所ハ全礦脈地ノ数分ノ一ニ過キスト雖トモ大体ノ形勢ヲ知ルヲ得タリ
夜所員一同ヲ会シ酒飯ヲ饗ス、鯉ノ生盛・筍甘煮・大根ノ鱠・雁ノ鋤焼・鴨ノ汁・支那菜ノシタシ等山海ノ珍味皆小使等ノ腕ヲ振ルイシ処韓国ノ内地ニ於テ同胞相集リテ日本食ヲ味フ、愉快ノ至ト云フヘシ
会ス所前川・葛原・大島・栗林・山本・森・小林、之ニ渋沢元治氏ト予ト也
七時半スミ入浴ス
  一昨々日京城ヲ発シ今日ニ至ル迄村落ノ間ニ進ミ入リ、途上瞥見スル所ニ就テ一・二ヲ録スレバ
一郡堺ニハ郡守彰徳ノ碑多ク立ツ、文句ニ曰ク、何某永世不忘碑云々其形ハ我国ノ墓碑ニ類ス
一朝鮮ニハ鳥居ズシテ鵲ノミト聞キシニ、矢張リ烏ヲモ稀ニハ見ルナリ
一内地ヲ旅行シ、旅舎ニ入リ、市ニ至リ、寺ニ入リ見ルニ何レモ単純ノ生活、家具ナク、厠ナク、灯ハカンテラ、実ニ穴居時代ヲ去ル事遠カラズト云フヘシ、臭気紛々、食物ハニンニク臭ク且辛シ、家ハ泥小屋藁葺、フヒリツピン人家ノ写真ニ彷彿タリ
 - 第25巻 p.45 -ページ画像 
一草木田畑ノ工合ハ日本ト同シ、山ハ絶対ノ禿山ニハ非ズ、間々マバラニ松ノ木アリ
一人民柔順、道路ニ吾人ニ会ヘバ必先ツ道ヲ避ク、尊敬スルニ非ズシテ忌ミ恐レルナラン、牛ノ如キモ日本人ヲ見レバサツサト荷物ヲ付ケタルマヽ横道ニ入リ、横道ナキトキハ川ノ中、畑ノ中何レデモ処嫌ハズ飛入ルナリ
一犬ハ日本人ヲ見レバ尾ヲ垂レ逃ゲ乍ラ吠ユ
一馬ハ一体ニ小ナリ
一韓人ノ語ハ句調日本人ノ語ニ類ス
一冠ヲ大切ニシ、雨フレバ先ツ冠ヲ袖ニテ蔽ヒ、頭ヲヌラス事ハ平気ナリ
一衣ハ上衣ト袴、而シテ其上ニ羽織ノ如キモノヲ羽折ル、色ハ皆白ニシテ小供ハ紅色アリ、業ニ従事スルモ外出スルモ皆同一ノ服装ナリ白衣戴冠ノ人小便壷ヲ背負フナリ
一鞋ハ日本ノノニ似テツマ先丈袋ノ如シ
一日本ノコマ下駄ニ似テ不器用ナル下駄アリ
一韓銭ハ五銭ノ白銅貨行ハレ、三割五分ノ差アリ
十一月十七日 快晴
稷山ニモ二日間滞在シ、稍其概況ヲ知ル事ヲ得タレバ今日ハ愈京城ヘ帰ル事トナシタ
四時半起キ出テ川ニ下リ、星ノ光リニスカシテ氷ヲ破リテ顔ヲ洗ヒ、オープンエーアニ孤立セル仮便所ニテ尻ヲ風ニフキサラシ乍ラ大便ヲナシ、支度ヲ整ヘ五時半頃保徳院村前川氏ノ寓所ヨリ発ス
事務員山本氏京城ニ行クノ用事アリテ同行ス、故ニ一行ハ渋沢元治氏予ト山本氏也、不相変馬背ニ倚ル、駄馬及人足共過日京城ヨリ連レ来リシ者、二日間滞在シテ予等ノ帰途ヲ待チシ也
寒天ニシテ径ニハ霜ヲ置キ、田面一体ニ氷ヲ結ヘトモ快晴、一片ノ浮雲ナク実ニ愉快也、次第ニ東天白ミ渡リ、彼処ハ先夜道ヲ失シテ蝋燭ヲ点シテ漸クニシテ進ミシ処、此家ハ同夜家人ニ厳談懇話ヲ交ヘ燭ヲ点シテ予等ヲ保徳院ヘ送ラシメシ家也、此処コソハ闇ニ迷ヒテ馬ノ小川ニ陥リシ処等想起シ乍ラ、或ハ馬背ニ跨リ懶メバ健足ヲ働カシ田舎ノ街道ヲ進ム、此ノ如クニシテ安城ニ至ルノ間鶴ノ群ヲナシテ数十尾飛翔シ、又ハ田ニ下ルモノ実ニ幾回トナク之ヲ見ル、雁亦然リ、只予ノ詩想ナキヲ嘆スルノミ
午前九時安城ニ入リ、福地辰蔵ノ安城学校ニ立寄リ、生徒ヲ集メテ元治氏之ヲ撮影ス、十五才ノ生徒、金七星ト称スルモノ(一ニ安村星七ヲ和称ス)最モ日本語ヲ好クス、近刊ノ太陽等フリガナニ就テ之ヲ読メリ
生徒十数名君ガ代ヲ唱ヘテ予等一行ヲ迎フモ殊勝ナリ、軈テ予等ノ此処ヲ辞セントスルヤ、彼等一同ハ福地辰蔵ノ先導ニ依リ列ヲ為シテ予等ノ行ヲ送ル事半里余、此間四百余州ノ唱歌ヲ歌ヒ、又殊ニ鶏ノ林ニ風立チテノ歌ヲ唱スルニ至リテハ何トナク不愍ノ感ヲナセリ、兎モ角外国ニ来リ、而カモ僻陬ノ地ニ於テ日語学校アリ、組織ノ不完全ニシテ我往昔ノ寺小屋ニモ及バサルハ勿論ナレトモ、此ク日本人タル吾々
 - 第25巻 p.46 -ページ画像 
ヲ款待スルニ逢フ、心気愉々ノ至ナリ
正午陽城着、一旅舎ニ入リ携フル処ノ握飯及鳥肉ノ甘煮ヲ食フ、往路ト違ヒ如此支度アリ、朝鮮食事ハ一見臭気ノ甚シキニ得モタマラズ、玆ニテ馬ヘ糧ヲ与ヘ、又馬夫ノ食事等ハ依《(マヽ)》リ客ヲ見付ケテ飯ヲ炊クノ習ナレハ、予等ノ喫食ハ二十分ニテ済ムモ彼等ノ食終ルヲ待テ一時半漸ク陽城ヲ発ス、山本氏ハ韓語ニ通シ馬夫ト話ヲナシ一向ニ差支ナシ且予等ノ為メニ京城ヨリ随従セル通訳夫一名モ附添ヒタレハ何モ不自由ヲ感スル事ナシ
陽城ヨリ北ニ向ヘハ坂路ノ昇降多ク閉口セリ、或ハ馬ニ乗リ、或ハ徒歩ス、山間マバラニ木アリ、皆松、未タ杉ナルモノヲ見ズ、マバラニ松樹ノ散植サレタル山ハ見ルモ深山ナルモノヲ見ル能ハス
午後五時梧山洞ニテ日暮ル、闇夜尚行キ七時大皇橋ニ至リ玆ニ宿泊ス之ハ往路ニモ一泊シタル処、不相変四畳半位ノ泥屋内ニ三人雑臥、食事ヲ終リテ就寝ス、衣ノミ衣ノマヽタヽキノ上ニ毛布ヲ拡ケ之ヘネコロブ事如前例
此日行程十一里、余ス処ハ九里ニ過キズ、明日ハ早ク京城ニ入ルヲ得ベシ
十一月十八日 快晴
引続キ快晴ナルハ馬背旅行者ニ取リ一大天祐ナリ、昨夜ハ大皇橋ノ不潔極マル旅舎ニテ着而已着之儘毛布ヲ被リテゴロ寝セシモ心地悪シク最早夜明ケシ頃カト思ヒ目ヲサマシ時計ヲ見レバ未タ二時也、不思アーマダ二時カノ嘆声ヲ発スルモ余儀ナキ次第也、三時ニモ目サメ、更ニ四時ニ全ク目醒ム、四時半愈起キ出テ、素ヨリ顔モ洗ハズ口モススガズ飯モ食ハズ、携ヘ来リシサマシ湯一盃ヲ含ミテノドノ渇ヲ慰シ、装ヲ備ヘテ馬背ニ依リ出立セシハ午前五時半ナリシ、朝鮮旅舎ニハ一ノ湯ナク茶ナク、又顔ヲ洗フニ堪ヘルノ清水ナシ、実ニ不愉快極マレルナリ
五時半頃ハ未全ク暗ク、星ヲ戴テ、且旧暦二十七日ノ弦月空天ニ懸レリ、六時過夜漸ク明ク、寒サハ強ク道路モ田面モ氷結スレトモ、一天快ク晴レ、其間ニ旅行スルハ実ニ爽快ヲ極ム
七時水原ニ達シ朝飯ヲ喫ス、只米飯ノミヲ命シ、他ハ携フル処ノ鑵詰類ヲ用フ、飯ハ不潔ナレトモ和カクシテ稍食フニ足ル
水原ノ前後道路ニ松並木アリ、道路モ巾広ク実ニ朝鮮ニハ珍ラシキ絶景也、蓋シ旧王都又ハ由緒アル都市タルガ為ナラン(水原ハ四方城壁ヲ囲ラシ大手・搦手ノ城門ハ壮厳ナリ、但城内ノ有様ハ市街トハ云ヘズ、矢張土人ノ部落トデモ評スベキナリ)松並木ノ辺リ鶴・雁田面ニ下リ又空中ヲ舞フ、一層ノ絶景ヲ添フ
進ンテ山路(トハ云ヘ本街道故昨日ノ安城道ノ如ク狭小険阻ナラズ)ニ来レハ雉ノ叢ヨリ飛ブモノ多ク、是亦旅中ノ奇観ナリ、山本氏猟銃ヲ携ヘ時々試ムレトモ、一匹ノ獲物ナシ、朝鮮ニテハ鶴ヲ打ツハ禁制故人近クモ驚カズ、但黒衣ノモノヲ見レバ驚キ去ル、故ニ鶴ヲ打タントセバ白衣ヲ着シ、一見朝鮮人ノ如クセサルヘカラスト
十一時半果川ニ着、午飯ヲ喫ス(大便ヲ催フスモ便所ノ設ケハ基ヨリナク閉口セリ)飯ヲ炊ガシメルニ一時間ヲ費ス、客ヲ得テ初メテ着手
 - 第25巻 p.47 -ページ画像 
スルヲ以テナリ
昨今沿道見ル処ニヨレハ畠ニハ麦已ニ生ス、農夫(不相変白衣戴冠)小便瓶ヲ背ニ負ヒ来リ、之ヲ卸シ瓢ニテ手ヅカラ小便ヲ汲ミ、之ヲ麦ニ施セリ、朝鮮ノ作物ハ肥料ト云ヘバ小便ノミニ止マリ、大便ハ之ヲ用ヒズ、故ニ大便ハ庭ニ垂レ流シ、犬豚ノ食フニ任セ、小便ハ瓶ヲ庭隅又ハ道側ニ置キテ之ニ垂レルナリ
又朝鮮ノ川ニ堤防ナシト聞キシガ、間々不完全ナカラ人為ノ堤防アルヲ見タリ、橋モ又完全ノモノハ兎モ角人ノ渡ル丈ノ小橋(土橋等)ハ間々存在スルヲ見タリ
昼食後一時半果川ヲ発シ、爾後小坂アルモ概シテ道好ク段々進ミテ京城ノ北関山ヲ遥ニ望ミシトキハウレシカリキ、漢江ノ渡シヲ渡リ川原砂礫ノ上ヲ行ク事ジレツタキ迄ニ長シ、ヤガテ南大門ノ傍迄来レハ、サスガ不潔、矮屋櫛比ノ京城モ東京ニ勝リタル大都会ノ如ク見エシモ不思儀ナリ(南大門外ノ辺小丘上人民ノ墳墓多ク、土饅頭並列、樹ナク芝ヲ以テ蔽ヒ、一見異様ノ感ヲナス、実ニ醜観タルヲ免レズ)四時半京城羅洞ニ入リ巴城館ニ安着ス
折柄男爵ノ一行ハ十六日ヲ以テ一旦仁川ニ下ラレシモ、本日再ヒ入京セラレシ由ニシテ第一銀行ニ至リ面謁ス
今夜ハ予ト元治氏ハ巴城館ニ一宿シ、入浴ノ上食事ス、巴城館ノマズキ食事モ今夜ハ美味ヲ極ムル如ク感セシモ不思議ナリ、十時頃ヨリ快寝ス
十一月十七日 曇 暖
既往六日間ノ山河踏破モ差シタル疲レトテハ醸サズ、七時半起キ出デ食事後来訪ノ山本氏(昨日山ヨリ同行セシ)ニ接見シ、夫ヨリ出テヽ公使館ニ山座・国分・塩川・埴原、次ニ田村義一宅(不在)、領事館ニ三増・信夫・大山、大江氏宅ニ大江・中島、第一銀行ニ原田・大塚ノ諸氏ヲ往訪シテ告別ノ辞ヲ述ベ、食事後二時廿五分ノ列車ニテ仁川ニ下リ、稲田旅館ニ男爵・市原氏以下一行ニ合ス、此日元治氏ハ予ニ先チ午前ノ列車ニテ下仁ス、夜公園ノ八阪ニテ京仁鉄道ノ宴会ニ列ス、開宴前、男ヨリ社員一統ヘ訓示的説話アリ、今日ノ宴会ハ社員ノ慰労ヲ兼ネ領事館員、第一銀行員其他四・五ノ人ヲ招キタルモノナリキ、社員ノ隠芸等アリテ中々ノ盛会ナリキ
右終テ予ハ古津・原田二氏ニ伴ハレ播半ニ至リ再宴席ニ臨ミ、夜半帰宿ス
便船延期トナリ、帰朝従テオクルヽ事トナレリ
十一月廿日 晴 大ニ暖
午前京仁鉄道事務所ニ至リ、足立氏ト会談シ、午後ハ宿ニアリテ故国ニ向テ書状数通ヲ認ム、青淵先生ニハブラオン其他来訪ノ客人アリ
夜男爵始一行ニ加ハリ尾高次郎氏宅ニテ晩餐ヲ供セラル、尾高氏(老鶴ト称ス)ノ義太夫アリ、菅原伝授ノ一段、仁川白徒義太夫ノ牛耳ヲ取ルモノハ意外ニモ尾高氏ニシテ、門弟数多ク一団ヲナシ杉風会ト称スト云フ、尾高氏音声艶ニテ朗、素人トシテハ上々ナルモノナラン
十一月廿一日 晴 寒シ
終日稲田旅館ノ楼上ニアリテ京仁鉄道ニ関スル調ベ物等ニ従事ス、木
 - 第25巻 p.48 -ページ画像 
浦ヨリ来仁中ノ西川太郎一氏ト吾一行ノ竹内国手ト囲碁盛ナリ、予ハ下手中間トシテ稲田主人ト一・二番ヲ試ム
本日公使館ノ案内ニテ男爵ハ市原氏ト上京、一泊セラル
本日入港ノ筑後川便ニテ国許十二日付ノ郵書ヲ入手ス
十一月廿二日 快晴 寒シ
本日ハ稷山金礦ノ用務ノ為ニ古田氏来訪ノ為、終日在宿ス
午後七時男爵ハ市原氏ト共ニ下仁ス
今夜ハ男爵一行ニ加ハリ伊集院領事方ニ被招、外ニ尾高氏夫婦、西川太郎一氏等同席ス、午後十時帰宿ス
今日国許ニ書状ヲ発ス
十一月廿三日 快晴
男爵及市原氏ハ閔丙奭ノ案内ニ応シテ今朝上京セラル
予ハ午前中ハ京仁鉄道事務所ニ至リ、午後ハ古田氏ト共ニ稷山金礦仁川出張所ニ至ル、夕尾高氏方ニ至リ、囲碁会ヲ見ル、西川・竹内等来集セリ、夜ハ古津・古田両氏ニ招カレテ播半ニ一酌ヲ酌ミ、終テ仁川坐ノ芝居ヲ見ル
仁川割烹店名アルモノヲ八坂及播半トナス、共ニ上方風(否ナ寧ロ馬関辺ノ風ナラン)ノ料理ナレトモ、京城ノマズサトハ同日ノ談ニ非ス家モ清潔、器具モ整ヘルヲ見ル
仁川座ハ仮小屋ニシテ東京ノ寄席ヨリセマキ位、乱雑不可言
十一月廿四日 晴
一行ノ内渋沢元治氏ハ来る一日ヨリ一年志願兵ニ入営ノ都合アリ、行程ヲ急キ本日出帆ノ臨時船白川丸ニテ出発ス、予ハ古田及荒谷氏等ト共ニ本船ニ見送ル、本船ノ碇泊所ハ仁川ノ外港ニシテ月尾島外ニアリ(内港ハ干満甚シク大船ヲ入ルヘカラス)端艇ニテ行ク事一里余、実ニ一時間余ヲ費セリ、白川丸ハ郵船会社ニ属シ、其大サ五百屯、頗小ナルヲ免レザルモ船室ノ工合ハ悪シカラズ
男爵ノ一行モ廿日前ニ出立ノ筈ナリシモ、玄海丸天津ニテ土砂ニ封鎖セラレ未タ寄港セス、本日ノ白川ハ小ナルヲ以テ未タ出立ヲ延引セラルヽ次第ナリ
今日ハ時恰モ干潮ニ際シ、仁川内港ノ過半ハ殆干潟トナリ、僅ニ一条ノ澪筋ヲ残スノミ、月尾島ト小月尾ハ地続キトナリ、又仁川港市ト某小島トノ間ハ歩シテ渡ルベシ、朝鮮船(和船ニ似テ不器用也)小蒸気等干潟ノ上ニ取残サレ傾斜スルモノアリ
夜十八・五十八両行、両品取引所及郵船・商船両社等ヨリノ招待ニテ男爵ノ一行ニ加ハリ播半楼ニ至ル、宴席ハ楼上ノ広間ニ設ケラレ、坐敷ノ設備ヲ始メ料理・余興・芸者等ニ至ル迄京城ト同日ノ談ニ非ス、殊ニ余興場トシテハ坐敷ノ一隅ニ檜舞台ヲ作リ、芸者ノ衣裳ヲ附ケテノ手踊リ、落語・義太夫等アリ、其設備ハ内地ノ小都会モ及ハサルモノアラン
市原・西川両氏ニ招カレ更ニ八阪ニ再酌ヲ催フス、夜半霰雹降ル、寒サ推シテ知ルヘシ
十一月廿五日 晴
此日午後商船会社船中最堅牢且船長ノ名高キ筑後川丸出帆ノ予定ニ付
 - 第25巻 p.49 -ページ画像 
之ニ一行ハ乗船スル事トナリ、支度ヲ整ヘ午後一時将ニ旅宿ヲ出テントスルニ際シ、外海風波不穏ノ為明日ニ延期セリトノ報告アリ、止ムナキ事也
依テ予ハ今一回京仁鉄道ノ線路ヲ視察セン為足立氏ニ同行ヲ乞ヒ二時発ノ列車ニ投ス、行ク行クコヽハ杻峴ノ停車場拡張ヲ要スルケ所、彼処ハ卅一年春モールスト交渉シタル変更線ニシテ向フニ見ユル堤塘ハ廃線ニ帰セシモノナリ、又彼方ノ山間ヨリ京釜線来リテ梧格洞ニテ本線ニ合スヘシナト指摘教示セラレ、各駅必ス一寸下車シテ其様子ヲ見ル、乗降客誠ニ寂寥タルモノナリ、鉄橋ニ亜テ桟橋ヲ渡リ、南大門附近ニ至リ、電気鉄道トノ交叉点等ノ説明ヲ聞キ、軈テ三時四十五分京城ノターミナルニ下車シテ、次ノ発車迄稍時間アルヲ以テ徒歩独立門及独立殿ヲ見、更ニ転シテ南大門外所有地ノ地域等ヲ説明セラレ、直ニ五時廿五分発ノ列車ニ南大門ヨリ搭乗シ、七時十分仁川帰着
列車内ハ上・中等共ストーブヲ其一隅ニ置キ、又ランプノ装置モ完全ナレハ、寒夜ト雖モ暖ニシテ明ナル、内地鉄道ノ比ニ非ス
帰路中等車内ニ犬ヲ伴フノ日本旅客アリ、足立氏車掌ニ命シテ車外ニ追ハシム、其追フヤ搏撃排投頗残酷ヲ極ム、客人知ラサルモノヽ如キモ、正ニ其人ノ所有ニ無相違、固ヨリ反則ナレハ致方ナク黙止スルモノヽ如シ、犬ハ竜山ニテ車外ニ投セラレシモ、健足奔走列車ノ後ヲ追ヒ、鉄橋ヲ渡リシト見エ、列車ノ永登浦ニ達スルヤ又乗降口ヘ上リ来ル、足立氏又再ヒ命シテ搏撃排投セシム、先ノ客人見ルニ見カネタル風ヲナシ、コハ友人ノ犬ニヨク似タルヲ以テ予自ラ賃金ヲ出シテ預托セント、足立氏即諾シテ犬箱ニ入レテ預ル事ヲ命シタリ、其玆ニ至ル迄ノ取扱頗厳峻、事些ナリト雖トモ事ニ接シテ惑ザル足立氏ノ如キニ非レハ能ハズ、韓国ノ如キ警察ノ事整ハサル邦ニ於テハ、鉄道管理者自ラ此ノ如クナラザレバ何事モ規律ヲ失フニ至ルヤ必セリ
偖今夜ハ突然ニ出帆延期ノ為ニ生セシ一夜ナレハ一行誠ニ閑暇ニ属ス即尾高老鶴ノ発起ニシテ杉風会ノ義太夫総サラエヲ稲田楼上ニ催フス太夫ハ老鶴先生(千代萩)釜山ヨリ来仁中ノ京坂亭主人(逆櫓)麻生其他ノ生徒隊ニシテ、何レモ皆大小ノ天狗タルヲ失ハス、聴衆ハ第一銀行・京仁鉄道等ヨリカリ集メ、無慮数十名、太夫ノ得意思フヘシ、但中ニ鼾声一隅ニ起ルヲ免レザリキ
十一月廿六日 曇
午前中青淵男爵揮毫ヲナス事前日来ノ如シ、第一銀行員等ノ需ニ応シテ也
愈本日ヲ以テ一行帰途ニ就ク事ニ決シ、大勢ノ見送人ニ伴ハレ小蒸気ニ打乗リ筑後川丸ニ搭シ、午後三時出帆ス、幸ニシテ海上平穏ナリ
筑後川丸ハ登簿噸数四百余、総噸数七百余、上等室ハ玄海ノ中等室位ノモノ也、予ハ竹内・西川・市原三氏ト同室ニ入ル、四人一室ナレハ也、男爵ハ八木ト同室セラル、食事ハ食堂ニ出レトモ日本食ナリ、飯ハ堅ク菜ハ味美ナラズ、中等室ハ入リ込ミニシテ、瀬戸内通ヒ小蒸気船ノ上等室ニ類ス
本船ハ商船会社ノ韓国通ヒノ中デハ最堅牢健足ニシテ、殊ニ小高船長ノ信用ヲ以テ称セラルヽト云フ、今回ハ鎮南浦ヨリ米・大豆等ヲ沢山
 - 第25巻 p.50 -ページ画像 
積ミシ為メ満船積荷、依テ尚動揺セズ、上等船室・食堂等皆甲板上ニアルヲ以テ運動場ナキカ故ニ、玄海ニ乗リタル後ニハ甚シク狭隘不便ヲ感ス、夜快寝ス、同船者ハ雲山資本主ノ一人某、小児ヲ同伴スルモノ及日本一・二名《(人脱カ)》アリ
十一月廿七日 曇
八時起キテ甲板ニ出レハ船ハ已ニ全羅道ノ西岸多島海中ヲ通過シ、山ハ禿ケタルモ風景佳ニシテ水亦平也、小船ナレハ岸辺ヲ縫ヒ島嶼ノ間ヲ通過ス、山ハ呼ヘハ応ヘントス
午前十時半木浦ニ着ス、森川領事其他大勢ニ出迎ヘラレ上陸、第一銀行新築予定地ヲ見、第一銀行出張所ニ至リ西川氏ノ社宅ニテ少憩ス
木浦ハ山端小島ノ間ヲ曲屈迂回シテ其奥ニアル良港ニシテ、栄山江ノ川口ニアリ、港深ク干潮ニ際スルモ尚岸辺ニ碇泊スヘシ、干満ノ差ハ十八尺ニシテ仁川ヨリ少キ事十尺ナリト云フ、市街ハ明治卅年以来開港場トナセシモノニシテ第一銀行ハ已ニ出張所ヲ開ケリ、戸数二百三十、人口九百余アリ、領事館ノ新築将ニ成ラントス(領事ハ商業学校出身森川季四郎氏)木浦ノ地勢ハ山ヲ背ヒ海ニ浜スルモノナルヲ以テ山ヲ削リ又海中ニ海壁ヲ築キ内部ヲ埋メテ居留地トナス、尚埋立未済ノ潟地多シ、玆モ実ハ日本人ノミノ市街ト見ルヲ得ヘシ、外人ハ宣教師位ノモノナラン
正午居留民・領事等二十二・三名ヨリノ招ニ応シ、一行ニ加ハリテ領事館ニ至ル、料理店・芸妓等モ備ハリタリト見エ、新開地ニシテハ意外ノ饗応アリ(此地ニハ本願寺出張所及小学校ノ設ケモアリト)
男ハ謝辞ヲ述ヘ、且海外ニアル我商人タルモノハ劣等国ニ対シ力メテ誘導開発的ニ事業ヲ営ミ以テ自他ヲ益スル事ニ尽力スルノ必要ヲ説キ且京仁・京釜両鉄道ニ就テ一ハ其成効ノ歴史、一ハ将ニ着手セントスル経過ヲ述ヘラル
三時本船ニ帰リ三時半出帆ス、不相変多勢ニ見送ラル
 木浦ハ全羅道ノ西南端ニアリ、殆朝鮮半島ノ西南端ニ位スル地勢ナリ、其商業区域ハ栄山江ノ流域一体及全羅一体ノ海岸ヲ占メ、輸出品ハ米・豆・海草、又輸入品ハ綿糸・綿布・雑貨等ナリト云フ
出帆後島嶼ノ間ヲ縫ヒ進ミ、且珍島ノ瀬戸ノ如キハ両岸相セマリ真ニ呼ヘハ答ヘントスル有様、潮流急激渦ヲ巻ケリ、小高船長ヨク航路ヲ案シ左折右曲巧ニ急所ヲキリヌケテ通過ス、此辺ノ景色ハ玄海位ノ大船ニテハ見ル事ヲ得ズ、実ニ絶景ナリ、若、山ニ木アラハ蓋シ我瀬戸内海ノ景色ニモ劣ル事ナカラン
釜山京坂亭主人仁川ヨリ同乗シ談仲々面白シ、彼ハ男爵一行ヲ己レノ家ニ宿泊セシメムト切ニ希望シ、終ニ目的ヲ達セントシツヽアルナリ夜静ニシテ十一時迄食堂ニアリテ日記ヲ認ム
十一月廿八日 曇
此日暁ヨリ稍波アリ、朝食ヲ廃ス、午前十一時釜山ニ着ス(凡ヘテ釜山附近ハ海上平穏ナラサル事多シト称ス)男爵ハ釜山ニ一・二泊ノ要アルヲ以テ玆ニ上陸シテ京坂亭ヲ旅宿トシ、一両中ニ寄港スヘキ玄海丸ニ搭スル事トセリ
不相変大勢ノ出迎人ト共ニ上陸、先ツ第一銀行支店長荒井氏ノ役宅ニ
 - 第25巻 p.51 -ページ画像 
至リ、少憩入浴ノ上昼飯ヲ饗セラル、山際ニアル家ニシテ海ヲ見ハラシ好景也
午後三時ヨリ男爵ハ商業会議所楼上ニ至リ、需ニ応シテ一場ノ演説ヲナシ、京仁鉄道成功ノ経過及京釜鉄道計画漸ク熟セルノ有様ヲ述ヘテ地方人ノ賛助ヲ求メ、終ニ臨ミテ釜山発達ノ比較的遅々ノ感ヲ免レサルヲ述ヘ一同ノ奮起ヲ望マル、予モ随行傍聴セリ
夜光月楼ニ至リ商業会議所・居留民会議員等ノ招待会ニ臨ム、折柄雨中トナリ往復ニ困難セリ、但此地ニハ人力車アリ
夜男爵ハ光月楼ニ一泊シ、予等ハ京坂亭ニ帰リ投宿
釜山ニ於テハ太田民長・小倉郵船支店長等主トシテ諸事ヲ斡旋スルノ地位ニアリト認ム
十一月廿九日 曇
午前男爵ハ光月楼ヨリ京坂亭ニ帰リ、能勢領事・太田民長ノ訪客ニ接セラル
午後男爵ニ従ヒ散策ヲナシ、市中ヲ経第一銀行支店及領事館ニ至リ、夫ヨリ竜頭山ノ周囲ヲ一周シ、朝鮮村ノ一部ヲ見、夕帰宿ス、巡遊中朝鮮妓楼(主ハ日本人)ノ前ヲ過キル、韓女楼上ノ窓ヨリ不熟練ノ日本語ヲ以テオハリナサレト叫ヒシモ愛敬ナリシ
能勢領事ハ綿密ニシテ諸事ニ世話焼ヲ好ム人ラシ、今日往訪ノ節ノ如キモ領事館ノ楼上ヨリ海岸ヲ指サシ、埋立地等ノ事ニ付京釜対埋立企業者等ノ関係ヲ縷陳スル事頗綿密周到ヲ極ム
夜、能勢領事・太田民長・太田郵船支店長等ヲ京坂亭ニ招キ開宴セラル、予等一行又陪席ス
十一月卅日 晴
午前中男爵ヘノ訪客多シ
今朝玄海丸入港ス、即同船ニ搭シ午後五時釜山ヲ出帆ス、グラバー其他往途同船ニ同乗セシ洋人二人其他西洋人ノ乗客多シ
船ノ絶影島外ニ出ルヤ不相変波浪高シ、但一天晴レ半月中空ニ懸リ、風色爽快、六時半食卓ニ就テ聊カ食事ヲナシ、再甲板ニ上ル、八時船室ニ入リ就寝、夜半頗船体動揺セルヲ覚フ
十二月一日 快晴
午前八時甲板ニ出レハ本船ハ已ニ長崎港外ニ来レリ、故国ノ青山ヲ見愉快極マレリ、風波穏和ニシテ山青ク水清ク、朝鮮近海ノ禿山黄水ニ反シ実ニ先絶景、故国ノ愛スヘキヲ知ル
長崎港湾ニ入レハ両岸青山連リ、奥ニ進入スルニ従テ風光明媚、左ニ三菱造船所ヲ見、前面ハ碇泊スル処ノ和洋汽帆船・軍艦等帆檣実ニ林立セリ、九時半投錨、撿疫モ終リ十一時半上陸、松田・永見其他諸氏ニ被迎、迎陽亭ニテ諸氏ノ饗応アリ、往途濡衣ヲ被リシ場所ト思ヘハ何トナクイヤナ感ヲ生セリ
十二時三十三分発ノ九州鉄道ニテ発車ス、同鉄道ヨリ三好・本庄ノ二氏ヲ特派シ、貸切車ニ乗ラシム、高橋達氏モ同乗ス
列車ノ矮少ハ京仁鉄道ヨリ劣レルモ、窓外山水ノ景色ト云ヒ人家ノ形状ト云ヒ、一ケ月間朝鮮ニ遍歴セシ身ニハ、実ニ故国ノ文明優等ナルヲ感スルモウレシ
 - 第25巻 p.52 -ページ画像 
長崎ヲ出テヽヨリ大村湾東岸ニ沿ヒトンネル沢山アルモ湾内ノ景色実ニ佳、陸上ニハハゼノ紅葉末ナガラ美也、殊ニ予ハ九州鉄道ハ初旅ナレバ左盼右顧瞬間モ静止セスシテ快ヲ称フ
有田辺ヨリ田野茫々一面平坦、西南ニハ殆山ヲ見ズ、所謂肥前ノ平野也
午後七時半博多ニ着、小河・安川諸氏出迎者十数名、博多松島屋ニ投宿ス
右等諸氏ノ招ニ応シ男爵ニ従ヒ料理店福村ニ至ル、商業会議所会頭初重ナル同地商工業者三十名余主人タリ
男ハ一同ノ求ニヨリ朝鮮視察談ヲナシ、且京釜株引受ノ勧誘ヲナシ、一時間余ニシテ演説終ル、配膳ノ始マリシハ十一時也、御苦労可察也十二時帰宿、雨降ル
本日汽車中ヨリ旅中ノ状況ヲ留守宅ヘ細報ス
十二月二日 曇
晩起装ヲ整ヘ一同高橋達氏ノ先導ニテ先東公園ニ至ル、白砂ノ上ニ青松ノ叢ヲナシ、元寇紀念碑ノ建設将ニ成ラントス、夫ヨリ箱崎八幡ニ参詣ス、堂宇壮大且結構美ナリ、醍醐帝ノ宸筆(敵国降伏ノ四字四十余種皆黒地ノ紙ニ金泥ニテ認メラレ折本トシテ宝蔵セラル)ヲモ拝観ス、次ニ海岸ニ出ズレバ白砂青松波打際ニ連ナル、博多湾ノ底ニシテ湾ハ広ク風波ヲ防グニハ便ナラサルノ観アリ、此処ハ元寇ノ古戦場ニシテ所謂多々良浜辺、多々良川ハ右方数町ヲ隔テヽ其川口アリト云フ十二時半箱崎停車場ヨリ門司ニ向フ
 博多ハ九州ノ大都会、殷富ノ市街タルハ一見之ヲ認ムヘシ、然レトモ田舎ニシテ且炭坑俄大尽ノ地方タル故ニヤ、宴会ノ工合、宿屋ノ内容凡ヘテ異観ヲ呈ス、仮令ハ旅館松島屋ノ夜具ノ如キ金糸ノ縫、恰モ花魁ノ夫ノ如ク、雪隠ノ壁ニ花鳥ノ密画ヲハリツメタル等、尤奇観ナリ
門司ニ向フノ途上車窓ヨリ若松港及製鉄所等ヲ眺メ、一々高橋氏等ノ説明ヲ求メ、小倉ヲ経テ汽車路ハ海岸ニ沿ヒ軈テ三時半門司ニ着ス
玆ニ仙石九鉄社長以下ニ被出迎、門司ハ新開ノ繁盛地、九州ノ咽喉ナルト石炭ノ輸出地ナルトニヨリ市街モ人戸内モ実ニ多忙ラシク、決シテ風光ヲ楽ムノ旅人休息スルノ地ニ非ス、娯楽ノ地ハ旅人ト土人トヲ問ハス海峡ヲ渡リテ之ヲ彼岸ノ馬関ニ求ムト云フ
我一行ハ停車場ヨリ直ニ埠頭ニ出テ、小蒸気ニ乗リテ海峡ヲ横過シ、馬関大吉楼ノ裏桟橋ニ着シ同楼ニ投ス、入浴小憩ノ後同楼ニテ仙石・白石其他九鉄員十余名ノ催ニシテ一行ニ対シ小宴ヲ被開、予モ陪席ス流石ハ馬関ノ而カモ名ニシ負フ同楼ノ事トテ食膳ニ上ルモノハ美味、仲居・芸妓共ニ垢抜ケタルモノ揃ヒタル事、実ニ関西第一ト称スルモ無理ナラズ、同楼ノ仲居おげんと云ヘハ菅目ノ女有名ノモノナリト云フ、同楼ハ海ニ臨ミ対岸門司一眸ノ内ニアリ、海峡ヲ通過スルノ大小船舶実ニ風光極美、日暮レテ後ハ紅灯・緑灯水ニ映シ蛍ノ飛ブガ如シ気笛ノ声暫時止マズ、実ニ西海ノ咽喉関門ノ繁盛思フベシ
此夜十一時山陽九州連絡船豊浦丸ニ搭シ、一行徳山ニ向フ
同船ハ特別製ノ客船ニシテ一見遊覧船ノ如ク、室ノ内外電灯輝々明如
 - 第25巻 p.53 -ページ画像 
昼、一隅ニバーアリ、茶菓、洋食客ノ需ニ応ス、此船ニ乗リテ瀬戸内海ヲ航ス愉快可思、然ルニ可惜夜行ナルガ故ニ室ニ充満スルノ客人争ツテ毛布ヲ纏フテ横臥ス、其状恰モ沢庵ヲ漬ケタルガ如シ、男爵ハ予ノ膝ヘ足ヲ載セテ辛シテ横臥セラレシガ如キ有様ナリ
十二月三日 晴
暁四時徳山ニ投錨ス、端艇ニ乗リテ上陸ス、夜未明ケズ、暁風冷カニシテ朝鮮ヨリモ寒キカ如キ感ヲナス
松本清助・児玉春房ノ二氏広島ヨリ来リテ一行ヲ迎フ、今日ニ至ル迄各地至ル処送迎盛ニシテ内心其繁ニ堪ヘザリシガ、今暁ノ出迎コソ始メテ其親切ニ忝サヲ感セリ、此地ハ土地不案内ニシテ且ツ未明諸事不便ヲ極メシ際ナレハナリ
暫ク徳山ホテルニ投シテ憩ヒ、五時半発ノ山陽鉄道ニ搭ス、車中食堂車ノ設アリ、玆ニ一行洋式ノ朝餐ヲ終ヘ、八時宮島駅ニ下車ス、一行中予ト竹内氏未タ厳島ノ絶景ヲ見タル事ナキヲ以テ半日ノ暇ヲツキアワント男爵ノ好意ニ依リテナリ、小汽船ニテ厳島ニ渡リ、所謂日本三景ノ一ヲ見物ス、市街清潔一片ノ浮塵ヲ見ズ、海中ノ鳥居ノ奇ナル、廻廊ノ結構美ニシテ大ナル、其絵画ノ優ナル、且山青ク水ハ清ク、実ニ聞キシニ勝レル絶景也、紅葉ノ茶屋ニテ昼飯ヲ喫シ、路ニ小供ノ土産トシテ宮島ノ木地細工一・二ヲ買求メ、再小蒸気ニ乗リテ海ヲ渡リ一時十八分宮島駅ヲ発シ、二時過己斐駅ニ下リ、広島市吉川旅館ニ投宿ス、広島水力電気社員等出迎人多キ事如例、予ハ松本清助氏宅及ヒ小川公四郎氏ヲ訪フ、氏ハ週番不在ニシテ妻君ニ面会ス、時間ナキヲ以テ匆々ニシテ辞シ去リ、明暉楼ニ至ル、此処ニハ今夜当地商業会議所員始メ実業家五十余名ノ催ニカヽル招待会アリシナリ、男ハ需ニ応シテ朝鮮視察談及京釜加入勧誘談ヲナス、十時帰宿ス、男爵寒冒ノ気味アリ
十二月四日 快晴
男爵ノ広島ニ立寄ラレシハ先年来其経営ニ係ル水力電気会社ノ実況ヲ視察センガ為ナリ、即今日ハ呉ヲ経テ発電地ヲ視察スル事ニ決シ、朝起一行支度ヲ整ヘ水力電気会社ノ松本清助・同万兵衛・海塚新八・児玉春房・岡本敬太郎諸氏ト車ヲ聯ネテ字品ニ出テ九時半出帆ノ汽船江州丸(大阪ト中国トノ間ヲ航スルモノニシテ百四十七屯)ニ搭ス、右方ニ宇品島・江田島等ヲ眺メ十一時呉ニ着シ、吉川支店ニ投ス
呉ニハ軍艦及水雷艇十数艘投錨シ商船亦多シ、陸上鎮守府・兵器製造所・造船所等大ニ拡張セラレ、市街ノ繁昌可驚、人口二万余、実ニ往昔一漁村ニ過キサリシモノ近時海軍ノ為メニ俄ニ如此ナリシモノナリト云フ、モト生産事業ニヨリテ立ツノ地ニ非レバ市人モ軍人ヲ尊敬シ軍人又之ニ伴フテ非常ニ威張チラスト云フ
小休ノ後同勢皆人力車ニテ十一時半呉ヲ発シ広村ニ向フ、先、呉ニ於ケル会社ノ変圧所ヲ見ル、道路意外ニ好ク人力車ニテ田舎道ヲ行クモ聊苦痛ナシ、呉後方ノ峠ヲ越ヘ阿賀村ヲ経広村ニ出ツ、山ノ手崖端ノ新道ヲ行キ午後一時半広村ノ発電所ニ至ル、発電ノ装置及変圧所ヲ見タル後事務所ニテ弁当ヲ食シ、夫ヨリ岡本技師其他ニ導カレテ山上ニ攀ヂ水ノ取入口迄至ル、川ハ黒瀬川ト称シ両岸岸壁迫リテ広ノ滝ヲナ
 - 第25巻 p.54 -ページ画像 
ス、取入口ハ滝ノ上流数町ノ処ニアリ、水量潤沢堰ヲナシ本樋九町四十間、其レテ岩石ヲ穿ツ事百二十間、隧道ヲ出テヽ鉄管ニ移ル其長サ五百四十尺、但落差ハ二百七十尺、水樋及隧道水路ノ勾配ハ六百分ノ一ナリト、右等水路ニ沿フテ歩ムハ頗危険ノ地点多シ、故ニ男爵ハ迂路ヲ行キテ取入口ノミヲ見、予等壮者ハ水路ニ伝ヒ上下実視セリキ
終リテ帰路ニ就キ五時半呉吉川ニ帰宿
今夜同旅店ノ表座敷料理店部ニ於テ会社重役諸氏ヨリ一行ヲ饗セラレ手厚キモテナシアリ、男爵ハ海塚・松本二氏ト会社ノ要務ニ就テ密議アリテ退席セラレ、残員ハ十時頃迄緩話セリ
呉ハ海軍ヲ以テ立ツ新開地ナレハ一見実ニ繁盛ヲ極ム、吉川旅館ノ如キモ建築宏壮、室数多ク諸設備完備セリ、当市街電灯数千五・六百ケ皆前記会社ノ供給ニカヽル
十二月五日 晴
午前会社重役諸氏ト呉ノ市街鎮守府ノ近傍ニ散策ヲ試ミ、午前十一時半出帆ノ神坂丸(五十屯余)ニテ宇品ニ向フ、海上平穏、午下一時宇品ニ着、直ニ車ニテ広島ニ入リ、同市段原村ナル水力電気ノ本社ニ至リ、変圧所ノ装置及事務室ヲ見ル、一見質素勤倹ニシテ且ツ整理セルヲ見ル
二時卅五分発ノ列車ニテ広島ト別レヲ告ゲ東行ス、時間ノ都合ニテ神戸ヘ直行スル事ヲ見合ハセ、夜九時過岡山ニ下車シテ三好野花壇ニ投宿ス、今日ノ岡山投宿ハ微行ノ姿ナレハ誰モ知ル人ナク、従テ出迎人モ来客モナク、真ニ水入ラズニテ食膳ヲ共ニセリ、男爵寒冒喘息ノ気味アルモ甚シカラズ
十二月六日 雨
一行ノ内予ト竹内氏トハ未タ当岡山ニ有名ナル後楽園ヲ見タル事ナキヲ以テ、早起、雨中ヲ車ニテ同園ニ至ル、園ハ旭川ノ東ニアリ、旧藩主池田侯ノ築ク処、今ハ公園トナリ構内ニ県会議事堂・商品陳列所等アリ、園ハ幽邃ナル深林池辺ヲ囲ムアリ、別ニ一池アリ、近江八景ヲ摸ス、其他芝生・桃林・桜梅等ノ樹林ヲ作リ、小亭・神社等アリ、凡ヘテ古色ヲ帯ヒ閑雅清爽慥ニ一見ノ直打アリ、然レトモ時間ナキヲ以テ雨傘ヲカザシ殆駆足ノ体ニテ園内ヲ一周シテ帰宿ス
一行ハ八時五十分岡山発ノ列車ニテ神戸ニ向フ、降雨鬱陶シ
午後二時半神戸着、大坂ノ伊藤与七・山辺丈夫、三重ノ伊藤伝七其他十数氏出迎ハル、雨中車ニテ常磐花壇ニ投宿ス、男爵風邪快然セサルヲ以テ来客ヲ謝絶シ、早ク休息セラル
当店ハ料理店ヲ本業トシ、離レヲ臨時旅館ニ充ツルモノ也
船ノ長崎ニ着シ其ヨリ以来東ニ向フニ従テ女子ノ顔容漸ク美ニ移リ、次第ニ都ニ近クナルヲ証スルモ可笑シ
入浴食後書状数通ヲ認メ十一時休ム
十二月七日 雨
午前男爵ニ随行シテ第一銀行兵庫出張所ニ至リ事務ノ実況ヲ見ル、米肥ノ集散地タル丈アリテ、銀行預金・貸出共三十万以上アリ、神戸支店ヨリモ好景気ナリト云フ、主任ハ川島良太郎氏ナリ、新築予定地ヲモ見ル
 - 第25巻 p.55 -ページ画像 
次ニ同行神戸支店ニ至ル、熊谷支配人宿痾発シ引籠中ニ付、岸崎昌氏代理セリ、次ニ郵船会社支店ニ至リ移転予定ノ建物ヲ見ル、支店長ハ谷井保氏ナリ
昼台湾銀行支店長土岐僙氏ノ招ニ依リ男爵ニ随行シテ自由亭ホテルニ午餐ノ饗応ヲ受ク、知事服部一三氏以下相客二十人計也、男爵一場ノ談話ヲナス、朝鮮視察談ト京釜入株勧誘トナリ
一行ハ午後三時四十七分三ノ宮発ノ列車ニテ大阪ニ向フ、五時前梅田駅着、曾根崎伝法屋ニ投宿ス、不相変来迎来訪ノ客人多シ
徳子ヨリ四日附家信ニ接ス、去二十日仁川ニテ接手以来十七日目ニテ始メテ一家ノ無事ヲ知リ安堵セリ、直ニ返事ヲ発ス
市原氏ハ要務片付キシヲ以テ明朝先発トシテ帰東ノ筈
随行員ハ頗多忙、単独見物等ノ暇無シ
十二月八日 晴 寒風凜烈
早起九時ヨリ男爵ニ随行シテ河北ノ大阪汽車製造合資会社ニ至ル、井関・大原諸氏及長谷川技師等ノ案内ニテ工場ヲ一覧ス、目下仕上場ニハ阪堺鉄道ノ車輌アリ、構内ハ田地ヲ埋立テタル平地ニテ手広ク、諸建物・仕事場等頗整理セリ、次ニ今西林三郎氏ノ案内ニテ三軒屋ナル瓦斯会社新設予定地ヲ見、更ニ大阪紡績会社ニ至ル、大川英太郎氏ノ案内ニテ紡績工場ヲ一覧ス、殊ニ新設ノ織布機ハ米国最近発明ノ改良品ニシテ便宜極マルヲ見ル、目下同社ハ紡績五万四千錘、織布機七百台アリ、今回更ニ新発明ノ分五百台ヲ増設ノ計画ナリト
同社楼上ニテ昼飯ヲ喫シ終リ、男爵ハ大阪商業会議所ノ招待ニ臨ミ朝鮮視察談及京釜勧誘演説ヲナス為メ大阪ホテルニ赴カレ、予ハ一旦伝法屋ニ帰リ、玆ニ少閑ヲ得タルヲ以テ北久太郎町ノ森川氏ノ寓居ヲ訪フ、良子民始なか嬢・よし嬢共壮健ナリ、但何レモ眼病(トラホーム)ニ幾分悩マラルヽ如シ、ビール・すし(東京風)等ヲ馳走セラル、森川照太氏遠ク孟買ニアリ、良子夫人空シク孤灯ヲ守リ二児ヲ育ス、何トナク淋シ気ニ見ヘ気ノ毒ニ感シタリキ
時間ナケレハ匆々ニシテ辞シ、四時半高麗橋第一銀行ニ至ル、新築ノ洋館ニシテ頗整頓セリ、行員モ四・五十名アリ、当地ニテハ屈指ノ銀行タル位置ヲ占メリト、伊藤副支配人始竹山・広瀬・山脇諸氏ハ従来ノ知人也、軈テ男爵出頭行員ヲ集メテ心得向ノ演説アリ、午後七時随行シテ帰宿ス
今日ノ気候ハ大ニ寒ク、且風如何ニモ甚シク、予ハ着阪第一着ニ停車場前ニテ帽子ヲ風ニ吹キサラワレ追ヒ懸ケ行ク事一町余漸ク取リ返シタル位也、大阪人ニハ田舎モノト見ラレシナラン、如此意外ノ寒サナルヲ以テ今夜ハ予定ヲ変更シテ大阪ヘ尚宿泊スル事トナリヌ伝法屋女将今夜気焔万丈、談品川大人ノ事ニ移リ、花房ノ女将ト鞘当ノ一条抔ニ説及ボス、故伊達宗城侯・伊藤侯等皆御親類ノ間ナリト、今年五十近ク、白晳肥満稍ヤブニラミ也
伝法屋ノ女将おとよハ阪地ニハ有名ナルモノ、壮年ニハ北ノ新地ノ名妓ナリシト、品川大人ノ事ナド語リ出デ一場ノ閑談ニ時ヲ費セリキ
京都ヨリおさく・梅松及福女ノ一行下阪、男爵ニ侍ス
市原氏ハ愈今朝先発トシテ帰京ノ途ニ就キタレハ、一行ハ男爵ノ外竹内・八木ト予ト即主従四人トナル
十二月九日 晴 寒風甚シ
 - 第25巻 p.56 -ページ画像 
昨日ニ引続キ寒サ甚シク厳冬ノ如シ、一体ニ結氷セリ、新聞ニ依レハ諸国初雪降レリト
九時四十六分梅田発ノ汽車ニテ京都ニ向フ
十一時京都着、予ハ男爵ニ随行シテ烏丸通リノ第一銀行支店ニ至ル、日曜ナレトモ行員一同出揃ヒ、頭取ヨリ一同ヘ行員トシテノ心得向訓示演説アリ
楼上ニテ中川支配人ト昼餉ヲ共ニシ、其後川端ノ京都織物会社ニ至リ田中・渡辺・中井・辻川・舟橋等ノ諸氏ト会談、終テ工場ニ導カル、羽織裏地・半襟地等ノ手機ヨリ都繻子・生繻子等ノ器械機場ヲ始メ撚糸場・仕上場・染工場等ヲ巡覧ス、器械ノ精巧驚クヘキハ勿論、前日見タル紡績工場等ト違ヒ清浄且優美ニ見エ、工女ノ頭髪ヨリ着衣等ノ美ハ容色ト相映シテ紡績工女ノ垢面汚衣ト同一ノ談ニ非ス
中ニ青淵先生肖像ヲ美術写真織ニ附スル処アリ、技師舟坂八郎氏先キニ仏国里昂ニテ伝習シタル処ノモノヲ、玆ニ同先生還暦祝賀ノ為初メテ試ミ成効シタルモノナリト云フ
終テ男爵ハ南禅寺ノ山県侯邸(無隣庵)ヲ訪ハレ、予ハ旅館玉川楼ニ帰ル、楼ハ木屋町通リ三条上ル処ニアリ、川ニ添ヒ楼ヨリ直ニ川ヲ隔テヽ東山ハ一眸ノ内ニアリ、予ハ本日以上往復ノ外見物ノ暇ナク只大極殿ノ建物ハ途上初メテ一瞥シタルノミ、但何処ヲ通リテモ風光明媚人家・通行人ノ風俗ニ至ルマテ凡ヘテ所謂みやびやかニシテ、明媚ナル風景ト相映シ実ニ爽快ニ感セリ、宿屋ノ楼上ヨリ東山一帯ヲ眺メ、女婢ノ説明ヲ聞ケハ、去廿三年ノ頃一回見物セシ当時ヲ回想シ、只今回ノ行余日ナクシテ見物ノ暇ヲ得サルヲ憾メリ
昨今意外ノ寒気ニ冒サレシニヤ、予ハ今夕来腰筋痛ヲ覚夜按摩ヲ雇フ
十二月十日 晴
京都ハ名残惜クモ一泊ニテ辞シ去ルコトヽナリ、今朝九時七条発ノ列車ニテ伊勢ニ向フ、草津ヨリ関西鉄道ニ乗換フ、予ハ関西鉄道ハ今回ヲ嚆矢トス、再伊賀ノ拓植ニテ乗換フレハ之ヨリ鈴鹿山ノ麓隧道永ク道急ニシテ寒威弥加ハル、三度ヒ亀山ニテ乗換ヘ玆ニ出迎ノ伊藤伝七斎藤恒三・佐々木清麿諸氏ト合ス、関西ノ列車中大阪ヨリ名古屋ヘ直通ノモノハ官線ト競争ノ為食堂車・寝台車等ノ用意アリ、且乗客ノ便宜ヲ計ル事頗力ム
一時半津ニ着ス、先伊藤氏等我一行ヲ聴潮館ニ導キテ昼餐ヲ饗ス、芸妓数名ヲ聘シテ接待セシム、終リテ川向フニ渡リ三重紡績会社津分工場ニ至ル、地域広ク建物完備、皆平家建ニシテ工場内頗整理シ、食堂寄宿舎・病院等ノ設備何レモ整頓セリ、凡ヘテ大阪紡績会社ニ比シ大ニ径庭アリ
目下紡績錘数一万四千余、織布機ハ目下新設準備中ナリト、頃日市場不況紡績糸ハ幾分ヲ休業スル位ナルモ、織布ハ之ニ反シ売行ニ苦マズト云フ
一覧終リテ阿漕駅ヨリ四時半ノ列車ニ打乗リ、七時四日市ニ着、下車シテ如例沢山ノ出迎人ニ伴ハレ伊藤伝七氏ノ別邸昌栄館ニ投宿ス、入浴後伊藤氏ヨリ吾々一行ニ盛餐ヲ饗応セラレ、三重ノ重役斎藤其他社員安田・真野氏・井島茂作氏・四日市第一銀行支店長佐々木清麿氏、
 - 第25巻 p.57 -ページ画像 
三重ノ社員旧友木村知四郎等皆同席ス、就中真野工学士最酒ニ強ク夜半迄対酌シ頗閉口セリ
十二月十一日 曇
午前男爵ニ随行三重紡績会社本社ニ至リ工場ヲ見ル、錘数二方八千、不相変諸事整理セリ
次ニ第一銀行四日市支店ニ至ル、頭取ヨリ店員ヘ訓示ノ演説ハ依例如例、又一同ヘ土産料モ各支店皆同一ノ例ニ依ル、平均一人弐円ノ目安也
カクテ十時五十分ノ列車ニテ四日市ヲ発シ正午名古屋ニ下車ス、旅館ハ丸文ト定メシモ予ハ男爵ニ従ヒ停車場ヨリ直チニ名古屋ホテルニ至リ、同地経済会ノ催ニカヽル午餐会ニ列ス、奥田正香氏挨拶ヲ陳ヘラル、洋食ノ饗応ニシテ、ホテルノ構造モ立派ナレトモボーイ其他手回リ兼ネ頗敏捷ヲ欠ケリ、右饗応終リテ男爵ハ名古屋商業会議所ニ至リ経済会其他ノ需ニ応シテ朝鮮視察談及ヒ依例京釜鉄道勧募談ヲナサレシト云フ、然カレトモ予ハホテル限リニテ辞シ去リ、途上仁川以来十八日目ノ理髪ヲナシ、夕刻丸文ニ帰宿ス
京都ノおさく・梅松・ゆた・おふく等一行玆迄随行男爵ニ侍セシカ明日ハ西ト東トニ分ルヽ筈、但おさく丈所用アリ東京迄同行スト云フ
今夜第一銀行名古屋支店支配人湯浅徳次郎氏川文ニ小宴ヲ設ケ男爵始一行ヲ饗応ス、真野氏・宮里氏同席シ、又京都ノ女達モ席ニ陪ス(三井物産ノ宮島氏、第一銀行ノ西条峰三郎二氏亦同シ)芸妓ハ所謂名古屋本場ノモノ七・八名、曰ク花子、曰ク某々、皆容色芸道共ニ秀ツ、数番ノ踊ヲナシ執着獅子ノ囃ナド演ス、京都一行ノ内おふく遂ニ引出サレ大原女ヲ舞フ、川文ノ女将長歌勧進帳ヲ歌フ、真ニ美声寧ロ清元的清音也、男爵興至リ自ラ二上リ新内・義太夫等数番ヲ試ラル、ヨク勉メヨク遊フハ古人ノ戒メ、厳乎タル平時ノ音容、嬉々タル観楽ノ容貌ノ月鼈啻ナラサル亦宜ナリト云フベシ、今夜湯浅氏小集ヲ催フシタルノ趣旨ハ男爵長途ノ旅労ヲ慰メン為メ、ホンノ内輪丈ノ小集ニ止メシトノ事ナリシガ、実ニ其目的ヲ達シタリト云フヘシ(西条峰三郎亦ヨク歌フ)十二時丸文ニ帰宿ス
十二月十二日 曇
朝湯浅・佐々木・西条等ノ需ニ応シテ男爵揮毫セラレ、終テ第一銀行名古屋支店ニ至ル、予モ随行ス、昨年一月改築新ニ成リ石及煉瓦造リ震災地ノ為丈低キモ壮麗タルヲ失ハズ、一同ニ訓示如例、原簡亮氏ニ久振リ面会ス
次ニ真野愛三郎氏ノ案内ニテ三重紡績愛知分工場ニ至ル、錘数二万四千、織布機五百七十台アリ
愈十二時廿六分ノ急行列車ニテ名古屋ヲ発シ帰京ノ途ニ就ク、既往四十四日間長途ノ旅行ヲ経愈帰京ノ途ニ就ケハ何トナク急行列車モ遅キヲ憾ムノ心ヲ生シ、退窟ヲ極メ漸ニシテ午後十時半新橋ニ安着セハ出迎人如雲、予カ宅ヨリハ徳子懐妊所労ノ為よし子氏及いく女外ニ樹次郎等来迎、共ニ十一時前帰宅セハ徳子始鄰子等皆健全、予モ長途旅上別段ノ疲モナク、一同打寄リテ其無事ヲ祝セシゾ目出度カリキ