デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

2章 国際親善
2節 国際団体及ビ親善事業
1款 喜賓会
■綱文

第25巻 p.454-465(DK250017k) ページ画像

明治26年3月(1893年)

是月栄一、侯爵蜂須賀茂韶・益田孝等ト共ニ外客誘致ノ目的ヲ以テ喜賓会ヲ設立シ、其幹事長トナル。


■資料

青淵先生六十年史 竜門社編 第二巻・第六三五―六三八頁 明治三三年六月再版刊(DK250017k-0001)
第25巻 p.454-455 ページ画像

青淵先生六十年史 竜門社編  第二巻・第六三五―六三八頁 明治三三年六月再版刊
 ○第五十八章 公益及公共事業
    第八節 喜賓会
本邦ノ風景美術ハ外国人ノ感賞スル所ニシテ、遊覧人ノ外国ヨリ来ル者年々増加セリ、此等外国人ノ我邦ニ費ス所ハ本邦人ノ利益ニ帰スル少ナカラス、故ニ我邦ニ於テ旅店ヲ改良シ、案内者ノ制ヲ完全ニシ、成ルヘク旅行者ノ愉快ヲ与フルノ方法ヲ設ケ、外国来遊者ヲ増加スルハ、国家ノ声誉ト利益トヲ増進スルニ極メテ必要ナリ
明治二十六年五月青淵先生《(三月)》、有志ノ士ト協議シ喜賓会ヲ設立シ、幹事長ニ当選ス、其設立ノ趣旨目的ハ左ノ如シ
 詩ニ曰ク、我有嘉賓中心喜之、善哉此ノ言、今夫レ汽船海ニ蹴リ汽車陸ニ馳セ、東西ノ間日ヲ期シテ来往シ、絶境遐域皆比隣タリ、是ニ於テ我国山河ノ秀、風景ノ美ヲ欣慕シ、物産工業ヲ称賛シテ、万里来遊ノ紳士淑女ハ日ニ月ニ数ヲ増シ、陸続踵ヲ接ス、是皆我国ノ嘉賓タリ、我儕中心之ヲ喜フモ、亦之ヲ待遇スルノ道備ハラスシテ来遊ノ意ヲ満タシムル能ハス、是唯々我儕ノ遺憾ノミナラス、亦一大闕典ト謂フヘシ、試ニ看ヨ、来遊ノ嘉賓カ千類万種ノ天造人製ヲ観ント欲スル乎、未タ陳列場ノ整備セサルヲ以テ、其応ニ往クヘキノ所ヲ知ルコト能ハス、精妙珍奇ノ美術絶品ヲ覧ント欲スル乎、未タ博物館ノ大成ニ達セサルヲ以テ、其正ニ赴クヘキ地ヲ知ルコト能ハス、朝野知名ノ人士ニ会シテ国情ヲ聴カント欲スル乎、倶楽部若クハ集会所ニ就テ相見ルノ便ヲ欠クヲ以テ、紹介容易ナルコト能ハス、名山大川ノ勝ヲ探リ、水明山媚ノ秀ヲ見ント欲スル乎、甚タ嚮導ノ書ニ匱シク、又其人ヲ倩フニ難キヲ以テ、跋渉登臨ノ志ヲ全フスルコト能ハス、此レ等ノ諸事ハ皆我国ニ来遊スル者ノ甚タ恨トスル所ニ非スヤ、彼ノ瑞西ヲ見ヨ、欧洲諸国ノ士女称シテ世界ノ楽園ナリトシ、侶伴相群シテ漫遊スル者常ニ絡繹タリ、而シテ其交通運搬旅舎嚮導等ノ如キ、凡ソ来遊者ノ為ニスルモノ便宜一トシテ具備セサルハナシ、是其年々歳々数万ノ来遊者ヲ招致スル所以ニシテ、瑞西一国ノ富饒ハ実ニ来遊者カ齎ス所ノ資ニ基ク者ナリト云フモ蓋シ過言ニ非サルヘシ、夫レ我国山河風景ノ秀麗ナル、遊賞行楽ニ適宜ナル、決シテ瑞西ニ譲ラス、其区域ヲ論スレハ寧ロ大ニシテ更ニ優ルアルヲ疑ハス、其瑞西ト東西相対シテ天与ノ楽園タルニ拘ラス
 - 第25巻 p.455 -ページ画像 
其来遊者ヲ招致スルニ於テ逈ニ幾籌ヲ譲ル、殆ント比較ノ外ニ在ル者ハ何ソヤ、他ナシ、未タ招致スルニ足ルノ便宜ヲ備ヘサルカ故ナル耳、我儕玆ニ感スル所アリ、新ニ喜賓会ヲ創立シ、聊以テ此ノ闕ヲ補フノ階梯タラント欲ス、其目的ハ敢テ多キヲ望マス、凡ソ我ニ不利ナラサル者ハ、務メテ来遊者ノ為メニ便宜ヲ得セシメント欲スルニ在ル而已、方今鉄道運河東西ニ盛ニシテ、我国ノ地勢正ニ交通往来ノ咽喉タラントス、来遊者ノ日ヲ逐ヒ月ヲ経テ益々其多ヲ加フルコト、弁ヲ俟タスシテ明カナリ、若シ此ノ来遊者ヲシテ遊賞行楽ノ具ヲ充シ、会合購買ノ便ヲ得、世界ノ楽園ト称セシムルニ至ラハ彼ノ瑞西ヲ凌駕スルニ至ルモ亦決シテ難キニ非スシテ、寔ニ彼我ノ双益タリ、之ヲ奈何ソ委棄シテ顧ミサルヘケンヤ、且夫レ物産ノ美ヲ説キ、製作ノ妙ヲ演ルモ、之ヲ百言スルハ之ヲ一見セシムルニ若カス、我国許多ノ産出ヲシテ広ク宇内ニ使用セシメ、以テ我利源ノ益々深キヲ計ランニハ、専ラ来遊者ヲシテ親シク之ヲ目撃セシムルヨリ善キハ莫シ、加ルニ彼ノ嘉賓ノ来ルニ際シ、時ニ或ハ相会シテ農ニ工ニ商業ニ殖産ニ、政治風俗ニ、文学美術ニ之ヲ談シ、之ヲ話シ、遊賞行楽跋渉登臨ト倶ニ彼ノ観風ノ資ニ欠遺ナカラシメハ、啻ニ彼ヲシテ我待ツ所ノ周到ナルニ満足セシムル而已ナラス、此ニ因テ我ヲ利益スル所モ亦決シテ鮮少ナラサルナリ、喜賓会ヲ創立スルノ目的ハ実ニ斯クノ如クニシテ、中心之ヲ喜フノ実ヲ挙行スルノ機ハ、即チ今日ニ在ルヲ知ル、望ムラクハ大方君子此ノ挙ヲ嘉賛セヨ乃チ会則ヲ左ニ列記シテ以テ瀏覧ニ供ス 云爾
   ○「青淵先生六十年史」ニハ会則ヲ掲ゲズ、他ニ尋ネタレドモ得ズ。


青淵先生公私履歴台帳(DK250017k-0002)
第25巻 p.455 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳        (渋沢子爵家所蔵)
    民間略歴(明治二十五年以後)
明治二十六年
一喜賓会ヲ創立シテ其幹事長トナリ、現ニ其職ニァリ
  本邦ノ風景美術ハ外国人ノ感賞スル所ニシテ、遊覧人ノ外国ヨリ来ルモノ年々増加スルヲ以テ、我国ニ於テ旅店ヲ改良シ又ハ案内者ノ制ヲ完全ニシ、成ルベク旅行上愉快ヲ与フルノ方法ヲ設ケ、以テ外国来遊者ヲ増加シ、引イテ国家ノ声誉ト利益トヲ増進スルヲ目的トシテ、有志ノ士ト協議シ本会ヲ設立シタルモノニシテ、設立以来其幹事長トナリ、現ニ其職ニァリ
 以上明治三十三年五月十日調


喜賓会解散報告書 同会本部編 第三―七頁 大正三年三月刊(DK250017k-0003)
第25巻 p.455-458 ページ画像

喜賓会解散報告書 同会本部編  第三―七頁 大正三年三月刊
  喜賓会事業之梗概
    創立目的及役員
我国山河風光の秀、美術工芸の妙、夙に海外の称賛する所となり、万里来遊の紳士淑女は日に月に多きを加ふるも之を待遇するの道備はらず、旅客をして失望せしむること尠からざるを遺憾とし、同志者深く之を慨し、遠来の士女を款待し、行旅の快楽観光の便利を享受せしめ間接には彼我の交際を親密にし、貿易の発達を助成するを以て目的と
 - 第25巻 p.456 -ページ画像 
し、明治二十五年十月発起者相会し、事務所を帝国ホテル内に設け、同二十六年三月創立総会を開き、名けて喜賓会と称し、創立の主趣並に規程を決定し、左の如く会長を推薦し役員を選挙せり

図表を画像で表示--

  会長  侯爵 蜂須賀茂韶君  幹事長    渋沢栄一君  幹事  横山孫一郎君   鍋島桂次郎君  益田孝君      三宮義胤君    福沢捨次郎君  侯爵 木戸孝正君  評議員 井上勝之助君   岩下清周君   大倉喜八郎君      小野義真君    若宮正音君   吉川泰次郎君      高田慎蔵君    園田孝吉君   辻久米吉君      中上川彦次郎君  中田敬義君   梅浦精一君      矢野次郎君    曲木如長君   古沢滋君      ブリンクリー君  コンダー君   デニソン君      荘田平五郎君   ジエームス君  平岡煕君      森村市左衛門君  末延道成君 



本会の綱領として左記の五項目を掲げ之が遂行を期せり
一旅館の営業者に向て設備改善の方法を勧告すること
一善良なる案内業者を監督奨励すること
一勝地・旧蹟・公私建設物・学校・庭園・製造工場等の観覧視察上の便宜を謀ること
一来遊者を款待し、又我邦貴顕紳士の紹介の労を執ること
一完全なる案内書及案内地図類を刊行すること
    旅館に関すること
全国中外客の宿泊に適せる洋風ホテルの設備なき地方に於ける枢要の旅館に対して時々注意書を発し、給仕の心得、寝具・食事・洗面所及便所の設備等、外客接待に関し改良を要する事項を掲げ、指導する所ありたり
    案内業者に関すること
横浜・神戸・長崎・東京及京都に於て、通弁案内業を営める開誘社・東洋通弁協会員及其他より、本会の監督を希望する者百名以上ありたるを以て、本会は本人の出頭を求め、学力其他に就き相当の調査をなし、最も適当なる資格を具備すると認めたる者に、監督証及徽章を交附せり
明治四十年七月内務省令第二十一号を以て案内業者取締規則の発布ありしが、其条項中には嘗て本会より其筋へ建議したる事項の多きを見たり
    観覧視察上の便を謀ること
来遊者は勝地風景観光の外、我邦に於ける学事・商工業の実際を視察せんとする者多ければ、本会は東京及全国各地に亘りて是等の紹介を為すことに努めたり、左記の公私建物・学校・庭園・会社・製造工場等の監理者若くは所有者は大に本会の主旨を賛助せられ、紹介せる外客に対し常に厚意を以て之れが観覧の便を与へられたり、本会は多年間に於ける是等各位の芳情に対し感謝措く能はざる所なり
  後楽園         大隈伯庭園      渋沢男庭園
 - 第25巻 p.457 -ページ画像 
  大倉氏博物館      益田氏応挙館     鹿島氏庭園
  帝国議会        貴族院        衆議院
  東京帝国大学      学習院        同女学部
  東京高等師範学校    女子高等師範学校   東京高等商業学校
  東京高等工業学校    第一高等学校     東京美術学校
  人類学参考品場     医科大学附属医院   日本赤十字社病院
  警視庁撃剣会場     警察署撃剣会     日本体育会
  大審院         東京控訴院      東京地方裁判所
  印刷局         同王子抄紙部     西ケ原農事試験場
  中央気象台       東京天文台      東京株式取引所
  東京米穀取引所     大日本麦酒株式会社  同吾妻橋工場庭園
  芝浦製作所       東京煙草製造所    山路壁紙製造所
  石川島造船所      淀橋浄水場      王子製紙株式会社
  東北農科大学      盛岡高等農林学校   第二高等学校
  仙台医学専門学校    原富岡製糸所     八王子製糸所
  横浜船渠株式会社    横浜商業学校     富士製紙株式会社
  原名古屋製糸所     三重製糸所      三重紡績株式会社
  桑名紡績株式会社    第四高等学校     金沢医学専門学校
  京都帝国大学      第三高等学校     京都高等工芸学校
  京都市立陶磁器試験場  京都第一高等女学校  造幣局
  大阪城         生野礦山       第六高等学校
  岡山医学専門学校    広島高等師範学校   浅野侯泉邸
  別子銅山        田川炭坑       製鉄所
  福岡医科大学      三池炭坑       三菱造船所
○中略
    案内書及案内地図に関すること
本会は携帯に簡便にして且つ正確なる英文日本案内地図の欠乏せるを遺憾とし、明治三十年全国各地に照会して材料を蒐集し、多大の労力と注意とを払ひ一冊を編成し、之を刊行して汎く内外各地に頒布せり当時此種の地図皆無なりしを以て、本邦に於ける各英字新聞紙は我邦旅行上の好侶伴なりとし、何れも筆を揃へて此挙を激賞せり
本会は此地図を特製帙入となし、別に邦文を以て本会の組織・目的及本図刊行主意書を添へ、宮内大臣に執奏を願出で
聖上皇后両陛下並に皇太子同妃両殿下に献納の光栄を得たり、此地図は時に或は仏文を以て発刊したることあるも重もに英文を以てし、断へず改訂増補に意を用ゐ版を重ぬること既に十一版の多きに達せり
本会は英文を以て第五回内国勧業博覧会及全国勝地案内書を編纂し、美麗なる風景画を挿入し、装釘亦意匠を凝らせしが、農商務省博覧会事務局は特に此案内書を買上げ、同省の招待せる来遊貴賓に進呈し、又別に清文を以て同一体裁の案内書を刊行し、清国より来賓に進呈《(の脱カ)》したり
博覧会の終了するや、本会は多年の希望に係る簡便正確の英文日本案内書の刊行を必要とし、明治三十七年鋭意之が編纂に着手し、記事の体裁は彼の「ベデカー」著欧米諸国の案内書に準拠し、距離・時間よ
 - 第25巻 p.458 -ページ画像 
り船車・宿泊等の賃金費用等に至るまで悉く網羅して、内地各方面に亘る旅行の方法を列挙し、経費の多少を比較し、沿岸航路の便否を示し、美麗なる風景図を挿入して汎く之を頒布せしが、大に内外の賞讚を博し、会務発展上多大の便宜を得たり
○下略


雨夜譚会談話筆記 下・第七二〇―七二三頁 昭和二年二月―昭和五年七月(DK250017k-0004)
第25巻 p.458 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  下・第七二〇―七二三頁 昭和二年二月―昭和五年七月
                    (渋沢子爵家所蔵)
  第二十六回 昭和四年十月二十九日 於丸ノ内二十八号館内渋沢事務所
    一、外客誘致策に就て
先生「外客誘致策と云ふ程でもないが明治二十年の頃、多少それに類した事を企てた事がある。其頃農商務省の商工局長をして居た南貞助と云ふ人が、日本は風景はよし、新しい国として、外国から眼を着けられて居るしするから、接待法をよくしさへすれば、必ず欧米人を誘致することが出来ると云ふ事を、頻りに外務関係の人へ申出た。此人は何でも長州の人だつたと思ふ。喜賓会は、その時組織されたのであつて、南氏が担当者で、私等が其世話をする事となつたのである。何でも仏蘭西や瑞西にそんな設備があつたので、日本がこれを真似たのである。当時井上さんが外務大臣をやつて居つて、此企に同意し、自らも主張されたので、私と益田孝氏とが申合せ、費用の方の心配は主として私等がやつた。外客をお世話すると云つても、唯漠然と無責任な案内をする丈ではいかぬ、それには鉄道の連絡、其他ホテルの設備等が、是非必要となつて来たのである。ところが当の担当者たる南といふ人が、極くやりつぱなしで、規律の立たぬ人だつたので、接待の方法なども弁へないと云つた塩梅だつた。私も種々心懸けて、思ひ附いた時には其都度世話をするやうにしたけれども、首脳の人が意気地なしだつたため、そううまく行かなかつた。南氏のあとを弘岡幸作氏が引受けたが、弘岡氏は多少海外の有様にも通じてゐたと思ふ。それから鉄道院の方で、ツーリスト・ビユーローを設立して、組織的に外客接待をやる事になつたので、喜賓会の事業もそれに譲り、大正三年に解散したのである。考へて見ると、喜賓会の企ては、素人の集りで、所謂聞き学問でやつた次第で、外客接待の事も唯其一部分に着手したに過ぎない。そんな具合で、喜賓会の事業が果してツーリスト・ビユーローに貢献したかどうかも疑問である。けれども喜賓会の企は、決して無駄ではなかつた。着眼は確かによかつたと思ふ。そして私と益田氏とは、偶々東京商業会議所の正副会頭をやつて居つた関係から、それを援助する事になつたのである。 ○下略
   ○此回ノ出席者ハ、栄一・渋沢篤二・同敬三・白石喜太郎・佐治祐吉・高田利吉・岡田純夫・泉二郎。
   ○井上馨ノ外務大臣タリシハ明治十八年十二月成立セル伊藤内閣ニシテ、井上ハ同二十年九月之ヲ辞任セリ。故ニ喜賓会成立ヨリ数年前ノ事ナリ。当時ヨリノ企画トイフベキカ。

 - 第25巻 p.459 -ページ画像 

竜門雑誌 第五四九号・第六九―七〇頁 昭和九年六月 青淵先生と喜賓会(弘岡幸作)(DK250017k-0005)
第25巻 p.459 ページ画像

竜門雑誌  第五四九号・第六九―七〇頁 昭和九年六月
  青淵先生と喜賓会 (弘岡幸作)
    ツーリスト・ビユーロー創立の由来
○上略
 大正二年二月三日、帝国ホテルに開催せられた「ツーリスト・ビユーロー」創立披露会席上に於て、青淵先生は『喜賓会に就て』左の如く御話を遊ばされました。
  日本の維新後の進歩は総てのものに及びましたけれども、併し東洋に於ても支那とか印度とか云ふ国とは、国柄も異つて居りますから、欧米人が来遊に際して如何なる感じを持たれるか、殊に美術を以て誇として居る傍、成るだけ一日も長く足を留めると云ふ観念は唯単に御国自慢でなしに、一種の経済的考へとして持たねばならぬと云ふ事は、何人も考へたので御座います。併しそれは考へて居つたけれども、外国人の来遊に対する設備に就ては「ホテル」を見ましたが、横浜・神戸にはありますけれども、其有様は便利でなく、順序なしに旅をする者の便利に供するといふ事は、殆んどあまり考へる人もなかつたと云ふても宜しいので御座います。
  斯く申しますと、私共其事に就て先覚者とでも自ら己惚れる様に御聴取になるかも知れませぬが、恰度益田孝君と共に之を何とかしたいものだと云ふことから、其頃東京商業会議所に共に出て居りました時で御座います。懐ひ起しますと明治十九年、殆んど二十五・六年前の事で御座います。何かさう云ふ設備が必要であらうと云ふ事で、欧米人の日本に来遊する者の便利を図らうと云ふ事で、種々なる手段方法を尽しました。それで前に申しました必要に依て喜賓会なるものを設けられましたが、力が足らなかつたのか、或は時が来なかつたのか、何分進みが鈍う御座いました。併し其間に色々案内地図若くは旅行方法書などと云ふ種々なる印刷物を作つて、之を海外へも送り、又内地にも備へて待遇上の便利に供する様にし、神戸とか横浜には斯う云ふ印刷物も御座いますと云ふて披露し、極く初めての人で色々の方面に旅行したいと云ふ人の為めに、便宜に供すると云ふ事を僅かに形造つたので御座います。併し之は全く小さい会で、僅かの会費に依つて組立てたものですから、右に申す如く案内地図等を作つて配ると云ふやうな点に、所謂得失相償はず一年少くも三・四千円掛るが、其費用を会費から調達する事が出来ない必要があるのにその必要に応じ切れないので、何んとかしやうと云ふので、各有力者間を説く事となり、此処に居られる郵船会社の近藤廉平君とか、或は鉄道は各会社に分れて居る頃であつたからさう云ふ向々に頼んで一臂の助力を乞ひ、僅かに経営し来つたので御座います。
○下略
   ○右文ニ明治十九年ト云ヘルハ既ニ同年頃ヨリ外客誘致ノ問題ヲ議シタルモノナルベシ。前掲「雨夜譚会談話筆記」及ビ後掲参考資料ヲ参照。



〔参考〕竜門雑誌 第四九三号・第八〇―八三頁 昭和四年一〇月 外客誘致策の今昔所感(弘岡幸作)(DK250017k-0006)
第25巻 p.459-461 ページ画像

竜門雑誌 第四九三号・第八〇―八三頁 昭和四年一〇月
 - 第25巻 p.460 -ページ画像 
    外客誘致策の今昔所感 (弘岡幸作)
      ―青淵先生主唱―
 国際貸借改善に関しては、国際貸借審議会並に関税審議会及び政府が審議研究中であると共に、東京商工会議所でも財界に関する調査委員会に於て之が改善方策を研究中で、同委員会では輸出入貿易及び運賃等貿易外受取勘定の改善は、勿論重要のこととして、之についても調査研究中であるが、之が改善は相当の困難と時日とを必要とするので、差当り最も簡易にして効果ある外客誘致策から着手すべきことを提唱してゐるとは、最近の新聞紙上に於て報道せられる所である。
 我国で海外観光旅客を歓待することを必要とし、朝野の間に論議しはじめられしは、明治二十五年頃からである。青淵先生と蜂須賀茂韶侯.益田孝男は特に熱心な主唱者であり、遂に政府の大官、有力の華族.実業家、其他欧米に於て新知識を得て帰朝したる紳士等の共鳴賛同により、同年十月喜賓会と称する協会が東京に於て成立した。先生は幹事長に当選し、つゞいて副会長に推薦せられしが、同会事業に対し始終偉大の勢援を与へられた。
 青淵先生六十年史に掲載された喜賓会設立の趣旨目的の全文中に、左記の一節がある。
   ○趣旨目的前掲ニツキ略ス。
喜賓会は上記の主趣を振厲して、汎く江湖君子の賛成を求めた、然しながら日清戦役前後は世間一般に排外思想が猛烈であり、其の事業の進捗は頗る困難であつた。
 其頃我が国に来遊する外客は、毎年七・八千人位で、観光地域は大概北は仙台松島より南は瀬戸内海巌島まで、其滞在期間は長くて一ケ月、短かきは一週間にて、唯寄港地附近を逍遥するに止まる者もあり平均一人一千三百円位を費消するから、少なくも一千万円は我が国の現金勘定が殖える、之を座貿易の収入と称してゐた。
 枢要都市や名勝地に於ける外客宿泊に応ずる設備甚だ不完全であり又外客に広く頒布するに好適な案内書冊や地図類がない、依つて外客旅行用として、英文日本地図を喜賓会が初めて発行したのが、明治三十年十一月であり、続いて諸種の案内書冊が出来た、右協会の出版物は、其都度明治大帝に献上し奉り御嘉納の光栄に浴した。
 畏きあたりより遂に喜賓会へ御下賜金を給はることゝなり、青淵先生は宮内省に出頭せられ、田中宮相を経て恩賜を拝受された、私はこれ等著作物の編纂を担任したが、新領土たる台湾地方の如きは乃木将軍が台湾総督であり、丁度上京せられたから其事情を述べ、副官から原図を貰ひうけた。明治三十六年第五回内国勧業博覧会が大阪に於て開催せられ、此機会を利用して盛んに外客を誘致せんとの説が出で、博覧会事務局も大いに力を添へられたから、英文と支那文とのパンフレツトを印刷して、汎く海外に配附した、所が米国方面から我が勧誘状に応じて渡航するが、到着の上で宿泊に困難するようなことはないかと、東京商業会議所へ照会があつたので、会頭中野武営氏は、東京でもホテルが不足だから農商務省の建物を借受け、之を代用せんなど奇論を吐きしも、実は窮余の窮策であつた、果して同年は外客激増し
 - 第25巻 p.461 -ページ画像 
殊に桜花爛漫の時季に於て輻輳せし外客は、ホテルがないため日本風旅館に宿泊するの辛酸を嘗め、或は上陸を見合はせ其儘船室内に閉ぢ込められる余儀なき浮目に逢つた者も沢山あつた。
 喜賓会の出版物は、海外枢要の都市に於ける我が大使・公使及び領事館等を経て、其所在地の倶楽部等に配付し、又一面に於ては旅行案内会社、即ち倫敦に於ける「トーマス・クツク・アンド・ソン」本社を始め、欧米濠洲等の各地にある同社代理店・米国枢要鉄道会社・布哇振興会等へ頒布した、又独・仏・伊・白等の旅行案内倶楽部よりも書冊寄贈の要求をうけたるため、一々之に応ぜんには数十万部を要し従つて出費大いに嵩み到底会員の醵出金のみにては支弁し能はざるを以て、有力な汽船会社及び対外事業に関係ある富豪の会社へ出金を勧誘すると同時に、政府に対し陳情することゝなつた。
 時維れ西園寺内閣にて、首相は、阪谷大蔵大臣・林外務大臣と共に其官邸に於て喜賓会代表委員と会見せられ、青淵先生は席上、同会の主旨目的と事業経過の状況を委しう陳べられた、私も其席末に列したが、其後間もなく先生も平井鉄道院総裁との会談となり、続いて私は先生の命により右総裁に面会し、鉄道院との交渉に当つたが、其結果鉄道院は喜賓会出版物を買上げ、我国来遊の外客に汎く配附することとなり、而して其手続方法は凡て同会に一任となつた。
 喜賓会は大正三年三月解散し、之と同一の目的を以て、我が国に於ける運輸交通機関たる鉄道・汽船会社・ホテル、其他外客に直接営利的関係ある有力な会社並に商舗等を会員とする「ジヤパン・ツーリスト・ビユーロー」が組織せられ、外客歓待事業に努力してゐる。
 来遊外客は爾後漸次其数を増し、明治四十年頃は毎年約一万五千人を算へ今や三万人に及ぶと云ふ。世界に於ける三大観光国といへば瑞西・仏蘭西・伊太利を挙げねばならぬ、一九二六年中来遊外客の消費額は仏国八億九千五百万円、伊国三億八千八百万円、瑞西一億六百万円で、同年中日本に於ける来遊外客の消費額は四千九百万円である。我が国に於ける現時の来遊外客平均一人の消費額一千六百円と見積れば、四千八百万円となる、前記の我が国に於ける外客の消費額と殆んど一致して約五千万円と見做すことが出来る、勿論仏・伊・瑞の三ケ国と日本とは国勢の事情など甚だ異なるものあるが、斯の如く消費額の数字に大差あるにつけても、将来我が当局者の努力如何により、上記の外客消費額を更に倍加するの余地あることは洵に明瞭である。
 官民協同による観光局の設置や、又現在のツーリスト・ビユーロー充実拡張等の具体的外客誘致策が、今や盛んに論議せられることを聞くにつけ、私は大いなる愉快を感ずると同時に、青淵先生が斯業に対し始終尽瘁せられた偉大の功績を追憶感銘する次第である。(完)
   ○御下賜金ハ一千円ニシテ明治三十六年七月十四日拝受セリ。内閣総理大臣トノ会見ハ明治四十年五月八日ナリ。(弘岡氏日記ニヨル)



〔参考〕東京商工会議事要件録 第三二号・第五―一二頁 明治二一年六月刊(DK250017k-0007)
第25巻 p.461-464 ページ画像

東京商工会議事要件録  第三二号・第五―一二頁 明治二一年六月刊
  第十六定式会
           (明治二十一年五月廿一日開)
  第廿九臨時会
 - 第25巻 p.462 -ページ画像 
    会員出席スル者 ○二十九名
午後六時十分一同着席
○中略
次ニ会長(渋沢栄一)ハ、兼テ本年一月中五十八番(益田孝)ヨリ提出セル外国人接待協会設立ノ件ハ、兼テ同月廿七日ノ臨時会ニ於テ相談スベキ見込ニシテ、其趣旨書ハ当時印刷シテ各員ニ配附シ置キタレドモ、時間ノ都合ニヨリテ不得已今日迄延引シタルガ、右ハ敢テ本会ノ議題ト云フニハアラザレドモ、余リ日合モ経過シタル事故、都合ニヨリ只今直チニ之ヲ相談シ度旨ヲ述ベ、先ヅ書記ヲシテ其趣意書ヲ朗読シム
 扨玆ニ一案ヲ提出シテ諸君ノ御相談ヲ請ヒ度ハ、余ノ儀ニアラズ、嘗テ昨年十一月廿五日ノ会議ニ際シ、小生ノ演説中ニモ略陳シタルガ如ク、今般府下ノ有志者ヲ団結シ、東京ヘ入府スル旅客特ニ外客ニ諸般ノ便利ヲ与ヘ、以テ都下ヲ繁昌セシムル為メ、更ニ一協会ヲ組成セン事即チ是ナリ、蓋我国ハ数千年来ノ旧国ニシテ、種々史上ノ物件ニ富ムノミナラズ、其気候ノ穏和ナル事及其風物ノ美麗ナル事ハ世界中多ク其比ヲ見ザル所ニシテ、之ヲ世界ノ公園ト称スルモ敢テ誣言ニアラズ、欧米人ハ将来ノ富ヲ起スベキハ東洋ニ在リトテ近来頗ル東洋ニ着目シ、来遊スル者漸ク増加シ、又カナダ州ニ鉄道ヲ敷設シ、新航路ヲ開キテ、特ニ我国ト欧米トノ旅程ヲ縮メタレバ爾来欧米人ノ印度地方ヘ来往スル者迄モ、日本ヲ経過スル者増加スベシ、加フルニ印度・濠洲・香港・シンガポール辺ニ居住スル欧米人ハ熱帯地ニ堪ヘ兼、一ケ年中必ズ幾数日ハ転地シテ保養セザルヲ得ズ、即チ近接セル日本ヘ漫遊スル者ノ逐年増加スルハ、是レ自然ノ道理ナリ、然ルニ我国人ハ元来礼譲ノ心ニ富ムトハ申シナガラ、平素交際ヲ重ンゼザルノ気風アリテ、外客ヲ待遇スルノ道ニ於テ甚ダ冷淡ヲ極ムルガ如シ、左レバ欧米人ガ我国ヘ来遊スルニ当リ、差向相当ノ旅館ナク、又名所・旧跡ヲ探ルニ当リテモ歴史上ノ説明ヲ欠ク等、其他不便ヲ感ズル事一ニシテ足ラズ、抑モ外客ヲ懇待シテ愉快ヲ感ゼシムル時ハ、之ガ為メ其土地ヲ繁昌セシメ、間接ニ貿易ノ拡張ヲ助クルノ効アリ、現ニ仏国人ノ如キハ外客ノ待遇方ニ意ヲ用フル事切ニシテ、苟モ之ヲシテ満足セシムルノ道アレバ、何事ニヨラズ勉メテ之ヲ計画スルノ気風アリ、故ニ一タビ此土地ニ入ルノ外客ハ、一日モ永ク其土地ニ滞留セン事ヲ望マザル者ナク、其間不知不識其財貨ヲ費消シ、其地ノ産物ヲ賞美シ、大ニ土地ノ繁昌ヲ助クルニ至ル、是レ巴里ガ今日ノ繁華ヲ保持シ富豪ヲ以テ天下ニ雄視スル所以ナリ、外客ヲ待遇スル事ノ忽ニスベカラザル事ハ、以テ証明スルニ足レリ、否我ガ府民ヨリ云フ時ハ、内外人ハ問ハズ東京ヘ入府スル人々ハ我々ノ賓客ナレバ、是ニ向テ相当ノ待遇ヲ為スノ準備ヲ為サヽルベカラス、是レ小生ガ玆ニ此一案ヲ提出シテ諸君ノ賛成ヲ請フ所以ナリ、扨此協会ハ如何ナル趣向ニヨリテ之ヲ設立スルカト云フニ、小生ノ見込ハ概略左ノ如シ
 一目的及其手段
  此協会ノ目的トスル所ハ、我国ヘ来遊スル外国人ハ勿論、東京ヘ
 - 第25巻 p.463 -ページ画像 
来ル内国人ニ可成便利ヲ与ヘ、愉快ヲ感ゼシムルノ手段ヲ為シ、随テ都下ヲ繁昌セシムルニ在リ、扨如何ナル手段ニヨリテ此目的ヲ達スルカト云フニ、此協会ハ平素極リタル常務ヲ執ルニアラズシテ、只其目的ヲ達スル為メニ諸事ヲ肝煎ル迄ナリ、例ヘバ人力車夫ノ風儀アシク、外客ノ不快ヲ感スルガ如キ事アレバ、此協会ヨリ警視庁ヘ見込ヲ申立テ取締ヲ請フ事モアルベク、又皇城其他印刷局ノ如キ、外客ニ於テ拝観ヲ切望スル者アル時ハ、此協会ヨリ其筋ヘ申立テ許容ヲ請フ事モアルベク、又新来ノ外客ノ如キハ土地ノ事情不案内ニシテ、土産物ヲ買フニモ何レノ商店ヨリ買入レテヨキヤ分カラザル事アリ、或ハ名所・旧跡ヲ探ルニ当リテモ歴史上ノ説明ヲ聞カント欲スル事アリ、故ニ此協会ニ於テハ、此等ノ外客ヲ満足セシメンガ為メ案内書ヲ編纂シ、其案内書中ニハ例ヘバ銅漆器ノ如キ美術品ハ木挽町ノ起立工商会社ニテ販売シ、何品ハ何レニ於テ製造スルトカ、何様ノ事ヲ聞カント欲セバ彼所ヘ往クベシトカ云フガ如キ事ヨリ、丸ノ内ノ皇城ハ何百年前ノ起工ニ係レリトカ、芝ノ霊屋ハ如何ナル趣旨ニヨリテ創始シタリト云フガ如キ事ニ至ル迄、外客ノ心得トナルベキ事項ヲ丁寧ニ記載シテ、之ヲ外客ニ附与スル事モアルベク、又外客ノ中我日本ノ美術ニ熱心ナル者アリテ、或ル特別ナル美術品ノ一覧ヲ望ムガ如キ場合ニハ、此協会ヨリ其持主ニ説テ其望ニ応ゼシムル事モアルベク、其他苟モ賓客ノ便利ヲ達スベキ道アレバ、何等ニ限ラズ可成此協会ニテ之ヲ斡旋スルノ見込ナリ、又小生ハ独リ当府下ニ此協会ヲ設立スルノミナラズ、京都府・栃木県ノ如キ外客ノ多ク遊観スベキ地方ニハ、追々斯ノ如キ協会ヲ起シ度見込ニテ、若シ此等地方ノ有志者ガ幸ニ斯カル協会ヲ設クルニ至ラバ、之ト通信ヲ開キ、互ニ気脈ヲ通ジテ、相応援スルノ見込ナリ
 一会員
  此協会ハ商工会ノ会員タル人ノ如キハ勿論、東京ニ住スル商工業者ニシテ苟モ府下ノ盛衰ニ直接ノ利害ヲ有スル程ノ者ハ、可成多人数ヲ之ニ加盟セシメ度見込ナリ
 一名誉会員
  是ハ官民中名望アル人ニシテ此議ヲ賛成スル者アル時ハ之ヲ名誉会員ト称シ、間接ノ賛助ヲ乞フベキ見込ナリ
 一役員
  会員中ヨリ如此業務ニ功者ナル人十名若クバ十五名ヲ撰ンデ委員トシ、規約ノ改正、経費負担ノ割合、役員撰挙ノ如キ事ノ重大ナルモノヲ除クノ外、通常ノ事項ハ総テ此委員ニ全任スル見込ナリ
 一事務所及事務ノ取扱方
  此協会ハ前ニモ述ベタル如ク、平素別段常務トシテ取扱フベキモノアラザルニ付、事務所ハ当分ノ中商工会ヘ依頼シテ同会ノ中ニ之ヲ置クモノトシ、会員集会ノ節ハ同会ノ議場ヲ借リ受ケ、又平生諸向ヘ文書ヲ往復スル事務ノ如キハ、同会書記ノ補助ヲ請フテ之ヲ弁ズルノ見込ナリ
 一経費
 - 第25巻 p.464 -ページ画像 
  是ハ未ダ精算セザレトモ前陳ノ如ク此協会ハ会務常ニ繁忙ナルニモアラズ、又当分ノ中、大抵ノ事務ハ商工会書記ノ補助ヲ請フテ弁ズル積リナレバ、吏員給料ノ為メ別段ノ費額ヲ支出スルニモ及バズ、只其要スル所ハ筆墨紙代・案内書ノ印刷代(案内書ハ相当ノ価ヲ以テ売捌カシムベシ)等ニシテ、収益ナキ会同ナレバ、可相成費用ヲ節シ、会員ノ負担ハ極メテ小額ト為スノ見込ナリ
 大略右ノ如シ、猶其ノ申合規約ノ如キハ追テ一同協議ノ上前陳ノ旨趣ニヨリテ之ヲ定ムル見込ナリ、尤以上ハ此協会ヲ別段ニ組成スルノ所存ニテ見込ヲ立テタルモノナレトモ、諸君ノ御見込ニヨリテハ或ハ別段ニ之ヲ組成スルヲ要セズ、直ニ商工会ヲシテ其任ニ当ラシメ、即チ同会々員ノ中ヨリ更ニ十名若クハ十五名ノ委員ヲ撰ビ、之ヲシテ前ニ述ベタル仕事ヲ弁ゼシムルモ妨ナシ、元来商工会ハ視程ニモ示スガ如ク府下全般商工業ノ利害得失ヲ議スルノ場所ニシテ、営利事業ニ関係スベカラザルハ勿論ナレトモ、此協会ノ為スベキ仕事ノ如キハ固ヨリ営利事業ニアラズ、只都下ノ繁昌ヲ企図スルモノニ外ナラザレバ、同会ヲシテ之ヲ其本務ノ一部トシテ行ハシムルモ敢テ其創立ノ精神ニ矛盾スル事ナカルベシト思ハル、之ヲ要スルニ小生ノ希望スル所ハ一日モ早ク斯ノ如キ仕事ヲ実行スルノ一点ニ在リテ、別段ニ協会ヲ組成シテ之ヲ行ハシムルモ将タ商工会ヲシテ直ニ此仕事ニ当ラシムルモ、其辺ニ就テハ何レニテモ異議ナシ、兎ニ角小生ハ此施設ヲ以テ都下ヲ繁昌セシムルニ充分ノ成跡アルモノト信ズルニ付、玆ニ一案ヲ提出シテ以テ諸君ノ御相談ヲ煩ハサントス願ハクバ諸君ノ此挙ヲ賛成セラレン事、余ノ深ク希望スル所ナリ
  明治二十一年一月            益田孝
本件ニ就テハ全会一同其大体ヲ賛成セシガ、只此協会ヲ商工会ノ附属トスベキヤ否ヤニ付、各員ノ間ニ多少ノ議論アリ、二十三番(岩谷松平)ハ此協会ヲ本会ノ附属トスル時ハ諸事便利ナルベシト論ジ、四十九番(日下部三之介)・二十六番(石関利兵衛)・七番(雨宮綾太郎)・三番(梅浦精一)ハ本会ノ附属トスベカラズト論ジ、終ニ衆議ノ末此協会ハ東京商工会ノ附属トセズシテ、別ニ之ヲ設立スルモノトシ、猶其組織及規程類ノ調査ハ本会ノ幹事ニ委托スルニ決ス
○下略



〔参考〕(益田孝) 書翰 渋沢栄一宛 (明治未詳年)一一月六日(DK250017k-0008)
第25巻 p.464-465 ページ画像

(益田孝) 書翰  渋沢栄一宛 (明治未詳年)一一月六日
                     (渋沢子爵家所蔵)
拝啓、先日ハ非常之御厄介御引受被下、御迷惑千万奉恐察候、小生も弥八日朝より発程、三周間程不在ニ仕候
喜賓会ハ大分評判も宜候、昨日相談会之総会ニも能々一同へ趣旨申述へ候処、一同賛成ニ而、会員ニ加入可致もの数十名有之候、御多忙之処恐縮ニ候へ共、発起人早々御定メ被下、一回発起人会御催被下、規則等も確定、又会長之義も御定メ被下度相願申候
又事務ニ従事可致人物、稲垣と申事ニ先頃御談も御坐候へ共、其後岩下義石材会社を辞し候間、手明きに相至候間、同人使用候而ハ如何ニ
 - 第25巻 p.465 -ページ画像 
御坐候哉、稲垣ハ寧ろ守成之人、岩下ハ発起之人物ニ而、発起当分此会を世に出し候ニは、岩下ニ実情御教示被下候ハヽ、余程技倆を顕ハし可申、品川電灯と米商会社丈ケニ候間、何様ニも働キ得可申、只今なれは同人を押へ候事出来可致歟、御勘考可被下候
  十一月初六日                 孝再拝
    渋沢老台 侍史