デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

2章 国際親善
2節 国際団体及ビ親善事業
4款 在米日本人会
■綱文

第25巻 p.477-478(DK250029k) ページ画像

明治41年12月(1908年)

是ヨリ先本年二月、サンフランシスコニ在米日本人会設立セラレ、参事員渡辺金三ヲ派遣シテ、日本ノ諸団体ト聯絡ヲ執ラシム。栄一同会ノ挙ヲ賛シ、金一千円ヲ寄附ス。九日渡辺帰米ノ途ニ就ク。


■資料

竜門雑誌 第二四七号・第六六頁 明治四一年一二月 在米日本人会(DK250029k-0001)
第25巻 p.477 ページ画像

竜門雑誌  第二四七号・第六六頁 明治四一年一二月
○在米日本人会 在米日本人の商業機関となり及び米国人との交誼親睦を図り、並に日米両国の重要問題等を未然に解決せんとの目的を以て起れる米国桑港の在米日本人会は、其参事員渡辺金三氏を派して我国朝野の紳士並に全国の商業会議所の賛成を求めつゝありしが、本月九日右渡辺氏は内地人の多大なる同情を担ひて、東京出発帰米の途に上りたる由、我青淵先生は其挙を賛して、特に金一千円を寄附せられたり。


東京日日新聞 第一一四九〇号 明治四一年一二月一〇日 ○在米日本人会発展(DK250029k-0002)
第25巻 p.477 ページ画像

東京日日新聞  第一一四九〇号 明治四一年一二月一〇日
    ○在米日本人会発展
在米日本人の商業機関となり及び米国人との交誼親睦を図り、並びに日米両国の重要問題等を未然に解決せんとの目的を以て起れる米国桑港の在米日本人会は、其の参事員渡辺金三氏を派して我国朝野の紳士並びに全国の商業会議所の賛成を求めつゝありしが、九日右渡辺氏は内地人の多大なる同情を担ひて東京出発帰米の途に上りたり、今其の賛成者及び同会基本金寄附者の重なるは、森村市左衛門氏の金五千円を始めとして三井男・高橋是清男・渋沢栄一男・加藤高明氏・後藤新平男等の五十名なり


竜門雑誌 第三一〇号・第二一頁 大正三年三月 ○日米国交と予の関係(青淵先生)(DK250029k-0003)
第25巻 p.477-478 ページ画像

竜門雑誌  第三一〇号・第二一頁 大正三年三月
    ○日米国交と予の関係 (青淵先生)
○上略 幸に日露の戦役は翌三十八年に至つて亜米利加大統領の力によりて終結し、国交も平和に恢復するやうになつた、此事も日本国民の深く喜ぶ所であつたが、併し其後幾何もなくして案外にも亜米利加の国情が全然反対した有様が聞へるやうになつた、のみならず、其翌年桑港に於て学童問題と云ふものが突発した、夫れから後も次第に日米間の国交が薄くなるやうな傾向を生じた、と云ふのは日本人が薄くするのではなくして、亜米利加の或る方面の人が段々に日本を嫌ふと云ふと云ふ有様を生じた。
 偖てさう云ふ有様が生ずると恰も三十五年に桑港の金門公園に於て見た所の、日本人泳ぐべからずの事柄が段々盛んに進んで来るやうになつた、亜米利加に対して特殊の印象を有つて居る私、殊に実業界の一人として、又日本全体の実業界に対して深く心神を労して居る身で
 - 第25巻 p.478 -ページ画像 
あるから、国交上に大なる憂ひを懐いた、其後桑港に居る日本人間に在米日本人会と云ふものを組織して、其会長の牛島謹爾氏が特に渡辺金蔵《(渡辺金三)》と云ふ人を日本に送られて私に請求せらるゝには、カリフオーニア州に於て亜米利加人が兎角日本人を嫌ふと云ふ感情を改善せしむる為めに在米日本人会を企てたのである、就ては本国(日本)に於ても其意味を理解して大に賛同をして呉れるやうにと云ふ事であつた、私は其企図の至極機宜に適するものと思つて、吾々も充分に助力するから在米諸君も大に力めるやうにしたら宜からうと言つて、渡辺金蔵氏《(渡辺金三氏)》に私が明治三十五年に金門公園に於て感ぜし事を話して、会長たる牛島氏を初め其他の会員にも能く注意して呉れと云ふ事を伝言した、夫れが明治四十一年であつたと思ふ。
○下略



〔参考〕日米外交史 川島伊佐美編 第三六頁 昭和七年二月刊(DK250029k-0004)
第25巻 p.478 ページ画像

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