デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

2章 国際親善
3節 外賓接待
1款 アメリカ前大統領グラント将軍夫妻歓迎
■綱文

第25巻 p.479-485(DK250030k) ページ画像

明治12年7月3日(1879年)

是日アメリカ前大統領ユーリシーズ・シムプソングラント将軍(General Ulysses Simpson Grant)入京ス。栄一東京接待委員総代ノ一人トシテ、之ヲ新橋駅ニ迎フ。


■資料

朝野新聞 第一七三五号 明治一二年六月二二日 雑報(DK250030k-0001)
第25巻 p.479 ページ画像

朝野新聞  第一七三五号 明治一二年六月二二日
    雑報
○上略 又グラント氏は昨二十一日前五時長崎港へ着港の電報ありしやに聞けり


朝野新聞 第一七三八号 明治一二年六月二七日 雑報(DK250030k-0002)
第25巻 p.479 ページ画像

朝野新聞  第一七三八号 明治一二年六月二七日
    雑報
○米国前大統領グラント氏は、昨廿六日長崎港抜錨、来月三・四両日の内には着京の趣、昨日外務省より其筋へ達せられし由


朝野新聞 第一七四〇号 明治一二年六月二九日 雑報(DK250030k-0003)
第25巻 p.479 ページ画像

朝野新聞  第一七四〇号 明治一二年六月二九日
    雑報
○一昨日後四時に、府知事は府会議員・区会議長並に商法会議所議員一同を東京府庁に集会され、今度米国前大統領の入来に就いては各国交際の法に照し、我が府民の之れを接待する礼典無かる可からず、因つて右の方法・費用等を各員に協議するとの事にて、各議会員は其の方法を定め、金円を醵集し、其の他周旋の為め委員を選ぶ、其の人々は各区より一名ヅヽ(区会議員或は議員の外にても)府会よりは福地源一郎・堀田正養・大倉喜八郎・安田善次郎・辻純市・鹿島清左衛門の諸氏、会議所よりは渋沢栄一・益田孝・三野村利助・渋沢喜作・小室信夫・中山譲治・米倉一平・津田仙・朝吹英二・井関盛艮の諸氏にて、敝社長柳北も存じ寄らず天窓数に加はりましたが、性得不器用もの故、接待掛りのお役目には甚だ困つて居り升
○グラント氏は去る二十一日を以て長崎の博覧会を一覧有り、また諏訪の神社並に其の外有名の箇所にも巡覧せられ、当夜は煙火を揚げたり、翌二十二日には山腹の墓所に各色の球灯を揚げ、近年に珍敷壮観なりき、廿三日同氏は県庁・裁判所・学校・造船所へ巡廻せられ、畢つて県庁に於て饗応有り、当夜も煙火を揚げたり、廿四日は同港の市民の重なる者より、同氏を福泉寺に招待して饗応せしと聞けり


東京日日新聞 第二二七〇号 明治一二年七月二日 【○米国前大統領グラン…】(DK250030k-0004)
第25巻 p.479-480 ページ画像

東京日日新聞  第二二七〇号 明治一二年七月二日
○米国前大統領グラント氏ハ、明三日午前九時に横浜へ着港せらるゝ
 - 第25巻 p.480 -ページ画像 
旨の電報ありき、その接待の順序を聞くに、先づ来着の節ハ神奈川県令自ら埠頭場に出迎ハれて東海鎮守府へ導かる、同府にて暫らく休憩せられて後ち、馬車にて直ちに停車場へ伴ふ、汽車ハ別仕立てなり、東京にてハ府知事並びに警察官ハ新橋の停車場に出で迎ハる、旅館ハ延遼館と定められ、新橋より同館までの間だにハ鎮台兵を配布して警衛せしめ、楽隊の奏楽もあるよし、また四日ハ米国合衆国独立の記念日に当れバ、東京在留の米国人ハ上野公園にて盛大なる祝宴を開くべき催ほしありしに、幸ひにグラント氏の来遊に際せしかバ、是非とも当日ハ氏を此の賀筵に招待し、又た横浜の市民も多ぶん五六日の両日中に氏を饗応する積りの由なり、併し是等の催ほしハ孰れもまだ打合せぬものなれバ、丁度此日割通りに行くか行かぬかハ今日に確と云ひ難けれど、只我々が伝聞せし処に依れば概略此の如し


東京日日新聞 第二二七二号 明治一二年七月四日 【○前拠にも記せし如く…】(DK250030k-0005)
第25巻 p.480-481 ページ画像

東京日日新聞  第二二七二号 明治一二年七月四日
○前拠にも記せし如く、米国前大統領グラント君ハ米国軍艦リツチモンド号に乗り込み、我が金剛艦と共に昨三日の午前十時四十分を以て横浜に入港せらる、兼て爰に待ち受けられし接伴掛宮本外務大書記官並に海軍士官・野村神奈川県令ハ、同艦に行き向はれてグラント君に謁し、午後十二時四十五分一同に上陸せらる、此とき礼砲式の如く行ハれ、又た横浜洋銀仲買より来着の祝意を表する為に煙花百七十本を打揚けたり、程なくグラント君にハ夫人並に令息、随行の書記及び長崎より同伴せられし吉田全権公使・伊達従二位の両君と共に上陸せられ、森外務大輔・野村県令の先導にて鎮守府に入らる、岩倉右大臣及び伊藤・西郷・井上の参議かたハ爰に出で迎ひて、休息所に請じ入れらる、此とき同府の門内にて東京マルスと云へる《(チカ)》楽を奏す、グラント君ハ暫く休息ありて午後一時設けの馬車に乗り、迎接の諸君と共に鎮守府を出でらる、神奈川県警部二騎順路を先駆し、巡査ハ路次に整列して警衛す、同十五分汽軍の用意整ひしとの報に依りて、御召の車に乗り移られて停車場を発せらる、扨また東京にてハ夫夫待受の用意をなし、東京鎮台第一聯隊第一・二大隊を乃木中佐 ○希典が引卒して蓬莱橋より延遼館までの左右に堵列し、停車場にハ警部巡査数十人警衛の為に出張し、楼上の休息所にハ盆栽を排列するなど一切の装飾残る処なく整ひ、また東京府民より祝意を表するが為に芝口一丁目の角と蓬莱橋の傍に緑門を設け、紫陽花にてUSG(即ちグラント君の姓名)の三字を作り、戸ごとにハ我が旭旗と米国の旗章を掲げ、光彩相映じて美麗いハん方なし、斯くて午後二時列車の停車場に着きしを見て、陸海軍の士官ハ桟道の左に列し、楽隊その先に列す、右ハ安藤中警視楠本東京府知事を始として、諸省の官員一行に列し、東京府民の接待委員ハ一同府知事の後に引添ふたり、グラント君ハ吉田公使の案内にて車を下り、桟道の中央に進まれしとき、先づ楠本知事訳官を以て来着を祝し、且っ東京府民の接待委員いづれも爰に迎接せしことを紹介せらる、終りて人民総代として福地源一郎君進んで祝文を朗読す、其文に曰く
 東京府民ノ総代トシテ僕等恭シク君ノ御安着ヲ祝シ奉ル、惟ミルニ
 - 第25巻 p.481 -ページ画像 
君ガ曩ニ貴大国ノ為ニ撥乱反正ノ偉勲ヲ建テ、亜テ済世安民ノ徳政ヲ布キ給ヒタル功業ハ、夙ニ世界ニ隠ナク、我日本ニ於テモ誰トシテ君ノ徳望ヲ景仰シ奉ラザル者ナシ、況ヤ貴国ハ数千里ノ太平海ヲ隔ツト雖トモ、実ニ我東隣ニシテ、我外交・貿易ノ今日ニ盛ナルモ亦貴国ノ誘奨ニ出テタル事多ケレバ、我国民ノ貴国ニ於ケル常ニ善隣ノ情ヲ懐キ、親友ノ思ヲ成ス、更ニ他国ニ於ケルヨリモ切矣、又況ヤ君カ御治世ノ盛事ヨリシテ、両国ノ通交ハ弥々一層ノ懇篤ヲ増シ、我国百事進歩ノ速ナルモ概ネ貴国ノ影響ニ由ル者ノ多キニ於テヲヤ、且夫レ我使節ト云ヒ我国民ト云ヒ、凡貴国ニ到ル毎ニ優待ヲ蒙リ礼遇ヲ享ケシハ、敢テ一日ノ事ニ非ズ、我国民争テカ其誼ニ感シ、其情ヲ謝セズシテ黙止スベキヤ、今幸ニ大駕ヲ我土ニ枉ケ給フニ会フハ、実ニ千歳一遇ノ良期ナリ、君ヲ迎ヘテ大賓トナシ奉ルノ嘉慶ハ、東京府民ニ於テ最大無比ノ光栄ナリ、此嘉慶ニ依リ以テ益益 国《(両脱)》ノ信誼・貿易ヲ将来ニ窮ナカラシムルハ、東京府民ノ固ク信ズル所ニシテ、其歓喜ハ寔ニ奈何ゾヤ、仍テ其衷情ヲ表センガ為ニ謹テ此祝詞ヲ奉ル
  明治十二年七月三日
                    東京接待委員 敬白
朗読おはると均しく、訳官米国人某氏これをグラント君に伝達するにグラント君ハ直ちに福地君に向ひて其厚意を謝する旨の答辞を述べらる、福地君また其趣旨を接待委員一同に通ず、次に委員の一人剪裁花を採り訳官を以て夫人に呈す、終りてグラント君の一行ハ吉田公使先導にて宮内省より曳かせられたる御料の御馬車に乗り延遼館に向つて発せらる(此時路次に整列したる諸隊ハみな礼式を行ふ)頓て同館へ着せらるれバ、徳大寺宮内卿・坊城式部頭ハ玄関まで出迎ハれ、扇の間に導かる、横浜まで出迎ハれたる方々ハ、爰にて恙なく着京ありしを祝して何れも帰館せられ、只岩倉右大臣・坊城式部頭その他接待掛の人人のみ残られたり、同夜館中に盛宴を開きグラント君を饗応せらるべき筈なりしが、長途の旅行に身体疲労に堪へざる由にて是を辞せられけれバ、其事なくて止みぬと承りぬ、此日東京府中の老若男女ハ、朝より停車場の前後より蓬莱橋の南北に充満し、暑気を物ともせず来着を待ちつけ、綺羅幕を成し、汗雨扇影に飛びて蝙蝠傘の重畳せしハ恰も画にかける青海波の如く、其数幾万人と云ふを知らざりき、又た同氏ハ本日午前十時に仮皇居へ参内せらるゝとの事なるが、是ハ未だ確とハ定められざるよしなりと云ふ


朝野新聞 第一七四四号 明治一二年七月四日 雑報(DK250030k-0006)
第25巻 p.481-482 ページ画像

朝野新聞  第一七四四号 明治一二年七月四日
    雑報
○去月来数回紙上に記せし米国前大統領グラント君ハ、其の夫人と共に昨三日午前十時半横浜へ着船せられ、後一時十五分別仕立の汽車にて二時新橋停車場へ着せらる ○中略 横浜より同車にハ岩倉・伊藤二公を始めとし森外務大輔ハ夫人の案内をされたり、車より下りらるゝを見て、府知事楠本君ハ東京接待委員一同を率ひて之れを迎へ、列を正して謁見す、委員総代として福地源一郎氏祝詞を朗読す、其の文に云ふ
 - 第25巻 p.482 -ページ画像 
   ○祝辞略ス。
グラント君ハ此の祝文に対して、長々と丁寧に東京人民の礼待を謝せられ、喜色其面に顕ハれたり、次に委員より麗ハしき草花一束を夫人に呈せらる、右畢り停車場より御料の馬車(宮内省より御廻ハし)にて延遼館に赴かる ○下略


(芝崎確次郎) 日記簿 明治一二年(DK250030k-0007)
第25巻 p.482 ページ画像

(芝崎確次郎) 日記簿  明治一二年   (芝崎猪根吉氏所蔵)
七月一日 晴
○上略 クランド氏明三日来着之筈、饗応手配トシテ増田啓蔵、府用度課ヘ出 ○下略


青淵先生六十年史 竜門社編 第二巻・第五九四―六〇〇頁 明治三三年二月刊(DK250030k-0008)
第25巻 p.482 ページ画像

青淵先生六十年史 竜門社編  第二巻・第五九四―六〇〇頁 明治三三年二月刊
 ○第五十八章 公益及公共事業
    第七節 外賓接待
○上略
先生、福地源一郎等有志ノ士ト相計リ、グランド将軍ニ対シ東京府民歓迎ノ意ヲ表スルコトヲ計画シ、一日将軍ヲ新富座ニ招待シ、一夕虎門内工部大学校ノ講義室ヲ借リ盛大ノ夜会ヲ催シ、又 天皇陛下ノ御臨幸ヲ上野公園ニ仰キ大ニ饗宴ヲ張リ、グランド将軍ヲ共ニ招待セリ
○中略
当時一般世人ハ未タ外賓歓迎ノ意ヲ解セス、事驕飾ニ過クルト為シ、不穏ノ檄文ヲ散布シテ先生等ヲ罵詈恐赫シタル者アリ、或ハ府会ニ於ケル勢力ノ競争ヨリ転シテ福地源一郎ヲ悪ミ、先生及福地源一郎カ府民ノ総代トシテ周旋セルハ総代ノ名称ヲ濫用スルモノナリトテ、沼間守一等ノ一派ハ、新聞及演説ヲ以テ痛ク攻撃ヲ加ヘタリ、而シテ先生ハ毫モ動スル所ナク、泰然トシテ歓迎ノ意ヲ貫徹セリ、グランド将軍人ニ語テ曰ク、日本ハ皇族ト官員ハカリ世界文明ノ事情ニ通シ勢力アリト聞キ及ヒシカ、今一般人民カ皇族・官員ト共ニ相懇親交際スルノ状ヲ見ルニ、毫モ欧米ト異ナル所ナシ、他日恐ルヘキノ国民ナリト、嗚呼先生等歓迎ノ労空シカラサルナリ
先生ハ一商人トシテ外賓ヲ其私邸ニ招キシコト数々ナリ ○中略 今先生カ招キタル外賓中ノ重モナルモノヲ挙クレハ左ノ如シ
 明治十二年八月五日グランド将軍等ノ一行ヲ招ク、余興ニ榊原健吉ノ撃剣、磯又右衛門ノ柔術アリ
○下略


青淵先生伝初稿 渋沢同族会編 第八章・第二五―二七頁 刊(謄写版)(DK250030k-0009)
第25巻 p.482-483 ページ画像

青淵先生伝初稿 渋沢同族会編  第八章・第二五―二七頁 刊(謄写版)
 ○第三編 第一期 第八章 総説
    国民外交に関する先生の努力
我国に国民外交の端緒を開きたるも亦先生による。明治十二年一月先生等相謀り、東京商法会議所・東京府会主催の下に、官民合同の大夜会を三井銀行の楼上に開きたるは、これ社交史上一新紀元を開けるものにして、天長節の夜会は此年より行はれ、爾来長く恒例となれるは蓋し先生の此挙に促されしなり。同年香港大守ヘンネッシーの来朝す
 - 第25巻 p.483 -ページ画像 
るや、之を蜂須賀侯爵邸に招きて饗応し、米国前大統領グランド将軍の来朝せる時、先生は東京商法会議所を代表し、福地源一郎は東京府会を代表して、之を新橋駅に迎へて歓迎の辞を述べ、尋で工部大学校の校舎に於て盛大なる夜会を催し、又上野公園に聖上の臨御を仰ぎ、種々の余興を催し、陪賓としてグランド将軍をも招待せるのみならず劇場新富座に将軍を迎へて、日本劇を観せしめたり。国民が外国の貴賓渡来の際歓迎の意を表し、夜会を開き観劇を催せるなど皆先生等に始まる、蓋し先生が海外旅行の際、実地見聞せる経験が、自ら玆に至らしめたるなるべし。尚此外先生が個人として外国の貴顕紳士を自邸に屈請せることは、指を屈するに遑あらず。


雨夜譚会談話筆記 下・第五六五―五六九頁 昭和二年二月―五年七月(DK250030k-0010)
第25巻 p.483 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  下・第五六五―五六九頁 昭和二年二月―五年七月
                     (渋沢子爵家所蔵)
  第二十回 昭和三年一月二十四日 於丸ノ内仲二十八号館内渋沢事務所
    一、明治大帝と先生との接触に就て
○上略
先生「グラント将軍が来たのは明治十二年であつた。当時は今日程国際関係に明かでなかつたが、それでも日米の間をよくせねばならぬとの考はあつた。独り米国のみならず、支那・朝鮮との関係も同様である。 ○中略 そこへ持て来て十二年にグラント将軍が来ると云ふ事で、私は商業会議所の会頭をして居つた関係から、会議所として歓迎を盛にする事に尽力した。其時の副会頭は益田孝氏と福地源一郎氏であつた。福地氏は外国の事情に通じて居つたので、歓迎準備は主として福地氏が計画した。商業会議所は、当時商法会議所と云ひ ○中略 グラントの歓迎には会議所は可成り費用を投じて、款待は至れり尽せりであつた。当時三万円の金を遣つたのだから、今の金にして見れば可成りの高だらう。先づ新橋駅に迎へ、グラントが汽車を降りると其場で私が歓迎文を朗読した。私は民部公子の御伴で英国に行つた時、ドーバーで一・二度是れと同じ歓迎を受けた事があつた。グラントの時に此方法をやつたのは福地の説に拠つたものと思ふが、或は私も右のやうな経験があつたので、東京市民はこんな心で歓迎すると云ふ所を示したのである。 ○下略
   ○此回ノ出席者、栄一・野口弘毅・増田明六・渡辺得男・白石喜太郎・小畑久五郎・高田利吉・岡田純夫・泉二郎。
   ○栄一屡々、此時自ラ歓迎文ヲ読ミタリトナス。当時ノ新聞及ビ、ヘドレー著「グラント将軍旅行記」等ハ朗読者ヲ福地トナス。



〔参考〕一八五三―一九二一年日米外交史 トリート著・村川堅固訳補 第一三〇―一三五頁 大正一一年四月刊(DK250030k-0011)
第25巻 p.483-485 ページ画像

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