デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

2章 国際親善
3節 外賓接待
1款 アメリカ前大統領グラント将軍夫妻歓迎
■綱文

第25巻 p.486-494(DK250032k) ページ画像

明治12年7月8日(1879年)

是日東京府民主催グラント将軍歓迎夜会、虎ノ門工部大学校ニ開カル。栄一東京接待委員長トシテ斡旋ス。


■資料

東京日日新聞 第二二七四号 明治一二年七月七日 【東京府民接待委員…】(DK250032k-0001)
第25巻 p.486 ページ画像

東京日日新聞  第二二七四号 明治一二年七月七日
○東京府民接待委員長よりグラント君を招待すべき日限の都合を米国公使ビンガム氏へ通達せられしに、同氏より来示の趣き速に伝達せしに、グラント君にも深く府民の盛意を謝し、日曜日を除くの外ハ何日にても更に差支なき旨なりとの返書ありけれこと《(ば)》、いよいよ明八日工部大学校に於てグラント君を饗応せらるゝことに決し、其用意実に盛んなりと云ふ、また接待費の醵金ハ公けに募るに及バず、最はや十分に集し由にて、本日の広告に掲載せしを見るべし


東京日日新聞 第二二七四号 明治一二年七月七日 公告(DK250032k-0002)
第25巻 p.486-487 ページ画像

東京日日新聞  第二二七四号 明治一二年七月七日
 - 第25巻 p.487 -ページ画像 
    公告
今般米国前大統領グラント君我ガ府ニ来臨セラルヽニ付、大政府ニ於テ厚ク礼待シ給フハ勿論ノ事ナレトモ、各国交際ノ情誼ニ於テ我ガ府民ノ之ヲ傍観ス可キニ非ズ、僕等不敏ト雖トモ叨ニ接待委員ノ任ヲ辱ウス、因ツテ普ク府下一般ノ醵金ヲ募リ、以テ饗讌其他ノ費用ニ充テン為メ大ニ公衆ニ謀ラント決議セシ処、有志ノ徒既ニ其期ニ先キダチ許多ノ金額ヲ醵出スル有リ、予メ其ノ額ト其ノ費トヲ概算スルニ、幾ド闕乏ノ憂無キヲ覚ユ、斯ク意外ニ有志ノ多クシテ捐貲ノ速カナルガ故ニ、此回ニ於テハ故サラニ府下諸君ノ醵貲ヲ煩サヽルヲ得タリ、且ツ僕等ハ応分ノ力ヲ竭シテ諸君ノ為メニ大賓ノ礼遇ニ従事セントス、因テ玆ニ公告シ以テ其ノ顛末ヲ報ス、諸君幸ニ諒セヨ
  明治十二年七月              東京接待委員


東京日日新聞 第二二七五号 明治一二年七月八日 【○前号にも記せし如く…】(DK250032k-0003)
第25巻 p.487 ページ画像

東京日日新聞  第二二七五号 明治一二年七月八日
○前号にも記せし如く、兼て府民接待委員よりグラント君接待の日限を米国公使ビンガム氏に問合せられたるに、日曜日を除くの外ハ差支なしとの事なれバ、いよいよ今夜工部大学校に於て夜会を催ほさるべきに定まり、其旨をグラント君に案内せられしに、同君は丁寧なる返書を送りて、領承の趣を回答せられたりと、此接待夜会に案内を受けしハ皇族・大臣・参議・元老院議官、諸省の長次官並に大少書記官・局長、陸海軍将校・地方官・司法官・警視官・区郡長・府会議員・区会議長・商法会議所議員・新聞記者・諸会社長、その他紳士・学士・僧・医・豪商の人々、外国人にハ公使・領事・法官・陸海軍長官並に紳士豪商の数名にて、独逸皇孫ハインリヒ王・香港太守ヘンネツシー君へも案内せられ、また横浜港の中外人にて前に同じき人々をも案内せられしに付き、今夜の午後一時に別仕立の汽車を発して右の来客を送らるゝよし、其詳しき景況ハ明後日の紙上に譲る、又た府民接待委員よりハ近日の内にグラント君を上野公園地に招待して、弓馬槍剣等の諸術を一覧に入れ、是に次ぎて新富座の劇場《しばゐ》へも請して演劇を一覧に入るべきに決したりと云ふ、今左の夜会諸方へ出されし案内状ハ左の如し
 一筆啓上仕候、然者本月八日虎門内工部大学校ニ於テ合衆国前大統領グランド君接待之為メ夜会相開候間、同日午後九時ヨリ同校エ御来会被下度此段申上候 謹言
                 東京接待委員総代
                      渋沢栄一
                      福地源一郎
          名宛
  尚々当夜小礼服若ハ羽織袴御着用被下度、且ツ諾否ノ御答ハ速ニ木挽町十丁目商法会議所ニ相設候接待委員局ヱ御報道可被下候


(芝崎確次郎) 日記簿 明治一二年(DK250032k-0004)
第25巻 p.487-488 ページ画像

(芝崎確次郎) 日記簿  明治一二年   (芝崎猪根吉氏所蔵)
七月八日 炎暑
本日計九十五度已上、例刻出頭、増田氏ハ工部大学校借受夜会之手配
 - 第25巻 p.488 -ページ画像 
当日ニ付、同校へ罷出奔走致候 ○下略


東京日日新聞 第二二七七号 明治一二年七月一〇日 ○工部大学校の夜会(DK250032k-0005)
第25巻 p.488-489 ページ画像

東京日日新聞  第二二七七号 明治一二年七月一〇日
    ○工部大学校の夜会
北米合衆国の前大統領ユリセスグラント君、わが東京に来着せられしより六日を過ぎて、七月八日の夜を卜し、我が東京府民ハ接待の夜会を虎ノ門内なる工部大学校に催ほしグラント君を招請すべきに定まりけれバ、委員諸君ハ昼夜の分ち無く其設けに周旋せられ、前日を以て当夜招待の案内状をぞ出されける、其の人々ハ皇族・大臣・参議・勅任官を始とし諸省の局長より権大書記官まで、陸海軍ハ大佐、司法官ハ五等判事まで、何れも五等官以上を限り、地方官に属する官員にハ東京鎮台ハ大隊長、警視官ハ各分署長まで、東京府ハ知事・書記官・各区郡長、東京裁判所ハ判事までとす、扨また東京府会・商法会議所の議員ハ共に一同に案内せられ、区会ハ議長までとす、此外各国の公使・領事・書記官、東京・横浜なる中外の新聞記者・紳士・学士・豪商・僧・医等をすべて、其数千五百余人とぞ聞えし、グラント君にハ案内状を受取らるゝと均しく丁寧なる返書を委員総代渋沢栄一・福地源一郎の両君に送りて、来会すべきの条を申し越さる、岩倉右大臣ハ当病にて来会せられず、中城王子尚典にも折ふし下痢症を患ひらるゝ由にて使者を以て参会を辞せられ、独逸皇孫ハインリヒ王よりハ、私会ならバ固より参会申すべきなれど、公会の儀に付きてハ既に天皇陛下へ告別申上げし後なれバ、遺憾の至りにハ存ずれども、憚りて参会を辞するの旨をまをし越されしとかや、この日ハ朝より浮雲雨とならで徒らに空を蔽ひ、暑気殊に劇しくして寒暖計ハ九十三度に昇りしが夕すぐる頃より雨すこしく降いでぬ、あたら今宵の装飾を壊られんかと思ひ煩ひしに、僅に大路の塵おさゆるまでにて、却て冷風さへ吹き出でけり、午後九時車に打乗りて虎ノ門ちかく進み行くに、旧《も》との門ありし礎の上より校の方へ繞らせて数百の毬灯を懸けつらねたる光りハ徳星の天に集りしが如く、校の門前に至りて仰ぎ見るに幾千となき毬灯を懸けて大門の形ちを作り、両国の旗章を交へかゝげ、其屋根を成したる下に一つの角灯を懸け、旭日を画きたる傍らに合衆国の旗章を画き、其内に人を入れて毬灯の風の為に燃ゆるを打消さしむ、門の両側にハ老若男女の集り観るもの群りて山の如くなれども、巡査の制止行届きたれバ車ハやすらかに通りて門のきはに着く、爰に通門切手を受け取るの人あり(切手ハ案内状と共に送られしものにて、是にも両国旗章の図あり)切手を渡して門を入るに、庭中をたてぬきに縄を張りて毬灯を点じ、広やかなる芝生の中央に万灯を立て、其下に陸軍楽隊居ならびて楽を奏す、この楽声に送られて車ハ講堂玄関の前につきぬ、車を下りて玄関に進み上るに、大倉喜八郎・津田仙その他の諸君左右に立ちて来客を迎接せらる、講堂正面の中央に高さ一丈もあらんと覚しき生花を据ゑつけ、其左右に数種の盆栽を排列し、正面と左右に椅子を置く、玆ハグラント君を請じて来客を紹介するの所なり、夫より左に折れて廊下を進み行く、右の方の一室に帽子などを預る掛りの人控へ居て、是も人ごとに切符を渡す、室ごとに緑葉の飾りをな
 - 第25巻 p.489 -ページ画像 
し、両国の旗章を掲げ、高机《テーブル》に氷塊を置き、水をそなへ、来客をして渇を慰し暑を忘れしむ、庭上にも二・三間づゝ隔てゝハ椅子・高机を置き、巻煙草を堆たかく盛り上げて煙を吸ハしむるなど、用意の丁寧周密なる誠に感ずるに余りあり、来客ハこゝかしこに集り、或ハ妻の手を携へて庭上を逍遥し、或ハ煙を吸ひて語りあふも、只両国の交り日を逐ひて親しきを賀するならねバ、府民の気象ますます進みて斯る盛会を東京府中に開きしを悦ぶより他事あらず、程なく同九時五十分グラント君にハ、委員の出迎と共に夫人を伴ひて来会せらる、玄関にて馬車を下らるゝを見て渋沢栄一君ハグラント君の手を執りて講堂正面の倚子に導き、次に福地源一郎君、夫人の手を執りて其傍なる倚子に導く、吉田公使・伊達従二位その他外務省の接伴掛りも引続きて倚子に就かる、此とき楠本知事ハグラント君の面前に進みて、本日招待せし意を述べ、且つ来臨を辱くせしを謝し、畢て福地君ハグラント君の傍に立ちて紹介者となり、接待委員、東京府会・商法会議所議員をはじめ、皇族のかたかた並に諸省官員等すべての来客の姓名を通じて紹介せらるゝに、グラント君ハ始より終まで少しも倦み厭ふ色なく、紹介の詞に応じて其名を呼び、貴賤を別たず慇懃に手を握りて相見の礼を尽されしこそ、流石に合衆共和の国に在りて数万の人望を一身に負ひし徳量の空しからぬ所なれと、人人感じ思ハぬハ無かりけり、紹介の礼終りけれバ、食堂に於て立食をはじむる由を通ず、此とき海軍楽隊、食堂の外に列して楽を奏す、来客の食堂に入るもの新陳代謝して雑沓の憂なく、酒ハ乱るゝに及バず、肴ハ飽くまで喫せず、いづれも好く礼を守り歓を罄し、午前二時に及びて悉く退散せられけり、此日来会せし中、外人の中にも米国人ハ殊に喜びの色おもてに顕れ、手の舞ひ足の踏むを知らずと見えし人も多かりき、また東京在留米国人の接待委員長マツカヂー氏より、わが接待委員に向けて、当日工部学校に装飾せし様を写真に取りて送られたし、是を本国に廻送し、我国人をしてグラント君が斯る鄭重懇切の待遇を受けたるを知らしむるハ我我の義務なりと申越せしかバ、何れも其志を感じ数枚を写真せしめて贈進せられたりと云ふ
   ○明治十二年七月十日付「東京日日新聞」ニハ同標題ヲ掲ゲシ記事二項目アリ。右ハ「雑報」中ノ記事ニシテ、一ハ次ニ掲グ。


東京日日新聞 第二二七七号 明治一二年七月一〇日 ○工部大学校ノ夜会(DK250032k-0006)
第25巻 p.489-491 ページ画像

東京日日新聞  第二二七七号 明治一二年七月一〇日
    ○工部大学校ノ夜会
我東京府民ノ名ヲ以テ、接待委員ガ一昨八日ノ夜ニ於テ盛大ノ夜会ヲ工部大学校ニ開キ、以テ米国前大統領陸軍大将グラント氏及ヒ其一行ヲ招待シ、東京ノ大賓タラシメタル盛事ハ吾曹ガ詳細ニ之ヲ本日ノ紙上ニ報道スルガ如シ
此盛事ニ関シ吾曹ガ第一ニ東京府下ノ市民諸君一般ニ向テ祝賀スベキハ、諸君ガ能ク愛国ノ真情ヲ体シ、世界ニ対シテ無比ノ栄誉ヲ顕ハシタルノ一事是レナリ、吾曹請フ之ヲ読者ニ証明セン、読者ハ本月六・七日ノ諸新聞紙ニ登載セシ東京接待委員ノ公告ヲ熟読シタルベシ、其文ニ曰ク
 - 第25巻 p.490 -ページ画像 
 今般米国前大統領グラント君、我府ニ来臨セラルヽニ付、大政府ニ於テ厚ク礼待シ給フハ勿論ノ事ナレトモ、各国交際ノ情誼ニ於テ我府民ノ之ヲ傍観スベキニ非ズ、僕等不敏ナリト雖トモ叨ニ接待委員ノ任ヲ辱クス、因テ普ク府下一般ノ醵金ヲ募リ、以テ饗宴其他ノ費用ニ充テン為ニ大ニ公衆ニ謀ラント決議セシ処ロ、有志ノ徒既ニ其期ニ先タチ金額ヲ醵出スル有リ、予メ其額ト其費トヲ概算スルニ幾ト闕乏ノ憂ナキヲ覚フ、斯ク意外ニ有志ノ多クシテ捐資ノ速ナルガ故ニ、此回ニ於テハ故サラニ公ニ府下諸君ノ醵貲ヲ煩サヾルヲ得タリ、且僕等ハ応分ノ力ヲ竭シテ諸君ノ為ニ大賓ノ礼遇ニ従事セントス、因テ玆ニ公告シ以テ其顛末ヲ報ス、諸君幸ニ諒セヨ
夫レ醵金ノ事タルヤ、百方尽力シテ募集スルモ尚コレヲ得ルニ難キハ世上一般ノ通例ナリ、我東京ニ於テモ亦実ニ然ルノミ、而シテ今回グラント氏ノ接待費ニ至リテハ其却テ一般ノ通例ニ反対シ、彼ノ接待委員ヲシテ金ノ多キヲ患フルガ如キ状勢アラシムル者ハ抑モ何ゾヤ、東京府民ノ有志諸君ガ、我国光ヲ観ルノグラント氏ヲシテ、我国民ノ国賓ヲ遇スルノ篤キ是ノ如クナルヲ知ラシメント冀望スルノ愛国心ニ切ナルニ非ザルヨリハ、焉ゾ此事アルニ至ルヲ得ンヤ、吾曹之ヲ聴ク、我東京府会ノ議員、十五区ノ議長及ビ商法会議所ノ議員ハ去月廿八日ヲ以テ初メテ東京府庁ノ議事堂ニ会シ、第一ニグラント氏一行ヲ東京ノ大賓トシテ接待スベシ、第二ニ其接待費ハ有志ノ醵金ヲ以テスベシ第三ニ府会・商法会議所及ビ十五区ヨリ委員ヲ選出シ以テ接待委員タラシムベシ、第四ニ醵金並ニ接待ノ事ハ一切之ヲ委員ニ委托スベシト議決シテ其会ヲ散ジ、此ノ接待委員ハ本月一日ヨリ其局ヲ聞キタルニ固ヨリ府下ニ名望信用ヲ得タル紳士・豪富ノ集リタル委員ナレバ、其勧誘ニ因リテ集リタル有志ノ醵金ハ、早クモ数日ナラズシテ既ニ三万ニ成リナントスルノ巨額ニ達シ、復タ公ニ世上ニ有志ヲ募ルヲ要セザラシメタリ、是蓋シ委員其人ヲ得テ非常ノ尽力ヲ顕ハシタルニ出ルガ故ナリト雖トモ、実ハ有志諸君ガ先ヲ争フテ出金スルノ義ニ因ルガ故ナリ、此一事ハ寔ニ愛国ヲ以テ自負スルノ外国人ニ向テ、以テ東京府民ノ義ヲ行フニ勇ナルノ気象ヲ誇ルニ足レリ
夫レ国賓ヲ接待スルニ公衆ノ醵金ヲ以テスルノ事タルヤ、実ニ文明ノ曙光ニシテ我国ニ於テハ未ダ曾テ有ラザルノ事タリ、況ヤ市民ノ名ヲ以テ遍ク貴顕ヲ招待シ、以テ民ニ賓タラシムルノ初試タルニ於テヲヤ然リ而シテグラント氏ノ市民ヲ敬重スルノ篤キハ今ニ始マラザル事ナリト雖トモ、市民ノ案内ハ深ク其歓喜セシ所ニシテ、礼謝ヲ極メタル承諾書ヲ委員ニ報答シ、当夜ハ案内刻限ヨリモ早ク来会シテ以テ諸賓ニ相遇シ、其誰タルヲ問フ事無ク、苟モ此来賓ハ皆市民ナリトシテ之ヲ敬礼シ、敢テ貴顕ニ媚ビズ敢テ卑賤ニ驕ラザルノ状ハ、観者ヲシテ天晴レ米国ノ泰斗タル大統領タルノ徳望ヲ感覚セシメタリ、蓋シグラント氏ガ今回ノ来遊ニ於テ、朝廷ヨリ重キ御待遇ヲ蒙リタルニ喜悦シテ止マザルハ云フ迄モ無キ事ナレトモ、其来着ノ初ヨリ人民ノ待遇ヲ受ルハ其望外ニ出デタル事ナレバ、満足ノ上ニ満足ヲ加ヘタリト聴ク吾曹親シク夜会ニ於テ氏ガ市民ニ対スルノ挙動ヲ目撃シテ、果シテ其然ルヲ信ズル也
 - 第25巻 p.491 -ページ画像 
憶フニ、我国ノ外交・貿易ヲ誘奨セシハ即チ米国人民ナリ、我国民ヲシテ従テ権理自由ノ重ズベキヲ知ラシメタルハ開明ノ進運ニシテ、即チ間接ニ於テ外交ノ影響ニ出ル者ナリ、然ルニ今開明ヲ我国ニ誘奨セシ先進タル米国ノ泰斗ガ、初メテ我国ニ来テ其光ヲ観ルノ時ニ際シ、我国民モ亦、初メテ国賓ヲ接待スルノ実行ヲ顕ハシ、以テ公衆ヲシテ人民ノ敬重スベキヲ知ラシメ、以テグラント氏ヲシテ其先鞭ヲ著セシメタルハ、氏ガ喜ノ限ナキヲ察スルニ足レリ、是故ニ吾曹ハ、工部大学校ノ夜会ニ於テ、東京府民ガグラント氏ヲ満足セシメタルヲ謝スルノミナラズ、此夜会ヲ以テ明々地ニ民権ヲ伸張シタルノ大功ヲ謝セザル可カラズ、既ニ当夜榎本公使ハ委員某ニ向ヒ、諸君ハ真ニ愛国心ニ篤キノ君子ナリ、我国権ヲ皇張スルハ諸君ノ力ナリト云ハレタルヲ聴キ、吾曹モ亦其実アルヲ証明シ、謹テ之ヲ東京府民ノ諸君一般ニ慶賀スト云爾


東京日日新聞 第二二七八号 明治一二年七月一一日 【○工部大学校夜会の景…】(DK250032k-0007)
第25巻 p.491 ページ画像

東京日日新聞  第二二七八号 明治一二年七月一一日
○工部大学校夜会の景況ハ、昨日の紙上に記せし如くなるが、グラント君にハ帰館の後に其待遇の厚きを感じ、且つ来客の日本人にハ、皇族・大臣より始めて、学者もあり、町人もあり、僧もあり、医師もあり、婦人もあり、上下の畛域なく一堂の中に集りしを見て、殊に満悦せられ、東京府下の人民に一人も洩さず相見せし心地せりと語られしとぞ
○昨日の紙上に記せし工部大学校夜会の記事中、校門の内にしつらひし大門に懸けし中央の角灯の表方にハ、USG(グラント君の姓名)の三字を書し、其左右に懸けたる角灯に恭迎大賓と一字づゝ左右に書したるを洩す、又た同夜諸客ヘハ午後九時の案内せられ、グラント君にハ九時半との案内なりしが、同氏ハ早くも九時に来会せられけれバ直に左側なる楼上の休息所に導く、爰にて右の楼上に休息せられし皇族・大臣・参議がた、次に委員一同、東京府会・商法会議所議員等ハ順次にグラント君に相見せられ、夫より九時半に渋沢栄一・福地源一郎の両君、グラント君並に夫人を講堂正面の椅子に導き、皇族がたハ其右に列し、大臣・参議ハ左に列せられ、吉田公使・福地源一郎の両君、グラント君の傍らに立つて来客を紹介せられたるなり、また工部大学校装飾の景況の写真ハ未だ米国人接待委員にハ贈られざるなりと依て爰に補正して記事の漏脱・誤謬を謝す



〔参考〕竜門雑誌 第五〇九号・第三五―三九頁 昭和六年二月 グラント将軍歓迎の思ひ出(穂積歌子)(DK250032k-0008)
第25巻 p.491-494 ページ画像

竜門雑誌  第五〇九号・第三五ー三九頁 昭和六年二月
    グラント将軍歓迎の思ひ出 (穂積歌子)
 明治十二年の七月、米国の前大統領グラント将軍が、夫人・令息同伴、三・四人の随行者と共に来朝せられました時、渋沢の父上と益田孝氏・福地源一郎氏の方々とが率先で、日本の民間に於ける最初の国際的歓迎の団体を組織せられ、其会の名を接待委員会と称して、父上が接待委員長、福地・益田両氏が副委員長として諸般のことに尽力奔走せられたのでありました。それ故接待委員会の重要な事柄は父上が話されるさうですから、私は今も猶ほ記憶に存して居る細かな事を御
 - 第25巻 p.492 -ページ画像 
話して見ませう。私の記憶して居るのは工部大学の講堂で開かれた夜会(工部大学は当時唯一の洋式の大建築でありました)、新富座に於ての観劇会、上野公園に於ての東京府民の大歓迎会及び西ケ原の渋沢別荘に将軍御一行を御請待申上げた時の模様とであります。何分半世紀をも隔てた遠い昔のことを、おぼろげな記憶によつて御話するのでありますから、忘れたことも多く又其当時から聞き誤つて居た点もありませう。従つて全部確かなことゝ御受合は出来ぬかも知れません。さて其時代に婦人が表向きの交際社会に出るのは、外交官の夫人とか又は特別に外国関係の有る人々の家族と丈けで、それも至つて少数でありました。一般家庭の婦人は親戚の婚礼或は法要の会の他には、大きな宴会に出席することなど殆ど無いのでした。婚儀披露とても昔のは現代とは大分変つて居りまして、婚礼の儀式などは殊の外鄭重に致したのですが、数百名の人々を一堂に招待して宴会を開くといふ様なことはないのでした。さうした時代に今度の米国前大統領グラント将軍一行歓迎の大夜会には、接待委員側でも、ぜひに夫人・令嬢が出席せねばならぬのであるといふのですから、実業家の人々の家庭に、現代の詞で申せば、一つのセンセーシヨンを巻き起したといふ次第なのです。夜会のことであるから婦人の服装は成べく派手にといふ注意を受けたのですが、其時代の一般婦人の服装は、実に今では想像にも及ばぬ程じみなものでありましたし、俄に花やかな衣服を新調しようとしても、其頃の越後屋でも大丸でも、直ぐに整ふと云ふ訳には行きませんでした。それで母上自身のは有合の絽の重ねの紋付で間に合せられましたが、私の為にいろいろ心配して下さつて、越後屋で石持ちの裾模様を新調して下さいましたが、現今では四十歳以上の婦人が着る位色も模様もじみなものでありました。まだしも持合せのはでな色の紋付の方がましでありましたのに、晴の席へ出るに重ね付の礼服でなければならぬといふ固苦しい母上の御考へからでありましたらう。
 歓迎の大夜会は、七月八日の八時頃から虎の門の工部大学の講堂で開かれたのであります。接待委員の夫人たちは誰れも社交に慣れぬ人ことに各々主人達はそれそれ準備の用向で早く会場に出て居て、夫人と同道して出席する訳には行かず、婦人たちがちりちりに参つてはさぞ困るであらうと云ふので、出席の婦人達は先づ一つの集合所へ集りました。其場所は工部大学の前の濠と道路を隔てた町の茶屋でありました。
 集つた婦人の主もな人々は益田孝氏夫人・大倉喜八郎氏夫人・米倉一平氏令嬢等十五・六人もありましたか、福地夫人はこの日御出になりませんでした。どなたも未知の戦場へ初陣といふ様な緊張があつた様です。
 其中益田さんの奥様は比較的社交に慣れて居られて、一同の指導役をせられた様に記憶して居ります。
 さて定刻になり、一同打揃つて会場へ参つたのであります。会場は工部大学の講堂で、其室の広さ、天井の高さ、両側に整列して居る丸柱の太さ等、初めて見る洋風の建築の広大なのに驚きの目を見張つたのでした。正面の講壇一段高い所に装飾が施され、正賓歓迎の席が設
 - 第25巻 p.493 -ページ画像 
けられてありました。場内の一方は来賓席で、各国の公使、日本の大官達とそれらの夫人方、及在留の欧米人等が整列せられました。来賓中日本夫人の出席は至つて少数でありましたが、三条太政大臣の夫人が袿袴を召して御出席になつて居られたのを、めづらしい御姿と存じて見上げて居たのを記憶して居ります。
 片方は接待委員・同家族及実業家即ち主催者側の人々の席でありました。やがて渋沢委員長が正賓将軍の御導きをして、席の中央を通つて式場へ向はれました。外国人と云へば必ず人を見おろす様に高いものといふ予期に反し、渋沢の父上と並んで左程の不釣合を感ぜぬ程将軍の御背は低い方であるのみならず、首筋から肩の広い工合何となく父上と共通点がある様でまづ親しみが感ぜられたのでした。続いて福地副委員長が左腕を供してグラント夫人を扶け導き、壇上の設けの席に請じたのでありました。
 接待委員長の歓迎文朗読、正賓の感謝の辞等、式はかたの如く行はれたのでありますが詳細には記憶して居りませぬ。式が終つて別室の食堂が開かれ、レフレツシメントが供せられたのであります。六・七人づゝの散らしテーブルで、其中央の席に将軍と同夫人の外には、どなたでしたか三・四人が着かれ、私と母上とは益田夫人等と共に其後方の近いところの卓に着いたので将軍の風貌をよく覗ひ見ることが出来たのでした。元より欧米の紳士たちなどに接近した経験のない私でありましたが、西洋では貴人でも東洋風に只御行儀よくかまへて居るものでは無いといふことを聞いては居たのでした。所が今見る将軍は至つて寡言で動作が鷹揚で無愛想に見えるかと思はれる位表情の少い様でありまして、米国の紳士風といふより寧ろ東洋の大人風とでもいふべき御様子と見上げました。何しろ大国の元首の位に居られた御方と聞いては東洋風の考へでは尊貴此上なく、同席も懼れありといふ程に思ふて居たのでしたから、其御方が右に左に愛嬌を振りまき、或は饒舌で時々哄笑などせられたなら幻滅を感じたかも知れませぬが、将軍の御様子が前申した様に私共の理想的で居られたので、いよいよ尊敬の念が増したのでありました。グラント夫人とも其所で握手した筈ですがはつきりと覚えては居りませぬ。夫人も米国婦人としては至つて内端なしとやかな御方と存じたのでした。当時十七歳の私にそれだけの鑑識が有つた訳でもありませぬが、後に母上が申される人物評に全然同感で有つたので今もそれを記憶して居るのであります。夜会のレフレツシメントとしては品数も多く、ことの外丁寧な御料理でありました。鳥獣の冷肉・ゼレーのよせもの・サラダなど皆初めての試みでしたが、なかなかおいしく頂きました。斯様な席に慣れぬ人が多いからでありませう、私共の方へ出る料理は皆銘々皿に盛付けて供せられました。終りの方で出された皿の上の黄色な塊、これは何であらうバタにしては分量が多すぎると思ひ、スプーンも取らずに見て居る中に其玉子色の塊が段々溶けて来る、奇妙な食物と思ふばかりなのでした。現今に至り此様なことを申しても、誰でもなんぼ五十余年の昔でもまさかアイスクリームを知らぬ筈は有るまいと云はれるでせうが、実際当時の一般家庭ではその様に西洋風の事には無知なのでありまし
 - 第25巻 p.494 -ページ画像 
た。いづれかたの如く乾盃などがあつて食卓は終つたのでありましたらう。それからもとの広い講堂で舞踏が催ふされました。夜会に舞踏は欠くことの出来ぬのが西洋風礼式の慣例でありましたから、最初のスコヤダンスのカドリールには主賓が出られるのが例でありますから将軍夫妻も其仲間に加はられたのでありませうが、よく覚えて居りません。次々のダンスには公使館の人々、在留欧米人の人々が大勢出て三・四番のスコヤダンス、ラウンドダンスがありました。其踊手の中にて只一人洋装の日本婦人は工部卿井上馨氏の令嬢でありました。井上卿は洋式の婦人教育に熱心であられ、令嬢を外国紳士の家庭に托して教育を受けしめられたと聞いて居りました。私共婦人たちは壁際に並んで驚異の目をみはつて眺めて居たのでありましたが、成程私共の未知の世界は広いのである、其中へ一歩でも踏み出すのは、日本婦人には多大の努力を要する次第であるといふ様なことを漠然と感じさせられたのでした。当夜のダンスはほんの形式的なものでありましたから簡単に終り、主賓を始め来賓方追々御帰りになり、大夜会は滞りなく相済んだのでありました。母上と私は帰りの馬車の上でほつと一息ついたのを覚えて居ります。
○下略



〔参考〕天業民報 第二八三七号 昭和五年六月八日 明治天皇とグラント将軍〔上〕(星野武男欽稿)(DK250032k-0009)
第25巻 p.494 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。