デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

2章 国際親善
3節 外賓接待
1款 アメリカ前大統領グラント将軍夫妻歓迎
■綱文

第25巻 p.494-501(DK250033k) ページ画像

明治12年7月16日(1879年)

是日、東京府民主催グラント将軍歓迎観劇会ヲ新富座ニ催ス。栄一東京接待委員長トシテ斡旋ス。


■資料

東京日日新聞 第二二八四号 明治一二年七月一八日 【一昨十六日の夜ハ、予…】(DK250033k-0001)
第25巻 p.494-495 ページ画像

東京日日新聞  第二二八四号 明治一二年七月一八日
○一昨十六日の夜ハ、予て各新聞紙に掲げし如く、東京接待委員より米国前大統領グラント君一行を饗応のため、新富座におゐて演劇の当日なりしが、この日新富座場中ハ東西左右の桟敷ハ羽目板を払ひて風入を能くし、柱・板羽目等ハ紅白の絹を以て悉皆これを包み、向ふ正面も同し摸様となし、この場をグラント君一行と皇族・大臣・参議・卿輔等の為に設るの席とし、東西の下桟敷と高土間にハ勅奏の官員を請じ、土間にハ同君を接待の為に醵金せられし有志の諸君を請し、委員中掛りを分ちて諸賓の迎送を為し、グラント君及び夫人、皇族・大臣のために東西一ケ所づゝ特に便所を設け、又平生の便所も絶ず石炭酸を散布して臭気を去らしめ、東西の庭中に氷水の接待所を設くる等
 - 第25巻 p.495 -ページ画像 
装飾注意至らざる所なし、又狂言も看客の意に適せしにや、一幕毎に拍掌して賞せざるなし、この日グラント君ハ席に着るゝや否や、宮家の御着席ありけれバ、椅子を離れて西側なる宮家を問ハれ、暫時御同席にて観劇あり、後に前統領席に復せらるゝや、御息所又之を問ハれ其去り玉ふに及んで夫人また之を送らる、其親睦なりしさま、傍観の我輩も思ハず感涙を催ほせり、前統領この日ハ殊に満足の景色顕はれ新富座主守田勘弥へ緋羅紗の引幕を贈られたり、依て市川団十郎、舞台に於て其披露をなしたり、抑抑世界に劇場多しと雖も、大統領より幕を賜ハりし例あるを聞かず、偶偶仏国に於て親王家より賜ハりし事ありしとて、古今例《ためし》なき事とて、座主ハ大に其栄誉を祝したりと今日新富座主守田氏の栄誉ハ夫れに倍すといふも可なるべし


(芝崎確次郎) 日記簿 明治一二年(DK250033k-0002)
第25巻 p.495 ページ画像

(芝崎確次郎) 日記簿  明治一二年   (芝崎猪根吉氏所蔵)
七月十六日
○上略 今夜グランド戯場へ御招待ニ付、同場大雑沓之よし ○下略
七月十七日
○上略
今夜ハ守田勘弥ヨリ接待委員一同招待、前夜之通り興行見物為致候、大ニ賑ひ候よし ○下略


福地源一郎・渋沢栄一書翰 守田勘弥宛 明治一二年八月一二日(DK250033k-0003)
第25巻 p.495 ページ画像

福地源一郎・渋沢栄一書翰  守田勘弥宛 明治一二年八月一二日
                   (十三代守田勘弥氏所蔵)
  守田勘弥殿へ
別紙訳文之通、米国大統領グランド君よりわか接待委員へ丁寧の来翰に預り候間、即ちその意に任せ同君恵贈の引幕貴殿へ御渡申候、永く其座に御用ひ可被成候、此段申入候 謹言
    明治十二年八月十二日
                    接待委員長
                      福地源一郎
                      渋沢栄一
   ○右書翰ハ昭和九年十二月東京木挽町歌舞伎座ニ於テ十二代守田勘弥丈追悼会ノ節、同家所蔵遺品展覧会ニ陳列セラレタリ。原書ハ奉書ヲ用フ。



〔参考〕東京日日新聞 第二三〇六号 明治一二年八月一三日 【○先ごろグラント君よ…】(DK250033k-0004)
第25巻 p.495-496 ページ画像

東京日日新聞  第二三〇六号 明治一二年八月一三日
○先ごろグラント君より贈られたる新富座の引幕ハ此せつ其縫も出来上り、猩々緋に白羅紗を以て中央に泰平の二字、かたハらにグラントヨリの六字を縫ひ、いづれも金糸を以て其字に欄を施せり、右に付き同君より接待委員へ宛て自筆の書翰を寄せ、今般諸君の礼遇を受け、且つ拙者の為に新富座にて観劇の御催ほしに預り、感謝の至なれバ、其謝意を表せんが為に、此引幕を参らす、見物の方々が今後此幕を見たまひて、当日の盛挙を回憶し玉ふの記念ともならバ本懐にこそと申越されたれバ、委員長渋沢・福地の二氏ハ直にその来翰を訳し、かくぞグラント君より御申越ありぬ、其意に任せて御渡し参らす程に、其座に用ひらるべしと、守田勘弥への一書を添へ、昨日その幕を渡され
 - 第25巻 p.496 -ページ画像 
たりと聞く、去れバ此幕ハグラント君が府民へ対して謝意を表せられたる記念とも申すべし、しかしある論士ハさる待遇ハ府民がなせしにハあらず、謝意を受る覚へもなしとがな申さるゝならん



〔参考〕竜門雑誌 第五〇九号・第三九―四四頁 昭和六年二月 グラント将軍歓迎の思ひ出(穂積歌子)(DK250033k-0005)
第25巻 p.496-499 ページ画像

竜門雑誌  第五〇九号・第三九―四四頁 昭和六年二月
    グラント将軍歓迎の思ひ出 (穂積歌子)
○上略
 次には其当時東京第一の劇場であつた新富座で、七月十六日に演劇を御覧に入れたのでありました。接待委員の夫人・令嬢は賓客の御席へ出るにも及ばず、それぞれ設けの席で見物すればよいといふのですから、窮屈なこともなく大層気が楽でありました。服装は男子は燕尾服、婦人は白衿紋付でした。私は其時十歳であつた琴子と共に母に連れられて参り、座席は花道側新高《しんだか》の三位の所でありました。国賓の座敷は正面桟敷内に広い席をしつらへ、(俗にツンポー桟敷と云はるゝ)後方は、緞子の縵幕で覆はれ、其前に金屏風が立て廻らされ、きらびやかな椅子が据へられ、小卓には金襴のテーブル掛がかゞやき、其他いろいろの装飾が施されて、常とはまるで異つた立派な場所になりました。この正面桟敷が此後いつまでもグラント桟敷と呼ばれて居たのでした。
 グラント将軍の夫妻一行が来臨せられますと共に此席に付かれましたは、御接待の御役を遊さるゝ宮様方・大官達及接待委員の幹部の人人でありました。
 此観劇会には皇族方の御台臨を仰ぎましたので、御幾方でいらせられましたか可なり大勢様妃殿下御同伴で成らせられ、御座席は西側の二階桟敷で一列に椅子に御着き遊されました。私共の居る新高《しんだか》からは殿下方の御胸から上部を折々は拝し得たのでした。妃殿下方は皆垂髪袿袴であられましたが、おそらく此服装で劇場へ御成りになりましたは此時が空前絶後でありませう。其後明治十八・九年頃洋式の服装を御用ひの事に定められましたから。
 さて芝居は福地源一郎氏の作意と聞きましたが、グラント将軍の南北戦争勝利の勲功を当て込んで作つて、河竹黙阿弥に至急に脚色させたものでありませう。其脚本がどこにか残つて居らぬかと聞合せて見ましたが、坪内さんの演劇図書館にもないといふことです。出演の俳優は市川団十郎・尾上菊五郎・中村宗十郎・中村仲蔵・岩井半四郎・市川左団次・市村家橘等当代の名優を網羅した大芝居でありました。新富座は当時劇界の策士で有つた先代の守田勘弥の経営でありましたから、其指導で各俳優も国際関係を了知し、且光栄に感激して、熱心に各々の特役をつとめたのであります。然し脚本は筋の主人公を強いてグラント将軍に擬して作つた急拵へのこぢつけ沢山で、頗るあまいものでありました。まづ第一幕は近江の国の或る所で源家の旧臣某が浪人して、革細工屋を営んで居る家の店の場で、二重の上手には出来上つた大太鼓が釣つてあり、下手には革を枠に張つたもの、中小の太鼓などいろいろ並べてあります。此旧臣の職業を革屋としたのは、グラント将軍が少年時代革の工場で働いて居られた事があるとかいふの
 - 第25巻 p.497 -ページ画像 
で、そのあてこみに強いて革屋を出したのであります。こゝに革の職人や買ひ手誂へ手の里人に扮した仕出しが四・五人居て口々に云ふ噂話で筋を通します。源の蔵人義家様《くらんど》は前九年の戦ひではあれ程の武勲を表はされたが、近頃悪人の讒言により勅勘を蒙り、其上痴呆の病に罹り都を出てさすらひの身となられ、今此家に身を寄せて居らるゝがたとへ阿呆になられても源家の若殿の殿ぶりは格別故、こゝの娘御は蔵人様を恋ひ慕ふて居るなど云ふて居ます。そこへ仲蔵の主人、半四郎の娘が出て来て、共に義家の勅勘と病ひとを打嘆くせりふが有り、皆退場しますと娘一人が残り、蔵人様《くらんど》は私の切なる思ひも受入れては下さらず、釣にことよせて外出のみして居らるゝはつれない御心と恨み言を云ふて居ります。やがて花道から団十郎の義家が烏帽子直垂姿で釣竿を肩にして出で舞台に来ます、娘は喜びいそいそと出迎へて恋の想ひをほのめかしますが、義家は取り合はず、恋など解せぬ様なおろかげな返事をして居り、終にそこへ肱を枕に寝て仕舞ひます。男の無情をかこつ娘の怨みが下座の義太夫のさわりを合方にいろいろの振りが有りまして、トヾやるせないと云ふ思入れで、思はず手を揚げて下手に置かれた中太鼓を打つ、太鼓がドンと鳴る、あわてゝ袖を押へて音を留めるなど、少し滑稽らしいはこびではありますが、美貌で名高い立女形岩井半四郎の下げ髪振り袖の娘姿、美しいものでした。其所へ都から源家の家人某が義家の在所をたづねて来る、主人が出て応接しますと、今度清原の武衡・家衡兄弟が謀反の旗を揚げ奥州が再び乱れたが、征討軍の大将となすべき人が他にはない、依て義家の勅勘を許し、討伐の大将軍に任ぜらるゝ、即時打ち立ち奥州に下向せよとの勅命が下つたと報道する。主人も娘もそれを聞いて、折も折とて義家様の御病気と云ふて一同に嘆息する。すると今まで臥て居た義家がむつくと起き直り、威儀を正して本心を明かす、今までの阿呆は敵の動静を窺ふ為の作り病ひであつた。早く今日あることを予期して釣にことよせ日々に所々を徘徊なし、近郷の武士は直ちに催促に応じる様に語ふてある、只今合図をなして軍勢を集めて見せやうと、鞭おつ取つて上手に釣つた大太鼓をドンドンと勢よく打続ける。忽ち花道から甲冑の武士が大勢出て来て、只今着到と異口同音に云ふ。主人も娘も都の使者も歓喜する。一同勇み立つて、いざ出陣と云ふ所で幕になりました。
 第二幕第一場は奥州に於いて清原軍と討伐軍と合戦の態、種々の武装した両軍の将卒が大勢追つ返へしつ廻り舞台で背景も度々変り、大戦争の有様を見せました。中にも家橘の家衡が緋威の鎧で花々しく働きました。団十郎は前から衣裳道具の古実をしらべ活歴に熱中して居たのでしたから、此時も後三年型烏帽子だの長巻だの、其他いろいろ従来の舞台上にはなかつた目新しい服装道具を用ひたのでした。
 第二場は武衡の陣屋の態、二重中央に宗十郎の武衡が、烏帽子直垂の下に腹巻を付けた大将姿で、敷皮の上に座して居ます。下に並んだ武者の間に、寄手の大将源の蔵人義家《くらんど》の智謀勇略当り難く、所々の砦は悉く陥つたといふ様なせりふがあります、そこで武衡が沈痛な面もちで、兵を揚げてよりはや三ケ年、初めの優勢に引かへて近来の連戦
 - 第25巻 p.498 -ページ画像 
連敗、かくては奥州に人種が尽るであらう、コリヤ一分別せねばならぬと云ふ意味の詞があります。花道から家橘の家衡が戦ひ疲れた大わらはの姿で、結び付けた白羽の矢を携へて出て来て、只今寄せ手の陣から此矢文が参つたとさし出します。武衡が受取つて読み上ると、義家からの降服勧告の文であります。清原軍の戦ひぶり目覚しいことであつた、然し力の限りを尽して今は運命の定まつたことを自覚せらるるであらう、速かに帰順して従軍の人々の生命を救ふがよい、義家自らの恩賞に代へて寛大なる官命を請ひ奉るであらうと云ふ文意であります。降服などゝは不礼至極、最後の一人になるまでもと、家衡がたけり立つのを武衡が制して、兄弟の命は元より覚悟の前ながら、猶も我執を続けて此上多数の人命を損なふは天の許さゞる処、今は帰順の勧告に従ふの外道はない。実に敵ながらも蔵人義家は智仁勇兼備の名大将、天晴れ源氏の大棟梁と一きは声をはり上げて云ひました。これが此劇の山でありませう。観客一斉に拍手しました。グラント将軍へも通訳して御聞せ申しましたらうが、クランド大トウリヤウの語呂合せには翻訳に骨が折れたことで有りましたらう。斯様に御話すると、あまりこぢつけ沢山のせりふで滑稽ではなかつたかと云はれるか知れませんが、近江源氏の盛綱や、兜軍記の重忠などを得意の芸として居る、実力の名優中村宗十郎のさびある一種の名せりふで述べたのでありますから、をかしいどころか、此所が一番見ごたへのある場面でありました。
 第三幕松原の中に、笹竜胆の幕張りのある源氏陣営の態、沢山の武者が並んで居てそれぞれせりふがあります。
 やがて上手幕張の蔭から現れる団十郎の八幡太郎義家、兜下の烏帽子白糸威の大鎧端然として上手の床几にかゝります。成程源家大棟梁の武者振実に立派なものでした。竜頭の大吹き返へしの兜を侍者に冠らせ、後ろに控へさせたのなど、其頃の舞台では目新しいことでしたこの甲冑は実物で、さる御大名の所蔵品であるのを特に拝借して着用したのであると聞きました。やがて知らせが有つて花道から武衡・家衡の両人が烏帽子直垂で出ていつもの所にとまり、舞台の義家とせりふが渡り、いざまづこれへと云ふので、両人が舞台に進み敷皮に着席します。兄弟の帰順の言葉、義家が敗将慰撫のことば、南軍のリー将軍の降服の場に擬へたせりふがいろいろありましたが、記憶して居りません。さて双方席を立ち舞台中央に対立し、武衡と家衡とが順に佩剣を右手に捧げてさし出すを義家が恭しく受けとり、やがて両人に返へします。両人が其寛大なる待遇に感激して名将の徳をたゝへます。日本の戦陣には敗将が帯剣を渡すといふ礼式はないのですが、これもリー将軍降服の場の光景に擬したものでありませう。あとはよく覚えませぬが、終りは奥州平定して日本国統一めでたしめでたしで一斉に勝閧を挙げ、勇ましく賑かに幕と云ふ様なことでありました。
 次は所作事和歌三神の踊りであります。
 幕が開くと御簾壁代の前に半四郎の玉津島明神十二単衣、菊五郎の人麿直衣、住吉明神はたしか左団次でした、唐めいた衣裳で並んで居り、合方は常盤津でありましたらう。舞がかつた静かな踊りが有り、
 - 第25巻 p.499 -ページ画像 
暫くして三人共引抜きで賤の女賤の男の姿になりますと、後ろも変つて武蔵の玉川の景色になります。花道から大勢同じ姿の男女が小盥をかゝへたのもあり、砧の槌を持たのもあり出て来ていろいろ振事があります。菊五郎は後三年の芝居には大した役が付かなかつた代り、ここで充分に踊つたのでした。終りは一斉の布さらしの踊りで、賑やかに幕がしまりました。
 最後は婦人踊り子の総踊りであります。始めの背景はたしか新橋停車場前の町の景、こゝへ団十郎・菊五郎・宗十郎を始め、重な俳優大勢素顔でフロツクコート或は袴羽織で出て来ます。いづれも接待委員になぞらへた人々であります、団長とも云ふべき団十郎が先頭で、各各口々に国賓たるグラント将軍の徳をたゝへ、米国が日本に対する好意を感謝し、日本・亜米利加両国和親の益々厚からんことを望むは上も下も同じ心であると云ふ意味の詞があり、この貴賓の旅情を御慰め申すため、何がな目新しいことを御覧に入れたく、踊り子の踊りを申し付けて置いた、サアサア早く始めさせませうと云ふて一同退場します、背景が取れると、長唄連中が花やかに並んで居ます、一寸序曲が有つて両花道から五六十人つゞの踊り子が出て来ます、踊り子は新橋柳橋其他各所から選出された若い芸妓であります。一様に髪はつぶし島田・帯は黒繻子でありますが、衣裳はいさゝか考へたものであります、紅白横段の着物、右の片肌をぬいで縹色に白く星形を染め抜いた襦袢の片袖を表はし、全身を米国々旗に擬したものであります、各々手に持つ扇は一面日の丸、一面星条でありました。此黒繻子の帯には一寸説明が入ります、帯が黒無地では衣服との調和がよくもないのですが、派手な色の帯を揃ひに新調するのは間にも合ひかねたでせうが且費用を省いて各々持ち合せのもので間に合せたのでしたらう、あの時代婦人の服装は実にじみなものでありまして、黒の唐繻子の帯といふものは、十八・九歳以上の婦人は喪服用ではなしに必ず一筋づゝは持合せて居るものでありました。
さて踊りは元禄花見踊りと伊勢音頭の踊りを交ぜ合せた様なもので、歌詞は日米親善の文句を入れて新に作られたものでしたが、これも今は残つて居りません。両花道から進んだ踊り子は舞台で一団となり、織る様に行きちがふたり、巴の様にめぐつたり、いろいろ有つて後、一同扇をかざした見得で賑かに幕になりました。
 此観劇会は俳優こそ名優揃ひなれ、劇も舞踊も簡単なものでありまして、ことにこの新富座は当時の東京に唯一の劇場でありましたけれど、其建築は至つて粗末のものでしたから、米国の方々の目からは貧弱な小屋としか見えませんでしたらうが、場内に充ち満ちた靄々たる和気には、賓客も御満足なされたことでありましたらう。 ○下略



〔参考〕明治演劇史 伊原敏郎著 第二四三―二四五頁 昭和八年一一月刊(DK250033k-0006)
第25巻 p.499-500 ページ画像

明治演劇史 伊原敏郎著  第二四三ー二四五頁 昭和八年一一月刊
 ○第二編
    第九章 演劇改良熱
 更に七月十六日には米国の前大統領グラントを新富座へ迎へた。府会議長であつた福地桜痴と中井弘との発起で、東京府民有志の招待会
 - 第25巻 p.500 -ページ画像 
といふのであるが、座主の勘弥が此の事を熱望して、その運動のために各方面へ蒔散らした金は一万円以上であつたといふ。これについて「守田勘弥」に興味のある咄が載せてある。
○中略
 なほグラント招待についてはもう一つ面白い逸話が同書にしるしてある。これも当時欧化熱の盛んであつた世相を知る材料であるから玆に抄録する。
 外国には夜会といふものがあるのを、日本でも始めようといふので同年の一月三日、駿河町の三井銀行楼上で其の催しがあつた。発起人は渋沢栄一と楠本正隆との二人で、余興を勘弥に頼まれたから、団菊左三優での「勧進帳」を三千円で引受け、この余興が大喝采を博したが、その夜会の席上で、グラント歓迎の費用について、渋沢が岩崎弥之助と喧嘩をした。渋沢は自分で五千円出すつもりだが、弥之助の兄の弥太郎は西南戦争で大儲けをした祝ひに一万円を出させてくれと言ふと、弥之助の返事が鈍つたので、ケチな事をいはず即答なさいといふ。ケチとは何事だ、と終に双方つかみあひにならうとしたのを、長椅子に寝て居た副島種臣が、まだ日本へ来ないグラントのために喧嘩をするのは早過ぎると冷かしたので、二人も笑つて、兄は別として、自分は三千円出さうと弥之助が言出し、それで打解けた。
 半年前からさういふゴタゴタがあつて、愈々実現された当日の御客は、グラントを正賓として、皇族御三方と同く御息所・三条太政大臣榎本・吉田の両公使・松本軍医総監・各国公使・米国公使館、諸官庁の長官・府会議員・会社重役・新聞記者などで、伊達宗城と蜂須賀茂韶が接待役であつた。劇は八時半に始まつて、「和歌三神」と「布ざらし」と「三つ面」の所作、次ぎに「後三年奥州軍記」、これはグラントを八幡太郎義家に擬した河竹の新作である、それを終ると、グラントから勘弥に贈つた幕地を舞台に飾り、勘弥は座頭の団十郎と小礼服で現れ、贈物の謝状を団十郎が朗読した。かくて二人が左右に引込むと長唄と清元の掛合で、市内各所から選抜した六十八人の芸者が、米国の国旗に因んだ片肌ぬぎの衣裳で、東西の花道から出で、新曲の「紅葉の橋」を踊つて、全く打出したのが十一時半であつた。 ○下略



〔参考〕東都明治演劇史 秋庭太郎著 第一〇一―一〇二頁 昭和一二年四月刊(DK250033k-0007)
第25巻 p.500-501 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。