デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

2章 国際親善
3節 外賓接待
1款 アメリカ前大統領グラント将軍夫妻歓迎
■綱文

第25巻 p.502-507(DK250035k) ページ画像

明治12年8月5日(1879年)

是日栄一、グラント将軍ヲ飛鳥山邸ニ請ジテ午餐会ヲ催ス。


■資料

東京日日新聞 第二二九九号 明治一二年八月五日 【○グラント君ハ本日王…】(DK250035k-0001)
第25巻 p.502 ページ画像

東京日日新聞  第二二九九号 明治一二年八月五日
○グラント君ハ本日王子へ参られ、製紙会社・抄紙部等を一覧せらるるに付き、渋沢栄一君ハ同所の別荘に迎へて午餐を饗応せらるゝよし


(芝崎確次郎) 日記簿 明治一二年(DK250035k-0002)
第25巻 p.502 ページ画像

(芝崎確次郎) 日記簿  明治一二年   (芝崎猪根吉氏所蔵)
八月五日 晴
○上略 小生ハ銀行ヘ一寸参リ諸事小使松五郎ヘ托し、十一時ニ出テ別荘ヘ、無程来客入御ニ付洋食昼食終テ大広間ニテ柔術・鎗術・長刀試合有之候、半バ職人罷出角力取致し、是ガ余程妙ニテ大笑ニテ御座候、午後二時グランド退散、続接待委員上野ヘ被帰、同所ヘハ諸参議、並ヘンネツシー来リ、同所ニテハ鎗術試合有之候よし、小生ハ二時後引取 ○下略


東京日日新聞 第二三〇一号 明治一二年八月七日 【○前号に記せし如く、…】(DK250035k-0003)
第25巻 p.502-503 ページ画像

東京日日新聞  第二三〇一号 明治一二年八月七日
○前号に記せし如く、グラント君ハ一昨五日に其令息・書記官ヨング氏並に接伴掛伊達宗城・蜂須賀茂韶・建野宮内権大書記官と共に王子の抄紙部・製紙会社を一覧せられ午前十一時に渋沢栄一君の別荘に参られ、福地源一郎・渋沢喜作・益田孝・小室信夫・伊集院兼常の諸君も来会ありて、渋沢君より西洋料理の午餐を饗応せらる、夫より柔術
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に名高き磯又右衛門氏が其門弟を連れ来り、始めに柔術の模範《かた》を取り次に乱取を為す、畢て榊原健吉氏の門弟数人鎖鎌・長刀・太刀の仕合等数番を一覧に入れしに、グラント君も其技の精妙なるを感賞せられ深く渋沢君の款接の懇到なるを謝せられ、午後二時すぎに帰館せられしと聞けり


雨夜譚会談話筆記 下・第五七〇―五七二頁 昭和二年一一月―五年七月(DK250035k-0004)
第25巻 p.503 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  下・第五七〇―五七二頁 昭和二年一一月―五年七月
                     (渋沢子爵家所蔵)
  第二十回 昭和三年一月二十四日 於丸ノ内仲二十八号館内渋沢事務所
    一、明治大帝と先生との御接触に就て
○上略
先生「○中略 所が最後に個人の家に招待せねば西洋式にならぬとの話が出て、私の王子の屋敷に招いて、撃剣と柔道とを見せた。其時柔道の先生で磯又右衛門と云ふ人が居た。種々試合をやつた後で、之れ丈けでは面白くないから、柔道家と柔道を知らない素人との試合を見せようと云ふので、私の家に出入して居た植木職の三五郎と云ふ力の強い大きな男を出した。磯は小さい男で三五郎に近寄らう近寄らうとするけれども、三五郎は寄せ附けたら駄目だと思つて相手を突き除ける。すると磯の方はだんだん後退りをして庭石の所まで行つて仕舞つたので、三五郎は一生懸命で此男を石に押え附けて動かさない。柔道家も之れには動きが取れず閉口して居た。三五郎がもう少し力でも弱ければ柔道の手でどうにか出来たらうけれども、大男で力が有るものだから何うもする事が出来なかつた。見物人は初めの間は大変面白がつて見て居たが、十五分も二十分も庭石の所で突張つてじつとして居るので、興ざめて遂に引分けとなつた。グラントは不審がつて『どちらが勝つたのか』と頻りに聞きたがつたので訳を話してやつた。あの時試合は引分けだつたけれども事実は三五郎の勝だつた。詰り力が技に勝つたのである」
○下略
   ○此回ノ出席者ハ栄一・野口弘毅・増田明六・渡辺得男・白石喜太郎・小畑久五郎・高田利吉・岡田純夫・泉二郎。
   ○右文ノ起頭ニ「所が最後に」トアルハ栄一ノ記憶違ヒニシテ上野行幸以前ノコトナリ。



〔参考〕竜門雑誌 第五〇九号・第四四―五〇頁 昭和六年二月 グラント将軍歓迎の思ひ出(穂積歌子)(DK250035k-0005)
第25巻 p.503-507 ページ画像

竜門雑誌  第五〇九号・第四四―五〇頁 昭和六年二月
    グラント将軍歓迎の思ひ出 (穂積歌子)
○上略
 前年の春の末頃に建設にとりかゝつた王子飛鳥山隣地の別荘が、この七月中旬ほゞ落成したので、渋沢一家は二十日過から同別荘に移つて居たのでした。八月五日将軍御来臨の日の前々日であつたと思ひます、夕刻に父上は例より早く御帰宅になりまして、母上始め一同が玄関へ御迎ひに出ますと、父上は幌馬車から御降りになるや否や常になく急いだ御様子で、「サアサア大変忙しいことが出来たよ、明後五日に
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グラント将軍一行を此家へ御請待することになつた」とおつしやり、母上始めがオヤオヤと云ふ中に居間においでになつても洋服を召しかへる間もなく母上に、「実は今日の接待委員会で福地其外欧米の事情に通じて居る諸氏が、今度来朝の国賓を、皇室に於かせられては頗る御手厚く御待遇遊ばさるゝのであるが、それに加へて日本の国民一同心から歓迎致す和親の意を表する為には欧米諸国の例にならひ民間一私人の家へも御請待申さねばならぬ、ことに米国の御方に対しては一層それが必要である、然るに接待委員等の家々でそれに適当な場所を所有して居るものが外にはない、飛鳥山の渋沢の別荘は新築で室も相応に広い様子だし且委員長の家であれば、賓客も一層満足せらるゝ訳である、丁度王子の製紙会社もぜひ御一覧を願ふ必要があるゆえ、其参観の帰途御立寄りといふ都合になれば至極宜しいから、是非に其招客を引受けて貰ひたいと云はれた。此別荘もまだ完全に出来上つて居るでは無し、ことに早急なことで大分無理ではあらうが尽力が頼みたい」と申されますと、母上は日頃は何事も念入りになさる代り一寸始めを憶劫になさる御性質にも似ず、「それはそれは将軍程な偉大な御人物を御家へ御迎へ申すことが出来るとは、何といふ光栄でありませうどうなりともして精々よく準備をとゝのへて御来臨を仰ぎたいものです」と申されたので父上も御喜びになりました。さてそれから今の様に電話があるではなし八方へ人橋をかけるといふ程にして其夕刻から準備にとりかゝつたのでした。別荘は客室・居間等座敷及其庭前等は既に出来上つて居ましたが表門から玄関までの間が広い原つぱ其まゝなのでした。翌四日には夜明け早々清水組・松本其他から多数の職人が来て、大工は来賓の馬車の御者・馬丁達の休息所を立てるやら、馬車馬の馬立てを作るやら、植木屋は木を植ゑるやら馬車道を作るやら其上に小砂利を敷きつめるやら、終日かゝつて未だ終らず日暮れて後は所々に篝火を焚いて仕事を急いだのでした。さて当日五日は早朝から客室の飾り付けで家中大騒ぎでした。其客室は飛鳥山邸改築後、現今は日本室の居室に直してある十二畳の二間でありますが、それに一間巾の畳廊下があり南北両側に普通より広い縁側が附いてありましたから襖障子を取払へば可なり広い場所になつたのです。其当時の床の間は正面にあつて、二間半一枚板の通しの板床でありました、客室の飾り付けに就ては其頃の渋沢の家では結構な什器といふては至つて数が少なかつたのでして、床の掛物は何であつたか覚えて居ませぬが、生花は立派なものでした。大隈さんの御紹介で別荘の庭を造るために頼んだので昨年から邸内に住居して居た佐々木可村《(佐々木霞村)》といふ人がありまして、文人画風の生花の名人でした、其人が大花瓶に挿した生花の雄大さ優美さ、西洋人でも趣味のある人ならば必ず嘆賞せらるゝであらうと思はれる様でした。それから大隈さんからでも拝借して来たのでありましたらう、支那蘭の珍花の盆栽が二つ三つ卓上に飾られて馥郁たる香りが室内に充ち渡つたことを覚えて居ます。其頃家には西洋家具とては一つも無いのでしたから、それ等は大方外務省方面から拝借したのでありましたらう。畳の上は絨氈が敷き詰められ、上座には立派な腕掛椅子が据へられ、二室のあちこちに椅子と小卓とが配置せら
 - 第25巻 p.505 -ページ画像 
れて御客室の準備は出来ました。ランチの御料理の方は精養軒が出張して調製しました。其道に巧者な料理人がポンチを作るとて陶器の大きな瓶に各種の洋酒を合せるのを母上始め皆々めづらしく思ひ傍で見て居ました。常盤屋の親方長井長十郎氏は此御招客には格別の用はないのですが見学の為なのでしたらう参つて居て共に見て居ましたが、シヤンパンを何本ともなくスポンスポンと抜いて瓶に打あけるのを見て「イヤコレハ贅沢なものですなア」と繰返し云ひますので母上が「今東京で名の高い大料理店の主人ともあらうものが、そんな気のちいさげなことをいふと御料理の信用にもかゝはりますよ」と云はれたので一同で笑ふたことを記憶して居ます。但し其頃にシヤンパンと云へば現今御披露会の乾盃用に使ふ様な安物とてはなく、一瓶の代価が非常に高価な品ばかりが舶来して居た時代なのでありました。かうして昼頃までには御待受けの準備がすつかり整ふたのでした。
 グラント将軍一行は渋沢委員長及数名の御案内で王子製紙会社工場を参観せられて後、此所に来臨せられたは二時頃でゞもありましたらう。それと前後して、御請待申した米国公使及朝野の名士たちが御揃ひになりました。グラント将軍の夫人は御旅館の延遼館でおみ足を蚊にさされたが、其あとが腫れて一両日靴をはくことが出来ぬ為とて、前から御断りで今日不参でありましたのは誠に遺憾なことでありますそれで御招伴の夫人の御客とてもないこと故母上も最初から御客席へは出ずに居られました。やがて父上からよびによこされましたので、母上は私・琴子・篤二の三人を連れて客室へ参りました。私にはやはり大国の元首の位に居られた御方といふので尊敬の念が深いのですから、貴人に御目見えといふ積りで席へ出たのでした。当然床の間前の大椅子に着いて居らるゝことゝ思ふたのに、意外にも将軍は次の間の末席ともいふべき所の小卓の傍の椅子に着いて至つて平易な御様子で談話して居らるゝのでありました。父上が母上を紹介せらるゝと慇懃に立つて握手の上何やら丁寧に話されたが、多分今日招待の御礼及び夫人不参の御申訳でありましたらう。続いて私も握手しましたが左様な折まだなかなか先方の御顔を見ることは出来ずうつむいて居たのでさても大きな御手だと思ふたのでありました。琴さん・篤二さん等が握手の折二人ともあまりはにかんで泣きさうな顔でもしてはならぬと気遣ふたが、存外二人とも却て私より平気な様子でありました。同時に御挨拶した将軍の令息は父上 ○グラントに引かへ非常に背の高い御方と思ひました。暫く傍の椅子に着いて居る中母上へはいろいろ話かけられた様子でありました、勿論通訳の方が始終ついて居られたのであります。其うち将軍がぢつと篤二さんを見て居られるのに気がついて、日本の少年はどの様なものかと視察せらるゝ様な気がして、篤二さんどうぞしつかりして居て下さいと云ひたい様に思ふたのでしたが、あとで考へれば、日本少年の羽織袴姿をめづらしく思はれたからでありましたらう。其うち余興が始まるといふので将軍を椽ばなの席に請じ私共も近辺の席で陪観致したのでした。余興として御覧に入れたのは日本の古武術でありました。庭前の飛石をとり除け地面を平らにして道場を作り左右に幕を張り武術者の控所がしつらへられたのでした。
 - 第25巻 p.506 -ページ画像 
榊原健吉社中の撃剣、磯又右衛門社中の柔術各数番、外に女流武芸者の長刀の型、木太刀と長刀の仕合などもありましたが、其うちことにめづらしくて私共に興味の有つたのは、木太刀と鎖鎌の仕合でありました。
 将軍が柔術は力と技術といづれを重しとするものであるかとたづねられたので、勿論技術を重んじますといふ者と、イヤいかに斯道に長じて居る者も怪力に会ふては技術の施し様もありますまいと云ふ人も有つたので、論より証拠、実験して見やうといふことになりました。それで選び出されたのは松本の植木職人三五郎といふてことの外大兵で常に庭石など取扱ふのに常人の四・五人力は有るといふ人でした。連れ出された三五郎の出立ちは、背中に赤く大きいちぎり ○渋沢家ノ家ジルシナリのしるしの付いた印半纏の上に小倉袴を付けいかにも恐縮げに首をちぢめ膝に置いた手がやゝもすれば頭を掻きに上へ揚りたさうに見えるのがまづ滑稽で愛嬌がありました。磯方から出た敵手は高弟中の一人といふことですが、三五郎に比しては小柄な人でした。相対してしかつめらしく礼をすると三五郎はヒヨコンと御辞儀をしました。さてヤツといふ掛声と共に敵手から抗撃して胸倉を取つて捻ぢ倒さうとしますが、三五郎はびくともせずに其手を振りほどいた態度は今までとは別人の観がありました。さて双方立ち上つて終始敵手からいろいろの手を仕かけますが、それがきくべく三五郎の力があまり強くありまして容易に勝負が付かず必死と揉み合ひますのを御覧になつて、将軍が双方の努力があまり気の毒に思はれる引分ける訳には行かぬものかと申されたさうですが、其うちトウトウ柔術は三五郎の強力に揉ぢ伏せられて参つたといふたので力の方が重要といふことが証拠立てられました。磯方からの希望でありましたらう今一番といふことになり別の敵手が出ました。今度も最初は三五郎の方が有利に見えましたが、其うちに柔術士の方に敵手の力を反対に利用する工夫が付いたものと見え、終に三五郎は自身の力があまされて場の中央へのめらされて仕舞ひ、此度は技術の方が重要といふ証拠が立ち、つまり将軍の御質問には解決が付かぬことになつたのでしたが、此余興は大層御気に叶ひ興に入られたさうであります。
 婦人の御客がないこと故レフレツシメントの時は母上と私共は客室を退きました。珍客御請待の模様が見たいとて参つて居られた伯母さんたちや、別懇な婦人方と共に居間でくつろいで料理を賞翫しましたさて終り頃に例の黄色な塊が出まして、これは鶴卵と牛乳とで作つた氷菓子といふ説明を受けました。一匙味ふて見ますとその甘味清涼、頰も落ちさうで、世の中にこれ程おいしいものもあるのかと感心致しさては先日の夜会の時には気味わるく思ふて手を付けなんだが、やはりこのアイスクリームであつたか、ほんとに惜しいことをしたと云ふたので皆さんが大層笑ふたのでありました。
 将軍御一行を始め賓客方御帰りの節は、母上について御見送りに出ました。あとに残つた接待委員の方々が、「奥さん今日は大した御尽力で委員一同が深く感謝致します。此請待会は予期以上の成功で将軍を始め一行の人々が、今日程くつろいで機嫌よく談笑せられたことは
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時々御同席した私共でも始めて見る位でした。此御請待は日米の和親上に多大な好影響であります」と、丁寧に御礼を云はれたのでした。
 成程後に考へて見ますと当日の御客様は五十名程でもありましたがさほど多人数ではありませんが、其招客用の為に集つた人は御客様の数の三・四倍にのぼりましたらう。何しろ其頃の西ケ原は全くの田舎で二本榎の辺など夜は全く人通りがないから追はぎだつて出はせぬかといふ程の淋しさでした、本郷辺まで行かねば町はありませんでした勿論電車も鉄道馬車もなく東京から来た人の俥は皆待たせて置かねばならぬといふ有様でした。父上は万事母上に任せて置いて朝から東京に行かれ正賓を案内して同時に帰宅せられたのでありました。
 現今の様に招客の設備について専門的に熟練した人があるではなしいさゝか物慣れた二・三の人々を相談あいてに一から十まで母上が指図して手落ちなく行渡る様に尽力なさつたのですから、其御骨折は今では想像にも及ばぬ程であつたのであります。 ○下略