デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

2章 国際親善
3節 外賓接待
10款 イギリス皇族アーサー・コンノート歓迎
■綱文

第25巻 p.585-591(DK250047k) ページ画像

明治39年2月24日(1906年)

是ヨリ先、イギリス皇族、アーサー・コンノート(Arthur of Connaught)明治天皇ニガーター勲章贈進ノ命ヲ奉ジテ渡来ス。栄一等都下実業界ノ有力者相謀リテ、是日、其歓迎会ヲ歌舞伎座ニ催ス。栄一委員トシテ歓迎ノ辞ヲ呈ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三九年(DK250047k-0001)
第25巻 p.585-586 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三九年     (渋沢子爵家所蔵)
一月二十日 晴 風ナシ          起床八時 就蓐十一時
○上略 午前十時半事務所ニ抵リ、長崎省吾氏ノ来訪ニ接シ、英国皇族歓迎ノ事ヲ談ス ○中略
戸田宇八来ル、英国皇族歓迎ノ事ニ付集会ノ通知ヲ為サシム ○下略
   ○中略。
一月二十三日 晴 風寒シ         起床七時三十分 就蓐十一時
○上略 三時半銀行集会所ニ抵リ、同人諸氏ト英国皇族歓迎ノ事ヲ協議ス ○下略
一月二十四日 曇 寒           起床七時 就蓐十二時
○上略
午後二時外務省ニ抵リ、珍田次官ト英国皇族歓迎ノ事ヲ談シ、更ニ大臣ニ面会シテ同シク其談話ヲ為ス
○下略
一月二十五日 曇 寒強シ         起床七時
○上略 午後一時半宮内省ニ抵リ、田中大臣ニ面会シテ英国皇族歓迎ノ事ヲ談話ス ○下略
一月二十六日 晴 風ナシ午後ヨリ風寒シ  起床八時 就蓐十二時
○上略 十二時銀行倶楽部ニ抵リ、田中常徳・益田英作・戸田宇八ノ諸氏ト英皇族歓迎ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
二月一日 半晴 風ナシ          起床七時三十分 就蓐十二時
○上略 午後三時半再ヒ銀行倶楽部ニ抵リ、英国皇族歓迎ノ事ヲ協議ス
○下略
二月二日 雨夕方歇ム 風ナシ       起床七時 就蓐十一時三十分
○上略 十一時半宮内省ニ抵リ、田中宮相ニ面会シテ英国皇族歓迎ノ事ヲ談ス、十二時英国大使館ニ抵リ、大使ニ面謁シテ、来ル六日招宴ノ事及英国皇族歓迎ノ事ヲ談話ス ○下略
   ○中略。
二月九日 雪 寒甚シ           起床七時三十分
○上略 午後三時銀行集会所ニ抵リ、英国皇族歓迎ノ事ニ関スル協議会ヲ開ク、珍田外務次官・長崎式部官・吉田秘書官等来会シ、委員園田・
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益田・近藤・豊川ノ四氏其他掛リ員数名会同シ、種々協議ノ後大要議決シテ、午後八時王子別荘ニ帰宿ス
○下略
   ○中略。
二月十三日 晴 風ナシ          起床九時 就蓐十一時
○上略
午後二時戸田宇八氏来リ、英国皇族歓迎ノ事ニ関スル手続ヲ協議ス
○下略
   ○中略。
二月二十二日 少雨 軽暖         起床八時 就蓐十一時三十分
○上略
貴賓歓迎準備ノ件ニ関シ、諸方ヨリ電話ニテ種々ノ要務ヲ報シ来ル
二月二十三日 曇午後雨 風ナシ      起床八時 就蓐十二時三十分
○上略 夜飧後歌舞座《(伎脱)》ニ抵リ、明夕英国皇族歓迎ノ準備ヲ為ス、九時英国大使館ニ抵リコンノート殿下ニ謁見ス ○下略
二月二十四日 曇 風ナシ         起床八時 就蓐三時
○上略 六時過歌舞伎座ニ抵リ此夕貴賓歓迎ノ事ヲ処理ス、午後九時ヨリ続々来賓アリ、英国皇族及我皇族ハ何レモ九時半頃臨場セラル、夫ヨリ数番ノ演劇アリ、畢テ三階ニ於テ立食ヲ饗シ、卓上殿下ノ万歳ヲ頌シ、御退場後関係者・演技者等ヘ一場ノ挨拶ヲ為シ、全ク閉場セシハ午前一時過ナリキ、諸事結了シテ王子ニ帰宿セシハ午後二時半《(前)》ナリ、兼子同伴セリ
二月二十五日 雪 寒           起床九時 就蓐十二時
○上略 午後一時霞ケ関離宮ニ抵リ、英国皇族殿下ヨリ招宴セラルヽ午飧会ニ出席ス、殿下及附添武官数名、接伴掛、其他徳川両公爵・鍋島・小村等ノ来会アリ ○下略
二月二十六日 半晴 風アリ        起床八時 就蓐十二時
○上略 午後一時東京市長ヨリ案内ニ応シテ、日比谷公園ニ抵リ、英国皇族歓迎ノ式ニ列ス、此日来観者群集シテ、公園ノ内外、人ヲ以テ道路ヲ塡ス、式場及食堂ノ設備共頗ル美麗ヲ尽ス、式畢リテ余興トシテ大名行列ノ模擬アリ ○下略
   ○中略。
二月二十八日 雨 寒           起床七時 就蓐十一時三十分
○上略 午前十時ヨリ梨本宮・閑院宮・有栖川宮・久邇宮・東伏見宮ノ五邸ヲ訪問シ、過日歌舞伎座ヘ賁臨ノ謝辞ヲ述フ ○下略
   ○中略。
三月三日 雪 寒             起床七時 就蓐十二時
○上略 正午銀行倶楽部ニ抵リテ午飧ス、食後英国皇族歓迎会ニ関スル計算上ノ事ヲ協議シ ○下略
   ○中略。
三月十六日 晴 風            起床六時三十分 就蓐十一時三十分
○上略 英国コンノート殿下ノ旅館ニ抵リ告別ノ辞ヲ述ヘ、十二時第一銀行ニ抵リテ午飧ス ○下略

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(八十島親徳) 日録 明治三九年(DK250047k-0002)
第25巻 p.587 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三九年   (八十島親義氏所蔵)
二月十九日 晴
九時例ノ如ク兜町ヘ出勤、青淵先生本日ハ出勤無シ 英国皇甥コンノート親王殿下、ガーター勲章贈呈ノ為今日入京、我 天皇陛下新橋迄御出迎、未曾有ノ事也 ○下略
   ○中略。
二月廿二日 終日小雨
不相変陰鬱ノ天気也、例刻出勤、男爵尚腸ノ工合不宜、今日モ出勤セラレズ、来廿四日実業家連ノ発起ニテコンノート殿下ヲ歌舞伎坐ヘ招待ノ件、一切ノ事務ハ郵船ノ田中常徳氏、又文書ノ事ハ銀行集会所ノ戸田宇八氏担当、執行シツヽアリ(其他装飾ハ手塚猛昌、会計ハ日比翁助)予ハ表面無関係ナレド、尚段々時日切迫ニツレ種々ノ用事ヲ補助ス
○下略
二月廿三日 終日雨
○上略
例刻出勤、午後ヨリ青淵先生出勤、今夕歌舞伎坐ニ至ル、明夜ノ歓迎演劇ノ下稽古撿分及相談会列席ノ為ナリ、青淵先生モ同処ニ立ヨリタル上、九時英国大使館ノ夜会ニ赴カル ○上略
二月廿四日 曇
○上略 出勤ノ上、夕歌舞伎坐ニ至ル ○中略
今夜ノ歌舞伎坐ニ於ケル東京銀行家及実業家五十九名ノ催ニ係ルコンノート親王殿下歓迎ノ演劇ニハ、幸ヒ雨モ落チズ、同親王及随員始メ我有栖川・東伏見・閑院等各宮様方モ臨席アリテ、特ニ新築シタル御坐所(土間中ノ後部)ニ着カル、来賓ハ元老(井上・山県)・各大臣・親任官・陸海軍将官・英国大使其他各国外交官、又主人側ノ家族等、合計椅子ノ数六百モ殆満員ナリ、楼上・楼下一面ノ電気ノイルミネシヨンヲ施シ、柱トイワス、欄干トイワズ、皆紅白金巾及緑葉ニテ包ミ床ハ一切シキリヲ去リテ絨氈ヲ布キ詰メ、明光々トシテ、加之和洋ノ来客其装綺羅ヲキソヒ、中々美観、狂言ハ益田太郎新作日英同盟昔語(アンヂン及お通)・曾我兄弟ノ討入及彫刻師ノ夢ノ三幕ニシテ、新橋芸妓ノ元禄踏《(踊)》リモ一番目ノ内ニ加ハレリ、コンノート殿下尤モ之ヲ喜バレシトハ、お側ニテ御説明申上シ益田太郎氏ノ直談也、又日本各宮殿下モ珍シキ事ニテ大喜ニ渡ラセラレ ○中略 幕合ニ立食アリ、又殿下御来着ノ節、渋沢・益田・豊川・近藤ノ各委員(園田氏欠席)ヨリ殿下ニ謁見シテ歓迎文奉呈、之ニ対シテ令旨ヲ賜ハリタリ、ハネシハ一時過 ○下略


竜門雑誌 第二一三号・第三三頁 明治三九年二月 ○英国親王コンノート殿下歓迎会(DK250047k-0003)
第25巻 p.587-588 ページ画像

竜門雑誌  第二一三号・第三三頁 明治三九年二月
○英国親王コンノート殿下歓迎会 青淵先生の主として尽力せられつつある、今回来朝せられたる国賓英国皇甥コンノート殿下歓迎会に於ては、本月一日の集会にて五名の委員を選定し、之に一切の事項を委任することゝなり、同委員たる青淵先生・益田孝・園田孝吉・豊川良平・近藤廉平の五氏は、去九日午後三時より銀行集会所に会合し、外
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務省より珍田次官・吉田秘書官・宮内省より長崎式部官列席し、尚高橋義雄・日比翁助・益田英作・田中常徳・手塚猛昌の諸氏も参加し、種々協議を凝したるが、結局来廿四日午後九時より木挽町歌舞伎座に於て大歓迎会を開き、演劇を観覧に供することゝし、其順序は、第一「昔語日英同盟」二幕(中間に踊入)、第二「曾我の討入」一幕、第三「各時代風俗模様」一幕を演じ、終りて立食を饗応することに決したり、尚当夜はコンノート殿下及其随員を招待する外、我各皇族殿下・元老・各大臣・各次官・両院議長・各国大使及公使、其他の外国人等を招待し、前記の各夫人をも招く筈なれば、総人員は約六百名に及ぶべき由なり、詳細は次号に掲載すべし


竜門雑誌 第二一四号・第三四―三七頁 明治三九年三月 ○英国親王コンノート殿下歓迎会景況(DK250047k-0004)
第25巻 p.588-590 ページ画像

竜門雑誌  第二一四号・第三四―三七頁 明治三九年三月
○英国親王コンノート殿下歓迎会景況 青淵先生を始め、府下重なる実業家五十八名の主催にて木挽町歌舞伎座にコンノート殿下を歓迎し演劇を御覧に供する計画あり、先生以下委員諸氏の大に尽力せられつつありしことは前号に記したるが、空前の盛事たる同会の景況を叙すれば実に左の如し
歓迎会当日即ち二月二十四日は、朝来曇天にて午前中強震あり、夜に入りて霧の如き微雨を降らしたれども幸ひにして歇み、歌舞伎座前は定刻前より殿下を歓迎せんとて蝟集せる男女堵の如く、殆んど立錐の地も余さず、警官は御通路を戒め混雑の取締に努めたり、殿下御着は予てより夜九時といふ御予定なりしかど、此日殿下には午後七時半霞ケ関御旅館に於て御宴会あり、会終りて御馬車を同座に枉させらるゝ事なれば、時刻自ら後れて、九時四十五分と申すに御一行と共に車馬轔々として御着相成たり
是より先、同座にては委員五名中の青淵先生・益田孝・近藤廉平・豊川良平の四氏は他の発起者と共に同座に出張し、装飾其他万端の手配りに奔走し、諸事遺憾なく設備したるが、之を一見するに座内は総て杉の青葉と紅白の幕を以て裹み、舞台には日英両国旗を紅色に染たる幕を引き、其上の欄間には中央にユニオンジヤツク、左右に桜と菊を飾り、之に電灯を点じ、天井は総て日英両国旗を以て飾りたり、殿下御座所は総白木造高欄付にて、背面は大なる菓子製の富士を飾り、其前には英人安針の守本尊及び其遺物なる梵字の経文とを厨子入にて飾りたり、こは殿下先日横須賀御成の節、安針に関する御談話ありたる由にて、逸見の香華院より御覧の為め同座に送りたるなりといへり
殿下御着に先だち、予て招待を受けたる内外貴紳は馬車に腕車に何れも盛装して来着あり、孰れも正面土間及び左右高土間・鶉桟敷等に入り、梨本宮殿下・同妃殿下・久邇宮殿下・同妃殿下・有栖川宮殿下・同妃殿下・東伏見宮殿下・同妃殿下にも相踵いで御来着あり、閑院宮殿下にも成らせられたれど、同妃殿下には御産後とて御参会なかりし斯くてコンノート殿下御一行は、座外に於る群集より万歳の歓呼を受させられつゝ徐々と御来着あり、座の入口に立たせ給ひて、出迎の接伴員・実業家等に御会釈遊ばされ、青淵先生と懇に握手せさせ給ひ、長崎式部官其他の接伴員及英国大使マクドナルド氏外各国公使等に囲
 - 第25巻 p.589 -ページ画像 
繞せられて、温顔に微笑を帯び給ひつゝ設けの席に着き給ふ、此時三階の奏楽所にては先づ英国国歌ゴツドゼーザツキングを奏して、続いて君ケ代を奏し、次で又カリフを奏す、此時青淵先生外三名の委員は粛々と殿下に近づき参らせて左の歓迎の辞を奉る
      大英国皇族プリンス・アーサー・オヴ・コンノート殿下に上るの書
 某等は今夕玆に 大駕を奉迎するに当り、東京実業家有志の名に於いて 謹て 殿下の 台臨を恵まれたるを感謝し、且殿下来訪の盛事に際し全市民が熱誠なる歓喜を表せることを上陳するの栄を有す窃に惟に 殿下の齎せられたる特別の使命は、英明なる貴 皇帝陛下と仁慈なる我 天皇陛下との間を聯結し、終始渝るなき友情交誼を一層敦厚親密ならしめ、又平和を永遠に確保するを目的とし、及門戸開放・機会均等の主義に依りて、貿易・工業の隆昌を企図する日英同盟を益々鞏固ならしむる所以にして、欣抃措く能はず、加之某等は大英国皇室の懿親にあらせらるゝ 殿下に咫尺し、数世紀に亘り立憲制度及経済事業の模範として宇内に瞻仰せらるゝ貴国に対して恭しく頌辞を 殿下に上り、併せて我国現代の進歩が貴国に負ふ所甚多きを陳謝し得るは、最も光栄とする所なり
 今夕聊 殿下の旅情を奉慰せむとするに当り菲薄備はらざる所あるは偏に寛恕を賜はらむことを願ふ、玆に某等は東京実業家有志の名を以て、恭しく 大英国皇室の繁栄無疆ならむことを祈り奉り、並に其仁政の下に生を楽む大国民の福利無窮ならむことを冀ふ 謹言
  明治三十九年二月二十四日
殿下は席を起ち後面して之を受けさせられ、更に長崎・寺島等各式部官の通訳によりて左の令旨を賜はせらる
 紳士諸君
 予は今夕諸君より呈せられたる歓迎の辞に対し其厚情を謝し 大英国皇帝に代りて 皇帝陛下及陛下の統治せらるゝ国家に対し深厚なる頌辞を致されたるを懌ぶ、ガーター勲章贈進の使命を帯べる大英国皇帝陛下の名代として日本上陸以来、到処予に致されたる歓迎は予の感喜措かざる所なるを、今夕此に臨みて述ぶるの機会を得るは欣幸とする所なり
 大日本皇帝陛下は、予が横浜及東京に著したる際公けに 陛下の民に会見するの好機を与へ玉ひ、各階級の歓迎は斉しく熱誠を極めたり、其温情厚誼は永く予の胸臆に紀して忘るゝ能はざるなり
 日英両大国間の感情に関する諸君の意見は、予も亦真心声応する所にして、目今最も満足に成立する相互の関係及友誼が二大国民の間に日を追ふて一層其根基を固くするに至らんことを信ず、今夕の饗応に於て予に致されたる款待を謝し、予に呈せられたる歓迎の辞に於て示されたる好意は、正に英国皇帝に致すを怠らざるべし
余興として御覧に供し奉りたる演劇の第一は「昔語日英同盟」の二幕にして、舞台の左寄に大なる岩組の張物、其後面は波濤の澎湃たる景を描き、右方には樹木風に揺れて飈々と音しつゝ、英人安針(高麗蔵)がお露(梅幸)其父儀平治(松助)の危難を救ふの場は眼前に現れた
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り、俳優一同此処名誉ある大切なる演伎と大車輪にて演じたれば、殿下には時々双眼鏡を執りて熱心に御覧あらせられ、接伴員の説明とプログラムとを参照して、御満悦の御気色に見えさせ給へり、此狂言中日英同盟の祝意を寓せし台詞多く、満場の来賓より屡拍手喝采を得たり、次で大詰安針婚礼の場にて新橋芸者の手踊あり、何れも揃ひの元禄姿にて手振花やかに舞納め、続て大小芸妓の日英踊あり、両国の国旗蝶の如く花の如く翩々として翻へれるには、殿下を始め奉り一同大喝采なりき
斯くて第二の演劇「曾我の夜討」は勇壮の立廻りを御覧に入れ、第三の「彫刻師の夢」には優美の振事にて、何れも大好評を得たり
因に記す、右歓迎演劇の番組未だ終らざる前に殿下には御帰館あらせられたり云々の記事を掲けし新聞ありしが、右に付き随行員ウヰンダム氏より、青淵先生に左の書面を寄せ来りしとぞ
    二月二十六日霞ケ関離宮に於て認む
  渋沢男爵殿
 拝啓、アーサー・オヴ・コンノート親王殿下は演劇の全く終了せざる内劇場より御退出相成候事を深く御残念に思召され候に付、其御心情を篤と貴下に御伝へ致候様特に希望被遊候、殿下は全く御誤解に依り、食事の案内ありしとき演劇は既に全部終了せしものと思込まれし次第にて、其後に尚演劇のありしことは御帰宿後に至り始めて承知せられたる義に御座候、而して殿下は当夕の観劇に於て無上の愉快を感ぜられしこと、及び殿下の為に特に計画せられたる種々の煩労と莫大の費用とに対し、真に深謝せられ候事を、貴下より委員各位へ御伝言被成下候様切望被遊候、先は右得貴意度如此御座候
                            敬具
                  ウイリアム・ウインダム


大英貴賓之日本観 リーズ・デール著、永田栄雄訳[水田栄雄訳] 第六〇―六三頁 明治四〇年七月刊(DK250047k-0005)
第25巻 p.590-591 ページ画像

大英貴賓之日本観 リーズ・デール著、永田栄雄訳[水田栄雄訳]
                     第六〇―六三頁 明治四〇年七月刊
    第六章 打球競技と歌舞伎観劇
○上略
 晩餐が終るか終らぬに、我等一同、各親王・各妃殿下も御一緒で、歌舞伎座即ちオペラ劇場に馬車を駆つた、此場に東京の実業家連が、アーサア親王並に日英同盟の紀念の為めに、観劇会を開催したので、此観劇会は頗る美観であつた、各種の装飾は極めて華美で、両国の国旗は云ふ迄もなく、隅々にさへ目立つて居た、長方壁の奥行の片側の大部を占領した程の大桟敷が、皇族並に妃殿下方の御用として、舞台に向つて拵へられ、泰西劇場のピットに相当する、劇場の中央部は、名ある紳士と其夫人で、立錐の余地がなかつた。
 劇の筋は、同盟紀念の為めに企てられた観劇会には、相応の芸題であると云ふので、日本人の按針と呼んで居るウヰル・アダムスの譚を基としたもので、第二幕の按針の婚礼を機会に、市内一流の芸妓の一座が割り込んで、若宮紀念の為めに作られた歌を唄つて、新手踊を踊つた。
 - 第25巻 p.591 -ページ画像 
 背景も演技も絶妙であつた、特に佳かつたのは、至難の上に貫目を要する家康の役であつた、按針も亦極上の出来で、エリザベス朝の衣裳から、格好の好い仮髪や髯は、頗る写実的であつた、最初の場の逸見海浜は、極めて巧みな道具立で、海の波浪が如何にも海浜に打ち寄せる様に見へた、夫れから樹木などが、風で前後に揺れて居て、欧羅巴の舞台でも、見た事のない位の舞台面で、夢幻の景が、頗る能く保たれた、第二幕は、高位の人の家に於ける、婚礼の正しい模範を示すに足るが故に、大に興味ある幕であつた。
 第二幕の終りに、我等一同は階上の大広間に招ぜられ、夜食を供せられたが、芸妓等は悉く出て、お客方の給仕を勤めた、彼等の嬌艶なる鳥渡した様子や、彼等のしなやかな起居や、優美な振舞は、頗る可憐であつたが、惜しい事には、彼等は此時も猶顔や唇に、脂粉の厚化粧其儘で居た、我等の目には、舞台で見てさへ、珍妙に見へるが、是れを一掃して、間近の側に来られると、心目を惹かれずには居られない。
 此招待会は、始めより終り迄、始めて宮廷の儀式の覊絆を脱せられた各皇族方には、嶄新の御経験であつたに相違ないと、余は推想するが、兎に角誰しも愉快に感じた事と思ふ、就中『獅子英国の使節』の若宮程、十二分に愉快に感じられた人はあるまい、東京の実業家連が惜気もなく考案と金銭を費やして発起した、此観劇会の成功は、彼等の賓客一同が、最も愉快に最も満足な記憶を持ち帰つて仕舞ふのであるから、実業家連は希くは自ら其成功を祝せられん事を望む。
 我等の招待に対して、英国人を主人公に出来る様な、日本の古い歴史中の物語りを基として、斯る脚本を選定されたは、好い思ひ付きであつた、是れが作者の益田太郎氏と、芝翫・高麗蔵等の俳優一同が、打ち通しの長興行に依つて酬はれん事は、我等の熱望する所である。
   ○コンノート〔Prince Arthr of Connaught〕イギリスノ皇族。一九二〇―二四年、南アフリカ総督。明治三十九年、明治天皇ニ、大正七年、大正天皇ニガーター勲章捧呈ノタメ来日。(一八八三―一九三八)(「広辞苑」、昭和三〇年版ニヨル)