デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

2章 国際親善
3節 外賓接待
13款 アメリカ太平洋沿岸商業会議所代表委員歓迎
■綱文

第25巻 p.615-629(DK250050k) ページ画像

明治41年10月16日(1908年)

是ヨリ先、東京・大阪・京都・横浜・神戸ノ各商業会議所ハアメリカ太平洋沿岸諸都市ノ商業会議所代表者ヲ招請シ、是月十二日代表委員一行来着ス。仍ツテ十四日、右五商業会議所ハ聯合主催シテ紅葉館ニ歓迎晩餐会ヲ開キ、翌十五日、横浜正金銀行ハソノ歓迎晩餐会ヲ開ケリ。栄一毎回出席シタルモ、是日個人トシテ一行ヲ飛鳥山邸ニ請ジテ午餐会ヲ催シ挨拶ヲ述ブ。次イデ十九日男爵岩崎久弥主催歓迎会其ノ深川邸ニ催サレ、翌二十日浅野総一郎主催歓迎午餐会芝区田町ノ同邸ニ開カレ、栄一毎次出席ス。更ニ十一月五日栄一同委員会長ドールマン(F. W. Dorman)ヲ帝国ホテルニ訪ヒ、翌六日再ビ訪問ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四一年(DK250050k-0001)
第25巻 p.615 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四一年    (渋沢子爵家所蔵)
九月二十二日 曇 涼
○上略 東京商業会議所ニ抵リ、米国ヨリ来遊スル実業家歓迎ノ事ヲ談シ ○下略
   ○中略。
十月十三日 晴 冷
○上略 ○午後 米国大使館ヲ訪ヒ大使ニ面会シテ、来ル十六日ノ午飧会ニ出席ノ事ヲ依頼ス ○下略
十月十四日 晴 冷
○上略 午後六時兜町ニ於テ日本服ヲ着シ、紅葉館ニ於テ催フ所《(ス)》ノ米国実業家招待会ニ出席ス、種々ノ余興アリ、且賓主ノ挨拶等アリテ頗ル盛会ナリキ、夜十一時王子ニ帰宿ス
十月十五日 雨 冷
○上略 午後六時横浜正金銀行ニ於テ、米国実業家招宴ノ為催フシタル晩飧会ニ出席ス、食事後種々ノ余興アリ、夜十時散宴帰宿ス、此夜兼子同伴ス


東京商業会議所月報 第一巻・第四号 明治四一年一〇月 聯合招待会(紅葉館に於て)(DK250050k-0002)
第25巻 p.615-617 ページ画像

東京商業会議所月報  第一巻・第四号 明治四一年一〇月
    聯合招待会(紅葉館に於て)
十月十四日来賓着京の夕、五商業会議所聯合招待会を芝紅葉館に於て開会せり、当日来会せる来賓並陪賓等は左の如し
主賓 今回来朝せる米国商業会議所代表員一同
陪賓 大浦農商務大臣・押川同次官・石井外務次官・仲小路逓信次官
 - 第25巻 p.616 -ページ画像 
同令夫人・平井鉄道庁総裁・同令夫人・大久保商工局長・萩原通商局長・同令夫人・倉知政務局長・木下旅客課長・鶴見商事課長・能勢総領事・同令嬢・斎藤総領事・同令夫人・小池総領事・同令夫人・阿部東京府知事・高崎大阪府知事・服部兵庫県知事・大森京都府知事・尾崎東京市長・同令夫人・男爵渋沢栄一君・同令夫人・男爵松尾臣善君浅野総一郎君・同令夫人・早川千吉郎君・池田謙三君
接待委員 聯合歓迎委員長・同副委員長・同委員・聯合商業会議所常議員
招待会順序 本招待会の順序は左の如く印刷して之を来賓に配付せり
    紅葉館招待順序
 午後六時開会(配膳)
 奏楽
 聯合歓迎委員長挨拶(通訳)
 来賓委員長答辞  (通訳)
 紀念品贈呈
  余興
   俳優所作事『操三番叟』
       俳優 坂東三津五郎
          守田勘弥
          尾上栄三郎
          中村駒助
   手品     数種
  紅葉踊     『胡蝶ノ舞』『千種』
 奏楽
                  PROGRAMME.
                   AT THE
                  MAPLE CLUB

                     October 14th,6.p.m.
             Japanese Dinner Served (Music)
           Address of the Chairman of Committee
              of the welcome Reception.
         Reply of the Chairman of the Visiting Party.
                Souvenirs Presented.
               Theatrical Performances:
                "Ayatsuri Sanbaso"
                    Actors:-
                Bando Mitsugoro.
                Morita Kanya.
                Onoe Yeizaburo.
                Nakamura Komasuke.
                Juggleries(Desert)
                Maple Dances.
           American and Japanese National Anthems.
 - 第25巻 p.617 -ページ画像 
開会 定刻に及び奏楽嚠喨の裡に聯合歓迎正副委員長の先導にて来賓一同着席、席定まるや中野聯合委員長起ちて左の挨拶を為し岡田書記長之が英訳を為せり
    中野聯合歓迎委員長の挨拶 ○略ス
右の挨拶に対し来賓委員ステツソン君起ちて左の答辞を陳べ岡田書記長之を和訳せり ○答辞略ス
紀念品贈呈 右主客の挨拶了るや、米国商業会議所代表員一行に対し左の如く一々紀念寄贈品を配附せり
 来賓紳士に対する贈呈品 美装日本風景写真帖 一冊
 同夫人並令嬢に対する贈呈品 御殿織大形服紗 一個
余興 宴終りて数番の余興あり、且つ酒場の設備等ありたる故、主客一同歓を尽くし奏楽の裡に閉会せり、時正に午後十二時


渋沢栄一 日記 明治四一年(DK250050k-0003)
第25巻 p.617 ページ画像

渋沢栄一  日記  明治四一年    (渋沢子爵家所蔵)
十月十六日 雨後晴 冷
午前六時起床、戸外ニ出テ天候ヲ見ル、雨尚ホ歇マスシテ雲霧濛々タリ、此日ハ米国実業家ヲ午飧ニ招宴セシヲ以テ庭園・室内ノ準備ニ注意シ、且朝来演説ノ腹案ヲ為ス、十一時頃ヨリ雨歇ミテ、快晴ナラサルモ聊日光ヲ見ルニ至レリ、十二時続々来客アリ、午後一時多数ノ来客集合セシニヨリ一同ヲ食卓ニ誘引シ、午飧畢テ盃ヲ挙ケ来賓ノ健康ヲ祝シ、米国大使又余等ノ健康ヲ祝スル為メ盃ヲ挙ク、夫ヨリ庭園中ヲ散歩シ、三時過キ余興場ニ抵リ、三曲ト芸妓ノ舞踏アリ、且余興ヲ演スル前ニ於テ余ノ演説アリ、来賓ドールマン及ブレエン二氏答詞ヲ述フ、畢テ数番ノ余興ヲ演シ、午後六時半散会ス
○下略
   ○中略。
十月十九日 晴 冷
○上略 午後二時ヨリ深川岩崎男爵別邸ニ催フサルヽ米国実業家歓迎会ニ出席ス、天気快晴ニシテ庭園美麗ナリ、庭園中ヲ散歩シテ、四時過兜町事務所ニ抵リ ○下略
十月二十日 晴 冷
○上略 十二時田町浅野氏邸ニ抵リ、米国実業家ノ午飧会ニ出席ス、兼子同伴 ○中略 六時銀行集会所ニ抵リ米国実業家招宴ノ晩飧会ニ出席ス、食卓上一場ノ演説ヲ為シ、来賓中ニモ、トールマン、コツクアルベルト其他数名ノ演説アリ、終ニ園田孝吉氏英語演説アリ、散会セシハ十二時過ナリキ
   ○中略。
十一月五日 晴 冷
○上略 午前十時帝国ホテルニ抵リ、来賓トールマン氏ニ会見ス、東洋汽船会社ノ事、帝国ホテルノ事其他種々ノ談話ヲ為ス ○下略
十一月六日 曇 冷
○上略
午前十時帝国ホテルニ抵リ、来客トールマン氏ニ会見シ、種々ノ談話ヲ為ス
 - 第25巻 p.618 -ページ画像 


竜門雑誌 第二四五号・第八三―八八頁 明治四一年一〇月 ○青淵先生の米国実業家招待会(DK250050k-0004)
第25巻 p.618-621 ページ画像

竜門雑誌  第二四五号・第八三―八八頁 明治四一年一〇月
○青淵先生の米国実業家招待会 青淵先生には本月十二日横浜に上陸したる米国太平洋沿岸商業会議所特派委員一行を招待し、去る十六日正午飛鳥山邸に於て午餐会を催ふされたり、当日の来賓は
ヱフ・ダブリユ・ドールマン      桑港     「ネサン・ドールマン」社長 委員長
シー・ヱム・クツク          布哇     布哇銀行頭取 副委員長
ダブリユ・エム・アレキサンダー    桑港     「アレキサンダー・ボードウイン」副社長
ロバート・ダラー           同      「ロバート・ダラー」汽船会社長上席夫人、同氏第一年長
同夫人
ヱム・グリーンボーム         同      資本家 年長者第三
ヱル・グリーンボーム         同      機械技師
アル・ビー・ヘール          同      「ヘール」兄弟会社会計部長
同夫人
イ・ヱル・ヒユーター         同      「バス・ヒニークー・ペイント」 会社々長
同夫人
ヘンリー・マイケルス         同      「ラングレー・マイケース」社長
ドクトル・ケー・ビスチヱル      同      眼科医
同夫人
マツクス・スミツト          同      「スミツト」石版印刷会社長
ジヱー・ビー・ステツソン       同      桑港街鉄社長 年長者第三
ジヱー・ジヱー・ベルキン       ロサンセルス 石鹸製造会社副社長
同夫人
ジニー・ニー・ベリツク        同      「アレキサンドリア・ホルレンベツキ」旅館会社長
同夫人
ジエー・テー・フヒツゼラルド     同      楽器製造会社長 名誉書記長
同夫人
アルフレツド・ピー・グリフヒス    アズサ    「グリフヒス」菓物会社長
ヱス・アイ・メーリル         同      加州殖産会社長
ヲー・ヱム・クラーク         ポートランド 木材会社長
同夫人
ヱル・シー・フレンドリー       同      「ロゼンター」会社代表者 六歳ノ男子アリ
イー・ヱフ・ブレイン         シヤトル   弁護士
同夫人
ゼームス・デイ・ロウマン       同      資本家 次席夫人
同夫人
ヱチ・ダブリユ・ツリート       同      同
同夫人
ヱー・ケンダル            ヲヽクランド 太平洋沿岸木材会社長
同夫人
イー・イー・スキンナー        ユレカ    「スキンナー」会社長
ヱヌ・ヱチ・フオルク         同      「ヱルク」河木材会社長
同夫人
ウヰリアム・クレイトン        サン・デーゴ 「コロナダホテル」会社長
ジオン・ウオターハウス        布哇     「アレキサンダー・ボードウイン」会社会計部長
同夫人
ヱー・ヱフ・アルバートソン      タコマ    銀行家 八歳ト十歳ノ女児二人アリ
同夫人
アリス・クツク嬢(クツク氏娘)    布哇
ヱー・ブリザード夫人(スキンナー氏妹) ユレカ
シー・ヱス・ドールマン夫人(ドールマン氏同行)
メーベル・ヱ・セーヤ嬢(ダラー氏同行)
 - 第25巻 p.619 -ページ画像 
ウヰリァム・エー・スタンバーク    タコマ    資本家
エー・ヱル・クラーク         ポートランド
ダブリユ・ヱチ・アカツフ       スポケン   「ワシントン」木材会社長
を主賓とし、米国大使オブライエン・同夫人・同書記官ミラー、「アツソシェーテツド、プレス」通信員ケネデー・同夫人・石井菊次郎・同夫人・萩原守一・同夫人・寺島誠一郎・同夫人・能勢辰五郎・同令嬢・小池張造・同夫人・斎藤幹夫人・穂積太郎・同夫人・男爵岩崎久弥・男爵三井八郎右衛門・同夫人・尾崎行雄夫人・中野武営・星野錫土居通夫・西村治兵衛・男爵松尾臣善・添田寿一・高橋新吉・園田孝吉・佐々木勇之助・日下義雄・早川千吉郎・安田善次郎・浅野総一郎大倉喜八郎・益田孝・島田三郎・箕浦勝人・大岡育造・野崎広太・池辺吉太郎・本多精一・鏑木誠・佐藤顕理・佐藤毅・白石重太郎諸氏の外、穂積陳重・同夫人・阪谷男爵夫人等主客百十数名にして、前夜は風雨烈しかりこととて当日は早朝より空模様如何にと気遣ひしが、幸にして昼頃より雨全く霽れ日光さへ洩るゝに至りしかは、午後二時三十分一同の全く来揃へるを待ちて之を食堂に案内したり、来賓の斯く時刻に後れしは、米国実業家の上野公園内の見物に思はぬ手間を取りしに由れりと云ふ
当日同邸に於ける設備は頗る意匠を凝らしたるものにして、其概況左の如し
 本玄関より座敷及廊下を通じ美麗なる絨緞を敷詰め靴穿の儘昇降の便に供し、又休憩所に充てられたる西洋館より仮設廊下伝へに園内に設けたる柿葺休憩所に通じ(此休憩所は外部を緑葉もて装飾し紫「メリンス」の幔幕を引き廻し、内部は緑葉もて作られたる天井より様々の大花房を数ケ処にあしらひ、各処に盆栽を配置し、正面には一対の金屏風を建連ねたる装置なり)又此休憩所より廊下通ひに六角堂・吾妻屋に通じて来賓の思ひのまゝに休憩し得る如く為し、又食堂は柿葺休憩所と相対したる樹間に長二十間・幅五間の柿葺家屋を作り、其中央に長大なる卓子を案したり、其外部は緑葉をもて装飾し、屋内亦緑葉の天井に国旗と様々の花を以て隙間も無く飾り又天井より数箇処に美麗なる瓦斯灯を吊り下け、卓辺の此処彼処には大盆栽を陳列し、瓦斯煖炉を設備せり
主客着席の後、帝国「ホテル」より出張の厨夫に依りて料理せられたる午餐を供し、鄭重なる午餐会を開かれたり、午餐終りて後青淵先生は簡単なる挨拶を為して米国実業家の為に祝杯を挙げ、更に米国大使の答礼ありて青淵先生の為に祝杯を挙げられたり、夫より主客相共に雨あがりの庭の芝生を歩みつゝ、数寄屋より王子の田面を見渡せる辺を過ぎて、余興場に充てられたる日本館表座敷に入れり、此処には片隅に酒場を設けて客の来り酌むに任せ、正面の舞台にては三曲の合奏を演ずること二回にして、青淵先生は起立して別項記載の如き演説あり、佐藤顕理氏之を英訳したり、次に一行の委員長ドールマン氏の演説、委員シャトルの弁護士ブレーン氏の答辞あり、岡田横浜商業会議所書記長之を和訳し、之にて式を終るや来賓は一同立ちて「ワン、ツー、スリー、日本と米国と万歳万歳」と絶叫したり、夫より又余興に
 - 第25巻 p.620 -ページ画像 
移り、新橋芸妓の京人形及東都踊等ありて、七時半頃散会したり、会は午後二時半に始まり七時に終りたるが、米賓は孰れも其待遇の鄭重にして行き届きたるを喜ばざるものなかりき
因に当日青淵先生の懇切なる款待は頗る米賓に感動を与へたりと見え其後委員長ドールマン氏より左記の書状を送り越したり
      (訳文)
 拝啓、過日は御自邸へ御寵招を蒙り善美を尽せる御饗応に預り、且つ秀麗比無き御庭園より貴下及其他の御企業に係る製造工場の完備せる状態を一望の裡に瞰下する好機会をまでも御与へ被下候等、厚き御懇情に対し委員一同及小生自身に於て深き感謝を表し、併せて右の記憶すべき機会に於て当然の権利として、衷情を披攊したる蕪辞の覚書を玆に封入して呈上仕候
 右の言辞は其際小生の心中に生じたる所感の一小部分を言表はしたるに過ぎず候、若しも充分の時間を得たりしならんには、小生自身に於て欣然として数千万言を費すのみならず、他の多数の賓客に於ても蓋し一層の雄弁を以て小生同様満腔の感謝と満足とを表せしに相違なしと存じ申候
 小生は玆に一般委員の惣代として、更に一事の拝願すべきものを有し候、即当日拝聴せし御演説は斯る席上に於ける有り来りのものには無之、普通の演説とは大に趣を異に致し、深く感動仕候故、是非共之を本国へのお土産に持帰らざるべからずと吾人一統熱望仕候、吾人は我国人の利益と信ずる事物は悉く蒐集して帰国する考に御座候処、蓋し其事物中右の御演説の右に出づる好土産は無之と確信仕候、就ては甚申兼候へども、右御演説の写し御投与に預り度、然る上は英語に反訳致し候て、帰国の上国人に示したくと期望仕候、我国人は吾人が日本に於て何物を見、何事を聞き、又如何なる事物を学びしかを知らんが為に、日夜鶴首して吾人の帰着を待ち居る次第に御座候
 斯る無遠慮なる御願を申上候は、甚だあつかましき義と万々承知致候得ども、吾人の熱望は敢て非礼を顧みるの遑なきに至りし次第、御了察の上御宥恕を賜はり候はゞ難有奉存候
 貴邸に於ける過日の御懇待は、夫れのみにても吾人が態々日本に渡来せし目的の全部を達したるものと言ひ得べくと信じ申候、実に貴邸にありし数時間は、小生の一生中最愉快なる事項の一として終生記憶に留め、決して忘却する能はず候、玆に委員一同に代はり再び感謝仕候 敬具
  千九百八年十月十九日於東京
            米国太平洋沿岸各地商業会議所
            代表名誉委員会長
               エフ・ダブルユー・ドールマン
    渋沢男爵殿
又当日の饗宴には、来賓の言動中面白可笑しきこと少なからず、試に新聞紙上に見えしものゝ二・三を挙ぐれば左の如し
 △デスカとは何に 一米賓は頻りと日本人同志の話に耳を傾け居た
 - 第25巻 p.621 -ページ画像 
るが、傍なる岡田猛熊氏を捕へて「日本語のデスカと云ふ事は何の事ですか、魚の事を云ふのですか」と問ひたるは一寸愛嬌なりし
 △有難う ドールマン氏は傍人に向て「是迄方々で款待されましたので、其都度言葉を変へて謝辞を述べて居りましたが、今日となつてはもう何と云つて礼を述べてよいか種切になりましたから、之からは只最う有難うと云ふ事にしました」
 △灯籠の下には何がある 一行は食堂の開く迄庭園にて休憩中ケンダル氏は瀬戸物の灯籠に目を付け傍人を執へて「此下には何が埋つて居るのですか」と問はれたるを以て「何も埋まつては居りません」と答へると「一体之は何で出来て居るのだらう」と叩いて見て「鉄ですか」と問ふ「瀬戸物です」と答ふると「実に精巧なものだ、此の鳩の工合と云ひ何とも云へぬ処がある」と非常に感心の体なりし
 △茶碗の持方がよい 宴畢りて三々伍々園内を逍遥し、茶室に立寄れば茶の湯の饗応あり、米賓の一人はドールマン氏が茶碗を取り上げたるを見て「貴方は何処で習つたか、茶碗の持方が要領を得て居る」と云へば、ドールマン氏は笑ひ乍ら「何に、今向ふの日本令嬢のを見て其真似をしたのです」と云ひたるは中々に振つた
 △妙な楽器 ブレーン氏の演説を終り新橋芸妓の清香・五郎両名京人形の舞を演ず、ブレーン氏は「之と同じ様な話が希臘の昔話にもありますから能く判明ります」と大喜、次は秀松・静江・小かね・桃子等の尤物が、古代紫に菊模様の友禅の振袖に文金の高島田で袖も軽げに「東都踊」の曲を舞ふ、賓客は只其美観に打たれて酔へるが如く一心に眺め入る、折柄附近の工場の汽笛が鳴渡ると、一米賓は之も曲中の鳴物かと思ひ「妙な音の出る楽器ですなア」と問ひたるは大滑稽
 △ドールマン氏の詫言 正午の案内に、博物館に回つた実業家一行が一時になつても二時になつても出て来ぬので、先着の委員長ドールマン氏は大に気を揉んで主人の青淵先生に対して曰く「私は委員長ですが博物館の方は小池総領事に任せて置いたから遅くなつた罪は小池君に在るのです、何卒其辺宜しく」と笑ひながら頭を下げた
 △十日許りは後に残る 今度は青淵先生の方から「御来着以来歓迎騒で、肝腎の商売の御話を承はる暇もないので甚だ残念なるが、来る二十日の銀行倶楽部の晩餐会には是非御出を願ひたい」と云ふとドールマン君は承知致したと肯ひて「尤も私は一行の出立後十日計り後に残りて緩くりと視察したい積で、今日、本国へ電報を打つた所です」と云はれたが、実際同君は此際居残る由なり


竜門雑誌 第二四五号・第一―五頁 明治四一年一〇月 ○青淵先生開催米賓歓迎会に於ける主客の演説(DK250050k-0005)
第25巻 p.621-624 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

東京日日新聞 第一一四三六号 明治四一年一〇月一七日 ○渋沢邸の午餐会(DK250050k-0006)
第25巻 p.625-626 ページ画像

東京日日新聞  第一一四三六号 明治四一年一〇月一七日
    ○渋沢邸の午餐会
        △唯だ難有《サンキユー》の辞あるのみ
米国実業家の一行は、別項に記す如く上野公園の見物を終りて後、一同俥を聯ねて王子なる渋沢男爵邸の午餐会に臨みたり△食堂を開く
来賓は玄関を入りて、更に庭園の一隅に設けられし板葺屋根の瀟洒なる休憩所に案内されたるが、天気も幸に正午前より雨歇みたれば、男子客は芝生に出でゝ彼方此方を逍遥し、婦人客は多く休憩所に在りて米国大使夫人・阪谷前蔵相夫人・石井外務次官夫人・萩原通商局長夫人・尾崎市長夫人・小池総領事夫人・能勢総領事令嬢などゝ種々の談話を交へ居たるが、何も休憩所天井の中央装飾に吊したる樟玉の美きを賞したり、此午餐会には米博事務官長ルーミス氏にも招待状を発しありたるより、男爵邸にては氏の来会を待ち居たるも急に差支ありとて出席を断はり来りたる由にて、午後二時に至りて漸く食堂を開きたり、食堂は休憩所の前を遥かに離れたる処に設けられたりしか、横二十六間程なる長方形の板葺屋根造りにて、柱は悉く緑葉をもて包み、入口正面には日米両国旗を交叉し、正賓・陪賓打連れて此処に案内され、夫夫席に就き宴酣なるや、渋沢男爵は起ちて来賓諸氏の健康を祝し、弁護士ブレーン氏来賓総代として之れに答礼せり△嬉々として歓語す 斯くて一同食事をなしつゝ嬉々として歓語し、種々と面白き談話ありしが、或る一人が「到る処歓迎さるゝのみか、帰りには必ず贈物を受け実に感謝の辞なし」と語り出でたるに、何れも然り然りと述べたるを、陪賓の一人はこれを聞くより「何か容器をお求めなさらずばなるまじ」と云ひしに「此の様子では到底小さき容器にては用を為すまじければ、船を別に一艘も仕立てずばなるまじ」といひて皆々大笑ひし、又一人は「来朝以来各所よりの招待といひ種々の贈物といひ之れに対して感謝の語は其有丈を言尽して、今は別に適当の辞あるを知らず、されば今後は唯だ難有《サンキユー》の辞あるのみ」といひたるに、何れも然りと述べ此宴会に対しても頻りと感謝の意を表し、大に満足の体なりき△洋食の献立 料理も善尽し美尽しの洋食にて其献立は左の如し
 △冷製肉各種△鶏肉羹汁△鯛焙焼、鶏卵製冷汁△牛脊肉、洋菜添△鴫松露入潰肉入汁、飯添△野天門冬、牛乳製掛汁△雛鳥松露入蒸焼洋菜添△牛酪製冷菓果実各種
△庭園の景色を賞す 斯くて三時半頃に至りて宴を終り、三々伍々打連れて庭園を逍遥しつゝ、何れも其景色を賞したるが、渋沢男が一人の婦人客に向ひて「自分が此処に邸宅を設けたるは今より三十年前なりしが、其頃は前面悉く田圃にして眺望佳なりしに、今は見らるゝ如く斯多くの工場建設されたり、商工業の発展は風景の美と伴はざるものよ」と語りしに、其婦人は「我国にても同様にて、珈琲を飲みっゝ煤煙の臭気に襲はるゝといふ有様なり、然れども商工業の発達を思へば其位の事は厭ふべきにあらず」といひたる由にて「流石は実業家の夫人よ」傍らなる陪賓は手を拍て感嘆せり△日本語で万歳 来賓一同は更に大広間に入り、先づ余興の三曲あり、次に渋沢男は起ちて歓迎
 - 第25巻 p.626 -ページ画像 
の辞を述べ、佐藤顕理氏之れが通訳を為し、ブレーン氏及びチエーム氏の答辞あり、何れも岡田横浜商業会議所書記長之れを通訳し、終つて来賓は一同日本語にて亜米利加日本万歳と斉唱したり△余興は大喝采 前記余興の三曲は、東京音楽学校教授今井慶松氏及山室千代女の琴・高橋栄清の三味線・町田杉勢女の胡弓にて、「都の春」・「八千代獅子」の二曲を奏し、其他の余興は新橋芸妓清子と五郎の「京人形」(左甚五郎)、同秀松・静江・小かね・桃子等の「東都踊」、此の地方すま子・山寿・おとめ・辰竜・あや子・喜代次等なりしが、拍手盛んに起りて非常の大喝采なりし△主なる来賓 当日の来賓中婦人の主なる人人は前に記したれば、其他男子客の主なる人々を挙ぐれば左の如し
 米国大使・松尾日銀総裁・添田興銀総裁・高橋勧銀総裁・安田善次郎・大倉喜八郎・早川千吉郎・中野武営・土居通夫・西村治兵衛・小池総領事・能勢領事・萩原通商局長等


竜門雑誌 第二四七号・第六一頁 明治四一年一二月 ○米国実業家の感謝(DK250050k-0007)
第25巻 p.626 ページ画像

竜門雑誌  第二四七号・第六一頁 明治四一年一二月
    ○米国実業家の感謝
ドールマン氏等北米実業家一行は去月四日帰国の際会合して、本邦官民の款待に対する感謝の決議を為したるが、該決議は美麗なる絖に錦欄の縁取を施せるものに印刷し、東京商業会議所の手を経て青淵先生の許にも送り越されたり、該決議文左の如し。
 北米合衆国太平洋岸商業会議所代表名誉実業視察委員は、日本に於ける諸商業会議所が我等の来遊を懇請したる真情を感謝し、又高位高官の人より一般人民に至るまで我等をして殆んど感謝の辞なき程感激せしめたる歓待を謝せん為、玆に謹で我等を歓迎したる諸有司閣下、我等を嚮導せられし実業家諸団体、我等を歓待せられし諸倶楽部、及び我等の快楽の為めに家庭をも開き饗応せられし淑女・紳士諸君、千九百八年十一月四日我等代表委員総会に於て可決せし左の決議案を嘉納せられんこと切望す
 一、日本帝国人民の北米合衆国人民に対する友情好意は、何等疑を挟む余地なき事
 一、両国間の通商関係は鞏固となり得べきのみならず、之をして益益鞏固ならしめざるべからざる事
 一、両国間の通商貿易の増進を計り、両国民間の友情を持続する為め、適当なる方案を講ずる事



〔参考〕(八十島親徳) 日録 明治四一年(DK250050k-0008)
第25巻 p.626-627 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四一年    (八十島親義氏所蔵)
十月六日 晴
今日ハ稍快方床上ヲナス、此度来遊スヘキ米国太平洋沿岸諸州実業家招待ノ件(十六日王子ニテ)ニツキ種々相談アリ ○下略
   ○中略。
十月十四日 晴
朝王子邸ニ至リ、明後十六日米人(太平洋沿岸商業会議所員特別来遊者六十人)招待ニツキ、仮設食堂・仮設休憩室建設中ノ模様其他諸準備ヲ見分シ、午後兜町ヘ出勤、夕帰宅ス
 - 第25巻 p.627 -ページ画像 
十月十五日 曇午後雨
○上略 午後兜町、明日王子招客ニ関スル諸準備仕事ノ為夜業ヲナシ、十時過帰宅
十月十六日 雨但ヒル前ヨリ止ム
早朝王子渋沢邸ニ至ル、今日ハ男爵ガ一個人トシテ近来来朝中ナル米国太平洋沿岸各地商業会議所代表者男女五十余名ト、外ニ相客トシテ我国五市商業会議所代表者・銀行家・新聞社長・実業家・米国大使及館員等合計百余名ヲ招キ午餐会ヲ催サルヽ次第ニシテ、西洋館ニ続キテ柿葺仮屋ノ休憩所ヲ設ケ、尚立食場ト称スル芝庭ヘ之モコケラブキノ食堂ヲ設ケ、装飾点火等充分ノ設備ヲ加ヘラレシガ、十二時過ヨリ続々来客到着、午餐ノ后庭園散歩、夫ヨリ書院ノ間ニテ余興(三曲及新橋ノオドリ、京人形、都踊)ニ移ル、其間男爵ノ演説及ドールマンブレーン二氏ノ答辞アリ、男ノ演説ハ意味深遠、外交的・政治的否我国民ヲ代表セル堂々タル大演説ナリシ、七時散会セシカ、要スルニ雨モアガリ、スベテノ設備善美ナリシ点ニ於テモ来客ハ満足セシ事勿論ナルモ、日本商工業界否民間ノ泰斗ト仰カルヽ男爵ノ心切ナル待遇ト其堂々タル大演説ハ、彼等ニ対シ渡航中最大一ノ満足ヲ与ヘシモノナラント自信ス、予等連日ノ犬馬的骨折モ大ニ慰スルニ足ルトイウベシ



〔参考〕日米外交史 川島伊佐美著 第四三―四四頁 昭和七年二月刊(DK250050k-0009)
第25巻 p.627-628 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕中外商業新報 第一二九〇四号 大正一一年二月一三日 米国に使して(一)(子爵渋沢栄一氏談)(DK250050k-0010)
第25巻 p.628-629 ページ画像

中外商業新報  第一二九〇四号 大正一一年二月一三日
  米国に使して(一) (子爵 渋沢栄一氏談)
    旅行の動機は
今回の旅行は、従来の関係と偶然の出来事と密着しての事に基因するのである、従来の関係といふのは、元来日本は亜米利加の手に依つて開国が行はれたのであつて、日本と亜米利加との国交は自ら他の国の関係とは違ふのである、又治外法権の撤廃も亜米利加が一番先に同意して呉れたのみならず、日本の貿易に誠に都合好く行つたといふことは一重《(偏)》に亜米利加のお蔭に依るものである、其政治に教育に経済に、何事に依らず亜米利加の指導奨励を受けたものである、我国の銀行業も今ある銀行の仕組は、或る点英吉利の統一法を採用したのであるけれど、一般的の経営は、亜米利加のシステムが行はれて居ると云つて可い、斯くの如く多くの事物に対して先輩国として、日本は米国と極近親して居るのみならず、カルフオルニアの土地の好いのと地の広いのと、又耕作に利益あるのと日本人が農業に巧者なのと相俟つて、彼方から招き此方から行き、自然と日本人が加州に余計になつて来て、何時何日に怎う殖えたといふことなしに、彼方で呼ぶから行き、行くから又呼ぶと云ふ風に、原因と結果が相俟つて今日では約七万人程の人が居るといふことになつた、未だ夫程でない前の一千九百六七年頃から排日問題が起つて、其時々に相当議論が行はれて居つたのである斯くの如く美くしい間柄で進んで来た両国にも拘らず、丁度日露戦争が終る頃から加州方面に於て甚だ不快な事が起つて、遂には学童を別にするとか、或る職業は日本人には遣らせぬとか云ふやうに、排日問題が起つて、玆に先づ政治上の紛糾を惹き起すことゝなつた
    紳士協約の事
当時の外務大臣は故小村侯であつたが、此問題を非常に心配された結
 - 第25巻 p.629 -ページ画像 
果が紳士協約といふものゝ成立を見るに至つた、即ち特別の契約で日本から成る丈け移民を送らぬ、縦し送るにしても亜米利加の利益を尊重するやうにすると云ふことになつたのであるが、其当時小村侯から我々商業会議所関係の連中に相談された事がある、夫は斯の如くに協約は成立したけれども、此協約のみに安心しては居られぬ、亜米利加は輿論の国であり、殊に加州は加州丈で法律が設けられるのであるから、相手方の感情を成る丈け緩和させねばならず、夫には一般の国民もさうであるけれども、加州在住の亜米利加人の間に真に好い感情を持たせるやうにしたい、但し怎うも広い国で他所との折衝関係と云ふものが薄い国であるから、外国の事を理解せしむる事が甚だ困難である、日本は亜米利加のことを深く見極はめず、米国は日本のことを別に理解しない、お互に知らぬ同士で居たからには誤解の上に誤解を重ねて其結果喧嘩をするやうな事にならぬとも限らぬ、此誤解と云ふ事は非常に恐ろしいことであるから、詰りもう少し国民と国民の間柄を接近させる道を講じたいといふ話であつた、夫が明治四十一年の秋のことで、亜米利加から八商業会議所の関係者を日本に招致することになつた、是からが愈々問題が具体化しかけて来る端緒を開くのである



〔参考〕中外商業新報 第一二九〇五号 大正一一年二月一四日 米国に使して(二)(子爵渋沢栄一氏談)(DK250050k-0011)
第25巻 p.629 ページ画像

中外商業新報  第一二九〇五号 大正一一年二月一四日
  米国に使して(二) (子爵 渋沢栄一氏談)
    日米間の交驩
政府の注意もあつて東京・大阪・横浜・神戸・京都・名古屋の六商業会議所が寄合つて亜米利加のサンヂゴー、ローサンゼルス、オークランド、桑港、沙港、ポートランド、タコマ、スポーケン等の八商業会議所に対して、国交上又は経済交換上隔てのない意見をたゝかはす為にお互に遠慮し合ひ度くないと思ふ、就いては先づ日本に御招ぎして胸襟を開いて日本の様子も御話したいから、悠くり遊ぶ積りで来て呉れないかといふ案内を発したのである、所が直に承諾して呉れて、西部米国から五十余の有力者が来て呉れる事になつたのである、当時私は商業会議所から身を退いて居つたのであるが、三十七年に病気をしたのを機会に、故人中野武営さんに会頭を譲つて自分は御免を蒙つたのである、然し怎うしても今度丈けは兎に角会頭格になつてやつて呉れと小村外相から煽てられて、お客の斡旋をすることになつたのである。开麼んなことで日本側でも充分に驩待し得る事が出来、マタお客も喜んで帰られたので、其時は大体成功と云つて好い ○下略