デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

2章 国際親善
3節 外賓接待
14款 其他ノ外国人接待
■綱文

第25巻 p.663-667(DK250085k) ページ画像

明治38年9月12日(1905年)

是ヨリ先、アメリカ南太平洋鉄道会社社長ハリマン南満洲鉄道譲受ノ目的ヲ以テ渡来ス。是日栄一、同人夫妻ヲ飛鳥山邸ニ請ジテ茶会ヲ催ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三八年(DK250085k-0001)
第25巻 p.663-664 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三八年     (渋沢子爵家所蔵)
九月五日 晴 清暑
○上略 午前十一時半家ヲ発シ、兼子ト共ニ田町浅野氏ニ抵ル、米国人ハリマン氏ヲ招宴スルニ陪席スル為メナリ、此日炎熱強ク午飧中頗ル困難ナリ ○中略 五時大蔵大臣邸ニ抵ル、米国人ハリマン氏一行招宴ニ同席ス ○下略
   ○中略。
九月七日 曇 蒸暑
○上略 此日三井八郎右衛門氏ヨリ米国人ハリマン氏一行招宴ニ付テ案内アリタレトモ世間騒然タルニヨリ延期ス ○下略
   ○中略。
九月十二日 晴 清暑
○上略 此日米国人ハリマン夫妻及其家族等七・八名別荘ニ来訪ス、白石
 - 第25巻 p.664 -ページ画像 
元次郎夫妻来会《(白石元治郎)》ス、庭園ヲ散歩シ茶席ニ於テ抹茶ノ手前ヲ一覧セシメ午後六時頃散会ス ○下略


(八十島親徳) 日録 明治三八年(DK250085k-0002)
第25巻 p.664 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三八年   (八十島親義氏所蔵)
九月十二日 快晴 暑シ八十三度
○上略 男爵ハ本日ヨリ出勤セラル、今日午後四時ハリマン氏一行王子邸訪問ニ付、予モ接伴員トシテ同邸ニ赴ク、ハリマン氏・同令嬢二人・米国公使ノ夫人同行、男士一人来車、庭園一覧旁敬意ヲ表スル為来訪セントノ先方ノ意志ト、所謂御茶ニ招カントノ当方ノ希望トノ合致ニナリシ会合ニシテ、白石元治郎氏夫妻ニ同席ヲ頼ミ、且三井八郎次郎氏モ来会ス、初メ洋館ニ案内シ、少憩ノ上男爵先導シテ盆裁庭ヲ経、茶室ニ於テ抹茶ヲ饗ス、素ヨリ腰カケ乍ラナリシガ、茶ノ光景ヨリ室内ノ工合等頗趣味ヲ感スルモノヽ如シ、公使夫人ハ已ニ七回モ茶事ニ同席セシ由ニテ、一応ノ形式ヲ知得セリ、ヤガテ涼台上ニテ加非・菓子・シヤンパン等ヲ饗シ、前面ノ稲田ヲ賞シ乍ラ少憩ノ後、日本館坐敷・居間及小児室ヲ外部ヨリ示シナドシタル后、来客退散
来客ハ流石米国人ノ事トテ、一同遠慮モナクハキハキ、テツトリ早ク至テ無造作ニシテ、接待ニハ極メテ楽ナリ
会終テ后、白石・三井諸氏ノ末ニ列シテ茶菓ノ饗ヲ受ケ、夕七時帰宅ス ○下略
   ○中略。
十月十一日 半晴
○上略 午後 ○中略 更ニ米国公使館ニハリマン氏ヲ訪問シテ、出立前男爵ノ再応会見出来サル謝辞申陳ヘ、四時過帰宅 ○下略
十月十二日 快晴ノ好天気
○上略 午后米国公使館ニハリマン夫人ヲ訪ヒ、男爵ヨリ送ラルヽ扇子ヲ贈リ ○中略 四時過帰宅 ○下略


竜門雑誌 第二〇八号・第四〇―四一頁 明治三八年九月 ○青淵先生の米客ハリマン氏招待(DK250085k-0003)
第25巻 p.664 ページ画像

竜門雑誌  第二〇八号・第四〇―四一頁 明治三八年九月
○青淵先生の米客ハリマン氏招待 青淵先生には、先頃米国南太平洋鉄道会社長兼東西洋汽船会社長たるハリマン氏の渡来につき一夕招宴を開かるゝ予定なりしが、会々同氏の旅程変更の為め余日なきことゝなりしにつき、略式を以て去十二日午後三時同氏夫妻・令嬢二人其他一行数名を飛鳥山別邸に誘引し茶菓を饗せられしが、一行は同庭園風趣の優雅なると、又日本風家室の清洒なるとには殊に感嘆措く能はざりしものゝ如し


実業之世界 第一八巻・第一二号 大正一〇年一二月一日 米国十大実業家の印象(承前)(子爵渋沢栄一)(DK250085k-0004)
第25巻 p.664-665 ページ画像

実業之世界  第一八巻・第一二号 大正一〇年一二月一日
  米国十大実業家の印象(承前)(子爵 渋沢栄一)
      附=二大政治家と二大教育家との会見記=
    全身之れ胆のハリマン氏
 ハリマン氏は前にも述べた通り、海運事業・鉄道事業を大規模に経営して居つたが、背はひくい人であつたけれども仲々敏腕家で、『五尺の全身総て之れ胆』といふやうな風格を備へて居つた。ハリマン氏は
 - 第25巻 p.665 -ページ画像 
其後――確か明治三十八年と記憶する――日本に来られた事があるが露骨に言へば、少し鋭い程の感じを与へる人であつたが、一言半句で全貌を諒解するやうな慧敏な性質であり、加ふるに凡ての物事に対して氏独自の徹底的意見を持つて居つた。従つてアメリカに於ても頗る有力なる位置を占めて重きをなしつつあつたのである。
 世人も記憶して居るだろうが、明治四十二年頃、時のアメリカの国務卿ノツクス氏の提唱で、南満の事業を、所謂緩衝地帯といふ具合にする意味合に於て、之れを絶対中立といふ事にしたらどうかといふ交渉があつた。之れは日露の衝突を避けしむるといふ事を考慮したものであるが、其背後には確かにハリマン氏が在つたと思ふ。惜しい事には今は故人となつたが、海運と鉄道の事業に関しては却々偉らい人であり、日本に対して余程好感情を有して居つたから、今日現存して居つたならば、我国に取つても種々都合の好い事もあつたらうと、今更ながら追憶せざるを得ない。 ○下略



〔参考〕一八五三―一九二一年日米外交史 トリート著・村川堅固訳補 第二五三―二五五頁 大正一一年四月(DK250085k-0005)
第25巻 p.665-666 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
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〔参考〕一八五三―一九二一年日米外交史 トリート著・村川堅固訳補 第二六四―二六七頁 大正一一年四月刊(DK250085k-0006)
第25巻 p.666-667 ページ画像

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