デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

2章 国際親善
3節 外賓接待
14款 其他ノ外国人接待
■綱文

第25巻 p.670-675(DK250089k) ページ画像

明治39年4月10日(1906年)

是日栄一、アメリカクーン・ロープ商会社長ジェコブ・シフヲ飛鳥山邸ニ請ジテ午餐会ヲ開ク。此前後ニ亘リ各所ニ催サレタルシフノ招宴ニ出席ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三九年(DK250089k-0001)
第25巻 p.670-671 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三九年     (渋沢子爵家所蔵)
三月二十八日 晴 軽暖           起床七時 就蓐十二時
○上略 七時半 ○午後阪谷大蔵大臣官舎ニ抵リ、米国人シッフ氏一行ノ招宴ニ陪席ス、夜十時宴散シテ十一時王子別荘ニ帰宿ス
三月二十九日 曇 軽寒           起床七時 就蓐一時
○上略
午後七時半兼子ト共ニ華族会館ニ抵リ、日本銀行総裁ノ開催スル米国人シッフ氏ノ招宴ニ陪席ス、西園寺総理・田中宮内・阪谷大蔵等ノ大臣等来会ス、十時過宴散シ十二時帰宿ス
   ○中略。
四月七日 晴 風ナシ            起床七時 就蓐十二時
○上略 午飧後三時兼子ト共ニ小石川後楽園ニ抵リ、日本銀行ニ於テ催シタル米人シフ氏招待ノ園遊会ニ出席ス ○下略
四月八日 曇夕雨 軽暖           起床八時 就蓐十二時三十分
○上略 五時過 ○午後大倉氏別邸ニ抵リ、シフ氏招宴ノ会ニ出席ス、酒間種種ノ余興アリ、夜十二時王子ニ帰宿ス、此日大倉邸ノ宴会ニハ兼子モ同席シテ夜共ニ帰宿ス
四月九日 雨 微寒             起床七時 就蓐十一時三十分
○上略 午前十一時半ヨリ兼子ト共ニ馬車ヲ馳テ早稲田大隈伯邸ニ抵リ、
 - 第25巻 p.671 -ページ画像 
米人シフ氏招宴ニ陪席ス、午飧後室内ノ装飾ヲ一覧シ、更ニ温室ニ於テ休憩ス、種々ノ花卉アリテ頗ル美観ナリ、午後三時散会シ ○下略
四月十日 雨 微寒             起床六時三十分 就蓐十一時三十分
起床後本日ノ客来ニ関スル準備ヲ為シ、種々ノ指揮ニ忙シ、七時過朝飧ヲ畢リ、雨中数回庭園ヲ巡視ス、午前十一時頃ヨリ来客アリ、十一時半米国人シフ夫妻及一行来ル、来会スル者三十九名、十二時頃雨少シク歇ミタレハ庭中ヲ散歩シ、且庭中ノ余興ヲ演シ、午後一時食卓ヲ庭中ノ仮屋ニ開ク、食事中一場ノ演説ヲ為ス、主賓シフ氏ヨリモ挨拶演説アリ、食後花壇ヲ一巡シ更ニ書院ニ誘ヒ、芸妓ノ踊ヲ演セシム、数番ノ余興畢リテ午後五時頃一同散会ス
シフ氏夫妻及其一行悉ク歓ヲ尽シテ去ル
   ○中略。
四月十八日 晴 風             起床六時 就蓐十一時三十分
○上略 午後六時兼子ト共ニ紅葉館ニ抵リ、米人シフ氏招宴ニ出席ス、東京市長ノ催フ《(ス)》所ナリ、種々ノ余興アリ、夜十時散会、王子ニ帰宿ス
   ○中略。
五月十四日 晴 暖             起床六時三十分 就蓐一時
○上略 午後七時半兼子ト共ニ帝国ホテルニ抵リ、米人シッフ氏ノ夜飧会ニ出席ス、来会者九十名余、粧飾割烹頗ル美善ヲ尽サレリ、食卓上シッフ氏ノ演説、松方伯ノ答辞アリ、各歓ヲ尽シ夜十一時過散会ス
   ○中略。
五月十六日 半晴 暖            起床七時 就蓐十二時三十分
○上略 午後一時井上伯邸ニ抵リ、シッフ氏招宴ニ陪席ス ○下略
   ○中略。
五月十八日 曇 暖             起床六時三十分 就蓐十一時三十分
○上略 八時四十分 ○午前新橋発ノ汽車ニテ横浜ニ抵ル、杉田氏 ○第一銀行支店支配人停車場ニ来リ迎フ ○中略 十一時米国人シッフ氏ヲ本船ニ送別ス、井上伯高橋是清・添田寿一氏等来会ス ○下略


(八十島親徳) 日録 明治三九年(DK250089k-0002)
第25巻 p.671-672 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三九年   (八十島親義氏所蔵)
四月五日 晴
朝王子邸ニ至ル、来十日米国ノ紳士シッフ氏ノ一行ヲ招待セラルヽニ付、西洋庭ヘ臨時的ニ食堂ヲ建築サルヽヲ以テ、尾高氏等ト共ニ其ヲ撿分スル為也 ○下略
   ○中略。
四月九日 終日雨
○上略
明日飛鳥山邸ニ於ケルシッフ一行招客ノ準備多忙ナリ ○下略
四月十日 終日雨
早起七時半出発、飛鳥山邸ニ至ル、今日ハ目下渡来中ノ米国資本家ニシテ我外債(戦時中)募集ニ効労アリシジエーコブ・エチ・シッフ氏夫妻一行ヲ午餐ニ招カルヽ次第ニシテ、態々西洋庭ニ堀建《(掘)》コケラ葺・杉葉飾・ゴー天井ノ食堂ナド建築シ用意セラレシニ、終ニ終日小ヤミモナク降リシキリシニハ大閉口ナリ、来客三十余名、予定ノ十一時半
 - 第25巻 p.672 -ページ画像 
ニ来着、一部ハ雨中庭園散歩、丸一太神楽ナド見物、一時ヨリ雨中食堂ニ至ル、食堂ハ今朝来急ニ寒キタメ瓦斯ストーブノ準備等種々ノ設備モ漸ク出来シ、先々無事決了、ホテル料理一人前十円也、予モ席末ニ列ス、男爵ノ食卓演述ハ深井英五氏ニ托シ反訳ス、男爵ノ巧妙ノ言辞ヲ亦工合ヨク反訳セリ、食後日本館広間ニ導キ、舞台ニテ新橋芸妓ノ千代田振ノ踏《(踊)》リ・潮汲、及杵屋連中ノ大薩摩等ヲ聞カセ、五時散会雨中トシテハ先ツ上出来ナリシ ○下略


大倉喜八郎和歌(DK250089k-0003)
第25巻 p.672 ページ画像

大倉喜八郎和歌              (渋沢子爵家所蔵)
  青淵大人の別墅に華の頃米人シーフ氏一行を招かれけるをり
    舞妓の踊りを見て
                       鶴彦
 飛鳥山けふの詠めは舞姫の花のたもとに雨のふり袖


竜門雑誌 第二一五号・第四二―四三頁 明治三九年四月 ○青淵先生のシツフ氏招待会(DK250089k-0004)
第25巻 p.672 ページ画像

竜門雑誌  第二一五号・第四二―四三頁 明治三九年四月
○青淵先生のシツフ氏招待会 青淵先生には目下来遊中の米国紳士シツフ氏一行を主賓とし、去る十日午前十一時卅分より飛鳥山曖依村荘に招待して午餐会を催ふされたるが、主賓はジエーコブ、ヱチ、シツフ氏・同令夫人・ヘンリー、ブツヂ氏・同令夫人・シグモンド、ノエスタツド氏・同令夫人・ヱルンスト、ヱチ、シツフ(シツフ氏の令甥)陪賓は米国大使館員・阪谷大蔵大臣・同令夫人・珍田外務次官・同令夫人・松尾臣善・高橋是清・同令夫人・園田孝吉・同令夫人・添田寿一・池田謙三・近藤廉平・大倉喜八郎・同令夫人・浅野総一郎・同令夫人・益田孝・佐々木勇之助・三井八郎次郎・安田善次郎・深井英五森賢吾の諸氏にて、主人側青淵先生・同令夫人・竜門社長・同令夫人穂積博士・同令夫人・八十島親徳氏等にして、当日は生憎前日来引続きたる降雨尚歇まざりしが、定刻に到れば主賓陪賓悉く同荘洋館に着し、談笑の下に庭内に催されたる丸一大神楽に興じつゝ時の移つるを知らざりし、軈て午後一時午餐会に移る、会場は一行招請の為め特に同庭内に新設したるものにて、清洒なる建築は能く園景に対照し一層の雅致を加へたり、宴漸く盛なるの頃、青淵先生より一場の挨拶を述べ、シツフ氏之が答辞をなし、已にして饗応を終れば主賓相連れ立ちて日本雨傘を擁しつゝ庭園を出て、或は花下に逍遥し、或は神楽に目を転し、特にシツフ氏一行は陪賓諸氏と合々傘にて喜色満面に溢れ時の移るを知らさりしが、間もなく日本座敷に於ては新橋芸妓の手踊等余興準備成りたれば、更に一同は玆に移り、十二分の歓を尽して散会せしは午後五時頃なりき


時事新報 第八〇七四号 明治三九年四月一一日 ○渋沢男のシツフ氏招待(DK250089k-0005)
第25巻 p.672-673 ページ画像

時事新報  第八〇七四号 明治三九年四月一一日
○渋沢男のシツフ氏招待 渋沢男は目下滞京中なる米国富豪シツフ氏一行を主賓とし、十日午前十一時三十分王子の別荘に招待して午餐会を催したるが、主賓のシツフ氏一行の外、米国公使館員・阪谷大蔵大臣・珍田外務次官・三井男・松尾日銀総裁・高橋副総裁・添田興銀総裁・大倉喜八郎・浅野総一郎・安田善次郎・園田孝吉・同夫人・池田
 - 第25巻 p.673 -ページ画像 
謙三・近藤廉平・益田孝の諸氏、其他実業家約五十有余名にして、余興として新橋芸妓の手踊等の催しありたり



〔参考〕時事新報 第八〇五六号 明治三九年三月二四日 シツフ氏の来遊(DK250089k-0006)
第25巻 p.673 ページ画像

時事新報  第八〇五六号 明治三九年三月二四日
    シツフ氏の来遊
一昨年来我国の公債を米国に発行するに付主として尽力し、我が戦時財政に関し大なる功績ある紐育の資本家ジエーコブ・ヘンリー・シツフ氏は、今回夫人・親族・朋友等を伴ひ一行九名にて本邦に来遊し、凡そ一ケ月間滞在する由、乗船は去八日桑港出発のマンチユリャ号なるを以て、横浜入港は多分二十五日なるべし
○中略
一昨年日露戦争の始めに当り、高橋日本銀行副総裁は政府の命を帯び米国を経て倫敦に至り、外債募集の相談を試みたるが、当時英米両国の我国に対する同情極めて盛なりしに拘はらず、戦争の終局に付きては我国の為に憂惧するの念頗る深く、資金供給の相談は一般に躊躇する所なりき、殊に米国は従来外債に慣れざる国柄なるを以て容易に募集の相談に応ずるものなく、英国に於ては幾多の交渉を重ね漸く相談纏りたるも、其金額は差し当り五百万磅(約五千万円)を募集し、追て五百万磅を募集すべしと云ふに過ぎず、此時シツフ氏は欧陸旅行の帰途倫敦に来り、米国も最早外国に放資するの気運に向ひたれば、今新興の日本に向て仕事を為すは時機を得たるものにあらずやと考へ居る際、恰も日本公債談の進行中なるを聞き、大英断を以て直ちに英国の発行者と同額を引受くることを承諾し、五月上旬鴨緑江戦捷の好機を失せざらんが為めに、快速に諸般の準備を整へ、英米を合して千万磅(約一億円)の公債を一時に募集するを得るに至れり、而して外債の募集に慣れざる米国に於て数倍の応募を得たるのみならず、英国金融社会及び公衆の我公債に対する人気も米国方の加入を聞きて一層昂進したる故、シツフ氏の募集引受は英国に於ける募集をして非常の盛況を呈せしめたるにも与りて力あり、第一回募集の盛況と之れに伴へる公債所有者の利益は、引続きて日本公債に対する好人気を作るの素因たり、其後数次の外債が都合好く成立したるは我陸海軍の連戦連勝により国家の信用を高めたるに依ること論なしと雖も、第一回募集の盛況は先づ其途を開きて、以後の募集を比較的容易ならしめしものと謂ふべし、故に間一髪の好機に於て米国募集引受を決したるシツフ氏の英断は、最初より日本政府の為めに厚意を表し困難を排して著々募集の相談を進めたる英国のバース銀行及香上銀行等の尽力と共に、我戦時財政に対する功績として国民の認識に値するものなり
○中略
シツフ氏は第二回公債募集の後、勲二等瑞宝章を授けられ深く聖意に感激し居りて、将来益々日本に対して関係を密にするの意あり、今回来遊の目的は観光を兼ねて一般経済上の視察を為し朝野の要路の人と親しく交際を結ぶにあり、関係の向に於て厚く接待する筈なりと云ふ



〔参考〕東京市養育院月報 第六三号・第一六頁 明治三九年五月 ○米人シツフ氏の寄附(DK250089k-0007)
第25巻 p.673-674 ページ画像

東京市養育院月報  第六三号・第一六頁 明治三九年五月
 - 第25巻 p.674 -ページ画像 
○米人シツフ氏の寄附 先頃本邦へ来遊せられし米国紳士ジエーコブエチ・シツフ氏は、本院基本財産中に編入せられたしとて、四月十三日金七千五百円を本院へ寄附せられたり。



〔参考〕時事パンフレット十三輯日露戦争を語る 時事新報社編 外交財政の巻・第四三―四七頁 昭和一〇年五月刊(DK250089k-0008)
第25巻 p.674-675 ページ画像

時事パンフレット十三輯日露戦争を語る 時事新報社編
                 外交財政の巻・第四三―四七頁 昭和一〇年五月刊
    募債苦心談
              当時・日本銀行秘書役
                日銀副総裁 深井英五
○上略
  戦勝の報にスタートよし
      第一回英貨公債俄然大もて
○中略
 そこに五月一日の鴨緑江の戦勝の報道が来た。それで五月七日に正式の調印をして、それから本邦で発行規程の公布があつて、十一日に募集を開始した。これがいはゆる「第一回六分利附英貨公債」なるもので、起債額は一千万ポンド約一億円、これを英米均分で出す。発行価格は九十三ポンド半、期限は据置が三ケ年、償還義務の到達する期間が七ケ年、短期公債で関税収入を担保とすると、かういふ形で出した。英国に於ける発行者は前記の三行、米国ではクーン・ロープ商会を首とし、其外にナシヨナル・シチー銀行とナシヨナル・バンク・オブ・コムマースが発行者として名を掲げた。尚表面の発行者の外に多数の下受者があつて、倫敦ではロスチヤイルドもカツセルも相当多額の下受をした。
○中略
それから、アメリカが途中から入つて来たといふことを先ほど申したが、その当時の申出者はクーン・ロープ商会の首長シツフといふ人である。このシツフ氏との関係につき日本に伝はつてゐることは「シツフ氏が或る宴会の席上で高橋さんと偶然に会つて高橋さんに説かれ、その一夕の話により感激して日本の募債に参加した」と。かういふ風に伝へて居る向もあつて、大変面白いけれども、それは余りに小説的である。事実は後にだんだん方々から聞いたり、シツフ氏自身からも聞いて見たのだが、なぜアメリカが参加するに至つたかと云ふと、この日露戦争の少し前にロシヤ政府がユダヤ人をロシヤ国内で非常に虐待したことがあり、シツフ氏自身がユダヤ民族の人だから非常にこれを憤慨して居つた。そこへ日露戦争が始まつたので日本の勝利を希望したが、しかし商売人だから全く算盤をはなれて、義侠的に参加する謂はれもないのである。
 ところが、このシツフといふ人は大変に聡明な、よく先の見える人で、当時アメリカの金融界に於ては日の出の勢ひで、太平洋岸から大西洋岸に横断する鉄道の整理につき大胆な金融をして大成功して居り金融界ではモルガンが第一位に居るけれども、シツフ氏もモルガンと雁行するやうな勢ひで進んで来つゝあつた、そして何でも新しい方面に着眼して自分の業務と勢力を拡張しつゝあつた人だから、矢張りア
 - 第25巻 p.675 -ページ画像 
メリカも既に外国投資にゆくべき時機になつてゐるのぢやないかと、早くも着眼をしたものであらうと思ふ。
 それから、も一つは前に申したカツセルといふ人が、シツフ氏に日本の外債に参加することを勧めたものらしい。カツセルといふ人は英国の皇室から大変に寵遇を受けてゐる人で、エドワード七世とは非常に親しく接近することを許されてゐた人である。そのカツセルから勧められたといふことである。英国では日本の公債を引受けるに成るべく単独でなく、どの国かと共同にやりたいと云ふ気分の濃厚であつたことを思ひ合はすれば、此間深長の意味が看取せられると思ふ。
○下略
   ○シフJacob Henry Schiff.(1847―1920)ドイツニ生レ、一八六五年渡米、一八八五年クーン・ロエブ商会社長、一八九八年ハリマンヲ助ケテ合同太平洋鉄道ノ改組ニ成功、日露戦争中、我国戦時公債募集ヲ援助ス。晩年ハーバード大学ニセミチック博物館ノ建物ヲ寄附ス。(平凡社編昭和九年版「大百科事典」ニヨル)
   ○シフガ明治三十七年四月末ロンドンニ於テ高橋是清ノ英貨公債募集計画アルヲ聞キ其半額五百万磅ノ引受ヲナセル事ハ「高橋是清自伝」第六七〇―六八六頁ニ記載セラレタリ。
   ○シフハ日本ヨリ帰国スルヤThe North American Reviewニ「戦後ノ日本」ト題スル論文ヲ発表シ、日本ハ同戦役ヲ英米ノ資本ニヨリテ終フルヲ得タリトナシ、又戦勝ノ結果韓国ノ実際統治権ガ日本ノ手ニ入リタルヲ当然ノ事トナシ、支那ニ於ケル戦後ノ商戦ニ付欧米各国ノ注意ヲ促セリ、右文中日本旅行ノ目的ヲ左ノ如ク述ベタリ。
     「凡そ人民及其国民的目的を理解せんと欲せば、先づ其国に遊ばざるべからず。此考へは予を促して此年の早春日本を訪問し親しく日韓を視察せしむるに至れり。」(大日本文明協会編「欧米人の日本観」下巻、第八三二―八三三頁)
    右論文ニ対スル米紙ノ批評モ亦右ノ書ニ訳載セラレアリ。
   ○斯ク親日態度ヲ持シ、紐育ノ日本協会々員ニ列シタリシシフハ、明治四十二年頃ニ至リテハ、日米戦争可能論ヲナシ、後、大正三年日本ノ対独最後通牒ト共ニ自己所有ノ日本公債ヲ売却シテ、日本トノ関係ヲ一切絶タント声明シタリ。蓋シシフハ猶太系米人ニ属スルヲ以テナリ。(川島伊佐美著「日米外交史」第六〇頁・第三八八頁ニヨル)
   ○シフニ就イテハ第三編第一部第三章国際親善中「渡米実業団」明治四十二年十月十二日ノ条「十月二十一日ノ招宴」ノ記事参照。