デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

3章 道徳・宗教
1節 儒教
1款 孔子祭典会
■綱文

第26巻 p.13-20(DK260002k) ページ画像

明治41年4月26日(1908年)

是日当会第二回祭典、湯島聖堂ニ行ハル。栄一出席ス。式後東京高等商業学校講堂ニ講演会開カレ、演説ヲ為ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四一年(DK260002k-0001)
第26巻 p.13 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四一年    (渋沢子爵家所蔵)
四月二十一日 晴大風 暖
○上略 四時学士会ニ抵リ、孔子祭典ノ事ニ関シテ開カレタル委員会ニ出席ス、嘉納・三島・重野其他ノ諸氏来会ス ○下略
四月二十二日 曇 暖
○上略 午後孔子祭ニ関スル書類ヲ一覧シ ○下略
   ○中略。
四月二十六日 半晴 暖
○上略 九時昌平坂聖廟ニ抵リ孔子祭典会ニ出席ス、十一時半畢リテ ○中略 午後二時高等商業学校ニ抵リ演説会ニ出席ス、星野・三宅・重野三博士講演ノ後、予モ亦一場ノ講演ヲ為ス、演題ハ「実業界ヨリ観タル孔夫子」トス、午後五時講演畢リ、六時王子ニ帰宿ス ○下略
 - 第26巻 p.14 -ページ画像 


孔子祭典会々報 第二号・第六頁 明治四一年九月刊 第一 本会の来歴及び記事(DK260002k-0002)
第26巻 p.14 ページ画像

孔子祭典会々報  第二号・第六頁 明治四一年九月刊
 ○第一 本会の来歴及び記事
    (二) 第一回祭典後記事
○上略
 本年四月二十一日委員会及び評議員会を開き、祭典の事務方法を協議せり
○下略


竜門雑誌 第二三九号・第八二頁 明治四一年四月 ○第二回孔子祭典会(DK260002k-0003)
第26巻 p.14 ページ画像

竜門雑誌  第二三九号・第八二頁 明治四一年四月
○第二回孔子祭典会 第二回孔子祭典会は四月二十六日午前九時より湯島聖堂に於て執行せられしが、同日は早朝より大成殿の装飾を為して、孔夫子を始め顔子・曾子・子思・孟子四聖賢の神扉を開き、委員長焼香の後委員一同礼拝し、八時仰高・入徳二門を開き、会員一同参集、八時四十分委員長の挨拶あり、夫より崇高鄭重なる祭文を執行せられ、奏楽中に奠幣奠饌の式あり、祭主三島毅氏祭文を朗読し、祭官以下順次参拝、午前十一時式を終り、午後は一時より高等商業学校講堂に於て講演会ありしが、当日青淵先生にも参列せられ、星野・重野三宅三博士と共に一場の講話(実業界より見たる孔夫子)を試みられたり
   ○右記事ハ雑誌発行日四月二十五日ノ翌日ノモノナルニモ拘ラズ記載サレアルハ、オソラク実際ノ雑誌発行日ガ二十五日ヨリ遅延シタル為ナラン。


各個別青淵先生関係事業年表(DK260002k-0004)
第26巻 p.14 ページ画像

各個別青淵先生関係事業年表      (渋沢子爵家所蔵)
    斯文会
 明治四十一年四月二十六日
第二回ノ孔子祭典会行ハル、事業振興ノ議起リ振興業《(マヽ)》ヲ立ツ


太陽 第一四巻第一二号・第六九―七三頁 明治四一年九月一日 実業界より見たる孔夫子(男爵渋沢栄一)(DK260002k-0005)
第26巻 p.14-18 ページ画像

太陽  第一四巻第一二号・第六九―七三頁 明治四一年九月一日
    実業界より見たる孔夫子 (男爵 渋沢栄一)
 今日孔子祭典会の後に講演会を開かれましたに就て、私も此演壇に登る光栄を担ひました、先刻来諸先生方より儒教に就き、其他教育に就て、種々の有益なるお話もございました後で、学問に頗る縁の遠い私が此処に出ましたのは余程奇異の感を為すのでございます、孔子の如き大聖大儒殆んど徳日月天地に斉しいと云ふ人の祭典の後の講演会ですから、唯々商売が不景気で困る、金融の逼迫を如何に救済したら宜からうと云ふお話は、ナンボ私でも此席では申し兼ねると云ふ外言葉は無いのです、全体委員長が私を指名されたのは如何なる理由であるかと云ふことから、先づは質問を開かねばならぬ訳であります、元来斯る祭典の後の講演でありますれば、例へば哲理の研究とか若しくは経典の考察とか、或は歴史の考証とかでなければどうもお話になるまいと思ふが、それ等の廉々に就て私に物を申せと云ふのは、殆んど盲人に書物を読めと云ふと同じやうなもので、是は御無体千万である私を此処へお呼出しなすつた理由は如何にと云へば、私が平生論語好
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きだと云ふことが何時ぞお耳に這入つて、さてこそ渋沢を引張り出したら宜からうと云ふことをお考へなすつたものと思ふ、果して然り、三宅博士も只今御演説中に私をお揶揄やら御勧告やらがございましたやうであります、そこで私は自分の演題といたしては矢張り我本領を失はぬやうに、実業界より見たる孔夫子といたしました、どうもさう云ふことの外申上げられませぬから、実業界から孔子を観察して見やうと斯ふ思ふのであります、大きな山は大きな山、高い嶺は何処から見ても高い、例へば瑞西のモンブラン山は、仏蘭西から見ても白い、独逸から見ても白い、瑞西から見たら勿論のことであります、日本の富士の山も武蔵野で見ても高い、立派である、又原・吉原辺から見ても高く、吉田口から見ても高い、或は参州の方へ行つて見ても尚ほ高い、四方から見て皆高いと同じやうに、儒者から見ても商売人から見ても、孔子の道徳の高いと云ふことに変りはなからうと思ひます、併し私は実業界から見ました孔子を評論する前に、兎に角に論語を多少読んで居りまするので、孔夫子の門人の子貢、或は其系統を継いだ孟子などが孔子を評論して居つた所を二・三申して見ませう、是は蓋し昨年の祭典会の後に井上博士が精しく御論述になりましたから、私の申すことは或は重複する嫌もございませう、けれども孔子を研究する場合には他人の評論も多少此処に加へませぬと私の観察が大変違ひますから、其観察と相対照することが出来まいと思ひます、子貢が孔子を評論したのに「夫子之不可及也猶天之不可階而昇也」と云ふやうに大層高く見て居ります、又子貢が「夫子温良恭倹譲、以得之」と云ふて居ります、又曾子は「一以貫之」と言ひ、孔子の教を解釈した言葉には「夫子之道忠恕而已矣」と申しました、又顔淵は喟然として歎じて曰く「仰之弥高、鑽之弥堅、瞻之在前忽焉在後」と云ひ、殆んど端倪すべからずと云ふやうに評して居ります、又孟子は「孔子聖之時者也」と申しました、此「時者也《トキナルモノ》」と云ふことは私は重野先生の前で講釈がましいことは云はれませぬけれども甚だ面白いと思ふ「伯夷聖之清者也、伊尹聖之任者也、柳下恵聖之和者也」云々と、聖に関する各様のことを述べ而して終りに「孔子聖之時者也《トキナルモノナリ》」此「時者也」が酷く誉めたことである、又「孔子作春秋乱臣賊子懼」と云ふことを孟子は云ふて居ります、それから又更らに進んで丁度子貢が孔子を評した言葉によりて「自有生民以来未有孔子也」殆んど千古無類であり、空前絶後であると評論して居ります、日本の人々が孔子を評するのも余り是に変りは無いやうでございます、唐宋あたりの孔孟の伝を継いだと自称する学者先生の評論、例へば宋朝の周濂渓《シユウレンケイ》・河南《カナン》の張横渠《オウキヨ》・邵康節《シヨウコウセツ》、下つて朱子など云ふ人が、孔子を評論いたして居りますのは皆前に述べた所と同じ位と思ひます、私は浅学であつて、一々之を申上げる程のことも出来ませぬけれ共、定めて大抵誉めちぎつて居るに相違ないと思ひます、然るに玆に一つ日本で孔子を評論したお人があります、此処に一冊の冊子がある、是は明治三十一年に出来たものであつて、即ちその人は最早故人になりました福地源一郎、桜痴居士と申した人であります、此人の孔子の評論は少し唐人のよりは穿つて居る、是を私が此処に精しく説明しますの必要はなからうと思ひますから、
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極く簡単に申上げやうと思ひますが、第一に福地は孔子と釈迦を併べ捉へて論じました、福地の調べでは緬甸本《ビルマぼん》に拠りまして、丁度釈迦と孔子の出生年代は十三年違ふと書いてあります、ですから殆んど先づ同時の人である、而して孔子の時代は周の末春秋の時代である、又釈迦時代は印度の太平無事の時であつた、孔子は悪く申せば貧書生から段々経上げた人である、釈迦は一国の太子で悉達多《シツタルダ》と申して浄飯王の子である、相当な門地に成長した人でる、境遇が大変に違ふ、併し最終の極致に至つて釈迦が仏教を説いたと同じやうに、孔子が「一以貫之」とか、若くは顔淵の問に克己復礼などを説きて、殆んど大乗の教であるから、詰り両聖其揆を一にすると云ふことを論究してありますさりながら孔子は諸国を遍歴して六十八になつて終に魯国に帰つて、魯の哀公が之を用ふることが出来ない場合に於て、愈々大悟徹底して布教講道を以て世を終らうと考へたと斯う云つて居る、それ迄はどうしたかと云ふと、矢張り理想の政治家として世の中を遊説した人だ、其証拠には斯ることがあると云ふて種々なる例証を挙げて評論がしてございまするが、私は其評論が果して一々至当とも存じませぬが、蓋し理想政治家として一生を経過し、到頭六十八迄失敗に終つて始めて大悟徹底して教育家に方針を変へたと云ふ処は、桜痴居士自ら云ふのでは無いかと思ひますが、是等は総て孔子に対する他人の評論で私の本領ではありませぬ、是より私が実業界から見た孔夫子を一言申し述べたいと思ひます。
 元来支那の教は、孔子でも孟子でも又其後の人でも兎角に学問を進めて段階があるべしで、己を修めると人を修めるとの分界が甚だ大刻みであつて、且つ多くは己を修むるよりは人を修むるを主とするが支那の弊とまで私は云ひたいと思ひます、然るに孔子の教は比較的それが少いと思ふ、成程孔子が政と云ふ問に対して答へた言葉が殆んど二十箇所ばかりございませうが、其答は誠に平凡である、例へば斉の景公が政を問ふた時に「君君、臣臣、父父、子子」と実に平々凡々なる答をして居る、で多く変つた論法を以て人君を驚かしたり、其気合を変ぜしむると云ふやうなことの極く少ないである、昨年も此御席で井上博士が孔子は誠に尋常人の大に発達したのである、知と情と意の三方面が均一に発達したと云ふ御評であります、之は誠に能く観てござると思ひます、孔子は又常識に富んだ人だと云はれましたが、私も其説に全然同意する、故に国を治めると云ふ方のことに就ての説を余り主として論じては居らぬ、成程福地氏の云ふ通り、少正卯を誅し大司寇ともなりて、国政を与り聴いたこともありますから、其本願としては決して只一身を修めるばかりではない、国家を治めると云ふ見識を有つたに相違ないでせう、或る場合には中々な勇気を有つて居る所があります、例へば論語に天生徳於予桓魋其如予何と云はれ、又天之未喪斯文也匡人其如予何と云はれたのは其抱負の強い所でありますから決して只謙恭ばかりと云ふ人では無いでありませう、けれ共如何にも忠孝に厚いと云ふことは、論語の節々に依つて看透かされるやうに思はれます、而して孔子は富貴功名のことに付ても亦相当な見解を有つて居ると思ひます、例へば「富与貴是人之所欲也、不以其道得之不処
 - 第26巻 p.17 -ページ画像 
也」とあつて、富と貴きは人の欲する所と云へば孔子自身も人であつた、決して他の人ばかりと云ふ意味ではない、普通に人の欲するところは孔子自身も欲する所に相違ない、其道を以てせざれば処らざるなり、それよりも未だ道は貴いと云ふことを考へたのである、富と貴とは孔子自身も十分知つて居つたに相違ない、又子貢の問に「貧而無諂富而無驕何如」と云ふに対して「未若貧而楽富而好礼者也」と云ふこともある、是等は功名富貴に関しまして実に適切なる解釈をして居るやうに見える、是は論語ではございませぬ大学にある、併し「大学も孔子之遺書」と云へば、孔子の言はれたことだらうと思ひます、其中に財政のことを論じて「生財有大道、生之者衆、食之者寡、為之者疾用之者舒、即財恒足矣」とある、誠に道理至極である、目下我邦の財政は之を用ふること多くして之を生ずることが少ないからして、それで世間に色々な小言も生ずるのである、孔子は二千五百年前に「生財有大道」と云ふて置いた、大道さへ踏んで行けば宜い、邪道を行くから悪いと云ふたのである、して見ると孔子と云ふ人は理財のことに於ても充分な知識を有つて居つたと思ふのであります、然るに後の支那学者が無理に孔子を贔負の引倒をして、孔子は財政富貴等の事は言ふべからざるものゝ如くにして、苟も漢籍を読むものは銭勘定でもすると大恥辱の如くに思ひ、損得のことは経書を読むものは云ふてはならぬと心得、それが何時となく我邦に伝来して参つて、而して此学問と云ふものは主治者の修めべきもので、被治者の修むべからざるものゝ如くに誤まりなした、先刻星野君が旧幕府三百年の間に儒道が日本に勃興したと仰有いました、如何にも徳川の始から藤原惺窩・林道春などの如き儒者が起つて、其後も段々立派な人が輩出されたによりて漢籍が日本に盛んになつた、二百年ばかりの間が最も漢学の優れた世と云はれませう、さり乍ら其中にも林家の如きは只朱子学一点張で、其学風としても普通商工業者に対する教育は頗る縁の遠いやうになつて居つた、就中古註を奉する荻生徂徠と云ふ人などの説は、道とは士大夫以上のものである、農工商の関係するものでないと云ふことが、何かの書物に書いてあるのを覚えて居ります、そんな位に学問と実業とは疎遠に相成つて仕舞つた、是は実業界の方が疎遠にしたのではなくして、政治家や学者の方から実業家を疎遠にしたのであります、故に偶々実業家が政治家・学者に親しむと、其親しむ人は真正な意念でなく、好事か又は名聞上より生ずるのである、それ故に聊か財産でも作つて倹素を以て家風とする人は、その子弟の漢学者と交際するは厳禁にした、現に幕府時代の越後屋・大丸抔の大店にては決して其店の子供に漢籍は読ませなかつた。
斯の如き有様から、次第に孔子と実業家との縁が遠くなつたのであります、重野博士の御話によると、二千五百年以前に孔子は日本に来やうと思ふたといふから、日本に於てもある古い人は孔子を尊信したか知らぬが、後世に至りて吾々社会の人々は孔子は真平御免と云ふ有様になつて仕舞つたのは、孔子其人が悪いのでもなく、又吾々実業家が悪いのでもなく、全く中間に妨害者があつた為であります、それであるから自然と今日の実業社会には孔子の道徳が薄いのでございます、
 - 第26巻 p.18 -ページ画像 
孔子の道徳を鼓吹することは先祖伝来に甚だ少いから、今俄かに是を興すことは余程難いのであります、今日孔子の道徳を説く人は深く此点を思はねばならぬと考へるのであります。
 先刻、委員長が私に此席に罷り出ることを御指名なすつたのは、私が平日論語が好きだと云ふ所からであらうと思ふ、果してさうであれば私が論語が好きだとした所が、唯好きで読む丈けのことで、決して善く論語を読んで善く論語を行ふことが出来ると申上げる訳には参りませぬ、併しながら前に申上げました通り「富与貴是人之所欲也、不以其道得之不処也」と云ふ丈けは、不肖ながら是非とも努めて見やうと思ふて居ります、前席に於て三宅博士は、渋沢はどうか商業を廃めて教育に力を尽したならば宜からうと言はれましたけれ共、私がモウ少し学問がありましたら速に三宅君のお説に従ふかも知れませぬが、三宅君の御言葉の中に単に教育家でばかりあると又世間から軽視せらるゝと云ふやうな御説もありました、それ故に渋沢が若しも純粋の教育家となつたならば三宅君も或は同じやうな御考になるかも知れませぬ、何は兎もあれ私自身には論語に対しては、どうぞ一生違却齟齬を生せずして残年を送りたいと期念して居ります、そうして此実業界と縁遠くなつた道徳を追々に近からしむるやうに致したいと希望いたすのでございます、此御列席の諸君も幸に私に同情を寄せられて、此孔子の教即ち道徳が富貴と共に進むやうに成り行くことを御心配なさるやうに希望いたします、而して私は実業家のみに道徳が希望されるかと申したならば、然りとは申されない、私は実業家でございますから他の方面は申しませぬが、若し私が政治家であつたならば、今日の政治界の多数に向つても矢張り此希望を述べたいと思ひます、孟子の言葉の中に「孔子作春秋、乱臣賊子懼」とあつたと思ひますから、何卒吾々の此孔子祭典会挙行の為めに世の不道徳な者、不徳義な者を懼れしむるやうにしたいものと思ふのであります。


青淵先生公私履歴台帳(DK260002k-0006)
第26巻 p.18 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳          (渋沢子爵家所蔵)
    民間略歴 (明治二十五年以後)
一孔子祭典会評議員  四十年
  以上明治四十二年六月七日迄ノ分調


孔子祭典会々報 第二号・第六―二〇頁 明治四一年九月刊 第二 祭典報告(DK260002k-0007)
第26巻 p.18-20 ページ画像

孔子祭典会々報  第二号・第六―二〇頁 明治四一年九月刊
    第二 祭典報告
      (一) 祭典準備
 第二回祭典の方法は、大体第一回の祭典に準拠し、本邦神祭の儀式によりて挙行することゝし、本年三月委員中より細田謙蔵・中村久四郎・塩谷時敏・平田盛胤の四氏を挙げて祭典準備委員となし、四氏は数回討議の後祭典次第書を起草し、委員会は大体之を可決し、更に評議員会に提出して其賛同を得たり
 祭典の式場たる大成殿は、現時東京教育博物館陳列場の一部なるを以て之を式場となすには一時其陳列品を移動せさるべからず、之が為大に館員諸氏を煩はし、且少からさる費用を要せり、又当日挙行の講
 - 第26巻 p.19 -ページ画像 
演会は、便宜上東京高等商業学校大講堂に於て之を開くこととせり
 祭典紀念物としては、委員三宅米吉氏に委嘱して、聖堂略志といふ一書を編成し之を会員に頒ち、以て祭典式場たる聖堂大成殿の由来を明にせしめんとし、之に加ふるに第一回祭典写真絵葉書を以てすることとせり
 祭官は、賛礼兼祓主一人・献長兼初献一人・亜献一人・終献一人・伝供兼大麻行事一人・伝供兼幣篚役送一人・伝供兼祝版役送一人・伝供兼装束係二人・伝供四人・執尊二人、都合十五人とし、当日聘請せし諸氏左の如し
○中略
      (二) 祭典次第
 四月二十六日午前七時、委員・祭官・伶人等東京高等師範学校附属中学校に参集す、七時三十分委員等大成殿内外の設備を巡検し畢りて開扉式を行ふ、委員等香案前に整列し、賛礼、孔子及び四子の神櫝を開扉するや、委員長焼香し委員一同礼拝す、此時神剣を孔子神櫝内に奉置す、此剣は元禄四年将軍徳川綱吉の奉納せしもの、金銀装にして葵下坂康継の作なり、旧時釈奠には必ず之を聖象の左側に置くを例とせり
 午前八時仰高・入徳両門を開く、会員漸次参集して会員席に著く、此日会員の参拝せしもの凡そ四百名なり、会員入場の節、仰高門に於て祭場図を頒つ
 午前八時四十分、祭官・伶人殿上の座位に就く、是に於て委員長嘉納治五郎氏殿前石階に立ち、会衆に向ひ挨拶の辞を述ぶ、委員長復席するや、直に音楽作り祭典始まる、時に午前九時なりき、其儀式次第左の如し
 一 奏楽 乱声
 二 祓主、祓戸神座の前に進み祓詞を奏す
      祓詞
    掛巻毛畏伎祓戸大神乃大前乎遥爾拝美奉里弖畏美毛白佐久今日波之毛是乃斎場爾之弖孔丘顔回曾参孔伋孟軻五所乃祭典為之行布爾依里弖式乃随々祓乃神式仕奉良久乎聞食弖祭官乎始米弖関係留人々諸賀身爾触礼率里弖在良武罪穢乎滝津速瀬乃淀美無久天津菅曾乃須々賀々之久麻乃安佐風佐々夜々爾祓比給比清米給比弖祭乃本末過良受乱礼受仕竟之米給閉刀畏美畏美毛白須
 三 大麻行事
 四 祓戸神座を撤す
 五 迎神式を行ふ
   奏楽 平調音越天楽
 六 奠幣
 七 奠饌
    奠幣は伝供先づ篚案を安置し、次に幣篚を献長に伝へ、献長之を献す、奠幣畢りて後、伝供饌案を安置し、簠簋籩豆爼を順次仮厨より伝送して献長に授け、献長之を献す、唯爵は献
 - 第26巻 p.20 -ページ画像 
長自ら執尊の処に到りて之を受け、神前に復して自ら之を献す、四配の爵は他の供物と与に都て伝供に依る
   奏楽 三台塩
 八 祭主祝文を奉読す
    奠饌畢るや、祭主会員総代文学博士三島毅君殿に上る、是時会衆一同起立礼拝す、祭主香案前に至りて焼香礼拝し、伝供の授くる所の祝版を受け、祝文を奉読す
      祝文
    維明治四十一年四月二十六日、毅等謹ミテ至聖先師夫孔子ノ霊ニ告ク、伏シテ惟ミルニ夫子道天地ニ配シ徳日月ニ並フ、風教徧ク東邦ニ被リ化沢永ク後昆ニ垂ル、毅等景仰措ク能ハス、薄カ蘋藻ヲ奠シ以テ虔誠ヲ致ス、配スルニ顔子・曾子・子思・孟子ヲ以テス、尚クハ饗ケヨ
           正四位勲三等文学博士 三島毅
 九 奏楽 五常楽
 十 幣饌を撤す
    撤饌畢りて後撤幣す、幣饌皆献長之を撤して伝供に授け、伝供之を仮厨に復送す、饌案・幣案は殿の西壁に沿へる故位に復するを常例となすも、当日は午後三時公衆の参拝畢りて後之を行ふこととせり
   奏楽 還城楽
 十一 送神式を行ふ
     但し午後三時撤饌後之を行ふ
    奏楽 越天楽
 十二 奏楽 長慶子
    祭官伶人退出す
 是に於て儀式終る、時に午前十時三十分頃なり、式後会衆をして殿内陳列の礼器・祭器を拝観せしめたり
      (三) 紀念物
 紀念物たる聖堂略志及び第一回祭典写真絵葉書は、会員退場の際杏壇門側に於て之を頒ちたり
○中略
    第三 講演会報告
 祭典当日午後一時より、東京高等商業学校講堂に於て、講演会を開く、正午を遇ぐるや、会員及び公衆漸次来会し、其数六百余人に達せり、午後一時十分委員吉田静致氏開会を宣告し、次に左の諸氏の講演あり
 孔子の本邦に於ける教化 評議員文学博士 星野恒
 日本に於ける孔子教      文学博士 三宅雄次郎
 孔夫子と我大日本と   評議員文学博士 重野安繹
 実業界より観たる孔夫子   評議員男爵 渋沢栄一
 午後四時三十分、渋沢氏の講演終るや、吉田委員閉会を宣告し、会衆漸次退散せり
○下略